二輪車産業の歴史

※ 詳細な二輪車産業の歴史については、関連文献等をご覧下さい。

※ 戦前の二輪車産業の歴史については、現時点において資料収集が十分でなく、調査継続中です。日本における二輪車産業の始まりについては、この項目の最後に簡単な説明をおこなっています。

 

日本の二輪車生産の始まりは明治後期と言われています*1。しかし、本格的な生産がおこなわれる前に海外からの輸入が増えたため、メーカーと呼べるような企業はほとんど生まれませんでした。1930年代に入ると徐々に二輪車生産をおこなう企業も出てきましたが、第二次世界大戦が始まると同時に、軍需用二輪車以外は生産がおこなわれなくなりました。本格的な生産がおこなわれるようになったのは第二次世界大戦後のことです。

 ここでは戦後の二輪車生産メーカー、業界団体の動き及び二輪車産業を取り巻く状況等について「復興期」、「高度成長期」及び「オイルショック以降」分けて主要な項目ごとに述べたい思います。

 

1.復興期(1945-1950年代半ば)

<GHQ*2統治下における状況>

第二次世界大戦中、「自動車製造事業法」*3(1936年制定)や各種統制により日本の二輪車メーカーは、事実上、軍用オートバイを生産する「陸王内燃機株式会社」(以下「陸王」)のみとなり、民間用の二輪車を生産するメーカーはありませんでした。二輪車生産が全く禁止されていたわけではありませんでしたが、戦時中は軍需品の生産が最優先されたため、生産資材の確保が出来ませんでした。また、当時の二輪車は一種の贅沢品と見なされていたため、需要も少なかったと言えます。

 戦争が終結した直後の1945年9月2日、GHQにより軍需生産を全面的に禁止する指令第1号が出され、同月22日には指令第3号として兵器生産工場の生活必需品生産への転換が指示されました。この、軍需から民需への転換政策は、戦前の航空機メーカーにスクーター生産を始めさせるきっかけともなりました。同月25日にはポツダム宣言の「経済を維持するだけの工業の維持を許容する」との内容に従い、「製造工業操業に関する覚書」(GHQ覚書第38号)が出されています。これをきっかけにして自動車産業はトラック生産を再開しました*4。1946年10月の「臨時物資需給調整法」、同年11月の「指定生産資材割当手続規定」及び1947年1月の「指定生産資材割当規則」により資材統制がおこなわれましたが、元々生産資材が少なかった上に、二輪車は生活必需品とみなされていなかったために資材の配給量が非常に少なくなっていました。

 

<生産再開>

 戦後の二輪車産業は、戦前に生産をおこなっていた数社が生産を再開したことから始まります。通産省の統計上、戦後に二輪車生産が記録されたのは1946年に入ってからのことです。

 1947年4月、「日本小型自動車組合」*5と「日本小型自動車販売組合」の主催により、東京−箱根間で“オール小型自動車走行大会”が開催されました。その趣意書には「経済再建は小型自動車の増産にあり…」と記されており、GHQ、商工省、運輸省や経済安定本部等の機関に小型自動車生産をPRするため、関係者が招待されています。参加車両は二輪車関係五社六車種*6、三輪車関係十社、そして四輪車関係二社でした。この走行大会は成功し、小型自動車のPRをするという当初の目的をほぼ果たすことができました*7。その後も、1948年に結成された「日本小型自動車工業会」*8(以下、「小自工」)によってGHQや主管官庁への陳情等がおこなわれ、徐々に統制が少なくなっていきました。1949年12月には二輪車の価格統制が撤廃されています。なお、1952年には二輪車の外車輸入防止運動が展開されていました。

生産再開後、1951年頃までは、二輪車の中でもスクーターの生産が過半数を占めていました*9。スクーターの生産をおこなっていたのは主として戦前に飛行機を製作していた富士産業*10と中日本重工業*11でした。終戦によってGHQから軍需品の生産は禁じられていましたが、これらの企業はエンジン製造や板金加工技術等のノウハウを有しており、比較的短期間に製品開発を終えることができました。ただ、両社の製品はともにアメリカ製スクーターをモデルとしており、すべて独自に開発をおこなったものではありません*12。1946年から始まったスクーターの生産は1948年には8000台を超え、翌1949年には早くも海外からの引き合いが来るほどになりました。

 

<アメリカの対日援助>

 アメリカの対日援助は、1946アメリカ会計年度の陸軍省予算から始まり、次年度には占領地域救済統治予算(ガリオア予算)*13が発足しています。1949年度には占領地域経済復興予算(エロア予算)*14が発足しました。対日援助見返資金*15は1949年4月に米国対日見返資金特別会計法が成立したことにより、大蔵大臣が管理し、経済の再建のために充てられました。運用計画は公企業、私企業、国債、余裕金運用の四部門に分けられていました。当時の二輪車メーカーもこの対日援助見返資金からの融資を受けています。また、1948年12月に日本経済の安定・自立化の目的で発表されたGHQによる「経済安定九原則」*16は、1949年度、1950年度の予算に具体化されました。このドッジ・ラインとも呼ばれる緊縮財政・均衡予算は、総需要の圧縮によって国際収支を均衡させることを目的としていました。

 

<潜在需要>

終戦直後、人々は簡易で安価な交通手段を求めていました。自転車は戦前からかなり普及していましたが、より遠くまで、より多くの荷物を、そしてより速く移動するためにエンジン付きの乗り物が求められていたのです*17。つまり二輪車に対する潜在的な需要はかなり大きかったといえるでしょう。このような背景があって、自転車に取り付ける補助エンジン*18の生産が盛んになりました。とくに中小商工業者から補助エンジン付自転車の普及が始まったようです。ホンダとスズキはこの補助エンジンの製造をもって、二輪車産業に参入しています。

経済復興が徐々に進むにつれ、より高性能の乗り物が求められたため、専用設計の車体を持った小型二輪車が普及し始めました。1950年の資材統制撤廃が小型二輪車の普及に拍車をかけました。これらの二輪車は比較的大径のタイヤが採用されていたため、悪路に強く、荷物の積載性も良かったため、当時の道路状況では、スクーターよりも活躍の場が広かったのです*19。それゆえに1950年代に入ると、スクーター以上に小型二輪車の生産が急速に拡大していきます。自転車販売店で二輪車の取り扱いを始めたことも大きな影響を与えました。1950年6月に始まった朝鮮戦争による特需は二輪車産業に対し、自動車(四輪車)産業のように直接的ではないものの、日本全体の「特需景気」を背景として間接的な影響を与えました*20

 上記の急速な需要の増加は必然的に新規参入者を導く要因となり、激しい競争がおこなわれました。これにより弱小メーカーは淘汰されていきます。

小型二輪車が一般に普及するにつれ、それまでの単なる移動手段や荷物運搬手段から趣味として二輪車を楽しむ人々も少しずつ増えてきました。1949年には多摩川スピードウェイで全日本モーターサイクル選手権大会、1952年には関東モーターサイクル選手権大会、1953年にはオートレースの業界団体である日本小型自動車競争会が主催の「名古屋TTレース(正式名称:全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞大パレード)」とオフロードレースとしての色彩が強い「第一回富士登山オートレース」が開催されています*21

 

<通商産業省(商工省*22)の自動車産業育成政策>

 1946年1月、商工省工務局に「自動車課」(1948年には「自動車部」に昇格)が設置され、自動車に対する行政の中心となりました。1947年に入ると、商工省は戦争で停滞していた自動車技術を高めるために国産車の性能調査をおこない、その成果は国産車の性能向上に大いに寄与しました。二輪車については1947年の10月に試験がおこなわれています。

 1948年には経済復興委員会が「自動車経済復興生産計画」をまとめ、それに基づき、同年10月に商工省は「自動車工業基本対策」を発表しています。この対策により、自動車産業は国の重要産業として育成されることになりました。

 「自動車経済復興生産計画」において二輪車に関しては表−2のような生産計画が立てられました。その後の二輪車生産実績と比べると、実際の生産の伸びが非常に大きいことがわかります。

 

       表−2 自動車経済復興生産計画(台数

年 度 生産計画 (生産実績)
1949年度 12,000 7,371
1950年度 12,000 9,755
1951年度 13,000 30,806
1952年度 15,000 95,290
1953年度 18,000 182,729

 補助金に関しては、1948年に「自転車の改良増産、輸出の増加、国内需要の充足に寄与するとともに…」*23との目的で制定された自転車競技法が、その収益の中から自転車産業振興費として自転車関連産業に各種補助金*24を交付し育成を進めました。当時、二輪車は原動機付自転車、つまり自転車の特殊な形態として見られていました。

 なお、通商産業省(以下「通産省」)が積極的に推進したものではありませんが、1949年12月に各種工業製品に関する統制解除の一環として二輪車の価格統制撤廃がおこなわています。1950年5月には「小型自動車競技*25法」が制定され、国庫納付金の一部が通産省の自動車産業振興費となりました。

 1951年3月にGHQと日本政府の間で交わされた覚書「石油供給及び販売に関する件」により石油行政管轄権が日本政府に移管され、同年4月に政府は「石油統制権限の委譲に伴う措置」を発表し、この方針に基づき石油類の統制廃止が進められました*26。この結果1952年7月には燃料油の統制撤廃がおこなわれ、ガソリンが自由に買えるようになりました。

 また、1954年2月、日本のメーカーの技術レベル向上を目的として、通産省主導の下に外国製二輪車の分解展示会がおこなわれています。

 

<免許制度の改正>

 1951年6月には道路運送車両法の制定がなされ、同年8月には道路運送車両法施行規則により2ストローク60cc以下及び4ストローク90cc以下の二輪車については、「原動機付自転車」として新たに区分が設けられました。そして1952年8月に、それまで二輪車の運転に際し自動二輪車運転免許が必要であった制度が改正され、原動機付自転車は警察への届出だけで運転できるようになりました*27。これには簡便な運送車両を普及させたいという通産省の思惑もあったようです*28。1953年6月には物品税法の一部改正により、二輪車の税率が10%から5%に引き下げられたことも小型二輪車の普及に寄与したと言われています*29

 

<産業合理化方針と国民車構想>

1949年9月に政府は「産業合理化に関する件」を閣議決定し、12月には産業合理化審議会が設置されました。産業合理化の目標は輸出振興であり、そのためには産業を合理化して生産を集中し、コストを引き下げ、国際競争力をつけることが必要とされたのです。1952年3月には「企業合理化促進法」*30が公布・施行されています。その内容は、

というものでした。当時の小自工の二輪車部会は同法の対象に二輪車産業を含めて欲しいとの陳情をおこなっています*31

1954年2月、通産大臣は国産自動車工業を奨励する意向を明らかにし、翌年5月、「我国乗用車工業振興方策」(いわゆる国民車構想)を発表します。国民車の仕様は、

とされました。そして国民車を生産する企業は通産省に届出の上、第一次性能試験を受けさせ、性能の良いメーカーについては補助金を出すとの内容です。さらに、第二次試験を実施し、国民車の生産を一社に絞り込む予定でした。しかし、技術上の問題や結果的に一企業の独占になる等の危惧があり、国民車構想は実現しませんでした。当時、二輪車を生産していたスズキは四輪車進出の時期を見極めようとしており*32、国民車構想の時期とほぼ重なる1955年10月に軽自動車を発売しています。

 

2.高度成長期(1950年代半ば-1970年代前半)

<国内レースから海外レースへ>

 名古屋TTレースや富士登山オートレースがおこなわれた後、1955年11月に群馬県の浅間高原で「第一回全日本モーターサイクル耐久ロードレース」が開催されました。このレースは通称「浅間火山レース」とも呼ばれ*33、すべて国産部品を使用した二輪車のみの出場が許されていました。これは国産車の性能向上が主要目的の一つとされたためです。第二回からは専用コースが建設され、その際に通産省から300万円の補助金が下りています*34。本格的な専用コースでおこなわれる二輪車レースは日本で初めてのものでした。レースの実現や専用コース建設には二輪車メーカーの業界団体である小自工も大きな役割を果たしています。

日本の二輪車メーカーが海外でおこなわれるレースに初めて参加したのは1954年の「サンパウロ開市400年祭記念レース」と言われています*35。前年の1953年にブラジルのサンパウロ市から外務省に対して日本の二輪車メーカーを招待したいとの要請があり、その話が通産省を経由して二輪車メーカーにもたらされたのです。レースには目黒製作所とホンダが参加することになりました。結果は芳しくありませんでした*36が、このレースで外国製二輪車との大きな技術差を感じたことは後の海外レース参戦への布石となりました。

日本の二輪車メーカーが本格的に海外レースに参加したのは1959年6月の「マン島T.T.レース」*37です。125ccクラスに参加したホンダは6位、7位、8位、11位に入賞し、メーカーチーム賞を獲得しました。翌々年には125cc、250ccクラスともに1位から5位を独占し、完全優勝を遂げてmした。その後、ホンダは世界GPレース*38でも優秀な成績をあげています。なお、1960年にはスズキが参戦し、ホンダが完全優勝を遂げた1961年にはヤマハもマン島T.T.レースを始めとする海外レースへの参戦を始めています*39。メーカーによってはレース参戦を中断した時期もありましたが、1960年代から現在に至るまで、二輪車レースに関しては各種日本製二輪車が圧倒的とも言える強さを維持し続けています*40

 

<機械工業振興臨時措置法>*41

 1956年6月に制定された、「機械工業振興臨時措置法」(以下、機振法と呼ぶ)は企業合理化促進法と同様に通産省による産業合理化政策の一環でした。通産省が1953年に機械工業について分析した結果、この分野では中小企業が90%以上を占めており、設備機械の老朽化が著しいことがわかりました。新鋭機械を導入した事例では、生産能率、精度、工数の低減等で大きな効果が得られていました。従って、工作機械の老朽化(当時は戦前の工作機械がそのまま使われていることが多かったのです)は高品質、低コストで大量生産をおこなうための障害となっており、国際競争力のある製品を製造するためには設備の近代化が必要であるとされました。この問題を解決するため、設備近代化をおこなう企業に対しては積極的に融資をおこなうことが機振法の柱となり、資金に関しては日本開発銀行*42が融資機関となりました。なお、機振法では過当競争の改善を目的として「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(以下、独占禁止法と呼ぶ)の適用除外にあたるいくつかの共同行為*43が認められています。機振法では機械工業審議会の審議を経て、対象業種ごとに合理化基本計画が立案・実行されました。対象業種の一つであった自動車部品を含めて、ほとんどの業種で当初の目標を上回る成果をあげました。なお、当時の二輪車産業は中小企業ばかりの幼稚産業とも呼べる段階であり、企業合理化促進法及び機振法制定に関して二輪車産業が念頭におかれていたわけではありません。

 

<産業見本市>

 1954年4月、「第一回全日本自動車ショウ」*44が東京の日比谷公園でおこなわれ、二輪車メーカーも多数参加しました。また1954年から大阪と東京で交互におこなわれていた国際見本市にも一部のメーカーが参加しています。

海外向けとしては1956年に中国の北京と上海で開かれた日本商品展には二輪車メーカー数社が参加しています。また、ジェトロ*45(JETRO)は1950年代半ばから、海外のトレードセンター設置を始め、日本製品を広めるため国際見本市に積極的に参加するとともに独自に日本商品の展示会もおこないました。日本を出発し世界各国を巡り日本製品をPRする日本産業巡航見本市*46も1956年から始まっています。これらの商品見本市には日本製の二輪車が展示されることも多く、知名度の向上に役立ったと思われます。

 また小自工も政府からの補助金を受け、1958年に東南アジア、1960年には中南米に対してキャラバンを組み、各地を巡回することによって二輪車の輸出振興を図りました。

 

<小型二輪車生産の拡大>

 高度成長期に入り日本経済の規模が拡大するにつれて、小型二輪車の生産は1950年代前半のように対前年比数百%の伸びとはいかないまでも年平均15%の伸びを示し、着実に生産を拡大していきました。生産量の拡大とは逆に企業数は減少を続け寡占化が進んでいきます*47

 1958年8月から発売されたホンダの「スーパーカブ」*48は性能、デザインの良さに加え、前述した潜在需要の大きさもあって、大きく販売台数を伸ばしました。スーパーカブのデザインは意匠登録もなされ、いくつもの賞を受賞しています。この成功を見て、他メーカーも同様なデザインの二輪車を発売し、一時期、問題となったこともありました。

 

<大型二輪車の生産拡大>

海外での日本製小型・中型二輪車の評判は上々でしたが、欧米の現地ディーラーからはより大型車の投入が求められました*49。当時、排気量が欧米の二輪車に比べて小さかった日本製二輪車でも、機種によっては絶対的な性能では上回っていましたが、長距離を疲れずに余裕を持って走ることに関しては排気量の大きい欧米の二輪車が有利であったため、対抗できる製品が求められたのです。そうした要望に応えて開発されたのがホンダの「Dream CB750 Four」*50やカワサキの「900スーパー4(Z1)」*51でした。

ホンダの「Dream CB750 Four 」は1968年の東京モーターショーで発表され、翌1969年に発売されました*52。同時期にカワサキも排気量750ccの大型二輪車の開発をほぼ終えていましたが、一足早くホンダが発表したため、開発は一時中止され、1972年に排気量を900ccとした「900スーパー4」が海外向けに発売されています*53。スズキは1971年に「GT750」*54、ヤマハは1972年に「TX750」*55を発売しました。

上記車種の多く*56はアメリカやヨーロッパで好評を持って迎えられ、中・大型二輪車の生産が急速に拡大していきます。

 

<自動車高速試験場>

四輪車の輸出が活発になり始めた1957年頃から、社団法人自動車工業会*57を中心として高速走行可能な自動車を開発するための自動車高速試験場計画が持ち上がります。当時の日本車は国内販売を前提として設計されており、海外で本格的に販売するには高速走行に耐えうる自動車の開発が急務とされていました*58。これとは別に、小自工でも同様の高速試験場建設が課題となっていました。そして各自動車・二輪車メーカーが各々高速試験場を造っていたのでは非効率だということで、1958年夏頃から自動車業界の共同出資による建設計画にまで具体化し、社団法人自動車高速試験場*59が設立されました。当初は自動車メーカーのみで計画が進められましたが、資金面での問題が生じ、それを解決するために、関連業界(二輪車、タイヤ、石油、鉄鋼等の各業界)にも協力を求めることになりました。また、自動車を重要産業と位置づけ、振興を図っていた通産省も補助金獲得のために大蔵省との交渉をおこない、1960年度予算で1,000万円の補助金が下りています*60。この補助金により、1960年7月5日に自動車高速試験場建設促進委員会*61が発足し、試験場の建設準備に取りかかりました。しかし、自動車・二輪車の輸出の伸びは通産省の予想以上に早かったため、各メーカーは独自でテストコースの建設に踏み切ります。1961年に日産自動車、1962年にはいすゞと新三菱重工、1963年にはダイハツがテストコースを建設しています*62

 自動車高速試験場の建設地は、最終的に茨城県の谷田部町に決定し、紆余曲折はあったものの、1964年に運用を開始しました。時速200キロでの周回を可能とするこの試験場は、結果的には当初の目的とは少し違う形で運用されることになりましたが、現在では、谷田部テストコースとして一般にも知られています*63

自動車高速試験場は通産省の自動車産業への合理化政策の多くが不調に終わった中で唯一、形として残ったものであると言えるでしょう。

 

<特定産業振興臨時措置法案>*64

 通産省は自動車産業*65については日本の重要産業と位置づけ、国際競争力をつけるために、数社に寡占させようとしました。とくに「特定産業振興臨時措置法案」は、1963年の第43回国会から1964年の第46回国会にかけて計三回、内閣により国会に提出されましたが、各方面からの反対に遭い審議未了で廃案となりました。法案中の「特定産業」には業種として、第二条の二に“四輪自動車又は自動車用タイヤ若しくはチューブの製造業”と記されているのみで、二輪車に関しては全く触れられていません。これは法案が作成されている時点ですでに日本の二輪車産業は世界一にあったこと、及び二輪車市場が自動車市場に比べると小さかったためと思われます。当時の国会の商工委員会においても、二輪車への言及は大手企業の倒産が起きた場合に中小企業に与える影響が大きいことの実例として、東京発動機の件*66に触れられているに過ぎません*67

 

3.オイルショック以降(1975年頃-1999 年)

<免許制度改正>

高度経済成長によって人々は豊かになり、運転免許保有者数は1955年の約280万人から1975年には約3,350万人へと約12倍に増加しました*68。それにともなって自動車(バス・トラック含む)保有台数も1955年で約47万台だったものが1975年には約2,800万台へ、約60倍に増加しています*69。交通事故による死者も徐々に増加し、1970年には年間16,000人を越え、戦後最悪となり、「交通戦争」という言葉さえ生まれました*70。二輪車の保有台数も1960年には約300万台だったものが1975年には約880万台へ、約三倍に増えています*71。1970年代に入ると、前述のように、高性能な大型二輪車の販売が始まったこともあり、さらなる交通事故多発の懸念がなされました。

大型二輪車の販売が始まった頃(1970年前後)の二輪車の運転免許は、50cc以下の二輪車が運転可能な原動機付自転車運転免許と全ての二輪車が運転可能な自動二輪車運転免許に分かれていました。試験は学科試験と技能試験でしたが、技能試験は現在と比べて比較的簡単であり、試験車に小型二輪車が使われることも多かったようです。これらの試験で免許を取った人であっても、法律上は大型二輪車が運転可能だったために、事故の多発が懸念されたのです。こうして、法律と現実のギャップを埋めるために1972年に免許制度が改正されました。技能試験が二種類になり、自動二輪車免許は125cc以下が運転可能な小型限定免許と全ての二輪車が運転可能な免許(限定なし)に分かれました。さらに1975年には技能試験が三種類になり、自動二輪車免許は125cc以下が運転可能な小型限定免許、400cc以下が運転可能な中型限定免許及び全ての二輪車が運転可能な免許(限定なし)に分かれました。この改正により大型二輪車を運転したい場合は運転免許試験場での技能試験が必ず要求されることとなりました*72。一般的に「限定解除」と呼ばれるこの試験の合格率は低く*73、限定なしの自動二輪車免許は一種のステータスともなり、日本の大型二輪車の市場はあまり拡大しませんでした。しかし、1996年に、それまでの中型限定の自動二輪車免許が「普通自動二輪車免許」となり、新たに「大型自動二輪車免許」が創設されます*74。この改正により大型自動二輪車運転免許が取りやすくなったため、現在は大型二輪車市場が拡大しています*75

1960年の道路交通法成立以降について、二輪車運転免許の種類の変遷を表−3に示します。

      表−3 道路交通法成立(1960年)以降の二輪車運転免許の種類

  免許の種類 条件等 〜50cc 〜125cc 〜400cc 400cc超
1960年

 
原  付
 
第一種 × × ×
第二種 × ×
自動二輪
1965年改正 原  付 × × ×
自動二輪
1972年改正
 
原  付 × × ×
自動二輪
 
小型限定 × ×
限定なし
1975年改正

 
原  付 × × ×
自動二輪

 
小型限定 × ×
中型限定 ×
限定なし
1996年改正

 
原  付 × × ×
普通自動二輪
 
小型限定 × ×
限定なし ×
大型自動二輪

※ ○:運転可。 ×:運転不可。
出所:前出『モーターサイクルの日本史』山海堂、1995年及び前出『1997年版世界二輪車概況』より作成しました。

 

<販売競争の激化>

1981年から1983年にかけて二輪車生産台数は急激な伸びを示してました。巷間、この競争はホンダとヤマハ間の競争ということで「HY戦争」と呼ばれています*76。「HY戦争」のきっかけは、1950年代から順調に生産を拡大していたヤマハが1970年代後半に国内市場シェアでホンダに数%のところまで近づいたことにあります。当時、ホンダは四輪車部門においてアメリカの排出ガス規制(通称マスキー法)をクリアするためのエンジン開発に力を注いでおり、相対的に二輪車部門が弱くなっていたといわれていました。この競争により一時的に国内販売台数は大きく伸びましたが、大量の過剰在庫を抱えるという形になってしまい、「HY戦争」終結後も数年間にわたって二輪車産業全体を苦しめることになります。

 

<海外生産の拡大>

 二輪車メーカーが欧米で本格的生産を始めたのは四輪車に比べると早い時期でした*77。すなわち、日本の二輪車メーカーの技術力が世界的水準に達するのが四輪車に比べると早かったとも言えるでしょう*78。また、二輪車メーカーが早くから競争力を持ったこと、すなわち世界市場で競争するのが早かったことは輸出比率も四輪車に比べると早い段階で高くなっていったことを意味しています。コスト面を考えると、できるだけ市場に近い場所で生産することが有利であり、本格的に欧米に進出するのも四輪車に比べると早かったのです。とくに、アメリカ市場に関していえば、二輪車メーカーがコストダウンを主たる目的として現地生産を開始したのに対して、四輪車メーカーは貿易摩擦*79対策として現地生産を始めたとの印象を持ちます。

 1980年代から本格的に始まった海外生産は現在でも増え続けています。 1990年代に入ると、アジア、とくに中国への進出が盛んにおこなわれるようになりました。これは、改革・開放政策による経済発展により、二輪車の需要が大幅に増加したためです。現在はかなりの数にのぼるメーカーが二輪車を生産しており、1950年前後の日本の状況と似ています。つまり、非常に大きな潜在需要が中国を二輪車生産台数世界一へ導くことになったのです。

 

<アメリカ政府による輸入規制>

日本製二輪車が海外に本格的に輸出され始める1960年代前半から、外国政府における輸入規制や高関税の問題はしばしば生じていました*80。これらの中で、もっとも良く知られているのが、1983年にアメリカ政府のITC(International Trade Commission:国際貿易委員会)によって、700cc以上の輸入二輪車に課す関税の増額が決定されたことではないでしょうか。これは1988年4月まで、45%、35%、20%、15%、10%と毎年税率を下げる特別関税でした。当時、日本製の大型二輪車が高性能・低価格を武器にアメリカ市場を席巻し、アメリカ唯一の量産二輪車メーカーであったハーレーダビッドソン社を窮地に追い込んでいました。ハーレーダビッドソン社は、日本のメーカーを相手取って反ダンピング訴訟を起こしており、アメリカ政府に上記内容の規制を働きかけたのです。アメリカ政府も業績の悪化していたハーレーダビッドソン社を救済するという明確な意図を持っていたようです*81。ハーレーダビッドソン社としては、1950年代に世界有数の二輪車生産国でありながら日本製二輪車との競争に敗れ、1970年代半ばにはほとんど壊滅的状況に陥ったイギリスの二輪車産業の二の舞を避けたかったのです。

後に、ハーレーダビッドソン社は業績を回復し、特別関税の撤廃を申し出ています。なお、この業績回復は日本メーカーのおこなっていた品質管理手法や製造技術を取り入れることによってもたらされたと言われています。

 

<高性能二輪車に対する自主規制>

国内において、二輪車性能の急速な向上は交通事故増加の懸念を抱かせました。そのため、関係官庁*82は二輪車メーカーに各種の自主規制をおこなうように働きかけをおこないました*83。メーカー主導の自主規制、すなわち法律に則ったものではない規制*84は徐々に増えていきます。自主規制の中には事実上の規制となっているものも多くあるようです。しかし、1980年代後半から始まった規制緩和の流れの中で、直接安全に関わる部分以外の自主規制は撤廃される傾向にあります。以下に、これまでおこなわれてきた主な自主規制を示します。

・750ccを超える大型二輪車*85の販売自粛
  1969年に750ccの大型二輪車が販売されてから、1980年代後半までの間、前述の交通事故多発の懸念から750ccを超える大型二輪車の国内販売は自主規制という形で自粛されていました*86。これは“自主”という形をとり、法律には明記されていないものの、750ccを超える大型二輪車が運輸省による型式認定において合格しないことを意味しており、事実上、政府による規制です。このため、750ccを超える大型二輪車の購入希望者がいる場合は、逆輸入の形をとらざるを得ませんでした*87。それと共に、メーカーは海外向けの750ccを超える大型二輪車を、外観を全く同じままに、排気量を750cc以下に小さくした二輪車の販売をおこないました。1988年からは750ccを超える大型二輪車の国内販売が始まります*88が、海外市場向けの仕様と全く同じではなく、最高出力が下げられる形*89での販売が多くなっています。

・最高出力の自主規制
  前述の750ccを超える大型二輪車の販売自粛と同様に、高性能化による事故増加の懸念から、国内販売される二輪車に対しては最高出力の自主規制がおこなわれました*90。この自主規制が始められた時期は、概ね1980年代前半だと思われます。表−4に各排気量別の最高出力の自主規制値を示します。

          表−4 各排気量別最高出力の自主規制値(単位:ps)

  1983年頃*91〜1992年3月 1992年4月〜
750cc〜 97 100*92
〜750cc 77
〜600cc 69
〜500cc 64
〜400cc 59 53
〜250cc 45 40
〜125cc 22
〜50cc 7.2*93

出所:前出『日本モーターサイクル史 JAPANESE MOTORCYCLE HISTORY ヤエスメディアムック』より作成。

当初は、実際の最高出力が自主規制値(カタログ等による公称値)を大きく上回っている機種もありましたが、現在ではほぼ自主規制通りの値となっているようです。最高出力の自主規制と同様の自主規制として最高速度制限装置の取付があります*94。なお、当然ながら、以上の自主規制は輸入車には適用されません*95

・テレビコマーシャルの自主規制(小型二輪車の一部を除く)
  二輪車のテレビコマーシャル(以下TVCM)は1990年代半ばまで小型二輪車の一部(原付一種のスクーター)を除き、TVCMは作られていませんでした。TVCMを流すことによって10代の若年者(主として高校生)等が影響を受け、事故が増加するのではないかとの意見があったからです*96。そのため、メーカーは、企業のイメージTVCMや自社で生産している四輪車のTVCMの背後に製品名を出さずに、さりげなく二輪車を登場させるなどしていました。しかし、前述のような規制緩和の流れの中でこの1990年代半ばになると、この自主規制もなくなり、現在は大型二輪車のTVCMも流されています。

 

<排出ガス規制>

日本の自動車排出ガス規制は1966年7月の運輸省による通達「自動車の有害な排気ガスの排出基準」が初めてと言えるものです。1975年にはアメリカのマスキー法*97の影響を強く受けた規制(いわゆる「50年度規制」)が環境庁により告示されます。その後も「51年規制」、「53年規制」と排出ガス規制は強化されていきました。これらの排出ガス規制は四輪車、バス及びトラックに対するものであり、二輪車への規制ではありませんでした。しかし、近年、環境問題への関心の高まりから平成8年10月の中央環境審議会中間答申「今後の自動車排出ガス低減対策のあり方について」において、二輪自動車等の排出ガス規制の実施をおこなうべきだ、との意見が出され、結果として運輸省令「道路運送車両の保安基準」が改正されたのです。これによって1998年10月以降の原付一種及び軽二輪の新型車から排出ガス規制がかけられるようになりました。原付二種及び小型二輪自動車(排気量が251cc以上の二輪車)の新型車についても1999年10月から排出ガス規制がおこなわれていまし。規制値の詳細を表−5に示します。

 

    表−5 二輪車に対する排出ガス規制(日本国内)

2ストローク 4ストローク
一酸化炭素CO(g/km) 14.4(8.0)

20.0(13.0)

炭化水素
HC(g/km)
5.26(3.0)
 
2.93(2.0)
 
窒素酸化物
NOx(g/km)
0.14(0.1)
 
0.51(0.3)
 
アイドリング時
CO(%)
4.5
 
アイドリング時
HC(ppm)
7,800
 
2,000
 

出所:前出『自動車年鑑 1998』、344頁を一部修正。カッコ内は中央環境審議会中間答申による低減目標平均値。

二輪車に対する上記排出ガス規制値は、四輪車の規制値よりも比較的低い設定*98ですが、今後、より厳しくなっていくことが予想されます。

 

なお、オイルショック以降においても二輪車産業が念頭におかれた産業政策はとられていません。むしろ産業政策よりも他の政策が与える影響のほうが大きかったと思われます*99

 

【日本における二輪車産業の始まり】

日本における二輪車産業の始まりを明確にすることは難しいことです。それは二輪車製作をどのように定義するかによって異なってくるからです。以下に、日本で初めての二輪車製作に関するいくつかの考え方を示します。

@ 外国製の部品を輸入し、組立

1898年、広島の柴義彦がアンドリウス商会のマンチーニに依頼し、神戸の橋本商会にあった中古で分解されていた状態の二輪車(ピアス・モーター製といわれる)を購入し、組立をおこなったのが日本で最初の二輪車の組立です*100。柴はエンジンの構造及び動作原理に関する知識を持たずに組立に挑戦していました。それは生産(販売)を目的としていたからではなく、二輪車を所有し、乗ること自体が目的だったからです。柴がその後に二輪車製造をおこなったとする記録は残っていません。


A エンジンを製造して自転車に搭載

1909年、大阪の島津楢蔵が4ストローク400ccのエンジンを自作し、輸入自転車に乗せて走りました*101。後に島津は航空機や四輪車用エンジンの開発もおこなっています。島津はエンジンの動作原理を研究した上でエンジン製作をおこなっているため、国産二輪車の始まりをこの時点とする文献は多くなっています。


B エンジンを製造し、自転車を改造した車体に搭載

1909年、岡山の山羽虎夫がエンジンを製作し、自転車の車体を改造して組み付けました*102。点火コイルやプラグ(絶縁体は陶器屋にに焼かせたとの記録あり)も自作し、1910年にかけて約30台製造販売されたと言われています*103が、実用性には乏しかったようです。


C エンジン・専用車体を製造

1910年、上記の島津が第二号エンジンとともに専用の車体を製作し「NS号」と名付けました。1912年には「NMC号」として20台余りが製造されています*104


D エンジン関係以外自製

1910年、東京の双葉屋商会がエンジン、気化器、点火コイルを輸入し、その他を自製で「オリムピア号」を完成させています。


E 点火系(マグネット、点火プラグ)以外自製

1912年、東京の寺川竹蔵が点火系(マグネット、点火プラグ)以外全て自製して「サンライズ号」を製作しています*105

 

以上のことから、二輪車生産を目的とした研究開発期間を含めて考えると、1909年よりもさらに数年遡った時点が二輪車産業の始まりと考えられます。 


*1 日本の二輪車生産の始まりには上記のように、いくつかの考え方があります。

*2 連合国軍総司令部(General Headquarters)。

*3 資料に全文を掲載。

*4 乗用車の生産再開は1947年です。

*5 前身は1945年10月設立の「日本小型自動車統制組合」。1946年10月に「日本小型自動車組合」となりました。

*6 「陸王」(サイドカーと大型二輪車)、「ラビット」(スクーター):富士産業(株)、「ふそう」(スクーター):三菱重工業(株)名古屋機器製作所、「アサヒ」(中型二輪車):(株)宮田製作所、「昌和」(小型二輪車):(株)昌和製作所。

*7 走行大会後にはGHQや経済安定本部の認識が変わり、資材もある程度割り当てられるようになりました。「座談会 オール小型自動車走行大会開催の意義と成果」『小型・軽自動車界三十年の歩み』社団法人全国軽自動車協会連合会、1979年、37-53ページより。

*8 1948年4月設立。二輪車・三輪車・軽四輪車生産メーカーによって構成された団体。1967年4月に四輪車業界の団体である「日本自動車工業会」と合併するために解散し、新団体として「社団法人自動車工業会」が発足しました。この際、小自工に加盟していた部品メーカーは、「社団法人自動車部品工業会」に移っています。合併前の会員はホンダ、東洋工業、ダイハツ、三菱重工、富士重工、愛知機械、スズキ、ヤマハ、カワサキ、ブリヂストン、ライラック、ホープ、三井精機の13社と部品生産の55社。二輪車を含む小型自動車業界が団体活動を始めたのは1935年3月に設立された全国小型自動車協会にまで遡ることができます。

 なお、小自工の各種会合には通産省や運輸省の事務官・技官が度々出席し、様々な情報交換をおこなっていました。

*9 当初、GHQはスクーターを玩具とみなしており、計三回にわたって生産中止命令を出しています。当時のアメリカではスクーターを乗り物ではなく玩具として考えられていたからです。しかし、GHQによる中止命令が出されていたにも関わらず、生産は継続され、結果的にGHQが折れる形で生産が認められることになりました。桜井淑雄「日本小型自動車工業会の解散に際して」、日本小型自動車工業会『小型情報』86号より。

*10 戦前の中島飛行機株式会社。スクーターの生産を始めたのは太田工場を母体とした富士産業株式会社(後の富士工業株式会社、その後、富士重工業株式会社に合併)です。1946年3月にGHQからの生産許可を得ました。試作車のタイヤは飛行機用のものを使用していたとされています。富士重工業株式会社社史編纂委員会『富士重工業三十年史』富士重工業株式会社、1984年、59ページ、62ページ、74ページ、77-80ページ、279-281ページより。

*11 当時は「過度経済力集中排除法」(いわゆる財閥解体)により分割された中日本重工業株式会社(後に新三菱重工業、その後の三菱自動車工業株式会社)が名古屋製作所で生産をおこなっていました。三菱自動車工業株式会社社史編纂室編『三菱自動車工業株式会社史』三菱自動車工業株式会社、1956年、575-576ページ及び三菱自動車工業株式会社総務部社史編纂室編『三菱自動車工業株式会社史』三菱自動車工業株式会社、1993年、135-145ページより。

*12 富士重工業の「ラビット」はパウエル式スクーターを、三菱重工業の「シルバー・ピジョン」はサルスベリー式スクーターをモデルにしていたといわています。富塚清『日本のオートバイの歴史』三樹書房、1996年、84-86ページを参照してください。なお、戦前の日本でスクーターを生産していたメーカーはありません。

*13 疾病や飢餓による社会不安を取り除き占領行政を円滑にするために医薬品や食料に充てられました。

*14 主として経済復興を目的とし、工業原料等の輸入代金に充てられました。

*15 前掲『通商産業政策史』第3巻 −第T期 戦後復興期(2)−、1992年、220-233ページより。

*16 予算均衡、徴税強化、資金貸出の制限、賃金安定、物価統制、為替管理の強化、資材割当の改善、国産品の増産、食糧供給制度の改善、の九原則からなっています。

*17 四輪車の生産も少しずつ始まってはいましたが、その価格の高さから一部の人々の乗り物でしかありませんでした。

*18 ここでの統計資料に補助エンジン付き自転車は含まれていません。

*19 小型二輪車の普及が進んだのは、他にも製造コストの差、流行等の理由があったと思われます。

*20 特需によって原材料費の高騰や入手難が生じたため、二輪車の生産には悪影響を与えたとの見方もあります。

*21 名古屋TTレースは一回で終わりましたが富士登山オートレースは1956年まで四回にわたっておこなわれました。この時期のレース事情に関しての詳細は、神田重巳「モーターサイクルレースを通して日本車の歩みを検証する 世界を制覇するまでの遠い遠い道」『日本モーターサイクル史 JAPANESE MOTORCYCLE HISTORY ヤエスメディアムック』八重洲出版、1997年、230-241ページ等で詳しく述べられています。

*22 1945年8月26日に設立(商工省官制;勅令486)。1949年5月に商工省は貿易庁と合わせて通商産業省となりました。前掲『通商産業政策史』第4巻 −第T期 戦後復興期(3)−、1990年、369-442ページより。

*23 1957年の改正において法律の目的に「自転車その他機械の改良及び輸出をの振興、機械工業の合理化に寄与するとともに…」が加えられました。自転車産業振興協会編『自転車の一世紀 −日本自転車産業史−』自転車産業振興協会、1973年、409ページより。

*24 「自転車関連工業研究補助金」や「発明実施化試験補助金」等。日本自転車振興会編『競輪十年史』日本自転車振興会、1960年、418ページより。ホンダとスズキがこれらの補助金を受けていました。

*25 オートレースを意味します。

*26 当時の石油行政を担当したのは通産省の外局だった資源庁の鉱山局油政課と配油課です。

*27 14歳以上であれば無試験で原動機付自転車に乗ることができました。なお、1954年に2ストロークと4ストロークの排気量による区別はなくなっています。二輪車に関する運転免許の歴史については、日本自動車工業会編『モーターサイクルの日本史』山海堂、1995年、第4章で簡潔にまとめられています。

*28 『HONDA 50 Years ホンダ50年史 ヤエスメディアムック』八重洲出版、1998年、256ページより。

*29 二輪車の物品税は、1949年4月に税率30%として始まりました。1950年1月には30%→20%、1951年1月には20%→10%へと引き下げられています。

*30 資料に全文を掲載。

*31 企業合理化促進法の対象に二輪車産業を指定してもらおうとしたのは「設備の老朽化が進んでおり品質管理が不十分になる」との理由からでした。陳情は少なくとも1953年、1958年の二度おこなわれており、その結果として1960年には企業合理化促進法の指定順位に決定を見ています。

*32 スズキは元々四輪車志向が強く、戦前には四輪車の試作にも成功しています。(戦争の影響を受け開発は中止された。)スズキは戦後、GHQによるドッジ・ラインの実施をきっかけとして経営が深刻な状況に陥っており、それを打開するために二輪車産業に参入しました。

*33 「浅間高原レース」や単に「浅間レース」とも呼ばれます。第一回のレースには一部公道も使用されました。浅間火山レースの経緯や結果については、酒井文人・望月修『浅間からスズカまで』八重洲出版、1990年、に詳細が記されています。

*34 建設費用の総額は1,760万円。補助金以外の資金は1956年に設立された「社団法人浅間高原自動車テストコース協会」会員の二輪車メーカー19社によって分担されました。前掲『浅間からスズカまで』34−36ページ。

*35 ライダーとして海外のレースに日本人が参加したのは大倉喜七郎であり、1904年にヨーロッパのレースに参加したのが初めてとされています。(『モーターサイクリスト臨時増刊 国産モーターサイクルのあゆみ』八重洲出版、1972年、372ページ。)これは日本で二輪車が製作されるよりも早かったようです。

*36 350ccクラスに参加した目黒は選手が練習中に負傷したためレースには出られず、125ccクラスに参加したホンダは完走したものの13位に終わりました。

*37 イギリスのマン島で1907年からおこなわれている公道レース。T.T.はTourist Trophyの略です。戦前の1930年には多田健蔵が日本人として初めて参加し、15位に入賞しています。

*38 世界各国を転戦して、ライダーとメーカーの優劣を競うレース。1949年に始まりました。四輪車のレースに例えるとF1にあたり、毎年十数戦がおこなわれます。1963年から1967年及び1987年以降は日本でもレースが開催されています。なお、現在、マン島T.T.レースは世界GPに組み込まれていません。

*39 後にカワサキも海外レースに参戦するようになりました。

*40 日本メーカーの圧倒的強さは世界GPにおける勝利数が示しています。

表−N1 世界GPにおけるメーカー別勝利数(1949-98年)

順位

メーカー

勝利数

1

ホンダ

468

2

ヤマハ

369

3

MV Agusta*

274

4

スズキ

144

5

Aprilia

100

6

カワサキ

85

7

Derbi

69

8

Garelli

51

9

Kreidler

49

10

Moto Guzzi

46

     * 1970年代半ばで活動停止、現在はCagiva傘下。
     出所:Dorna社
Webサイト(http://www.dorna.com/)より。
         Dorna社は世界GPのマネージメントをおこなっている企業です。

*41 資料に全文を掲載。当初は、機械工業振興事業団の設立が図られたが財政事情により見送られました。機械工業振興臨時措置法は5年間の時限立法でしたが、二度(1961年、1966年)改正延長され1971年3月に失効しました。機振法と自動車産業との関連については、天谷章吾『日本自動車工業の史的展開』亜紀書房、1982年、159-168ページを参照しました。

*42 1951年3月に「長期資金の供給をおこなうことにより経済の再建及び産業の開発を促進する」を目的として設立されました。

*43 品種の制限、品種別の製造数量の制限、技術の制限、部品又は原材料の購入方法の四つ。この共同行為の指示をおこなう場合には公正取引委員会との協議が必要とされました。

*44 現在の「東京モーターショー」にあたります。

*45 1951年2月発足当時の日本語名称は財団法人海外市場調査会。1954年8月に国際見本市協議会、日本貿易斡旋所協議会との統合により財団法人海外貿易振興会となります。そして1958年に日本貿易振興会法が公布されたことにより特殊法人日本貿易振興会となりました。「JETRO」の名称は1951年の発足当時から用いられていましたが、英文正式名称は時代の流れにより何度か変更されています。現在の「JETRO」はJapan External Trade Organizationの略となっています。

*46 船自体を展示場としたものです。合計13回おこなわれ、発展途上国を多く訪れるました。第四回からは見本市の専用船として「さくら丸」がその役割を果たしました。(1972年には二代目さくら丸が建造されています。)日本の経済発展につれてその存在意義は薄れ、1978年で事業が中止されています。皮肉なことにさくら丸は翌1979年にアメリカ商務省主催のボーティック・アメリカ(アメリカ産品巡航見本市)のために国内13港を巡航しています。

*47 この時期に経営危機に陥ったメーカーに対しては電機メーカーからてこ入れがしばしばおこなわれました。

   ・宮田製作所:松下電器からの支援
   ・新明和興業:日立製作所からの支援
   ・東京発動機:富士電機製造からの支援

*48 50cc、OHV、最高出力4.5馬力の4ストロークエンジンを搭載し、当時の同排気量2ストロークエンジンを搭載していた他社製二輪車の性能を凌いでいました。(原理上、同排気量ならば2ストロークエンジンのほうが出力は高くなります。)1965年にはエンジンがOHC化されています(50ccモデルへの適用は1966年から)が、それ以降はエンジン、外観ともに大きな変更はありません。このスーパーカブから派生した製品も数多くあります。

 スーパーカブシリーズは現在でも世界各国で生産が続けられており、海外生産を含めた累計生産台数は2,600万台を越えています。(1998年5月の時点。)二輪車及び四輪車の同一車種累計生産台数では世界一です。スーパーカブの成功はホンダの経営を安定させ、四輪車進出の基盤を築いたと言えます。

*49 当時、既に欧米では高速道路網がかなり整備されており、高い速度での長距離移動が一般的におこなわれていました。

*50 エンジンは空冷4ストロークOHC4気筒736cc、最高出力67馬力。当初、エンジン構成部品の一つであるクランクケースは量産を考慮せずに砂型鋳造されていました。しかし発売後の人気が高く販売台数が伸びたため、量産が可能な金型でのダイキャストに変えられたということです。

*51 エンジンは空冷4ストロークDOHC4気筒903cc、最高出力82馬力。

*52 1969年4月に輸出を開始し、国内販売は1968年8月からおこなわれました。当時、あまりに高性能なために、運輸省で問題となり、型式認定が遅れたと言われています。

*53 ホンダの「Dream CB750 Four 」を超える性能のために運輸省の型式認定が下りず、国内販売はされませんでしたが、1973年に排気量を736ccとした「750RS(Z2)」が発売されました。最高出力は69馬力。「900スーパー4(Z1)」及び「750RS(Z2)」の人気は今でも高く、発売から二十数年経つ現在でさえ中古車価格は新車時の価格を大きく上回ることが多くあります。

*54 エンジンは水冷2ストローク3気筒、738cc、最高出力67馬力。

*55 エンジンは空冷4ストロークOHC2気筒、最高出力63馬力。

*56 並列四気筒エンジンを採用している場合が多いようです。このエンジン型式は日本製高性能二輪車の代名詞ともなりました。現在でも、海外の量産二輪車メーカーで四気筒エンジンを採用している例はあまり見受けられません。

*57 1948年4月設立。1967年4月に小自工と合併し、社団法人自動車工業会(以下自工会)として発足しました。合併前の会員は、いすゞ、日産、日産ディーゼル、トヨタ自工、三菱重工、日野等でした。1999年現在の自工会の会員(四輪車・二輪車メーカー)は、いすゞ自動車株式会社、川崎重工業株式会社、スズキ株式会社、ダイハツ工業株式会社、トヨタ自動車株式会社、日産自動車株式会社、日産ディーゼル工業株式会社、日野自動車工業株式会社、富士重工業株式会社、本田技研工業株式会社、マツダ株式会社、三菱自動車工業株式会社、ヤマハ発動機株式会社の13社です。

*58 輸出をおこなっているメーカーは、海外の高速道路で試験走行をおこなっていました。日本で高速道路が利用に供されたのは1963年7月、名神高速道路の尼崎-栗東間、約71km。なお、首都高速道路は京橋−芝浦間約4.5kmが1962年に開通しています。

*59 1961年には財団法人自動車高速試験場が設立されます。1969年に改組・改称され財団法人日本自動車研究所となりました。

*60 補助金に関しては、当初、1960年度予算で1億5千万円を要求しましたが、通産省と大蔵省の交渉の中で1千万円に減額されました。建設資金の一部に競輪の収益金を充てようとの話もあったようです。

*61 委員会には資金分科会と技術分科会が設けられました。

*62 テストコースではありませんが、1962年にはホンダによって鈴鹿サーキットが建設されています。

*63 自動車・二輪車関係の雑誌は谷田部で各種のテスト走行をおこなうことも多いようです。

*64 資料に全文を掲載。

*65 ここでは狭義の自動車産業、つまり四輪車産業を指しています。

*66 東京発動機は1955年には生産台数で首位に立ったこともありますが、1964年2月に倒産。現在は再建がなされ、トーハツ株式会社として船外機やポンプの製造をおこなっています。財務内容でもホンダに勝っていた東京発動機が倒産したのは、市場の急速な変化に十分対応できなかったからだとされています。デイビッド・ハルバースタム(高橋伯夫訳)『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史 (上)』日本放送出版協会、1987年、428-429ページ(David Halberstam, The reckoning,New York:Avon Books,1986.)より。

*67 第四十六回衆議院商工委員会議録第五十八号を参照してください。

*68 1998年における運転免許保有者数は約7,270万人です。警視庁交通部監修『交通年鑑 平成10年』財団法人東京交通安全協会、1999年より。

*69 1996年の保有台数は約6,900万台。『自動車年鑑 1998』日刊自動車新聞社、1998年より。

*70 その後、一時的に減ったものの、近年、交通事故による死者は年間10,000人前後で推移しています。

*71 1997年の二輪車保有台数は約1500万台。前掲『自動車年鑑 1998』より。

*72 小型限定及び中型限定の二輪車運転免許は各都道府県の公安委員会によって指定された自動車教習所を卒業することで、運転免許試験場での技能試験が免除されました。

*73 合格率は、地域によって差はありましたが、数%〜10%程度でした。

*74 アメリカ政府からの圧力が大きな影響を与えました。アメリカで大型二輪車を量産しているのはハーレーダビッドソン社だけであり、同社がアメリカ政府を通じて日本のOTO (Office of Trade and investment Ombudsman:市場開放問題苦情処理体制)に圧力をかけたといわれています。

*75 免許取得可能年齢は18歳に引き上げられたましたが、技能試験が普通自動二輪車免許と同様に、各都道府県公安委員会公認の自動車教習所を卒業することで免除となったためです。しかし、大型二輪車市場の拡大によって、逆に中型二輪車市場は小さくなりました。

*76 小型二輪車、とくに第一種原付の分野で販売競争がおこなわれました。実際は販売競争にスズキやカワサキも巻き込まれています。一般的にはホンダが勝利したといわれています。「ドキュメントHY戦争 在庫に埋もれた“勝者”が残った」『日経ビジネス』、1983年6月13日号、169-172ページより。

*77 日本のメーカーが海外進出(工場稼働、KD生産を含む)したのは、主として1960年代前半である。通商産業省通商産業政策史編纂委員会編『通商産業政策史 第9巻 −第V期 高度成長期(2)−』通商産業調査会、1989年、422ページより。
  二輪車メーカーが四輪車メーカーに比べて海外進出を早くおこなったのには以下の理由があったと思われます。

@ 二輪車の部分点数は四輪車の部品点数に比べてかなり少ない(一般的な部品点数は二輪車において数千点、四輪車において数万点といわれている)ため、初期投資が少なくて済むことが挙げられます。これは進出するメーカーの負担が比較的小さいことに加え、進出される側にとっても有利な点です。

A 経済的な観点から、輸入規制や高い関税をかける国々への輸出を考えると、現地生産をおこなったほうが良い場合が多いように思えます。また、輸入規制や高い関税を課すことで工業化(主として輸入代替工業化)を目指し、工場誘致をおこなおうとする国も少なくありません。

B 二輪車の大量生産技術を最初に確立したのが日本の二輪車メーカーであり、当時、競争相手がほとんどいませんでした。工場誘致をおこなうに際しては、その時点での最新の技術や設備を導入するのが一般的であることから日本のメーカーが選ばれたのではないでしょうか。

*78 どのような基準で、日本の四輪車メーカーの技術が世界水準になったかの判断は困難ですが、第二次オイルショック前後だと思われます。(アメリカ市場で日本の四輪車のシェアが20%を越えたのは1980年です。)財団法人日本自動車工業会『日本自動車産業史』日本自動車工業会、1988年、284ページより。

*79 二輪車においても外国政府によって輸入規制がとられたことが何度かありましたが、四輪車のように政治問題化するまでには至りませんでした。詳細は今井伸「世界一のカメラ、オートバイ、VTR、時計」『エコノミスト臨時増刊』59巻38号、1981年 、42ページ 及び「オートバイ 全世界の八割を制する」『エコノミスト臨時増刊』1982 年、48ページを参照してください。

*80 外国の輸入規制についての例は後述します。

*81 『自動車海外情報 二輪自動車編』Vol.16 No.3、1983年、日本自動車工業会、3-4ページ(原典:「ハーレー・ダヴィッドソン、息つく場所を求める」、フィナンシャル・タイムズ、Feb 10、1983)、及び香山知子構成『ハーレーダビッドソン物語』グリーンアロー出版社、1992年を参照してください。

*82 警察庁、運輸省及び通産省等。

*83 関係官庁が二輪車メーカーに働きかけたという明らかな証拠は残っていません。

*84 自主規制は明確な根拠付けがなされないままにおこなわれることが多いようです。本当に必要な規制ならば法制化すべきだと考えます。

*85 一般には「オーバーナナハン」と呼ばれています。

*86 何故、排気量750cc以上が自主規制の対象となったのか定かではありません。

*87 国内の販売店が海外の販売店から輸入するという形となるため、メーカーは公式には一切関与しません。そのため、国内市場向けの二輪車に対して通常おこなわれているメーカー保証が逆輸入車にはありません。

*88 ホンダがHAM(Honda of America Manufacturing,Inc.)より輸入した「GL1500」(1520cc)が最初です。ヤマハは1990年に「VMAX」(1197cc)、スズキも同年「VX800」(805cc)そしてカワサキは1991年に「GPZ900R」(908cc)を国内市場に投入しました。

*89 一部の外国向けの機種を除いて、同じ型式の二輪車ならば国内向けよりも海外向けのほうが最高出力は高くなっています。

*90 四輪車に対しても日本国内向けの製品については二輪車と同様に、最高出力280ps(軽自動車は64ps)の自主規制がおこなわれています。 (2004年6月現在、四輪車についての最高出力自主規制(280ps規制)は撤廃の方向へ向かっています。)

*91 排気量によって実施時期が異なります。

*92 1996年から適用。

*93 1980年頃から適用。

*94 国内向けに生産された二輪車及び四輪車は速度が180km/h以上(原付一種は60km/h以上)出ないような装置が付加されています。また、二輪車関して、現在、安全の観点から国内向けに生産されているものについては前照灯(ヘッドライト)を常時点灯とするような自主規制がおこなわれています。

*95 この理由により、同じ型式の二輪車であっても自主規制がおこなわれていない逆輸入車のほうが、価格が高く、保証がないにも関わらず、人気が高くなっています。

*96 二輪車の免許取得可能年齢は16歳であり、高校生の年代と重なります。高等学校では1970年代半ばから、いわゆる「三ない運動」(免許を取らない、乗らない、買わせない)が拡がっていました。現在でも法律では許されている免許の取得が校則で禁止されている高校は多いようです。

*97 1969年、EPA(アメリカ環境保護庁)が発表した大気汚染防止法がいわゆるマスキー法です。自動車排出ガス中のHC、CO、NOxをそれまでの1/10に規制するというものです。1970年に成立し、1976年から適用されました。

*98 試験モード(条件)が異なるために二輪車と四輪車の規制値を厳密に比較することはできませんが、二輪車に搭載される小排気量エンジンは四輪車に搭載されるエンジンよりも精密な制御が必要であるといわれています。そのための技術開発が遅れていることが規制の遅れた理由として考えられます。

*99 二輪車産業に影響を与えたものとしては1986年の第一種原動機付自転車へのヘルメット着用義務化等も挙げられます。

*100 日本自動車工業会編『日本自動車工業史稿(1)』日本自動車工業会、1965年、27ページ参照。

*101 前掲『モーターサイクルの日本史』24ページ参照。

*102 尾崎政久『国産自動車史』自研社、1966年、105ページより。

*103 前掲『日本自動車工業史稿(1)』221ページ参照。

*104 前掲『モーターサイクルの日本史』25ページより。

*105 前掲『国産自動車史』106-108ページ。

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