中学二年、初夏の日のことだった。
 その日も何でもない日になると思っていた。朝起きてご飯を食べ、軟式テニス部の朝練に出かけ、終わると制服に着替えてクラスへ行き、午前の授業を受け、昼休みに友達と駄弁りながらご飯を食べ、午後の授業を受け、放課後になるとまたテニスに励み、ヘトヘトになって家に帰る……。
 そんな日常のルーチンワークを今日もこなすのだと、信じていた。いや、疑ってさえいなかったのに、そんなものは実にあっさりとブッ壊された。その原因となった物が今、私の目の前にある。

 私の下駄箱に入っていた一通の封筒。――ラブレターだ。

 いや、待て。これは誰かが入れ間違えたのでは? だって、私はそんなに男子から愛の告白なんかされるような可愛い生徒じゃない。どちらかと言えば、男子とは友達になれても恋人にはなれないようなタイプの女だ。ようするにちょっとガサツな感じ。しかし、意味もなく裏表を何度かひっくり返してみると、裏の隅っこの方に私の名前“月島由美”の文字が。やっぱり私宛だった。
 誰なんだろう。私にラブレターなんか寄こすような奇特な……いや、むしろ危篤な奴は。もはや、そいつは末期じゃないのかとか考えた時、ハッと気付く。――罠かっ! これはモテない私が男子からのラブレターを受け取った時の喜びようを観察して笑いまくる罠では!? 私は咄嗟に視界の死角になるような場所。つまりは、私から見て下駄箱の反対側だとか、柱の後ろだとかに素早く回り込み、友達がいないか確認する。……誰もいなかった。罠ではないらしい。思えば、流石にこんな性質の悪いジョークをしかけるような友達どもじゃなかった。何だったんだろう。今の行動は? これじゃ、まるで私が突然訳分からん奇行に走った変人じゃないか。
 とりあえず、私は封筒を開けてみた。中にはルーズリーフみたいな紙が一枚、三つ折りで入っていた。それをさらに開いてみる。

 ――話がある。今日の放課後、屋上で待ってる。

 って、一行で終わりかいっ!
 何て素気ない愛のメッセージ。う〜ん、100点中10点。赤ペン先生も大激怒ですよってレベルだ。
 字体からして確かに男子のように思えた。少なくとも、私の友達が男子の真似をして書いたようには見えなかったが、それでも、友達が男子に頼んで書いて貰ったんじゃないのかという罠の可能性は拭いきれなかった。そのはずなのに……。

 by 棗恭介

 三つ折りになって隠れてたその名前を見た途端、私は疑うことを止めてしまった。
 肩に下げていたラケットがカタンと地に落ちた。




カゲロウの恋

written by ぴえろ




 階段を駆け上がる。
 一段飛ばし? そんなレベルじゃない。軽く二段は飛ばしている。さながら、ワニザメを騙して沖ノ島へ渡る因幡いなばの白兎の如し、もしくは月面の軽重力で跳び戯れるウサギの如し。……軽く混乱してるせいか、例えが好きなウサギ系統しか思いつかない。階段の踊り場でVの字ターン、リノリウムの床と上履きのゴムがキュキュと擦れる。更に上を目指す途中、邪魔なテニスラケットを教室に置いてくる。と言っても、実際は嬉しさも相まって、私の机に目がけて投げつけた訳だけど、上手いこと机の横についてある取っ手(あれって何て言うのかしら?)にラケットケースの肩紐が引っ掛かった。これは神様も急ぎなさいと仰ってるに違いない。それなりに愛着のあるラケットを置き去りにしていくのは少し気が引けたが、やむを得ない。ラブ・エマージェンシーで緊急スクランブルが掛った私には、ノープログレムでザッツ・ライトなのだ。うむ、我ながら、若干パニクってる。

 三階近くまで上がると、一度停止する。
 気が付けば、肩で息をしていた。ちぇっ、何で私の教室は一番端なんだ。私は呼吸が静まるまで待った。このまま屋上に行くと如何にも「お手紙嬉しくて超特急で来ましたー!」と言わんばかりじゃないか。いや、実際その通りなんだけど。恋愛は戦い。そして、惚れた方が負けって言うし。仮にそんな結果になっちゃったりしたとして、今後のイニシアチブなんかを考えると「仕方ないから来てあげたわよ」という態度で行った方いいと思うのだ。別に私にツンデレ属性を付けたかったわけじゃない。まぁ、正しくは私も水面下で溢れかえっている“隠れ棗君ラヴ”の一人だと知られたくなかったのだ。後、もしかすると棗君はぶりっこぶりっこした女の子が嫌いで、私みたいな男友達感覚でいられる女の子がタイプなのかもしれないし。それにしても、あの棗君が私にラブレターか……。

 ――棗恭介。
 この学校でその名を知らない女子はいない。顔良し、性格良し、運動神経良し。成績の方はよく知らないけど結構良いと思う。少なくとも、先生に当てられて返答に窮した姿は見たことない。そして、それ以上に……キレ者だ。こんな少女漫画の世界に登場してそうな男子がいたら、誰だって一度は好きになりそうだ。クラスで何か決めごとがあった時なんかも、大概、棗君が話の基点となって流れを作り、最後にまとめるのも彼だ。学級委員長はそれに判を押すだけといった次第で、事実上、クラスのリーダーは棗君であることは暗黙の了解となっている。おそらく、そういう棗君を好きになる女子は動物的な……メスの本能も相まってるんじゃないかというのが私の説。私の場合は違うと思ってるけど、そういうのは外から見たら、どれも一緒なんだろうな。
 普通、こんな男子がいたら、同性から嫉妬の嵐に見舞われそうなものだが、棗君は時として道化師のように笑いに走るし、高慢でもないので、同性からも人気があった。

 息の弾みも整い、私は再び階段を上がり始めた。最後の十二段は遠く感じられた。
 休息を取っても、胸の高鳴りだけは一向に治っていなかった。ふかふかの耳当てを当ててるみたい耳が熱い。気にせず、一歩一歩踏みしめながら、階段を上がって行く。屋上の階まで着く。扉一枚隔てた向こう側に棗君がいる……かもしれない。ドアノブを握って回そうとした時、手が汗ばんでいることに気がついた。慌ててスカートで拭って、もう一度掴んだ。ゴクリと固唾を飲んで、私はゆっくりとそれを回した。長いこと油を差していないのか、ギギギと蝶つがいの錆ついた音が響いたが、もう止められない。


     ◆  ◆  ◆


 扉を開くと、男子生徒がいた。
 少し長めの髪、中学二年にして既に170cmを超えている長躯、片手をズボンに突っ込んでいる後姿。間違いなく、棗君だった。いつも授業の度、後ろの席から眺めてるのだ。間違えるわけがない。じゃあ、アレは本当に棗君の……あ、いかん、興奮して鼻息荒くなってないか、私? 静めねば……。

「で? 来てあげたけど、一体何の用?」

 ピラっと手紙を指先でつまんで見せながら、言う。すみません、実は指震えてます。
 私が来たことに気づき、棗君が振り返る。

「よぉ、早かったじゃないか。部活なかったのか?」

 最近、声変わりが済んで、棗君の声はもう殆ど大人の男性と変わらないようになっていた。

「え、えぇ、ちょっと体調悪くて休んだのよ」

 咄嗟にそう言ったが、部活を無断で休むと明日が怖い。後で連絡いれとこ。

「そういや、何か顔が赤いな」

 そりゃそうです。走ってきた上、今、人っ子一人いない場所で貴方と二人で話してますからね。うわ、自覚したら余計に酷くなってきた。どなたか医師、看護師資格をお持ちの方はいらっしゃいませんか? さっき程から胸ドッキンが止まらない馬鹿な少女がいます。速やかに息切れ、動悸に良く効く求心を与えてください。求〜心求心♪

「風邪とかならウチに帰った方がいいんじゃないか?」

 バファリンはノーセンキューです。

「ううん、大丈夫。それより用って何?」

 とまぁ、脳内ではアホなことを考えながらも現実の私は何とか受け答えができているようだった。

「あ、あぁ、大した用じゃないんだが……いや、俺にとっては大した用なわけだが、いきなり、呼び出して聞くべきことじゃないような気がしてきた」

 棗君が目を瞑ったまま腕を組み、うぅーんと唸る。
 何でそこで躊躇するのよ。こりゃ何ですか? 私に期待しろという言外なるメッセージですかい?

「用がないなら帰るけど?」
「あ、いや、待ってくれ。……はぁっ、よし」

 何やら決意をしたらしい。
 棗君の頬が若干赤い。目には力が篭っていて、こちらを見た瞬間、ちょっとうろたえる。こ、これは……まさか本当に告――



「月島。――俺に生理について教えてくれ」



 ……What’s何ですと
 一瞬、時が止まった。い、今なんて? セイリってあれ? 整理整頓の整理? それとも、正しい道理と書いて正理? あ、政治の方の政理もあるわねぇ。はははー、そういうのだったら、「わー。棗君ってインテリジェスゥ。でも、私にそんなこと聞くなんて、意味ナッシングよ」と返せただろうに。でも、どう考えてもニュアンスとして、アレという風に聞こえた。念のため、もう一度確かめる。

「ご、ごめん。もっかい言ってみてくれる?」
「だ、だから、生理について教えてくれっつってんだよ! あんま生理生理言わせるなよ。男が生理とか言うのは相当抵抗があるんだぞ!?」

 いや、今ので通算5ホーマーですが。何をホームランって? 私の意識です。

「しかし何でまたそんなことを……はっ! まさか棗君……」
「ま、待て! 言っとくけど俺が他の女子を妊娠させたとかそんな如何わしい理由からじゃないぞ! 断じて!」

 あ、そうなんだ。正直、ほっとした。
 クラスメートの女子の中で一番仲が良い自信があるだけに、もし、そんなことになってたらショックだ。ちなみに通常、女子が棗君に一人で話しかけるのは協定(恋のライバルたちが定めた)違反である。しかしまぁ、私の場合はざっくばらんというか、漫才調というか、恋する乙女とは思えない調子で話し掛けているので、協定違反にはなっていないようだ。……そりゃま、ゲラゲラ笑いながら背中叩いてたりしてたら、好きだとは思われんか。

「実はな、鈴の奴が……あ、妹なんだけど、そいつにもついに来ちまったのさ。月のモノが。昨日の夜といったら、凄かったぜ。『血のオシッコが出た! あたし、もうすぐ死ぬんだ!』って言って、泣いて喚いてテンテコ舞いのしっちゃかめっちゃかさ。しかも、よりによって、両親ともに出張に出かけて、三日は帰ってこない時に限ってだぜ? 一番頼りになるはずの母親は大の携帯電話嫌いの上、職場の電話番号も俺は知らないと来た。このことに関しては理樹たち……あ、俺が良くつるんでる下級生な。あいつらも役に立たねぇだろうしさ……。たかが一介の中学生に過ぎん俺に何ができる? 何もできなかったさ! 何とかカップゼリーで宥めすかしたものの、鈴はショックを受けて、今日学校を休んだ。俺自身もまた絶望しかけた。生理如きにうろたえて、何と不甲斐無い兄なのかと! だが、そんな時、俺はふと思ったのさ。そうだ! ――月島なら何とかできるかもしれん、とな!」

 説明している内に自分の言葉に酔ってしまったらしい。随分と長広舌を揮ってくれた。

「えー……で? 何故にそこで私めの名が出ますのでしょう?」

 何分、唐突に私の名前が出てきたので、そう問わざるを得なかった。棗君の思考は凡人に過ぎない私には謎過ぎる。

「え? だって、月島って保健委員じゃないか?」

 無茶苦茶、単純な理由だった!

「保健委員に立候補するぐらいだ。さぞや、保健に詳しいに違いない。その知識で俺を導いてくれ!」
「……あのさ、棗君。別に委員って、その分野が好きな人がするってわけじゃないわよ?」
「何ぃっ!? そうなのかっ!?」
「そりゃま、確かに好きな人がやることもあるんだろうけど、私の場合、学級委員長or副委員長をするのが嫌で、妥協案として保健委員に立候補しただけなんだけど?」

 ウチの学校の場合、クラス分けで新しい担任の挨拶が済んだら、まず委員を決める。
 委員には立候補が優先される。どこのクラスもそうだと思うけどね。そして、次に推薦によって、委員を決めて行くわけだけど……大概、それは学級委員長と副委員長のことを意味していたりする。学級委員長も副委員長も、授業前の号令やらクラス会議の時の進行役やら、他の委員に比べてかなり面倒な委員だ。基本、委員は兼任できないので、安全策として他の委員に立候補して逃げる生徒もいる。つまりは私みたいな。先生たちもそれを見越して、学級委員長と副委員長は最後に決める。かくして予定調和的に他の委員は立候補で埋まり、最後に学級委員長と副委員長を推薦やジャンケンで決めるというのが、委員決めの流れだ。

「何てこったい。今明かされる衝撃の真実。まさか、あの時、そんな陰謀が渦巻いていたとは……知らなかったぜ」
「いやいや、極々普通の、それこそ全国の学校で行われているような妥協ですから」

 あぁ、でも陰謀めいたことなら、一応あった。さっきの委員決めの流れを恋愛戦術に利用しようという強者な女子たちがいたのだ。他の委員はそうでもないのだが、学級委員長と副委員長は必ず、“男女のペア”でなければならないという不文律がある。そこに目をつけ、それを期に棗君と懇意になろうと画策する女子は多かった。
 ま、結果から言えば、それは失敗に終わった。男子に立候補がいなければ、必然、カリスマ性を持つ棗君がなるに決まっていたであろうが……立候補する奴が居たんだなぁ、これが。その時点で女子たちの目論見は水泡に帰し、結果、棗君は何の委員にもなっていない。
 ちなみに学級委員長となり、知らぬ間に恋の陰謀を打ち破ったその男子――横山圭司君は、何故自分が一部の女子から酷く嫌われているのかまるで分かっていない。当人曰く、「俺って何でか女子から“K.Y”って、イニシャルで呼ばれるんだよなぁ。何でだろう?」と言っている。まさに天然のKY空気読めよである。南無三。

「何だよ、夢もへったくれもないな。漫画委員があったら立候補してたのになぁ、とか言ってた俺がアホみてぇじゃねぇか!」

 いや、それは間違いなく、アホそのものかと。そもそも、校内は漫画持ち込み禁止だ。

「妹さんが生理ねぇ……」

 中一で初到来とは、ちょっと遅いぐらいねと表面上はそう考えていたが、実際に考えていることは全然違った。なんてことはない。棗君からの手紙を私が勝手に誤解してラブレターだと勘違いしただけなのだ。何と手前勝手な解釈。恋は盲目というが、まさか私も体現するとはね。昂ぶった熱はとっくに引いていた。普段通りの接し方をするのにもう努力は必要なかった。

「くっ、月島も頼れないとは……結局俺は無力だということかっ」

 拳を握りしめながら、苦悶に眉根を寄せた。
 いや、何というか。保健の先生に相談するのが一番いいんじゃないかなー、と私は苦笑い。どうやら、棗君は見た目以上にパニクってるらしく、その手段には思い至ってはいないようだった。

 私はその提案をしようとして……やめた。

 確かに保健の先生なら、この程度の問題は苦にもならず、さささっと朝飯前に片づけてしまうことだろう。ぶっちゃけ、私以上に適任だ。だが、これは棗君と親しくなるチャンスだった。棚から牡丹餅というやつだ。最初に見つけた私が食べてしまって責められる謂れはない。そう思った。

「あ、あのさ。もし良かったら教えてあげようか? その……生理の時に準備する物とか」
「え、いいのか?」
「そもそも、ダメって言ってないし」
「ドン引きしてたから、ダメかと思ってたぜ……」

 いや、ドン引きはしてたけどね。

「でも、いいのか? 体調悪いんじゃないのか? 顔もさっきより赤くなってる気がするんだが?」
「え? あー、うん、大丈夫。ほら、風邪薬買うついでにね」

 男女二人っきりのお買いもの。
 人はそれをデートというのだ。私のテンションは既に嬉し恥ずかしウッフッフー♪だった。





 校則では制服のまま、寄り道をしてはならないとされているが、守っている生徒なんてほとんどいない。現に私たちと同じようにぶらついて生徒も見かける。ちなみにそれが女子だと必ず一度はこちらを見てくる。正確には棗君を、だ。フッフッフ、何たる優越感……。残念だったわねぇ。今! 貴方たちが恋い焦がれる棗君の隣を歩いているのは! 貴様らではなく、この私だぁぁぁーっ!
 ……しかし、この優越感も仮初のものだ。嘘っぱちだ。事実上デートではあるものの、やはり、正式なものじゃない。そもそも、妹さんの生理用品を買ってしまえばそれで終了なのだ。

 な・ら・ば!

 できるだけ遠い場所を選んでやろうと思うのだ。そんなわけで、私は駅前の大手総合デパートを目指していた。そもそも、生理用品なんてその辺のスーパーやコンビニでも売ってるものだが、男の棗君にはそれが分からないらしい。

 テクテク歩いて、歩道前の信号で一時停止。
 私は信号を見る代わりに棗君の横顔を見上げていた。うわ、やっぱり背高いわ、この人。中学二年で約170cm……ってことは高校生になったら、180cmぐらいになるんじゃないのか? このルックスで長身とか、もうデルモじゃないか。雑誌とか載って、ゆくゆくは芸能人にでもなったりして……念のため、今のうちにサインとか貰っておいた方がいいかしら? あ、でも、これがキッカケで付き合っちゃったり何かしたら……ウヒョっ! 私の彼氏は芸能人ですってかっ! 何気に歩幅合わせてくれて優しいし、今後私の人生で棗君以上の男って現れないんじゃないのかぁ?
 はっ! もし、棗君と付き合うことになれば、鈴ちゃんは義妹になるのか。あたし、義姉としてやっていけるかしら……。何つってな! それは流石に妄想が過ぎるって、私!

「……俺の顔に何か変なモンでもついてるのか?」
「え、何が?」

 妄想してニヤニヤと楽しんでたら、声をかけられた。ふと、我に返る。

「いや、何かやたらとジロジロ見られてるような気がしたんでな。ご飯粒でも付いてんのか?」
「ご飯粒は付いてないけど、珍しく目と鼻と口が付いてるわね」
「え、マジか? 恥ずかしい所見られちまったなぁ〜。――って、普通じゃねぇか! しかも珍しくって何だよ! 普段、俺の顔には目と鼻と口が付いてないのか!」
「更に今日は耳まで付けて、何と2万9800円! どうかしらジョニー、この驚きの価格!」
「Wow、それはホントかいステファニー! HAHAHA、今日はサービスデイだねぇ。――って、何で俺が深夜の筋トレグッズのように売られてんだよっ! しかも、微妙に安っすいな! ちょっと無理したら中学生でも買えそうな値段じゃねぇか!」
「ちなみに私はステファニーじゃなくて、ジェシカよ。酷いっ! まだ前の女のことが忘れられないのね!」

 顔を覆いながら、脱兎の如く急に走り出す。あ、勿論、青信号になったのは確認してからね。

「待ってくれ、ジェシカ! 誤解だぁぁぁぁーっ!」
「ウフフフっ、私を捕まえてみてご覧なさ〜い♪」
「あっははは〜、待ってくれよ〜♪ ――って、何時の間に海岸で戯れる恋人のようにっ!?」

 しばらく、二人で馬鹿会話しつつ、町を歩く。
 嗚呼、いかん。ムチャクチャ楽しい……。恐ろしく甘美な一時だ。棗君からしてみれば、いつものノリで付き合ってくれているだけなんだろうけど、私としてはもう本番の予行演習のようなものだ。いつの日か……というか、今年の夏にでも、海岸でこんなアホアホバカップルのようなことを繰り広げられたら、と夢想して止まないのだった。


     ◆  ◆  ◆


 デパートの中に吸い込まれていく人たちと同様に、私と棗君も中へと入って行った。

「俺、あんまりデパートに来ることが無いんだが、そういう奴にしてみれば、入る度に最初に見る店が違うデパートは、まるで不思議のダンジョンのようだぜ……地下とかもあるし」
「不思議のダンジョンって何?」
「ま、そういうゲームがあるんだ」

 下らない雑談を交わしながら、生理用品のコーナーを目指す。実は、私も普段はこんなドでかいデパートで生理用品を買ったりしないので、場所が分からず、まず地図を探すことになった。エレベーターかエスカレーターの近くにあるだろうと足を進め、本屋を横切ろうとした時、ふと棗君が立ち止まる。

「あ、月島、ちょっと待ってくれ」
「ん、何?」
「これ、買ってくる。このシリーズ集めてんだ」

 手に持っていたのはビニールに包まれた一冊の漫画だった。店先に並べているシリーズ物の最新巻を手に取ったようだ。え、っていうか……それ。

「棗君、男なのにそんなの読むの?」
「そんなのとは何だ。立派な漫画じゃないか」
「いや、漫画は漫画だけど……少女漫画よ?」

 表紙にはフリフリドレスを身に纏った金髪少女が描かれていた。しかも、推定年齢10歳未満。瞳の中には星が輝き、麦わら帽子被った無邪気な笑顔が眩しい。タイトルは赤いゴシック体で書かれていた。どうでもいいけど、どうして少女漫画って大概タイトルは赤いゴシック体で書かれてるのかしらね? ともあれ、完全なる少女漫画だった。

「無論、承知の上さ」
「レジ打ってる人に『うわっ、こいつ、男の癖にこんな漫画買っていきやがった』とか思われるわよ?」
「無論、承知の上さ」
「読んでる所を妹さんに見つかるかも……」
「無論、承知の上さ」
「そして、兄のロリコン趣味を軽蔑したり……」
「無論、承知――できるかっ! そこだけは譲れねぇ! 俺はロリ好きじゃねぇ!」

 チッ、引っかからなかったか。

「いいよ。念のため、ブックカバー付けて、壁を背にして読むから」

 そこまでして読みたいんかい、その少女漫画。
 棗君の意外な一面を発見できて、嬉しいのか嬉しくないのか微妙なラインだぞ、これ。むしろ、知りたくなかった真実?

「あぁ、そうだ。もうすぐ夏休みだし。ついでに自由研究の資料も買っておくか」

 棗君は更に本屋の奥へと入って行った。
 おーい、当初の目的忘れてませんかー? 妹さんのことはいいんですかー? と思わないでもなかったけど、私としては棗君といられる時間が増えるので、進言することもなく、その背を歩いて追った。
 棗君は図鑑などを主に置いてあるコーナーで立ち止まり、本棚から一冊抜き出して、立ち読みをし始めた。タイトルは昆虫大図鑑。何ともシンプルな図鑑名だ。表紙を見る限り、小学生向けっぽいんだけど、わざわざそれをチョイスするセンスは、やはり棗君としか言いようがない。

「何? まさか、昆虫採集を自由研究にでもするの?」
「そのまさかさ。今まで通りなら、今年も鈴の奴が爺さんトコで合宿したいって言うだろうからな」
「え、合宿?  何、部活動? 棗君、確か帰宅部じゃなかったっけ?」
「あぁ、合宿ってのはただの名目。ホントは理樹たちと泊まりがけで遊びまくるんだよ、山やら川やらでな。田舎にあるんだ、爺さんの家。俺、あの爺さん苦手なんだが、鈴が行きたいって言うなら行くっきゃないし、仲間も毎年恒例でやってるから楽しみしてるだろうしな。だったら、毒を食らわば皿までってことで、ついでに山に住まう昆虫どもをコンプリートして、それを自由研究にしてしまおうというわけさ」

 棗君がペラリと、また図鑑を一ページ捲った。
 何となく、気になって私も同じ図鑑を抜き出そうと手を伸ばして……届かなかったので、爪先立ちになって……まだ届かないので、更にピョンと飛び跳ねてみて――って、それでも届かねぇ!? 位置、高っ!? 子供向けの図鑑の癖に何で、あんな高い所にあんのよっ!? 小さい子見れないでしょ!? 昔、深夜2時にやってたNHKの教育番組『小学4年生:理科』ぐらい意味が分からない! 「フフ、見たいならミッドナイトまで起きてみせるんだな、坊主」と言ってるのと同じで、「読みたけりゃ、デカイ男になるんだぜ、坊主」ってことなのかぁ!? でも、深夜まで起きてたり、あの高さの本まで届くようになった頃には、一切興味を示さないと思うんだけど、その辺どう思ってるんだぁぁぁー!? あ、でも、ここに一人いるぞ、そんな人がっ! よもや、棗君一人を狙った配置なのかぁぁぁーっ!?
 湧き上がった怒りを何所かの誰かにぶつけて発散していると、棗君が気付いてくれた。

「何だ? 月島も見たい本あるのか? 取ってやるよ、どれだ?」
「あ……えっと、ひ、左の人と同じ物を……」

 左隣にいる棗君に告げる。素直に「棗君と同じものを」と言えれば良かったんだけど、気恥しくて遠まわしな言い方になってしまった。何て言うか……いいねぇ、男に高い所の物を取ってもらうって。男だぜ〜って感じがしてさ。それが惚れた男のものだと尚、格別。

「左の人と?」

 何故か、左を見る棗君。あ、しまった。『私の』って付けるの忘れてた。訂正しようと思った時には、棗君は既に本を取ってしまっていた。今更訂正するのも何だ。仕方がない、棗君の左隣の人と同じ奴でいいか。

「ほらよ、重いぞ」
「あ、ありがとう……って、何じゃこりゃぁぁぁーっ!?

 本を見て、ビックリ仰天。タイトル、『ニュートリノ天文物理学
 何ですか、これ? 睡魔を召喚する魔法の書物ですか? それとも、人を撲殺するために生み出された鈍器ですか? はたまた、通り魔対策として腹に仕込む防刃対策用図書物ですか? めちゃくちゃ厚くて重いんですけど? 拳銃どころかライフルだって、貫通するの諦めそうなんですが? 値段もビックリ、8800円。高いよ、高過ぎるよ。何なのよ、このブルジョアジー価格。あぁ、そう言えば、専門書って需要が無いから、一冊一冊の値段が高くなるって聞いたことあるけど、これは酷いわ。

「すげぇな、月島。お前こんな大学教授が読みそうなモン読むのかよ……」
「読みません。というか、きっと一生読めません。棚に返してあげて下さい……。私が読みたかったのは棗君と同じ昆虫大図鑑です」

 情けないことにそのまま返して貰い、今度は素直に告げる。まさにキャッチ&リリース。
 棗君が本を返している間に、誤解の元となった人物に目をやる。女の人だった。文句なく美人で、それに……うぉぉぅ、子供っぽい髪飾りしてる癖に何つーグラマラスな……しかも、あんな本読むぐらいだ。頭も相当良いんだろう。その女性は興味を失ったのか、本屋から立ち去って行った。歩く度にトリートメント何使ってるんですかと言いたくなるような艶の良い黒髪がサラサラ揺れる。
 へっ、何でぇ何でぇ、所詮私は身長153cmのBカップですよ。髪もシンプルなボブカットだから、あんな歩く度にサラサラ揺れませんよ〜だ。けど、これはこれで、ラケット振った時とかあんまり髪が纏わりついてこなくて、便利なんだぞぅ! と強がってみるものの、絶望的なまでのスペック差に打ちひしがれそうだった。……世の中ってどうしてこう、不平等にできてるもんかねぇ。

 しばらくの間、棗君と同じ物を見て過ごす。
 カブトムシやらクワガタやらカミキリムシやら、物の見事に小学生の男の子が好みそうな虫たちが勢ぞろいだ。蚊とかゴキブリとかも一応、夏を代表する虫だと思うんだけど、そういう嫌悪感を抱きそうなものは除外されている。結局、こういうのも商売なんだなぁとか思いつつも、意外に知らない虫とかも登場してくるので、興味本位で少しだけ読んだ。そうして、私が虫の知識を増やしていると、棗君がパタンと図鑑を閉じた。

「買うの?」

 と、問いかけると。

「いや、やっぱりやめとく。今年からは合宿行くか分からないしな……」

 少し、表情を曇らせながら、本棚に戻していた。

「え、どうして? 毎年恒例なんでしょ? 今年も行けばいいじゃない」
「今まで通りなら、それでいいさ。今まで通りなら……な。小学生の内はそれで良かったんだ。だが、もう皆、中学生だ。いや、中学生だから、そんなガキっぽいことは止めようって言ってるんじゃない。仲間の一人が……宮沢謙吾って、下級生知ってるか?」
「うん、知ってるけど」

 入学式が終わると、よく可愛い新入生がいないか男子がチェックしてるけど、何もそれは男子だけがやってるわけじゃない。女子だって、「今年入ってきた○○君は……」ってな具合にカッコイイ男子をチェックする。この辺は思春期の悲しい性としか言いようがない。私は棗君一筋なので、積極的にチェックをかけたり何かしないけど、それでも、噂ぐらいは聞く。
 宮沢謙吾君は、その新入生チェックの中でも、五本指に入るランクを誇っている。
 ルックスの良さは当然のこととして、背の方も順調に成長しているようだ。まだ中学一年だから、それほど高くないけど、最近の健康診断の結果によると(どっからそんなデータを取ってきたのかは知らんが)、入学して数か月で7cmも伸びたらしい。何でも、昔から剣道をやっていて、入った剣道部でも既にエースとしての地位を固めつつあるとか。
 新入生チェックの部分を削除し、宮沢くんに関して、私が知っていることを棗君に伝える。

「まぁ、大体そんな感じだな。知っての通り、剣道部に入ってから本格的に忙しくなってきてな。小学生の時ほど、俺たちと遊ぶ時間も取れなくなってきている。きっと夏休みも大半が部活に費やされるだろう。そんな中、謙吾を除いて、俺達だけで合宿とかして、思いっきり遊んじまったらさ……きっと、あいつは心の何所かで、疎外感とか孤独感を覚えると思うんだよ。無論、口じゃ『俺のことは気にするな』とか言ってるけどな。アイツ、意地っ張りな上、天の邪鬼だからなぁ。あー、でも、中止するならするで、気を使わせたって思われないような中止理由も考えなきゃならんな」

 ふぅと懊悩おうのうのこもったため息を漏らす。

「ま、合宿中止したら、今度は鈴が問題だな。ただでさえ、あいつは人付き合い苦手で、他の小学校から合流した連中との摩擦やら誤解で、ストレス溜まってるみたいだし。合宿で発散する気満々だったからなぁ。理樹と真人は特に心配ないんだよ。ちょっといじめられっ子な所がある理樹は、腕っ節の強い真人がいればいじめられることはないし、逆に完全無欠の馬鹿である真人は、理樹から勉強教わって何とか赤点スレスレの所にいるし。あの二人は良いコンビだよ。兎も角、今は謙吾と鈴だ。謙吾の日程が合って、更に鈴が満足するようなイベントがあれば、理想的なんだが……これが何とも難しいんだ」

 それは私には理解できない、上に立つ者……リーター独特の悩みだった。
 逆に言えば、そういう悩みを抱えてしまう棗君は、良きリーダーであると証明しているようなものだ。もっと傍若無人な……それこそ、人に命令するしか能がないリーダーなら、こんな苦悩は抱かない。

「ホント、年を取ると色んなモンが変わっていっちまうよなぁ。環境とか状況とか立場とかさ。そういうのが変わっちまうなら、こっちも合わせて変わらざるを得ないよなぁ」

 それはきっと誰もが思い知ることなのだろう。
 私にも身に覚えがあるから共感できた。理解じゃなくて、共感。私がどれだけ考えを巡らせようが、去年まで中学校という教育施設に、年下の仲間から隔離されていた棗君の寂しさは理解できないのだから。

「何か悪りぃな。鈴のことだけじゃなくて、俺の愚痴まで聞いて貰って」

 はたと気付いて、棗君は頭を掻いた。

「別に気にしなくていいわよ。ホントに聞いてるだけだったし」

 ホント言うとちょっと嬉しかった。
 少なくとも、私は棗君の悩みを聞かせて貰えるに値する存在だったわけだから。


     ◆  ◆  ◆


「やぁぁぁ〜ん♪ モーグリ、元気だったぁぁ〜♪」

 8階、ペットショップエリアの一角で、世にも奇怪な声が上がる。……ちなみ上げたのは私だ。
 だが、仕方がない。こやつの可愛さと言ったら、天下無双なのだから。犬? 猫? そんな肉食獣どもに興味はない。大体、あんなのが好きという連中は、奴らの歯をまともに見たことが無いんじゃないのか? あれこそ、まさに生物を殺すための歯並びだ。凶悪極まりない。それでも、好きだという猫好きはベンガル虎に食い殺されてしまえば良い。イヌ好きはハイエナだ。ハイエナに群がれて貪り食われてしまえ。今、熱いのはウサギだと思う。いや、今どころか、未来永劫ウサギが熱いと思う。少なくとも、生まれ出でて14年、私はウサギよりも可愛いと思う生命体に出会ったことがない。まさに私こそは極右ならぬ“極兎”といってもいいだろう。草食動物だからって、ウサギ舐めんなよぅ! と幼い頃公園でゴールデンレトリバーに追い回され(じゃれてきただけだが当時は喰われると思った)、黒猫を見た直後に交通事故に遭った(人は偶然というが奴が呪いをかけたに違いない)私が主張してみる。

 本屋の後、このデパートの地図を発見して、エレベーターに乗った。
 目的のブツを購入するのであれば、2Fの『婦人服飾雑貨・化粧品』のフロアを目指すべきなのは明白だったけど、気が付けば、私は8Fのボタンを押していた。断じて、たとえ数秒でも、棗君と二人っきりの閉鎖空間を延長させたかったわけじゃない。……結果的にはそうなったけれど。ちょっとばかり棗君の抵抗に遭ったが、最初に自分から脱線した負い目からか、頼み込むと渋々了承してくれた。

 このデパートにあるペットショップは『ペットに触ることができる』という売りがある。無論、プレイングルームという柵に囲まれた空間限定だし、きちんと前以って店員に許可を取る必要があるけれど、母親が家が汚くなると反対して飼えない私としては、何とも嬉しい仕様だ。私がこのデパートに来るとしたら、その理由は大概、『ウサギに触りたいから』だ。

「モーグリって何だよ? まさか、そのウサギの名前か?」
「そうよ。可愛い名前でしょ」

 柵の外から棗君が問いかけてきた。私はペタンと座って、モーグリのお腹と私のお腹を引っ付けるように抱いたまま、答える。モーグリはよく小学校とかにいる白い毛皮に赤目のジャパニーズホワイトじゃなく、茶色い毛皮に黒目のレッキスだ。元が野ウサギの突然変異から誕生した種だけに、まん丸い感じではなく、ちょっと筋肉質でスレンダーな感じだ。
 この店を見つけて、通い始めてそんなに日は経ってないけど、人懐っこいのですぐに抱けるようになった。あるいは私が纏うウサギ好き好きオーラの成せる技かもしれない。

「モーグリ、か。……俺は棗恭介って言うんだクポー」 
「何言ってんの? 語尾が変だけど、どっかで頭強く打っちゃった?」
「いや、モーグリ語で挨拶したら、思わず返事するかなと思ったんだが……所詮、幻想だったな。ファイナルファンタジーだけに」

 良く分からないけど、多分またゲームのことだろう。

「しかし、何でまたモーグリなんだ?」
「んー、何でもよかったんだけど、ペレット食べる時に口がモグモグ動くからね」

 本当にそれ以上の意味はなかったりする。あー、後、モーグリって名前のオオカミ少年の本見た後だったからってのもあるかも。モーグリの頭を指の腹で撫でる。う〜む、こやつ、ウチのカーペットよか手触り良いな。モーグリも気持ち良さそうに目を細めて、ブウブウと喉を鳴らした。

「うぉっ、今鳴いたぞ!? ウサギって鳴くのかよ!」
「そりゃ鳴くわよ。猫や犬みたいに声帯無いからそんなバリエーション無いけど、さっきみたいに食道震わせて鳴くよ」
「そいつは知らなかったぜ。また一つ、ここに新たなトリビアが生まれた」

 いや、別に新しくはない。ただ一般的に知られてないだけだ。
 後、ウサギは一匹だと寂しくて死んでしまうとかいうとか、水を飲まないとかもデマだ。むしろ、ウサギは縄張り意識の強い動物だから他のウサギと一緒に飼わない方がいいし、ウサギも生き物なんだから、水ぐらい飲む。

「ハッ、そうだ。こいつぁ、ひょっとして……ちょっとここで待っててくれっ」

 言うなり、棗君は背を向けて、走りだした。
 唐突の遁走に疑問符のつきない私だったが、ウサギ好きの私にウサギと共に待てというのは、冬場のコタツから出るなということと同意義だ。幾らでも待つ。ひたすら、和みながら撫でていた。この時の私は、縁側で茶でもしばいている老人のような顔つきになっていたかもしれない。
 しばらくして、棗君が戻ってくる。その手には何やら、スナック菓子の袋が握られていて……。

「見ろ! こうして、ウサギにとんがりコーンを装着させると一角獣に見えないかっ!?」

 殴った、グーで、後頭部を。

「ぐぉぉ……まさか、いきなり後頭部をぶん殴られるとは思ってもみなかったぜ」
「ごめんなさいね。ウサギ好きは総じて、ラビットパンチが得意なのよ」
「マジか……ラリホーか? ラリホーの代わりに後頭部ぶん殴って眠らせるのか? 一角獣じゃなくてアルミラージだったのか?」
「いや、言ってる意味分かんないし」

 というか、こんな下らないことのためにわざわざ、とんがりコーン(40gのミニサイズ)を買いに行ったのか。何なんだ、この面白いことに対する情熱は。これが棗君の日常の破壊者トリックスターたる由縁なのか。

「しかし、相変わらず、すげぇウサギ好きだな」
「――っ」

 一瞬、息が詰まった。

「まぁね。何せ中学に上がって一番ショックだったのはウサギ小屋がなかったことだったからねー」

 すぐさま、いつもの調子に戻す。
 彼は気づいただろうか。努力しても、ほんの少し声が震えてしまったことに。この空調の効いたデパートで、私のモーグリを撫でる手が汗ばんだことに。

「うん、そろそろ行こっか。十分、堪能させて貰ったことだし」
「……楽しむだけ楽しんで、何も買わないとは。まぁ、俺も漫画の立ち読みとかよくするから、人のこと言えんが酷ぇな」
「失礼ね。大学生で一人暮らしでも始めたら、迎えにくるわよ。それまで待っててね、モーグリ♪」

 私はペットショップを立ち去った。
 不自然な所はなかっただろうか。後ろに尾いてくる棗君の顔を見れば、様子が分かったかも知れないけど、それはできなかった。すればきっと、こちらが探る以上に私のことが分かってしまう。この耳の熱さ。多分、今、私の顔は真っ赤になっているだろうから……。


     ◆  ◆  ◆


 拍動も落ち着き、空調の風で熱も引いてきた頃。
 私は歩きながら、棗君に生理……正確には、月経の簡単な説明をしていた。

「血が出たって言ってたけど、それは当たり前だから。経血って言って出血とは違って、普通のことよ」
「生理の度にどっか怪我してるってわけじゃないってことか?」
「そゆこと。あー、後、血が出るのは一日だけじゃなくて、五、六日ぐらいは続くから」
「な! そんなにドバドバ血ぃ出して平気なのかよ!?」

 あ、しまった。誤解してる可能性大だ。

「棗君、妹さんが血のおしっこが出たって言ったから、めちゃくちゃ出たみたいに思ってるかもしれないけど、最初って下着にちょっと血の染みが付くぐらいだから。多分、妹さんもパニクって大袈裟に言っちゃったんでしょ。第一、本格的に生理が来ても、おと――なでも、計量スプーンに収まる程度だしね」

 危ない危ない。
 今、もうちょっとで「男の人が射精した時の精液と同じぐらいの出血量」って言ってしまう所だった……。そんな凡ミスで性知識に詳しいエロい女とか思われたら、明日から登校拒否になってた。
 その後も色々教えた。生理中はトイレに行く度にナプキンを取り換えるだとか、使用後のナプキンはトイレで流すと詰まるからダメだとか、経血で汚れた下着をお湯で洗うとタンパク質が凝固して落ちにくくなるから水で洗うだとか、ナプキンはいつも同じ場所に閉まっておくことだとか、慣れてくると周期が分かって準備できるようになるだとか、つまりはそういう予備知識のことだ。棗君は真剣に聞いていて、何所から取り出したのやら、メモまで取っていた。その情熱、授業に生かせないのか。
 2Fの『婦人服飾雑貨・化粧品』のフロアで生理用品が売っている棚を目にしながら、問いかける。

「所で棗君、妹さんのパンティー見てないのよね?」
「今度はシスコン扱いかっ! 妹のパンティーに興味示してたら、完全にヤバイ奴だろっ!」
「いや、そうじゃなくて、妹さんがどの程度経血だったか知らないのよねって聞いたつもりなんだけど」
「え? あ、あぁ、そういう意味か。悪りぃが全然分からない」
「そっかそっか。う〜ん、生理って個人差あるから、それに合わせてナプキンも買うべきなんだけど」

 サイズや厚み、形(羽なし、羽アリ、横漏れ防止ギャザーあり、ショーツタイプ)等など、生理用ナプキンの種類は実に多岐に渡る。かく言う私も今使ってるのがベストなのか、自信を持って言えない。まぁ、スタンダードな辺りを押えとけばいいかな?

「なぁ、月島。俺ちょっと外してていいか?」
「え、何で?」
「いや、何でって……見りゃ分かんだろ。ここは俺がいるべき世界じゃないんだ」

 そこまで言われてようやく、私は生理用ナプキンの棚から棗君へと視線を動かした。……棗君は酷く居辛そうな顔していた。そこで気付いて、「あ〜」と手の平をポンっと打った。相撲の土俵は女人禁制であるように、ここ2F『婦人服飾雑貨・化粧品』のフロアは男人禁制の大奥と言っても過言じゃない。化粧品、ランジェリーショップ、宝石店、ブランドショップ、甘味系の充実した喫茶店などなど、このフロアの過半数の店が女性のため用意されている。まさにフィーメル・テリトリー、今や棗君はオオカミの群れに放り込まれた子ヒツジのようなものだった。

「代金はこれで足りると思うんだが……」

 財布から一万円を取り出し、手渡される。というか、一万円って。

「たかが生理用ナプキンに、こんなに使わないわよ?」
「だろうな。日常品がそんなに高くないとは思ってるんだが、男の俺にはどのくらいかかるのかまるで推察できなかったんでな。じゃあ、そういうことで。南口の出口で待ってるから」
「あ、ちょっと待った。ついでにポーチ買っておいてくれる?」
「ポーチ?」
「そ、まさか流石にむき出しのナプキンのまま、学校に持ってくわけにはいかないでしょ?」
「……女ってのは大変なんだなぁ」

 しみじみと呟いて、棗君はこのフィールドから退避した。
 一万円か……しかし、これだけの金額をポンと出せるもんだ。中学生にとって一万円といったら、破格の金額だ。でもまぁ、昔っから女の子に優しかったしね。妹さんに限っても例外じゃないってことなんだろうな。私は棗君に手渡された一万円札を見ながら、ずっと昔の記憶を掘り出していた。


     ◆  ◆  ◆


 私と棗君の関係は幼稚園から始まった。

「ねぇねぇ、なつめくん。ゆきうさぎ、つくろうよ!」
「ゆみちゃんはうさぎ好きだなぁ。しもやけに出まくってるぜ!」
「うん! ゆみ、うさぎさんだぁ〜い好きっ♪」

 雪が降り積もった園内の庭先で、二人して雪うさぎを作ったのが最古の思い出だ。
 どうやら、その頃の私は雪が積ると雪うさぎを作る習慣があったらしい。同時に霜焼けを作りまくっていたから、それだけは確実に覚えている自信がある。私のウサギ好きはその頃からだった。そして、雪うさぎを作る度に棗君を付き合わせていたようだ。余程、作るのに一生懸命だったのだろう。残念ながら、こっちはそんなに明確に覚えちゃいない。

 棗君とは小学校に上がってから、段々と疎遠になっていった。
 誰にだってそういう人が一人や二人いるだろう。学校生活に慣れるのに精いっぱいだったし、遊ぶ友達なら他にたくさんいたからだ。その頃には、棗君も別の子と遊ぶようになっていた。六年間、クラスが一緒になったことがなかったのも大きい。クラスの遠さや男女の性差がそのまま私たちの距離となり、時間がそれを更に押し広げていった。自然消滅に近いけど、厳密に言えば違う。一応、廊下とかですれ違ったりしたら、小話の一つや二つしてたから。

 でも、『月島・・』と呼ばれる度に開いてしまった距離を自覚した。『ゆみちゃん』などと呼んでくれていたのは遠い過去のことなのだと。小学校を卒業するまでの六年間、そんな調子だった。ただ、下級生の悪たれ小僧を成敗したとか、剣道道場に道場破りしに行ったとか、ハチ退治で地方新聞に載ったとか、色々と噂の絶えない人だったので、頭の片隅には残っていた。

 第二次性徴も出始めて、最初に異性として意識し始めたのは棗君だった。
 ただその頃は、周りがカッコイイとか言っているのに釣られて、私も錯覚してしまっていたようなモノだった。本格的に好きになってしまったのは、中学一年の時のことだ。国語の授業が自習になって、配られたプリントやっていた時に私は不注意にも消しゴムを落っことした。それを隣の席に座っていた棗君に拾って貰ったのだ。ピーターラビットの絵柄が入った消しゴム、幼少の頃からその嗜好は変わって無かった。拾って貰ったこと自体は大したことじゃない。どこにだってある、ちょっと嬉しい日常の一コマとなるはずだった。

「相変わらず、ウサギ好きなんだな。――まだ雪ウサギとか作ってんのか?」

 棗君がそう言わなければ。
 フッと小さく笑って、消しゴムを手渡してくれた瞬間……私は恋に落ちた。てっきり、そんなことなんて、とうの昔に忘れ去ってしまっていると思っていた。何しろ、雪ウサギを作ったことがあるのは幼稚園っきりだったから。けど、違った。私と同じ思い出は、棗君の中でちゃんと息づいていた。棗君は何所か遠くへ行ってしまって……それこそ、テレビのアイドルに熱を上げるのと同程度の感情だったのに、その瞬間から現実的な恋に変わった。

 その頃から、まず、私は棗君との関係の修復に努めた。
 尤も、私はテニス部に入ったから、帰宅部の棗君との接点は学校の中しかない。しかも、大概、棗君はひょいと姿をくらまして、下級生のクラスに行くもんだから、中々修復が終わるのには時間が掛った。

 が、今ではこうして、一人の友人として気後れなく会話できている。私としては既に友達以上恋人未満ぐらいの位置にあると思っているけど、棗君はどうなのだろう。ただの友達? そういう風には見れない? ……そう思うと酷く焦って、想いを伝えたくなる。明確に、間違えようの無く。
 ただ、やっぱり報われなかった時のことを考えると怖い。棗君は優しい人だから、やんわりと断って、「これからも良い友達でいてくれよな」ぐらいのことは言ってくれるのだろう。

 ――だが、現実に考えて、そんなことはありえないに決まっている。

 棗君の宮沢君に対する危惧と同じだ。
 きっと私たちはいつものように振舞おうとして……できなくて。“いつものように振舞おう”って考えてる時点で“いつも”じゃないことに気が付いて、そして……また離れていくに違いない。

 このまま良き友達として楽しい時間を過ごし、終えるか。
 費やした時間とこれから過ごせるであろう時間、その全てを失う覚悟で恋人という立場を望むか。
 棗君に関してはこの二つに一つしか選べない。なら、私は――。


     ◆  ◆  ◆


「いや、今日は本当に助かった。サンキュな、月島」

 私たちは南口の出口で合流した後、自然公園を歩いていた。帰る方向は大体同じだし、ここを突っ切る方が早く帰れるのだ。
 生理用ナプキンを買ったお釣りはもう棗君に返したし、頼んでおいたポーチもちゃんと買っておいてくれた。猫の刺繍の入ったポーチ。妹さんは猫好きなんだそうだ。……まぁ、あれよね。ベンガル虎はよく考えてみれば、猫じゃなくて虎だ。つまりは猫好きだからって、ベンガル虎に喰い殺されなければならない謂れなんてあるわけがないのだ。誰だ、そんな暴論を振りかざした奴は。きっと相当な極兎――ではなく、極右に違いない。

「ああ、そうだった。忘れるところだった」

 言い出して、棗君は中学指定のボストンバッグの中を何やらガサゴソと探り出した。

「あれ? どこいっちまったんだ? 月島に渡そうと思ってたのに……」

 え、渡すって、まさか……。プ、ププ、プレジデント――って、違うっ! そもそも、そのバッグから大統領が出てきたら、素で引くわっ! まさかプ、プレゼントなのだろうか……。一体何をくれるのだろう。むしろ、何でもいいから下さい。プリーズギブミー、ナウ!

「お、あったあった」

 私の願いが通じたのか、見つかったらしい。私へのプレゼントが。

「ほら、これやるよ。今の月島にぴったりだぜ」

 嗚呼、それは青と白のツートンカラーをした長方体で――って、バファリンじゃねーかっ!

「今日、風邪っぽくて部活休んだんだろ? まだひき始めみたいだが、酷くなってきたら使うといい。こいつは効くぜ。何てったって、半分は優しさでできてるそうだからな」
「じゃあ、もう半分は?」
「もう半分は……知らん。きっとカステラだ。バファリンのもう半分は、カステラでできている」
「はぁ……そうなんだ。ふーん……」

 テキトーに聞き流しながら、バッグに仕舞う。こんなモンに胸をトキめかせてた私って一体……。

「あれ? もしかして、余計なお世話だったか?」
「何というか、『まさかこいつ、本当にこんなものを買ってくるとは……!』と歯痒さを覚えるわね」
「それって低評価なのか? 高評価なのか?」
「んー、一応、意外性という意味では高評価かな?」

 嬉しくないというわけではない。
 私自身忘れていた風邪という設定を逐一覚えていてくれたからこそ、これを買ったんだろうし、一応、実用品だから、いざという時役に立つものではある。が、もっとこう……色気のあるものが欲しかった。しかし、男の子から初めて貰ったプレゼントがバファリンだった女学生は世界広しと言えど、私ぐらいじゃないだろうか……。

「あ、そうそう。後、これな」

 棗君はポケットに片手を突っ込み、何かを握ったまま拳を突き出す。パッと手の平を開ける。

   ――シャラン

 とチェーンが擦れる音と共にそれは現れた。棗君の指に引っ掛かり伸びる――ウサギのペンダント。それを見た時、私は……。

「え? それ……」

 としか答えられなかった。不意打ち、いや、騙し打ちだったからだ。棗君にそんな意図が無かったとしても、私は完全に引っかかってしまっていた。

「見ての通り今日の礼のつもりなんだが……もしかして、既に持ってるのかコレ?」
「え、あ、い、いや、持ってはいないけど。それ、何か高そうに見えるんだけど……?」
「ん? いや、3000円ぐらいの安モンだぞ――って、言わせんなよ。贈り辛くなるだろうが」

 十分高いじゃないか。
 中学生の私たちにとってみれば、3000円ともなれば十分高い方だ。

「それを……私に?」
「いや、さっきからそう言ってるんだが、いらんなら持って帰るぞ?」
「い、いるっ! 欲しいっ!」

 思わず、本音が漏れる。

「お、流石はウサギ好きだな。反応が鋭いぜ!」

 違う。確かにウサギ好きだけど……それ以上に“棗君からのプレゼント”だからだ。
 何故わざわざ、こんな物をくれるだろう。今日ぐらいのことで、“友達”に借りを返すなら……ご飯を奢る程度でいいはずだ。なら、これは“そういうこと”なんだろうか。そういう風に勘違いしても良いのかな……。

「じゃあ、そろそろ帰るわ。妹も待ってることだろうし」
「あ、ちょ、ちょっと待って!」

 踵を返す棗君を呼び止める。けど、呼び止めてどうする? そこから先は何も考えちゃいなかった。けど、この機会を逃すと言わないまま私と棗君の関係は途切れてしまうかもしれない。卒業後の高校だって同じ所を通うか分からないのだ。それに今なら――想いが通じるかもしれない。
 貰ったばかりのウサギのペンダントを握りしめる。銀の冷たさで、心を落ち着かせ、私は決意した。


「す……好きです。ずっと棗君のことが好きでした! お付き合いして下さい!」


 最初の一言を言ってしまえば、もう後は破れかぶれの勢い勝負で並べ立てた。
 ギュッと目を瞑って、うつむく。棗君の顔を見ないようにしていた。顔を見たら大体、どんな返事が返ってくるか分かる。こっちから察したくなんてなかった。言葉として聞きたかった。

 ――受け入れられるのも、振られるのも、棗君の言葉が良かった。

 待ってる時が一番長かった。ドグドグと脈が酷い。いつから心臓は私の頭に移ったのだろう。実際には三十秒ぐらいしか経ってないんだろうけど、私には十分にも二十分にも感じられた。その責め苦の後、聞かされた返答は……。

「正直、月島のことは嫌いじゃないけどさ……」

 と、棗君に切り出された瞬間、分かった。嗚呼、私振られるなって。
 どうしてだとか、何でだとか、そういった問いかけは意地でもしないでおこうと思った。振られる側にだってプライドはある。そもそも、振った理由なんて聞いてどうする。テストの見直しじゃないんだぞ。次から気を付ければ、大丈夫ってわけでもないだろう。そう、たまたまだ。たまたま、棗君とはそういう縁がなかっただけの話なんだ。――だからさぁ、涙腺緩ますようなことじゃないって、マジで。

「……ちょっと話さないか?」

 棗君は罰の悪そうな顔で、自然公園のベンチを指差していた。




「嫌いだから振るってわけじゃないんだ。――ただ……俺には付き合えない理由があるんだ」

 そう言って、棗君は静かに語り始めた。幼い頃に自分が犯した“罪”について。
 元々、妹さん……鈴ちゃんは小さい頃から人見知りをする子供だったらしい。いつも棗君の後にひっついて回って、棗君が同い年の友達と遊ぶ時でも一緒だった。外から見たら、それはとても仲の良い兄妹だったかも知れないけれど……棗君はそれが嫌だった。棗君は遊びたいのに、鈴ちゃんがくっついて来ると遊びではなくなった。楽しくなかった。サッカーやドッジボールをすれば、いつも同じチームにさせられて、鈴ちゃんのせいで負ける。鬼ごっこをすれば、いつもすっ転んで、泣き喚く。それをあやすのは、いつだって棗君だった。兄というだけで、棗君は鈴ちゃんが泣き止むまで鬼ごっこに参加できなかった。ずっと楽しそうにはしゃいでる友達を眺めてるだけで、棗君はそれが堪らなく嫌だったらしい。そして、次第に鈴ちゃんが疎ましくなった。
 そんなある日、棗君は鈴ちゃんに一つ嘘を吐いた。

「鈴、今日はウチでかくれんぼしようぜ」
「……かくれんぼ?」
「そうだ。最初は俺が鬼やるから、お前が隠れろ。俺が発見したら、次は鈴が鬼な」
「……どこにかくれてもいいの?」
「あぁ、何所だろうと絶対見つけてやる。だから、ほら、さっさと隠れろって」


 そう言って、鈴ちゃんを隠れさせて、棗君は遊びに出かけた。
 元々運動神経が良く、鈴ちゃんという足枷がなくなった棗君はその日、大活躍をした。大人になってもそうだと思うけど、特に小さい頃などは他の子からの賞賛は何よりの喜びだ。特に男の子はそうらしい。棗君はまるで自分がヒーローにでもなったかのように思えた。そして、こうも思った。これが正しい自分の姿だと。駆けっこも早くて、頭もいい自分にはこの位置こそが正しいのだと。

 自尊心が満ちて、昂揚した気分のまま家に帰ろうとして……異変に気づいた。

 最初に目についたのはパトカーと人だかりだった。
 玄関の外で、近所のおばさんがヒソヒソと話をしていた。――泥棒が入ったらしい。それを聞いて、棗君は生まれて初めて、血の気が引いたそうだ。ウキウキした気分など一瞬で吹き飛んでしまった。焦燥感に衝き動かされて、人垣をかき分け、家の中に入った。警察の人が大勢いて、その内の一人に腕を掴まれて、勝手に入るなと怒られた。その時、棗君は掴み掛るようにして聞いた。

「鈴は!? 俺の妹はどこにいるんだ!」

 それで家の関係者だと悟ったらしく、別室に案内された。部屋に入った途端、泣きじゃくる鈴ちゃんに抱きつかれた。次に、たまたま仕事が早く済んで、帰っていた母親にビンタされた。そして、部屋にいた刑事に詳しい経緯を聞いた。棗君が予想していた通り、泥棒が家に入ってきた時、鈴ちゃんはリビングにある収納機能付きのソファーの中に隠れていたそうだ。ある意味、安全だったが、泥棒は盗人猛々しく、数時間テレビなど見てくつろいでいたらしい。――丁度、鈴ちゃんが隠れていたソファーに居座って。おそらく、泥棒は両親が共働きで、棗君たちもよく二人して外へ遊びに行くことを下調べしていたのだろうと刑事は言っていた。その後、帰ってきた母親が異変に気付いて、警察に連絡した。そして、現場検証の最中に鈴を発見したそうだ。
 ジンジンする頬を押さえつつ、棗君は鈴ちゃんに聞いた。何で泥棒がトイレにでも行ってる間に逃げなかったんだと。鈴ちゃんは涙を拭いながら言った。

「怖くて出れなかった。それに……」
「それに?」
「――絶対見つけてやるって言ってたから」


 その言葉を聞いて、棗君は酷く後悔したそうだ。

「その後、警察の連絡を受けて帰ってきた親父にも思いっきり引っ叩かれた。ジンジン頬が痛かったけど……叩かれるまでもなく、幼心に自分がとんでもないことをしちまったのは分かってたよ。現場検証の時に鈴は見つかったんだが、その時、見つけたのが警察だって分からなかったんだろうな。鈴は物投げたり、相当暴れ回ってな。てっきり、泥棒に開けられたと思ってただろうし、知らない大人の男ばっかりいたわけだから、ある意味取り乱すのはしょうがなかったんだが、現場を荒らされちゃ捜査できなくなるからさ。結構無理やり押さえつけられたそうなんだ。以来、元々人見知りの激しかった鈴は、余計に人付き合いが苦手になってな。特に大人の男だと脅えるようになっちまった。……それもこれも全部、俺のせいなんだよ」

 棗君が上半身を屈める。膝の上で組んでいた手に額を付けたその姿は、祈るか懺悔をしているように見えた。

「全く酷い兄貴だよな。妹が……鈴がソファーの中で小さくなって震えてる間、俺は何も知らず、ずっと楽しく遊び呆けてたんだぜ? 真っ当な兄貴のするこっちゃない。だから……その時、俺は誓ったんだよ。――鈴が強くなるその時まで、俺はずっとこいつを守ろうって」

 立ち上がり、棗君は片手をポケットに入れる。その時にはいつもの棗君に戻っていた。

「そういうわけで、俺は誰とも付き合えない。いや、付き合わないって言った方が正しいか。鈴が強くなるまでは……その、心配で堪らないんだよ。もし、そんな状態で誰かと付き合って、どちらかしか選べない時が来たら、俺はあっさり鈴を選ぶと思う。そういう本気じゃない気持ちで誰かと付き合うのって、相手にも失礼だと思うんだ。――だから……悪りぃな、月島」

 私は棗君の顔を見ることなく、立ち上がる。何となく所在なさ気にスカートを手で払う。
 どうせ、また罰の悪そうな顔をしているのだろう。

「棗君ってズルイ男よねぇ〜」
「なっ!? 俺の何所がズルイんだよ!」
「ん〜、何かもう色々ズルイ。逐一、上げるのが面倒なくらいズルイ」
「マ、マジか……ど、どの辺なんだぜ?」
「口調、変になってるわよ。まぁ、その辺は自分で気づきましょう」

 具体的に言ったら、プレゼントを二段構えで用意してた所とか、振った理由を好き嫌いじゃなくて、妹さんにしてる所とか、前者は兎も角、後者は……まぁ、しょうがないって気分だ。棗君がそういう周囲を大事にする人だって知ってたし、むしろ、そういう棗君だから、好きになってしまったわけだし。恋愛において、惚れた方が負けってのはやっぱり定説ね。その人にどうされようが、惚れた側は全面降伏以外できないんだろう。本当に心底好きになってしまえば。

   ヴヴヴ! ヴヴヴ!

 何か耳に馴染み深い振動音が聞こえた。ケータイ電話のバイブレーションだ。私のからじゃなく、棗君からのだった。ポケットの中から取り出し、二つ折型のケータイを開いて、出る。

「おぅ、どうした理樹? ――何ぃっ!? それで鈴は!? ――はぁ!? 猫と心中するっ!? にゃんてこったい……。――あ、あぁ、すまん、確かに上手いこと言ってる場合じゃなかったな。で、今、鈴はどこにいるんだ? ――あぁ、分かった。その場所なら知ってる。何とか俺が行くまで、持ち堪えてくれ」

 通話を切り、パタンと閉じると棗君は言う。

「すまん、月島! 聞いての通り、緊急事態だ! じゃなっ!」
「は〜い、行ってらっしゃ〜い。頑張ってね〜」

 ダッと走り出す棗君の背に私は何ともやる気の無いエールを送った。棗君は振り向きもせず、手だけ上げて答えた。小さくなっていく背中を見ながら思う。あー、多分、あの人は仲間のために奔走するのが趣味みたいなモンに違いない、と。

 私は再び、イスに腰掛けた。
 今日は色々あった。高々、放課後から数時間の間しか経っていないというのに、三日分ぐらいの濃度があった気がする。何となく精神的に疲れてしまった。……振られたし。明日からどうやって生きていこうとか、ちょっとセンチメンタルなことを考えたりした。

 ふと自然公園にある池を見やる。
 何か虫のようなものが、頼りない飛び方でフラフラ飛んでいた。あれは……見たことがある。確か棗君と一緒に見た昆虫大図鑑に載ってた虫で――蜉蝣カゲロウだ。何年も長い間水中で過ごし、羽化して成虫になると配偶者を求めて、空を飛ぶ。しかし、成虫になってからの寿命は短く、数時間で息絶えてしまう。まぁ、乙女チックにロマンスのある言い方をすれば、ひと時の恋のために命を懸けて彷徨うわけだ。でも、中には、それでも結局報われずに死んでしまう者もいるんだろうな。……私みたいのが。





「――カゲロウの恋に乾杯」




自らの完敗と乾杯を掛けてみたが、それは私の想像以上の寒さをもたらした。


さて、明日からまた朝練だ。頑張ろう。


あ、そう言えば、私……。


部長に連絡すんの忘れてた。どーしよ……。



END

他の作家さんで、リトバスいぇいいぇ〜い!\(>ω<)



 ぴえろの後書き

 ……これ、微妙にリトバスSSじゃ無い気がする。
 とりあえず、読者さんが言いたいことを先に言いました。自分もそう思います。(ぉぃ おかしい。オリキャラという第三者を使って、恭介を描くつもりがオリキャラ優先になってた……。多分、当初キャラ弱かったので、ウサギ好きの設定付けてから変になったんだ……。後、恭介がゲームネタ言い過ぎてて、原作と微妙に違う気がするし、途中からこの娘、杏にしか見えなくなったんだ。(´・ω・`) 「恭介って鈴に初潮が来た時どうしたんだろ?」+「鈴のトラウマってこういう感じかな?」からここまで膨らませたら、変な人の域に達しているような気がしますけどねっ。テーマは『人の成長とそれに伴う立場と心境の変化。人間ってのはそうやって大人になってくもんだぜ、坊主?(´ー`)y-~~フー』ですかね。リトバスSSっぽく無いですが、楽しんで頂けたら幸いです。