† Side Masato †

「筋肉が通りまーす。白線の内側までお下がりくださーい」
 憎めない筋肉馬鹿一直線 井ノ原真人は、ライバルの宮沢謙吾と共にグラウンドを駆け回っていた。
 少しは守備練習もしようよ……という、我らが主人公、直枝理樹の心のツッコミはまぁともかく、真人は今日も今日とてランニングに青春の汗を流していたのだ。
「おっと、ボールが切れちまったぜ」
 そんな野球の練習中のことだ。
 投げる球が切れた棗鈴が、兄である恭介にボールを催促したところ、恭介はそれに肩をすくめて返事を返した。
「じゃあ、ボールを集めてこなくちゃね」
 バッターボックスを離れる理樹。グラウンドに散らばったボールや校舎にまで飛んでいったボールを回収するために、一端練習は中止となった。
「おい、真人。そこ走ってる暑苦しい筋肉」
「おうっ、なんだ恭介!」
「悪いけど、体育倉庫に行って予備の野球ボール持ってきてくれないか」
「ボールが足りねぇのか」
「まあな。雑木林に飛んでいったり川に落ちたりで、いつの間にかボールの数が減ってきてるし。こっそり体育の授業で使うボールを持ってきてくれ」
「オーケー。オレの筋肉の数だけ新たなボールを取ってきてやるぜ!」
「おう。できるなら中に星が入っているのがいいなっ」
「よっしゃあっ! 七つ集めて筋肉をゲットだぜっ!」
「いやいやいや、ないからっ! そもそも願い事筋肉なんだ?! これ以上筋肉手に入れてどうするのさっ」
 理樹のツッコミに豪快な笑い声を返し、えっほえっほと駆けて行く真人。
「やれやれ。今日もアイツは無駄に元気有り余ってんな」
 恭介は、遠ざかっていくその大きな背中を、微笑ましげに見送った。



 これはそんな真人の、どたばたと騒がしいとある日常の物語。





 ――――ではなく。



   † Side Kanata †

「……あの子。なんだかんだで楽しんでるじゃない」
 素っ気無し 愛想無し 配慮無しの風紀委員 二木佳奈多は、グラウンドの見渡せる校舎側の土手の上から、リトルバスターズの練習風景を眺めていた。
 直枝理樹が打ち返したボールに、レフトを守る来ヶ谷唯湖が目にも留まらぬスピードで地を駆け打球を捕球、理樹に向かって返球する。
 それを綺麗にライト方向に打ち返す理樹。その先には、佳奈多の妹――三枝葉留佳の姿。
「はるちんダーイブッ!」
 勢い任せに横っ飛びでボールに飛びつく葉留佳。しかし、ボールはグローブからすっぽ抜けて後方にてんてんと転がっていった。
「やはは、やっちゃいましたヨ」
 自分のしでかしたエラーに照れたように頭を掻く葉留佳に、チームメイトから「ドンマイだよ〜」、「ないすがっつですっ」と声が飛ぶ。
「次は任せろーいっ」
 グローブをぱんぱんと叩いて構えなおす葉留佳。
 そこは、妹がいつでも笑顔でいられる素敵な場所で。
 融通の利かない自分なんかが入って行ってはいけないような、眩しすぎる場所で。
 佳奈多は、この日もそんな光景を遠くから眺めるだけだった。
「―――あら」
 なにやら棗恭介がメンバーを集め、一端練習を中止したようだ。
 そろそろ潮時か……。
 そう思い、踵を返して寮に戻ろうとした佳奈多は、一直線に土手に向かって駆けてくる大男の姿に気付いた。
 ―――井ノ原真人だった。
 こうして練習を見ていたことを知られるのも何かと面倒だ。
 お節介な連中のことだ。
 見ているだけでなく参加したらどうだと、強引に付き合わされるのが目に見えている。
 佳奈多は退散を決め込むが、真人の走る速度はかなりのものだ。このまま帰ろうとしたところで、彼はその後ろ姿を目聡く見つけ、声を掛けてくるだろう。
 ここはひとまずどこかに身を隠し、真人をやり過ごしてからあらためて寮に帰ろう……。
 そう決めた佳奈多は、とりあえず扉の開いていた体育倉庫に身を隠すのであった。



 これはそんな佳奈多の、妹を見守る心温まる物語。





 ――――でもなく。



   † Side Sasami †

「あれ、さーちゃんなにやってるの??」
「……神北さん。見てわかりませんの? わたくし今、とても集中してますの。ジャマなさらないでくださる?」
 時をさかのぼること前日の夜。
 笹瀬川佐々美は、寮の机でなにやら真剣な面持ちで二枚の十円玉を指で摘んでいた。
「私この本知ってる〜。すっごい効き目のあるおまじないの本だよね? この前みおちゃんに見せてもらったよー」
「だから話しかけないでくださらない!? とても精密な作業で―――」
「わぁ、さーちゃんすごーいっ! 十円玉が二枚重なって立ってるよ〜」
「―――へ?」
 ルームメイトの驚きの声にはっとなり手元に目をやると、机の上に十円玉が一枚を立ち、更にもう一枚、その上に立っていた。
 手を離しても倒れることなく十円玉の塔は誇らしげに立っていた。
「あ、あら……。あれだけ何度やっても成功しなかったのに……。神北さん、今回ばかりは礼を申し上げますわっ」
「どういたしまして〜。それでさーちゃん、このおまじないは、どんなおまじないなの?」
「はっ! そうでしたわっ! ここからが本番ですわよっ」
 佐々美は目を閉じて、おまじないの呪文を心の中で唱える。
 そして意中の男性である宮沢謙吾の顔を思い浮かべた。
 ……長い道のりだった。
 謙吾と二人きり、静かに話しをしたいと思いながらも、彼の周りにはいつも誰かがいた。
 特に、あの筋肉ダルマ! いつもいつも金魚の糞のように宮沢様の隣で邪魔をしてッ!!
―――思い出しただけで腹が立ってきましたわっ! あの筋肉ダルマの井ノ原真人っ!!

 からーん

―――けれど、それももうおしまいですわ……!
 このおまじないの効力によって、ついにわたくしは誰にも邪魔されることなく宮沢様と二人きりに……。これでついにわたくしもラッキーガールですわ……っ!
「ねぇさーちゃん、十円玉落っこちちゃってるよ??」
「――――はっ!!!」
 唯我独尊の女王猫 笹瀬川佐々美。
 彼女は小一時間、まるで石のように固まっていた。



 これはそんな佐々美の、おまじないが引き起こした珍騒動。





 ――――だけでなく。



   † Side Miyuki †

「……思ったより、簡単でしたね」
 古式みゆきの目の前に、縦に二枚重なって聳え立つ二枚の十円玉の塔があった。
 読書が趣味だと未だに見栄を張って公言している謙吾に、みゆきはちょっとした意地悪心から「なら、お勧めの本を貸してください」と提案した。
 そして謙吾から借りたのが、このおまじない事典だった。
 見たまんま少女趣味のおまじないの本。あきらかに謙吾の趣味ではなく、彼が共に毎日騒いでいるリトルバスターズの誰かの本であることは間違いない。
「あの人は、まるで子供みたい……」
 小さく微笑むみゆき。そんな無理をして趣味を作らなくてもいいというのに。
 彼の剣道以外の生き甲斐は、彼自身が毎日証明し続けているのだから。
 さて、どうしましょうとみゆきはあらためて考える。
 このおまじないは、意中の人と二人きりで体育倉庫に閉じ込められるという、えらく限定的なおまじないだ。
「閉じ込められてしまうのは、相手の方にとっても迷惑ですね」
 ここは十円玉を倒してなかったことにしてしまおう。
 そうすれば、誰にも迷惑をかけずにすむ。
 ……
 けれど。
「………意地を張ってる宮沢さんに、ちょっといじわるでもしてみましょうか」
 くすりと小さく笑う。
 このおまじないの本を貸したのは他でもない謙吾だし、何より、自分と二人きりで体育倉庫に閉じ込められた時の謙吾の困った顔や慌てる仕草を見てみたい。
「スピードノキアヌリーブスノゴトク、スピードノキアヌリーブスノゴトク、スピードノキアヌリーブスノゴトク」
 呪文は唱えた。
 もう後戻りはできない。
「次は、一緒に閉じ込められたい人の名前を頭の中に思い浮かべる……」
 みゆきが謙吾の名前と顔を思い浮かべようとしたところで。
「こんばんはー。風紀委員の見回りでーす」
 コンコンとドアがノックされた!
「……はい」
「寮会の代わりに見回りに来ました。古式さん、ちゃんといますよね」
「はい。大丈夫です」
 以前弓道の道を絶たれ、精神的に追い詰められ心が弱くなり、思いつめて学校に多大な迷惑を掛けてしまったことがある。
 それ以来、みゆきの部屋の消灯前の点呼は念入りに行われるようになっていた。
「やはー、すぐに返事がなかったんで、いつかみたく古式さんがいなくなってたらどうしようかと思いましたよー」
「ご心配をおかけしてすみません……」
「ま、結局あのときも、ただお友達の部屋に呼ばれていただけだったんで別にいいですけど。やー、それでも委員長には大目玉くらうんですよー。人使いが荒いというか、何と言いますかー」
「二木さんは、自分の仕事に一生懸命な方ですけど、融通が利かないところもありますから……」

 からーん

「………」
 コインが落ちる音に振り返ると、机の上の十円玉が崩れていた。
 風紀委員がなにやら話を続けているが、みゆきの頭には入ってこない。
 やがて風紀委員が帰ったあと、みゆきは静かに十円玉を拾い上げた。
「………」
 十円玉を目の前に掲げ、小さく呟く。
「今のなし、では、駄目でしょうか……」
 十円玉は鈍く光るだけで、返事を返すわけもなく。
 みゆきは小さく溜息をついた。








 これは。
 そんな不幸な偶然が幾重にも重なり生まれた、悲劇の物語である。







Supporting Actor ☆ Close Call!!









   † 開幕 †

「……あー、誰かこの状況を説明してくれねぇか?」
 薄暗く、運動マットや、ボールのゴム、そしてカビの匂いに満ちた体育倉庫。
 真人はすぐ側で不貞腐れたような顔をしながらそっぽを向いている女生徒に声を掛けた。
「……わたくしが知るわけありませんわっ! それよりも……」
 佐々美は申し訳なさそうに声を落とし、体育倉庫の扉をなんとかして開けようと試行錯誤を繰り返していた佳奈多に向き直った。
「二木さん。こんなことに巻き込んでしまい、大変申し訳ありませんわね」
「……別に、貴女のせいではないわよ。元から体育倉庫に入っていた私にも落ち度があるのだし」
 佳奈多は一つため息をつくと、うんともすんとも言わない体育倉庫の重い扉から離れた。
 ……外側から鍵を掛けられているわけでもなく、何かが引っかかっているわけでもない。
 それなのに開かない扉。佳奈多はお手上げとばかりに首を振った。
「……古式さん、でしたっけ。気分はどうです? 落ち着きましたか」
 佳奈多はマットの上で横になっているみゆきに声を掛けた。
「はい……。大分よくなりました……」
 ゆっくりと体を起こすみゆき。その片目に、いつも悲劇の象徴のようにあった白い眼帯は無い。
「悪かったわね……。私の不注意のせいで、貴女をこんな目に合わせてしまって」
「……いいえ。これはおそらく、自業自得というものだと思います……」
「自業自得?」
「いいえ、こちらの話です……」
 なぜか目を合わせようとしないみゆきに佳奈多は訝しげに眉をひそめた。
「あーっ! もう、息が詰まりそうですわっ!! 誰かこの暑苦しい筋肉をどうにかしてくださらない!?」
「んだよっ、無理言うなよなっ! オレだって身動きとれねぇんだからよっ!!」
 真人は崩れ落ちてきた高飛びのハードルやフラッグ、跳び箱や平均台の山をその背中で受け止めていた。
 その隣には、同じく崩れ落ちてきた器具で足を挟まれて身動きが取れなくなっている佐々美。
 そんな二人の距離は身じろぎすれば触れ合うほど近かった。
「ちょっとっ! 触らないでくださる!? 馬鹿がうつりますわっ」
「うつるかよ! 筋肉ならうつるかもしれないけどなっ」
「もっとありえませんわっ! この脳みそ筋肉ダルマっ!!」
 手元にあった砲丸投げ用の球を真人の足元に投げて落とす佐々美。
「いってえぇぇっっ!!? 何しやがるっ!」
「ふんっ、様ないですわねっ」
「くそぅ、なんでオレはこんな目に合ってんだ……?」
 四人が揃って体育倉庫に閉じ込められているというこの状況。
 それは、些細な偶然が重なった結果の不幸な事故だった。
 或いは、おまじない事典に篭められた、誰かの想いが引き起こした必然だったのかもしれない。

   † 偶然のフルコース †

 真人が体育倉庫へ野球ボールを取りに来ると、そこには挙動不審な佐々美の姿があった。
 辺りを注意深く見回しながら、「なんでこんなときに限ってわたくしが用具の片付けなんて……。わたくしはソフト部のエースで四番で、今学期からはキャプテンを任されていますのよっ!?」と愚痴をこぼしながら体育倉庫に入ろうとしている。
「おう、笹瀬川じゃねえか」
 少なくとも面識のある生徒だ。同じ体育倉庫に入るのに無言で挨拶もしないというのも礼儀に欠けるため(真人がそんなことまで考えていたかは不明)、真人は片手を挙げながら佐々美に声を掛けていた。
 総毛立つとはまさにこのことだ。
 佐々美は全身の毛という毛を逆立てながら反射的に声の反対方向へと飛び退いた。
 まるで警戒心の強い猫のようだった。
「でっ! 出ましたわね井ノ原真人っ!! いくら当たると有名なおまじないだとしても、この笹瀬川佐々美、易々と屈するとお思いにならないでくださる!?」
「出会い頭に意味不明なんだけどよ……」
「意味不明なのはあなたのほうですわっ! なんでこんな図ったようなタイミングで体育倉庫に現れるんですかっ!」
「オレか? 野球のボールが尽きたから取りに来ただけなんだがよ……って、あぶねぇっ!!」
 真人は佐々美に飛び掛った!
 佐々美の背後から、テニスボールとサッカーボールとラグビーボールが揃って飛んできていたからだ!
「ひいぃっ! ケダモノっ! 来ないでくださ―――いいぃやあぁぁああぁぁっっ!!!」
 真人は佐々美をかばうようにその身体を抱え、体育倉庫の中に飛び込んだ。
「わ、わりぃっ! ボールが飛んできたからよ……」
 真人の弁明の声なんて頭に入ってこなかった。
 今、体育倉庫にいる。
 それもおまじないの対象となった真人と共に。
 佐々美は気が気でなかった。
 体育倉庫の扉がまだ開いていることに気付き、佐々美は無我夢中で真人を押しのけて出口を目指す……!!
 と、そこへ。
「―――いけませんっ! 今この体育倉庫へ入っては巻き込まれてしまいますっ」
 体育倉庫の入り口に人影。
 みゆきだった。
 おまじないが成立してしまったとはいえ、みゆきはその効力に関しては半信半疑だった。
 しかし、万が一ということも有り得る。みゆきは無関係の人間が巻き込まれないように……そしておまじないの対象になった佳奈多が来るようならば、絶対に中に入ってはいけないと忠告しようと体育倉庫に足を運んだのだ。
 そして体育倉庫にたどり着いたその時、転がるようにして倉庫に入っていく真人と佐々美の姿を見付けてみゆきは青くなった。
 慌ててその後を追った結果。
 死力を尽くして体育倉庫から出ようとしていた佐々美とみゆきは鉢合わせ、正面衝突した!
「きゃあっ」
「―――っ」
 みゆきのほうが佐々美より勢いがあったのか、それともぶつかった角度の問題か。二人は縺れ合うようにして――体育倉庫に転がり込んだ。
 どんがらがっしゃんと用具の山に突っ込む二人。
「いたたぁ……っ、んもう、誰ですの!?」
 頭を振りながら身体を起こす佐々美。周囲を転々とするバレーボールやテニスボール。どうやらボールを収納していたキャスター付きのカゴや、その上に積んであったテニスボールの箱の山に突っ込んだようだ。
「すみません……」
 バレーボールの山の中から人の声がする。
 白いボールを押しのけて顔を出した女生徒、みゆきの姿―――特に片目を覆う白い眼帯を見て、佐々美は彼女が噂に聞いた弓道部の古式みゆきだと思い至った。
「……こちらこそ、不注意でしたわ。立てます?」
 そっと手を伸ばす佐々美。みゆきは戸惑いの色を浮かべながらもぎこちなくその手を取り、立ち上がった。
「オイオイ、大丈夫かよ。凄い勢いでぶつかったみてぇだが」
 と、そこで声を上げたのは真人である。
 佐々美はその存在を思い出すと、血の気が引いたように真っ青になった。ばっと勢いよく体育倉庫の扉に振り向く。
 倉庫の扉は開いたままだった。
「―――ふ、ふふふ……。そういうことでしたのね。所詮おまじないはおまじない。らしくもなく取り乱してしまいましたわっ」
「なんだよ、急に笑い出したりしてよ。変なキノコでも食ったか?」
 と、真人は一歩踏み出そうとして、
「おうわっ!!」
 テニスボールを踏んづけて盛大に転んでいた!!
「きゃあっ!!」
 しかも、佐々美に覆いかぶさるような形で……!
「はっ、離れなさい、この筋肉ダルマっ!! このっ、このぉっ」
 真人に押し倒された佐々美は、その顔をがりがりと引っ掻きながら叫んだ。
「いてっ、いてぇってっ!! 不可抗力だろーがよっ!!」
「いぃやあぁぁぁっ!! 今息が掛かりましたわっ!! 誰かっ! 誰かあぁ〜っ」
「ちょっとそこの二人っ!! 先ほどから見ていれば、体育倉庫で不順異性交遊? いい加減になさいっ」
 と、体育倉庫に響く声。
 佐々美を助けようと颯爽と姿を現したのは佳奈多だ。
 それも、どういうわけか積み重ねられた跳び箱の中から。
「あ」
 と、佳奈多の顔を見ながらみゆきが声をこぼす。
 それが合図になったのだろうか。
 佳奈多の背後に積み上げられていた用具がぐらりと傾き、佳奈多目掛けて倒れてきた……!
「危ない……っ」
「―――え?」
 振り返る佳奈多。駆け出すみゆき。
 跳び箱の中に入っていた佳奈多は咄嗟の出来事に反応できず。
 みゆきは、佳奈多の肩を抱くと、力任せにその細い身体を跳び箱から引き抜き敷いてあったマットに向かって投げ飛ばした……!
 そして、轟音。
 佳奈多は柔道の手本のような綺麗な受身を取るとすぐに身体を起こし、そして息を呑んだ。
「――っ、しっかりしなさいっ」
 倒壊した用具の横で、みゆきが昏倒していた。
 駆け寄ってその身体を揺する。呻くような反応があった。どうやら頭を打ったらしい。
 佳奈多はみゆきをマットの上に寝かせると、真人と佐々美に向かって声を上げた。
「この子、頭を打ってるわ。私が見ているから、貴方達は誰か人を呼んできなさいっ」
「いや、呼びに行きたいのは山々なんだがよ……」
 情けない声を上げる真人。
 何事かと佳奈多はその姿を見て目をむいた。
 真人は用具の倒壊に巻き込まれ、何十キロになるか分からない用具をその背に背負ったまま身動きが取れなくなっていた。
 その足元には、真人によって崩れてきた用具から守られるようにして佐々美の姿。
 しかし、真人が支えきれなかった用具によって足を挟まれ動けないようだ。
「―――なんてことっ」
「……委員長さんよぉ……。オレはなんの問題もねぇ……。けど、無理に動いたらこれが落っこちてコイツが下敷きになっちまう……! 誰か――そうだ、恭介と謙吾を呼んできてくれっ! あいつらならなんとかできるはずだっ」
「……分かったわ。誰か呼んで来るまで、井ノ原真人。絶対にその背負っているものを落とさないように」
「―――オレの筋肉に誓って!」
 薄く笑って余裕を見せる真人。しかし、やせ我慢をしているのは目に見えていた。
 佳奈多はそんな真人の意図を汲み取って一つ頷くと、急いで人を呼びに行こうと駆け出した!
 と。
「―――えっ!?」
 誰かの悪戯か、それとも超常現象か。
 体育倉庫の扉が、音を立てて閉じた。



 そして現在に至る。



   † 呪いに足掻く者達 †

「とりあえず、二木。動けるようだったらまずコイツを何とかしてくれねぇか」
 真人は目線で佐々美を指し示す。佐々美が「コイツ呼ばわりしないでくれます? わたくしは――」と、自分の名前を口にして騒いでいるが、今のところは無視だ。
「離れてくれさえすりゃあオレの筋肉でこの状況を抜け出せるかもしれねぇ」
 それは、足元に佐々美が居なければ圧し掛かる器具の山を自力でどうにかできるということだった。
 佳奈多は佐々美に近付くと、その足を挟んでいる用具(平均台と球入れ競技用のカゴだった)の様子を見た。
 カニのはさみのように、しっかりと佐々美の足をくわえ込んで離さないその用具を、佳奈多は持ち上げようと力を込める。
 しかし、真人の背負っている多くの用具が複雑に折り重なっているせいか、びくともしなかった。
「……井ノ原君。ほんの少しの間だけで構わないわ。……その背負っているものをあと3cmほど浮かすことはできない?」
「―――」
 真人は一瞬だけ言葉に詰まった後、
「オレを誰だと思ってるんだい? 世紀の筋肉革命家、井ノ原真人だぜっ!」
 余裕綽々といった様子で笑ってみせた。
「合図します。いいわね……? いち、にのっさん!」
「うおりゃあああぁぁぁああああぁぁががががががががおおおおおおがいがああああっ」
 奇怪な気合の入った声を上げながら、真人が用具を持ち上げる……!
 その一瞬を見計らって佳奈多は平均台をほんのわずかだけ浮かせて、
「笹瀬川さんっ」
 佐々美に合図を送った。
「わかりましたわっ」
 さっと足を引き抜き、佐々美は開放された。
 その瞬間、真人が支えていた用具の山が倒壊した!
「ぎゃはあぁーーーっ!!」
 真人の断末魔が埃の中に消えていく……。
 咄嗟に飛び退いてその大惨事を逃れた佳奈多と佐々美は顔を見合わせた。
「……死んだかもしれないわね」
「……ええ、そうですわね。いかにあの筋肉お化けと言えど、あれだけの重量に押し潰されては……」
「死んでねぇよっ!!」
 ぐわあっ!! っと用具を吹き飛ばし、埃を巻き上げながら真人がその姿を現した。
「どうやら無事のようね」
「……ちぃっ」
「ちょっと待てやぁっ! てめぇ今舌打ちしなかったか!?」
「気のせいですわ。ネズミの鳴き声でも聞いたんじゃありませんの?」
「おう、そうか。ネズミだったのか……」
 そしてあっさり騙されているのはいつものことだ。
「それにしても、なんだってこれっぽっちの道具の山があんなに重かったんだよ……。奇々怪々だぜ……!」
 言いながら、真人は平均台を片手で持ち上げながらバーベルのように上下させはじめた。「ふんっ、ふんっ」と、気分はすでに筋トレだ。
「ちょっと、暑苦しいから止めてくださらない?」
「おう、わりぃわりぃ。重いもん持つとついクセでな」
「外に出た暁にはローラーを貸して差し上げますから、存分にグラウンドを走り回っていただいて結構ですわ」
「よっしゃあっ!!」
 雑用を押し付けられたことに気付いていないようだ。
「そんなことよりも貴方達。今は一刻も早くこの状況を打開する方法を考えるべきよ」
 腕を組みながら佳奈多が提案する。
 意識がはっきりしているとはいえ、みゆきは頭を打ったのだ。早く病院に行って診てもらわなくては、大事に至ることだってある。
「扉が開かねぇんだったよな」
「ええ。色々と調べてみたけど、なぜ開かなくなったのかその原因は分からないわ。外はまだ運動部が部活中だから、鍵を閉められたとも思えない。誰かの悪戯の線も考えたけど、扉の向こうに人の気配はなかったわ」
「つまり、完全に閉じ込められたということですの!?」
「……携帯で外の人と連絡を取って助けてもらうのはどうでしょう?」
「それですわっ! 古式さん、冴えてますわねっ!」
 みゆきの妙案に佐々美が嬉々として声を上げた。
「けど、わたくしは部活中でしたので、この通り体育着のままですし持っていませんわ。古式さんは?」
「私はそもそも携帯電話を持っていないんです。……すみません」
「オレはあるぜ」
「私も持っているわ」
 答えながら二人は既にアドレス帳を開いていた。
「理樹か!? 今すぐに体育倉庫に……って、アレ?」
 不通の電子音が鳴るばかりの携帯電話の画面を覗き込んで、真人は絶句した。
「圏外って有り得ねぇぜ……」
「私のも圏外よ。……まったく、ここはどこの樹海かしらね」
 肩を竦める佳奈多。
「オレがその扉蹴破ってやろうか」
「それはあくまで最後の手段です。そもそも、いくら貴方でもこの倉庫の扉を蹴破れるかなんてわからないけれど」
「そうでもないぜ? 前に一度蹴破ったことがあるからなっ」
「……私の知る限り、倉庫の扉が破られたという事件はないわよ」
「そうだっけか?」
「そんなことよりも、早くどうにかしてくださらない? この男と密室に閉じ込められるなんて、一分、一秒と耐えられませんわっ!!」
「ひでぇ言われようだな……」
「貴方が何か恨みを買うようなことをしたのでしょう」
「なにもしてねぇよっ!!」
「わたくしは忘れませんわっ! なにが、しっぽりムフフ、ですかっ!」
「ほら、やっぱりしてるじゃない」
「あれは恭介の奴が―――!」
「あの」
 ぎゃーすぎゃーすと言い争いになる三人に、みゆきが凛とした声で告げる。
「そろそろ日も暮れる頃です。四人で協力して、寒くなる前に外に出る方法を考えましょう」
「おう。そうだな」
「……確かに、不毛な言い合いをするよりも建設的ですわね」
「古式さんの言う通りよ。まずはできることからやっていきましょう」
「それで、まずは何をすればよろしいかしら」
「扉が閉まってあかねぇんだろ? オレがまず力いっぱい引いてみるぜ」
 腕をまくりながら真人が扉に手を掛ける。
「ふぅんんんんんっっっぬぬぬぬぅぅぅおおおおああああっっ!!!」
 必死の形相で扉を引くが、びくともしない。
「ちょっと、遊んでいるんじゃないでしょうね?」
「これがっ、そんっな、顔に見えるかっ、よ……っ」
「見れば見るほど醜悪な顔ですわ」
「……確かに夢に見そうな顔ではありますが、それはあまりに失礼でしょう。こうして一生懸命になってくれているのですから」
「顔のことはもういいわ。全員で引いてみるわよ」
 両開きの扉の片方を率先して引きながら佳奈多は言った。みゆきが小さく頷き扉に歩み寄る。
「……わっ、わたくしも手伝いますわっ!」
 そして佐々美も手を貸し、四人一丸となって扉を開こうと力を込めた。
「どっ、どうなってんだよ、この扉はよ……っ」
 あれだけ力を込めたにも関わらずうんともすんとも言わない扉を前にして、真人は辟易したように声を上げた。
「……おかしい。おかしすぎるわ、この扉……」
 佳奈多が腕を組みながら唸った。
 倉庫の扉は木製で、しかも外についている鍵は普通の南京錠だ。
 本来ならば真人一人の力でもこじ開けることができるはずなのに、四人がかりでびくともしないだなんて。
「びくとも……いいえ、微動だにしないだなんて有り得ないですわ……!」
 ガタガタと音を立てることすらしない木製の扉に、佐々美も癇癪気味に声を荒げた。
「てめぇら、離れてろ……」
 真人の低い声が上がり、三人ははっと顔を上げた。
 そこにはいつもと雰囲気の違う真剣な面持ちの真人が立っていた。
「蹴破ってもいいよな?」
 顔を向けず、その大きな背中で語る真人。
 佳奈多はやれやれといった感じに溜息をついた。
「……非常事態だし、許可します」
「オーケー」
 腰を僅かに落とし、その一撃に全体重を乗せられるように重心を移していく真人。
 何よりも頼りになる真人の筋肉だ。普段ならこんな扉容易く打ち破ってくれるだろう。
 しかし、この時ばかりは―――真人の蹴りでこの状況が打破できるとは、とても思えなかった。
「うおりゃああっっ!!!」
 渾身の蹴りが炸裂する!
 まるで倉庫全体が揺れたような衝撃と打撃音に、佐々美は思わず竦み上がった。
「どっ、どうですの……?」
 肩を竦ませた佐々美がゆっくりと目を開ける。
 ―――扉は、健在だった。
「……マジかよ……!」
 これには真人も驚きを隠せずにいた。
 分厚いとはいえ、木製の扉だ。
 蹴破れる自信はあった。
 しかし、その自信は無傷の扉によって打ち砕かれ、真人は膝を付く。
「……やっぱりおかしいわよ、これ」
 佳奈多は真人の蹴りが炸裂した箇所をそっと指で撫でてから呟く。
「あれだけの衝撃を受けておきながら傷一つ付かないだなんて……」
「打つ手無し……ですの!? 冗談じゃありませんわっ」
 どうしようもないのか……。
 ずっと閉じ込められ続けるのか……。
 考えれば考えるほど追い詰められ、ついに佐々美は力なくマットの上に座り込んでしまった。
「……笹瀬川さん」
 顔を伏せて塞ぎ込んでしまった佐々美の姿を見て、みゆきは胸を締め付けられる思いだった。
―――私の興味本位のおまじないのせいで皆さんを巻き込んでしまった……。ごめんなさい、二木さん。そして井ノ原さん、笹瀬川さん……。
 しかし、その佐々美自身、
―――自業自得とはいえあんまりですわ……! おまけに、風紀委員長の二木さんと古式さんも巻き込んでしまうなんて……!
 と、自責の念に駆られているなんて気付くはずもなく。
「今は外で部活をしている人が倉庫を開けてくれることを祈るしかないわね。そんな深刻にならなくても、そのうちなんとかなるわよ」
 すっかり落ち込んでしまった二人を見て、佳奈多は肩を竦めながら客観的に告げていた。

   † オレの屍を越えて往け †

「ちぃっ、こいつは強敵だぜ……!」


「……少し、寒くなってきましたわね……」
 閉じ込められてから既に三十分近くが経過していた。
 閉じ込められているメンバー中唯一体育着という薄着だった佐々美は思わず自分の肩を抱いて震え上がった。世間は冬の始まりを告げていた。夕暮れ時の、しかも野外の鉄筋コンクリート製倉庫は気温も低く、佐々美の体力を容赦なく奪っていく。
「よかったら、使ってください」
 佐々美の目の前に、控えめに差し出されたのは制服の上着だった。
「古式さん、あなたはどうするおつもり?」
「私は平気です。幼い頃から慣れていますから。最近は疎かにしていますが、乾布摩擦で鍛えていましたので」
「かんぷ……っ」
「あら。いかにもクドリャフカの好きそうなことをしているのね、貴女」
「祖父からの言いつけでしたので」
「……まあ、どうしてもと言うのなら受け取らないこともないですわ」
 みゆきの上着を羽織る。ほのかに人肌の温かみが残った上着に、佐々美は「はぅ……」と思わず吐息を漏らした。

「オレの筋肉よっ! 限界を超えて見せろぉっ!」


「寒いの苦手なのかしら?」
「……ええ。どうも好きになれませんわ」
「奇遇ですね。実は私もあまり好きではありません」
「乾布摩擦をしていたのに?」
「二木さん、それとは関係ないと思います」
 女子三人は、無理に動いて余計な体力を消耗するよりも大人しく待っていようと決めて、身を寄せ合うようにしてマットの上に腰を下ろしていた。
 提案したのは佳奈多である。まるで山で遭難したときの対処法のようだが、扉がどうにもできず外界との連絡を絶たれた今、それはとても理に適っていた。
「そういえば、わたくし達がこうして話をするのってとても珍しいことですわね」
「……そうかしら? 直枝理樹と愉快なお友達ご一行様と関わっていると、たまに貴女達を見かけるわよ」
「笹瀬川さんとはよく顔を合わせますが、確かに二木さんとこうして他愛ない話をするのは初めてかもしれません」
「よく顔を合わせるだなんて、よくもまあぬけぬけと……っ。顔を合わせるのは貴女が宮沢様にちょっかいを出しているからでしょう!?」
「宮沢様……」
「宮沢様、ねぇ」
「ちょっと二木さん!? 鼻で笑われるのは失礼でなくって!!?」
「あら、気に障ったかしら。けど、性分なのよ。細かいことでいちいち突っかからないでもらえるかしら?」
「きいぃぃぃっ! あなたっ、絶対友人いないでしょうっ! 断言しますわっ! 貴女にっ、友達なんてっ、いるはずがないっ!!」
「そういう貴女も、取り巻きはいても友達はいなさそうよね」
「なっ、なんですってぇぇっ!!」
「二人とも、落ち着いてください……。ここで言い争っても不毛なだけです。それに私にも友達と呼べるほど親しい人は、いませんから……」
「………」
「………」
 どこからともなく、隙間風が吹きつけてきたような気がした。

「よっ、はっ、とっ! 筋肉っ、筋肉っ!」


「そういえば、これ」
 と、佳奈多はみゆきにすっと手を伸ばした。
 そのてのひらに握られていたのは、用具の倒壊に巻き込まれた時になくしてしまった眼帯だった。
「さっき拾っておいたのよ。少し埃に塗れてしまっているけれど、返すわ」
「……ありがとうござます」
「礼なんて要らないわ。私はただ偶然見つけて拾っただけ。そしてこれは私が持っていても意味がないもの。本人に返すのは当然のことよ」
 静かに眼帯を着けるみゆき。佐々美はそんなみゆきの一挙一動を興味深そうにぼんやりと眺め―――みゆきと目が合った。
「なんでしょう」
「いっ、いいえ、なんでもありませんわっ」
「そうですか……」
 嫌な感じの沈黙が訪れる。

「伸びろっ筋肉ーっ!」


「その目は痛むの?」
 沈黙を破ったのは佳奈多だった。
「ちょっ、二木さんっ! 少しは配慮というか、気遣いとか、そういうのを持ってくださらない!?」
「いいえ。いいんです、笹瀬川さん。……直接面向かって訊ねられたほうが、腫れ物のように遠慮されるよりずっと楽ですから」
「……ごめんなさい。わたくしのほうが、配慮に欠けていましたわ」
「いいんです。もう、慣れましたから」
「それで、痛むのかしら」
「……はい。とても」
「どんなふうに?」
「眼痛もそうですが、酷いときは頭痛にも苛まされます。それと、顔を伏せると、目が圧迫されたように激しく痛みます」
「そう。大変ね、貴女も」
「痛み入ります」
「片目だと何かと不便ですわね」
「……はい。遠近感がつかめないので、トイレのドアノブで突き指したりしました」
「それは……大変ですわね」
「他にも、コップを押し倒してしまったり、壁際に置いてあるカバンを覗こうとして壁に頭突きしてみたり、遠くを飛ぶ鳥が近くを飛ぶ蚊に見えてしまい追い払おうとしてみたり……」
「たっ、大変、ですわねぇ……」
 思わず口ごもってしまう佐々美。
 話を聞くだけだと、まるで―――
「ただ単に、私がドジくさいだけなのかも知れませんけど」
「かもしれないわね」
 くすりと微笑む佳奈多。
 そんな佳奈多をみて、みゆきは残された片目をそっと閉じた。
「……いつか、こんな話も笑い話として振り返れる日が来るんでしょうか……」
「来るわよ」
 即答した佳奈多に、みゆきは思わず振り向く。
「自分の中で溜め込まないで、今日みたいに人に話してみれば、いずれ……ね」
 それは、佳奈多の経験談なのだろうか。
 聞いた話では、彼女は長いこと実の妹と確執を生じさせいがみ合っていたが、何らかの切欠でそれを解消できたのだという。
 乗り越えた今、そんな話を彼女は笑い話として語れるのだろうか?
 ただ今は、今まで見たことのない佳奈多の穏やかな横顔を見ながら、小さく頷くのであった。

「今こそっ、筋肉革命の時がきたあぁぁぁっ!!」


「そしてそこの筋肉っ! さっきから筋肉筋肉とうるさいですわっ! 少しは落ち着きなさいっ!!」
 三人から離れた場所で怪しげに筋肉筋肉と連呼していた真人に、ついに佐々美が切れた!
「……井ノ原さん、何をなさっているんですか?」
「おう、見てみろよ」
 真人が指差す先には、この倉庫にある唯一の窓があった。
「あそこから脱出できねぇかなって思ってな」
「……確かに、あの窓が開くようでしたら脱出できますわね……」
「ああ。バッチリ開いたぜ」
「ならなぜ貴方は外に出なかったのかしら?」
「オレじゃ窓が小さすぎて通れなかったんだよっ! がんばってはみたんだけどよ、オレの筋肉といえど小さくなるなんて無理だったぜ……!」
「当然ですわっ!」
「……けれど、これで脱出の糸口が見つかりました」
「そうね……。けれど、私達が通るにはあの窓は高すぎるわよ?」
 佳奈多の言うとおり、窓の高さは3メートル以上あった。
「あれじゃわたくしが飛んでも届きそうにありませんわね……。指先くらいはかかるかもしれませんけれど。二木さんはどうかしら?」
「確かに私のほうが背丈は高いけど。あそこまでは届かないわ」
「何か踏み台になりそうなものがありゃ届くんじゃねぇか?」
「踏み台になりそうなもの……」
「踏み台になりそうなものね……」
「踏み台になりそうなものですか……」
 三人の視線が、まるで示し合わせたように一点に集中した。
「あん? どうしたんだ。オレの筋肉にでも惚れたかい?」
 視線の先にあるもの。それは、身長2メートルはあろうかという大男、井ノ原真人その人だった。
「どうやら考えていることは同じのようね」
「……そのようですわね」
「でも、それは井ノ原さんに対してあまりに失礼では……」
「構いませんわっ」
「あとで救出に向かえば何の問題もないでしょう?」
「???」
 何のことだか分からずひたすら小首を傾げる真人。
「と、いうわけで。貴方にはわたくし達の踏み台になっていただきますわ」
「……おっ、なるほどっ!」
 と、真人は名案だとばかりにぽんと手を打った。
「オレが背中貸してやって、それを踏み台に上るんべらっ!」
 真人は。
 佐々美と佳奈多のダブルハイキックをまともに受けて、昏倒した。
「よしっ! 踏み台確保っ!!」
「………」
「これで脱出できますわ〜」とはしゃぐ佐々美を他所に、佳奈多は浮かない顔をしていた。
「どうしました?」
「……私もこの危機的状況で随分錯乱していたものね……。井ノ原真人が言っていたように、別に昏倒させなくても普通に肩を借りればいいだけの話じゃない……」
 壁に頭をこすり付けるようにして昏倒している真人を一瞥して、佳奈多は溜息を零す。
「別に、どのみち踏み台になってもらうのですから、意識があろうとなかろうと関係ありませんわ!」
 むしろ、変なところを触られたり、スカートの中を覗かれるという心配がないだけ(佐々美は体育着だが)、真人の意識はないほうがいいとさえ思えてくる。
「……笹瀬川さん、そういう意味ではないと思いますが」
「第一、彼には立っていてもらわなくちゃ踏み台にしても窓まで届かないじゃない」
「あ」
 今気付いたとばかりに佐々美は間の抜けた声を上げた。
 尺取虫のようなポーズで昏倒している真人と窓を交互に見てやり、佐々美は思案するように目を閉じる。
「……とっ、とにかく! わたくしはやれるだけのことをやってみますわよっ!」
 文字通り真人を踏み台にして、その上でジャンプを繰り返す佐々美。
 もちろん窓まで届くはずもなく。
 佐々美が跳躍するたびに、真人から潰れたカエルのような呻き声が漏れるばかりであった。

   † 最後の手段と秘密の園 †

 結局真人は踏み台としては役に立たず、他に足場になるものがないかと探してみたところ、最初の佐々美とみゆきの激突でキャスターの壊れたカゴ、なぜか一段目が行方不明になってしまった跳び箱など、足場に使えそうだったものは軒並み使えなくなっていた。
 佐々美はキャスターが壊れてバランスの悪くなったカゴを無理やり足場にして脱出を試みたが、平衡感覚には自信があるにもかかわらず佐々美はいつもあと一歩というところでバランスを崩してカゴの上から落下してしまい、佳奈多とみゆきに助けられていた。
 足場になりそうなものは真人以外に残っていなかったのだ。
 そしてその真人も気を失ったままどういうわけか目を覚まさない。
 高いびきを上げているので重症を負ったというわけではないのだが、その平和そうでアホっぽい寝顔が佐々美の癪に障ったらしく、みゆきは砲丸を投げつけようとする佐々美を止めるのに必死になっていた。
 閉じ込められてからどれだけの時間が経ったのだろうか。
 佳奈多の携帯は突然の充電切れでうんともすんとも言わなくなり、みゆきのアナログ式の腕時計も原因不明の故障で針が止まっていた。
 もう何時間もこうして閉じ込められているような気がしてくる。
 既に時間の感覚が狂っていた。
「……本格的に冷えてきましたわね……」
 膝を抱えて縮こまるように暖を取ろうとする佐々美の声は小刻みに震えていた。歯もガチガチと音を立て始めている。
「―――二人とも。もう少しこちらに寄りなさい」
「二木さん?」
「……考えたくないけれど、これだけ待っても誰も倉庫に来ないのは異常よ。最悪一晩ここで明かすことになるかもしれないわ」
「そ、そんな……っ!」
「今この倉庫の中が何度かは知らないけど……。吐く息も白い中そんな薄着で孤立するのは自殺行為よ。三人で身を寄せて、何よりもまずこれ以上の体温低下の防止を優先します。いいわね?」
「いっ、いえ、その、そんな……それには及びませんわ……っ」
 佐々美は頬を染めながら口ごもり、戸惑いを見せていた。
「恥ずかしがっていないで、さっさと来なさい。―――ほら、みなさい。こんなに冷え切ってるじゃない」
 佳奈多に腕を掴まれ、佐々美はばつの悪そうに顔を背けた。
「こっ、この程度まだまだ余裕ですわ」
「貴女の余裕なんて知ったことじゃないわ。ほら、古式さんも」
 みゆきは小さく頷いてそっと佐々美に肩を寄せた。
 体育倉庫のマットの上、三人で身体を寄せ合う。
 中央に佐々美。彼女を挟むようにして、佳奈多とみゆき。
「……汗臭いでしょう? 部活のあとでしたので……。申し訳ございませんわ」
 俯きながら顔を赤くする佐々美を、佳奈多は鼻で笑った。
「そんなことを気にしていたの? まったく、貴女もかなりの馬鹿ね」
「私は気にしません。部活動をしてるのなら、当然のことです」
 佐々美は俯いたまま答えなかった。
 真剣な、何かを思いつめているような顔でマットを見つめている。
「……外に出られたらまずはシャワーかしら。身体も冷え切っていることだし、温かい湯船が恋しくなってくるわね」
「はい……。けど、部屋のシャワーは用意に時間がかかるので、私は新館の浴場でしょうか……」
「へぇ? 私は滅多に使わないけれど。古式さんはよく使うのかしら」
「いいえ、使ったことはないです。いつも部屋のシャワーで済ませているので。……けれど、今日ばかりは浴場を使ってもいいかなって、そう思いました」
「ふぅん……。随分な気まぐれね」
「……はい。そういえば、二木さんも笹瀬川さんも新館ですよね、寮の部屋は。ご一緒にいかがでしょうか?」
「……そうね。これも何かの縁だし、私は構わないわ。貴女はどうするの?」
 佳奈多に振られ、佐々美は顔を上げた。
「え、ええ……。ご一緒しますわ……」
 この体育倉庫を出たあと一緒にお風呂に入ろうという、ただそれだけの、他愛のない話。
 それなのに、この胸から込み上げてくる温かさは。
 そして、それを上回るこの罪悪感は。
 一体、なんなのだろう……。
「……そうですわね。もとはと言えば、わたくしの些細な好奇心が原因でした……」
 それに気付いた佐々美は静かに立ち上がると、意を決したように二人に向き直った。
「―――お話があります」
 真剣な面持ちの佐々美に、佳奈多とみゆきは何事かと居住まいを正す。
「実はこの度の騒動……すべてこのわたくしのせいですわ……」
 佳奈多は何を言っているのだといった顔で眉をひそめ、みゆきは困惑したように佐々美の発言に耳を傾けた。
「……この状況はすべて貴女のせい、とでも言うのかしら?」
「……ええ。その通りですわ」
「にわかに信じ難いわね」
「信じていただけなくても結構……。しかし、不肖この笹瀬川佐々美、どのような恥を晒そうとも、貴方方だけは無事脱出させてみせますわっ!!」
 かっと目を見開く佐々美!
 その瞳に宿りしは、確固たる決意。
 もしこの状況がおまじないのもたらしたものだとするのなら。
 その解呪法は、存在するのだ!

  閉ざされた体育倉庫にふたりきり。果たしてふたりは無事脱出できるか!? というおまじないの、その解呪方法。

 それは、お尻を出して、心の中で「ノロイナンテヘノヘノカッパ」と三回唱えること。

 やり遂げなければならない。
 それがたとえ、どれだけ恥ずかしいものだとしても。
 この情に厚い二人を助けるために、形振り構っている場合じゃない!
 佐々美は一瞬躊躇したものの、自分のスパッツに手を掛けて、それを一気に下ろそうと力を入れた……!
「ちょっと待ちなさい……! 貴女、一体何をするつもりなの!?」
 これに慌てたのはいつも冷静沈着だった佳奈多である。こればかりはわけがわからないとばかりに取り乱し、佐々美を羽交い絞めにしてその奇行を止めさせる……!
「はっ、離しなさい! この状況をどうにかするには、これ以外に方法は御座いませんわっ!」
 羽交い絞めにされながらも手足を振り回し、必死に抵抗する佐々美。しかし、佳奈多の力の前になす術もなかった。
「……二木さん、少しよろしいでしょうか」
 佳奈多の肩を叩き、みゆきが前に出る。解放された佐々美の顔を覗き込み、みゆきは訊ねた。
「……笹瀬川さん。ひょっとしてあなたも……?」
「あなたも……ということは、古式さんも……?」
 ほんの一瞬。
 目線が合わさり、二人は瞬時に理解した。
 お互いにおまじないを試したこと。
 謙吾と二人きりになろうとしていたこと。
 その思惑が外れて、ひょんなことから関係のない人と閉じ込められる運びになったこと。
「……はい。余計な方が巻き込まれて、おかしいとは思っていたのですが……」
「……なるほど。おまじないは二重に発動していましたのね……。ということは、解呪の方法も……?」
「もちろん存じています」
「なら、話は早いですわ」
「ええ」
 二人は手を取り頷き合うと、話についていけず眉間にしわを寄せている佳奈多に向き直った。
「―――っ!! ちょっと、だから貴女はなにがしたいのよっ!」
 再びスパッツに手を掛けた佐々美に、佳奈多は声を荒げる。
「……止めないでください、二木さん」
「って、貴女も? 貴女もなの!?」
 見ると、みゆきまで自分のスカートに手を掛けていた!
「ええい、止めないでくださいませ!」
「止めるわよっ!」
「すぐに終わりますから」
「何が終わるのよ……それ以前に何を始める気なのよ……!」
「恥ずかしいことを訊かないでくださらないかしら……」
「恥ずかしいことなの!?」
「……ええ。すごく……恥ずかしいです……」
 指を絡めるように手を握り合い赤く染まる二人。
「あああぁぁっっ!! こんなところに風紀の乱れが……っ! 不順異性―――いいえ不純同姓交遊よっ! モラルも規律もへったくれもないわっ!!」
 なんなのよ、この目の前で展開されている白百合展開は……っ!!
 佳奈多はそんな光景に頭を抱えながら悶絶する。
 佳奈多の脳裏で、知り合いの女生徒がじゅるりという妙な擬音を発しながら不敵に笑っていた。
 あああ来ヶ谷さん、貴女が妙なことを葉留佳に教えたばっかりに私まで無駄な知識を……っ!!
「―――二木さん」
「そんな真剣な顔で……な、なによ……? なんでそんな大真面目な顔で衣服を脱ぎ捨てようとしているのっ!」
「私達は真剣です……」
「こ、古式さん……」
「二木さんは、なにもせずじっとしていてくれればいいですから」
「あとは全部わたくし達がやりますわ」
「私達にすべてを任せてください……」
 なぜか私まで白百合空間に巻き込まれている!?
「できるなら、後ろを向いていてくださらないかしら? ……その、先ほども申し上げましたように恥ずかしいので……」
「―――っ!!!」
 顔を背けて恥じらいながらも上目遣いで見詰めてきた佐々美に、佳奈多は思わず、瞬間的に、ほとんど条件反射のように背中を向けた。
 かさり……と、衣擦れ音。
 そして―――。
「「ノロイナンテヘノヘノカッパ、ノロイナンテヘノヘノカッパッ、ノロイナンテヘノヘノカッパッ!」」
 佳奈多がそんな奇天烈極まりない声に振り返ると、二人は揃ってお尻を出し、謎の呪文を唱えていた。
 直後、がらりと扉が開く音と共に光が差し込んだ!
「おい、誰かいるのか?」
 人の声。誰かが、この閉鎖空間を開放したのだ……!
「や、やりましたわ、古式さんっ!!」
「はい。はい……っ! やりました、笹瀬川さん……っ」
 みゆきに抱きついて喜びを顕にする佐々美。みゆきも感極まったようにその肩を抱き返していた。
 そして、外の夕焼けに照らし出される人型のシルエット。
「……ん? 古式に、笹瀬川? 何をしてるんだ、こんなところ、で……!?」
 その人物は、剣道着の上からジャンパーを羽織るという奇妙な格好をしていた。
 その人物は、体育倉庫の中で抱き合いながら喜んでいる二人の姿を見て、声を失っていた。
 その人物は、抱き合っている二人の格好―――なぜか半ケツ―――を見て、思わず目を逸らしていた。
「そ、そうか。あ、新しい生き甲斐を見つけたんだな、古式は。……はっ、はっはっは。俺は何があろうともお前達の味方だ! うむ、誰がなんと言おうとも良き理解者でいると約束しよう。……笹瀬川、古式を頼んだぞ」
 つつつーと、倉庫に入ってきた時の逆再生のような動きでその場をあとにする男子生徒。
 佐々美とみゆきは、ギギギと壊れたブリキロボットのような動きで互いに顔を見合わせたあと。
 まるで、世界の終わりのような、悲痛な叫びを上げるのであった。
 佳奈多はそんな二人の姿を、混乱した頭で呆然と眺めていた。

   † 終幕 †

 かぽーん。
 湯煙たつ広い浴場。
 新設された女子寮新館にある浴場の湯船に、三人の姿はあった。
「はぁ……。散々な目に遭いましたわ……」
「……はい。生きていく希望もなくしてしまいそうです……」
「二人とも、いつまで落ち込んでいるつもり? こうして無事に出られたのだからいいじゃない」
「けど、宮沢さんにあらぬ誤解を与えてしまった……」
「嗚呼っ、宮沢様……っ! わたくしはあなた一筋ですわ……!」
 やれやれと首を振る佳奈多。
 誤解ならあとでいくらでも解けるというのにこの二人は……。
 ―――まあ、誤解といえば、唐突にスパッツやスカートを脱ごうとした二人にとんだ勘違いをいだいて取り乱してしまった自分にも、反省すべき点はいくつもあるのだが。
「そういえば、古式さん。頭のほうは大丈夫なの? 強く打っていたみたいだけれど」
「……はい。外に出た瞬間、自然と痛みは引いていました。できていたはずのこぶも見当たらなかったですし……」
「そういえば、わたくしもあれだけ寒かったはずですのに、扉が開いてからは不思議と悪寒は引きましたわ……」
「……あれだけ長時間閉じ込められていたはずなのに、実質一時間しか経っていなかった。出た途端私の携帯の充電は元通り。古式さんの時計も直っていた……。不思議なことだらけね」
「……まさしく、おまじないの呪いですわ……」
「お呪いの呪い? 冗談言わないで。ただの偶然に決まっているわ」
「あれを偶然と片付けるには、少し無理があります」 「そうですわ! 二木さん、わたくし達は実際に……!」
「もういいでしょう。済んだことだし。汗と一緒に流してしまいましょう。……それと、今後一切のおまじないを禁止します。いいわね?」
「はい……。二木さんがそう言うのなら」
「……分かりましたわ」
「よろしい」
 満足げに頷くと、佳奈多は傷心の二人の顔を交互に見遣る。
 ……葉留佳やクドリャフカほどではないけれど。
 随分と手の掛かりそうな、放っておけない知り合いができたものだ。
 佳奈多は身体の芯まで浸透する程よい湯加減に身を任せて、思わず頬を緩めていた。

「……そういえば」
 ふと、みゆきは何かを思い出したように声を上げた。
「何かを忘れている気がするのですが……なんでしょう……?」
「さて……? わたくしには何も思い当たりませんわ」
「……そうね。私もさっきから何かが引っ掛かっているけれど。まあ、私が忘れているくらいだし、たいしたことではないわ」
「それもそうですわね」
「ええ、そうよ」
 かぽーん。
 湯煙たつ広い浴場。
 新設された女子寮新館にある浴場の湯船で、三人はのんびりと、その日一日の疲れを流していた。





   † Side ??? †

「ふわああぁぁ〜、よく寝たぜー」
「………」
「って、オレはなんでこんなとこで寝てたんだ?」
「………」
「なんだよ、扉閉められてるじゃねーか。丁寧に鍵まで掛けやがってよ」
「………」
「てか、今一体何時なんだ??」
「………」
「おーい。誰かいねーのかー?」
「………」
「おーい」
「………」
「返事がねぇんだったら、オレの筋肉を思う存分暴走させちまうぜ……?」
「………」
「いやっほーう! 筋肉筋肉ーっ!」
「………」
「きんにくー……きんにくー……」
「………」
「る〜ららら〜、こどくーなーきんにーくー」
「………」
「ららら〜、ら〜〜〜」
「………」
「……」
「…」



   † END †










あとがき

こんばんは。あるいははじめまして。
REI雑文工房という辺境サイトで管理人をやっているREIと申します。
この度は拙作、「Supporting Actor ☆ Close Call!!」にお付き合いいただき、ありがとうございました。

と、堅苦しいお話はここまでにして(ぇー
日向の虎様主催のリトルバスターズSS祭り。
どうせなら、思う存分楽しんじゃおう! と、いうことで、随分とはっちゃけながら書きました。
佳奈多さんは慌てふためくわ、ささ子は「ですわですわ」連発するわ、古式さんは乾布摩擦だったりわで、もうやりたい放題ですww
「そして何のために存在している? そう彼はオチのために存在している!」な真人少年。
こんな好き勝手書いたSSですので、古式生存説うんぬんや、有紀寧のおまじないの呪いはオフィシャルでは消えたのでは? などのツッコミどころもありますが、細かいところは気にせず、少しでも楽しんでいただけるのなら幸いです。

では。