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三度目の正直上醍醐    京都市伏見区醍醐醍醐山

 今回の旅は、これまでの二度の失敗を清算する、上醍醐参拝です。

 これまでに、二度、訪ねたことがありますが、いずれも、途中の水飲み場で、休憩した後、ダウンしたのです。

 このジンクスを打ち破るため、秋の一日をかけ、しかも、前泊して、挑戦しました^_^;

■ワンポイントアドバイス:途中の水飲み場から、勾配がきつくなりますので、とにかく、ペースを守って歩きましょう。

■満足度:☆☆☆
 ここが問題の、9丁付近の水飲み場です。

 2回とも、ここまでは、普通に上って来たのですが、一休みして、歩き始めると、急に、息が切れ始め、5分歩けば、5分休憩という状態でした。

 1回目の時は、まだ、タバコを吸っていたので、そのせいだろうと思いましたが、2回目の時は、禁煙して、2年近くたっていたのです。

 今回は、そのあたりも考慮して、とにかく、ゆっくり、ペースを守って登ってきました。
 今となっては、よくわかるのですが、ここから、急に、勾配がきつくなって、歩みが遅くなります。

 その後、途中で、2度ばかり、休憩を取りましたが、それでも、無事、醍醐寺の鎮守神である、→この清滝宮拝殿に到着です。

 拝殿は、崖の斜面を削り取った場所にあり、清滝宮本殿は、拝殿正面に向かって、右側斜面上に建てられています。

 寛治2年(1088年)の創建で、応永17年(1410年)に焼失し、永享6年(1434年)に再建されたそうで、国宝に指定されています。
 広場の右手には、醍醐の地名の由来となった、醍醐水が、今も、湧き出ています。

 醍醐寺を開いた、理源大師聖宝(しょうほう)が、醍醐山に登った時、ひとりの翁が現れて、この湧き水を飲み、「嗚呼(ああ)醍醐味(だいごみ)なる哉(かな)」と言い、姿を消したそうです。

 前回、前々回と比べて、周りの佇まいを観察する余裕があります。

 ここから、階段を上ったところに、上醍醐の中心である准胝堂がありました。
 貞観18年(876年)の創建と伝えられていますが、昭和14年(1939年)の山火事で焼失し、昭和43年(1968年)に、再建されました。

 しかし、平成20年(2008年)に、またもや、落雷により、焼失し、そのため、准胝堂で行われていた西国札所の納経は、火災後、一時、女人堂で行われ、現在、醍醐寺(下醍醐)の観音堂で行われています。

 →これは、上醍醐寺では最古の建物とされている薬師堂です。
 薬師堂の創立は、延喜7年(907年)と伝えられていますが、現存の建物は、保安2年(1121年)に再建されたもので、国宝に指定されています。

 ←こちらは、開山堂の近くにある上醍醐陵です。

 白河天皇の中宮だった藤原賢子、その娘で堀河天皇の中宮、賀茂の斎院になった令子内親王の三人の母子が眠っています。
 こちらは→、如意輪堂です。 

 貞観18年(876年)の創立といわれていますが、何回か、火災で焼失し、現存の如意輪堂は、慶長11年(1606年)に再建されたものです。

 五大堂の東南側、醍醐山頂にあって、国の重要文化財に指定されています。
  如意輪堂に隣接して、上醍醐寺最大の建造物である開山堂が建っています。。

 開山堂は、延喜年間、貞観18年(876年)の創立で、何回かの火災で焼失し、現存する開山堂は、如意輪堂と同じく、慶長11年(1606年)に再建されたものです。

 重要文化財で、開山堂の内陣中央には、重要文化財の木造理源大師像が、左に、弘法大師像、右には、醍醐寺一世座主観賢僧正像が、安置されています。
 開山堂の前から見た、大阪の町並みです。

 お天気がイイと、あべのハルカスが見えるそうですが、この日は、生憎、霞んでいました。
 ←この五大堂は、醍醐天皇の勅願により、敵国降伏祈願のために、延喜7年(907年)に創立され、その後、何回か、火災に遭いましたが、その度、再建されました。

 現在の堂は、昭和15年(1940年)に再建されたもので、五大堂前には、理源大師像があり、堂内には重要文化財にの木造五大明王像(不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が祀られていま。

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