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日詰郡山宿から盛岡宿まで 

盛岡城(国史跡)

盛岡城(国史跡) 写真

櫻山神社 

明治以後の盛岡城

盛岡河南地区

 小鷹刑場

舟運(しゅううん)

石割桜

厨川の柵

見前館

 

 

日詰郡山宿から盛岡宿まで

 

小鷹刑場跡の碑

 

 

 

明治橋際の御蔵(盛岡市保存建造物)

 

 

 

 

 

 日詰郡山宿を出た旅人は、丘の上の二日市一里塚を過ぎ、間野々一里塚から見前一里塚までの平坦地を南昌山を眺めながら歩く。この付近では天気の良い日は岩手山も見えてくるため、いよいよ盛岡が近づいて来た実感がわいてきた事だろう。見前まで来ると、建物も増えてくる。

 遊郭がある津志田を過ぎ、川久保一里塚から小鷹刑場があった仙北町を通り、北上川を渡ると盛岡城下にはいる。

 

 北上川の仙北町側は新山河原と呼ばれ、旅人で賑わっていたという。現在の明治橋の少し下流には新山舟橋が掛けられ人々はここを渡った。この舟橋、川に鎖を渡し、沢山浮かべた小舟の上に板を渡したもの。大雨で増水するときには舟をしまい、流されないようにしていた。木橋、土橋を掛けたこともあったが、大雨のたびに流されるため江戸時代を通して舟橋の期間が長かった。

 現在は四十四田ダムがあり水量がコントロールされているが、ダムが出来る前は今より水量は常に多かったという。

 舟橋を渡った先は、新山河岸(しんざんがし)があり、石巻に向けての舟運の起点となっていた。現在は御蔵が盛岡市下町資料館として残っており、週末に公開されている。

 

 盛岡城下に入ると、惣門跡を通る。ここには、木津屋本店の建物が残っており盛岡市保存建造物となっている。 穀町を通るころには盛岡城が見えてきたはずである。

 

 その後は、盛岡城手前の中津川に突き当たるあたりで右へ曲がり、茣蓙九(茣蓙九)を過ぎ、鍛冶町一里塚、上田組町を通り上田堤(高松の池)を過ぎ上田一里塚へと至る。

  

 

   

報恩寺 五百羅漢

 

 報恩寺山門。

 

 

 五百羅漢像。

 

 右上にマルコ・ポーロとされる像が。

 

 五百羅漢内。

 

 

 

 

  

■報恩寺五百羅漢

 

 

青森でキリストが亡くなったなど、トンデモ歴史は至る所にあるが、岩手にもマルコ・ポーロがやって来たという話がある。ジパングの記述は平泉中尊寺金色堂を見たためだとか、盛岡五百羅漢にはマルコ・ポーロ像がある、というのが根拠である。

 

また、報恩寺五百羅漢にはフビライ・ハンの像もある。

 

先祖に会いたくなったらここに来ると必ず似た羅漢像があるという。また、像を全て拝むと死んだ肉親が現れるとも。つまり信仰の場所なのだが、何故歴史上の有名人の像がここにあるのだろう。

 

 

五百羅漢の「羅漢」は小乗仏教の修行者の極意で功徳の具わった学者の称号だ。人間としては最も仏に近い人々だが、その中にフビライやマルコが含まれている事も不思議だが、何故南部藩に存在するのだろう。 

 

報恩寺は昭和5年と35年に火災に遭い、保管されていた古文書は全て消失している。そのため五百羅漢に関する記録も殆ど残っていない。

 

享保十六(1731)年に造立作業が開始され、享保二十年に落慶供養を行っている。4年という短期で製作されたのだが製作者は9人の京の仏師で製作も京で行われた。完成した羅漢像をはるばる京から盛岡まで運搬したことになる。

このときの木枠なども台座などに再利用されている。

 

中国、天台山の五百羅漢が報恩寺のものの手本のようだが、天台山の五百羅漢にもフビライ、マルコとされるものがあるという。

   

盛岡城(国史跡)

 南部家は三戸城を拠点としていたが、豊臣秀吉の時代に領土が南方に拡大。相対的に三戸は領土の中で北に片寄ることになる。

   

 桜山神社にあった盛岡城の絵図。

上が南。

 

 

 

 本丸、二の丸間の空堀。今は赤欄

干だが往時は屋根付きの橋。

 

 

 菜園(西側)の石垣。

 

 

 盛岡城模型。

 

 

 そのため、盛岡藩初代南部信直は大坂城をモデルに盛岡城の築城に着手。1599年には居住を開始している。ただし、度重なる水害で工事は難航し、次の藩主利直の時代にも完成せず、三代目重直の時代(1633年)に完成している。

 

 

■古北上川

 

現在と違い、北上川は盛岡城の西側、現在の盛岡市大通り、菜園を流れていた(開運橋の北から東に曲がり、大通りを流れ、農林会館付近を南下して岩手女子高付近で中津川に合流)。

城の東側は中津川が接していて、要害の地としては優れていたが水害にも悩まされていた。洪水対策で北上川を現在の形に付け替えたのは盛岡藩四代藩主南部重信で、1675年完成した。

 

 

■盛岡城の縄張り

 

  盛岡城は分類上「平山城(ひらやまじろ)」に分類される。平山城は平野の中の小山や丘に築城した形式で、戦国時代末期から江戸時代にかけて造られた。軍事的要素のみを考えたものではなく政治的中心地としての官庁的使用の便も重視されている。

 

 

■天守閣

 

 また、江戸時代に入り平和が訪れると、天守閣も余り造られなくなる。幕府も天守閣の造営を規制したし、権力のシンボル的な意味合いも強かったため、権力の安定後は老朽化や火災などで破壊された後も再建されなくなっていく。

 盛岡城では、三層の天守が造られたが、幕府の手前、当初「三重櫓」と称した。「天守」と呼ぶようになったのは幕末になってからである。

 

 

■総石垣造り

 

 もうひとつの特徴は、大々的に花崗岩の石垣が使用されていることである。ふんだんに石材が産出する西日本では珍しくは無いが、東北ではほとんどの城が土塁で守られていた。

 

 本丸、二の丸、三の丸、本丸腰曲輪(淡路丸)がすべて石垣となっている。この大量の石材は敷地内から調達しており、烏帽子岩や不明門脇の巨石など、この地が石材供給地であった事を示している。

 

 石垣の多さで近代的な城といえるが、縄張り(平面計画)は戦国時代的な趣があり、本丸の面積が不足する事となる。そのため二の丸との間の空掘へ屋根付きの橋を渡し、本丸的な利用に供した。本丸御殿も幕末には三階建てとなり狭さを補う苦労が偲ばれる。

 

  

■内丸

 

 大手門の外側は内丸と呼ばれ、重臣の邸宅があった。現在の中央郵便局の付近に外堀が掘られていて、町人や旅人とは隔離されていた。ここは現在も官庁街で、裁判所敷地には「石割桜」があり、花のころには多くの観光客が立ち寄っている。

 ちなみに、盛岡城跡公園内にも桜が植えられており、盛岡市民の花見会場といえばこの場所である。

 

 内丸の外側にも土塁があり、このエリアは奥州道中を取り込んでいた。

 

 盛岡城は不来方(こずかた)城とも呼ばれ、破却後の明治期に「岩手公園」へと改称、平成18年に「盛岡城跡(じょうあと)公園」へと更に改称されている(岩手公園の名称も一応残されているようだが)。ちなみに、不来方とは盛岡の古名。

 

   

 

盛岡城(国史跡) 写真

  

もりおか歴史館。平成23年開館予定。

 

御台所屋敷跡付近の水堀。

 

御台所屋敷跡から本丸への上り坂。

 

本丸の天守台。説明板などはない。

 

二の丸から岩手山を望む。盛岡市には盛岡城から岩手山の眺望を確保するガイドライン(建物の高さ制限)がある。

 

 不明御門近くの巨石。

 

二の丸の車御門跡方向を望む。

 

 

■下曲輪(しもくるわ)

 

 

 実は下曲輪の資料は余り無い。

 

 奥州道中から大手先を通り、内堀の土橋上の綱門を入り枡形を過ぎると下曲輪である。

 

 綱御門は参勤交代の出立など特別の場合を除き閉じられていた。

そのため普段家中は中の橋の門から出入りしていた。

 

 周りは土塁で囲われており東側半分は勘定所、南側には待合室的な機能を持つ「大腰掛」が所在している。

 

 大腰掛を過ぎると石垣が現れ、鳩門から三の丸へ入る。

 

 現在、この地には桜山商店街が立地し、移転を含めた開発計画が発表されている。 

 その説明会によると勘定所の間取り図様のものはあるというが、立面が分かるような資料はないようである。

 

なお、中の橋門から奥州道中との分岐点までは人通りも多く、現在の岩手銀行中の橋支店前には高札場(掲示板)があったという。

 

 

盛岡城跡公園(岩手公園)。

 

御台所屋敷跡。奥の石垣は三の丸。

 

 本丸から二の丸へ渡る廊下橋。

 

 三の丸方向から二の丸(右側)を望む。

 

 

 

   

櫻山神社とそのかいわい

 烏帽子岩。

 

 櫻山神社。

 

 

 桜山神社。

 

桜山神社から桜山商店街および綱門(県庁)方向を望む。

 

 桜山商店街。ヒマラヤ杉の向こうは中央通りと岩手県庁。

 

白龍。

 

 

 

■桜山神社、成り立ち

 

櫻山神社は盛岡藩藩主を祀る神社で、「盛岡城万代の鎮守」である。

 

盛岡藩七代藩主南部利視が盛岡藩初代信直を偲び、淡路丸(腰曲輪;本丸の東)に勧請したのが始まり。この時は淡路丸大明神と呼ばれていた。

 

文化九(1812)年淡路丸に桜の木があることにちなみ、櫻山神社と改称している。

 

幕末、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に与した盛岡藩は敗戦に伴い盛岡城を明け渡す。

そのため、盛岡藩の鎮守たる櫻山神社も加賀野妙泉山寺に遷座する。

 

1899年 櫻山神社が現在地に移転。三の丸の一部と下曲輪が境内となる

 

昭和12(1937)年 盛岡城が史跡指定になる。境内には神楽殿(かぐらでん)が建ち、茶屋が2軒あったという。市の日は出店で賑わったというが、現在のように道路も貫通しておらず、ごく普通の境内だった。

 

 第二次世界大戦後になると、満州などからの引揚者が神社境内に有った飲食店や商店に集まる。所謂ヤミ市であるが、その規模は盛岡一だったという。

 

 手元にある本では神社の現在地への移転は第二次世界大戦後と記されているが、これは間違いだろう。

 

 なお、現在神社本殿、拝殿のある場所は御蔵があった。

 

昭和29(1954)年 「中の橋、大通り線」が整備される(東大通り)。この際市を二分する大論争となったが、桟橋形式にする事で史跡の「一部解除」で済んだと手元の資料にはある。

 この時、亀が池ほとりの三の丸を占有していた人々が5年の期間で東大通り向かいの桟橋に移転。この仮設店舗は昭和44年まで存在(現在は遊歩道)。

 

昭和31(1956)年5月14日 都市計画が決定され、公園緑地となる。ネットを見ると現在地目は「緑地」らしい。

 

昭和34(1960)年 区画整理に準ずる手法でほぼ現在の街割りとなる。このとき元々有った土塁が崩されているようだ。

 

それから50年。現在この地域の将来像に関わる騒動が勃発している。

 

なお、現在櫻山神社に祀られているのは

南部家始祖 光行

盛岡藩初代(26代) 信直

27代 利直

36代 利敬

 

 である。

 

 

■時鐘

 

盛岡市指定 有形文化財(工芸) 

盛岡市所有

1967年(昭和42年)6月24日

「 盛岡城下の時鐘は,江戸時代2か所にありました。1つは,城下外郭南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近),もう1つは,北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)です。現在,市指定有形文化財となっているのは,「日影門外時鐘(ひかげもんそとじしょう)」と称した三戸町の時鐘にあたります。

 

この時鐘は,4代盛岡藩主南部重信(なんぶしげのぶ)の子,行信(ゆきのぶ)の発願により1679年(延宝7年)11月に設置されました。

 

鐘銘は,聖寿禅寺大道和尚の作で,鋳物師小泉五郎八が鋳造したものと伝えられています。鐘の大きさは,竜頭まで2.03メートル(6尺7寸),惣廻り3.79メートル(1丈2尺5寸),指し渡し1.21メートル(4尺),輪□の厚さ0.15メートル(5寸),重重3.597キログラム(959貫100匁)あります。

 

明治維新後に,盛岡城跡の内堀,鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転されました。その後,1955年(昭和30年)頃まで盛岡の人々に時刻を知らせ,生活のしるべとして親しまれていました。現在は,6月10日の「時の記念日」と,元旦の除夜の鐘として年2回,関係者や市民の方々により鐘の音が復活しています。」ウェブもりおかより。

 

もうひとつ製作されたものの小さすぎ、盛岡で使われなかった鐘もある。これは、花巻城に移され現在も花巻市役所敷地内に所在する。

 

   

 

明治以後の盛岡城、岩手公園

時鐘。明治時代にこの地に移された。

 

 

 もりおか歴史館(旧岩手県立図書館)のヒマラヤ杉。これもいわく有り。

左右に枝が無いという事は殆ど日が当たっていなかったのだろう。密集しすぎてはいたのだろうが、殆ど切り倒すとは・・・。

 

 

■明治時代、破却

 

 盛岡藩は「最後の賊藩」とされ、藩主は白石に転封された。その後、領民の復帰嘆願により盛岡への復帰が認められたがその際莫大な賠償金の支払い義務が生じた。

 

 明治に入り建築物が破却され、敷地内に建物は残っていない。大手門跡は岩手県庁北の本町通り近くで、県庁の正面は綱御門。三の丸跡に現在ある桜山神社の鳥居があり、堀が一部残っている。この付近には古い飲食店が集積しているが、これは第二次世界大戦後のヤミ市に由来するという(デリケートな表現だがけなしているのではない)。つまり、歴史としてはかなり古い上に昭和30年位からの建物が今も残る。

 

 

 

明治5年1月15日には盛岡城は閉鎖。兵部省の管轄となる。

明治7年には陸軍省に移管、廃城となる。この段階で殆どの建物は解体されている。

 

明治23年には南部家に城跡は払い下げられたが、明治39年には南部家より岩手県に貸与、「岩手公園」として整備される(設計;長岡安平)。

 

平成18年に「盛岡城跡(じょうあと)公園」へと更に改称されている。

 

 

 

   

 

盛岡河南地区 呉服町・六日町

■呉服町・六日町

 

 呉服(ごふく)町、六日町(むいかちょう)

呉服町は初め新町や中町と呼ばれていたが、文化九(1812)年に改称された。現岩手銀行中ノ橋支店前には、藩の高札場「札(ふだ)の辻」があった。

 

 

 賢治、啄木青春館。現在の南大通みずほ銀行から茣蓙九〜ヤマセンビルが奥州道中の道筋。

 

 

 

 

呉服町には慶応四(1868)年の「南部家御用金被仰付人員」番付によれば、西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に渋谷善兵衛(味噌醤油・呉服)、近江

屋治郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商が軒を並べ、城下の上方商業の中心地を形成していた。

 

 近代に入り、明治・大正・昭和に呉服町かいわいに銀行が集中し、銀行街の様相を呈したのも、江戸時代の歴史に負うところが大きい。

 

 六日町は、呉服町と上衆(かみしゅう)小路の間で、毎月六・十六日が市日であったことに由来。ここには木津屋権治(醤油)、油屋孫六(油屋)等の店があった。

六日町には公儀役人や他藩の藩主・重役などを宿泊させる御仮屋(おかりや)が設けられ、「藩の迎賓館」のような役割を担ってい

た。

 

 城下盛岡町名由来記(改訂版) 盛岡市

 

   

 

盛岡河南地区 穀町・新穀町

 ■穀町・新穀町

 

 穀町(こくちょう)、新穀町(しんこくちょう)

惣門から入った町人町。江戸時代初期には石町(こくちょう)と表記されていたが文化九(1812)年現在の表記となり、町も二つに分かれている。

 

名称の由来は御蔵米払い下げの取引所があったため。新山河岸の蔵米の払い下げが12月9の付く日の3回行われたため初期には三日町とも呼ばれている。

 

新山舟橋。

 

 

 

 

 

惣門の枡形に御番所が置かれ出入りを調べた。紋は朝6時に開かれ夕方6時に閉じられた。

 

奥州道中盛岡南の玄関口という立地条件から付近には旅籠が多く立地していた。

 

また、穀町から大清水通りへの道は会所場横丁と呼ばれ刑事裁判を行う会所場が置かれた。牢屋もあり、処刑も行われていた。

 

 

 

 

 ■木津屋

 

 新穀町(今の南大通)惣門前に木津屋が店を構えていた。江戸時代の豪商で火災を避けるため屋根に卯建(うだつ)を上げ、天水桶を置き、壁も土蔵造りとした。不寝番を置いたり帳簿の保管に気を付ける等、備えを万全としていたため建物が現在にも残る。

 

 

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小鷹刑場

小鷹刑場跡の碑

 仙北町には小鷹刑場跡地があり、石碑が建っている。

 仙北町通りの西側に石碑があるが刑場は道路の東側にあった。往時はこの付近、民家も途切れ、追い剥ぎなども出没する物寂しい場所だった。

 

 ただし、一般の死罪は現在の南大通り、かつて穀町と呼んだ場所にあったた御会所で行われ、はりつけ、獄門(さらし首)の重罪に限ってこの場所で行われた。

 

 刑場で死罪になる犯罪人は市中引廻しの上処刑された。その後さらし首になるが、非人が不寝番をして見張っていたという。首を持っていく人がいたのだろうか。その後は処分するが、川に流してしまう事も多かった。そのため、この付近を流れる川は罪川と呼ばれていた。

 

   

 

舟運(しゅううん)

 

北上展勝地のひらた

 現在の明治橋の近くには新山河岸があり、盛岡の河川港として賑わったが、北上川もこの付近では大型船の運航が出来なかった。

 盛岡では7月末に北上川川下りが行われる。私も参加したことが有る。四十四ダムからゴムボートで下るのだが、明治橋付近ではさほど水深は無い。今より水量があったとしてもさほどではないだろう。

 

 実際、北上の黒沢尻までは百俵積みの小繰舟が運行し、黒沢尻から石巻までが三百五十俵積のひらた(舟へんに帯)で、北上川河口の石巻からは千石船で二度積み替えた後江戸まで米が運ばれた。

 

 北上展勝地には現在ひらた舟が復元されている。

   

 

石割桜

石割桜を裁判所側から望む。隣にはソメイヨシノ、ウメもあり、ほぼ同じ時期に開花する。

 

 

花のない写真だが、夏の石割桜。

 盛岡地方裁判所の構内にある石割桜は、巨大な花崗岩の岩の狭い割れ目に直径約1.35m、樹高10.6m 、枝張り17mで樹齢が360年を越えるといわれるエドヒガンザクラが生育している。

 この場所は南部藩分家北監物(きたけんもつ)の屋敷跡で、家臣の日記によると宝永五(1708)年7月6日に落雷で広間の柱が裂け、土台石も割れたという。この石の割れ目に後に種が落ちたか、誰かが植えたかで桜が生え、現在に至るという。土台石にしては大きすぎる気もするが、現在も年平均で1mmずつ岩を押し広げているそうだ。
  昭和七年には盛岡地方裁判所が火災になり、石割桜も北側の一部が焼けたが、 翌春には再び花を咲かせた。

 

 現在は保存会、ボランティアなどの保護管理も良く、毎年見事に開花を続けている。なお、 明治初期には桜雲石と呼ばれていたようだ。 1923(大正12)年、国の天然記念物に指定されている。

 現在もきれいな花を咲かせているが内部は腐朽が進んでおり、積雪などで折れることが心配されている。よく見てみると支柱で支えている。

 

 ちなみにさほど著名ではないが田野畑や北海道にも石割桜が存在するようだ。

 

 

   

 

厨川の柵

 

 天昌寺。

 厨川柵は、平安時代の奥六郡、現在の岩手県盛岡市の西にあった柵である。その範囲は現在の通称「館坂」以北、盛岡市天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られるが、天然要塞となった河川の痕跡が見られることから、現在の曹洞宗岩鷲山天昌寺を中心とする「天昌寺台地」がその中核であったと見られる。 「嫗戸柵」(盛岡市安倍館町)とともに一連の柵を形成したと考えられる。

 

安倍頼時が興し、その後次男安倍貞任が拠点とした。よって安倍貞任の別名を「厨川次郎」という。前九年の役において源義家らとの最終決戦場となり、安倍氏の勢力はここで絶たれた。[wikipedia]

 

盛岡市天昌寺町から館坂(北上川付近)までと範囲としては恐ろしく広い。城柵というよりは領地と言っても良い広さ。

 

以前から擬定地ではあったが、発掘により天昌寺がその中心とされている。

 

1007加筆

 

 

   

 

見前館

 

 

見前館跡。

 


 戦国時代の元亀三(1572)年斯波氏と南部氏は戦い、南部氏が勝利。この地を支配していた斯波詮元は見前館と毒ケ森の線を南部氏との境界線に定めたという記録が残っている。

 

1007加筆

 

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