[室生寺と長谷寺] [スライドショー] [ホーム] [旅の情報板] [篠山]

紀州街道の城下町岸和田   岸和田市本町   

 今回の旅は、だんじり祭りで有名な紀州街道の城下町岸和田です。

 突然、立ち寄りましたので、特に、目的は無く、とりあえず、五風荘で昼食を済ませ、まず、だんじり会館を見学した後、旧紀州街道のふるいまちなみを散策しました。

 もちろん、カメラを持っていませんので、携帯電話のカメラで撮った写真と、パンフレットをスキャンしたもので、このサイトを作り上げました^_^;

■ワンポイントアドバイス:食事がまだの場合、五風荘を利用すると、ゆったりと、五風荘庭園が見学できますし、駐車場の無料駐車券や、お城とだんじり会館の割引券もいただけます。
■満足度:☆☆☆
 貝塚からの帰りに、突然、立ち寄りましたので、まず、昼食をしようと探していますと、お城の近くで、チェーン店のお寿司屋の名前が目に付きましたので、入りました。

 後で調べてみますと、この五風荘は、寺田財閥の寺田利吉が、旧岸和田藩主の新御茶屋敷跡などに、昭和12年から14年にかけて、3年の歳月をかけて造営した大邸宅で、現在は、岸和田市の所有ですが、平成21年から、指定管理者制度を導入し、「がんこフードサービス株式会社」が管理運営を行っています。

 また、建物と庭園、そして、建築図面を含めて、市の指定文化財・名勝に指定されています。
 木造2階建ての母屋は、建物の延べ床面積は、約300坪あり、昭和戦前期、日本建築の職人技術の粋と、全室空調管理という当時の先端技術を集めた近代和風建築です。

 木材は、「木の節目」の一切ない贅沢な無節の木材のみで造られていて、本来の正門は北側にある南木門で、この門は、奈良東大寺塔頭中性院から移築されたものだそうです。

 当初、岸和田ゆかりの武士楠木正成の姓に因んで「南木荘」と呼ばれていましたが、寺田利吉の諡号が「五風院」であったことから、「五風荘」に改められました。
 五風荘には利吉が客人をお茶でもてなす機能と、寺田家の居住機能とがあり、晴れの場所と日常の空間が建物内に表現されていす。

 庭園は、昭和4年から10年かけて造営した広状な回遊式日本庭園で、2400坪の敷地には、母屋と三つの茶室があります。

 織田信長ゆかりの十三重の石塔や、現在は、入手困難な巨大な鞍馬石、貴船石などの景石が配され、紡績業・金融業・レンガ製造・鉄道事業などで栄えた地方財閥の栄華を偲ぶことが出来ます。

 こちらは、庭園を見渡せる、利庵 残月席と利庵 八窓席です。
 この日は、たまたま、利庵 残月席に、江戸時代後期のお雛様が飾ってありました。
 建武元年(1334年)前後に、和田高家が現在の岸和田城跡から約500m東に岸和田古城を築城し、「岸の城」とも言われたそうで、『日本城郭大系』によると信濃泰義によって、現在地に移築されたとされています。

 現在の天守は3層ですが、正保年間に幕府へ提出された正保城絵図「泉州岸和田城図」では、5層の天守が描かれ、初層は、千鳥破風で、後に、唐破風が取り入れたように見受けられます。

 文政10年(1827年)11月20日、落雷によって消失し、その後、江戸幕府に復興願いを届出ていて、それには、3層の天守、2層の小天守とありましたが、結局は、再建されなかったようです。

 天保年間に描かれた「岸和田城図」には、隅櫓しか描かれていませんので、この時には、既に、天守はなかったものと思われています。
 天守台の大きさは南北、東西共に約18m、面積は336m2で、当時の岡山城と同規模の天守だったと推定されています。

 現在の天守の高さは約22mですが、当時の天守の高さは18間で、今の天守より約10mは高かったと思われています。

 昭和29年に、市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建されましたが、総工費は、当時の金額で3460万円で、設計士は、一級建築士池田谷久吉、施工は岩出建設株式会社、工事は、昭和29年1月6日起工、同年11月13日竣工で、平成4年に、大改修工事が行なわれました。
 その後、二の丸公園の観光交流センターで、いろんなパンフレット地図をいただいて、岸和田だんじり会館へ向かいました。

 大迫力の音響と最新映像の大型マルチ映像と、建築学的にも、貴重な展示物に、鳴り物、大工方体験などが体感でき、だんじり祭の全てが分かるように構成されています。

 特に、4階の体験コーナーでは、だんじりの大屋根に乗る体験や、だんじり囃子の鳴り物の体験ができ、「岸和田だんじり祭」を心ゆくまで、実感できます。(写真は、パンフレットからスキャンしました。)
 だんじり祭りの迫力を実感した後、旧紀州街道へ足を踏み入れますと、最初に目に付いたのは、この本町のだんじり小屋です。

 ネットで調べて見ますと、本町のだんじりは、豪奢な彫物と、上丹生(醒ヶ井)彫の芸術的な彫物で埋め尽くされているそうです。

 特に、大連子の「大江山」は、見事な作品で、纏は、岡部公より拝領したと伝えられる唐人笠兜(かさかぶと)だそうです。

 岡部家は、朝鮮通信使の接待役を数度務めていて、城下で最も栄えていた本町は、藩主の役目に、何らかの貢献があり、その恩賞として頂いたものと推測されています。
 だんじり小屋の側にあるのは、一里塚と一里塚弁才天です。

 一里塚は、慶長9年2月、江戸の日本橋を起点として、36町を1里と定め、1里ごとに一里塚を築造して、エノキ、松などを植えたもので、陸路を旅する人や、重荷を運ぶ牛馬のひづめを休めたところです。

 また、一里塚弁財天は、万治・寛文のころからまつられ、天保7年に、改造されています。

 万人の休憩所である一里塚が、岸和田城内曲輪の内にあることが珍しそうで、二の丸の真下、総曲輪に、あるのは、恐らくここだけだそうです。
 昔ながらの民家や商屋が並ぶ紀州街道に、平成9年に、開館した岸和田市まちづくりの館です。

 一里塚と一里塚弁才天の向かい側にあります。

 地元住民の集会施設や観光客の休憩所として活用されていますが、ここでは、観光物産の案内やお茶の無料サービスを受けることができますが、私たちも、トイレをお借りしました^_^;
 最後は、本町など、15台のだんじりが宮入りする岸城神社です。

 南北朝時代、京都の八坂神社を勧請し、「牛頭天王社」と呼んで、岸和田村の鎮守にしたのがはじまりです。

 羽柴秀吉が、紀州征伐の拠点として、急ごしらえで、再築城した岸和田城を、小出秀政が、本格的に、五重天守にしたとき、八幡大神を合祀し、代々の城主・住民に崇拝されました。

 その後、明治維新になって、「岸城神社」と改められました。
 昭和5年に、十日戎大祭を行って以来、参拝者が増加し、特に、9月の岸和田祭の宮入りの際には、大変な賑わいで、こなから坂をかけ上るだんじりの姿は圧巻です。

 最後まで、ご覧いただき、ありがとうございました。ご感想は、「旅の情報板」へ、どうぞ!

 楽しい旅のレポートは、こちらにも、あります。

[室生寺と長谷寺] [スライドショー] [ホーム] [旅の情報板] [篠山]
このサイトは、リンクフリーです。 Copyright(c)2002- (大工のげん)