いにしえの屋台写真


いろいろ捜してみたんですが、
そんなに古いのは無かったです。すいません。

また捜してみます。

もしお持ちでしたら貸してください。

昭和15年か16年 楼門前 写真提供:【船越敏之様】
左から宇佐崎(一番奥)・東山・木場(差し上げ中)・松原・八家・妻鹿と思われます。(解説:元太鼓打ち様)



中村の元太鼓打ち様からのメール
楼門で挨拶を済ませた東山が帰路に着かんとするところで、今挨拶の真最中が木場、次に控えるのが、松原、八家、妻鹿。
そして据えているのは、宇佐崎と中村。と推測します。中村は他の屋台の影に隠れていると思われます。
白い幟は、帰路につこうとする東山と木場。

幟の向こうは八幡茶屋。中村の日参の左は大塚。八幡茶屋の右は梶松旅館の離れ座敷と思います。
宇佐崎屋台の東(写真奥)に見えるテントは見世物小屋です。
中村の街道筋はこの時代のほうが、立派ですね。
木場屋台の捩子幕は今と違って張りぼてです。したがって今より幅が広く、この写真でも感じ取られます。
石灯篭前の婦人、着物姿ですね。この場所で見る婦人は相当のマニアだと思います。
この写真には写っていませんが、右端、今の観覧席の西北の位置に、東山の人が営む『三の丸』という茶店がありました。
この店の横にも東向きに生えた斜幹の立派な松がありました。
松原、妻鹿の屋台据え場辺りも亀甲肌の大きな松が沢山あって、屋台と松の取り合わせは実によくマッチして見事なものでした。

昭和12、13、14年は戦争のため、屋台練り中止でした。
15年は本祭りは中止ですが、11月10・11日両日にわたり、宮入りと宮前のみの屋台練りが執行されました。
当時の通常の祭りでは、7台の屋台が宮前広場に集まる事はありませんでした。
蛇足ながら松原は若い衆は兵隊に取られ練り子は少ないのですが、当時宮入中に屋台を落とす事はまず有りませんでした。
4年ぶりの屋台練り。みんな張り切って見事でした。
練り出し後妻鹿の境へ行き、後、宇佐崎東の端まで行って、宇佐崎屋台蔵で待っていた宇佐崎、中村と合流して宇佐崎、中村、松原の順で宮入をしました。
16年は12月8日に太平洋戦争が始まりましたが、10月14日の1日のみの屋台練りでしたが、7台宮前でみごとに練り合わせました。
17年、18年、19年の祭りも宮前で7台が揃いましたが、なにぶん太平洋戦争の為、他所からの観客は少なくこの写真のような人出はありません。
20年は15日の1日だけの宮前ですが、そのときは戦争も終わり、大勢の人出だったと思います。
進駐軍のアメリカ兵が沢山見物に訪れました。この写真に外人の姿は無く、コレも違います。
21年の妻鹿の練り番から、お旅山への渡御が再開されます。が、戦後しばらくの間は2台練りはあっても3台練りはありませんでした。
21年、22年、23年ころにはすべての松が枯れ、当時不足していた燃料になりました。したがって21年以降でもありません。
おそらく15年か16年どちらかの写真だと思います。戦闘帽をかぶっている人がいます。当時流行りだしたスタイルです。


昭和28〜30年のいずれか。(中村屋台) 写真提供:【中村の元太鼓打ち様】



中村の元太鼓打ち様からのメール
松原屋台倉前を渡御する中村屋台。向こうの屋根は小松屋と、橘家です。
棒端は先代の三保ヶ関親方です。
未だ台車は無くて、中村は練り子が少なく、宮前と櫓畠では妻鹿や松原、その他の練り子が応援に入りますが、
道中は交代要員も無く
、恥ずかしながらちょっと省略して、前と後の2人の太鼓打ちでした。



昭和41年 (松原屋台)

屋根の形が今とずいぶん違いますね。
あと、本棒も、短いなぁ。
中村の元太鼓打ち様からのメール
41年の写真、本棒だけでなく脇棒も短いはずです。
中村の鍛治川衣料品店と吉田酒店の間に前の本棒を入れます。その後南下して、方向転換しました。
鍛治川の前には有銘写真館があり、吉田も道一杯にタバコの陳列があって、
その上、山本の蔵西には電柱や石の道路標識があって非常に狭く、脇棒は電柱に当たります。
したがって、本棒も脇棒もこの長さが限度でした。
また松原西の据え場の南は大和のキャンデー屋のキャンデー製造機があって、差し上げてその製造機の上で廻らねば据えられませんでした。
この2つの件で長くしたくても出来ませんでした。
松原の屋台は上手に方向転換するのは当たり前と思っていましたが、妻鹿がどうなるかと、いつも心配で毎年欠かさずに見物させてもらいました。
一度だけ妻鹿屋台が勢い良すぎて、周りきらないうちに北へ本棒を突っ込み、吉田の陳列を壊しました。
それでも屋台は落とさずに、方向転換しました。
松原は勿論妻鹿もここでは緊張するのか一度も落としたことはありませんでした。


昭和44年 (松原屋台)




昭和56年 (中村・妻鹿) 写真提供:【中村の元太鼓打ち様】



中村の元太鼓打ち様からのメール
あまり古くもありませんが、お旅から降りて、櫓畠の56年の写真です。
珍しいのは中村屋台、白木に満艦飾(まんかんしょく)です。(白木の時は昇総才はつけず総才端のみにしている事が多い)
コレは判りますが、妻鹿の伊達綱、どう見ても、透かし入りの綱です。
この頃は屋台に乗りっぱなしでしたので、自分の目では確かめておりませんが、
捩子(ねじ)っているその中が空洞になっていませんか?自分の眼にはそう見えます。
本当にこんな事があったのでしょうか?どなたか教えてください。
当時の妻鹿役員に確かめてもらえば判るのではないでしょうか?
もし透かし入りだったら非常に珍しく、何故その後不採用になったのか、この辺のエピソードも知りたいですね。

メール(←このサイトの管理人宛です) もしくは掲示板にて、よろしくお願いします。


昭和61年 (神輿新調:宇佐崎) 写真提供:【中村の元太鼓打ち様】





中村の元太鼓打ち様からのメール
61年の宇佐崎村煉り番で、神輿を新調しました。
この年白木のままで、神輿の渡御と神輿合わせをしました。
松原のだんじりを漆塗りしたのと丁度反対で、神輿の白木は珍しいと思います。
この年の神輿合わせは非常に激しくて、3台の神輿ですから(3×4で)12の総才端がありますが、
1つを残してあとの11の総才端が悉く(ことごとく)壊れました。
其れまでは玄の綱を持っていれば安心だと言う伝説が有りましたが、この伝説は崩れ去りました。
いまの神輿合わせでは、こんな事も無いと思います。

古い写真をお持ちの方は、貸してください。ウチでスキャナーかけますので。
もちろんJPGでもかまいません。
あと、当時の話なんかも教えていただけると、すごいうれしいです。

写りが悪くても補正すればそこそこ見れるようになります。
上の写真も元はひどい状態でした。
ネガが無くても、写りが悪くても大丈夫です。
よろしくお願いします。



獅子舞のトップページへ戻る