
留守番は
わたし
永久にくるくる
だなー 投稿者:crys 投稿日:10月20日(月)00時32分42秒 それを形而上学だと片付けるのは簡単だけど、あれだ、神という中心から隙間無く壮大な同心円文化を作り上げたばかりか実はこのことを除くとなにもないのが現実なのだということに、あらためて驚愕だよな。つまり存在とはことごとく形而上学。と思うとなんか胃の痛みも軽くなるよ。俗物唯物論は酔っ払いと悩める病人の巣窟。宣伝カーのあほ。涎たらして聞くあほ。なのに地方分権の権力者、銀行支店長。ちっ。
(無題) 投稿者:crys 投稿日:10月20日(月)00時13分39秒 アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団 マーラー交響曲第二番「復活」 でも 投稿者:crys 投稿日:10月17日(金)23時30分34秒 松浦さんがほめたところは、同作が「鉄腕アトム時代に空想した科学の進歩情況は、今や現実がそれを凌駕していると同時にそこに見出される虚無感によって」解決不能のジレンマにある、ということを描いたところらしい。なんか、うんざり。ほれ、ともかくも「不能」の壁を立ててその一方はばら色というやつ。科学のせいか?どーしてそーなるの。
らららの科学の・・ 投稿者:crys 投稿日:10月17日(金)23時20分31秒 松浦さんが激賞。読んでみよ。
肝心なことは 投稿者:crys 投稿日:10月17日(金)23時17分21秒 テクストにおいて作者は過乗なほどの情緒を撒き散らす。しかし、その作者とは作者にすぎない。それ以上の衣装はけっして見えない。裸ですらない。いかなる属性にも還元されえないという深刻なる情緒。深刻なんだよ。泣くにも泣けないほど。なのに、作者としての属性を引きずらないから、現実には鉄面皮のように健康で合法的で世俗的。
キャビネ200枚アルバム構想 投稿者:crys 投稿日:10月17日(金)23時08分44秒 テーマ 形而上学としての写真 志高く天高く 投稿者:マイ 投稿日:10月17日(金)09時31分54秒 『天高しメタセコイアの尖(さき)の先』 ちょっと気になる言い方 投稿者:crys 投稿日:10月17日(金)03時12分04秒 「自分が自分に閉じ込められることを拒絶する自由」。つまり飛び出すことだけれど、俳優エドはそのことを実線しているとすれば、要するに役者になることと似ていると解釈するというのは、あまりにも平凡で、つまり世の中はそういうものなのだ。劇場における自由。まったく自由ではないというのに。つかの間、表象において味わうだけなのだ。そのつかの間こそ。二重の幻想だ。
年齢 投稿者:crys 投稿日:10月16日(木)00時51分11秒 三十而立。俺の年齢。ぶはは。で、あとの不惑その他はいらない。わはは。いつも而立。この而というのが曲者だな。時而立。なんちて。だはは。で、まいくんの希望年齢はいくつですか。まさか不踰矩?? ごーめん。いや孔子さまは矩こそ命なんだからあがめておられるはず。
キブネギク 投稿者:マイ 投稿日:10月16日(木)00時30分10秒 『この道に今を盛りと秋牡丹』マイ キャビネ 投稿者:crys 投稿日:10月15日(水)04時49分10秒 200枚のアルバムを構想中。うむむむむ。
じっくりと 投稿者:crys 投稿日:10月14日(火)23時56分27秒 考えるぞ。逆算思考。テクスト・表明・形而上学・亡霊・不死不生・魂・情熱・愛・他者・法・言語・大地・物語・表層・光学・意識・記憶・写真・テクスト・・・・ これらをわずか4ページあまりにびしっとまとめて収めているのが、「明かしえぬ共同体」・ファイドロスのところ。(写真はつけたし) 逆算していくことだ。そうするとすっきりと。理知とへりくつを脱するために。
決定的事実 投稿者:crys 投稿日:10月12日(日)22時28分36秒 今読んでいる、ある写真論論文集。デュラスにとって、15歳の少女と中国人との出会いの出来事をもたらした川船での場面は、筆者によると過去の出来事というより多義性をはらむ全体的な出来事として決定的な場面であり、それは見えない(シャッターが切られなかった)写真でもあるという。問題はその「多義性」だ。筆者は言及していないが、文字通りに「多義性」ならば、そこで可能であった写真は意外なもの、奇異なもの、はみだしたものとしてありえたのかもしれないと、逆に辿ることができるだろうか。 訂正 投稿者:マイ 投稿日:10月10日(金)19時00分29秒 13日じゃなく8日(水)した。13夜と勘違い、あは、ごめんなさい。マイ
うすもみぢ 投稿者:マイ 投稿日:10月10日(金)00時52分40秒 『応挙展館の裏の薄黄葉』 池の鯉跳ねて波うつ後の月 投稿者:crys 投稿日:10月 9日(木)02時57分03秒 よろし、ですね。反響はつねに遅れるわけだ。同時というのは錯覚か。同時のために判別が遠慮して遅れるのか。お月様は謙虚。科学者が冷酷とはいわないけれど。
十三夜の月 投稿者:マイ 投稿日:10月 9日(木)01時32分20秒 『池の鯉跳ねて波うつ後の月』 『望月にふた夜たらづの十三夜』 もうひとつ 投稿者:crys 投稿日:10月 8日(水)23時55分11秒 今回の写真展は、本人としてはけっこう「ざわめき」を感じたものを並べてみたつもり。ざわめきとは、暗い道に落ちた輝くヘッドライトの軌跡に目を奪われる時のような、つまり、ようするに「狭間」において、ある、という居心地の悪さ。光を受けるという不気味さ。受動であることは、じつはそれは自発的な能動であるといういたたまれなさ。この摩擦にさらされるざわざわなんだけれど、あのK氏は、なんと「今回のは、前回の無人風景の行き詰まるような問い写真にはない、楽な呼吸があるね」だと!!! ええええ。そんなふうに見えたのか。
代人といえば 投稿者:crys 投稿日:10月 8日(水)23時43分29秒 ルーセルの代役。どんな文脈であったのか忘れた。というか、きっと肝心なことは、自分がつねに代役にすぎないのにそのことを忘れて交代不能の主役だと錯覚することにあるだろうな。なにしろ休演は許されない。倒れても。不生不死の魂だって代役にちがいない肉体を求める。
片腕募集 投稿者:crys 投稿日:10月 8日(水)23時24分43秒 だめだこりゃ。煙草を買いに、5メートル先のそこまでも行けない。こんなに忙しくては。めちゃくーちゃ。代人募集だな。といいたいよ。こんなのをもう何年もだぞ。機械のやつがじーこしている合間に、幾何学の起源を終りまで読んだぞ。ロブ・グリエもデュラスもオランピアも。フッサールのデジタル思考世界というものがよく分かる気がするよ。現実の世の中には悩みなどありえないのだ。高速飛行機の計器盤が悩むはずはない。飛行士の煙草一服の青い煙の中に夢。のののののの。まあ、煙草一箱270円だけれどね。買いに行くのに10秒のロス。代人がいたら足になって走ってきてもらう。 あー 投稿者:crys 投稿日:10月 7日(火)23時45分12秒 個展会場での「感想」のひとつ。「額装の意味は?」とか「詩と写真を交互に貼ればいい」とか。で、ついでに自分の展覧会の宣伝。写真をやる若いやつらしい。開いた口が閉まらないてやつだな。写真学校のレベルなんてこんなもんだ。馬鹿の巣窟。 二日目 投稿者:crys 投稿日:10月 7日(火)23時30分34秒 個展。初日からなぜか来訪者多数。まあなんでもいいけど。 の 投稿者:crys 投稿日:10月 7日(火)23時20分33秒 の、は不思議な言葉だと。名詞を形容詞に変えて、そのうえに、動詞をいくつも分蔵してイメージ連鎖をはてなく続ける。の、による形而上学の進化??
秋を愛する人は 投稿者:マイ 投稿日:10月 6日(月)20時23分33秒 『波の間に帽子二つや花すゝき』 メモ 投稿者:crys 投稿日:10月 6日(月)00時44分38秒 ダニエル・ハーディング指揮 マーラー室内管弦楽団 ベー『運命』 スピード感。巨大な音の絶壁からなんの違和感も無く微弱な音の糸が繋がって流れ出る、この不思議。若い指揮者の自信たっぷりな自己評価はあたっている。伝統にはない独自の音だ。『田園』は、はじめハイドンかモーツアルトかと疑ったくらいに柔らかい。羽の生えたべーだ。釘付けになった一時間あまりだった。サントリーホールは天国だな。心臓の新品交換をしてもらったよ。 それにしても 投稿者:crys 投稿日:10月 5日(日)03時09分00秒 フオトショップのカラーマネジメントなんて、廃絶しろ、アドビー。色が出なくて死にそう!!!!!!
ですなー 投稿者:crys 投稿日:10月 5日(日)03時03分31秒 ごもっともでござります。まいどの。
ほろ苦い珈琲です 投稿者:マイ 投稿日:10月 5日(日)01時46分46秒 『珈琲の苦味ほろほろ秋の蝶』舞 偽私的 投稿者:crys 投稿日:10月 4日(土)02時43分42秒 断じて許すまじ。だな。演歌のノスタルジーのどこが私的か。公認そのものではないか。「話題」の「風景写真集」。ばかたれ。
この感覚 投稿者:crys 投稿日:10月 4日(土)02時40分21秒 >踏んで思わぬ角度にぐさって足が向く、 稲株 投稿者:マイ 投稿日:10月 4日(土)02時26分57秒 『稲株をぐさぐさと踏む心地かも』舞 わかった 投稿者:crys 投稿日:10月 4日(土)01時05分37秒 その白く光る綿状の物体の正体は、写真だ。東中野の住宅街だったと思う。雨上がりの道の端が、銀色に光っていて、さらに輝く水溜りのあたりが路面に溶け込んで、その際のグラデーションにはなんともいえないときめきがあった。四つ切の写真はそこのところをきちんと表していたのだけれど、その晩、焼きなおした全紙では軽すぎてとんでしまっていた。再焼きすればいいものを、俺は疲れてしまって、半端な仕事をしたわけだ。夢の中で、あの水溜りがものをいいにきたのだと。がーーーー。
そうではなくて 投稿者:crys 投稿日:10月 4日(土)00時58分07秒 ヘーゲルの命題は、白い綿に包まれた棒状の光る物体で、中心辺りが一層輝いていた。物体というがガス状でもありしかもしなしなと動くのだが、それはどうやら掌の上にあるようだった。見ているのだから、目はそれの外にあるはずなのに、触った感じを辿っていくと、掌の中に感覚の中心があるから、掌こそが目であるともいえそうな錯覚で、しかもそいつは背を伸ばすように動くから、まるで、掌を離れたその変な物体こそが俺自身であるかのようでもあった。さらに奇妙なことに、光る物体が、しきりに言葉を発する。何と言ったのだろうか。あの時、あまりにも明瞭で鋭く問い詰めてきてそのために俺は息が苦しくなったのだけれど、思い出そうとしてもわからない。きっとわけのわからぬことだったのだろうと、気にしないことにしているけれど、ともかく、その言葉がヘーゲルと結びつくことの方が怪しい。あの時、たしかにヘーゲルの名が告げられたのだけれど。
悪夢 投稿者:crys 投稿日:10月 3日(金)00時07分23秒 明け方、思い出すのも嫌な夢と同時に息が苦しくなった。背中をもませながら、家人にはその夢の端っこの当り障りの無い場面のことだけを話した。変調の原因は、単純だ。たんなる多忙。「天才とは平板な論理学を実線する人だ」と、偉大なヘーゲルが発見したんだ、と夢の中で荒唐無稽の独り言。これを守れるのかと自問するうちにますます息が苦しくなる。そして、その前の場面は、壁にぶちまけるように跳ね返る周りの言葉にやたらと腹を立てる自分。この場面は何とか凌げた。 まあ 投稿者:crys 投稿日:10月 2日(木)03時19分12秒 俗謡にもあるから、気にしない気にしない。だはは。
『十月の飛行機雲や衣替え』 投稿者:マイ 投稿日:10月 2日(木)01時34分36秒 『長髪にこぼれ月夜の桂の花』 ああ 投稿者:crys 投稿日: 9月29日(月)15時05分32秒 つるっとした栗の実がどこかへ消えてしまった。場違いだったのだろうか。消えたのではなくて?この問いの摩擦は境界をなしているなー。ざわざわ。
こまのれこ 投稿者:crys 投稿日: 9月29日(月)15時00分48秒 わかりきったことだ。旅、街角、田舎道、格子の光などなどがざわめくのではない。摩擦、身を寄せようも無い。摩擦だ。風が擦っていく。その場。つまり境界。場ともいえまい。だがやはり一枚の光景にすぎない。かつて網膜を擦った光線。そいつが再びそして永遠に浮かび上がる。写真。よし。
わからん 投稿者:crys 投稿日: 9月29日(月)03時31分03秒 間違いなのだろうか??
おお 投稿者:crys 投稿日: 9月28日(日)03時18分21秒 いいね。今まででいちばんの佳作。既成のカテゴリーに収斂されない、観察。そこがいいと、思う。 おんぶバッタ 投稿者:マイ 投稿日: 9月28日(日)02時43分28秒 『近づいておんぶ飛蝗を見ていたり』 案内 投稿者:crys 投稿日: 9月26日(金)03時25分32秒 個展案内はがき、宛名書き、ふうふう。明日投函。がー。
風景とは 投稿者:crys 投稿日: 9月25日(木)23時36分31秒 とりもなおさず世界と同義でなければならない。しかしここに見せられる「風景」は、作者の心情であり、しかもことごとくありふれた、というりステレオタイプの型どおりの心情にすぎない。田舎の長閑なたたずまいに、くすんだ都市、店先の古ぼけた人形の看板、昔からの障子戸、霧に霞む港、排気ガス立ち込める空港、まなざしの焦点はいずれもすりきれた主題だ。これらの「写真」を前にして、風俗博識家なら流行歌や童謡にぴったりの歌詞をたやすく引用するだろう。物語に収斂されひとつの主観に閉じ込められた完結した絵があるだけだ。それは写真の皮膜性をつねに裏切る人間の汚点の集積であり、見る者を人間視点のあり地獄へと引きずり込む。世界はどこにもない。 しつもん撤回 投稿者:crys 投稿日: 9月24日(水)23時57分00秒 てことで。でも、Mさんの創作であってほしかったな。わはは。
連続性の哲学 投稿者:crys 投稿日: 9月24日(水)23時54分23秒 岩波文庫 二〇〇一年 シツモン 投稿者:crys 投稿日: 9月24日(水)23時52分32秒 岩波文庫にあるらしいけれど、パースという「哲学者」の『連続性の哲学』っていうのがあるらしい。どんなんだろう。「世の中に不当にしかあつかわれなかった」人だという。と、小説家のMさんより「残暑見舞い返書」のはがきに書いてあった。もしかして、Mさん一流の創作???!!!わはは。
夜中にペンキ塗り 投稿者:crys 投稿日: 9月24日(水)23時43分01秒 白いペンキ やー 投稿者:crys 投稿日: 9月24日(水)23時34分58秒 おひさしぶりです。ぽぬさん。しかも、こちらは初ですね。(と、真似)。ぽぬさんの現状とは、忙しいといいつつ、けっこう、あれですね。なんつーか、脳みそ黒々。濃いですね。早口の一気かきこがそういっているみたいですよ。 ねむり 投稿者:ぼぬ 投稿日: 9月24日(水)03時39分03秒 おひさしぶりです。しかも、こちらは初です。なかなかゆっくりと時間がとれない現状で。 つか 投稿者:crys 投稿日: 9月24日(水)02時58分21秒 季節にかんけなく、読んでいるけどね。まいくんもそーでしょ。と、ちと、へりくつ。 読書の秋 投稿者:マイ 投稿日: 9月24日(水)01時54分31秒 『新刊のインクの匂ひ秋の風』 もう一回 投稿者:crys 投稿日: 9月23日(火)23時51分13秒 読もう。幾何学の起源。デリダの序説はちょっとくどくどしい。でもフッサールの原文でひっかかった同じ箇所をデリダも引用していたりするのを発見して、そういう楽しみ。つか、やはし、自分の問題意識で読むともっていろいろ見えてくる。起源は前幾何学にあるがそれもなんらかの文化の痕跡を刻んでいるという。摩擦だな。大地を撃つ行為。悲しみの起源だ。 たしかに 投稿者:crys 投稿日: 9月23日(火)00時18分12秒 曼珠沙華の赤は独特だよね。ぎくっとする毒赤にもありがたい彼岸の色にも。稀有の赤色の割には野原でも線路のわきでも田舎家の便所裏にもどこにでも見かけたような。あとあの花弁。繊細にくるんと巻いたところは、他の花びらが平凡に見えてしまうほど独特でちょっと生意気そうにも見える。気高い感じがしないわけでもないけれど。 曼珠沙華 投稿者:マイ 投稿日: 9月22日(月)13時43分52秒 『つきぬけて天上の紺曼珠沙華』山口誓子 どんちゃ 投稿者:crys 投稿日: 9月22日(月)00時19分06秒 今週末には個展案内DM。というのに、展示プランはまだ。プリントもまだ。腰がへたるほど、忙しかったんだぞ。「こんちはー」と、どたきゃん常習犯のNが突如来訪。二人で近所の「健康ランド」と称する馬鹿でかい銭湯へ。鳥のえさみたいな焼きそばを食った。そんなこんなで、今週はラストスパート。全紙プリントするかどーか。うううむ。鍵はあれだな。Nが今ひまつぶしに考えているらしい、中野重治について。あの左翼くそおやじにとっても「小説とは何であるのか」。同じ問いは、幾何学を創始した頭の中身がいかにして、何故に、フッサールのいう「客観的」言表へとなりえたのかという問いに繋がっていく。私語ではだめなのか。全紙ではなく四つ切の私語のほうが、目に優しいのに。ううううううむ。 つるっとした顔 投稿者:crys 投稿日: 9月20日(土)23時47分05秒 僕が拾ったのは、親指大のしわしわのある木の実だった。夕方スーパーへの買い物のお付き合いの途中、街路樹の根元に星のようにばらまかれて落ちているのを発見した。全部拾いたかったほど、辺り一面を輝かせていた。というよりこんなに見事な落果なのに誰も拾おうとしないで、きっと僕だけが気づいたことにうきうきしていたから、そう見えたのかもしれない。ポケット一杯にしわしわの顔をつっこんで、帰ってから飾り灰皿の中に入れた。あれから一月になる。猛暑が突如として秋の涼気に変わり、はじめは肌色のしわしわの顔は縮こまって、黒ずんで固くなって、皿の縁に転がっている。そばにはパソコンモニターの青い光。 日記 投稿者:crys 投稿日: 9月20日(土)04時18分39秒 と称して、なんのことはない、車で行った先々の地名しかも看板もある観光地の地名を羅列するだけで満足する馬鹿。某国立がっこの医学部の医者。こんな馬鹿が煮え湯を注ぐ。というのは偏見で、医者としては立派なんだよ。処方は地図のように安心。さすがだね。ぱちぱち。
寝言 投稿者:crys 投稿日: 9月20日(土)03時32分08秒 精神分析医はコミニケーションの様々な形態とくに逸脱形態について病名を付けていく、社会学者はたとえば男らしさのカテゴリー成立を対概念に求める、どちらも気楽なもんだよな。というか、そういう説明つまり幾何学者が幾何学の範囲を守る説明がなければ、なにもかもぱーになるわけだけれど、そういう経験科学の根拠こそが大問題だと追及したフッサールは偉い。と、デリダはいう。純粋意識、無の対象たる数の現象地盤と生活世界との境界を探る!そうすると、他者問題、コミニケーション問題にまで複雑化していく人間意識の根底がすっきりと見えてくるってわけだ。見えなくさせている歴史と経験が暴かれていくからだ。しかし、その先、意識とは数、単数、一、モナド、云々というだけでは、なんか衒学ぽい。上の学者風だな。詩の「時代背景」やら小道具解説をして詩評して、「教養」を園芸のように定年の楽しみにしている干からびた感性。
唇男 投稿者:crys 投稿日: 9月20日(土)03時10分11秒 もちろん名は無い。生理学的にいう脳みそもない。それらしきものといえば、ゼリー状のたまねぎの皮だが、これが脳みそだと断定できない理由は、半透明のその膜は明らかに視覚として機能しているからだ。以上はじつは何枚もあるたまねぎの皮の一枚がそのように言っているだけのことで、外見がそうだというのではない。もしたまねぎの視覚に写る姿を見ることが出来るとすれば、それはたぶん唇の形であるのかもしれない。というのは、たまねぎ頭?が物体として存在を主張する唯一の証拠といえば、たえずしゃべりまくることだからだ。ところで、しゃべりまくるこいつにとって名は元々無いというより、あることの理由こそが問題であったというべきだ。このためにこそ、しゃべりまくってているのかもしれないが。
お 投稿者:crys 投稿日: 9月20日(土)02時50分34秒 まいくん、新境地。こういう散文ぽいやつ、なかなかいいよ。もっともっと書いて思考して尖がってください。楽しみ。 秋の蚊 ブーン♪ 投稿者:マイ 投稿日: 9月20日(土)01時35分35秒 というか 投稿者:crys 投稿日: 9月19日(金)22時44分07秒 今、デュラスの「静かな生活」にどっぽり。海だな。(海について、うっとりする描写があったけど)言葉が海に砕け散る金波。読んでいると、その金色の彩に染まっていく恍惚。金色の彩とは、もちろんそこで書かれている「無秩序」。すごい女性だ。
名月 投稿者:crys 投稿日: 9月15日(月)00時48分30秒 月にも名月。はふううう。まいいか。 月見酒 投稿者:マイ 投稿日: 9月13日(土)10時03分49秒 「名月や杯に盛りたる酒の海」 残暑 投稿者:crys 投稿日: 9月12日(金)00時11分16秒 お見舞い。あちこちに出した。われながら、とぼけた文句で。つか、はげのいとーは、なんと20年前のスナップを。ばかたれ。 だから 投稿者:crys 投稿日: 9月 8日(月)02時31分14秒 花鳥風月なんかしない。一切。詩を読んでうっとりなんかしない。園芸じゃあるまいし。
二重の声 投稿者:crys 投稿日: 9月 8日(月)02時29分31秒 それは、二つの身振りのことではない。昼の顔と夜の顔などという陳腐な使い分けのことではない。どう振舞おうとつねに一つなのだから。と言う。ここに透明者が潜む。誰もそうなのだ。聞こえるかどうか、そのことだけにかかっている。 あうう 投稿者:crys 投稿日: 9月 7日(日)22時23分02秒 書評紙に、ベケットと能とのつながりについての記述があって、その中で、ベケットは「魂」の「苦しみ」に耐え抜いた、とあった。???????? たしかにドゥルーズもはっきりとベケットの作品を評して「魂」という言い方をする。今ちょっと、あれで、きちんと書くのがめんどくさいから、やめるけど、ともかく、あれだ。魂の「解放」とかいうと、その馬鹿っぽさに腹が立つというか、あんなんが原稿料とったり大学教授とかしてるんだもんなー。で、学生も学生だよな。まあそんなもんか。 うむむ 投稿者:crys 投稿日: 9月 7日(日)03時20分11秒 まあ、そうだけれどね。うんむむむむ。 月見草 投稿者:マイ 投稿日: 9月 6日(土)04時46分11秒 『夢の夢そのまた夢や月見草』舞 本日は 投稿者:crys 投稿日: 9月 6日(土)03時27分00秒 研究緒言を更新。あー。
てことは 投稿者:crys 投稿日: 9月 5日(金)03時09分07秒 犬はそこには入れませんねー。がー。いや、入ったらそうなるんだ。
蘭室 投稿者:マイ 投稿日: 9月 5日(金)02時43分27秒 「名月を招き入れたり蘭の室」 ようするに 投稿者:crys 投稿日: 9月 4日(木)03時30分36秒 詩なる概念に帰属させる中味のこと。詩という語感が同時にかもす「美的感覚」が、浮上してきた所以こそが、詩といわれるものであろうと思う。なぜなら「美的感覚」を言いたいのなら、なにも詩ではなくとも、そのへんのハンバーグで十分。なぜ、(美味そうな)ハンバーグというのか。この、「と言う」こそが、同定作用の遂行であって、これはどう見てもおかしい。おかしいんだよなー。美的以前におかしい。
変? 投稿者:crys 投稿日: 9月 4日(木)03時22分41秒 なぜか、なお犬を見て犬だとあくまでも言い、言い方の奇妙さに身を捩るならば、人は、奇妙だと思う根拠である同定の慣習を打ち破ろうとして、同定ならざるゆえの不可解な言語、犬語を解すべしという不可能な課題に直面するが、そのことの不可能ははじめから織り込み済みなのだ。なぜならそうでなければ、言い方に奇妙だとは思わないからだ。それでも透明者の振る舞いを密かに隠した写真を鋭く疑うように、同定を疑い犬語の刃に迫る理由はここにある。心地よさゆえに正当であれ悪夢に浸ることこそ、まったく奇妙な放任であり許されないことではないか。犬を見て犬だと言う、この言い方が放つ、止まらない奇妙な「トレモロ」に、分割の刃と同義である〈刃〉は向けられている。
唇にカンナの紅を塗りたくる 投稿者:crys 投稿日: 9月 4日(木)03時19分52秒 唇が、人のそれではなくて、空に浮くだけの唇とか。ぎゃあだね。しかもカンナは夏の置き忘れ。 未来の記憶 投稿者:マイ 投稿日: 9月 4日(木)02時16分57秒 『桐一葉未来の記憶落ちにけり』 たぬきおでん 投稿者:crys 投稿日: 9月 3日(水)23時43分36秒 夕立を眺めて夫婦のたぬき立ち 驟雨の口笛 投稿者:crys 投稿日: 9月 3日(水)23時17分46秒 夕方、蒸し暑さが限界にきて破裂するように連続する雷雨が襲った。駅ガード下の駐車場に傘の用意のなかった帰途の人たちが数人雨宿りをしていた。舗道に穴があくばかりのはげしさで雨足が撃ちつづけてたえまない稲光とともに水煙が立ち、足止めされた人々を囲む。熱気さえ立ち込めていた。五月のはじめ頃であったか、梅雨の重い雨雲が一気に落ちて大雨になったときも、今のような熱気はむろんなかったが、珍しい驟雨で交差点の車のライトに浮ぶ逆光の雨脚がきれいだった。あの時、タイミングを逃してライカを取りに帰ったが間に合わなかった、悔しい思いがよみがえる。ついに来たと、日課の外出をためらう家人を家に残して、飛び出すと、一方通行である左手の車道を丸坊主の頭で濡れ鼠の少年がやって来る。肩に野球バットらしいバッグをかけ両手にも鞄だ。傘はない。少年はガード下で雨宿りをする大人たちの前を、瀑布の直下でうけるような雨の中を平然と歩く、というより顔は上気してうれしそうであるようにも見える。近づいて来てわかったが、彼は口笛を吹いている。呆気にとられて見ていると、玄関から出てきた家人も口笛に気づき、あなたみたいだという。ばかたれ。おれはあんな無茶はしない。相変わらず激しく舗道を撃つ雨が後姿の口笛を消す。さらに寺の小僧のような青い頭が角のたばこ販売機の陰に隠れて消えたとき、夏の夕立の中で上半身はだかで踊ったな、と思い出したが家人には言わなかった。口笛ではなく、おやつのちくわを口にくわえていたことも明かさなかった。通り過ぎた少年が、ちくわを吹いていたとは思えない。俺はライカを傘の奥に抱え、右側からしか来ない車のライトが雨足のデティルを浮かび上がらせる一瞬を待った。一瞬は、暗くなりつつある舗道の上での、露出の確度だからだ。それだけのことだ。ファインダーの中で、ほの明るい灰色のアスフアルトの面上を背景に、逆光に刺され細かく砕け散るはだかの水滴の群れが、いつまでも踊っていた。ちょっといらいらして何回もシャッターを切ったが、俺はそのときただライカとズボンが濡れないように傘の角度に注意していただけだ。
ばかたれ週刊誌 投稿者:crys 投稿日: 9月 2日(火)23時49分08秒 昨日、地下鉄の隣の座席でサラリーマン風の男性客が開いていたアエラを横目で見たら、見開きで「ばかたれ天国」だったか、そんなタイトルで、屋上や地下室や交差点やいたるところで、「ばかっ」「くそっ」「むかつくっ」「しんじまえっ」などなどあらゆる罵詈雑言を吐く人々の漫画。いよいよだなー。 M 投稿者:crys 投稿日: 9月 2日(火)23時34分22秒 Mから電話で、今車で移動中だという。電話の声は静かでとても時速何10キロかで疾駆しているとは感じられない。車内はきっと冷房が効いているのだろう。Mが都内にいるのは珍しい。いつであったか、どこかと聞くと北海道の流氷海岸だという。韓国の繁華街、沖縄の森の中だったこともある。そのMがミヤンマーの写真を持って尋ねてきた。藍色と黄金色の混じった異国風の夕焼け空の下に遊園地の観覧車や屋台の原色の明かりが点在する広場の写真などだった。ほかには乳を流したような海面を背景にしてどんよりした曇り空を飛ぶかもめの巨大な翼が強調された写真があった。 お 投稿者:crys 投稿日: 9月 2日(火)01時04分08秒 よそ見してたら、人様。お見舞いありがとです。人様も、ご自愛ください。 ストレス 投稿者:人 投稿日: 9月 2日(火)00時49分58秒 働き過ぎでしょう。ご自愛のほどを。 浜町夕暮れ 投稿者:crys 投稿日: 9月 2日(火)00時48分12秒 日本橋浜町の手前にそびえるマンモスといえば明治座。裏手は水銀灯まばゆい公園。夕闇が落ちた草叢は虫の天国合唱。陰気臭いビル管理人が定刻をはかってシャッターを下ろしていた。似たような辻をいくつも曲ったが、目的のビルはますます見つからない。自転車の荷台に長い足を垂らしている新聞屋の茶髪のにいちゃんに、三丁目はどこかと聞くと、尋ね事に応えるのは社長の役目だと決まっているらしく、律儀に店の奥に引っ込んで腹巻をしたおやじを外に連れてきた。大通りを渡り、また似たような辻をいくつも曲ってやっとそのビルの看板を見つけたが一階も二階も真っ暗でドアは開くが誰もいない。摺ガラスの窓からの街灯の明かりで輪転機の油が鉄のシャフトの上に光っていた。事務所は三階と張り紙にあった。ドアのノブを回すと、何列ものデスクの谷間に、ポマードを塗ったどんくさいセパードと巫女の母親みたいな置物が。 能天気医学部 投稿者:crys 投稿日: 9月 2日(火)00時18分43秒 医者がいうには、ストレスは一ヶ月位山の温泉に行ったら治ると。まじかよ。通俗は「自然」信仰のお線香。ばかたれ。汽車は一日に一本、新聞は一日遅れ、人影といえば案山子くらい・・こんな山奥なのに、宿のにーちゃんはアイドルファン。熊になれと? なのに田舎の観光村長はここは自然が一杯だといばる。いばられた自然??? 田舎の二日目に俺は気が狂いそうになったよ。医者のいうように、俺は信仰がたりないのかもね。 だはは 投稿者:crys 投稿日: 9月 2日(火)00時04分59秒 それは、まいくん、あれだよ。まいくんの機械だけかもしんないぞ。素早いkoiと遠くても両手のaiなんて、そうざらに出来ないよ。機械に感謝だ。ちなみに、僕の機械は、指一本で使うせいか、aiもaiueoも何もかもばらばら。犬だしね。わはは。
KOI と A I 投稿者:マイ 投稿日: 9月 1日(月)03時35分51秒 『ワープロのK・O・Iの文字キー寄せ合ひてA・Iのキーの離れて遠き』 もうひとつ 投稿者:crys 投稿日: 9月 1日(月)01時39分41秒 ずっと前の春に読んだ、黒井せんじさんの小説、老人の前に現れるかつての友人たちはことごとく亡霊のようにあやふやで通りすがりの通行人のようでもあったことを。テレビを見ていたら、その友人たちの一世代前、銃後の妻は遠い戦地からの夫の手紙に記された世訓を、子育ての銘としていたという。なんとそれは「人に頼るな」。亡霊の友人と喧伝される「自立精神」。結局、「孤独」な老人であることと、それらは結びついている。人に頼れ、頼られろ、となぜいえないのか。
反追悼 投稿者:crys 投稿日: 8月31日(日)23時57分35秒 今日の明け方ほど、夜が怖いと思ったことはなかった。あらゆる出来事が枕元に充満してしかもそのすべてが未完のまま、そのためか尖がった槍先で一斉につついてくる。はっきりと目覚めていた。というのは昼間の整然とした平穏な時間というのは、実は覚醒の眼がない分見えていないだけだとわかるからだ。規則にしたがう陶酔のもとでの擬似覚醒が昼間なのだと。その昼を前にしているはずなのに、夜は足踏みのまま一向に動かない。 やっと 投稿者:crys 投稿日: 8月31日(日)20時04分51秒 CD2枚分のファイル原稿完成。ひひひ。 もう一息だ 投稿者:crys 投稿日: 8月31日(日)00時19分42秒 戦争終結。ふふふ。というのは、どうでもいい。どーでもいいと、わんこそばに流れ星。犬は犬だと演説する楽士の足元。崖が崩れ、階段は悲しいとひとりつぶやく。階段。その名を唱えるだけでも、苦しいというのに。だはは。
お 投稿者:crys 投稿日: 8月29日(金)22時29分28秒 きれいですね。夕映え蜘蛛。「空間は30センチの円」というのが、びしっときまっているね。観察だな。何事も。じっと観察するとたしかに中心になっていく。気がつくと中心から外れる。その揺れが、なんとも。
蜘蛛の糸 投稿者:マイ 投稿日: 8月29日(金)04時23分22秒 『夕映えにぴんと張りゆく蜘蛛の糸」 犬になれ犬になれ犬になれ犬になれ 投稿者:crys 投稿日: 8月28日(木)22時50分51秒 私が犬語を話していることをあなたは信じるだろうか 今夜も徹夜 投稿者:crys 投稿日: 8月28日(木)22時29分56秒 戦争。がー。ストレスどころじゃない。薬10種ばくばく。もーちっと。 喧騒とは 投稿者:crys 投稿日: 8月27日(水)23時12分28秒 小林康夫さんは、ツエラン論のなかで、喧騒のシーンとして、現実のいろんな騒がしい場面を例示としてあげている。はてさてさて・・・ どうもわからん 投稿者:crys 投稿日: 8月27日(水)22時15分25秒 何かのきっかけで(たとえば引き出しの消しゴムから)過去のシーンを振り返って(たとえば中学の数学の先生を思い出して、厳しいけれど・・なんとかだった、懐かしいなー、とか)云々というのを、よく見かける。想起をさらに深めて、あのころ自分はなんたら云々周りの誰それ云々というのも。そしてさらに周囲情況のレベルアップ、果ては時代云々と。こういうシートを何枚も重ねて、彩り鮮やか、ダブルイメージの過去シーンが作られていくってのも。・・・「詩人」と自他公認の人のサイトでは、打ち解けた話としてけっこ見られる。 今度の 投稿者:crys 投稿日: 8月27日(水)03時20分03秒 写真展は、画面から、ピアノの雨だれが聞こえてくるようなのにしようと思う。無音の炸裂。ていうか、ほんと、あれだ。あー。ちっ。くそっ。
まいくん 投稿者:crys 投稿日: 8月26日(火)23時48分49秒 花図鑑をつくりましょーよ。言葉の図鑑。
今日は 投稿者:crys 投稿日: 8月26日(火)01時36分19秒 一日、暗室。すずしかった。

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壮大の極み。死ぬことのない生命賛歌およびそれを与えた神賛歌。「人間はおおきな痛みの中にいる」。(だからその解放として神の国に召されることを約束されている)という部分を別にする、とつい言い出しそうなことを脇に置いて、ともかく不生不死観念は(いわば大衆レベルでも浸透している通俗観念でもあって)文芸のいわば基礎観念だというのがよくわかる。まあ、日本でいえば、森内さんかな。苦闘する人。
内容 写真(表象のテクスト)は還元不能の情緒であること
作者 姿なき散歩者
モチーフ 一歩ごとに記す「贄なき路上の犯行」 まなざしの先はつねに逃げ去る
エンディング 地続きということ 大地の情緒
一直線に伸びたメタセコイアの幹と円錐状の樹形が天空を突く。
その先の先に秋の澄み渡った大空がある。
見上げること、それは、未来、希望、憧れかもしれません。
今日も秋晴れです。大きな青空が高々と広がっています。
志は空のように高くあれ!愛は空のように博くあれ!
堀田先生をいつも見上げているマイです。(^^)
秋牡丹は、キブネギクとも秋明菊とも秋冥菊とも云います。
この路にいまを盛りと咲き誇っていたその花を頂いてきて、
分厚い画本に挟んで押し花にしました。
夏が過ぎ秋が退き冬となって春が来る。そして季節が廻る。
俳句もまたその季節に合わせて詠んでいきます。
花鳥風月というものの在り方と吾がこの身と心のあり方を
同調・反発・対比させれば自づから詩が生まれます。
また孔子は人の一生を年齢に即して、
「子曰、吾十有五年敷而志于学、三十而立、四十而不惑、
五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。」
さて、私はいまどの年齢を生きてるのか、心しなければいけませんね。(微笑のマイでした)
かれこれ十数年前だ。残雪が舗道のわきを汚していた季節の日曜日の午後、向うからやってきた明らかに狂った男に突然、泥で黒ずんだ雪の塊をカメラにぶつけられた。わけのわからぬ言葉を喚いて歪んだ顔のその男が、腕を振り上げて雪玉を投げつけようとした瞬間、シャッターが切られた。咄嗟のことで、すべて手動のカメラは正確なピントは合わせられていないが、ちょっとぶれた画面はかえって臨場感があった。なぜかこの一枚が気になっている。狂った男とのすれちがい。ぶれた画面の中の「決定的事実」? 「多義性」の一端とは? ちなみに前傾の論文のキーワードのひとつは「見えない写真」という。かなりあまあまの論文だけれど。
10月13日(水)大阪市立美術館で丸山応挙展を観てきました。
館の裏庭(慶沢園)に、色づきはじめた銀杏の樹がありました。
堀田先生の高尚な哲学解釈、ちゃんと読んでますよ。フッサールも少しは読みました。
西洋哲学が発展したのは、何故でしょうか?でも延々と問いかけの連続ですね。
言葉を替え品を替えながら、永遠のテーマは、存在(ザイン)と当為(ゾルレン)かと思います。
一見無駄とも思えるけど、その副産物(余剰)として科学が発達し、その恩恵をうけていますが。
西田哲学はその堂々廻りを演繹に自明にしてますね。哲学は東洋のほうが大人だと思われます。
『後の月破れ芭蕉の隙間から』 『三杯に三尺進む後の月』
いま、十時、十三夜が美しく冴えています。
月が三尺進む間に盃が何杯勧むでしょうか。
お酒でも呑みながら、詩を愛でながら、ゆっくりな人生もいい。
「元気になれ、がんばれというメッセージが多すぎる。
――みんなが毎日ハイになることないやんか。元気がない人もいてええのや」
数学者の森毅さんの言葉です。 mai
デジタル革命を希望。猫でもきちんとした映像を撮れるようになった時、問われるのは「映像の問題意識」であることが、はっきりと浮き彫りにされる。今日のカメラはまだそこまでいっていないから、カメラおたくの馬鹿に占有されているってわけだ。
つくづく思うこと。老若男女問わず、言葉によって裏切りを知らないで済む、じつに巧妙な作りになっているものだと。というより言葉がないと何も出来ないが、ではそもそも何をしようと?そこが不思議だ。言葉はつねに裏切りの魔法のハンカチだというのに。
背丈ほどもある薄が辺り一面に波打っています。
その中に、若いであろう男女の帽子が波間に見え隠れしてる。
『名も知らぬ花簪や秋の空』
野を行く若い二人、道端の可憐な花に目がとまる。
その小さな一輪をそっと彼女の髪に刺してやる。
一瞬輝いたその花顔、そして秋の空。
『野に行かば野には野菊の野の香り』
「の」がいくつありましたか?そう六つです。
小説【野菊の墓】に、「野菊のごとき君なりき」って
印象的な文章があります。
といいつつ、本日は夜10時まで5時間、休み無し。銀座の地下室で、たったひとりで個展の展示作業。缶コーヒー4個。ふっふっふ。
甘い生活をしていると時には苦いものが欲しくなるものです。
また苦い生活は甘さを欲します。自然の摂理というものは須らく
美味い具合に調整されていきます。幸福も不幸もシーソーみたいなものです。
どちらも明日は我が身です。貧乏に嘆くな!裕福に慢らず!
何事にも謙虚に学びながら最善を尽くすことです。
破廉恥に生きていく暇などないのです。
あっという間の人生、悔いがあってはなりません。・・・・なーんやって(微笑)
思いと違う所に、捩れてていく、
面白いから次々と踏んでゆく、そんな経験・・
わはは。それって、まさに、まいくんのかきこと犬様のかきこみたいだよ。
あの感覚って、何かあるね。
踏んで思わぬ角度にぐさって足が向く、
思いと違う所に、捩れてていく、
面白いから次々と踏んでゆく、そんな経験があります。
それから、夕方に、某世界企業の世界戦略??の話し。俺はその本部長。吐き気。どもこもなんねな。ったく。
花屋で、毎夕、一鉢ずつ観葉植物を買って、抱えてもって帰る。(一鉢しかもてないから) これって、けっこう楽しみ。
桂の花は木犀です。
『信楽の狸のふぐり秋の風』
ふぐりは睾丸の別名なんですよ、きゃ=!
つるんでいるバッタは、ぎりぎりまで近づいても離れない。
メスの背中に乗ってるオスの方が小さいので、
親が子をおんぶしているように見えます。
『焼いてなほ銀杏みどりを失わず』
焼き銀杏の皮をはがすと、つるっとした緑の実があらわれる。
風味があってとっても美味しいです。
銀杏には雄木と雌木があって、
雄花から精虫が出て雌花を受精させる特殊な植物なのです。
表層とはレンズによっては捉えられないという逆説的真実が逆に証されているというべきだ。なぜなら誰にでも開かれているはずの表層は、じつは、客観的表層をもたらしている、まさにその対の意識にすぎないところの汚染された文化意識の表層でもあるからだ。超越論的であるとは、レンズにも及ぶと警戒しなければならないということだ。レンズはけっして無垢ではない。こどもの絵が環境の幼児的模写であるのと似ていよう。写真にふさわしい写真的表層は、批判の向こう側にある。
以下、検索。
アメリカが生んだ最も多才で独創的な哲学者」と言われ,科学・論理学・哲学など多方面にわたって革新的な理論を展開したC.S.パース(1839−1914)の論文集.彼の思想の全容を窺わせて各方面に多大な影響を与えた連続講演の主要部分を再編成した.全宇宙の「連続性」の実在をテーマに,推論の分析と存在論的探究が示される.
ぺたぺたぺた
朝になったら壁も天井も真っ白だ
幾何学の起源。最近、新訳(?)再版(?)かどうか調べたらわかるけれど、まあどっちでもいいかなと。
>僕はけっこう前になってしまうのですが読んだことがあります。デリダの序説。
すごいですね。てことは、ぽぬさんはデリダのお弟子?さんというか、今もそうやって穴掘りしてんですね。尊敬!! で、そうそうフッサールの論考よりも長いですよね。というか、この序説、なんかデリダのノートみたいですよね。口調もすっかりフッサール風。おかげで読みやすい!
で、ぽぬさんは、あれですか。ジョイスフアンなんですか。そのジョイスと、フッサールのいわばデジタル伝達(と僕には思えました。IT時代的でかなり先見的だなと)、あるいはそれとはニュアンスのちがうデリダ的解釈を並べてみて、結局どうしたいんですか? て、変だけど。早い話、ぽぬさん(も)、僕も日々、この世の掟にしたがって「忙しく」ああだこうだしてて、わずかな時間でも、一気に早口の「エクリチュール」を残して、そしてそしてそして。この現実。となると、掟伝達と手元処理言語の世界と「文学」(フッサールは「文芸諸科学」においても幾何学のように理念は普遍的・伝達可能的だといっていますよね)世界は、あれですよね。目の前の問題。たしかに。でなければ、客観ネジ。くるくるまわされてすりへらされるばかり。フェミニテ(女-性)もいいけれど、その前に?断乎としてだんこん。男らしく掟(ゲーム)世界をねじふせてやるってのも、問題すりかえでもなんでも。
伝達、伝統、これ、一筋縄じゃないですよね。立派に伝統と遺産相続をはたすために、ぽぬさん、ひとつ、雄雄しくノーベル症たのみます。で、その賞金で、僕に白いペンキをたっぷり。ジョイスの犬になって、テーブルの下を走り回ります。もちろん白い犬。見えない犬。
顔だしてくださいよ。ひまひまですから。
幾何学の起源。最近、新訳(?)再版(?)が出ましたよね。僕はけっこう前になってしまうのですが読んだことがあります。デリダの序説。フッサールの論考よりも長いですよね。でも、この序説、デリダの初期のもの(…どこかの対談のなかでは、いちばん最初の著作になると言っていたような気がします)ですけれど、僕はおおかたのデリダの主著(と呼ばれているもの)を読んだ後に読む機会を得たのですが、熱中して読めました。おそらくはこの序説を執筆した当時は、彼の主要な概念(エクリチュールなど)が形をつかもうとしていた頃だと思うのですが、それにしてもこの序説には、後々言われるようになる「政治的デリダ」や、エクリチュールはもちろんですが、彼の後々の道のいくつかが萌芽的にですがすでにあらわれていて。読んだ当時は、デリダの問題意識に圧倒されていました。序説のなかで、ジョイスに言及しているところがありましたよね。僕はそこのところを熱心に当時は読んだと記憶しています。自分自身思うことですが、どうしても読解しようとしても偏った読み方しかできないようで…。デリダの論考や著作で、ジョイスが顔を出すと、そこのところには意外と(?)重要なことが書かれているように思います、ほんとに勝手な考えですが(汗)ユリシーズ・グラモフォンはジョイス論集ですが、とっても重要な著作だと思っています。一九六四年に発表されて、エクリチュールと差異に収録されたレヴィナス論「暴力と形而上学」は、かなり長いもので、重要度も高いと思いますけれども、その終わりに近い方で、「ユリシーズ」の「ユダヤ系ギリシャ人はギリシャ系ユダヤ人。両極端は相まみえる」(Jewgreek is greekjew. Extremes meet)というところを引きながら、「しかし、レヴィナスは、ユリシーズも、この余りにもヘーゲル的な英雄も、この帰還のひとも、閉じた円環も好むことはない。」(記憶ではこうだったのですが、間違っていたらすみません。手元にないので調べられないですね)と書きながら、ハイデガーも顔を出させつつ、「閉じた円環」や帰還、フェミニテ(女-性)などけっこう濃い内容を数行で書いていました。話はだいぶ序説からそれてしまいましたが、序説ではジョイスの言語観とフッサールの言語観を対置させているように思えました。ジョイスは、フィネガンズ・ウェイクにもその面は現れているように思いますが、歴史を多義性(の曖昧さ)や比喩、隠喩の多層的な集積(なんとも単純化しすぎかもしれません)と考えていた(彼は、歴史は昼休みやなんかに子供がやるような口伝えゲームのようなもので、最後までくるとほとんど最初の内容とは違うものになっている、というようなことを語ったことがあるそうです。外典ですけれども)ような節があるのに対して、フッサールは、ひとつの透明な伝承による、これは数学的なものように思えますが、としているように思えました。デリダが注目しているフッサールの註記(かなり曖昧なもののように思えますけれども)は、理念的対象はエクリチュールを通してのみ歴史に入ることを許される、理念的対象の歴史性はエクリチュールによるものだと言わんとしてるのではないかと、デリダもどこかで言っていたように思います。なんか、文脈も全然繋がっていませんね(汗)ひさしぶりだったのでうれしくなって早口で捲くし立ててしまいました。デリダは「伝統」というものに両義的で引き裂かれるような立場にいるように思っていますが、序説の冒頭ちかくに確か、伝達の運動と遺産の相続とを同時に含んでいるその語の曖昧な意味においては、と言ったことを「伝統」について書いていたように思います。フッサールの考えていたであろうエクリチュールと、文学的なエクリチュールとを突き合せることからデリダは始めているのかもしれません。
うぅむ。なんか読みにくいうえに、参照も曖昧だから(本が手元にあれば、もうすこしましにできたかもしれませんが)変な文章になってしまいました。すみません。
また、時間があるときに顔をだせればいいのですが。では。
ええ、ええ。ほんとに本読みは格闘技(無差別級?)ですね。実感、実感。
それにしても、本読みは体力、格闘技だな。
灯下親しむ候、読書の秋といわれますが、
秋は物を思い考えを深めるには適した季節かも知れませんね。
古人や賢人に直接会って聞くことが出来ないけれど、
本を読むことでその一部が可能になります。
「家に本のなきは人に魂のなきがごとし」とは賢人の言葉です。
てことで、もいっかい。
それと意外なことに、この花は群生とまではいえないけれど、けっこうまとまって生えている。つまり、あれだ。独特のあの赤は、隣の仲間にも共通しているわけで、それはまさに大地の歴史。生まれる以前。ア・プリオリ。しかも歴史と半群生のア・プリオリ。ここが、あれだ。幾何学の起源。
『地べたより涌き出でし赤曼珠沙華』舞
地面の下の何処にあのような鮮やかな赤色が隠されていたんでしょう?
科学的に見れば、ちゃんと説明がつきますが、俳句は感動と面白さです。
そして理性と感情の一致、知識と智慧の循環。
金子みすゞさんはこのように詩います。
「曼珠沙華」
村のまつりは/夏のころ、/ひるまも花火を/たきました。
秋のまつりは/となり村、/日傘のつづく
裏みちに、/地面(じべた)のしたに
棲むひとが、/線香花火をたきました。
あかい/あかい/曼珠沙華。
残暑おみまいしたら、突如冬になってしまった。
そうだ。すべてがト書き。デュラスが震える筆致で書こうとしたのはまさに広々とひろがる「無秩序」の世界。ならばこそ、ト書き。脈絡はない。深呼吸。喉詰まり、とんでいけ!!!!
『秋の蚊やよろよろと来てはたかれし』
『秋の蚊やその血は己がものとせよ』
視線のうちに来た蚊はあはれ
蚊ははたかれて
満腹の紅い血が吹き飛んだ
あー生温かい死だ
微塵になった蚊の分子構造の
一体どこに息があったのか
おーこれが生き物の死というものか
知れ!腹いっぱいの生血の匂い
愛せよ!我が蚊のうちの霊よ
なべては喰うか喰われるか
勝つか負けるかのどちらかだ
なんという残酷なんという喜び
否これを愛と肯定してもよし
正義と名付けてもよし
おー我らが忠実な兵士たちよ
汝こそは蚊に喰われ蚊を殺し
愛と正義の奴隷とならんか・・
月光の滴溢れて海零れ ???
小盃に表面張力するまで酒を注ぐ。ただそれだけの事。
しかもその中に宇宙が盛られています。それが俳句の面白さです。
夏布団夕陽に晒す男意気
はげのいとーのことだよ。だはは。
絆を持たない、と宣言してはならん。絆に身も心も打ち込め。濾過された吐息。だがそれさえも、現実の吐息に混じってしか現れない。
それにしても、「夢」といえば、あれだな。健康第一。まいくん。
漱石に「夢十夜」って興味深い小説があります。
こんな書き出しです。「こんな夢を見た。腕組みをして枕元に坐っていると、
仰向けに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、
輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。」
さて、その夢を凝っと見ているもう一人の自分がいます。
それは一体誰なんでしょうか?フロイトは精神分析に「夢判断」から
沢山の示唆をうけました。心の秘密、それは夢にあるのかもしれませんね。
普段に自己と言ってるのは、どの自己なんでしょう?よく観察すると、
自己も階層をなしているのに気づきます。フロイトは
「上位自我・自我・無意識(エス)」の三段階の自我をリビドーが流れるとしました。
また東洋の智慧は「五官・意識・思慮識・含蔵識・根本浄識」等、
五段階の意識(自我)を発見しています。夢を見るそのまた夢を見ている自我がある。
こころの不思議です。月見草もそうやって夢を見ているのでしょうか。
秋の夜長、自身の心の中を探検してみてはいかがでしょう。面白いですよ。アハ
蘭の香りと名月。
蘭室とは、高徳の人、善人の居室の意味。
香りの高い蘭のある室にいる者は、
暫くするとその香りが身体にしみてくるように、
徳の高い貴人と共にいる者は、
いつの間にかその徳の感化をうけるという譬えからきた語。
名残紅鏡が笑う唇寒し ???
もし記憶が無かったとしたら、自分が誰かもわかりません。
過去現在未来、その中に自分があります。
未来を良くすれば、過去だって良い方に変えられます。
記憶は過去のものだけではありません。過去未来もこの瞬間の一念に。
『唇にカンナの紅を塗りたくる』
夏の名残のような赤いカンナの花が青空に毒づいています。
突然の夕立に驚いて、ガード下でおでんやの夫婦が、雨の様子を並んで見ていた。ふたりとも料理人の白衣姿で、太い眉の丸顔の男と同じくずんぐりとした体型で目尻が下がった女。おでんやの屋号は「たぬきおでん」。
最近の画像処理事情の急変ぶりの話やら、例によってレンズのくせについての体験話やら、毎度の話題のあとは、俺の仕事場を見たいというので案内すると、ああ、ここはあなたの頭か内臓だという。雑然としているのではないが隙間もない、たしかに機能的だがともかく物が多すぎる・・。Mは作業室のいつも俺が座る椅子に身を沈め、額に迫る機械やら積み上げた書類やら読みかけの本の山やらを眺めて、また嘆息。はまってしまった、と。狭い机上に運び込んだ、今度の個展用のプリントを何度も見返す。案内用パンフに刷った『ガラスの犬』の一節を読む。あなたが死んだら、この物どもの山はどーするんだという。しらねーよ。おまえがすきにしろ。えええ。などといいあいながら、今度は俺が金を払う当番だからといって、メシをくうために駅前に出る。テンヤの天丼480円を二人分注文して、あっというまにたいらげたMに、おまえとしはいくつになったのかと聞くと、39だという。鼻しらむおれの顔を見て、あなたとそうかわりませんよとはいわず、前と変わらないとお茶濁し。二人の共通の先輩であるI氏の噂になって、あの人は自分のことを言う前に、他人への興味を示すところがえらい、と脚色していうと、Mは僕はあなたに興味ありますよ、という。ばかたれ、俺に興味なんかもってどうすんだ。それより、君は人物をもっと写せ、君のあのミヤンマーの風景写真は、風景を何も見ていないぞ、何かを見ているだけだ。と、ちょっとえらそうにいう。演説になりそうになったので、ポケットから煙草を取り出すと、見張っていたのか小猿のような女の子の店員がテーブルにかけよってここは禁煙だという。終り。
なるほど、火星のせいですか。ならば、人類みな、あれですね。つか、火星に接近した地球のせいで、あちらはどーなんでしょーね。なんちて。
まらるめとぴ、ほんと、勉強になります。これからもよろしくです。
今年の残暑は火星のせいか本当に厳しいのですからね。
マラルメ・トピに投稿して頂き感謝しております。
りんごジュース一本。120円。お仕事散歩は楽しいね。がー。
文字キーの場所って使い勝手のいいように工夫されてますね。
「恋」の文字は素早く一指で打てますが「愛」は両手で二指使います。
片恋と相愛とでしょうか。 舞
明瞭すぎて恐ろしい出来事の山の光景は、そのように見ている俺が死人だからなのだと思った。あいつが死んだと口々にいう誰彼の声は、取り返しのつかない事実の確定の宣告に等しく、「追悼」の意味をこえて俺の足を一層竦ませた。
家人の変わらぬ日々の振る舞いのあれこれが目に浮んだ。「早く昼に戻っておいで」と言っているようだった。俺が死んだというのに「追悼」なんか無縁の昼間の声だった。
まちがいなく昼の声なのに、夜の声のような静かな、でも力強い声が聞こえてきた。数ヶ月間、気にとめていた言葉たちがよみ返った。この明け方にこそ聞きたかった声だったのかもしれない。
>「追悼」そのものがいったい何なのかがどうしても分からないから、何が「追悼」になるのだろうかと亡霊に向かってむだな問いかけをつづけながら、本当の「追悼」にはけっして辿りつかないままに擬似追悼を何度も何度も繰り返して身動きできなくなる、そういう形でしか「追悼」はないのかもしれないと思います。
>「追悼」は、ものすごく難しいですね。私は一生かかっても、絶対に、解明できないという以上に、端的に、できないと思います。
擬似死人になってみると、死人の立場からどんな「追悼」もごめんだとわかる。してほしくないというだけではなく、「一生かかっても出来ない」といってほしいのだと死人はそう思うものだと。仮に望んで死ぬばあいはむしろ生の延長といえる。死はけっして望まれないから死だ。
恐ろしい出来事が山なす光景を見る死人の体験から、やがて明ける夜と昼の折り重なりを、夜を見た者として見るとすればどうなるか。それは死人の願いを死人の立場からかなえることなのか。それは反対に生きている者たちに向かって、「もう何も出来ない」とまで過乗をおそれずに「反追悼」を言い続け実行しついに「追悼」を無化することだと理屈は言う。(死人の独白だから、かの声の主のことは、かんべん)
茜色に染まる美しい夕映えの空を背景にして、急ぎ網を張る蜘蛛。
私も蜘蛛になりたい。(笑)網の中心で終日じーとしていて、獲物がかかるのを待つ。
待つ時間は無いに等しい、空間は30センチの円、死んだように夢想しながら、
さー蜘蛛語でも話しましょうか?アハハ 「宇宙の中心はここだよ」って、まー実存だわ
と呟く
(見知らぬ お前は お前(だ) と苦しげに 小声で だぶって言う)
背走する人列に探すべき顔はない
千切られた首の異語の呻き
天空に突き刺さる樹木の根 透き通る脳の水に浮かび
密かに握りしめる頭芯のガラス玉
街路は蒼白の炎
鳥の翼もゆらめく人影もなく
犬の奔流 樹液を金色の彩に染める澄んだ声
犬になれ犬になれ犬になれ犬になれ
犬が疾駆する 喧騒をはらむいくつもの扉の手前
滾る沈黙の青い血が逆流する
楽々と飲み込む水色の蜘蛛が凛と宣言する
私達の顔は青い炎だ 見られることはない!
恐ろしくもなくガード下の暗がりを放火する
肉のない顔のずれた唇 あちらこちらで連打し
見知らぬ お前は お前(だ)
鉄の炎の声 喉詰まりの犬声を撒き散らし
あらゆる振る舞いは一枚の光景にすぎない
愚かしくも犬を犬と呼ぶだけのことではないか
蹲る石の偽名と偽語に向け 振りかざす光る紫色の牙
けたたましい鳥の声と発動の微光 犬の空洞に充ち
さらに発光する骨白の 盲目の白眼
凝視め合う? だが双眸の綿毛だけが交じり合い
裏返り補填される網膜(シーツ)を突き破り ひたすらに
犬の唇を美味そうに切り裂いたのだった
──迷宮の掟どおりに
〈光景に目玉をくっつけ ガラスは 面が二つ
こちらとこちら 冷やかに〉
夜陰に立つあちこちの陽炎を焦がし
抱えた凡庸な花樹の根元が燃え上がっていた
誰も犬語を聞かない!
(あらゆる振る舞いは無音の光景にすぎない)
これは、一見して「騒音」のようでもあるが、戦争には理屈があってその通りに遂行すれば平穏そのものなのだから、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるものではない。討ち死ににおいてもしかり。なんちて。だはは。つまり世の中には騒音なんかない。あるわけない。世の中を作っている、この時点ですでにぴしゃりとうるさいものどもを押さえつけているわけだ。
「うるさいものども」。そうそう、こいつらだ。逸脱の虫ども。失郷者。彼には、薬もきかない。ひゃー。
マラルメの詩句。
「私の希望がそこから放たれるように
至高の消失点で
押さえられなくして起こった
凶暴な無音の炸裂」(マラルメとぴ掲示板 三さんの訳)
これこそ、居てもたってもおられない、隙間なく充実した、極限の喧騒だとしても、問題は観念の定義ではなく、どこにそれを聞くかだ。なにしろ無音なのだ。では無音とは? 無人の風景と同じく難問だ。現実の騒音を無音と聞くことも出来なくはないからだ。だがその身振りは、ただの頑固に通底する。信念が露呈している。信念こそが喧騒なのか。つまり信念無化が無音ということになるのだが、いやそれもまたありふれた信念だ。となると、ふふふふふふ。
お前がひねくれているだけなんだよとかいうなよな。北朝鮮6カ国協議真っ最中。外交(ゲーム)って「頭のいい」のが勝つらしい。自分の主張に夢中になって、相手の唇の歪みにきずかず読み間違いしたほうが負けだ。勝つために、相手は馬鹿を装っているわけだ。