<B>英語…もがき苦しむちょ〜初級者



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英語… もがき苦しむちょ〜初級者





*2006/12/5〜
*2008/2/11更新

 いわゆるひとつの暇つぶし、ということで。
 でいいのだけど、いくつか前置きを。

 まず、いわゆる語学とかお勉強ということではありません。念のため。かりにそのつもりがあったとしても学力的にムリだし、いまさら勉強という気持ちなんてね。
 岩波のジュニア新書というのがあって、別のコーナーにそれを一覧にしてるけど、これを見るとけっこう英語に関するジュニア向けの読み物が入ってる。
 せっかくだからこれでも読んでみようか、というのが最初の動機なり、です。

 で、ぱらぱらとめくってみるとこれがジュニア向けかと思いましたね。たぶんわたしに基礎がないからそう感じるのだろうと思う。
 ふつうの人にはジュニア向けの気軽な読み物なんだろう。
 ということで、タイトルを、〈もがき苦しむちょ〜初級者〉にしたわけね。気軽な読み物がわたしには気軽に読めないのね。この先も気軽に読めそうになるという見込みも薄い。
 こういうことは、英語のできる人とか英語を教えたりしてる人からみると、そもそも向き合い方が間違ってるということになるんだろうとたぶん思う。
 もっと肩の力を抜いて楽しんでやろうよ、ということかもしれない。わたしが英語と不幸な出会いをしてるという単純なことだ。

 だが、そうだろうけど、これはちょっと違うとも思うんですね。
 現在、小学校でも英語をやっている。年少のみうちの者も学校で英語をやってるようである。時代が完全にかわった。
 たしかに、小学校段階で英語をやったけど、その結果、英語が嫌いになったというのでは親として困る。楽しく力をつけてくれればそれに越したことはない。
 だが、これは本人の問題ではまったくなく教える者や環境の問題ではある。
 それともう一つ、こっちのほうが大きいと思うけど、楽しいとか楽しくないというのとは違う問題もあると思う。そういう問題ではない。どうせやるのなら楽しいほうがいい、というのはわたしもそうだと思うけれども、それとは別の問題もある、ということだ。
 その辺のとこを思ったりして本を読んだりして感想文でも書いてみようか、というわけ。

 それにしても、繰り返しになるけど、基礎学力がないからトンチンカンなことだらけになると思うし失笑も買うと思う。そういう意味では恥さらしのコーナーでもあります。噴飯物のコーナー。どーぞ、大いに笑ってやってください。他のコーナーだってそうなんだけど、ね。日本語だって、基礎学力なんてこのわたしにあるわけないじゃん。
 でも、しょせん暇つぶしだよ。

2006年12月5日  


*下の感想文で出た読み物とか字引とかで、手元にあるものを書いときます。ここでもやっぱり、ブックオフが強〜い味方、です。(笑)なお、ヴァージョンは最新のものとは限りません。あくまでも手持ちのものの版、です。また、とくに版を書いてないのは初版、です。

〈読みもの〉
『英語の辞書を使いこなそう』(岩波ジュニア新書・319)
『英語の感覚』上下(岩波新書・新赤278)
『英和辞典うらおもて』(岩波新書・黄180)
『英語辞典を使いこなす』(講談社学術文庫)
「But Rather of Their Folly」(「群像」2007年1月号)
『英語で読む万葉集』(岩波新書・新赤920)
『英語とわたし』(岩波新書・新赤702)
『新々英文解釈研究』(研究社)
『精選英文法・語法問題演習』(重版・旺文社)
『徹底例解 ロイヤル英文法』(改訂新版・旺文社)
『英文法解説』(改訂三版・金子書房)
『例解 現代英文法事典』(大修館書店)
『英作文参考書の誤りを正す』(7版・大修館書店)
『チャート式シリーズ 基礎と演習 英作文』(初版・数研出版)
『高校総合英語 Forest』(2版・桐原書店)
『現代英文法講義』(開拓社)
『これでいいのか大学入試英語』上下(大修館書店)
『これが正しい!英語学習法』(ちくまプリマー新書)
『The Universe of English』(東京大学出版会)
『詳説 レクシスプラネットボード』(旺文社)


〈辞書〉
『初級クラウン英和辞典』(第9版・三省堂)
『岩波英和大辞典』(岩波書店)
The Pocket Oxford DictionaryPOD. 5th ed. 7th ed.)
The Concise Oxford DictionaryCOD. 5th ed.)
『ロングマン英和辞典』(桐原書店)
『ライトハウス英和辞典』(第4版・研究社)
『新グローバル英和辞典』(三省堂)
『アプローチ英和辞典』(第2版・研究社)
『ジーニアス英和辞典』(第3版・大修館書店)
『新英和活用大辞典』(第2版・研究社)
『スーパー・アンカー英和辞典』(第2版・学研)
『スーパー・アンカー和英辞典』(学研)
『ニューヴィクトリーアンカー英和辞典』(第2版・学研)
『リーダーズ英和辞典』(第2版・研究社)
『ウイズダム英和辞典』(三省堂)
『研究社新英和大辞典』(第5版・研究社)
『旺文社レクシス英和辞典』(旺文社)
『プログレッシブ英和中辞典』(第4版・小学館)
『ランダムハウス英和大辞典』(第2版・小学館)



『英語の辞書を使いこなそう』(岩波ジュニア新書・319)

 浜野実、というひとの書いた本。
 まず、これから読んでみました。なぜこの本からなのか、とくに理由はありません。たまたま、と思ってもらっていいです。

 けっこう楽しめたとこもあるんでそれを書いときます。
 その前にまず著者の浜野という人だけど、この本を書いた時点で高校の英語の先生をやってて、4冊の英和辞典と1冊の和英辞典の編集にかかわったことがあるという人である。
 現役として教壇に立ってて辞書も作ったことがある先生、これは生徒が恵まれてるよね。ジュニア新書の中にはこういう立場の人の書いた本がほかにもある。

 わたしのことを振り返ってもあんまり意味がないが、わたしは中学と高校を外国人教師がけっこういた学校で過ごした。そういう環境はいまから考えれば外国語なんか勉強するのに恵まれておったのかもしれないが、わたしは英語に関して平凡(あるいはそれ以下)な生徒にしか過ぎなかった。これは謙遜ではない。一度でいいからいやみったらしい謙遜というのをやってみたい。
 で、外国人がおればいい、というものではもちろんないが、こういう環境を生かして英語の力をつけた同級生などわたしが知らないだけでいたのかもしれない。
 が、最近よくネイティブなんて言い方をよく聞くけど、外国語を日本人(あるいは同国人)から教わったほうのよさ、ということも同時にあるよーな気もする。

 この辺のところは感覚の問題なんでなかなかうまく言えないけど、わたしは英語の授業では平凡な成績しか取れなかったけれども、そしてしかし、それでいいと思っていたわけでもなく人並みにいい成績が取れればいいくらいには願っておったにもかかわらずというわけだが、そういうこととはまったく別に、外国語の世界というものは結局は絶対に入っていくことのできない世界なのではないか、という思いがずっとつきまとっておったのです。
 これは、わたしにとってそうだとかそうではないという問題ではない。
 理解を絶したまったく違う世界なんだという気持ち、それは学習なんかによっては近づいてなどいくことのできない世界であって、だから英語のできる者というのは大きな勘違いをしてるだけなんだ、そういう思いがずっとあって正直に言えば実は今も少しあるのである。

 たとえば、大津栄一郎という人の『英語の感覚』上下(岩波新書・赤278)という本があるがその「まえがき」を読んでいたらちょっと似たようなことが書いてあるんじゃないかと感じたわけ。
 大学の英語教師である大津は50歳を超えてアメリカに留学したが、1年たっても英語が上達しなかったという経験を述べている。(もちろん上達しなかったといっても学力の基準が違うんだろうけれども)
 これは、留学が遅かったとか個人の能力とかいうのとはまったく別の問題ではないかと思った、と大津は言っている。
 留学先のアメリカで英語ができるとか英語がうまいとかいうことになっている日本人に出会ったが、大津にはできるともうまいとも思えなかったのである。
 日本語と英語のあいだには何か決定的な言ってみれば世界観の違いのようなものが横たわっている、そう大津は考えざるをえなくなった。
 わたしごときの感覚と大津の言っていることを重ねることはばかばかしいくらい僭越至極なことではあるが(大津はプロの翻訳家でもある。たとえばナボコフの『賜物』(The Gift)とか訳してるけど、さすがにこれはブックオフでは見かけない)、でも分かるよーな気がするよね、とわたしは思ったものだ。この気持ちにまずこだわりたいわけだね。

 閑話休題。
 さて、この本は「英語辞書を使いこなそう」という題になってるけど、これはあくまでもジュニア向けの呼びかけなのである。中学や高校といった学校でいま英語を学習してる人たち(とくに中学生)に向けて書かれた本なのである。だから、もっと言えば学習英和辞典というものについて書かれた本なのである。
 たぶんわたしが中学や高校のころこういう本はなかったと思う、というよーなうらやましい本である。

 目の前に1冊の新しい辞書がある。せっかく買った辞書である。これを最大限に活用するにはどうしたらいいか、とか、いやそもそもどういう辞書を買ったらいいか、とか、読み物としての辞書のおもしろさというのもあるよ、とか、そういうことが書かれている本である。
 年少のころこういうことを教えてもらっていたらなあ、というのが率直な気持ちである。わたしがきちんと聞いていなかっただけ?

 わたしが中学や高校のころどんな英語の辞書を持っていただろうか。クラウンとかいうのではなかったか、その程度の記憶しかない。違っているかもしれないね。
 そしてその学習用の辞書をよく開いたかといえばそんなこともなかったと思う。
 大きな辞書を買う金もなかったし、選ぶほど種類も多くはなかったのではないか。ま、こういう生意気なことは頑張って勉強した者のいうことかもしれない。
 入学のとき買って、その後あんまり開きもしない学習用の英語の小さな辞書が転がっていた、そんな光景がわたしにはぴったりくる。

 この本には「辞書は一冊ではなく複数持っていたいものです」と書かれている。
 その通りだ、と思う。この人の言うことは間違ってないとも思う。げんにこの本はこのことの正しさを証明するために書かれた本だと言っていい。この本を読むといろんな辞書を持ってないといけないという追い込まれたような気持ちになる者も多いだろう。
 新学期ひとりの中学生が書店の辞書コーナーの前に立つ。だが、一冊の辞書を買えるか買えないかの金だけを握っている。そういう光景がわたしの過去と重なる。
 結局、教師の薦めた、あるいは同級生の多くが持ってる平凡な辞書を買って包んでもらうのである。

 さらにこの本には、辞書は「なまもので賞味期限がある」から「愛用している辞書に改訂版が出たらすぐに買い換えること」ともアドバイスしてくれている。
 その通りだろう。まったく間違ってないのだ。
 辞書を用途に応じて複数もつこと、そして、それぞれの賞味期限に注意してヴァージョンアップされたらすぐに買い換えること、これが学習用英和辞典を使う者のあるべき姿なのである。
 著者はそう言いたいのだ。
 持っていたのは、たいして使われることもない小さな安い辞書で、卒業までそれは変わらなかった、というわたしの経験を語ろうとしたがやめておく。

 この本のはじめにはこう書いてある。「本書を読むときに、必ずみなさんに実行していただきたいことがあります。英和辞典を一冊準備して、実際に本書に書かれている内容についてそのつど確認していってほしいのです」とあって、この本がまず英和辞典をすでに持っている読者を対象にしている、ということが分かる。
 そこでわたしは、著者の助言に逆らうことなく、手元にある『初級クラウン英和辞典』(第9版・三省堂)というのを準備したのである。
 なぜ『初級クラウン英和辞典』なのか。これもたいして意味はない。ただ、小さな薄い辞書である。携帯用のポケット辞書に近い。小学校の卒業に際して記念にもらう、そういうふうな辞書である。つまり中学の1年生がはじめて英語を勉強するために使う辞書である。わたしの学力にはこれがふざわしい、と思う。
 しかし、ほんとうに伝統のある辞書のようなのだ。初版が1959年。これだって、実は昭和十年(1935年)に出た辞書の更生版なのである。
 で、この小さな辞書のはしがきに次のようなことが書かれてある。「辞書は飾り物ではありません。いつも机の上に置いておきましょう。置いておく時には真ん中あたりを開いたままにしておくのがこつなのです。そうすれば手を伸ばして気軽に引いてみる気持ちになるでしょう」とあって、「置いておく時には真ん中あたりを開いたままにしておくのがこつ」にはうなった。
2006年12月8日  


 この『英語辞書を使いこなそう』という本で俎上にのせられておる英語の辞書は、すべて学習用のものであって辞書一般について書かれているわけではない。中高生向けだからね。
 わたし個人で言えば、このほうがありがたい。英語関係の辞書一般についてとくに関心もないし、関心を持ったとしても内容についていけないだろう。日本語がまったくできない外国人に日本人が普通に使ってる国語辞典を渡しても日本語の学習には何の役にも立たないのと同じことである。

 『英語辞書を使いこなそう』で言及されてる日本人のための学習用辞書について、すこし具体的に言えば、紹介されているのは、英和辞典が20種類、和英辞典が2種類、英英辞典が4種類である。
 実は、このほかに2種類の英英辞典も取り上げられておるのだが、これはいわゆるネイティブ用のもので外国人の英語入門学習者のためのものではない。名前だけは誰でも知っているあの OED とウェブスターの辞書がそれである。
 ま、特に OED など、わたしはどんな辞書かさえも知らないが、聞くところによると、中高生にはまったく必要のない辞書であるだけでなくたぶん多くの普通の大学生にとっても不要な辞書であろうと思う。
 全十数巻という大部なので持ってるというだけで注目(?)されるというレベルの辞書なのだろう。
 だが、これだって、CD-ROM化されてるというのが現代である。
 わたしのそばに今とりあえずあるのは中学生のための学習用辞書『初級クラウン英和辞典』だ。

 忍足欣四郎というひとの『英和辞典うらおもて』(岩波新書・黄180)という本があるが、これは英和辞典編集者の立場から述べた辞典紹介の本である。
 忍足は岩波の英和辞典の編集に関わったひとだそうである。
 けれども、読んでない人のために言っておくと、日本で出ている英和辞典への書名をあげての言及はほとんどないから、これを読んでも辞書選びの参考にはならない。「英和辞典の選び方」という章が立てられているのに、である。
 何か具体的に「これがいい。これはダメだ」と言えない事情でもあるのだろうか。ま、常識的には岩波の辞書の編集者という立場だから、他社の辞書をほめるわけにはいかないだろうけど。
 そういえば先の『英語辞書を使いこなそう』の著者も結局、これを買え、これは買っちゃダメ、とは一言も言っていない。逆に、これもいい、あれもいい、なのである。

 忍足の本には日本の英和辞典への言及は少ないが、外国の辞書には手厳しい。のびのびと具体例をいくつもあげてはっきりと杜撰という評価を下されてるアメリカの辞書もある。
 実は日本の辞書も取り上げられておるが書名は書かれてない。
 忍足が英国留学に出かける際に定評のあるまた自分も評価している英和辞典を携行したところ、使ってるうちに「百に近い誤りを発見した」というエピソードを披露している。探す気になれば数百になるだろう、とも言っている。
 わたしが驚いたのは、忍足が「私に言わせれば、これは実はかなり少ない数なのだ」と言ってることである。
 われわれはそういうものを学習用に買わされている、ということは知っておいてもいいだろう。

 ただ、忍足という人は例の斯界の最高権威である OED にも遺漏を見つけているよーな人であることも知っておいたほうがいいだろう。OED に誤りなど「いくらでもある」と言い切っている。「古い語句の遺漏も無数にあろう」とまで言っている。
 持ってるだけでも尊敬(?)されるというよーな辞書はそんなに多くはないと思う。 OED とはそういう辞書らしい。その OED も完全ではない。
 だが、考えてみれば、持ってるだけでは辞書をつくる者は浮かばれない。引いてもらって読んでもらってこそ辞書だ。OED に誤りを見つけ出すほど読んでもらえれば、編集者冥利に尽きるということではないか。平凡な感想だけどそう思った次第なり、です。

 その忍足が学生の辞書選びの相談に対しては次のように言うということだ。「英語学・英文学の専門家になるつもりなら、無理をしてでもOED を求めなさい」
 わたしのそばにとりあえずあるのは中学生のための学習用辞書『初級クラウン英和辞典』だ。
 あ、これ、前にも言ったよね。ブックオフでお安くお買い求めになれます。
2006年12月10日  


 それにしても、同じ英和辞典について語っていても、忍足の『英和辞典うらおもて』とジュニア新書の『英語辞書を使いこなそう』のトーンがかなり違うことに気づく。
 この違いはなんだろう。

 『英和辞典うらおもて』は本のタイトルには「英和辞典」とあるけれども、結局、「OED がいちばん」と言ってる本である。このことはあんがい重要だと思うよね。
 OED はもちろん英和辞典ではない。いや、学習用の英英辞典でさえもない。
 母語が日本語であるものにとって、OED に行く前に英和辞典を使う時期が必要なのだ、ということである。この時期に長い短いの個人差はあるだろうけど。
 ともかく、英和辞典とは、ほんとはOED だけを利用して英文が読めればいいんだけれど、それまでのツナギのようなもの、というかんがえがあるのではないか。
 英和辞典は、だから英語学習者にとっては必要悪みたいなもんだというかんがえ。

 わたしが中学や高校のころ、ふつうの生徒にとっては、英和辞典はたぶん字引にすぎなかった。ましてや、ユーザー・フレンドリーなどとはほど遠いものだった、のだと思う。
 学校の英語での辞書の役割というものは長いあいだそういう扱いを受けてきたのではないか。
 なぜそんなことを思うのかというと、『英語辞書を使いこなそう』に書かれているような学習者のためのさまざまな工夫や、新機軸を打ち出してくる新しい辞書についての話を読んでると、辞書は進化している、と感じさせるからである。
 日本語を母語とする英語学習者のための英和辞典はuser-friendlyを合言葉に進化し続けているのであるということを無知なわたしは知ったのである。
 ただ、ここがおもしろいとこだけど、いまのような時代に生まれてきたかった、とは思わないのだね。
 OED の権威にひれ伏しているような英語学習や教育のあり方というのはいかがなものか、と思うものだ。

 忍足が編集にかかわっていた辞書に『岩波英和大辞典』(初版・1970年)というのがある。
 この辞書の「はしがき」に次のように書かれている。「1960年代は英語辞書史上注目すべき10年間であると思う」とあって、注目の中身は、イギリスやアメリカで出たオックスフォードやウェブスターの辞書であると言っている。
 Oxford系で取り上げられているのは、たとえばThe Pocket Oxford Dictionary(5th)やThe Concise Oxford Dictionary(5th)で、この『岩波英和大辞典』はその成果を摂取したものであるからして「わが国の英和辞典のうちで、もっとも新しい内容をもつものであると自負している」と続けられている。
 それはたぶん言われているとおりであろう。そしてたぶん立派な辞書なのだ。
 だが、いきなりPODCOD なのである。言わずと知れた名著中の名著、である。
 実はわたしはこのPODCOD を持っているのだが(それも、どっちも5thときている)、ま、『初級クラウン英和辞典』程度の辞書を使っているものがこういうのを使いこなすのはムリなのですね。必要ないのに持ってるだけ。ホコリをかぶっております。
 成果を摂取したとはいったいどういうことを言っているのだろう。PODCOD が外国人のための学習用辞書でないことはだれでも知っている。

 さきに「1960年代は英語辞書史上注目すべき10年間であると思う」と書かれているといって引用したが、じつはわが国の英和辞典史上、より注目すべきは1980年代なのである。ということを、たとえば笠島準一という人の『英語辞典を使いこなす』(講談社学術文庫)という本を読んで知ったのである。
 笠島に言わせれば1983〜4年に「学習辞典戦争」なるものが勃発したのである。83年に登場した三省堂の「グローバル英和辞典」と研究社の「アプローチ英和辞典」、84年の同じく研究社の「ライトハウス英和辞典」がそれで、受験をめざす高校生の市場が戦場になったのである。名前だけは知ってる者が多いだろう。(これらはその後それぞれに「進化」しております)
 たとえばさいきん出たばっかりの『ロングマン英和辞典』(桐原書店)という辞書の「まえがき」で柴田元幸という人が「過去30年、日本で作られる英和辞典の質が飛躍的に向上した」と書いているのもこういった歴史を背景にしての言葉であろう。
 30年前と言えば、70年代の半ばである。この辺から英和辞典が変わりはじめたらしい。辞書と何とかはやはり新しいほうがいい、か。
2006年12月11日  


 『英語辞典を使いこなす』を読んだというところで、もうちょっと内容を紹介しとこうというのが順序だろうけど、その前に、外国語の世界というものは結局は絶対に入っていけない世界なのではないか、という思いがずっとつきまとっておった、みたいなこと先に書いたわけで、このことについて補足めいたことを。

 出たばっかりのある雑誌に大江健三郎という人が「But Rather of Their Folly」(「群像」2007年1月号)なる文章を書いているのを読んだ。副題に、「大江健三郎賞」創設記念フランクフルト講演、とある。
 文章のタイトルは、T・S・エリオットから。
 この中で、大江は、たとえば村上春樹の名前をあげて、現代ほど日本文学が世界のさまざまな言葉に翻訳されて読まれているような時代はなかった、と言っている。
 また、あるいはこれとは別に「日本語と外国語との、かつてなかった性質の交流が実現している」としてリービ英雄について言及している。そして、リービの小説は「現代の日本人と日本語について、私らに新しい発見をさせる力を持っています」と続けている。
 実は、大江のこの講演の趣旨は、だからこれからの日本の先行きは明るい、とは言えない、反対にそうであるにもかかわらずという悲観的な方向に展開されていくのであることは言っておかなくてはならない。
 だがここではそういう文脈を離れて、ちょっとだけ。

 大江が名前を出しているリービ英雄という人が『英語でよむ万葉集』(岩波新書・新赤920)という本を書いている。
 これは、日本語で小説を書く前にアメリカ人であるリービが万葉集との出会いを書いたものである。「万葉集にたどりついたとき、「古い日本語」というよりも、「とても新しい文学」に出会ったという不思議な感じがした」とリービは言っている。読みすすめていくうちに「もしかしたら世界にも例をみない、詩歌の集大成なのではないか」そんな思いがリービにわいてきた。そして「「古典」としての日本語よりも、むしろ可能性としての日本語に、目覚めた」としめくくっている。
 わたしは、これを読んだとき、はたして現代の日本人が自国の古典に対してこのように語りうるであろうか、と思ったものだ。
 英語を母語としている者の目に映った日本の古代の古典は「最高の日本語の文学表現」だった。「翻訳は、発見と、再発見の連続だった」。
 外国語の世界というものは結局は絶対に入っていけない世界なのではないか、という思いがずっとつきまとっておった、なんてこと言ってても仕方ないよね、とそういうかんがえをちょっとばかし撤回しなければいけないかなとふと思うのだね。

 「家聞かな 名告らさね」は、 I wont to ask your home./ Tell me your name!

 リービは「「名告らさね」という命令が、人間のアイデンティティの問いとして、英語の中でも、根元的なことばとして響く」といい、そして「自らのアイデンティティを語る声のその主語は、英語では見たことのない「」として、大和から遠く離れた言語の中でもう一つの生命を得る」と言っている。
2006年12月12日  


 例によってむちゃくちゃ大雑把な言い方になるけれども、さいきんの政府によるもろもろの教育改革というやつだが、さかのぼっていくと80年代半ばの中曽根臨教審に行き着く、というのが通説のようで。
 ここは天下国家を論じる場ではないので、はなしを英語の辞書のことに移せば、その80年代に先に言ったような新しい学習用英和辞典が次々と登場したという事実は単なる偶然の符合とは言えないかも知れぬ、なんて思うわけ。
 ともかく、学習用英和辞典に限って言えば、80年代以前と以後という分類が有効なのである。
 ずばり言えば、英語の辞書の変遷は、英語教育の変遷に対応したものでもあるということである。
 ということを、笠島の『英語辞書を使いこなす』という本を読んで知った。むろんこの本には中曽根臨教審などということばは出てはこないけれど。

 まず、先の英和辞書戦争についてこの本にそって補足しておくことから始めよう。
 83年から84年にかけて、意味の体系化を競った「グローバル」「アプローチ」「ライトハウス」の登場があって画期になった、ということは前に言ったとおり。
 ところが88年になって、時代を画する新しい高校生向けの辞書が登場する。『ジーニアス英和辞典』(大修館)である。それまでの意味記述の方向にではなくて語法重視の学習用辞書の出現だった。
 この方向は現在までずっと大きな流れとして受け継がれていくわけで、その意味で「ジーニアス」の影響力は絶大だった。
 基本的な語ほど詳しい語法の説明がなされ受験生は目からウロコが激しく剥げ落ちる経験をした。
 「ジーニアス」以後の学習用英和辞典は、この英語表現は、ぶしつけな言い方か丁寧な言い方か、とか、フォーマルかインフォーマルか、とか、文章向きか会話向きか、とか詳しいコメントが付けられることになった。
 その辺のさいきんの英和辞典を開いてみればだれでもすぐに気づくことだけど、とにかくスピーチ・レベルの表現のあつかいの大きさには驚く。
 かつてのように、古典的な文学作品や書き言葉からの用例引用だけというのでは学習用では不十分な時代になった。
 このような学習用英語辞書の様変わりの背景には何があるか。

 応用言語学、という学問があるということをこの本で知りました。
 で、応用言語学とは外国語教授法のこと、である。辞書学なる分野もこの中に入る。ほかに、バイリンガルの研究、談話分析、会話分析などもある。そういう学問である。
 その中で特筆すべきは、コーパス言語学の飛躍的な発展。コーパスという膨大な言語資料をコンピュータでかんたんに利用できることになったのである。
 たとえば「ジーニアス英和大辞典」などは、話しことば1000万語、書きことば1000万語のコーパスを利用して作られた辞書である。言語資料は、新聞、雑誌、テレビ番組、百科事典などから構築されたもの。注目すべきは話しことばが書きことばとまったく同等のあつかいを受けていることなんだね。
 たとえば must と have to とのちがい、というような初歩的な素朴な疑問にさえ従来の辞書はきちんと答えきれておっただろうか、というような視点をコーパスはもたらす。
 それぞれの、会話とアカデミックな文章での精密な使用頻度がコンピュータによってたちどころに出てくる。さらにまた、会話では主に have to を使う、という程度のことは従来の辞書にも載っておったが、では会話のなかの少数の must にはどういう意味傾向があるのか、そんな新たな発見にコーパスは導いてくれる。
 いずれにしても、目的は、場に応じた自然な英語の学習、である。
 たいしたもんだね。IT革命のおかげ、です。

 以上のコーパス言語学の飛躍的な発展と、もう一つ、外国語教授法の変化が重要な背景としてあげられるのである。
 われわれが生徒のころは、子供心にも映画で聞く音とはえらく違う発音やなあと感じながら日本人英語教師の逐語訳的文法超重視的英文解釈の授業を受けておった。解読のための武器としての文法と辞書。
 今となってはこれもなつかしい。げんきんなものだ。それというのも、コミュニケーションか何か知らないが、ヘラヘラ顔で(たぶん)たわいもない内容を英語でやり取りしてる光景を見ていると、薄暗い教室のぼそぼそ声の英文読解の授業になぜかひかれてしまうのだ。好きだったわけでもないのにね。

 現代の外国語教授法はそんな時代遅れのものとは違う、と書かれているが、じっさいに授業を受けていないわたくしにはどんなものか分からない。
 そうではあるが、本のいうところの外国語教授法理論の流れを見ておこう。こういうものはなんとなく分かればいいものである。
 結論から先に言うと、次の4つの時期に分けられる。
 文法翻訳法 オーディオリンガル法 コグニティブ・アプローチ コミュニカティブ・ランゲージ・ティーチング の4つである。
 学生生徒ではないわたしは、どうせ英語の授業など二度と受けることなどないのだから、はあそうですかい、でいいのだけれども、学習辞書の変遷ともっとも重要な関連があるということなのでやはりざっと見ておく。
2006年12月14日  


 ではまず、(庫)殘法(Grammar-Translation Method)なる教授法から。
 これって、かつてのわが国の英語教育の悪名高き代名詞としてもっとも槍玉に挙げられるお馴染みの方法なり、である。文法と辞書のふたつだけを武器にしてひたすら英文をがしがし読んでいくというやつ。その目的は大学受験。
 だからといってわたしが英文をがしがし読めた、ということではむろんない。そういう教授法が行われておった、というあくまでも一般的なはなしである。
 94年に大江健三郎がノーベル賞をとって記念スピーチをやったが、これを多くの日本人がテレビで見たことと思う。このスピーチはあとで本にもなった。大江の小説を読んでおればその英文読解力を疑うものなどいないだろうが、発音はやっぱりね、と感じた日本人が多かったのではないか。そういう世代だったのだ。そしてそれが能力の問題ではないこともみんな知っている。
 いわゆる受験英語ってやつですね。たとえば『英語とわたし』(岩波新書・新赤702)という本などを読むと、受験エリートであったおじさん(だけではないが)たちが、話す英語や聞く英語との涙ぐましい格闘ぶりについていろいろと書いている。
 だが、これらはどれもちょっと高級すぎる話題ではある。わたしのばあいは受験英語でさえなかったのだから。

 瑣末といえば瑣末な文法的な知識をマニアックなまでに覚えこんでいるような受験オタクは当時どこの学校にも存在していたと思う。わたしはこれはこれで大したものだったと今では思う。
 そして、こういうことは英語の世界に限らずどこの言葉でも起こりうることだ。
 ところが、こういう知識が英語を聞いたり(たしか昔はヒアリングなんて言ってたけど今はリスニングなんて言ってるもよう。ヒヤリングというと聴覚検査を連想するからだろうか)、あるいは話したりする局面でまったく役に立たないなんて貶めるようなことを言う人がいるけれども、目的が違うんだから的外れな非難であるとも言える。
 使える英語とか使えない英語と言い方だってそうである。

 前にあげた大津栄一郎という人の『英語の感覚』という本など読んでるとそんな単純な話でもないようだ。
 英語の I ははたして「わたし」か、というような問題設定をされると、母国語であればたわいもない単なる暇つぶしとしか思えないようなことをやり取りするのを英会話と称してるようだが、しかしその英会話などの背後には何かとんでもない問題が横たわっているような気がしてくる。ただ、こういう話になると受験英語も役立たないということなのかもしれないが。

 いずれにしても、英文和訳とか和文英訳という言い方は受験の世界においてすらすでに死語になっているのかも知れない。
 本棚の奥に山崎貞という人の『新々英文解釈研究』(研究社)という受験参考書がまだ捨てられずに残っていた。これは構文学習の参考書で文法書ではないが、こういうものが昔の受験参考書だったということだろう。
 何も覚えていないが、いま開いてみると悪くない、と思う。もっと真面目にやっとけばよかったとも思う。

 ▲ーディオリンガル法(Audiolingual Method)というのはそんな文法翻訳法への反省からうまれた教授法である。当然のことながら音声指導が重視。だが残念ながらわたしはこういう教育を受けたことがないから教室の中で行われていることについては想像するしかない。具体的には文型練習を繰り返し、たとえば前置詞が無意識に言えるようにまでする。ここで肝心なのは前置詞なんて文法用語を使って説明したりしないこと。要するに文型のいくつかのパターンを音声で頭に叩き込むのである。赤ん坊だって同じじゃないか、というわけである。赤ん坊あつかいされてうれしくなった中学生がそんなにいたとは思えないが。
 だが、これなんか、言葉の勉強というのはこういう面もあるよな、という気がする。

 ところが、このオーディオリンガル法は、次のコグニティブ・アプローチ(Cognitive Approach)なる方法の提唱者によってきびしく非難される。
 現実の場では、暗記した文型だけでは対応できないのは自明の理である。臨機応変さが要求されるわけだが、大切なのは原理をおさえた臨機応変さである。という観点から、文法教育も大事、ということになった。
 なんのことはない、昔にもどっただけじゃん、ではなく、音声プラス文法、である。

 音声プラス文法などと聞くと、それができれば十分じゃないかとわたしなどは思うのであるが、現在は、ぅ灰潺絅縫ティブ・ランゲージ・ティーチング(Communicative Language Teaching)なる教授法の時代だそうである。
 要するに言語の学習の最終目的はコミュニケーションである、という考え方である。コミュニケーションというものは具体的な場面や状況においての言葉の使用(use)によって行われるわけだから、文法的な用法(usage)とか文型パターンの暗記だけではたとえば談話(discourse)などというものには対応できない、というわけである。できないよりできたほうがいいとは思う。
 それで、表現のフォーマルとインフォーマルの区別が大切ということだし、場に応じて決まり文句を使いこなせる力なども重要であるから養成しなければいかん、という次第。

 こうたどってきての感想だけど、もちろん実際には教授法の変遷はこう単純なものではあるまいと思う。ほかにもまったく違った教授法があるだろうし、また細かいヴァリエーションもあるだろう。
 だが、そんなことは大した問題でもなければ本質的な問題でもないような気がする。
 談話ができる者が文法や語法に詳しい者であって少しもかまわないだろう。いや、こんなこともどうでもいいことだ。
 コミュニケーションというものはその目的も含めて何か、ということである。同じ本からの引用ばかりで芸がないが『英語の感覚』(岩波新書)のなかで大津は「われわれはふたつの母国語を持つことはできない」と言っている。
 そして、有名なこんなことを言った著名なドイツの文学者がいる。(だから、元はドイツ語なんだろう)

   He who knows not a foreign language, knows nothing of his own. 

2006年12月20日  


 教授法の変遷をざっと見てきたが、さて、学習用辞書についてだけど、辞書もこの変化に応じる形で変化(進化?)していくというわけである。
 現在の英語教育の目的はコミュニケーション力をつけることにある、ということはよーく分かりました。じゃあ、このコミュニケーション力って何、ということになるわけだけど、笠島の『英語辞書を使いこなす』によると、4つの能力から成り立っておるそうである。
 (庫’塾蓮↓談話能力、社会言語能力、な略能力、がそれ。これらの詳しい説明は本を読んでいただくとしてここでは説明を省きますが、ただ、読んでないひとにもたぶんすぐ分かるのは、従来の瑣末な文法や文型、発音指導の時代ではなくなっているようだということだね。ややバランスよく言っておけば、文法なんかどうでもいいというのではなく(だって、文法がどうでもいいなんていう言葉の学習などありえるだろうか)、コミュニケーションに必要な文法の力をつけよう、ということである。
 辞書サイドで言えば、こういう能力を身につけてもらうためのいろんな工夫をしないと売れないということなのである。
 だが結局、よく聞いてるとだね、なにごとも程度もん、というよーなとこに落ち着いちゃうわけね。

 ともかく時代は変わったのだ。
 なんでこんなことになったんだろう。日本から一歩も外に出たことがないのにマニアックな英文法の知識をたくわえてるというよーな受験エリートが、海外体験豊かな日常会話ぺらぺらだけの者を劣等感の裏返し的な心情でバカにする、というようなことがもしかしたらあったのだろうか。
 互いに相手が、グロテスクにあるいは幼児に見えるという極東アジア日本の学校英語の現場、というよーな時期があったのだろうか。
 見渡せば、いまや海外体験豊かな日常会話ぺらぺら組がまったく珍しくもなんともない時代になっておる。英文法オタクや受験英語エリートは明らかに少数派のよーでもある。
 こういう多勢に無勢という現状がコミュニケーション至上主義の背景にあるのだろうか。
 わたしには、正直なところ、英語教育の現状や未来などまったく興味や関心がない。この年になれば、そんなことはもうどうでもいいことである。しかし、コミュニケーションというものがどういうものか、については興味関心を抱こうが抱くまいが人間である限り問題となってくるものだとふつうに思う。これは学校教育だけの問題ではもちろんない。

 辞書にもどすと言いつつまたまたそれてしまった。
 笠島は『英語辞書を使いこなす』の中で、自分が米国の大学留学に際して持参した3冊の辞書について語っている。1冊目は高校時代から使っていたポケット英和辞典、2冊目は『新英和活用大辞典』、3冊目は学習用の辞書である『アンカー英和辞典』(学研)がそれ。
 で、あちらで博士号を取得するための論文作成のときに使った辞書はどれかというと、アンカーであったという。語彙数の比較からすれば3冊の中でもっとも少ない辞書である。語彙数のもっとも多いポケットなどほとんど使わなかったという。そういうものらしいんだよね。
 英語学習が進むにつれ笠島は「意外な発見」をする。それは、学習が深まるほど、語彙数のすくない辞書をもっぱら使うようになる、ということである。
 特に英文を書くときは、難しい言葉は必要でない。それよりも、基本的な重要語について詳しく説明がされており、使える用例が豊富なものこそが有用というわけだ。
 そういう辞書は何かというと、高校生用の英和辞典なのである。
 で、そのときから現在まで、アンカーは無事に進化を続けてきたようである。
 わたしの手元には、『スーパー・アンカー英和辞典』『スーパー・アンカー和英辞典』というのがあるが、アンカー→ニュー・アンカー→スーパー・アンカー、とあいなったのである。
 英和の箱の帯には「英語のこころがわかる辞典」なんて書いてある。和英のほうには「使える和英No.1!」。どちらにもCDが付いているが、いまどきの学習用英語辞書にCD付きは常識であるらしい。ちなみにわたくしは電子辞書というものを持っておりません。辞書は本のほうがホンモノで電子版は邪道である、という考えからではなくカネがないから。(笑)
 で、このアンカー一族に『ニューヴィクトリーアンカー英和辞典』というのがある。これなど、より学習用に徹している。「試験に勝つ英和辞典」がうたい文句、である。これ1冊が「辞書+参考書+問題集」を兼ねているのである。実際、関連の大学入試問題がかなり掲載されておる。スーパーのほうにはない。こういうのは昔はなかったと思うし、ここまで学習用に徹底しているものは現在でもめずらしいと思う。
 今ぱっと開くと、たとえば見出しに there という語がありました。ふつうに意味の説明などがあるのだけど、入試問題がついているのがおもしろい。次のどれが正しいか、というのである。

   There is ( no having told   no telling   not telling   not to tell ) what will happen to us tomorrow.

 てな調子。ちなみにこれセンター試験に出題された(調べたら、98年追試、でした)とある。ま、暇つぶしに「使える辞書」ではあるね。受験なんてひとごとだからこんなふうに言えるんだろうけど。

2006年12月26日  


 で、上の問題だけど、これを読んだ知人に一笑に付されちまいました。
 ということで、以下は中学生くらいの英語をやってる人だけ読んでね。高校以上の人にはバカバカしい内容のようだから。
 あ、その前に、新年あけましておめでとうさん、です。ことしもヨロシク。

 一昨日の夜だったか、NHKのテレビやラジオの語学番組の担当者が集まって新春放談みたいなのやってるのを見た。メンバーは中韓英米仏独伊西、くらいだったか。みんな日本語が達者なのには驚いたね。
 こういう語学番組のときに決まって出る発言というのが、ブロークンでもいい勇気を出してほしい、という言い草。あるいは、気持ちが伝わることが大切、とか。
 そう言えばむかし、ワンパクでもいいたくましく育ってほしい、というソーセージのCMがあったね。ワンカップでもいいたくましく飲んでほしい、というのもあった、か。なかったね。
 ブロークンで且つ伝えたい気持ちも特にない人は黙ってりゃいいってことだろうか。
 ブロークンでいいってのもややおかしい。いいわけなかろうもん。という気持ちが駅前留学に向かわせる。であれば、ブロークンでもいいから、っていうアドバイスは、ブロークンではよくはないっていう体験をさせるためのワナだね。
 とかなんとか思ってるうちに眠たくなって途中で寝た。

 で、くだんの問題だけど、答えはもちろん、 no telling なんだけど、これはどんな辞書にも載ってる慣用表現ではある。のみならず、入試でもよく出るということで受験参考書や文法書なんかにも必ず載っておる慣用の定番のひとつである。
 と言った手前、証拠をひとつくらいとりあえず挙げておくと、たとえば手元の、自前のデータを駆使した「頻度順」が自慢の『精選英文法・語法問題演習』(重版・旺文社)というのを開くと、たしかにごく最初のほうに取り上げられております。
 ちなみにその問題集の例文は、センターの to us tomorrow が、in the future となっているだけ。出題した大学名もちゃんとあげられておる。
 で、その問題解説だけど、「There is ...構文だから not ではなく no がくる」とハッキリ書いてある。There is ときたばあい、まず not を除いて二択に絞りこもうという戦略なわけ。
 あ、そうなんだ、と感心したわたし、でした。では、次の問題に行こう、っていうのが時間のない受験生なんだろうけどわたしは受験生でもないしヒマまでもあるということで。

 そもそもこの話題の発端である『ニューヴィクトリーアンカー英和辞典』を、も一度見ると、「文法」っていうコーナーがあって、「There is(are)」の語法についての説明がある。
 そこにはこう書いてある。「否定文は there+be動詞+not ...となる」と。
 そうなんだ。けど、問題集の先の解説の「There is ...構文だから not ではなく no がくる」なる断言と辞書の「否定文は…」という説明との関係はどうなるんだろうね、という疑問がおこったわけ。辞書ではあきらかに、「There is(are) not」っていう言い方はアリなんだよ、って言ってる。これじゃあ二択に絞れない。
 ということで、メンドウだけどいいこと書いてあるかもしれないほかの辞書を。まず『初級クラウン英和辞典』ではどうかというと、これも「否定文は there is not」とあるわけね。例文まであげてあって、

   There is not a cloud in the sky.

 ところが、not のとこを同じくやはり『初級クラウン英和辞典』でたまたま見たら、上の同じ例文がそこにも載っておってそのあとに、

   There is no clouds in the sky.  よりも強い言い方、と説明してある。

 となるとますます、先の学習参考書の「There is ...構文だから not ではなく no がくる」という解説はいかがなものか、ということになる。
 それよりも、これでは、ニュアンスの違いは多少あるが文法的にはどっちだっていい、ということなってしまう。がしかし、There is no doing 〜(〜することは不可能)が慣用表現であることを否定してほかの言い方も可能と言ってる辞書や文法書など存在しない、というのも事実なんだよね。
 だからそれが慣用表現ってことなんだよ、ということになるのだろうか。でも、そもそも「There is 構文」ってなんなんだ。これで押していけりゃ慣用表現なんてわざわざことわる必要なんかないじゃん、なんて思ったりする新年の夜でした。

2007年1月4日  


 ちょっとだらだら書いちゃったようだけど、だらだらついでに。(だらだら、と言ったのは、慣用句なんだから覚えちゃえよ、っていうのも一理あると思うから。一理も二理もあるかもしれない)

 そうだ、文法書を開いてみよう、というわけで、まず受験生の定番(と思われる)『徹底例解 ロイヤル英文法』(旺文社)なる本。
 だが、「動名詞を用いた慣用構文」というお決まりのコーナーに、There is no (do)ing 〜 が載ってるだけ。
 そこで、「否定」の章に移動してみる。すると、「否定に no を用いるのがふつうである〈There is …〉構文」とある。これに「not を用いると、no よりも強い否定を表す」とある。
 じゃ、There is  not  (do)ing 〜 は可能なのか。で、例文は、

  There was  not a signboard.

 でもこれって慣用表現じゃたぶんないよね。というより not  (do)ing 〜 じゃない。だから、動名詞を使った慣用表現じゃなければ、当然、There was  not みたいな言い方は可能なわけだろう。
 だが、この本ではここまでである。

 いずれにしても、「動名詞を用いた慣用構文」なんだということなら、not to tell はとりあえず論外ということになる。
 だが、no か not ということだけでいえば、これはまた別の話になるのか。要するにそういうことだと思う。

 ついでということで、やはりこれも受験生必携というウワサの江川泰一郎という人の『英文法解説』(金子書房)なる本。ここでも「動名詞を含む慣用表現」のひとつにあげられているが、There is の項にも載せられている。
 でついでに、no の項に飛ぶと…

  There were no mistakes 〜
   =There were not any mistakes 〜

 ということは、no=not any ということで、not も可能ということになって(もちろん any とセットでのうえだけど)、振り出しに戻りかねないが、しかし、ここはやはり「動名詞を含む慣用表現」で踏ん張らなければならないのだろうね。

 学習用の文法書ではたぶん、慣用表現だから覚えおこう、ということでいいのだと思えて、no having told という選択肢にしても、ここでは時制は関係ない、というふうにかんがえ、文法的なリクツに入り込まないほうがいいのだろう。

 で、ここまで書いたところで、『例解 現代英文法事典』(大修館)なる本を開いたところ、一発で解決してしまった。
 結論から言えば、There is no (do)ing 〜 構文の 「 no を他の否定辞で置き換えることはできない」とハッキリ書かれておる。この構文の「…することはできない(ありえない)」という「話し手の判断を表わす」意味は、no でないと可能にならない、というわけである。

 辞書もいくつか開いてみたけれど、There is no (do)ing 〜 構文を載せていないものはさすがにないけれども、否定辞はこの場合に限って no でなければダメ、と言っているものはなかったように思う。これはこれで面白かったけどね。
 そもそも、There is 構文の否定文が辞書にほとんど載っていない。というか、まったく載ってないというのがほとんどだったと思う。このことも何かを意味してるのかもしれないが今のところよく分からないんだね。
 ま、これで一件落着なのかどうかも分からぬが、もちろん慣用表現にも文法は貫かれておるだろうから、ほんとはもっとすっきりと説明が可能であることは予想できるし、わたしの理解も当然まだまだ浅いと感じられるのだけれども、ま、初級者だからね。

2007年1月10日  


 唐突だけど、promise っていうことばがありますよね。テレビのCMでもおなじみ、です。
 これの動詞のほうについてのこと、名詞のほうじゃなくて。

 で、なんで promise なのかってことだけど、たまたま手元の『英作文参考書の誤りを正す』(大修館書店)という本をぱらぱらと読んでたわけね。
 この本は、大学入試用の英語の参考書や問題集、全部で30冊をとりあげてそのミスを指摘するというわたしのような傍観者には面白いけど当事者にはたまんないだろうなあ、という本なわけです。
 ミスというのはミスプリントのミスではなくて、おもに入試問題の解答のミスであるから解答ではなくて誤答になる。
 読んでるとちょっと憂鬱になってきました。ただ救い(?)は、俎上にのせられてる参考書がおおむね昭和50年代の古いものばかりだということ。現在、大学入試用の英作文の参考書がどうなってるのかまったく分かんないけど、相当に改善されてるってことは予想できる。

 で、取り上げられた30冊のなかにわたしが持ってるものが1冊だけあったわけ。あんまり名前出したくないけど、『チャート式シリーズ 基礎と演習 英作文』(数研出版)という本がそれ。「誤りを正す」では「チャート式 基礎演習英作文」となってるけど同じ本であることには間違いない。昭和52年初版の参考書だから途中で名前を変えたのかもしれない。ちなみにわたしが持ってるのは第26刷で平成14年発行のもの。受験生でもないのになぜこんなもの持ってるかというと、ブックオフにあったから。(笑)

 「誤りを正す」は1982年(昭和57年)に出て、わたしが持ってるのは1993年(平成5年)の7版である。
 わたしが言いたいのは、「誤りを正す」で誤りを正されたほうは、指摘から10年以上もたっているのだから、自分の本の誤りをもちろん正しておるだろうねということなんですね。
 結論さきに言っちゃうと、はたしてそうなってるかどうか微妙なんです。チャート式のは現在まで改版されていないようで、その上、今も現役で出回ってるであろうということであれば「誤りを正す」の指摘との関係はどうなんだろう、と別に心配なんかはしないけど気にはなりますよね。

 で、例をあげてということで、promise なわけなんです。
 〈私が彼に会う約束をした日は今日です〉というのが課題文である和文。で、チャートの答えは、

  The day when I promised to meet is today.

 これに対して、「誤りを正す」は、「 meet の次に him が必要。多分ミスプリントであろう」というコメント。これって多分皮肉?
 で、これを(受けた?)チャートは、「meet の次に him」ではなく、次のように(訂正?)した。

  The day when I promised him to meet is today.

 これははたして正したことになるのかどうかという問題だけど、ふつうにかんがえれば、「誤りを正す」の指摘は半分正しい、とチャートが受け止め「誤りを正す」の指摘の誤りの部分を正して訂正した、ということになるだろう。

 これで一件落着なのかどうかの判断はわたしにはつかないのだけれども、

  The day when I promised him to meet is today.

が正しくて、

  The day when I promised to meet him is today.

はまちがい、というのは正しいのかまちがいなのか、どうもすっきりしないわけね。
 そもそも、和文の〈私が彼に会う約束をした日は今日です〉の意味だけど、まずふつうは〈私が彼に(彼と)会う約束をした日は今日です〉ととるのだろうけど、〈私が彼に会う約束を(あなた=聞き手に)した日は今日です〉ともとれなくはない。こういうばあいはいちいち「あなたに」は言わないからね。だが、前者であれば、

  The day when I promised him to meet him is today.

とでもしなくてはいけないのだろうか。分かんないだよね、初級者には。
 さらに、〈私が彼に(いつどこでかは今は未定だけど、とにかく)会う約束をした日は今日です〉ととれなくもない。私(女性)は彼に会いたくないという事情が背景にあったりしてね。これは余計なこと、か。だが、これだと英文はどうなるのであろうか。ほかにもいろいろとり方があるかもしれんね。
 などともたついてる初級者の今日このごろ、ということで。

2007年1月14日  


 ジュニア新書の英語の本をぼちぼち読んでいこう、ということだったのにどうもおかしな方に行きかけてると感じとります。ただし、では、おかしな方ではなく正しい方はどうか、といってもこれも不確かなり、ではありますが。
 で、知人とのメールのやりとりのなかで、no と not と、みたいな話題がちょっとあったということで。

 で、たいてい no=not any であるって辞書には書いてあります。これで終わり、でもいいんだろうけどね。
 さきのメールで話題になったは、no more than と not more than の違い、というたぶん受験英語の定番のひとつであろうフレーズについてだったんだね。
 これなんか、no と not のあやみたいなんかが少しくらい垣間見れるんじゃないかって。

 で、世の中の英語教育ってのがどうなってるのかを知るのに受験参考書みたいなのはそれなりに重宝すると思われるのね。おそらく明治時代から受験参考書なるものは存在していたに違いないけれどこういうハウツーものは学校に合格したらゴミ扱いされてきただろうから使われたわりには意外と残ってないんじゃないか。
 わたしはこの参考書つかって合格しました(あるいは、使ったけど不合格になりました)、なんて話したがらないのかもしれない。逆に、だから?って感じで、話題にさえもならないのかもしれない。
 ならば、風俗資料としてでも意識的に残さないと雲散霧消してしまうのか。

 閑話休題。まず『高校総合英語 Forest』(桐原書店)という参考書を開いてみる。ブックオフなんかでもよく見かける本で、ただ、ちょ〜初級者としてのわたしにはまだまだカンタンでいいと思われる。どうせカタログなんだからね。
 この中に、くだんの no more than と not more than の違いが当然のことながら出てる。
 だから、no more than=only で not more than=at most であるからして、これもついでに覚えておいて書き換え問題に備えよう、っていうことになる。
   〈 only 〉であるからして、「たった〜でしかない」みたいな意味になるのだし、〈 at most 〉となれば、「せいぜい〜しかない」ということになる。ま、そんなことが書いてある。

 上に書いたことは、そもそも「否定語と比較級が組み合わされて、意外な意味をもつ表現になる場合がある」というコーナーの慣用表現として取り上げられているものである。ほかにもいろいろと比較にかんする慣用表現があって受験生は大変であろうなと思わせる。
 それはそれとして、 no と not による意味の違いの説明として、no は no more として more の no であるが、 not は言わば文全体を否定しておる、ここであらためて言うのも気恥ずかしいくらいなことだけど、とにかくおおよそそういう説明がされておるわけね。 no more HIROSHIMA 

 別のもついでにみておこうというので、前にも書いた江川という人の『英文法解説』なる本を開くと、 no more than は「主観的な気持ち(驚き・失望)を含めた表現」で、これに対して not more than は「数量に関する客観的な表現」と区別しながらも、「ただし両者の区別をあまり誇張するのも考えものである」と結論しているのが面白いよね。
 ついでながらこの『英文法解説』なる本の説明は概して面白い、と思う。この江川という人がどんな人か知らないが、解説に余裕を感じさせるとこから見るとかなりの学力をもった人じゃないかとちょ〜初級者でも思うのね。
 けど、面白いでは終わらないと思われるのは、さっきの『高校総合英語 Forest』だけど、こっちもけっこう説明を加えてるけど、「 no more than は「主観的な気持ち(驚き・失望)を含めた表現」」という考え方とか、また「ただし両者の区別をあまり誇張するのも考えものである」とまでは踏み込みきれてないと感じる。
 この主観的・客観的という区別は、手元のほかの、たとえば安藤貞雄という人の『現代英文法講義』(開拓社)という本も開いたが載ってなかった。
 ただ、この本では、英語では比較を表わすのに、原級に er とか est を付けるやり方と、原級の前に more とか most を添えるやり方があるけれど、前者が昔からの英語本来の比較表現で、後者は13世紀にフランス語の比較表現の影響で新しくできたかたちだそうで、ま、こういう知識は専門家には当たり前のことなんだろうけど、学習用の啓蒙書にも書いてくれてるのはうれしいよね。(ちなみにこの安藤という人は、ラッセルなどの翻訳を岩波文庫からだしたりしてるから知ってる人もいると思う)

 ついでだから、比較に関することをちょっとだけ。
 『これでいいのか大学入試英語』上下(大修館書店)なるある意味で痛快な本があるが、このなかに、

   A whale is no more a fish than a horse is.

なる入試に出題された英文を取り上げて、「日本中の学生がみんな習う必要があるのだろうか。これは普通よくわからない和訳(鯨は馬同様に魚ではない)と一緒に教えられる」というコメントが付けられている。
 さらに、「(実はこの英文は)「背理法・帰謬法」になっている。和文では表わしそこねているものになっているのである」と続けられておるのだけれども、わたしにはこの説明がよく分からなかった。
 英文が背理法になっていることと、「日本中の学生がみんな習う必要があるのだろうか」とがどう関係があるのか。

 江川の『英文法解説』に再び登場してもらえば、「クジラの公式」として取り上げられていて、こちらには「日本中の学生がみんな習う必要があるのだろうか」みたいなことは書かれていない。
 ただ、説明に次のようにある。「直訳は「クジラは馬が魚である以上に魚ではない」となる。ところが馬が魚でないことは常識的に自明であるから、当然クジラも魚ではないという意味になる」
 このような説明で教えてもらえるのなら「日本中の学生がみんな習う必要があるのだろうか」とはわたしは思わないね。

2007年1月21日  



『これが正しい!英語学習法』(ちくまプリマー新書)

 さすがにこのジュニア新書にも飽きてきたよね、というときに我ら金欠人の頼もしき味方ブックオフでたまたま見つけたのが斎藤兆史という人のコレ。
 あいかわらずこの手のタイトルに非常に弱い体質であることを再確認させられたにすぎないわけだけど、しかし、買うだけで正しい学習法がたちまち身につくよーな気がなぜかするのだし、成績不振は正しくない学習法のためであって能力が原因ではない、とゆうよーなウレシイことがきっと書いてあるのだと都合よしの予感でわくわくさせられるつかの間が至福の時、で、開いてみるとしごくまっとうなことしか書かれてなかった。まっとうな学習法を述べた本だからとても地味、である。

 まえがきでは、「論語」から「行くに径に由らず」という文句を引用して大道を歩め、と言っている、というよーな本である。大事なのは「日々の地道な学習」なのだ、と。わたしにとってはなんとなくイヤな言葉である。
 地道な学習は何のためにするのかと言えば「堅固な基礎力」を身につけるためである、と。もっともです、というほかない。
 ただ、以上は英語だけじゃなくどんな勉強にもあてはまることのように思える。英語の勉強にとって大道とはでは何なの。

 英語学習における、大道ではない小径とはどのよーなものだと筆者は言っておるのか。  ということだけど、まず、どこかで言われているらしい「英語は、楽しみながら自然に身につけるもの」という言い方のウソを指摘する。わけを聞くまでもなく、そんなことはありえないというのは分かるよーな気がする。
 また、中高で6年間授業を受けても英語が使えるよーにならない、などともよくいわれておるよーだが、6年間で不自由なく使える英語が身につくという前提がそもそもおかしいのだという筆者の主張も分からないでもない。
 さらに、「受験英語」批判もおなじみのものであるが、そもそも受験に役立つけれども実地には役立たないという英語というものを想像するのは難しくて、要するに受験英語なんて存在しないのだ、と筆者はいう。

 むろん疑問はないわけではないのだけれど、率直に言って、世間の俗説が正しいのかそれに対する筆者の批判が正しいのか、私にとってはどうでもいいことであります。学生でもなく英語教師でもないわたしにとってはどうしたって切実な問題ではなり得ない。英語に受験がつこうがつくまいが、そんなことがなぜ問題になるのかも分からん。また、商売をするうえで英語が必要なわけでもないからそういう意味でも死活問題にはならない。
 で、手元にある英語について書かれたやさしめの本の中で、なぜか面白い、と感じたことをただ綴ってみよう、この一点でかろうじて英語とつながっている私にとっては、興味がなくなったら付き合う義理などないからやめるだけなのである。

 折角だから中身をのぞいてみよう。はじめに、英語学習に「絶対に必要なもの」があるとして、次のものを具体的にあげておる。勉強の前にまず道具をそろえよう、と言っておるのだ。
 最初の英和中辞典だけど、これはある。ただし電子辞書でないもの、という注意があるが、わたしは電子辞書を持ってないので選択の余地はない。
 次に、ノート数冊。これもあるし、もしなければ100均へGOだ。いい時代になった。
 三つ目は、高校レベルの英文法の参考書。これもある。定評があるのかどうか知らないが以前ブックオフで買ったものがある。もしなければブックオフでいつでも買える。**十年前に学校で買わされ、使っていた(?)古い文法書も捨てるのを忘れておったのがある。
 次は読解教材、とある。なぜかこれもいくらかあるけれども自分の力に合ってるかどうか不明、というのが心配といえば心配。試験があるわけではないのだからそういう点では安心だけど。
 最後に、音声教材と再生装置。音声教材(CD)もブックオフでいつでも買えるし、なぜかこれもいくつか持ってるんだよね。まともに聞いたことなどないからきれいなもんです。自分専用ではないけれど再生装置もあり、である。

 ということで、筆者斎藤言うところの「絶対に必要なもの」をこれからそろえる必要は絶対ないということがわかったわけだが、こうして見ていくと「絶対に必要なもの」というのは誰にでもふつうに手に入るもののことだと言っていい。
 続けて、「できればあった方がいいもの」として、まず英和大事典。最新版ではないがこれもいちおう持ってる。次に、中型の英英辞典。これもある。あとは音読教材と英語字幕の出るビデオなど。これもあると言えばある。ま、これらの「できればあった方がいいもの」ってのは当然のことながらホコリをかぶっている。
 そして、これらのものを「すり切れるまで繰り返し繰り返し使うのです」と斎藤。

 で、話題を変える。
 続きが出てるから少し古くなるが、『The Universe of English』(東京大学出版会)という東京大学の1年生の学生さん用の教科書があって、どういうわけか一般にもよく売れたそうである。まえがきにこの本は「英語の授業の大改造を行った」結果の所産だそうである。新入生のための教養英語の面白なさへの対応ということだそうで、新入生にとって面白いものがそうでない者には面白くない、ということはありそうにないから一般にも売れたのであろうと推測できる。「実をいえばこの本は「教科書」として使われる必然性はない」と編者はいい、「ふつうの読者」に「気の向くままに読んで」ほしい、と言っている。そう思うのは自由だけどほんとにそうかは読者が決めるのだろう。だが、私はまぎれもない「ちょー初級者」であるからして、決める立場にある読者とは言えぬ。だからほんとは不要な本なのであろう。

 それでも、無謀にもと言ったほうが適切であるが、この本を開いてみたのである。
 これの最初に出てくる授業用の英文は、カナダの建築学者なる人物の綴ったものとのことで、題は「What a Painting Can Tell Us」。17世紀初頭のオランダ画家の作品の鑑賞文である。画家 de Witte という人の little masterpiece である Interior with a Woman Playing the Virginals という題の絵。筆者はこの絵に描かれていることを叙述していくのだけれども、始まってすぐのとこに、次のような文句が出てくる。

    a series of rooms opening off each other 

 互いに通じ合った一続きの部屋、というくらいの意味だろうとは分かるが、つまったのは opening off という語句を辞書で調べたときのことである。
 絵からして、open off がどういう状態を言っておるのか推測はできるが、いちおうぴったりした訳語が欲しいと思うのは人情である。
 ありふれた open という動詞であるからこれに off というこれもありふれた語がついてるのだからどうってことないだろうと思ってまずそばにあった「ジーニアス」(3版)を引いてみたところ、さすがに載っておった。戸・部屋などが(…に)通じている、面している、という意味では、open(on,onto,into,to)であり、open off は、戸・部屋などが(…から)通じている、とある。そこで訳のほうであるが、互いに通じ合った一続きの部屋、というより、互いに行き来できるようになっている一続きの部屋、くらいのほうがよかろうと思った。
 これで別にどうということはないのだけれども、open off が「ジーニアス」にあったからといってどの辞書にも載っておるわけではない、ということがだんだん分かったのである。『リーダーズ英和辞典』(第2版・研究社)や『ウイズダム英和辞典』(三省堂)、『研究社新英和大辞典』(第5版・研究社)などにも載っておらず、けっこう載っておらんのだなあと思いつつあれこれ見ておったところ『旺文社レクシス英和辞典』(旺文社)というのを開いたところ、 open off という項目がわざわざたててあって、(部屋・場所が)…に通じている、…から直接入れる、と訳されていた。もちろん、open  into のほうも載っておって(こちらが載ってない辞書はない)、(ドア・部屋などが)…に通じる、面している、と訳されている。項目が立てられておるのは、わたしの持ってるうちでは、このレクシスという辞書だけである。ちょっと分からなかったのは『プログレッシブ英和中辞典』』(第4版・小学館)という辞書で、(…に)通じている、という訳には、 into,to などが対応するというのはほかと変わらないが、列挙されておるこの中に off to というのが混じっている。この off to というのは私の持ってる辞書ではここだけで見たものである。残念ながら例文が載ってない。
 斎藤オススメの大辞典である『研究社新英和大辞典』に載っていないというのがよく分からない。最近の使用例なのであろうか、とにかく分からないのである。ただ、わたしの持ってるもうひとつの大辞典である『ランダムハウス英和大辞典』(第2版・小学館)というのを開いてみたところ、open の項は他とかわりばえがしなかったが、 off のとこに、(隣り合う部屋などに)通じて、という訳が出ていて、次のような例文があった。

    The room is off the dressing room.

 というようなわけで、今回は『旺文社レクシス英和辞典』という辞書が役立った。たぶんたまたまなのだろう。ついでの話だけど、この辞書に付属する意味合いで『詳説 レクシスプラネットボード』(旺文社)という辞書レクシスの中のコラムを詳説したものも出ていて、斎藤が推薦文を書いている。いわく「実に画期的な本である」と。

2008年2月11日  



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