暗い部屋❷  プレーンな日々 二〇〇一年五月二十六日〜七月十九日


 プレーン
  七月十九日(木)04時40分48秒

 ベ
ーグルプレーンという名前が裏のセロファンに印刷されていた。甘さも味らしい味もないただ硬い皮につつまれたパンだ。だけど苦いパン種の匂いとパンの懐かしい香りが口の中に膨らむ。
 おれの古い記憶のひとつにパンの匂いがあったと気づかされたのは、コッペパンといったよね、いい匂いしておいしかったよね、と、いつもの掠れた低い優しい声で老母が電話口でそう言ったときだ。
 がらぼうといわれたぐるぐるまきの布生地が釘頭も真新しい板の台に山積みされている。小さなその店の奥の六畳一間に親子四人が暮らしていた。若い父母の保護者でもあった本家の叔父夫婦が魚加工場といっしょに敷地の一角にパン工場も経営していた。パン焼きはたまに母も手伝ったというがその姿の記憶はない。ふかふかの焼きたてのコッペパンがおれと妹のおやつだった。店のガラスの引き戸に垂れ下がったキャラコの白いカーテンは顔に被ると日焼けの匂いがした。おれたちはきゃっきゃっいいながらコッペパンをほおばった。
 大きなパン焼き釜があったよね、ああ、覚えているよ、本家の裏のあたりだったね、黒光りする四角い鉄の箱が隅にあったね、パンの匂いはそこに詰まっている。
 母屋の裏は水溜りがあってじめじめしている。たんぽぽが一杯咲いていたがぎざぎざの葉は好きではなかった。父の葉巻煙草にもなったいたどりの広い葉っぱで尻を拭いた。白い大きな樺太犬がつながれていておれたちの遊びを見ていた。本家のせいぼちゃん、たいぼー、かっこちゃん、妹のひろこ、そしてのぶちゃんとよばれたおれが遊び仲間だった。
 子供たちが工場の中で遊べるのは剥き出しのモーターが静まっている休日のときだ。魚工場の中にはプールのような巨大な魚油槽が床から黒い口を開けていて、子供たちはそろそろと油槽の縁に沿って裏口のガラス戸の明かりが漏れる土間まで行く。高い天井からは大蛇にも見えた分厚いベルトが何本も垂れ下がっていて床板に頑丈に据えた油光する電気モーターの太い軸にかかっている。鉛色のモーターの胴体には「日立」と変な書体で威張っている真鍮のプレートがあってそれに触るのが好きだった。黒光りする四角い鉄の箱はその隣にあった。
 裏戸のガラス越しにたんぽぽが陽射しを浴びている。明るい土間には鱗のついた魚箱が一杯積み上げられている。子供たちは好きな高さの箱の上に這い上がって漫画を読む。たいぼーが持ってきた「がんくつおう」のまんがが一番気に入っていた。「家なき子」もあった。コッペパンをもらうのは加工場の土間が翳るころだ。温かいパンの真ん中あたりにニスを塗ったようなてかりがあってそこは少し甘いような気がした。
 どこにいってたの、かこうばだよ、あぶないからね、きいつけないと。
ほかほかのパンをかじりながらおれたちはまた外に飛び出す。
 そういえばあのころはみんないそがしそうだったね。向かいのブリキ屋の岸さん、トタン板を夜中までガンガン叩いていたね、うるさかったね、いやうるさいとは感じなかったよ、昼間、銀色のぴかぴかした出来立ての煙突が土間に何本もたてかけてあった。
 市中を縦断する宝来通りを、土煙と轟音を響かせて進駐軍のキャタピラが何台も走り抜けていった。岬の灯台あたりに基地がつくられていた。父の腕が子供の小さい肩を引き寄せる。ひろこが馬車の荷台に飛び乗って遊んでいてそのまま「つれていかれた」といってみんなが大騒ぎしたのはそのころだ。北の空が赤くなるころひろこは何事もなかったようにひとりで歩いてもどってきた。その日おやつのコッペパンはおれはひとりで食べたのかもしれない。
 犬小屋みたいなちっちゃい店だったね、ああ、柾葺きの屋根の上におとちゃんが書いた書初めの習字みたいな看板がかかっていた。
 新らしい棚板をはりめぐらした店は父が塗ったトノ粉の酸っぱい匂いがした。ぼそぼそでくすんだ色のがらぼうはとぶように売れた。母が操る鯨尺の竹棒で何折にも量られて黒い鋏でざーっと切られる。
 あんなごつい布を何につかったんだろう、そりゃあ、ずぼんとかスカートとか何でもあれでつくったんだよ、そうか、でもおれはがらぼうのズボンをはいた記憶はないなあ、そうかい、ああ、おまえたちはサージだったかもしれないね、母が夜なべして金ボタンを縫いつけた濃紺色の上っ張りを着て小学校一年生になったその朝は真っ白に晴れていて、まだ雪が残る宝来通りの馬車のわだちの跡を、どろんこを飛び飛びして新しい三つ馬印の長靴にも泥をつけて、おれは店の隣の隣にある北小学校の石の門を母といっしょにくぐった。大きくもないポプラの枝が張り出たその門柱のひとつには滲んだ黒い文字を沈めた白い陶器の板がまぶしそうに貼り付いていた。
 その年もニシンの大漁つづきで「日立」の真鍮プレートをつけた電気モーターも二台に増え、縦横のベルトで手狭になった魚加工場からいつのまにかパン焼き釜はなくなっていた。
プレーンパン。おれはセロファンの名前をまだ見つめていた。

 


 

そういえば 七月十四日(土) 03時11分09秒

 
トタン屋根が熱せられていた。蒸し暑い下宿の畳に寝ころんで夢中になって読んだ「罪と罰」の思い出の中で、思弁的な哲学青年という印象のラスコリーニコフより、なぜか亡霊そのもののようでもあるソーニャに強い衝撃があった。ソーニャは決して自分の異論は言わないのに決定的に鋭くラスコリーニコフを追い詰める。理由なき殺人だった。石ころがナポレオンの真似をしたかったと口走るラスコリーニコフに、冷静に行為を振り返ることを求める。けっこ、きわどいね、ここ。馬鹿女ならナポレオンについて分析するところだ。そしてナポレオンを共有しないと怒り出す。あはは。

 


 

主体なんかない 7月十四日(土) 02時54分52秒

 といえば、またまたあいつは腹を立てる。おれの饒舌に隠されもしない主体なるものがあるだろう、などと憎らしげに言う、その物言いこそが昼間の暑さにぼけた凡俗の邪推そのものと同等だってことにも気づかないで。そう、おれは涼しい夜気に溶け込んで、というか夜陰に乗じてこっそりとあいつをも抹消しているのだ。あからさまにおれはそう告白する。あいつとは誰か、謎の決定的な答えはすぐそこだ。

 


 

 7月十四日(土) 02時43分59秒

 
は、自同性の夢あるいはそれへの憧れつまりはつねに固まりえない幻想。そしてつねに肉体とともにある。ところが同床であるこの宿命が愛にいばらの冠を被せる。肉体を殺すしかない。愛するがゆえにだ。だからおれは透明人間になったのだ。あの時。

 


 

ひまつぶし 七月十四日(土) 00時01分04秒


白玉の果実膨らみ

たわわに夏の風
水を切り白蛇一筋消えてゆき

 


 

思考のない意識  七月十二日(木) 21時39分03秒

 というのは厳密にそういうことだ。たんなる浅慮のことではない、流通する支配的な記号的認識がそうである。だがこの機械論的様相に対して思考がまさに人間固有の機能としてはつらつと立ち上がるなどというべきではない。ぜるぷすとべぷすとざいん、とそっというだけでことはたりる。ついでにいうと亡霊に似たこの意識にはるさんちまんなどという人間的な意識の痕跡は何一つない。それは記号世界を支える人間たちのよりどころにもなっている、と世事が至る所で示しているとおりだ。

 


 

すると 七月十二日(木) 02時02分16秒

では「亡霊」にはコミニケーションというものはあるのか。犬語を思いついたのはそこからだった。犬語はおれにとっては快感そのものだった。現実を見つめつつそこからは一筋の傷も受けない、ガラス越しだからだ。感情はない。人間ではないからだ、などというと、真に受ける読者もいたけどね。文化人間さん。

 


 

というわけで 七月十二日(木) 01時51分46秒

おれは「社会の外」に散歩にいくけんね。ふふふ。亡霊のごとく、だね。

 


 

なぜに 七月十二日(木 ) 01時45分33秒

 
写真は「社会の外」に出なければならないのか。写真という意識がそうだからだ。写真が存在の影であり存在から剥がされる最先端の皮膜であり人間の根源の感情のことごとくをそこから派生させしかも一切を暴くその位置にあるからだ。この仕組みとまなざしが写真を社会の外へと押しやる。という構造装置を写真家は操作する。鏡像の中で引き離される痛み、いいあらわせられない痛み、だからだろうか、写真は逆説的に幻想の共同体を渇望する。愛。そしてすぐに壊す。壊さなければ壊される。

 


 

社会の「外」 七月十二日(木) 01時36分46秒

 
山であろうと虫や草原であろうとそのものとして写せば社会の外の映像になると思ったらおおまちがい。社会現象に対する社会の「外」からのまなざしという触れ込みも、けっこうきわどい。無意識に根付いているるさんちまんがこっそりと代役として暴れたりうじうじしたりするもんだ。そういう作品は腐るほどある。問題の根は深い。現実の表層というものはじつは捉えがたいほどに多層的なのだ。
 写真の被写体は表層だ。ここから曲解がはじまる。思考を邪魔者扱いしてむしろ積極的に排除して写真が撮られうると思う。
だが皮肉なことに、写真に写されているのは被写体の純粋な表層ではなく、膨大な素人写真に見られるように思考のない意識というものの無残な証拠写真がそこにあるだけだ。つまりわれわれはいつのまにかすりかえられた凡庸な意識の表層を写真において発見する。思考を欠いた意識はありきたりの分厚い社会意識にすぎないという冷酷な判決も添えられた、証拠写真を見る。それは「社会の外」のまなざしとはまったく無縁のものだ。「辺境」「未開地」「廃墟」「放浪」を描こうと、成功の要はその主題にあるのではない。
 これらの主題に染みこんだ文化の汚染から自由であろうと、思考が精力的に起動する。表層に対する思考の決定的な機縁はここにある。・・・読者・鑑賞者の意識についてもほぼ同じことが言える。

 


 

恐怖3 七月十一日(水) 03時31分49秒


 

おれは拡声器から撒き散らされる根太い声が消えていくスクランブル交差点の上空を見上げる。抜けるような青空だ。鳩が急降下してまた舞い上がる。異物に触れる予感でもあったのだろうか。地上から逃げ去るかのようにも見える。失速する。いや、跳ね返されたのだ。舞い戻るには地上のあの言葉どもに少しは仁義もきらねばならないのか。嫌悪感を隠して。すいすい歩く。
 恐怖とは、よくいわれがちなことだが死や無に向合うからではない。では有の存在へと「還元」され欠如として暴露される向きがある種の恐怖を呼ぶのはなぜか。恐怖を煽る脅しの材料として言説において「死」が引きずり出されている。
 「恐怖」を避けようと政治の言葉が、聴衆に執拗に纏いつく。歯の浮くような念仏を説く。言葉と存在との自同性が疑いを知らない深い陶酔の格子になっている。馬鹿。

 言葉が存在から剥がされることが恐怖そのものでなくてなんであろうか。密かにそう思う。宙吊りの意識に、腐った自同性と主体の補填物である情緒が忍び込んで巣食う。吐き出せ。溜まるわけがない。そんなものはあのペテン闘士の仲間たちに返してやる。鳩がまた急降下する。

 


 

恐怖2 七月十日(火) 03時39分17秒

 
逃げる

 

では絶望とも空白ともいえない感情や愛情の欠如とはなにか。そこには自由はあるのだろうか。はじめから問いは逃亡者の呟きのように、存在に背を向けて発せられていることに注目しなければならない。なぜなら、この問いかけの声は存在に対してはひどくこわばった恐怖感に満たされているからだ。恐怖感といわざるをえないのはつねに存在へと還元されるからだ。だからおれは逃げる。宣伝カーで声高に叫ぶ恥知らずだけが存在を嬉々として受け入れるだろう。何食わぬ顔でおれは街を歩く。そう、そうでもなければ足がすくんでしまう。
 存在にそっと触って背を向け、逃げるまた触る逃げる。スクランブル交差点上空の鳩のように。
 だが注意しなければならない、この事態は自由といえるとしてもけっして特権的なものでは断じてない。なぜなら存在の既定事実そのものが自由の内包に由来しているからだ。路上の芸人の自由のようにだ。演技が終われば彼らの自由はこんどは舞台を別に移すかもしれない。そこで不服があろうとなかろうと自由であることには変化はないし、いちいちいうのもめんどくさい。なんといおうと、だ。一切の感情が無効になる自由の薄い存在の膜が露わになる。おれはすいすいと何食わぬ顔で歩く。逃亡者、放浪者は誰の目にも見えない。ふふふ。

 


 

恐怖1 七月十日(火) 00時46分38秒

絶句

 

感情の欠如、愛情の欠如は死であり、正確には死への途上にあることからは逃れられない、死への病を抱いた生・・・、言い古されたこの言い方ははじめから感情的に理解されることを拒否している。にもかかわらず、死を絶望感情の表現とみて、生の十全条件を感情と愛情の充溢だと無条件に肯定する傾向が普通だ。どこでそうなったのか。そして、もうひとつの疑問がつけくわえられるべきだ。では感情や愛情はいかにして成立し発露されるのか、その場はどこにあるのか、と。
 
自由が世界のどこかにあると?? 自由の概念を明確にしようと百の理屈を動員しようと?? 「自由のためにたたかう」と宣言するのか?? 絶句。


 

立ち止まって 七月 六日(金) 03時43分45秒

 考えて
みると、誤解だらけというのもけっこ面白いもんだな。誤解というか変種としての「曲解」「半解」「とんちんかん」その他、ニュアンスはいろいろ。稀なる現象だと早とちりしたらとんでもないことになる。逆だ。普遍的なんだよ。等価交換システムといわれるものがよくも壊れないものだが、これもシジエイクによると「貨幣の二重性」?とかの秘密によってなりたっているらしい。世界的な二重交通なんだよな。
 病気もそうだよな。思い込み病というかそういうやつ。るさんちまんもその一種だな。人間病。人間は友愛・愛情なしでは生きていけない、なんていう念仏を自分の井戸の中から叫ぶるさんちまん。井戸から出たら明るい裸の言葉で語り合えるのだろうか。まさかね。ともかく、誤解は面白い。いかにも人間的だ。地固まって友愛も育つし。

 


 

逃げる人 七月 三日(火) 05時06分57秒

 
これだな。今回の写真展のテーマは。後姿を見せてどんどんと遠ざかっていく。辺境こそが逃げ場であるというように。連行されていくその先は辺境だ。中心からはるか離れてそんなものの存在さえ気にならないはずだ。というかそこが新たな中心になる畏れがあるからこそさらに逃げる。するとまた新中心がこんにちは。また逃げる。おいかけっこだ。おいかけっこしているってことが肝心なんだよな。比喩っぽいしね。比喩だよ、比喩。逃げるもんか。

 


 

終り 七月 三日(火) 05時01分00秒

 
ふう。四十枚。まあまあかな。ひひひ。暗室で作業しながらなんやかやと考えてしまった。なんやかや。
 
ふう。よーするに、何事も具体性だ。でっかい言葉は退屈になるばかりか危険きわまりない。ドラマの「愛しているよ」とおんなじだな。わはは。具体的になると不思議なことに齟齬は消えるというより元々何もなかったことに気づく。世界は合理的にできているからね。人間は生意気にも抽象が好きだからその仕返しだね。
 なんつーいいかたも抽象的だけど、疲れた頭にとっては具体的な呟きなんだよな。てことは具体的とは言い方というよりも聞き方にあるね。鈍感な耳は言っている言葉の内容に角を立てるが、よく聞くと何も言っていないと言っていることに気づく。あはは。
 これが沈黙の極意。沈黙に気づくことにおいて世界は饒舌の花園と化す。雑踏・雑音・潮騒・脈動・鼓動・ときめき・リズム。世界は連続と充満の中にある。ゆえに終りが見える。つまり終りはない。かんたんな事実なのにね、ところが人はいつも請求書と領収書の辻褄あわせだ。終りは終りと。退屈がはじまる。だね。しゃべりまくれ!

 


 

二回目休憩 七月 三日(火) 02時31分54秒

 
煙草、ふう。暗室、もーちっと、ふう。四時間ぶっとーしなんだぞ。こら。結局、ひとは何かを見ないで見ることは出来ないってことだな。本当か?
 
いつも何かを見ている。しかし逆にいうと今出てきた暗室の中でそうであったように、何も見ないでいつも何かをしていると強引に言うとしたら? 行為と存在は光さえ不要な継続する平明な表面だ。光が照らす出来事による断裂はなく、平面には高低も断絶もない。断絶と同意語である何かがあると思うのは脳みその能力の限界がそこにあることの証拠だ。無限に対する無能を補填する裏返しとして廃れない信念や長持ちする退屈な観念の温床が育つ。だんだん腹が立ってくる。
 というか通常、人間は信念や観念の隙間を埋めるべく忘却を呼び出し平静で滑らかな生活を固めるんだ。だから遠慮のない機械の目は恐ろしいということになるのだが、幸いにも人は猫も杓子も文化作品を好んで追及するものだからけっこう中和的な目の支配を抵抗もなく否応なく受入れる。寛大にいって目の作品でないものは作品とはいえないだろうからだ。だから忘却を押しのけいつも何かを見ていることを主題として追求したものは、ぞっとするはずなのだが、実は微妙に懐かしいと感ずる。しかしこの心情もまた複雑だよな。
 おれはまだ暗室にいるときのように割れ目に染みこむ冷たい水を欲して固く目を瞑る。観念と観念の割れ目。水の心情か。ああ。
 回想が、たえず落ち込む信念や観念とともに作用するならば、それは回想というより現状の信念や観念の再確認にすぎないだろうし、したがって、回想に求められるのは、記憶に埋もれたものたち、インデックスでもあるかつての信念や観念からは零れ落ちたために痕跡を奪われたものたちの復権をめざすことだ。思考はすいすいと水脈を辿る。
 かくしておれは、滑らかと見えた生活から追放されたものたちの仲間になる。きざ。がはは。と休憩思考?? 「へたなかんがえやすむににたり」・・死んだ親父の口ぐせだった。。ああ。



 

宿題 七月二日(月)05時14分58秒

 
マルグリッド・デュラス「歓喜」
 複数の視線と欲望の錯綜とともに語り手、私、彼の人称が入れ替わる。愛を軸にタチアナとロルが入れ替わる。入れ替わりを確認する場はホテルの裏の草むらでありつねに外だ。官能が明らかに前景へと突出する。それは「外異性」につつまれた現出だ。
 ロルの物語の発端でもあるホールは、奪われた愛の記憶と狂気の暗いホールであるが、にもかかわらず読者に対しては明らかに混沌の祝祭的な輝きを放つシンボルとしてのホールだ。ブランショの「共同体論」でいう「民衆」の現出のリアリティと同質の生々しさを想いだす。あるシンボルを見つめる群集の陶酔したまなざしが気づかれない外異性として現れる。その内部で官能が沸騰する。視線と人称の輻輳そのものが官能的でもある。このように宙吊りで丸見えなのは入れ替わった人称によって担われた視線が物語の外にあるからだ。かくして現実はどこまでも平明な継続によって成り立つことになる。ホールなどどこにもない、しかしホールでなければならない。小説がそこから始まる。
「さあ、あなたもう帰りましょう」 
 シンボルに釘付けになった恋人の腕を取って彼女が言ったその言葉さえ明らかに物語とシンボルの内部の言葉だ。
 問題はデュラスが行った「固有名」変換だ。(まあ、名前とともに簡単にすべてが交換されることが現実に可能ならばハッピーだけどね。いくらデュラスであってもそれは出来ないでしょ。)
 ということは、私と彼の交替という比較的簡単な人称交替によって行き詰まった関係を打開する、そして異名同体を保存する、なにやら策略めいた仕組みについて小説らしく言おうとしたのか。
 言いたいことは固有名の謎というものだろうか。謎というか謎にしている脳みその固有信仰を暴こうと?? となると、固有名を持つ肉体の個別性などというものはまあどうでもいい、と? だがぶつかったのは個別の肉体という異物だ。この行き止まりを前にして小説の役者たちがなおも誠実ならば、読者は明らかに寡黙というか沈黙に近い作者デュラスの難解な語り口に突き当たらざるをえない。消えた民衆のように。個別的なものへの濃密な執着こそ饒舌の密林へと誘うものだからだ。ロルの目はいつも殺伐とした暗い草わらに横たわる。「歓喜」というよりそれを「奪われた」生のこちら側に横たわる。まるでこの作家の行く末を暗示するようにだ。
 でもそれはちょっと平凡。ややこしいんで、なかなか先にすすめないよ。一つ文句いうとしたら、なんでまた「不倫」なんだよ。うけねらい? ごてごてと「愛」の中で名前が交代するところが舞台設定としてはサービス精神? というのは、この小説で「愛」が果たして緻密に描かれているか、ちょっと疑問。でもおなじみの「不可能」のソースかけ仕上げのためなら、ちまんね。ちょっと食傷。という理解はもちろん平板だ。


 
ねよねよっと。明日はまたまた暗室ぐらし。

 


 

がはは 七月二日(月)02時23分45秒

 
亡霊気分になるってことがキーワードだね。そうすれば一切の気配から自由になれるってわけだ。そうか。人間で満ちあふれてるもんな。ごちゃごちゃと暑苦しいよね。ほんと。亡霊になりましょ。ひひひ。一句。

 
何億の小部屋たずねる蜜蜂の夏 ??? 

 蜜蜂にも脳があったらの話。


「血流のうねり、胸部の鼓動、瞳孔の収縮、口元の熱感
炸裂した肉質、赤い流血、くもった嗚咽さえも」(きりさん) 
 最近さ、自分がこんな目にあっている夢みるよ。くそったれめ、と思って目が覚める。腐敗とのたたかいだよな。まじ。
 
みなさま、お体ご自愛。

 


 

あいつ3 六月三十日(土) 04時09分29秒

白い道
 
 夕立が立ち去った。繁華街の空に気の早い星が小さく瞬いている。おれは気になっていた夢の光景をあいつに話そうと思った。一週間ほど前にみた夢だ。
 地下鉄で鉄橋を渡り都心寄りのその町に、おれはカメラをぶらさげて出かけた。梅雨の短い昼の盛りが過ぎたころだった。駅の地下階段をひとつ曲がって仰ぐと開口部に曇り空が半分覗いている。人影はない。
長い階段の最後の一段を登りきって歩道に面したひさしのある出口に立ったときだ。
 曇り空が乳白色になりあたりが急に明るくなった。一面の白い光に全身を晒される気がした。思わず目をつぶったところからその夢がはじまる。


 おれは一人で海岸を歩いていた。白い砂浜がはるか遠くまで続いている。浜辺に道などあるはずはないのに一本の白い道が足元からまっすぐに伸びている。おれはずっと前から知っていたかのように一つの歌を口ずさむ。

「夕べ浜辺をさまよえば 白い道 果てしない道」
 
 いつの頃からこの歌をうたうようになったのだろうか、夢の中で思い出そうとすると、脈絡もなく一枚の白い紙を机の上でひろげているおれがあらわれる。不可解な言葉がワープロ文字で綴られていた。男からの手紙だった。おれが書き散らしたものかもしれない。夢はあいまいだ。

「深夜、川岸の向こうに住む男から電話がかかってきた。受話器の中で男の声がいう。『電話の声は認識論を示す』。
 馬鹿め、受話器を置いて月夜の川べりに降りた。平べったい丸い石をてのひらにつつんで力いっぱい放り投げる。何回も何回も石を月光の水面に走らせる。

 明かりを消してきたはずの部屋からおれの名を呼ぶ声がした。また男の声だ。家には男は自分のほかにはいない。部屋に戻ると外れた受話器が机の角から首吊り死体のようにぶらさがっていた。声は死体の受話器の黒い穴から漏れていた。聞き耳を立てる。
白い道。果てしない道。さまよえば。
声はそう歌っていた。」


 ひさしの黒い陰から一歩踏み出た。ぽつりと雨粒が瞼に触る。濡れるほどではない雨の街を歩きつづける。

 車が行き交う幹線道路に近いこの辺りが浜辺と似ているはずはない。だがどこであろうと何かが同じではないのかと疑った。日が暮れるまで路地を彷徨った。知らない街だった。
白い道 果てしない道、歌の文句が頭にこびりついていた。夢の終わりはわからずじまいだった。
 数日後、川岸の向こうに住む男の妻から電話があり男は心臓の発作で入院したという。おれは真っ赤な花びらが流れる川を泳いで下ったんだぞ、半年後、奇跡的に生還した男が手紙でそうしたためてきた。


 雨上がりの夕闇迫る繁華街をおれはあいつと並んで歩きながら、一部始終を話した。「白い道。白い道・・・」 あいつは一週間前のおれの言葉を繰り返す。

 あの男にささやいた電話の声の主が、今あいつもそうしている声の主になろうとするかのようだと思った。あいつの声は低い。雑踏の中だ。耳をすまさなければ聞こえない。あれから何年たっただろうか。
いや、そうではない、夢のはなしだ。

 



あいつ2
 六月二十九日 (金)05時05分50秒

 

あいつがいうには、わたしは亡霊が怖いという。夕立がトタン屋根をぱらぱら打っていた。
 ああ、亡霊は怖いね、とおれは答えたが、なぜ怖いか問いただしはしなかった。雨足が強くなった。おれたちは一つしかない傘に身を寄せ合い駅前の商店街を駆け抜ける。アーケードが途切れ駅の灰色のホールが見えるところで、あいつが立ち止まって、いいそびれた科白を急いで吐き出すように、「ああ、書きたいの」という。
 何について? とまた聞き返さなかった。うん、そうだね、とあいまいに答えた。
 おれたちは改札で別れたがそれっきりだ。あいつと会うことはもうなかった。
 雨粒がアスファルトを逆立てている。あいつが立ち去った駅前の歩道でおれは雨粒ばかりを見つめていた。水煙がだんだん大きくなる。水没しそうになる。いなくなったあいつのことを思った。いなくなった? 
 おれは、悟った。悲しみは怖い。おれは、恐怖の正体と向合う喜びを知った。亡霊を抱くように。いないと思うことはいなくなることになるのか。そうではあるまい。おれの言葉に耳を傾けおれはあいつのいうことに同意する。時々あいつは、同感だ! とおおげさに叫ぶ。あらゆる感情がそこでは一つになる。
 いよいよ暗くなった天空が裂け夕立の瀑布の中に一切を水没させ溺死者を踊らせる。トタン屋根が激しく連打してあいつの叫びを代弁している。あいつが今書き続けているキイボードの果てしない音だ。俯いたおれの背後に誰かがいる。あいつだ。夜の重い空を気にしてまだ雨足が叩きつける歩道におりたった。傘は一つしかない。おれの傘だ。

 

 


 

あいつ1 六月二十九日(金)02時02分29秒

ビロードの夕闇

 

不可解なひと、おるもんだね。と、あいつにいったら、あいつは、まあ夕闇のうっとおしさも心理の反映だからね、心理の由来を尋ねていくのもいいけれど迷宮でない人生なんてないしね、という。つまり不可解さに驚くのは正常なんだよ、という。
 ややこしいね、そうするとうっとおしいと書くことは迷宮の現実を背負ってのことなのかと重ねて問うと、さすがに敏感なあいつは、はたと言葉をつまらせた。そうだね、そうなら迷宮どころか絶望の淵にいる人にとっては言葉は配給も生産もされないことになるよね、ううむ。希望の言葉はその人にこそ相応しかろうにね。
 そうか、夕闇はうっとおしいとしてもその理由は別に求めるべきなんだ。おれたちはひとつの解答を得てよろこんだが、さて、その「別に」あるはずの世界については断言は出来なかった。口に出すとすぐに消えそうだった。短い夕闇のように。
 でも、おれたちの間に、その時「不可解な人」への問いも驚きももうなくなっていた。迷宮も消えていた。「不可解な人」は迷宮といっしょに夕闇の中に水没していく杭のように思えたからだ。
 それにしてもあいつこそおれにとっては不可解というか夕闇みたいに捉えがたいと実感したけれど、たぶんあいつもおんなじような感想をもったかもしれない。  
 おれはビロードの夕闇に触れた。

 


 

ニュース? 六月二十七日(水) 04時08分10秒

 
夕刊の文壇月評に、その松浦さんの新作が取り上げられている。その、というのは、日曜朝刊で小林さんの新作を「夢幻」小説だと評したのが松浦さんだから。月評記者は今度も松浦作品を「形而上学的作品」だというから両者は水脈を共にしているのかな? 「○大に入った」ものの?(変だよなー。なんでこの名詞が意味ありげに言われるんだよ。わらっちまうよな!)女との怪しい過去(初期作品を連想させる。あれは――もうばればれってかんじだったけど)を引きずり迷い込んだ洋館で不可解な「時間論」を説く老人に頼まれた映画制作にのめりこんでいくが、偶然がもたらしたようなこれらの成り行きはそうとしかありようのない存在(というか身体存在?)の必然を暴いていく、そのための「書く」という行為の裏返しにすぎず、そこで松浦語ともいうべき「雨」「水」などなどが「詩人」(ほんと松浦さんの詩はかっこいいというか、すきがないというか、ぬめぬめとしてて戦慄。ほんと!)らしく「身体感覚」の装置としてこの作品が複雑に積み上げられていく、云々。だそうだ。という「形而上学的作品」らしい。
「今」論の長広舌は、あーあという感じもしないではないけど。ところでほんとに形而上学なんだろーか。たしかに。「今、ここ」にこだわると、けっこ形而上学にはいりやすいんだよね。で結果はまさに「形而上学」。巨大装置。川端康成の「みずうみ」にもおんなじ疑問もったけどね。
 以上、形而上学苦手のひとのためにお中元。そうそう、形而上学って、ほんとは文字通り、怖い、ぬめぬめ、戦慄、ぎゃあああなんだよね。知ってそんはないよ。たぶん。ああああ、あちーーーーーー。涼しいお化け希望。

 


 

猫の目もくり抜かれし空家かな  六月二十六日(火) 01時54分04秒

 ビルが立ち並ぶ大通りから横丁へ曲がると、一帯は果てのない住宅街で、ここがいつか眺めた超高層ビルの展望台からの光景の現場なのだと気づく。眺望の中では雲を突き抜けて林立する鉄とガラスの塔の足元にマッチ箱をびっしりと敷き詰めたような木造家屋の町並みがはるかな地平線まで続いていた。
 横丁の私道に塗装店がありステテコ姿の男が鉄骨を赤いペンキで塗っている。柔らかい午後の日差しがアスファルトの上で尖がった鉄骨の影を撫でる。赤い刷毛が生き物の舌のようだ。白黒のぶちの猫が道端で頭だけを持ち上げ寝転んでいる。猫の白い腹の薄い影が歩道とコンクリート板の境目にこびりついている。
 ランドセルの男の子が二人、ふいと猫の影を踏み角を曲がって消えた。角には片足おそろいの黒いソックスと小さな革靴二つづつ「餃子」と大書されたスタンド看板の足と並ぶ。
 電線や洗濯物を貼り付けたモルタル壁が四つ角で口を開けている。狭い路地に入る。黒い背広の男が一人、アパートの階段から降りて来てまぶしそうに空を見上げた。
 隣は空家になったゲームセンターとラーメン屋だ。褪せた暖簾がガラス戸にはさまれている。裏口に廻る。人影はない。そこだけが日当たりのよい二階のベランダに白い洗濯物が吊るされていた。開け放たれた窓の無人のカーテンが風に膨らんでいる。
 猛スピードの自転車が車体を斜めにして走り抜けていった。曲がりざまに黒髪が一瞬振り向いたが前方にそびえる高層ビルの複雑な景観の中にたちまちに消えてしまった。すらりとした少女だった。
 ひび割れたモルタル壁がつづく。誰もいないレストラン。永遠に反復する空家。まばたきをやめない信号塔。どこまでいっても影。影を追うのはだれだ。

 というのが、選んだ四十枚の写真。なんつータイトル??? やはし「姿なき散歩者」かなー。

 


 

おや 六月二十六日(火) 00時52分10秒

 
ここは、くるくるぱーになるための素敵なサナトリウム。一切の制度に唾を吐く礼儀正しい根性を鍛えようぜ。ひひひ。優しくなんかになるなよ。いまさら「優しい人」が一人二人ふえても、どってことないぞ。どこに「個別」があるんだよ。こら。冷たい氷の人がええぞ。こら。

 


 

試行錯誤 2 六月二十五日(月) 05時28分29秒

 
少なくとも俺はあいつがなにものか、どのていどのものかについて知っているつもりだ。
 ところで「つもり」というほかない認識のいわば十字架からは逃れようがないだろう。だからこそ俺はあいつについて執拗に語りたいのだともいえる。そうすればあいつの影が明瞭になってくるとともに俺じしんの「つもり」も変質するかもしれない。
 そう、語ることにおいて決定的なことは、今漏らした「何ものであるか」とか「どのていど」かについての定言ではない。語ることそのものが、まるでほとばしるシャワーや激しい雨を浴びるようにその中で洗われること、そのことじしんが、俺やあいつについて明らかにしていくのだと思う。
 とはいえ、「なにものであるか」等々を抜きには何も語れない。だから、あいつは亡霊だ、といおう。つまり俺には不可解なものだというのと同じ程度にあいつじしんにとってもあいつは別のものとして振舞っている。わかっちゃいない!!! これこそが「亡霊」の本質でなくてなんであろう。
 おれがとりあえず「つもり」といったのはそういう意味あいだ。亡霊について語ること。一切の定義語を無視しつづけること。革命家・詩人・学者・政治家・医者・くじ売りおばさん。そう、俺は亡霊が亡霊とならざるをえなかった理由を問う。
 20世紀の革命家諸君! 人類共同体の撲滅ははじまったばかりだ! 愛と人生と魂とやらにしがみついていたまえ!! と、試行錯誤の地雷。爆死するのは誰? おお、朝だ。亡霊がおきださないうちに逃げろ!! 

 

 


 

試行錯誤1 六月二十四日(日) 02時30分53秒

 
おれは、あいつについてもっと語りたいと思う。あいつというからもちろん三人称でまあ頭文字くらいの名前はあってもいいがおれはあいつの身分だの周辺の関係なんかには興味はない。というよりそれを言ったらおれからあいつは消えてしまうだろう。それほど俺はあいつそのものに関心があるってことかな。まるで俺があいつになりきった気分だ。じゃあ、いっそのことそうすればいい、というかもしれないが、それは違う。あいつというからこそ、俺はあいつについて語れるのだ。どうしてあいつにそんなに関心があるのか。つまりそこだ。
 沈黙が鍵になる。沈黙を表すこと。黙って何も言わないことが沈黙ではない。別のことを饒舌に語ることが沈黙だ。ではその別のこととは?? そこもまた難問だな。なんといえばいいんだろうか。特権的な事柄ではなく、よくあるありふれたことなのだろうか。なのになんか変、でもなかなか気づかれない、気づいたらそれは別のものだったというやつ。めったに気づかれないから別のものとしてはいつも新鮮でいられる。隠語に似ている。しかし隠語になれば別のものではないけどね。似ているだけ。沈黙が巨大な力として関心を根拠づける。恐ろしいことだ。

 


やはり 六月十五日(金) 04時12分43秒

 
書いておこう。ロラン・バルトは「個人的反応」を出発点にして「写真」についての「普遍的」論考を進める。それは「あらゆる還元的な体系に反発する私の激しい抵抗感」からだという。「主体が二種類の言語活動、つまり一つは表現的言語活動、もう一つは批評的言語活動の板ばさみになったとき感ずる居心地の悪さ」、「社会学や記号学や精神分析などの言説の板ばさみになったときに感ずる」居心地の悪さ、に対して、素朴なものであっても「私のうちにある唯一の確実なもの」から出発するという。バルトは「個別学」から「普遍学」へ導く探求の出発点に、「資料体」(コルプス)ならざる「肉体」(コール)として身近な写真を採用する。それは私にとって存在することの確実なものだからだという。

 
めざす「普遍学」はしたがって「人生」や体系ではない。あくまでも「個別学」であり「普遍学」なのだ。知はこの命題をめぐって果てしない引用の体系を引きずり出そうとするが、肝心なことは体系が元来放つ奴隷化の引力に警戒することだ。そのために「個人的」という事態にもっと愛着しよう、という。
「もし君たちが海に出なければならなくなったら、君たち亡命者たちは、君たち自身の中に見出すようにがんばりたまえ――ひとつの信仰を」とニーチエもいう。個別学的普遍学。それが「写真」についての探求の定式にもなるとまでバルトはいいきった。「小説的」「詩的」であるのは、これらが偽普遍学が寄宿する有用性の価値体系からおそらくもっとも遠いジャンルに属するからだ。偶有性は「肉体」(コール)なのか衣裳なのかの探求がはじまる。

 


おお 六月十五日(金) 00時50分44秒

 
子猫なんか殺せ。がきとおんなじで、ふにゃふにゃしたものに涙を流すな。がきは、参考書や辞書を開いてオナニーするからな。かくいう俺はそうだったなと、あの頃のことを思い出す。「空洞都市」はフィクションではない。俺は夕焼けに染まった坂道を登りながらオナニーしたもんだ。もんくあっか。
 俺は何かをあの時殺した。K氏は孤島の丘でオナニーしたと堂々と著書で言っている。毛糸帽子のあの方も毎月毎月美少女に現をぬかして、またかいなといっても、もんくあっかと開き直る。創作ってのは気楽。あはは。狂え狂え。たつひこならくそったれの「人生」節を笑い飛ばすだろうよ。よーするに「人生」にうっとりするようながきは、もう先が見えてるよな。だから子猫なんか殺して、脳みそきんたまをみがけ、こら。

 
つーか、(詩集)といえば、もーじきだ。あいつのオナニーで汚れたあいつの詩集を買って、俺は、もう一回、いや何回でも透明人間になってやる。自我も人生もない。健康があるだけだ。だから、肝臓でもきんたまでも大事にしろといってんだ。自慢じゃないが、俺のライカのレンズには塵一つないぞ。点検厳しいぞ。暗室もだ。書斎は脳みそ同然ごみの山だけどな。くそったれ。ばるてゅすみたいに美少女に掃除させたいよな。がはは。元気だせよな、こら。

 


深夜の蛇 六月十三日(水) 02時50分04秒

蛇が白い背中をくねらせ昼間の炭素で焦げた銀色の鱗を洗う
ねえねえ、スキャナってどうしてシーツじゃないの?
ああ、それはねシーツは洗濯仕立てでね、ほら君の留守中にだみ声のインターホンが届けてくれたばかりだからだよ
蛇が沈黙すると夜空は水底に沈む
ねえ、昔、神経の変な女の人があなたの恋人だったんでしょ
ああ、賢い人だった
そう答えて俺は暗闇を照らす白い蛇の後を追って納骨堂の扉を開けた

朽ち果てた彫刻の扉の向こうは白い夜が輝いていた
月の光を浴びながら蛇が産卵している
スキャナが拡げたシーツを飲み込んでいた
俺は唾を吐いた
吐きながら俺は蛇に唸るなと命じた


突然語7 六月十三日(水) 01時59分37秒

夜の便器。壁の深呼吸。行き止まりの心臓。言葉を吐くなという電報。スキャナになった蛇。
カフカという首の痛み。花束に巣食う火種。刺。おお、もう沢山だ、七月の数字ども。

 


突然語6 六月十二日(火) 23時01分42秒

光景フラッシュ。眼帯をかけた肉塊。交差点で裸になる癖。梅漬け瓶詰めの歳末セール。一緒にかけそばを食う父の亡霊。紺青の水彩バケット。鯨とチェロのそれぞれの独り言。花屋の値札に祈る真似。
七月よ、近づくな。

 


突然語5 六月十一日(月) 23時58分31秒

ガラス戸の奥に今灯った蛍光灯。雲を盗んだ壁と埋葬直前の生板の匂い。手が届く高層ビルを引き倒す。桜花。ビニール傘をさす裸の路上生活者。ホステスがつんのめって歩く。蓋付珈琲カップを前に眠りこけているブランショの恋人。にわか雨の恥じらいとアヴァンチュール。地下に生える塔。青い声。ノイズ・スキャンする電話。驟雨の花束の七月。


突然語4 六月十一日(月) 03時56分58秒

深夜の蚯蚓が歌う。ブラームスの散歩。インクになったネスカフェ。雪景色。
灰皿を泳ぐ花束たち。墓場にチョークをぶつけて謝ったんだ。
おお、七月の自画像よ。

 


突然語3 六月十日(日)20時01分54秒

消えた蜘蛛。

 


突然語2 六月十日(日) 19時29分33秒

ブラジル往復チケットを買いたい。潜水艇の青い天井と煙を愛したあの頃。掃除機のホースを手術しよう。空っぽの鼻腔のガラスの本押さえ。転がった夢。インストールに失敗した試験管。ちりちりと炭化を待つ通電装置を抱いて。痙攣のベル。百頭の犬たちが合唱するミサ。首よ、七月の青空を仰げ。


突然語1 六月 九日(土) 23時08分54秒

樫の緑のトンネル。百頭の犬たちが先導する荘厳な戴冠式。指揮者の赤いバラから滴るビオラのうめき。王冠を飾る蜜蜂の兵隊。トンネルに響くシンバルの祝婚マーチ。葉脈に描かれた世界地図。七月の空の傘。樫の樹よ。

 


たぶん 六月 二日(土) 04時43分50秒

毎日毎日、機械生活だよ。ほんま。油断もすきもなんね。なんと優雅なんだろ。あっちに病人、こっちに金の亡者、またあっちに放浪者そしたらこっちにまたがりがりや。奇妙にこんなちぐはぐが平等機械の鉄板のうえでちゃんと接合されてんだよな。合言葉があるからね。
 
つーか、デュラスを注意してよむと、デュラスはこういう人間世界だからこそ注意深く、人間の接合を見つめているんだなと思った。「不信」などはおくびにもださないでよくもすらすらと愛について書けるものかとその老獪ぶりに感心。あの伝言認識の形式で物語を進めるのももちろん戦略のひとつだろうね。しらずしらずにロルが見事な幻想の担い手になっていく。肉体のある幻想だ。すげーね。つーか、愛人のほうがどきどきしたな。「歓喜」はちと手馴れすぎているというかまたかというかんじというか、あのぶっきらぼうな文体はパスカル・キニャールのほうがどきっとするけどね。優雅だけどね。

 
あはは、かまきり骸骨!!! そだなー、まあそんなもんかな。あれのでかいのは、「死の花」のなかにあるよ。カビはえてるよ。

 


ツァラ 五月二十六日(土) 23時40分17秒

 開くたびに、ちらりと、あるいはじっと眺めていると、そのつど新しい感覚が覚まされることに気づいた。
「時が脈打つ血管」か・・だな、まさに一刻一刻、おれらは時に突き刺されていく。血管はオブジェではない。見えない川のようなものだ。そこにおれらは針先となって、あるいは針先を突きつけられて進んでいく。血流という同一なるものの愛撫に浸る。だがこの愛撫はつねに更新され二度と同じくは現れない時の仕業なのだ。消滅する愛撫。


(二〇〇一年五月二十六日から七月十九日まで。初出 HP『ガラスの犬』)