プロジェクトF

「DAY FOR NIGHT」の三年間

Project F

Three Years of DAY FOR NIGHT


間借り人ヤマさんと親しくしていただくようになったキッカケは、「点子ちゃんとアントン」感想文冒頭に詳しく語ってあります。それまではヤマさんの綴る「映画日誌」の豊富なボキャブラリーと明快な論旨に圧倒されるばかりで、とても親しく語り合うべくもないと思っておりました。そんなヤマさんが今回わざわざ、当サイトの映画感想文について詳細に語り尽くしてくださいました。まずはご一読ください。


  

 夫馬信一なる人物と映画館主F氏

 F氏映画感想文試論

 An Analysis of F's Movie Review

 間借り人ヤマ

 by Yama

 

 

 偉大なるムービーサイト【DAY FOR NIGHT】がいよいよ3周年を迎えるということで記念寄稿を求められ、つい安請け合いしちゃったものだから、徒然ふりかえってみたんだよね。そしたら、まぁまぁ、よくも毎週毎週書き続けたもんだ。300本を越えてるんだよ。ここまで来るともう、呆れを通り越して、畏怖するしかないほどの偉業だよね。なにせ、ひとつひとつが半端なボリュームではないうえに、特集企画までやっているんだから。夫馬さんがコピーライターを生業としているにしても、生半可なエネルギーと才能でやれることではない。そんなことはこの寄稿を目にしている方々は、皆さん先刻ご承知のことだろうけど、アメリカン・サイコレクイエム・フォー・ドリームでF氏が自身を含めて揶揄しているとおり、夫馬さんは紛れもなく映画中毒者であり、ネット中毒者だよね。ほとんどキング・オブ・ジャンキーの風格だもの(笑)。全くとんでもないことを引き受けたもんだと青くなったけど、後悔先に立たずというものだね。

 もっとも、かく言う僕自身も今やその蚊帳の外にいるとはとても言えないくらい、映画鑑賞とネット生活にどっぷりと嵌まり込んでいるわけで、同病相哀れむ様相を呈しているんだけどね(笑)。でも、どうせ病むのであれば、かく病みたいものだよ。そんなふうに僕が羨み、畏れ、敬愛しているのが夫馬信一なる人物の綴るF氏の世界というわけだ。

 

 そもそも僕と夫馬さんの交流は、彼自身が点子ちゃんとアントンの冒頭で綴っているとおり、大倉里司氏のサイトマダム・DEEPのシネマサロン【毒書日記】なるコンテンツの2000年11月28日付けの内容を読んでくれて、僕のサイトの掲示板間借り人の部屋に、ようこそ。に、

「はじめまして、ヤマさん。って言うと『太陽にほえろ!』みたいですね(笑)。」 (2000/11/30 16:19 過去ログNo.110)

と書き込んでくれたところから始まる。もう1年半くらい前になるんだね。僕はまだ自分のサイトを大家のparomaruさんに管理してもらってて、掲示板の管理人しかやってない頃だった。自分なりの解釈で映画を見せる(ネット)映画館という夫馬さんのサイト・コンセプトに注目した僕の発言が目を惹いたみたいだね。そして、一週間も経たないうちに僕は、

「何と言っても、Fさんの映画館は、巷の小屋のように上映が終わってしまうことがないのが素晴らしいですよね。ただ、映画がまさしく時代を映し、捉えるものであるだけに、Fさんの作品も例えば松坂・黒岩ネタがそうであるように、あまり時機を失してみると何の事やら判らなくなってしまうので、早い時期に追いついておきたいところですが。」

などと褒めそやしながら、ちゃっかりと『ザ・ディレクター/[市民ケーン]の真実』【DAY FOR NIGHT】で上映してくれなどとリクエストする始末。(僕が一部で悪のりヤマとの異名をとる所以でもある(笑)。)しかも「でも、感想のほうは、どうかなぁ(苦笑)???」と言ってる夫馬さんに「あっ、別に気が乗らなければ、かまいませんよ。無理はしないで下さい。無理はいけません、何事も。」

なんて言いながら、

「メラニー・グリフィスの若かりし頃のジャンキー体験が、身体からにじみ出てくるような感じで生きてるように思いました。ジェームズ・ウッズと二人で出てた、『KIDS』のラリー・クラークの作品、え〜と、なんだったっけなぁ、ど忘れ(四十越えて滅法増えてきた(苦笑))したけど、あれにも出てましたよね。あれも確かそんな感じだったように思います。クロムウェルも『スペース・カウボーイ』に引き続いて、存在感ありました。『秘密と嘘』『リトル・ヴォイス』のおばさん(これも、ど忘れ)も、はすっぱな感じが良かったし…。彼らのFさん流の活写を楽しみにしてたのですが…。また、ハーストの豪邸サン・シメオンをFさん流の毒でもって、どう綴るのか、興味があったのでした。」

などと煽り立てているのだから始末が悪い(笑)。 学校の宿題じゃあるまいし、書けと言われて即座に書けるもんでもないよね。まずもって自分がその気になれないことには始まらない。それなのに、夫馬さんは二日も経たないうちにF氏に語らせ、アップしてしまったのだ。しかもその出来映えがよくて恐れ入った。僕の期待は、ほぼ完璧に満たされ、思わず「あの把握力、記憶力。そこまでなら外にもおいでますが、それらに対する再現力、構成力、更には実に的確な批評眼、そして、何よりも読み手を掴んで放さない表現力と連想の豊かさ、これらを総て備えた書き手に僕は初めて出会って、ある種のうらやましさを禁じ得ないところです。『ザ・ディレクター』についても、Fさんのを読んで、改めてあの作品の台詞の味わいと含蓄を反芻することができました。物足りなさの部分も含め、ほぼ全面的に共感です。」

と伝えたことだった。実際、僕は夫馬さんのサイトを訪ねるようになって、なんだか自分が日誌を綴ったりアップする気持ちが萎えたことがあるんだよ(笑)。 それはともかく、今振り返ってみても、僕からのリクエスト作品ながら、F版ザ・ディレクターには、夫馬さんがF氏に託して語るもののエッセンスが詰まっている。加えて、いかにものアート系作品ではないところも、夫馬さんの綴る感想文のひとつの典型でもあるように思うんだな。だから、今回の寄稿は、この作品を軸にして、夫馬さんの綴る感想文について考えてみることにした。夫馬さんと僕ということでは、リクエスト作という思い出深い作品でもあるしね。 

 まず大体からして、映画史上の最高傑作の名をほしいままにしている『市民ケーン』を撮ったオーソン・ウェルズを語るにまずエド・ウッドから始めるところが、いかにもF氏の世界だよね(笑)。ご承知のとおり、こちらは史上最低の映画監督としてカルト的人気を博している人物だ。そして、F氏は「まるで僕そのもののところがあるからなんだよね」と語る。F氏の世界は、全てこの身の丈に合わせた実感で映画を受け止めるところが原点なんだね。だからこそ、F氏の語る映画では、そのイントロダクションとも言うべきアイドリング部分で、自分が生身で受け取った過去の体験や現在見聞している時事ネタを持ち出す。この作品では、「学生時代、下手くそなりとも8ミリ映画を何本か撮って、監督まがいのマネをした僕」とくるわけだ。 僕が自分のサイトにアップしている映画日誌からの直リンク推薦テクストに拝借している夫馬さんの感想文が30本以上ある(リスト参照)けど、そのなかで特に印象に残っているイントロを古いものから並べてみると、母の眠りの親父さんの入院、シャンドライの恋のバレンタインデーの思い出、理想の結婚の飲み屋の看板娘の豊胸手術、サイダーハウス・ルールの禁煙体験、あの子を探しての塾の先生のバイト、春香伝の桜樹ルイ主演AV版伊豆の踊り子、初恋のきた道のシネ・フィル批判、ハート・オブ・ウーマンのイロもの週刊誌、JSAの大リーガー新庄、マレーナの小泉政権下での都議会選、GOの一人っ子のラベリング、といったところだけど、どれもこれもその敷居の低さたるや、半端なものじゃないよね。映画との関連性でいかにもってものから、『理想の結婚』や『初恋のきた道』『JSA』『マレーナ』などの、どうしてそれがイントロダクション?って思えるようなものがあるところが余人に真似の出来ない芸だね。

 夫馬さんは、『スターリングラード』のイントロでF氏にこう語らせているんだよ。「仕事上ではなかなか出来ない、“自分しか出来ないこと”のためにこのサイト開いてる。他ではやってないこと、自分らしさ…それがこのサイトをやっていく上での絶対必要条件なんだ」ってね。自分の肉声としては、なかなかここまでの大見得を切れないとしたものだけど、夫馬さんはF氏に託すという巧妙な虚構のもとに自らの発する言葉の自由さを担保したんだね。

 そうなると、映画を観届けた側の実感にこだわる夫馬さんが、自身の実人生を投影した語りをF氏にさせるような作品が、映画として登場するのは当然のことなんだろうね。そして、夫馬さんのジャンキー体質からして、それが映画やネットに留まらず、F氏の語りというところでも深みに嵌まっていくのは必然だったのかもしれないよ。だから、最後には【DAY FOR NIGHT】開設2周年記念感想文である『あの頃ペニーレインと』のなかで「何だか僕は、映画感想文で自分の人生切り売りしているような気になってきた。どんどん消耗していく感じ。」と吐露するところまで行っちゃったんじゃないかな。でも、この私小説作家バリの気合いが入った文章なら、圧倒的な力があるのは道理と言えば道理なんだよね。しかもそれは、拝察する限りにおいては、けっして順調で平穏な人生を歩んできたのではなさそうな夫馬さんが、その筆力の丈でもってF氏に語らせるのだから、なおさらのことだ。 そういう部分で圧倒され、感銘を受けたものを僕が直リンクに拝借したものからピックアップすると、『母の眠り』『ポーラX』『アメリカン・ヒストリーX』『ペパーミント・キャンディーということになるかな。『ペパーミント・キャンディー』なんかホント、凄かったよね。

 実は僕も、映画について何かを綴るとした際に、一番大事にしたいと思っているものは、自分の実感なんだよね、筆力及ばず、あまりそういうふうには見られてないようだけど(笑)。だから、夫馬さんの書く文章が、実感どころか血肉が通っているところに、全くもって敬服していたんだ。でも、ここまでやれることを凄いなぁと思い、愛読する一方で、ここまできちゃうと「自分なりの解釈で映画を見せる(ネット)映画館という夫馬さんのサイト・コンセプト」からは、少しズレているようにも思ったね。だって、読み手である僕の関心が“映画”よりも“F氏の語る人生”のほうに行っちゃうんだもの。もっとも読者としては、読み応えがあって面白いのだから、読み物としては何の不満もないんだけどね(笑)。でも、それじゃあ、見事に実感はこもっているんだけれど、映画を語っていることにはならなくなるという気もする。主客転倒して、映画を借りて自分の人生を語っているってことだ。けれども、さすが夫馬さんは自分でそのことに気づいて、開設2周年記念感想文で自作を総括し、以後、実感は大切にしながらも、実人生の投影が軸になっているような感想文はアップしなくなったみたいだね。ネタ的に尽きてきたということもあったらしいけど(笑)。

 それにしても、夫馬さんがここまで実感にこだわり、縛られたのはなぜなんだろう。単なるジャンキー体質だけでは説明しきれないって思うよね。“自分しか出来ないこと”を絶対必要条件とするってな大見得を切ったことも作用したのかもしれない。でも、主客転倒に至らせるほどの実感強迫をもたらしたのは、きっと、世に流布している映画について綴った文章への反発だったんじゃないかな。だって、あまりにも実感の伴わない空疎な言葉の羅列が多すぎるもの。雑誌とか専門誌で見かけるものっていうのは、実感がこもっているのは、判で押したように素朴な実感というか、内容的に深みのあるものが少ないし、それなりのボリュームで書いてあるかと思うと、どこかから借りてきたような言葉が連なっているだけのような印象があるもんなぁ。職業としてやっている人のもののなかには、見ずに書いたとしか思えないようなものまである。とことん映画の好きな夫馬さんには、そういうのが耐えられなかったんだろうね。

 

 さて、イントロの次は、再現映画の部分だ。再現映画としてF氏が語るものの特長は、なんと言っても、あの細部にわたる把握力、記憶力だよね。そして、それらに対する再現力、構成力。さらには、何よりも読み手を掴んで放さない表現力と連想の豊かさだ。そこに実感でつかみ取った解釈が加わっている。とりわけ、表現力と連想力の豊かさには驚くよね。いくらパンフレットを参考にしていたとしても、こんな芸当はおいそれとできるものではない。きっと本人は、下ネタとスポーツ芸能ネタにたまに思い出したように政治ネタ入れるスポーツ新聞まんまのワンパターンだと思っているに違いないんだけど、そして事実そうなんだけど(笑)、これが一向に飽きがこない。ワンパターンをワンパターンと感じさせない芸は、やはり一流のものだよね。

 読んでて大笑いした記憶が鮮烈なのは、スペース・カウボーイだな。松坂ディーン・黒岩イーストウッド・堤クロムウェルの三つ巴には、本当に声を出して笑っちゃったよ。これがまた、キャラをよくつかまえてるんだよねー。たいして野球が好きでもない僕が読んで、あれだけ可笑しいんだから、野球ファンにはたまらなかったろうね。「ここまでくると“映画評”じゃなくて“作品”ですよ!」って、メールだったかゲストブックだったかに書いて伝えたような記憶があるんだけどな。もっとも最近は書いてる夫馬さんの側に飽きがきたのか、あまりスポーツ新聞的でなくなったような気がするんだけど、このへんはきっと好みの分かれるところなんだろうね。ちょっと残念な気がしているんだけどなー。それと、僕は密かに、あれは女性ファンにおもねったんじゃないかとも睨んでるんだけどね(笑)。そのせいか、F坊の絵日記なんていう珍妙なものが登場しているよね。でも、最初の絵日記『パール・ハーバーの「ワイハ〜」には、何だか力が抜けてくるような可笑しみがあったっけなー。

 けど、何と言っても圧巻は、同ロング・バージョンでの“ある日のディズニー会議室議事録”だよ。「舞台は今から2〜3年前のある日のハリウッド、場所は映画『パール・ハーバー』の企画書が提出されたディズニー=タッチストーン・ピクチャーズの会議室。出席しているのはディズニーの役員連中とプロデューサーのジェリー・ブラッカイマー、監督マイケル・ベイ」ってな調子で始まった議事録の可笑しさは、半端なもんじゃない。ただ面白おかしく茶化してるんじゃなくて、映画から透けて見える裏側を照射しているところが侮れないんだよね。それにしても、驚くべきショーマン精神だ。こういう部分で、実は既に充分、“自分しか出来ないこと”を絶対必要条件とするサイト運営が果たせているように思うんだよね、これホント。 『ザ・ディレクター』でも、実にわかりやすい言葉でくだいて語っているよ。それもストーリーを語るというよりは、登場人物を展開にそって活写していくといったほうがいいような語り口だね。そこにギャグが挟み込まれる。でもって、クロムウェルが新聞王ハーストをやっているとなれば、『スペース・カウボーイ』の堤オーナーに話が及び、ロイ・シャイダーがRKO社長やってりゃ、当然のようにして『ジョーズ』『ブルーサンダー』のネタが顔を出す。キムタクやゴジラまで登場するしね。さらには「医療ミス連発の日本の医者みたいにバカなタイピスト」だとか「さすがに監督初体験のウェルズは緊張してか、初めてだから優しくしてねなんて処女みたいなことを言って、みんなをホロリとさせる」だとか、それこそ「しまいにゃAV男優だって下に敷いてまたがりシボリとらんばかりの、とんでもないビッチなヴァージンぶりに、ベテラン映画人も右往左往するんだね」ってな調子で読んでる側を右往左往させる(笑)。そうしておいて、「そういう意味ではウェルズ自身が立派な『市民ケーン』だし、皮肉なことにそれ通り越して限りなくあんなに嫌ってたハースト自身に近づいていっちゃったんだね」と押さえるべきところを押さえたうえで、「まぁ、その点についてはこの映画の感想書く人の100人が100人とも指摘することだろうから、このへんでやめておくけど」と続ける。ヤな奴だねー(笑)。そして、「このウェルズ=シュレイバー演説が功を奏したか、『市民ケーン』は売却をまぬがれ公開が決定した。一方、ハースト=クロムウェルはここで力尽き、破産となった。ある意味で似たものどうしの両者は、ここへきて明暗をクッキリと分けたのである」と最後の最後まで語り切っておいてから、やおら“100人が100人とも指摘すること”とは異なる“自分しか出来ないこと”を目指して語り始めるんだよ、この再現映画の部分の後に。いやぁ、参っちゃうね。

 でもさぁ、この再現映画の語りが、全部が全部ツボに嵌まってくるわけではないのも、ご愛敬だよね。あんまりたくさん並べるのも記念寄稿にはふさわしくないからちょっとだけにするけど、例えば13デイズなんかは、ミサイルをナニに見立てた下ネタからスタートして下ネタ一本調子で、仕舞いには「千葉県東金道路沿いラブホテル“ホワイトハウス”前から、【DAY FOR NIGHT】の映画館主・Fがお届けしました。」ってなオチがついてる実況形態だけれど、「国際政治も一皮ムケば下半身の話」というのが映画との関連性がなさすぎて失敗してるんじゃないのかなぁ。いくら下ネタ好きの僕でも、それを交えるのではなく、それで押し切っているところに、とってつけたような違和感を覚えたね。コヨーテ・アグリーの「民謡酒場 山いぬ」っていうのも僕にはヒットしなかったなー。F氏の語る再現映画では、本作での役名を使わずに俳優名で語っていくことに夫馬さんがこだわりをもってたはずなんだよね。映画を観てない人には無意味な役名より俳優名で語るほうが視覚イメージとしても映画に繋がりやすいとかなんとか(笑)。それをここでは、花代だ、重蔵だ、おハルだ、パンチ佐藤だ、たまきだ、テレシコワだ、ピン子だってな調子でくるから、映画を観ててもワケわかんない。映画を見届けた側の解釈で身の丈にあった言葉によって再現しているというよりは、明らかに遊びのほうが勝ってるよね。それはそれで結構なことだけど、僕は読みながらその遊びに乗っていけなかったものだから、ピンと来なかったな。

 

 再現映画の後は、F氏の論評に入っていくんだけど、その前にちょっと寄り道(笑)。

 実は、『ザ・ディレクター』のイントロが8ミリ映画監督体験だっていうのは、単にこの映画が映画監督を描いてるということではなしに、かなり暗示的なんだよ。というのも夫馬さんは、非常に的確な批評眼を持っていると僕は思うんだけど、基本的に批評家ではないね、作家なんだよ。観る側よりも作り手の側にその足場があることは、開設2周年記念感想文『あの頃ペニーレインと』の最初のところで「何度もここで打ち明けたけど、この頃の僕は8ミリフィルムで自主映画を撮っていて、チャッちいながらもいっぱしの映画作家気取りだったんだよね。お遊びでフザケたクズ映画つくってただけなのに、僕としては他の映画作家はみんな「同業者」(笑)。言わば対等の関係だから、偉そうな態度で言っていいと思ってたんだね。逆に映画づくりの出来ない批評家ごときは偉そうに語る資格ないんだよ、何も分かってないんだから…な〜んて正直言ってそう思ってた(実は今でもそう思ってる)。批評家は敵だ!と思ってたよ。」と書いているくらいだから明らかで、そういう意味では、すんなり批評を書くわけにはいかないとも言えるんだよね。だから、感想文と言い訳してたり、ネット上で言葉によって上映する映画館だなんて言ったりしてるんだと思うよ、往生際悪く(笑)。

 でも、今や実際に批評文ではなくなっているから立派なもんだよね。今回、僕が夫馬さんからの依頼によって初期の頃からのものを読んでみて(と言っても基本的に未見作品のものは読んでないんだけどね)、実は一番驚いたのは、表現・スタイルともに見受けられる文章の変化だった。僕は自分のサイトで1984年からの日誌をアップしているけど、僕の場合、昔と今とじゃ歳も時代も環境も変わってるんで、変化しているとこもあるけど、夫馬さんに比べるとほとんど成長してないんだよね。僕は、F氏の語りのキーワードでもある“実感”“血肉”に憧れを禁じ得なかったんだけど、夫馬さんにしてもそれを手に入れたのは極最近のことだったし、それには代償も相当なモノだったということなんだよ。これには随分と考えさせられたね。さらに横道にそれるけど、夫馬さんからはこの一年に留まらず昔のものからも見渡してみてほしいとリクエストされているから、僕なりに思ったことを書き添えておくことにするからね。

 もっとも全部たどるのは大変だし、ちょうどF氏が開設2周年記念感想文『あの頃ペニーレインと』で自己総括しているから、それに即して綴ると、まず81年の『アルタード・ステーツ/未知への挑戦の感想文だね。本人が「うへ〜、ちょっと見てちょうだいよこの文章」って書いているように、今の夫馬さんからすれば、内容や視点的にはともかく、文章ないしは文体としては今とは雲泥の開きがあるよね。これをそのまんまで公開するのは相当にきつかったのか、あるいは逆に、既に揺るぎなき手応えを自分の書いているものに感じているうえでの自信がなしえたことなのか、図りかねるけど。なにせ読ませる力が格段に違うもの。この感想文の公開は、ある意味で体験をネタにする以上の思い切りが必要だったんじゃないかなー。でも、それだけに、この開設2周年記念感想文で自らの総括をおこなおうとする夫馬さんの気迫を感じるよね。95年の激突』『或る夜の出来事』『用心棒になると、仕事として請け負って公表したものだけに既に読ませる内容が充分あるけど、驚くのは、わずか三回の間にも進化しているんだよ。『激突』は基本的には解説だよね。『或る夜の出来事』になると、より解釈が加わり、書き手からの問い掛けもある。『用心棒』になると書き手の感情がより表白されるようになっているよね。98年の知人の女性に宛てたメールのタイタニックは、ものがメールだけに主張が明確で面白いんだけど、僕が夫馬さんだったら、公開しないかもしれない。99年4月の宗家の三姉妹ともども現在の夫馬さんの綴るF氏の世界のレベルからすれば、まだまだだよね。ただ、ここには自身で語っているように「映画ファン特有の鼻持ちならないスノビズムがとにかく昔からイヤ」だとか、「純粋に自分のホームページ【DAY FOR NIGHT】用に書いた初めての映画感想文」が香港映画だとか、夫馬さんを考えるうえで気になる要素が窺えるね。でも、開設2周年記念感想文で一番重要なのは、自ら総括している「映画を「書く」「語る」側に回るということは、「つくる」側と永久に決別することだ」という言葉だろうね。これもF氏に仮託するという形を取らなければ、こうは語れなかったものだと思うよ。でも、実は夫馬さんは作る側と永久に訣別したりは、けっしてしてないんだよね。批評のように対象化したものではない、作品としての映画についての文章という創造のほうに向かっていったんだね。そのキーワードが実感というわけだ。だから、99年5月のラウンダースでは早くも率直な解釈とメッセージが出てき、書き手の顔が見え始めてくる。F氏の語りの肝とも言うべき、実感に根ざした映画についての言葉によって、文章に力が宿り始めているように思うんだ。 イントロダクションが初めてついたのは、99年7月の25年目のキスらしいんだけど、予告編的なものが最初からのアイデアではなかったことを僕は今回、この寄稿を依頼されて初めて知ったんだよね。でも、「冗談抜きでこの気持ちをどうしても伝えたくて仕方なくなった」との言葉どおり、一大転機だったんだね。これには迫力があったよ、とっても。映画のほうは僕は未見なんだけどね。サイト開設から三ヶ月弱、ここから折々に自分の実人生を投影して語りゆくF氏の世界が展開し始めたというわけだ。

 

 そこで本論に戻ると、再現映画の後に続くF氏の論評ということになるんだけど、既に触れてもきたように僕は、F氏の語っているものを批評だとは思っていない。夫馬さんが確かな批評眼を持っていることは充分窺わせているんだけど、F氏が語ってるのは批評ではないんだよね。何よりも先ず作品にコミットし、映画の作り手にコミットしていくんだから、批評のような対象化とはむしろ対極にあると言っても過言ではないように思うんだよ。そして、コミットしながら巡らせる想像力というのがバツグンに面白くて、時として妄想的でさえある(笑)。それって批評的スタンスとは全く馴染まないよね。もっとも思い込みを批評と勘違いしている輩も随分いるんで、ここで僕にとっては“批評”という言葉には“対象化”がキーワードであるということをことわっておきたいんだけどね。

 そういうことで言うと、この『ザ・ディレクター』でも「ひょっとしたらこの作品がテレビムービーだからかもしれない」などということにまで想像が及んでいくんだよね。しかも「製作会社のHBOがこれまでテレビ作品の製作を中心にやってきた」なんて知識があったりするもんだから、その「ことから見ても、この作品がテレビムービーである可能性は高いと思う」なんて押し込んでくるんだ(笑)。こんなこと少々映画好きであったって、誰もが言い出すようなことじゃないよね。「100人が100人とも指摘すること」とは異なる“自分しか出来ないこと”を目指した語りたるゆえんだ。

 でも、そういう縛りがあるもんだから、F氏の論評というのは、表現やスタイルのバリエーションに比べて、意外と定型化しているんだよね。乱暴に言ってしまえば、映画ないしは映画作家を論じているか、人間ないしは人生を論じているかのほぼ二つになっちゃうと思うんだ。確かに毎回のように再現映画の後の論評に入ると、スタッフ・キャストに言及し、作品解釈へと進み、F氏なりのテーマとも言うべきものを浮かび上がらせて、自身の言葉にして訴えかけるという構成になっている。だから、一つの映画について語るべきことのほぼすべてが網羅されているように、また語り尽くされているように感じられるのは、無理もないことなんだよね。しかも、スタッフ・キャストへの言及は、過去の仕事歴にまで及ぶのだけど、これがパンフ掲載情報の域を越えて息づいていてお見事だ。それなのに、結局のところ、作家論と人間論のふたつのことに集約されてくるというのが、F氏の語りの魅力であり、限界でもあろうという気がする。

 

 僕が直リンクに拝借しているテクストのなかでも1/3を越えるものが映画ないしは映画作家論が主軸になっているものだ。それもイグジステンズのデビッド・クローネンバーグ、『あの子を探して』『初恋のきた道』のチャン・イーモウ、グリーン・デスティニーのアン・リー、『スターリングラード』のジャン=ジャック・アノー、『マレーナ』『海の上のピアニストのジュゼッペ・トルナトーレ、A .I.のスタンリー・キューブリック&スティーブン・スピルバーグ、『点子ちゃんとアントン』のカロリーヌ・リンク、千と千尋の神隠しの宮崎駿。いずれ劣らぬ、作家論を持ち出すに足る面々であるとともに、この顔ぶれを見ただけで、F氏が毛嫌いする“偏狭で教条主義的なシネ・フィル”が好んで語りたがる監督名がぞろぞろと並んでいる。そして、やっぱりF氏が語るのも、主に監督についてなんだよね。これって僕には、実は近親憎悪に見えてしょうがないところがある。たぶん夫馬さん自身も自覚しているはず(笑)。だからこそ【DAY FOR NIGHT】は、あえて「マニアでもミーハーでもない 映画ファンのサイト」と書かずにいられないんだろうね。作品を対象化する批評を書こうとせずに実感にこだわるのも、観る側よりも作り手の側に足場を置くスタンスということ以上に、このシネ・フィル嫌いが一番の理由なんじゃないかなー。そして、それはとりもなおさず夫馬さんが、自分は似て非なる者でありたいと願いつつも、実は大差ないことを感じ取っていて怯えていることの逆証じゃないかという気もするんだよね。それっくらい夫馬さんがF氏に託して語る映画論は、例の作家主義に濃厚に彩られているんだよ。でなかったら、ムーラン・ルージュ『タイタニック』をバズ・ラーマンやジェームズ・キャメロンといった監督名のみを全面に出して語るはずがないよね。でも、監督が全面に出ない形の映画論的なところが興味深かったものにクリムゾン・リバーなんてのがあったっけなぁ。

 

 こういう目で見直すとF氏の眼差しというのは、当人が語っているほどには、作り手側に足場があるとは思えないんだよ。いい作品になるかどうかを左右する映画製作の原則を、日本映画の父と言われるマキノ省三が「1.筋、2.ぬけ、3.動作」としていることは、よく知られているけど、僕は自分の書いた本のなかで、作り手の側に足場を置かない者の立場として、敢えてその順番を変えて「1.脚本、2.俳優、3.映像」としているんだ。やっぱり作る側と観る側とでは、スタンスが変わってくるよね。そこでF氏の論評なんだけど、彼の語っていることのウェイトって、まさしく僕が観る側の立場として並べた順番になっているような気がするんだよね。意外と映像技術や映像表現について直接的に語っているところが強い印象を残してなくて、量的にも少ないように感じるんだよ。そういう意味では、F氏の立ち位置は、やはり観る側なんだと思う。もちろん多くの観客よりもずっと作り手側に接近していることは、間違いないんだけどね。だからこそ、近親者ともなる、いわゆるシネフィルに対する矛先は、必要以上に先鋭化するんだよね。『初恋のきた道』について語ったものなんて、ここぞとばかりにといったもので、さながらF版『タイタニックの逆襲』ってな案配だ(笑)。

 しかし、これがまた、見事なんだよね。『初恋のきた道』がいかに『タイタニック』の双子の兄弟のような作品なのかを実に具体的に詳細に語り尽くしている。これを読んで、なるほどと感心しない人がいたら、お目に掛かりたいね。このF氏の張り切りようの背後にあるのは、映画を「芸術か娯楽か」といった偏狭な視線で観るべきではないことを声を大にして言いたいという思いじゃないかな。「マニアでもミーハーでもない 映画ファンのサイト」ってのも、その心は「芸術にも娯楽にも偏らない眼差しで映画を愛好するサイト」ってことだろうからね。そういう意味では、世界三大映画祭全冠制覇の芸術映画の巨匠チャン・イーモウと映画史に残る娯楽大作として世界制覇を果たしたジェームズ・キャメロンを同じ地平に置くことのできる作品だったから、まさしく打ってつけだったわけだ。 さらに、そんなF氏がいやがうえにも張り切らざるを得ない作品が、2001年にはもう一つあったよね。それこそ『2001年宇宙の旅』のキューブリックと『E.T.』のスピルバーグが絡んだ『A.I.』だ。F氏の仮想敵国とも言うべきシネフィルたち(笑)から、対照的な眼差しを向けられている両巨人の共同作品とも言うべき代物が登場したんだから、F氏はすっかり喜んじゃって、なんと普段は何人かで繰り広げる特集企画に匹敵するようなものを独り舞台で、とことん語り尽くしちゃった。『タイタニック』の遺恨を『初恋のきた道』で晴らし、『A.I.』でダメ押しした感じだね。でも、皮肉なことに、そうすればするほどに作家主義的な立場の印象が強まり、シネ・フィルに対する近親憎悪の「近親」のほうが際立ってきちゃうって気もするんだけど…(笑)。でも、このエネルギーって、映画に対してとてつもなく“熱い”よね。

 

 この熱さというのが夫馬さんの綴るF氏に特徴的なキャラクターなんだよ。F氏の論評のもうひとつの定型である、人生ないしは人間について語るときにも、それが遺憾なく発揮されているよね。なかでもF氏が関心を寄せるのは、心の城壁や共感、ジェンダーといった関係性の問題と反省や痛み、屈折、挫折などを過程とする個人の成長の問題だ。個人や弱者、ハンパもんに向ける暖かい眼差し。権威主義や既成概念、スノビズムに向ける敵意。それらについての率直な熱さは、万年青年として常々僕が敬愛しているF氏の愛すべきキャラクターであり、底流にはダンディズムが造形されているように思う。原点回帰やルーツへのこだわりも特徴的なことじゃないかな。夫馬さんの造形したF氏は、総じて非常にモラリスティックで立派な人物に見えるんだけど、それを偽善的には感じさせないのは、自身の痛みと弱さを実人生の実感とともに晒している迫力のおかげなんだろうね。そういうことができたのも、夫馬さんがF氏に託すという巧妙な虚構のもとに、自らの発する言葉の自由さを担保したおかげだろうね。僕が日誌を綴っていないからテクスト拝借がかなわなかったけど、ボーイズ・ドント・クライなんか男気に溢れてて、感動ものだったよ。

 でも、だからこそ、そういう夫馬さんの関心のツボに嵌まるテーマが描かれていると、過剰反応的に汲み取ってしまう傾向もあるんだよね。だから、ときおりゲストブックへの書き込みなんかでも見られるように、本体の映画作品よりもF氏の語りのほうが感動的だったなんていう現象が起こるんだよ(笑)。実感に基づき、自分の言葉で語っているから、説得力があるんだね。そういう面でも、夫馬さんの綴るF氏の語りは、批評ではないんだよ、やっぱり。たとえ作品がいわんとしていることはそうであっても、それがこれほど充分に表現され、伝えてきていたのかなぁと少々違和感を覚えた記憶がある作品としては、例えばデンジャラス・ビューティなんかもそうだったね。なんと夫馬さんは、2001年全部で124本も観たなかでのベストテン第2位に挙げているんだけど、そのコメントにもある「実はこの映画、意外に奥が深い」という“意外さ”は、多分に夫馬さんのツボが汲み取り出したものではないかという気もするんだよ。でも、だからこそ、パーソナルな意味では、特別な位置を占めるようになるのは当然のことであって、個人のベストテン上位にあることに疑問はないんだけどね。また、ことの終わりなんかも“神との契約”なんていう借り物の言葉で語れるはずもないF氏が、なんとか実感の伴う言葉に置き換えようと、半ば強引に“義理”に引き寄せて語ろうとしたために、ちょっと無理が生じているような気がするね。でも、夫馬さんがF氏に課したものに対して、実に律儀に真摯に向かっていることの証左でもあって、見上げたもんだよ。書くことに対する書き手としての誠実さというものを感じるね。

 

 じゃあ結局のところ、夫馬さんの綴っているものは何なんだろう。月並みなようだけど、僕はそれを批評でも感想文でもない、作品としての自己表現だと呼びたいね。他には言いようがない気がする(笑)。

 それにしても、案の定、長くなっちゃったなー。夫馬さんには、或る程度のボリュームはほしいところです、なんて言われてたけど、ひとつひとつの作品が長文であるうえに既に300本以上も書き上げているものについて語るんだから、仕方がないと言えば、しかたがないよね。ここまでお付き合いいただき、読んでくださった皆さん、驚くとともに感謝にたえません。でも、一体どれだけおいでるんだろう(笑)。この末尾の部分に最後まで読んでくださった方が投票するチェックボックスでも置いてると面白いんだけどなー。

 僕の長口舌に付き合った方は、それこそ夫馬さんの書くものを愛好していればこそのことだろうと思うから、夫馬さん、感謝しなきゃいけないよ(笑)。ではでは、皆様、お疲れさま。ありがとうございました。

 そして、夫馬さん、サイト開設3周年、おめでとうございます。

  

 

'02. 1. 3〜15. 「間借り人ヤマ」こと山本嘉博

 

 

●間借り人ヤマ● 今回、大長編論文を書いてくださった高知のヤマさんの本、『高知の自主上映から−「映画と話す」回路を求めて−』(発行:映画新聞 、発売:フィルムアート社、書籍コード:ISBN4-8459-9662-6 C0074)をぜひお読みください。

間借り人の映画日誌

http://www4.inforyoma.or.jp/~mai7665/

   


 

 

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