To Be With You
by しムす
初版:2005/02/27
改訂:

To Be With You

海外勤務になっていたケンスケが帰ってくる、というので、僕らは、トウジと委員長の部屋に集まることになった。

ケンスケもトウジも、それぞれの会社でそれなりに頑張っているらしい。想像もつかないけれど、トウジは今では部下を持つ身になっているらしいし、ケンスケもその会社のエリートコースに乗っているらしい。そうでなければ、この年で海外勤務ってこともないだろう。
「いや、キツいよ。厳しいんだよ、仕事ってさ」
そういいつつも、充実している様子のケンスケを見るのは、嬉しかった。
「で、センセは何しとんねん、全然CD、売れとらんやないか」
「そうだよ、シンジがもっと頑張らないと、俺も肩身が狭いよ」
「いきなり厳しいね」
「あほう、こちとらしがないサラリーマンやからな、夢をセンセに託したんや、頑張ってもらわんとな」
くすくす委員長が笑う。
「聞いてよ。この人ったらね、職場の人に、半ば脅迫みたいにして、前のCD、買わせてたのよ」
「余計なことを、おい、ビール足らんがな。ケースで持ってこんかい、気がきかんのう」
「はいはい」
委員長はかいがいしく立ち働いている。
「何よ、あんた、偉そうに。ヒカリだって働いてるんでしょ」
「おお、売れんバンドのマネージャーや。ボランティアみたいなもんや」
「何を!」
「やめなよ、アスカ」
「そうよ、アスカ、アスカはいいのよ、お客さんなんだから」
トウジとアスカの喧嘩も懐かしい。その夜は、僕らはしたたかに酔っ払った。

帰り道。
「いや、酔っ払っちゃった。でも、ああいうの、いいよね」
「何が」
アスカの反応はとげとげしい。まだトウジと喧嘩したことを引きずっているのかと思って、ちょっとびっくりした。
「いや、その、トウジと委員長。夫婦なんだな、なんて」
「あれのどこがいいのよ!ヒカリったら、いいように使われてるだけじゃないのよ!」
「そう見えた?僕には、お互いの絆が感じられるっていうか・・・いい夫婦に見えたけど」
「だからアンタって鈍感、って言われるのよ!アタシだったら、家事を押し付ける男なんて、願い下げだわ!」
「それ以前に、アスカにはできないだろうけどさ」
バンドの合宿では、いつも僕がまかないを取り仕切っている。アスカが手伝うことなんて、今まで一度も無かった。
「何よ!どういう意味よ!」
「・・・ごめん」
「とにかく、私は、あんなのが結婚だったら、私はまっぴらだわ!」
その時は、僕はただ、首を竦めていただけだったんだ。

そのことがきっかけとは思えないけれど、アスカの低気圧は収まらなかった。

僕らのバンドにも大きな動きがあった。

委員長が色々仕掛けを打ってくれたおかげで、僕らにもまた、チャンスが巡ってきつつあるのだ。
メジャーなレーベルからの非公式なオファーが何件かあるらしい。
ただ、僕らの実力は認められているものの、僕らの音楽は時流に合ったものではないし、アスカのわがままは業界でも知れ渡っており、評判が必ずしも良くないこともあって、そう簡単に話は進みそうにない。
とりあえず、次のアルバムを出す準備だけは始めよう、ということにはなっているが、アスカは明らかに浮き足立っていた。

「次のアルバムが運命の分かれ道なのよ!ちんたらやってたんじゃ、駄目よ!」
「でもさ、今の僕らを見て、CD出してくれる、っていうんだろ。今更、そんなこと言っても・・・」
「あんたには判らないのよ!業界はそんなに甘くないわよ!いつだって120%でやらなきゃ。ううん、それでも足りないわよ」

「そりゃ、いい音楽、ってのは基本だけどね。プロダクションにだって、手間かけていいと思う。後に残るものだしね。でも、方向性を崩してまで、新曲を山ほど作る意味、あるのかい?」
シゲルさんも、少し、苛立っているようだ。
アスカは、このチャンスに、次のCDは全曲新作で行く、と言い出したのだ。だが、僕らには、いつもライブで演っている曲がまだまだ残っていて、これらをリファインするのが先だと考えていた。
「方向性、って何よ!そんなもの、関係ないじゃない!1からの再スタートなんでしょ!」
アスカは全然聞く耳を持たない。何かを言おうとした綾波に向き直ると、
「そうだわ、あんた、本格的にキーボードやんなさいよ!どうせ必要になるんだから!」
「付け焼刃じゃ駄目だわ。今みたいに、ちょっと白玉でコード弾くだけならできるけど」
「なんでやりもしないうちから、そう決め付けるのよ!」
「そりゃ、無茶だよ。専門のキーボーディストって、そう簡単にやれるもんじゃないよ」
「何よ、あんた達は!よってたかって!できない、できない、できないばっかりで!そんなんじゃ、何もできないわよ!」
それは確かに正論だったけれど、アスカは急ぎすぎている。

今度はマコトさんやシゲルさんに向き直る。
「あんたたちだって、そうよ!元のバンドの肩書きだけでやっていけるほど、甘くないって言ってるのよ!何が伝説のバンドよ!所詮、アマチュアバンドじゃない!」
マコトさんは、黙ったまま、ちょっと前かがみになって、スティックを指でくるくる回している。これはマコトさんが、機嫌が悪いときの仕草だ。マコトさんは滅多に怒らないから、アスカは気付いていないけど。
そんな様子を、一人輪の外から眺めていたカヲル君にも、アスカの矛先が向いた。
「あんたもね、何がレスポールの魔術師よ!腑抜けちゃって、今じゃ、レスポールの手品師がいいとこじゃないのよ!レイドバックなんて、100年早いって言うのよ!」

「僕は好きなように弾いてるだけさ。いつもね」
相変わらず、微笑を絶やさずにカヲル君が答える。
「君が苛立つのは判るけど、お門違いだよ。そもそも、こういうややこしい状況になっちゃったのは、君のせいでもあるじゃないか」
「どういうことよ!」
「説明が必要かい?」
ますます雰囲気は険悪になっていく。それに気付かぬそぶりで、カヲル君は淡々と続ける。
「このバンドのトラブルは、ほとんど君がらみだろ。今回だってそうさ。君が前の会社を無理やり辞めて戻ってきたから、評判悪くなってて。それで契約に二の足を踏んでる会社もあるんだよ」
「判ってるわよ!そんなこと!」
ガン!と、アスカがマイクを叩きつけた。
「こんな馬鹿ばっかりだとは、思わなかったわ!」
アスカは、捨て台詞を吐いて、振り返りもせずに、スタジオから出て行った。重い扉が、ぼふん、という音を立てて閉まった。

僕は委員長と顔を見合わせた。
「えっと・・・」
「まあ、今のアスカには、何を言っても無駄よね」
さすがに委員長も、困りきった顔だった。
カヲル君だけは、けらけらと笑いながら言った。
「でも、原因はシンジ君にあるんだよ。多分ね」
僕はさすがにむっとした。
「カヲル君もカヲル君じゃないか。火に油を注ぐようなことを」
「でも、このままじゃ、みんな、気分悪いままだよ。気をつかったんだよ、これでもね」

「さあ、シンジ君、そろそろ行ってあげなよ」
マコトさんがスティックを置いて、言った。
「もうちょっとしてからの方がいいかな」
シゲルさんも、肩からストラップを外しながら、時計を見上げる。
「今日はもう、上がろう。煮詰まっちゃっても仕方ないからな」
何だかんだ言っても、みんな、アスカの扱い方については心得ている。
「でも、今日はちょっと自信ないな」
僕は正直に告白した。大体、アスカが落ち込んでるときに尻を叩くのは委員長で、今日みたいに怒っているときに宥めに回るのは僕、ということになってしまっている。だけど、今日のアスカの荒れようだと、かなり困ったことになりそうだ。
「しょうがないじゃないか、惚れた弱みだよ。覚悟しなよ、それくらい」
全く無責任にカヲル君が言う。
「そうね、責任、とりなさい」
「責任、は良かったな」
その場が爆笑に包まれる。綾波だけが、きょとんとした顔をしているのがおかしかった。

「いや、でも、アスカが何であんなに機嫌悪いのか、本当によく判らないんですよ」
「う〜ん、そう言われればそうだな」
シゲルさんが、ちょっと考え込む。
「最近はあそこまで荒れるのも珍しいよな」
「やっぱり、その、あの日なのかな?」
「何で僕に聞くんです?」
「いや、その、お預けのタイミングとか・・・」
「彼女の周期からすると、多分違うはず」
綾波がまた口を開いたので、僕はちょっと救われた。委員長は真っ赤になっている。こういうところは結婚しても変わらないらしい。

「とすると、やっぱりアレかな、選曲の問題かな?」
マコトさんがバインダーに挟んだメモを見て言った。
「ほら、いまのままだと、曲の半分は、レイが加入してからの曲だし」
「でも、アスカ、いつもは機嫌よく歌ってるじゃないですか」
「そうは言っても、前のCDはアスカの曲をレイが歌ってたわけで、アスカ自身が歌うアスカのオリジナルの曲って、このままだと良くて2〜3曲。前のCDに入らなかった曲だけだからね」

アスカとの付き合いが一番長い委員長の意見は違うようだ。
「それもあるかも知れないけど、やっぱり、私はシンジ君が原因だと思うの」
「僕、何もしてないよ」
「いえ、アスカって、常にシンジ君にだけは強いでしょ、あれ、シンジ君に対して、優位に立っていたい、って気持ちの現れだと思うの」
「なんか、屈折してるけど、アスカらしいといえばアスカらしいな」
これはシゲルさん。
「アスカは、昔から、シンジ君の上に居ないと落ち着かないというか」
「確かにそうだけど。でも、シンジ君が好きなんだろ、アスカはさ」
マコトさんの一言で、今度は僕が真っ赤になった。
「いえ、アスカは、自分に何か勝っているところがないと、シンジ君とも付き合えないと思い込んでいるというか。ソロになった時も、実績を作りたかった、って気分がなかったとは言えないと思うの」
「そんなもんかな?じゃ、逆に、俺たちが成功してたらどうなってたの」
シゲルさんも興味津々だ。
「アスカ、意地でも戻らなかったでしょうね」
「ああ、判る気がする」
「でも、そんなことの空しさにも気付いたからこそ、戻ってきた筈なんだけど」

「僕、別にアスカの上に居るなんて、全然思ってないけど?」
「このバンドは、結局シンジ君のバンドでしょ。アスカだって、よく判ってる。シンジ君の手のひらの上で歌っているってことぐらい。だから」
「そんな大それたこと、してるつもりないんだけどなあ」
「そこがシンジ君のいいところでもあるけどね」
カヲル君はいつも真面目なんだか茶化しているんだか、よく判らない。
「シンジ君の存在ってのは別にしても、今、このバンドでは、名前が売れてるってことで言えばアスカが一番だからね。アスカが戻ってきて、次のCDがコケたりしたら、アスカの立場はないよね。だから、絶対成功させなきゃならない。それがプレッシャーになってる可能性はあるよ」
「ひどいな、そんな打算的かな、アスカって」
「自覚してるかどうかはわからないけどね。僕は・・・君よりは、アスカの気持ち、判るんだ」
何気なくカヲル君はどきりとする一言を吐いた。

確かに、僕には、アスカの気持ちが、よく判っていなかった。いつもおろおろしていただけで、アスカが本当に何を望んでいるのかなんて、考えたこともなかった。

きっとそこに居るだろうと思っていた場所には、既にアスカの姿はなかった。荷物も上着もなくなっていたので、帰ってしまったんだろう。
それでも僕は呑気に身支度をして、そして道すがら、アスカの好物のショートケーキを買って、アスカのマンションに向かった。
僕のアパートとアスカのマンションは目と鼻の先にあった。僕の部屋の鍵はアスカに取られてしまっていたけれど、アスカのマンションの鍵は持たされていなかった。

アスカの部屋のチャイムを鳴らす。アスカは出てこない。
インターホンに向かって話し掛ける。
「アスカ、帰ってるんだろ。ケーキ買って来たよ、出てきてよ」
どうしたんだろう。もしかしたら、まだ帰ってきていないのかな。逡巡していると、突然、扉が開いた。
「帰って」
アスカはこちらを見もしない。
「ごめん、僕、アスカの気持ち、よく判ってなかった。だから・・・」
「帰って」
「ねえ、ちょっと話を聞いてよ」
「帰って」
「じゃ、これだけでも、食べてよ」
「帰れって言ってんのに!」
アスカはケーキの箱を引ったくると、廊下に向けて叩きつけた。あっけに取られた僕の前で、扉は閉まり、二度と開くことはなかった。

「何だよ、アスカ、まだ怒っているんだ?」
「怒ってなんか、ないわよ。さっさと始めるわよ!」
状況は昨日より更に悪化していた。アスカは最初から喧嘩腰だった。それでも、とにかく、3曲分の、最低限のプリプロダクションだけはできた。これが使えるかどうかはわからないけれど。
「じゃ、これを元に、各パートで録り始める?」
「とりあえず、それで始めてみようか」

時間が来ると、アスカは、さっさと帰り支度を始めた。
「ねえ、ちょっと話をしようよ」
僕が声をかけても、アスカは一切反応しない。黙々とバッグに荷物を詰めている。
「ねえってば」

「うるさいわね、私は、アンタが、大っきらいなの!近寄らないで!」

頭が真っ白になった僕は、情けなくも後じさった。
スタジオはいきなり静かになり。
そして、なぜか、すっとカヲル君が、アスカに近寄り、二言三言、交したかと思うと、アスカをつれて出て行った。
「あ、あ、僕、僕も、そろそろ、帰ろうかな」
「う、うん、そうだね」
お互いに気まずくなった僕らは、それぞれに、ぎこちなく言葉を交してスタジオを後にした。僕はとにかく、早く一人になりたかった。

カヲル君はいつもマイペースだったし、自分のことはほとんど喋らなかった。それでも僕はカヲル君のことを判った気になっていた。アスカに対してもそうだ。そもそも、アスカがカヲル君を僕らのバンドに誘った経緯は、何だったんだ。

考えてみると、僕は、そもそも、アスカのことを、驚くほど知らない。アスカが自分から喋らないこと・・・家族のこと、ドイツで出たという大学のこと、なぜ日本に来たのか。
通り一遍の説明はあった。両親共に優秀な学者であること。そして、その縁で選抜されて小さい頃から特別に高等教育を受けたこと、兄弟はいないこと、日本では遠縁にあたる人のところに身を寄せていて、高校を出ると同時にその家を出たこと。だけど、アスカの説明は、いつも、そこまで。アスカがそれについて、どう考えているのか、アスカの口から語られたことはない。
気付いたら、足元に、暗く、大きな穴がぽっかりと口を開けていた。自分が立っていた場所。昨日まで確かだと思っていたのに、実は、ひどく不安定で、いつ崩れ落ちてもおかしくないような足場だったんだということに気付いた。
僕は何も知らない。僕は何も知らなかった。何も知ろうとしなかった。ただ、アスカがいて、カヲル君が居て、それだけで、僕は満足していたんだ。

・・・アスカ。

アスカに対する気持ちに嘘偽りは無いつもりだ。だけど、僕は、アスカのことを、どれだけ知ろうとしただろうか。

気が付くと、綾波の顔が、目の前にあった。
どこかの路地。肩に痛みが走った。胃がむかむかして、服は汚れていて、ズボンの裾には、乾きかけたゲロらしい染みまであった。

綾波は、しゃがみこんで、だらしなく地面に伸びていた僕の顔を覗き込んでいた。
「あれ、どうなってるの?」
言葉を発するたびに、頭がずきずきした。
「青葉さんが、多分この辺りだろうって」
何の説明にもなっていないけど、どうやら皆に心配をかけているということだけは判った。でも、それが何だって言うんだ。
「で、僕を笑いに来たってわけ?」
綾波の表情は変わらない。
「あなたはあなた。私は、笑わない」
僕は泣きたいのか、笑いたいのか、自分でもよく判らない。
「そうさ、僕は僕さ。鈍感で、臆病で、誰からも嫌われたくない、卑屈で下手糞で・・・情けないギタリストさ」
「そうかもしれないけど、あなたは、やっぱりあなた」
「慰めに来たんじゃないの?」
今度こそ、乾いた笑い。
「私は・・・」
心持、顔を傾げて、綾波は続ける。
「私は、あなたに拾われて、私になれた」
「?」
「前のバンドに居たときは、私はただの人形だった。リーダーには明確なビジョンがあったし、私はそのピースの一つだった」
「NERVのこと?でもいいバンドだったよ。人気もあったし」
NERVは僕らのところに来る前に、綾波が在籍していたバンドで、鬼才・ゲンドウ氏のプロジェクトだった。ゲンドウ氏は元々、別の畑のミュージシャンで、レコードを何枚も出しているが、がらりと音楽性を変え、特異なキャラクターはそのままに、プログレとテクノポップをミックスしたようなバンドを始めた。NERVの前身となったその伝説のバンド、SEELEは、契約こそ取れなかったが、未だにカルト的な人気を持っている。そして、シゲルさんもマコトさんも、そこに一時在籍していた。

「私には判らなかった。どうしてセカンドが、あんなに楽しそうに歌うのか」
「どうしてアスカのこと、セカンド、って呼ぶの?」
「2人目のヴォーカリストだから」
「いや、そうじゃなくて」
「そうね、私は彼女が嫌いだった。彼女は私に無い、全てを持っていたから」
「だから、彼女がソロになると聞いて、私は、ここに来れば彼女の持っていた全てが私のものになると思ったわ」
「でも、違った。彼女はやっぱり彼女だったし、私は私だった」
「?」
「そして、それはとても気持ちが良いことだったの」
ちょっとだけ、綾波は遠くを見るような目をした。

「それから同僚として一緒に歌うようになって、私には、判ってきたの。セカンドも、怖がっている」
「アスカが?何を」
「判らない?」
「判らないよ」
「私には判る。私も時々、怖くなるから」
「何が言いたいんだよ」
「あなたは、あなたなのよ」
いつになく饒舌な綾波だったけれど、やっぱり綾波だ。これじゃ、禅問答だ。
でも、これも、幻だったのかもしれない。

翌朝なのか、それとも夕方なのか。もうさっぱり判らなかった。
なぜか靴はきちんと脱いでいたけれど、上着のまま、今度は自分の部屋の床で目を覚ました。時計は5時を示していたけれど、午前なのか午後なのか判らない。時間の感覚が全くなくなっていた。外はぼんやり暗くて、夕方だと言われれば夕方のようにも感じられるし、朝だと言われれば、朝のような気もする。
ひどく喉が渇いていた。よろよろと立ち上がって、キッチンに向かう。テーブルの上に紙片と共に、部屋の鍵が置かれていた。上着のポケットに入っていたはずの、僕の鍵だ。紙片には、『おやすみ。青葉より』とだけあった。
僕はその紙片を丸めて、壁に投げつけた。そして、ひどい自己嫌悪に陥った。僕はいつまでも子供で、そしてシゲルさんも、マコトさんも、僕よりずっと大人だ。
キッチンで、蛇口から流れ出る水を手に受けて飲んだ。そして、蛇口の下に頭を持っていった。髪を伝った水が、顔から勢いよく滴っていく。
僕はいつまでも、そうしていた。

そのまま寝てしまっていたのだろうか。水音で何も聞こえなかったので、何かが肩に触れたとき、僕は心底驚いて、蛇口でしたたかに頭を打った。
濡れた髪が目に入って、何も見えない。手で、あるはずのタオルを探すと、すっとタオルの方から僕の手に入ってきた。
蛇口を閉める音。タオルで顔をぬぐった僕の前に、アスカが居た。

「何やってるの」
「別に・・・」
心の中では、何かがひたすらぐるぐる回っていた。どうすればいいんだろう。
「座りなよ、僕はちょっとシャワー浴びてくるから」
時間を稼ぎたかった。

「そのままでいいわ。時間は取らせないから」
アスカの表情は硬かった。そうか。そうだ、鍵だ。この部屋の鍵。鍵を返しに来たんだ。僕は再び胃液が喉に逆流する感じを覚えた。
「ちょっと気持ち悪いんだ」
アスカは僕の頭の天辺から爪先まで、しげしげと見た後、ふっと微笑んだ。
「いいわ、シャワー、浴びてきなさい」

バスルームで、頭から熱いシャワーを浴びた。少しづつ、感覚が戻ってくる。頭の中を整理しようとするけれど、思考は最悪の方向に転がっていく。ああ、なんて僕は情けない奴なんだろう。この期に及んで、まだ考えがまとまらない。
でも、あまりアスカを待たせてもおけない。シャワーから出たら、テーブルの上の鍵が2つに増えていた、などという事態は避けなければならない。最後のチャンスかもしれないのに。
ふと、綾波の言葉を思い出した。
『あなたは、あなた』
そうだ。もうじたばたしてもしょうがない。僕は僕だ。鈍感で、臆病で、誰からも嫌われたくない、卑屈で下手糞で・・・情けないギタリストだ。だけど。
シャワーのカランに手を伸ばし、温度を一杯に上げた。飛び上がるほど、熱いシャワーで、一気に目が覚めた気分だった。

シャワーから出ると、アスカはまだそこに居た。
僕は下着だけだったけれど、急いでそのまま部屋を横切って、服を取り出して身に付けた。
なんでもない表情を装って、アスカに尋ねる。
「コーヒーでいい?」
「本当に、あんたって・・・」
「何?」
まだ目を合わせるのが怖かったので、コーヒー豆をフィルターにセットするのに集中する。
「情けない男ね」
「・・・」
アスカの表情を見る勇気はなかった。
「情けなくて、臆病で・・・それでも、意地っ張りよね」
何も言えなかった。その通りだったから。

ポットからお湯を注いで、2人分のコーヒーを落とした。コーヒーの香りをかぐと、それでも少しだけ、心が落ち着いた。
そう、僕は僕だ。しょうがないじゃないか。

何かを言おうとするアスカに向けて、カップを押しやった。
「じゃあ何で、そんな僕を、一度は選んだの?」
僕はアスカの目を見据えた。
「聞かせてよ。ここを出て行く前に」

アスカが、突然、今までのトーンと全然違う、弱々しい、そう、涙声で話し始めた。
「ごめんなさい」
「え?」
「あたしはね、駄目なの」
「へ?」
「あたしじゃ、シンジを・・・幸せに出来ないの!」
「は?」
話が逆だ。何だ。僕はまだ酔っ払っているのか。それでもアスカは大真面目だ。

「あの、僕は振られたんじゃなかったの?」
アスカは聞こえなかったのか、話を続ける。
「あたしじゃ、あんたは幸せになれないわ。あんたは、・・・そう、ヒカリみたいな、もっと家庭的な女の子でないと、駄目なんだわ」

そうか!

あの時の話か。やっと思い当った。
「それ、トウジのところでの話?」
「そうよ!あたしは、ヒカリみたいに、料理、得意じゃない。ヒカリみたいに、何でもてきぱきこなせない。ヒカリみたいに・・・」

「アスカは考え違いをしているよ、多分」
一気に緊張感が解け、体中の力が抜けた。それだけを言うのが精一杯だった。

「あんたは言わないけど、あたしは知ってる。あんたは家庭的に恵まれていなかった。高校に入って、それまで世話になっていた親戚の家を飛び出してきたんでしょ」
その通りだった。ただ、その話をアスカにしたことはない。つまらない話だから。

アスカは、激情に駆られて、堰を切ったように話し出した。
「あたしも、そうなの。あたしは、捨てられた子供だった。両親は小さい頃、離婚したわ。それからプロジェクトに投げ込まれて。人工天才プロジェクト。知能強化プログラム。国際的な組織の、無茶な計画。でもあたしは必死だった。そこから投げ出されたら、私には行くところがなかったから。計画よりも早く、私は目標に到達したわ。でも、そのプロジェクトは結局、予算不足で打ち切られて。宙に浮いた私は、日本の遠縁に押し付けられた。政府から、いくらかの費用は出たみたいだけど、中途半端に大学まで出てしまった14歳の子供の扱いは、ただの悩みの種でしかなくなってしまっていたわ。学者犬ってところ。見世物には丁度いいけど、使い道なんて、なかったの」
「だから、あたしには判るの。家庭的なものに憧れるあんたの気持ちが」

「アスカ・・・」
アスカは、ずっと僕の事を考えてくれていたんだろうか。僕は、何て言えばいいんだろうか。

「いえ、日本の親戚はよくしてくれたわ。普通の学生生活を送りなさい、と言ってくれて、高校まで出してくれた。今では感謝している。だけど、その時、私は、怖かった。余計物にはなりたくなかった。早く一人で生きていけるようになりたかった。誰かに必要とされたかった!」
「だから、私に、歌の才能がちょっとでもあることに気付いたとき、私にはこれしかなくなっていたの」
「あたしは、あたしが生きていける、あたし自身の、与えられたものじゃない、居場所が欲しかった。だから、あたしは、どうしてもプロになりたかった。この世界で生きていきたかった。ステージの上では、みんなが私を見ていてくれるから」
「そして、そのためにあんたを裏切った。それから後は、あたしのやることなすこと、全部裏目に出てて、今でもみんなを苦しめてる。私は疫病神なんだわ」
「最初は、私は、あんたなしでもやっていかなきゃ。仕事とこれは別、そう思ってたけど、結局歌も、あんたなしではやっていけなくなってることを思い知らされたわ」
「いつの間にか、あんたはあたしの全てになってて。でも、それを認めたくなくて。嫌いになれればいいと思って。嫌いなところはいくつでもあったから。でも・・・でも・・・駄目だったの」

アスカはそこまで言うと、本格的に泣き出した。
僕は、僕で、張り詰めた糸が切れてしまったようで、何から話していいか、さっぱりわからない。

「馬鹿だなあ」
「そうよ、あたしは馬鹿よ!もうどうだっていいんだから!」

泣き崩れるアスカを見るのは新鮮だった。そして、天邪鬼な心がむくむくと沸き起こり、もう少し、いじめてやりたい気持ちになる。あれだけ僕を心配させたんだ。当然の報いだ。

「カヲル君は?」
「カヲルもそのプロジェクトのなれの果ての一人なの。日本チームの所属だったから、年に一度か二度、顔を合わせる程度だったけれど。知ってたの。昔から」
「なんで言わなかったの?」
「プロジェクトのこと、知られるのが怖かった。プロジェクトに関わった人間は、皆、そう。特別なことなんか、何もないのに」
「好きだったの?」
アスカはぶんぶん首を振った。
「アイツにだけは、何でも言えた、っていうだけ。同じ秘密を持っていたから。でも・・・」
「でも?」
「・・・アイツといると・・・シンジが妬いてくれたから・・・」

ああ、もう駄目だ。僕の中で、何かが弾けとんだ。天邪鬼ももうどこかに行ってしまった。
「アスカ・・・勘違いだよ。もう心配しないで」
「何で」
「アスカはアスカだし。僕は僕だ」
「何?」
「いや。僕も、謝らなきゃ。ごめん。僕は、アスカのこと、何も知ろうとしなかった。アスカが怒っていても、落ち込んでいても、何でアスカがそう思うのか、考えようともしなかった」
「だから、アスカ、もう泣かないで。僕が家庭的なものに憧れているのはそうかも知れないけど、いいんだよ、もう、僕は」
「え?」
「こんな僕でも、大事に思ってくれる仲間がいる。僕のことをこんなに考えてくれている彼女もいる。僕は恵まれている。足りないものがあるなんて、思ったことはない」
「彼女・・・」
「だから、いいんだよ。アスカはアスカのままで。それが、一番、僕に必要なものなんだ」
「でも・・・」
僕は、アスカの側にまわり、アスカの肩を抱いた。アスカは、一瞬、びっくりしたようだったけど、大人しく、僕の腕に体をもたせかけた。
「だから、ねえ、お願いだから、どこにも行かないで」

それからしばらくして。

「そもそもさ、カヲル君とは何を話したの?」
僕の腕の中で、アスカは満ち足りたような表情を浮かべている。
「説教されたのよ。でも、それであたし、ますます落ち込んで。もう何もかも終わりにしようと思って」
何だ、結局カヲル君も失敗していたわけだ。
「それで、鍵を返しに来たの。でも、あんたを見て・・・あんまり情けなかったから、気の利いたことを言おうと思ってるうちに色々思い出して。あたしって、つくづく駄目ね」
アスカは僕の頬をつねった。
「いいじゃないか、アスカはアスカだよ」
「それ、さっきも聞いたけど、あんたのセリフらしくないわよね」
「ああ、これ、夕べ酔っ払っているときに、綾波が」
「・・・」
「あ、アスカ、いや、そんな、変な意味じゃなくて、そうだ、送ってくれたのはシゲルさんだよ、証拠も・・・」
僕はあの紙片を捨ててしまったことを激しく後悔した。丸まった紙片は、もうどこに行ったか判らない。
「前後不覚になるまで飲んでたんでしょ。何でそんなでまかせ」
「いや、それは、その、違うって」

「前言撤回!やっぱりあたしは、あんたなんか、大嫌いよ!」

僕らのレコーディングは、順調に進んでいる。アスカの意見も通って、新曲もいくつか、入ることになりそうだ。その中に、僕の曲もある。この曲は、僕らにとっては新しい試みの一つで、アコースティックバージョンだ。そして、それを僕が歌う。緊張して歌っている僕の顔を見て、アスカが窓の向こうで笑っている。

僕は僕、君の側にいたい僕
君もそう思ってくれることを
心の底で願ってる

おしまい

あとがき

Helter Skelterシリーズ第5弾、『To Be With You』です。ちょっと他の人の作品の影響、受けすぎですね。もっとコミカルになる予定だったんですけど。

そういえば、シンジ君のバンドの名前がまだありません。最初は、出てくるバンドの名前、全部ヒコーキの名前にしておりまして、シンジ君バンドは、ワルキューレと、ちょっとアレげな名前でした。 (XB-70ヴァルキリーという、実在の、悲運の爆撃機が元ネタです)
色々助言もありまして(多謝!)、その助言に従い、バンド物臭さを消す意味もあって、バンド名は極力削ったんですが、そのおかげで、またシンジ君バンドに逆戻りしてます。

と、言うわけで、バンド名、募集します。何かいい名前、考えてやってください。ちなみに、もうじき出るだろうセカンドアルバムは、「Second Impact」になる予定です。