目次



ガラスの犬【犬語の研究】  目次



 

余白            8

第一章           13

第二章           23 

第三章           31 

第四章           41 

第五章           51 

第六章           59 

 

着想と引用の典拠      69

あとがき             71 



 

































                              
             
    







     ガラスの犬 【犬語の研究】 



















テキスト ボックス: 彼は墓に臥す
星々の灰の上に、一族の共有の灰の上に哀れな人物は横たわっていた、海には欠けている無の一滴を飲んだ後。(空の硝子壜、狂気、城に残っている一切?)無も去り、純潔の城が残る。 
 (ステファヌ・マラルメ『イジチュール エルベノンの狂気』 最後の章句)











 (蛇が這う不眠の月光下
  月面は顔を失う 宙の鏡の中で
  緑苔に閉じ込められ ガラスの花瓶は転がったままに) 
〈私〉は覚醒し語に語らせ語の空いた鎖環(トートロジー)を楽々と滑っている と思う 
だから午後には再び知らずに問うだろう あまりにも無邪気な新月の産褥のように
〈犬が鏡を見詰めるだろうか〉と

 








〈私〉は生きた脳のまなざしを不毛の雲を吸った夜の花瓶に沈める 
夜は垂直の虚 何層にも陥没し 深い唇の竪穴へ 気化する肉声 
獣匂 銅目(あかめ)の花芯 明るすぎる瓶いっぱいに  
  虚なはずはない 声を水平に浮かせる生きた夢だ  
〈立ち昇る夢語 覚醒の瞼を切り裂き 次々に落下する欠片の鏡面(ガラス) 
  虚像は一瞬の激発*だと知るとしても〉

千切れながら 次の日の昼下がりの上空へ また次の日へ
 新月の白い神経をぶら下げて 


 


 
〈私〉は緑苔に臥せ 神経の棘を空に突き刺す 星のない海を見下ろすために
異化の唇(エクリチュール)
水平に広がっていくそこでしかない陶酔(ガラス)の水面ではないか
――そうそう 人類の脳天深く (十字に割ってその因斑を染める祝祭の交叉物語(オブジェクト)*といえども) 
   金の蛇が這う 煌く陶酔の波紋に乗り 






薄い夢の中 光る鏡面 
  氷温の一匹の犬 じっと蹲り 
  白夜の極上の青いシーツが
  生き物らしい血走った銅目(あかめ)を包んでいた





 

          


























第一章

                        1

総毛立つ 夜の不毛の雲を食んでいた  
崩落する水花瓶
―― 音もなく 
   一本の水茎の 蒼い頚骨を折り


そこは すっぽりと無響*の水穴 水没する無人の広場
痛くもなくしゃりしゃりと鈴の音振り乱れ   
(どこまでも広がる一様な鈴音だった)

 


   幽かに 
 たまねぎが一枚 脳から剥れていく
白い雨足が切れ切れの瞬間(トートロジー)をゆっくりと凝視する  
おお 息は石*だ  
 (あらゆる石が恍惚のつるりとした石だ)
胸を透過する等質の水 失墜する水(スキャンダル)* 
路面下の氷海を漂う(ブイ)* 

 
 
 (覚醒を怒号するらしい至近の雷鳴が 雨中にはためく山上の
 
祝祭の幟を撃ち続けていた 性懲りもなく)


















花瓶に沈むまなざしの花々 
見詰める者もない鏡面(ガラス)の犬 












 
                        2

〈私〉は肉体のない死者 のように 夜の寡黙の背骨に滑り込む
  空洞のシロフオンを奏でるために
―― 
 駆け下りる櫛状音階 透過する滑らかすぎる砂嵐 
その都度の〈私〉という影語 背後から絶え間なくばらばらに放擲され 半音ずれて逢着し
〈私〉はあらゆる厚みと影から押し出され 
落砂ともに不眠の発光ゼラチン球体*になり透けていき 
ぽっかりと鎖環の空洞 その真中にいるように
それともしっかりと眠りの銀鎖を噛んでいるのだろうか 肉を食み 






二層に響きあう空房    
白日は夜*を満たし濾過し  
脱走する千頭の犬群よ
煌々と水銀の犬の吐息 背骨を繋ぐ覚醒への空隙線(シロフオン) 塵もなく
  軽々と落下し 分散し いずこへ
    








  




                        3

こめかみの鉄輪が水花瓶をきつく縛っていた 
白い海月の脳器 死んだ笑いの襞を広げ
 甘い水の中の水*の中
美しいアミーバーに触られる脳 もうひとつの〈私〉 
ぴくつくだけの有生細胞群の誕生を間近に眺めていた 
背後には凍りつく鉄輪の空窓(フレーム) ――粉雪まじりの暗い路傍で〈私〉は生まれた
(と告げる遠い額縁)
*


〈私〉は太古から生きてきた慣れた死者のように水底の回転扉を押す
意思のない流木の爪を立て 喜々として水の外へと突き出し屈伸し
ぬめりと 舌のない無響の喉声を吐き (回生せよと)

 


脳を食うアミーバー アミーバーを食う脳
目が覚め異言にカサつく蜘蛛の首骨ごと そっくり手に取る 
(おお 行為()の瞬間は冷たく巨大だ)
〈私〉はこんどこそ乱舞する粉雪の死細胞に近づく――そいつこそ極上のアミーバ―だ――
正気らしい 異言に満ちた凍土の過去へと裂開し そこにも死んだ笑いの襞を展げ 
 憎悪の青白い象皮 生きた脳内触景であろう 血の失せた瞬間の長い列
 暗い哄笑の洞穴の奥へ 〈私〉は何度も死んで流れていく 
   





軸のずれた螺旋回転 梯子状神経突起の摩擦
速度限界と眩しさのあまり犬の眼が開く 
  (何も見えない
   見えている)






痙攣し 安寧な着地をしらず 
後部脳漿に生える金属上唇 翻り薄青く光り 表裏異化の羽(エクリチュール)
私が犬語を話していることをあなたは信じるだろうか
 と呟く 〈肯定も否定もない犬語 異境を旅する回転梯子の道化師のように〉
 
































第二章

 

    4
  
濡れない水の夜を滑り  
平原へと解体される〈私〉 
見たこともない白磁の外洋へと一気に泳ぎ渡り 
振り返ると青白い河口の牙が澄んだ夜空の冠を噛んでいた
(浜辺では群がり止まない鳥葬 人列が散乱する象皮の交差点) 
 白昼であれ夜光にはばたく葉緑ゼリーの羽(エクリチュール) きっとそうだ

 
飛び去る羽(ことば)
 白木蓮の匂い 微かに擦り 忘却の瞬間に間近に立ち会うだろうか
吸込む熱帯の腸の口に活けた花弁が微笑む――(私)は忘却を知るわけがない


〈私〉は光るアミーバーになり流れていく 濡れた群集を掻き分け 
 そっくりの 移動する太古の群獣(アミーバー) 列をなす背の光(イメージ) 
 予感に似た幽冥の川筋に沿い 白昼であれ 不落の白夜ドーム(ア・プリオリ)を形作るであろう
  忘却を溜めたいつもの薄青の川幅いっぱいに 
 


無尽の瞬間(トートロジー)
のモザイク波紋 川面に砕け 散り散りに 




漣に降り注ぐ月光のリンパ液* ほら 残された一本の背骨を透過する 
 《外からか内からか》*
岸辺はいつからか凡庸な忘却の闇の中に遠ざかり ほんのりと
 ほら 嘗て〈私〉と言い慣わした古い語の丸い石(ふるいカプセル)





 
                        5


「ミイラよ、この紡錘(つむ)のように細い手よ
汝の贓物をひっくり返すための
この両手に、おぞましい影が
一羽の鳥の姿をとる」――おお その両手こそが舞台で苦悩のカプセルを愛でている
差し込む熟果の甘い風 ふいに名指される空虚(ミイラ)の仮面の下 
 (ある はずの顔か?) 
 筋雲の微小な先に 書割の空の受け皿に――
(ひび)
割れた電線の葉脈神経の囁き 絡みつく犬声に似た風圧 かき混ざる波雲の哄笑があるだけだ 原生古来の長々しい火櫛(トートロジー)があるだけだ かくして〈私〉は決意とともに楽々と離陸するのだが ひくつきを止めない盲目の秒針の 時計仕掛けのマネキン群が踊る模型の電光交差点 
重い空は針端で易々と抉られるだろうか 〈ばらけていく仮面〉
おお 一昨夜の夜陰を掻きまわせ くそたれとくそ*



望んだわけではない空虚の砂嵐よ 〈苦悩〉など知る由もない 足元が燃える裸足の憎悪その足元に――
 踏み潰せ (顔はない 断じて 岸辺に砕け散る新生の泡波のすべてを数えるほどに冷静だ) ――

犬になれ 犬になれ犬になれ犬になれ*


空虚と憎悪の犬 噛み合わない狂白の顎骨 
喉詰りの犬声 低く滾らせ――
  同化も異化も拒む骨格の隠れ家へ 
  親しんだ水中の疾駆へ 
蒼穹に通じる背骨の空洞に 新しい氷の鈴音(シロフオン) 振り乱れ
次に色模様の屋根屋根の澄んだ上空をさえ俯瞰する









                        6

白色のきっと半覚醒の空の高みへ
何もかも跨ぎ越し 
舌の重力管を失ったゲル状の〈私〉?
なのに何度も何度も真っ直ぐに澄んだ目の犬が落下する 気持ちよく
 (ほおっておけ! 黎明だと?)
(カテゴリーといわれる日々の幕開けにも!)
 




(昼の根瘤が膝まづく(ア・プリオリ) いつかそこにいた白霧の奥 
還流軌道に乗り洋上の空との幸運な溶解を果たした(ペルソナ)
不帰の生死もない夜のすべての夢を凡庸に見下ろしていた)



星のない外洋の只中 身震いしさらに沈下し 
――犬語の夢(トートロジー) 
平原を満たす夢の光(リンパ液) 緑苔に置かれた鏡面 犬の銅目(あかめ)ふたつ―― 
不眠の夢(トートロジー)
をもっと食め 〈生まれたての目玉と上唇だけの犬が歩き始めるぞ〉





































第三章
 
                        7

のっぺりと喪章の額と額 道化ズボンが膨らむマネキンの交差点* 
小さなはらほりはりほら ゆらめく梢の指輪もダブって薄れ
引掻き歪んだビル壁 斜光が巨大な雲の赤い腹を刺す
  立ち止まりふと振り返る道化師 雑踏の背に差し込まれるピチカートの沈黙 
 〈遠地に譲渡されるひとひらの花弁にさえ 
 ――黒い向日葵を生む裂け口はある〉
路上に血脈を滴らす遺言 紙魚だらけの


(美しく血塗られた枝ぶりの腕を掲げ
  古代の洛陽が色褪せていく)
 だんどんだんどんだんどんだんどん
朽葉の光景(くそ)
 破裂し分岐していく糸ぜんまいの血痕(ア・プリオリ) 
血まみれの葉脈神経の楽器(くそたれ)が震える (引き返すには間に合わない)
路地裏にはなおも斜陽のアコーディオン 華麗な連弾(くそ)の響き 
(巻き戻し不可の楽譜どおりに 音は聞こえるがもはや解読不可の楽譜だ)
葬場の地下階段に片足を置き忘れた休符の記憶*だろうか?  
 





 こんどこそ はらほりはりほら
 (首吊りと洗顔を同時に行う) 
あらゆる振る舞いは平らな一枚の光景(フイルム)*にすぎない
背走する人列 落影の消失点 翼ばかりの影の跡の(アンフラマンス)* ――
石塀の落書きにまじり 近づくと一拍遅れて結晶し直し 
  (影はもうない)







 
                        8

愚かしくも犬を犬と呼ぶだけのことではないか*
欠落を凝視め合う? だが双眸の綿毛だけが交じり合い 
乾いた谷底の夜空にからからと転がり裏返り 
無尽の白昼をなおも補填する網膜(カメラ)―― 
だから見違いでも喩でもない 
頭蓋を轟々と洗う銀色の川の 明晰の水流に乗って突き破り* 
一切の解答の解答を覆し ひたすらにひたすらに 
犬の目玉唇を美味そうに切り裂いたのだった  
――迷宮の掟どおりに




              
薄膜の天空 突き刺さる樹木の 根 路上には梢葉に千切られた瞼
練り歩く喧騒の蛇腹の中―― 胞子房の炸裂はやまない (雨中の幟とは類似と同一の因班だ)
(犬はとっくに死んだ! 青い敷石の路上には石榴の目玉と乾いた上唇ばかり)
 








 
                        9

連々と続く白い二重露光
白日の洪水が白日を襲う 
膨らむ葉脈房(たまねぎ) 〈空房を背負った脱走〉
無限欲望する円形白色ガス光の裏瞼 眩暈の半透過通路を駆け抜け
ええい 私達の顔も青い炎だ 見られることはない!


白昼の最高輝点へ 旋回し上昇し 
怒張する軒先に真夏の涎を垂らし
恐ろしくもなくガード下の暗がりを放火する
屹立する二又街路が色彩の炎に包まれていた

 
 
頭芯のガラス玉(たまねぎ)
を強く握りしめよ 
枝枝の棘を孕む行止りの路地裏に まずは細めた目蓋に
 武装の掌影を黒々とかざし
逃走の地下水脈を穿つ草原へ――







(
裏返しの緑影 小さく揺れ 
指から漏れ 静寂の暗い炎 
逃げ去る薄い耳たぶ―― 死んだ犬への穏やかな風の囁きではなかったか) 












                        10

      (近すぎる好運の暗い机下 広大な静寂のそこに 
      空無の破壊と獰猛を祝う酒宴であれ 密集する無響の光線* 
      無言の鳥が見る犬の風景だ) と言う と言う









あらゆる風景を横断する雨脚の一瞬の黒い光を見よ
影は影だ










































第四章

                        11
              
動かぬ足 敷石には冷たい花弁の肢体 
(影を踏む首のない影)
 幽かな影の影の(アンフラマンス)* 
――地上の押し花どもは腐りかけているだろう 夜を司る絶対の星座のもとで
おお 敷き詰めた夢想の花びら 重さのあまり昏睡する石の眼よ 巨大な眠りの碾き臼に 
横たわる花茎の関節を回し 深深と眼球の白い根も生え 
けっして掴み得ない過ぎた雨煙の 半透過膜 芳醇に梳き流れ
夢見心地に噛み締める犬歯の隙間に 
見詰める赤い血の毛根の先っぽに
生き返るガラスの舌びら 葉脈状意識房(たまねぎ)の目玉
 路面下の氷海を漂う(ブイ)* だ (そいつが影を操り) 広々と浮き出る青い敷石の広場
 白い雨足 一瞬に横断する風景のように
 




((ペルソナ)の墓もとっくに水没だ そうそう 風景の深海を夢見る眼玉(たまねぎ)が泳ぐ)




(溶けた秒針の蜥蜴が蔓をよじ登っているぞ)  
触れない光景だ(色空を埋める瀟洒な連弾の響き 鉄輪の窓枠に巨大な花雲が膨らむ 交代の合図もなく 井戸穴から生え上る暗い蔓の眼)
 目覚めても蔓の眼を引き摺り靴を乗せ敷石がずれる 碾き臼の歯が飛ぶ 行ったり来たり
  踏み外し ねじれた振り子の 狂った夢想だ
地下階段に置き忘れた片足の 不在の疼き? 遠近二層のずれたリズムを刻み




――犬が螺旋のステップで踊る
  きっと一昨夜の雨上がり 動かぬ足で
影の影 水溜り 青い敷石









                        12

    (いつか 辿り着いたはずだ) 
長い敷石伝い 街外れの湖底の 煌めく飾り窓 そこに 
切り立つ石塊(ガラス)の額縁の中  
(
ひざまづく冷たい乳房と白い腹と毛叢) *
色鮮やかなあらゆる臓腑を晒し
眠り耽るミイラの馴染の裸身よ
(不在者を愛する一度きりの 終幕の舞台に相応しい!
気丈にも逆さ読みしている劇場の台本どおりだ)
脳天を十字に割って出現する稀有な交叉物語(オブジェクト)* 
   ゆらめく海藻のいくつもの掌が 
   滑らかな昏睡の背を撫で回していた




流れ行く水葬の緑モズク 
艶やかな黒髪の投網 大きく振り上げ
もう一度 ひしと抱き締める もう一度?
(
眠りのシーツを裂き 発せられてもいい悲鳴は聞こえない)





                        13
               
不眠の鍵穴が覗く 
青い敷石に続く瞼の青い庭にいる 
 
(死を暴く目覚めは永遠にやってこない! ここは犬が青白い光に誘わ
れ迷い込んだ劇場だ 演者になっているとは知らない夢見心地の観客よ
 
そうそう 恐ろしい疑惑も美しい疑惑も暴かれることはない 
断崖に立つ 冷酷な死のドラマの舞台であればこそ! 
交差点を遮断し 星明かりの千年の通夜 弔問の客は初めからいない
不明の鳥の翼――取り壊したビルの窓枠を過ぎり 
  《外からか内からか》*
掻き抱く亡霊の寝息が 日々の劇場のすべてだ! ) 





細く透けていく生骨 そう 生きて死んでいく
闇に穿たれる光る穴 そこに
見えるはずもない網膜の奥深く 昏睡の舞台を囲う黒幕に隠れ 
 ぼうと光る瞼の帽子を目深に被り 
寄り添う死骸(ミイラ)が吐き出す闇の水を啜ろうと 
もうひとつの透けて覚めている脳髄 水色の腹の蜘蛛 静かに横たわり
光る死骸と 死骸の光像(シーツ) 
闇に穿たれる光る穴 眠りの無響の穴に
 











                        14

たまねぎの光る皮 また一枚脳に重なり すぐに剥れ落ち
 
  
頭皮の下は砂の瀑布 
無量の分身の輪切り ふっと消え
ぷっくりと目玉唇が目玉唇を食べていた 
牙を転がしぴったりと眼窩の奥に達し 
海底では 流砂を噛む貝音の突起が止まない 




はらほりはりほら 
積み上げた独白の骨(きまり文句) ちりぢりに
砂漠を詰めた壜の口を引寄せ
ぬるりと 変な味の水を 啜っていた
  何も映さない夢床自身の砂丘を越え 
  血管虹膜の網目を眺めていた
  近い? 遠い?












      (狂笑寸前の頂針に堪えろ 
      叫鼻の爛れた襞壁に素早く書きつけよ  
      非の打ち所のない回文の 断固とした予告の文字と楽譜を
      さらに悲痛に叫ぶ覚醒へ 半覚醒の泥の悲しみを突き崩せ 
      死んだはず 犬の目の奥に 蜘蛛の芥子実の光球強く光り 
      不滅の光に縁取られる劇場のドーム 
      開かれる華燭の円天井へ さらに加速する夢の円盤の中心へ)




















第五章

                        15

陽光の額縁 (ひざまづく冷たい乳房と白い腹と毛叢) *
―― 背後には凍りつく鉄輪の空窓(フレーム)  そこから望む外洋に囲われ
   粉雪まじりの暗い路傍で〈私〉は生まれた
     かろうじて形らしい雪虫のように

(望んだとおり遺作*は匿名の風景だ) 
崩れていく陰影の砂絵 花芯の骸 ガラス花瓶はそのままに (絶対回文の台本通りだ)
黒子の裸体を焼く粒ぞろいの青い火の粉 
容赦なく 悲しげに噴き上がり 
 青空から垂直の夜の虚ろへ  
未見の白磁の外洋へ 空気のようにどっと落ち  
  
   

這い回る一続きの白布(シーツ)の上だった 
白布(シーツ)
の下にまた白布(シーツ) 縫いつなぎ 食いちぎり
水浸しの割れた顔面(カオス)*  枕辺を彷徨う上唇 
死者とは喉の滑らかな鍵盤だ  
  (勤勉な海鼠が愛した水 
  苦い吹口と食べ残しの肉片) 
夢のかけら(セル) 割れ続け (宙吊りのの殻) かけら 割れ続け



遠地に譲渡される泡波ひとつ 星座を映す海(ア・プリオリ) 形見のひとひらの花弁にさえ 
――黒い向日葵 その種を生む裂け目はある 乾いた語を吐く石を海藻の舌が舐める




   やがて灰色の霞 岬を曲がり 幅広の潮境を乳色に引き裂き
   拡散し続ける遠い青空が 背骨の糸巻きをからからと操っていた





 
                        16

    (どこまでも広がる一様な鈴音だった)
    (重ねられた青いセル画 掌上に透けていく頭蓋)
「もはやそこに刻まれた線のうちに観念を定めることのないこの脳」*
白い雨足 白日を襞分け 液体アルミニウムの洪水  

灰色に焼かれた血脈の道 いつか ダイヤモンドを包む灰緑色の雨煙の日に 
〈私〉は僅かに色を留める一本の水茎の あなたに出会うだろう 
〈もっと細い 折れた頚 紡錘(つむ)の点を呼吸する線描画の ――はじめての語が繰返して編む葉脈思考の〉

〈私〉は割れた水花瓶の口を水中花のあなたに差し出すだろう 〈だが名に似た鈴音は聞こえる前に聞いたのだ どうしてセルに浮き出てすぐに遠ざかる花の名を呼びえようか〉
ミイラの沈黙を回流する水の唇よ――




割れた花瓶 掌に空房の
 (だれが遠い者でだれが近い者なのか?)*
私はあなたは私(わたしわたしわたし)あなたは私はあなた(wawawawa)
脱走する千頭の犬群よ 千の顔よ 
背中の海面にはびっしりと億兆波頭の同形封印(トートロジー)*
(一面の波頭 鮫の目のほかに誰がいるというのか
私-達
は いない と言う)




      かけら 花瓶 割れ続け 音の水 切れ切れに








                        17

おお まだ立ち去らない
(好運の(ペルソナ)の群れが海面に光る影を撒き散らし早口で歌っていた
海自身の水没による巨大な死こそ 
海面はきらきらとどこまでも氷漬けの花芯(トートロジー)だ と) 

だんどんだんどんだんどんだんどん
死に損ないの頬を撃つ百の海流 空いっぱいに 
響き渡り 老いた海原(トートロジー)*弁明の声(アリバイ)
 海の狂った歓声よ 
(浜辺には気高い犬の遠吠えの地声 
太古の潮騒(ノイズ)水平の安定*において応えているではないか) 
 



寝返りしてもやはり一続きの白布の上だった
すっぽりと無響*の水穴 水没する無人の広場
見よ 暗い雑踏の谷間には 
聳え立つ いつもの 白光の絶壁
回帰しやまない霧雨の祝祭をこそ!








    深海の瑞々しいたまねぎだけが 
      白々と 眺め
      未だ! 未だ! と叫ぶ



























第六章

                        18
               
冠水し続ける空 千の針先 
ぶちぶちと一斉に囁き
無痛の犬が歩む
足音は澄明なトレモロ平行音  
からこらはれほら
千切られた向日葵の黒い首 首 首  
不逞々しく分子増殖し 絡み合い霧雨の針先にぶら下がり 
 水に篭る緩やかな二重狂声よ 
 ばらけていく外套のない頭蓋(たまねぎ)   



 
〈私〉はたまねぎの白い重なりのまま歩く
〈光源を持たない一条の光線〉がさしこむ
 と 住みついた蜘蛛が賢しげに宣まう 
見よ! と大げさに叫ぶ
白白とゼリーの無数の果頭 
ぱっくりと開いた王宮(内部)の多面球体 ――起源の問い? 
だが軽々と透過し 

刺立つ気泡の群れ 私〉 

ちがう 幾重もの燐光(たまねぎ) 再生し続ける白日の白日*
  
――光る球体(たまねぎ)*に境面はない  
(
犬は律儀にもあの一羽の鳥が変じたガラスの花弁を銜え 目に止まらぬ速さできりもみ回転し)
まなざし(ナイフ)
の先には 
笑うべき微かな虚空  
狂躁のたまねぎよ もっと膨らめ!







頭が冷えていく――(内部)を吐く煩い蜘蛛 もっともらしい水面の
疑惑の感触さえも一切を消去し 柔らかい皮膚や顔 そっくり失い
 亡霊の獣 いや狂った顎骨のままだ! 
あなたは水槽を泳ぐ盲目の白眼とぶつかり分散する海綿体 ほら 
私は回転する気泡なのよ と 根のない爪の透けた掌をひろげる

              











                        19

〈吊るされた掌 白い斑雲 
弱々しい稲妻を見下ろし 遥か上空に 
白い幻 方角のない立体交差を彷徨うガラスの犬
濡れることはない!〉


鏡の持ち主はとっくに蒸発しているではないか 
河口には人人を吸い込む腐食金属の蓋 
楽々と開かれ 鍵穴のない地下トンネル一杯に 
せめてもの足跡の 菌糸が生える蛍光緑 
健気な嘔吐の光る糸(クロニクル)
 


巨大な鏡が作る都市 乱光の川
過食の眼球と房状複眼 群集が犬を盗み見ているぞ
コピーし合うまなざし 短命の雑踏の波頭にも 
 乱反射する青空ひとつづつ




人人の川よ
這いつくばる地上!









                        20

  冷たい水中に没し続ける 空 
ついに金属太陽の死骸が黒々と沈む (薄目の瞼に)
(
透明の黒い死体(コルプス)が犇く広場 星を失った哀れな海は見えない
 笑うべきあちこちの弔いの合唱 濡れた声の布の下に)
虚妄を放つ海月 清い敷石に光彩が満ち 
祝祭の幟が舞う―― 性懲りもなく 水は不滅(きまり文句)だと言う 
手当たり次第にそっくりの影の形を 着る 
無味の薄闇の水 いっぱい吸い 
食べきれない不毛の雲を抱え  
(おお 生きているのか 死んでいるのか)




無為の狂気だ と言うことにさえ慣れすぎた と言う
生の断層は透明で空虚だ 
と言う夜を運ぶ上流の時塔(ア・プリオリ)も崩落し 
つねに空しい溺死の最中だ と嬉々として繰り返し言う
手のない鏡面(ガラス)の犬だ ともう一度言う 月面の失われた顔の前で 蹲り留まり 



空洞の喉筒 等質の空
   からからと過熱し
はじめから語を失った薔薇色の声帯を震わせ                       
何事もなく草原の川岸を行き交い 
 幼い金属の犬声
遥かな低い地声




銀色の大きな川 ゆったりと
 流れ 一昨日にも
まなざし(ナイフ)
は 滑らかな川面に放たれるのだが
男の裏返る目に一振りのナイフ 突き刺さって いる  



























*  着想と引用の典拠 :
渋沢龍彦『犬狼都市』『獏園』 サミュエル・ベケット『モロイ』 ロートレアモン『マルドロールの歌』 アントナン・アルトー『ミイラへの祈願』 ステファヌ・マラルメ『イジチュール』 モーリス・ブランショ『白日の狂気』『至高者』『明かしえぬ共同体』『ロートレアモンとサド』『最後の人』『謎の男トマ』 エマニュエル・レヴィナス『『白日の狂気』についての試論』 ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』『内的体験』『マダム・エドワルダ』『眼球譚』 ジル・ドゥルーズ『狂人の二つの体制』『批評と臨床』 ミシェル・レリス『オランピアの頚のリボン』『闘牛鑑』 EM・シオラン『時間への失墜』 ジエラールドネルヴァル『オーレリア 夢と生』 

トリスタン・ツアラ『アンチピリン氏 はじめて天空冒険』『種子と表皮』 ジャン=フランソワ・リオタール『聞こえない部屋』 マルセル・デュシャン『全著作』『遺作』 ジャン=ミッシェル・モルポワ『夢見る詩人のてのひらのなかで』『青の物語』 ゲルハルト・リヒター『エマ(階段の上の裸体)』 他   

和田康『歴史と瞬間』 北山研二『ノートのマルセル・デュシャン、蝶番の思索者』 近藤耕人『サミュエル・ベケットのヴィジョンと運動』『写真との対話』 




























 
あとがき


 じゃれあっているのではない、目玉を貪る容赦のない殺し合いだった。白夜のもと異相の夢の舞台でそれは行われた。無数の白い頭蓋骨の捨て場である川岸。なんと眼窩を串刺しにされた同形の犬の白骨どもが風の笛になり一斉に喚く。wawawawaという叫び。

 私はあなたは私はあなたは私はあなたは私はあなた(w A w A w A w A)。連鎖転換人称による発話とも聞こえるが文法をあてがい慌てて矯正を試みても無駄だ。犬は一匹ではない。無数の恐ろしい声が夢の海溝を彷徨う頭蓋の空洞に怪しくこだましていた。もともと無表情の犬どもだ。白々と醒めてもいる。夢として観察すると発話者の「私」が「あなた」といわれる影のような相手を等倍で吸い込み、完成された夢、無垢の気体のようなものに凝固していくと見える。
 死を巡る加熱していく奇怪な無限循環。私を殺せ あなたを殺せ。どちらともいえない殺害者の雄叫びが刃になって夢の中で煌めく。昏睡と官能の奥底を押し上げその果てに獣どもの混濁した喚き声が無理矢理に一つの喉笛を通過する。奇声を発した喉笛は夢を見た本人のものであることは間違いない。まるで犬になったかのように。いやはじめから犬であったのか。

 犬の喉と「犬語」は夢の中なのに実際のことでもあるような混濁した感覚だった。夢と実際の間を行き来する。白夜の青いスクリーンを見るように、半覚醒の感覚とともに陶酔の舞台を眺める覚めた観客の目があった。ネルヴァルは「夢はもうひとつの生である」という。ならば、変身の夢、二者分裂・合一の夢も「もう一つの生」の出来事として観客に対してなんらかの存在を主張するだろうか。ネルヴァルは茫茫たる地下の夢想の帰着点として「精霊たちの世界」を求め夢想テクストの「象牙ないし角の扉」に手をかける。

テキスト ボックス:  夢はもうひとつの生である。見えない世界とわれわれとをへだてている、あの、象牙ないし角の扉を私は慄えずには押し開けることはできなかった。眠りのはじめのイメージは死のイメージである。








テキスト ボックス: 混濁した麻痺が思考をとらえる。すると、もはや、いつから、「自我」が、もうひとつの形のもとにその存在の業を続けてゆくのか知ることはできなくなる。そこは茫茫たる地下だ。それがしだいに明るくなってきて、辺獄の宿を借りるものたちの、蒼ざめ、重々しくこわばった顔が、影と闇の中から浮きあがってくる。やがて画面が定着する。新たな光が、その奇妙な幻たちを照らしだし、演技させる。――「精霊たちの世界」が眼前に開ける。
         ジェラアル・ド・ネルヴァル『オーレリア』
 ネルヴァルのテクストは奇妙な明るさに満ちた森のような夢の物語へと彷徨っていく。「眠りのはじめのイメージは死のイメージである」。「物語」は眠りと死のイメージの中で演技する幻たちの足取だが、その幻たちとは混濁し麻痺した思考のもとで浮かぶ「自我」のもうひとつの形だ。すでに変容した自我は「われわれ」を隔てた扉の向こう側、「見えない世界」にいる。それはきっと森の中の明るすぎる白日夢、死の世界に通じる。
 蒼ざめた、重々しくこわばった顔、形の影たち、死のイメージが「もうひとつの生」として動き出す。それらは「知覚しえない」ものの現出だ。知覚しえないものとは、通俗解釈では、対象にかかわるもの、たんに「みえないもの」のように見られるが、ドゥルーズは、知覚・存在合一論を批判して、まったく正反対に対象すらない知覚、つまり「死人」の知覚というような領野に知覚を位置付ける。「大海に浮ぶ浮」という。一切に関り無いのに、間違いなく存在する「浮」。「死人」の知覚とは対象・一切の述語関係を絶ったある種の主体らしきもの、純粋亡霊、モナドの知覚だ。視覚が奪われてはじめてこのことが露呈するともいう。ベケットの亡霊的主人公は「死人」でありつつ夢の中の人のようにあるいは盲者のように生きている。


テキスト ボックス: 月はなく、星で穴のあいた空が、剥き出しの窪みの底の、薄い氷の膜に映る。沈黙ははるか彼方の、沈黙に似てたえまない音楽にかわる。とだえることなく、一斉に吹く天上の風。すべてがせいぞろい。砂利は遠くでかすかに光り、小屋の壁もはじめて白く光る。





 奇妙な明るさに満ちた森のような、色でいえば澄んだ青、透明に近い青。「言うこともない」なんと美しい経験であるか。と生きた感覚が感嘆するその自己同一の場も含んだ輻輳テクストだ。つまりテクストにおいて明瞭に目覚めているからこそ語られる「死人」の知覚、この奇妙さをなんなく遂行している。肝心なことは、「死人」とは物語的な足跡はあっても人格死体、コルプスに還元されるイメージとは何ら繋がりはないということだ。「空」「薄い氷の膜」「天上の風」「かすかな光」「光る霞」など透明な気体のようなものとの同一化。少なくとも実体のイメージはない。有限な実体を含まない空虚の連続。実体のない、視覚に関わる対象と間係、現実の有用的関係にはけっして還元されない、「無用」の「死人」の知覚が奇妙な空間・テクストにおいて生きている。眼を瞑れば詩のテクストの青い世界だ。

テキスト ボックス: 眼を閉じても。眼にはもう霞しか見えないだろう。いや霞さえ見えない。眼そのものが霞でしかない。何と言えばいい。早く、それがすべてをぼかしてしまう前に、何とか言わねば。光。裏切る言葉で。光る霞。もう果てしない。もう何も見えない。言うこともない。静寂。
                  サミュエル・ベケット『見ちがい 言いちがい』宇野邦一訳
「もうひとつの生」の世界へ犬語の喉をそのまま差し出し語らせる。犬になりテクストは犬の喉から出る犬語でなければならない。

テキスト ボックス:  さまざまな現象の交叉するなかで凝固したミイラ、おのれの空虚の境を全く知らず、おのれの死の鼓動に肝をつぶす、無知なこの生きたミイラに、あなたは出会ったことがあるか。
 おのれの意志でミイラは立ち上がる、その周りで現実はみな動く。そして意識は、不和の火の粉をまくように、強いられたおのれの潜在性の場をくまなく駆けめぐる。


 無用の存在であることを指示しバタイユは「犬になれ」という。人であれ物であれその充足的連関世界において無用のものの混入はあってはならない障害だ。だから人は当り前に無用の犬を蔑み排除する。擬態ならどうか。容易に変身も出来そうな擬態としての無用の犬なら、必然的に擬態の犬語を話すことになるだろう。しかし擬態そのものがすでにひとつの便宜的有用であり、ひとつの有用はいずれ他の有用に場を明渡すことになるだろう。そのうえ人は擬態であれいつまでも犬のままであり続けることには耐えられない。犬であるとは処世訓がなじむ擬態ではない。「犬になれ」、無用の犬であれとは、いかなる関係からも遠い、ゆえに親しく近い。そのために頑固に犬はたんに犬であり続けることが出来る。それだけのことだ。とはいえやはり犬だ。何者か。
 ネルヴァルが「辺獄の宿を借りるもの」といいドゥルーズが「大海に浮ぶ浮」といい一切の対象をもたず存在の業さえ不確かでベケットが語るように眼は霞になりかかった「死人」の知覚だけが生きている存在。その知覚において物が名前とともに引っかかることはたぶんない。マラルメならば、家具や壁掛けがなんらの意味もなく鏡に写る主人の瞳とともに溶け込む、「久しくも夢みられた純粋自我の麻酔させるような静けさ」の「夢の時間」「真夜」。いずれにしても、「生きた死人」の、もはや形も時間も喪失した自我なき知覚は、たんに存在するだけの犬の知覚もきっとそうだ。あるいは訝しい犬の喉と犬声を所有したことからこれが犬の知覚だとして、眠りと死のイメージにおいて「死人」の知覚に突き当たったというのか。明るすぎる夜。この夜には温度はない。しいていえば冷たい。
 無用への報いとしての排除に見合う反発的根拠が醸成する。空虚で無用である犬の頭蓋に、ある種の懐疑と憎悪に似た透明な氷温の感情が漂う。それは虚無の犬としてミイラのように凝固した「死んで生きる」犬であることの別の相だ。有用的連関からの離脱に対する犬らしい虚無的反発、無間地獄に似ていようとも、このトートロジーへのそれしかない撞着と目標のない憎悪に悶える存在、ついには不在の必然を受け入れる冷たいミイラ。









テキスト ボックス:  このミイラのなかには肉体の破壊が存在し、この知性の肉体の陰気な語り口のなかには、この肉体を祓うことの完全な不能力が存在している。この不可思議な生身の静脈を走り、その痙攣のひとつひとつが世界のあり方であり、別種類の創造でもあるようなこの感覚は、誤った虚無の火傷のなかで道に迷っておのれを食い荒らすのだ。
 ああ! このような懐疑を養う父親となり、その気晴らしと花をひらく結着のなかで、誕生と世界を増やす者となることだ。とはいえこの肉体も要は端緒にすぎず、不在(アプセンス)、不在、不在・・・・・ 不在にすぎない。
                           アントナン・アルトー『ミイラ書簡』
 殷々としていてもアルトーの章句は覚醒した全くの正気だ。肉体の空虚を抱え陰気な語り口を余儀なくされ、さらに奇妙にもアルトーは「私は夢のなかで覚めて語っているかのように」などと言っているようにも聞こえる。その言い方は夢の中でもはや誰のものでもない空虚の口が吐いた気体や影を追うように語る。陰気な語り口は空虚に相応しく、覚めた意識の中で声は二重になる。実際と混濁した夢のあの犬声のように。
 ミイラが起きて語るのは世界こそが病気の狂気によって眠っているからだ。覚めているからこそ愚鈍な狂酔者には見えない痛々しく肌を破る「誤った虚無の火傷」もその正体を顕わす。虚無は、無用者排除に起因する偏頗な病的心理などではない、病を克服した明晰な意識にのみ映る、蔓延する空々しい虚偽の言葉ども、偏在するその抜け殻、影のことだ。抜け殻、影は実体の有用的連関との直接的な離接(痙攣)において生じる。影はあらゆる形や光景を可能にする抜け殻のひとつだとしても、ミイラに出会うのはネルヴァルのように夢の中でだ。つまり正気といってもミイラの虚無を覗き離接(痙攣)に震える明晰すぎる覚めた狂気だ。
 一歩ごとに(必然の有用言語との摩擦で)火傷が夢の肌を焦がす。必然のミイラが立ち上がり痙攣し別種類の創造を始める。懐疑のリンパ液を溜めた透明憎悪からの蒸留、虚無を純粋発酵する創造。それはミイラさながらに青白い息を吐く詩のテクスト世界であろう。創造の中で覚醒者は不在の肉体に出会うのみだ。というよりおのれの透明存在に肝を潰す。あらゆる有用的存在者がみごとに消えている。消えたのは、あの奇怪な夢の中での叫び声が露にしたように、消尽の官能の果てに肉体を持つ相手を殺した結果なのか。殺されたのは自分の方でもある。収拾不能の苛立たしい夢の気体が口を塞ぎ呻き声を押し出す奇怪な創造だ。これが犬語なのかどうか知らない。 
 その直接の理由があらゆる有用に対する「不和」と憎悪であればこそミイラ犬の形象はさらに明瞭におのれの敵を見出すことになる。人は無用を託つ犬、「誤った虚無の火傷の犠牲」に頓着なんかしない。反対に人は有用であれば糞でも平気で食らう。犬であるとは、人の口臭が染みた道徳や歴史に穢されない清浄と高貴、有用を顧みない畏るべき破壊と獰猛、ミイラでありながら冷酷無比な生命貫徹力を持つ不滅の存在の存在証を示すことだ。それらの性質は還元不能な憎悪の地底岩盤を持つ。澁澤龍彦は、人類の俗流エリート・俗物魚類学者に飼われかつ彼らに煮て食われる貴族犬・狼犬ファキイルを、(種を未成の存在である処女・麗子に宿すべく)幻想の誕生を欲望する、ファキイル=欠乏の穢れない形象として描く。ここでいわれているのは人類に飼われかつ食われる内包的存在としての犬だ。犬が内なる地底で吠える。絶対の欠乏と憎悪の遠吠えだ。それは増殖の欲望と生成を担いかつ孤高の虚無を完成する不毀高潔なエネルギーの表れだ。犬があくまでもたんに犬であり続ける理由がここにある。
 譲れない憎悪。いうまでもなくそれは実際の心情とは無縁だ。感情ですらない。空間そのものが獰猛なのだ。「一昨日はまだ来ない」という。白日の夜、盲目と死の空のもとでの狂い笑い。頭から千頭の犬どもが未曾有のやかましさで脱走する。明るさの中での抜け殻の哄笑。wawawawa・・・。叫ぶ風の笛が夢の川岸を吹きぬける。
 奇妙なことに、かく言う、変なやつがまだいる。ナイフのまなざしを持った観客然とした蜘蛛の目は破壊あたわざる一者だからだ。不在者を銜える犬。ガラスは見えない。と言う。







テキスト ボックス:  これが己れの裡に消え失せた、真夜の純粋な夢である、そして影のなかに姿をかくした真夜の成就の胸に抱かれて唯孤り棲んでいる、まごうかたないその明るさは、机の上に開かれた書物の蒼白さにおのが不毛を要約している、その本に、再びやってきた真夜によって語られた太古の言葉の沈黙が依然として生きつづけていることを別にしては、夜の、常のごとき頁と装飾、この真夜は次の数語によって終りをつげた無価値なおのが影を喚びさます。我れは純粋に帰すべき時であった。 
          ステファヌ・マラルメ『イジチュールまたはエルベノンの狂気』秋山澄夫訳   

 夢で見た川岸の澄んだ白夜のことを想った。同形の犬 連鎖転換人称 交互殺害 狂気 白夜 昏睡と官能 死のイメージ 生きたミイラ。夢の中で奇声を発した犬の喉笛。頭蓋は犬の頭蓋か。「犬語の研究」なるテクストを書こうと思った。
 すべてを宙吊りにしてやる。それは詩の光栄ある使命だと思う。


夏、毎晩の徹夜仕事でちょっと胸が苦しくなって、椅子から立ち上りガラスドアの外を見ると、夜更けの雨で濡れた舗道が白く光っている。
 寝静まる暮らしのことに思いをはせる。「できればそうはしたくない」といって牢獄で溶けてしまったあのバートルビー風のセリフがよぎる。いやちがう、ここが湿った牢獄の壁なんかではなく、上空の稲妻より遥かに高い成層圏に繋がる白い光の装いに包まれた空気の一部だとしたら、残されているのは成層圏の気持ちよさに通じる乾いた火花だ。むしろここで熱帯植物のように繁茂しろ、寝静まる暮らしをこそ完成させてみろ、というセリフをおれは欲する。牢獄の中でのバートルビーのセリフも火花を放ち、ナイフのひらめきのように乾いた上空に突き刺さっている。火花は地上を離れ上昇やまない。それは一種の憎悪の力のせいだとも思える。
 夜がガラスの向こうで白い光の装いに包まれている。ガラス越しに幻視した白夜の火花が真っ白に顔を照らす。顔。「あなた」。誰か。そう、俺は仕事だ。誰にも会っていない。
私はあなたは私はあなたは私はあなたは私はあなた。ガラス越しに聞こえるかのような夢の叫びはそのままに。
                                  
                                     (二〇〇七年二月二十日)















 堀田展造・三部作の構成

『ガラスの犬・犬語の研究』 

『空洞都市』   

『白夜回廊』  











































テキスト ボックス: *本書は二〇〇七年四月二十五日、著者プライベート版として一〇〇部限定出版する。






ガラスの(いぬ)犬語(いぬご)研究(けんきゅう)】 ver. private  

著者 堀田展造
発行所 KUMO   hotta@adagio.ocn.ne.jp
発行日 二〇〇七年四月二十五日