嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!





劇場版クレヨンしんちゃんの15作目「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」は、映画の15周年という記念すべき作品であるという事からか、ある種の原点回帰への意欲が窺える側面がある。

まず、冒頭のシーンでは、ケツだけ星人なる宇宙人が、爆弾で自分達の宇宙船の前に立ちはだかる巨大な隕石を爆破するという展開がなされている。オープニング前の冒頭シーンで、主人公のしんのすけはおろか、テレビアニメのレギュラーキャラクターが一切登場せず、その作品のオリジナルのキャラクターのみによる展開は、実に第6作目の「ブタのヒヅメ」以来となる。

「ハイグレ魔王」から「ブタのヒヅメ」までは、オリジナルキャラクターのみの登場(「ハイグレ魔王」でのアクション仮面は、異次元からの「本当の」ヒーローである点から、「ジャングル」のそれとは異なるオリジナルキャラクターと、あるいはオリジナルキャラクターでなくとも、第1作目である故まだ劇しんの「設定」が定まっていなかたっとも言える)なのに対して、「温泉わくわく」から前作の「踊れアミーゴ」までは、レギュラーキャラクターも登場しており、「ケツだけ爆弾」の場合は前者に属する展開である事から、ここに一つの原点回帰の傾向が見られるのである。

しかし、この冒頭シーンは、過去の作品には見られない展開がある。今までの冒頭シーンで登場していたオリジナルキャラクターは、その作品のオープニング後の本編と何らかの関連性が存在したが、「ケツだけ爆弾」の場合、爆弾の一つが地球へ漂着する以外、つまりケツだけ星人については何の関連性も存在しないのである。

また、これまでの作品では、冒頭シーンにおいてその作品のテーマが何か(もしくはその作品がいかなるものか)を示していた。例えば、「ヘンダーランド」ではゴーマン王子がマカオとジョマに敗れるまでの戦いを描き、「オトナ帝国」では大阪万博の様子を描いている。ここから「ヘンダーランド」はファンタジーが、「オトナ帝国」はノスタルジーがテーマである事が示されている。

「ケツだけ爆弾」の場合、爆弾が地球へ落下するシーンが描写されており、確かにこの爆弾が作品に大きな影響を与える事になるが、爆弾そのものは作品のテーマにはなりうる要素ではない。爆弾はあくまで作品のストーリーを動かす一要素に過ぎない。

さらに、本作品にはケツだけ星人がエンディングまで登場しない。「ケツだけ爆弾」のテーマはSFでもなければ、「ブタのヒヅメ」のようなスパイアクションでもない。宇宙人もスパイも登場しているが、それら非日常の要素は作品のテーマにはなっておらず、つまり「ケツだけ爆弾」は、非日常の要素がテーマになっていないのである。

それでは、何がテーマかといえば、一つには家族が挙げられる。シロに爆弾が装着され、そのシロの命を世界のために差し出すか、家族のために守るか、その葛藤と戦いが本作品の主要なストーリーを成している。家族としての野原一家は、テレビアニメでは当たり前のように存在しており、そのような日常の要素が、非日常の世界が舞台の劇場版における主要なテーマとして取り上げられているのである。

「ケツだけ爆弾」以外に、この家族を主要なテーマとして取り上げている作品に「ヤキニクロード」が挙げられる。「ヤキニクロード」は、タイトルの通り焼肉、その他に逃走劇も重要な要素であるが、焼肉に関しては冒頭と終盤、そして中盤に数回言及がある程度で、この作品における焼肉は、「ケツだけ爆弾」での爆弾に相当すると言える。

逃走もスウィートボーイズの基地に到着した時点で終焉を迎えていることから、主要なテーマだとは言い難い。「ヤキニクロード」の主要なテーマもまた、家族であると言えるが、「ケツだけ爆弾」ほど明確ではない(明確でない分、逃走も一つの大きなテーマになっているとも言える)。

さらに、その家族というテーマは、本作品でシロが主役級の働きをしていること、そして冒頭でシロが爆弾を見つけるシーンでますます明確なものとなる。そもそも、一番最初に爆弾を見つけたのはシロであり、それをしんのすけに見せて、一緒に遊び道具に使おうとしたことにより爆弾がシロに装着してしまったのである。

その前にシロは、嫌がるしんのすけを強引に遊び相手にしており、爆弾をしんのすけに見せる際、ナンパしているしんのすけの海パンを引っ張って、またしても強引に見つけさせている。こういった行動から、シロに爆弾がついてしまったのは、全てシロの責任であり、しんのすけに落ち度は一切無いものと考えられる(しんのすけはそれを円盤としておもちゃにしているが、シロもそれに賛同している)。

つまり、野原一家がシロを守るのは、シロに対する罪滅ぼしや後ろめたさに起因するものでは全くなく、純粋にシロを家族として想う心だけである。シロも家族の一員であるならば、野原一家がシロを守るか否かで、家族の絆の強さが試されると言って良い。

さて、そのシロの爆弾をロケットで飛ばすことで世界の危機を救おうするのが、ウンツィ(国際宇宙監視センター、Unidentified Nature Team Inspection)という政府組織である。ウンツィの果たそうとする任務は世界の平和を守る事、そしてそれは一匹の犬の犠牲を強いる場合もありうるのであるが、野原一家における家族の絆は措くとして、一匹の犬を死に追いやることで世界中の人間を救おうとする彼らの行為は、必ずしも悪と言い切れるものではない。

それどころか、彼らこそが善であり、本作品における正義の味方とさえ言えるのである。少なくとも、あくまで世界の平和を守るという大義から、彼らが本作品での善玉であるという認識を成立させる事は可能である。

しかし、ウンツィが善玉となれば、彼らと対立するしんのすけ、そして野原一家は必然的に悪玉となってしまう。主人公が悪という本末転倒な展開を避けるために、本作品ではウンツィと野原一家(しんのすけ)の対立だけでなく、他にも様々な要素が取り入れられている。

その一つが、ひなげし歌劇団の存在である。お駒夫人率いるひなげし歌劇団も、シロの爆弾を狙っているのであるが、その目的は(パンフレットによれば)爆弾を使って世界を脅し、自分達の舞台を世界中の人間に見てもらうことである。

劇中で、お駒の歌が何度か披露されており、そこでは全世界を跪かせるといった事が歌われている。この歌の内容から、彼女の目的は爆弾で世界を脅す事で、世界を自分の思い通りにする、つまり実質上世界征服と言って良い。つまり、ひなげし歌劇団の行動は、世界を自分のものにしたいというお駒の私利私欲によるもので、彼女らこそがウンツィと対立する、本作品における悪と言えるのである。

この二つの組織の関係は、「ブタのヒヅメ」におけるSMLとブタのヒヅメのそれを類似している。コンピュータウイルスの兵器を開発したブタのヒヅメは、それを使って世界中のコンピュータを操り世界制服を目論むが、そうはさせじと、SMLはブタのヒヅメとその兵器の取り合いを行う。

「ケツだけ爆弾」における、ウンツィのゴリラとカバ(パンフレットによれば、この二人の名前はカツヒコとみゆき)は、SMLの筋肉とお色気と同じような役割が与えられていると言える。ひなげし歌劇団の総長であるお駒は、自身が戦闘能力を有していない事からもマウスに、歌劇団の3人衆(うらら、くらら、さらら)はバレル、ママ、ブレードに相当するのかもしれない。

SMLの目的は世界平和で、たとえ悪人でも無意味に死に追いやることのない精神は、ウンツィにも存在している。それは、筋肉が「悪党だろうと見殺しには出来ない」という台詞が、ゴリラの「お前たちも来い!ロケットが点火したらお陀仏だぞ」と、ひなげし歌劇団にもロケットの発射場から退避するように言う台詞と同等であると思われる事からも言えるのである。

ただし「ブタのヒヅメ」では、しんのすけらはSMLの側についていたのに対して、「ケツだけ爆弾」では野原一家(当初はしんのすけのみ)がウンツィの側についていない。前述したように、シロを救うために、ウンツィとは対立関係になり、そしてひなげし歌劇団とも対立するのである。

野原一家は「ケツだけ爆弾」において、初めて善玉の勢力には立たなくなり、だからと言って悪玉の勢力にも立たず、善悪では割り切れない、中間のような立場に置かれるのである。つまり本作品は、善悪の二大勢力ではなく、劇しんでは初めての三つ巴という状態になっているのだが、ここで、これまでの劇場版作品において、野原一家が正義の味方を演じてきた真の理由が明確になるのである。

野原一家が悪と戦ってきたのは、世界の平和を守るためではなく、単に自分達の日常の生活を守るためなのである。日常の生活が守られれば、世界がどうなろうと全く構わないのが、彼らの考えなのである。

例えば「温泉わくわく」で、YUZAMEによって、不健康ランドでの拷問の後、山奥へうち捨てられた後、YUZAMEのロボットが春日部に向かっているにもかかわらず、野原一家はその春日部にある自宅へ戻る決意をする。これは、自分達の本来すべき事は、世界平和ではなく、自分達の日常を取り戻す事を見出したからに他ならない。

また、「オトナ帝国」では、ひろしの靴の匂いで、ひろしとみさえの洗脳が解けた後、ひろしは「俺たちは抜けさせてもらうぜ」と、元の日常の生活に戻る事をケンに告げているが、この台詞は裏を返すと、自分達の家族以外はどうでも(洗脳された状態でも)よいということになる。

そして、「雲黒斎」に至っては、ひろしが「ウチの一家にとっては世界平和なんてどうでもいいけど」とはっきり発言しているのである。

野原一家が善玉と悪玉の二大勢力の中で、これまで善玉の方に属していたのは、非日常から日常の生活に戻るという彼らの目的が、たまたま各作品における善玉と同じベクトルであっただけに過ぎないのであり、野原一家そのものは本来善でもなければ悪でもないのである。そして、非日常から日常へ戻るための行動のベクトルが悪へ向く場合もありうるのであり、そのベクトルが初めて善から外れたのが、この「ケツだけ爆弾」なのである。

本作品では、ウンツィという善玉と、ひなげし歌劇団という悪玉に追われ、善とも悪とも対立することで、本来は善でも悪でもない野原一家の行動の本質が浮き彫りになるのである。

ただし、ひろしとみさえは当初、ウンツィの側に、つまりこれまで通り善玉の勢力に属しており、家族の一員であるはずのシロを死に追いやる事の片棒を担ごうとする。この時のひろしとみさえの考えは、本来の野原一家のものとはかけ離れていると言える。これは、二人が社会的な常識や倫理といった付加価値を身につけている大人であることに理由がある。地球が爆発するという非常にあまりにも驚愕な事実を突きつけられたために、常識や倫理といったフィルターを通したことで、本来の野原一家の考えを歪めてしまったわけである。

これに対し、しんのすけはそのような大人としての規範が身についていない子供であるために、本来の野原一家としての考えを、いかなる状況でも維持する事が可能だったのである。もっとも、このような子供は悪い方向へ動くと、金色のカンタムロボに目がくらみ、簡単にシロを引き渡そうとしてしまったりする場合もある(対して大人のひろしとみさえは、ビール券やお米券を渡されても、シロをすぐに引き渡そうとはしない)のだが、良い方向へ動くと、ひろしとみさえを説得させ、本来の野原一家に戻す事が可能になるのである。つまり、アンデルセン童話で王様が裸である事を指摘したのも子供であるように、シロは即ち家族である事を指摘、説得が出来たのである。

このように、子供と大人は社会的な常識や倫理規範の有無から、対立が生じやすく(その対立を逆手にとって、面白おかしく描いたのが原作やテレビアニメでのクレしんである)、それを象徴的に示しているのが、時雨院が「爆弾はロケットで宇宙へ飛ばします」と告げた直後、ひろしとみさえが一瞬呆然とする一方、テレビからアクション仮面のBGMが流れているシーンである。

これは、シロの死を暗示したシーンにおいて、普段と変わらないテレビの音楽がここでのBGMとして機能しているわけで、非日常における真の脅威の中に、日常が存在するというシュールな描写がなされている。このシュールな描写は、前述した非日常を認識する大人としない子供の、対立しやすい関係を象徴しているのである。

このような対立が主要なテーマの一つとなっている作品が、「オトナ帝国」である。過去の懐かしさにしがみつく大人と、未来を生きようとする子供という構造がそこに存在していたわけだが、子供のしんのすけは、子供には分からない懐かしさよりも、日常や家族の絆の大切さを、ひろしの靴の匂いで訴えたのである。「ケツだけ爆弾」では、これまた子供には理解しきれない、社会的な常識や倫理よりも、やはり日常や家族の絆の大切さを訴えたのである。

逆に言えば、大人のひろしとみさえには、そのような常識や倫理規範が身についている分、純粋に家族を想う気持ちが、子供のしんのすけよりも劣っていたと言える。このような、「オトナ帝国」と「ケツだけ爆弾」での当初大人がとった行動の違いは、前者が洗脳なのに対して後者は説得によるものであるのだが、大人と子供の対立とその後の和解という本質的な部分では、同じであると言って良い。

そして、大人と子供の対立という状況において、しんのすけにとっての味方が、同い年のかすかべ防衛隊なのである。大人が頼りに出来なくなったために、同じ子供の力を借りて、危機を抜けようとするシチュエーションも、「オトナ帝国」と「ケツだけ爆弾」は同じである。

かすかべ防衛隊は、コンビニの駐車場で対策を考えるが、結局はボーちゃんの言う、「どこまでも逃げるしかない」という結論に到達せざるを得ない。このような日常へ戻るための具体的な解決策を見出せないところに、子供である事の限界が存在していると思われる。

大人であるウンツィの人間達はシロを犠牲にして、シロのいない「日常」を野原一家に勧める(強要する)わけだが、シロと共に過ごす非日常という子供の発想と、シロのいない「日常」という大人の発想という対立がここに見てとることが出来る。

そして、子供の発想というのは野原一家のは発想でもあり、後にひろしとみさえも大人から子供への考えに移るわけで、これら二つの考えは、本作品における器用さと不器用さの対象であるとも言え、この器用さと不器用さというのは、本作品における主要なテーマの一つである。

その不器用さの象徴である野原一家が本作品の悪にならないための措置が、一つには前述したようにひなげし歌劇団という明確な悪を登場させる事であり、二つ目にウンツィの時雨院長官の存在が挙げられる。時雨院は、時間を守ること、自ら立てた計画を完璧に遂行することを絶対としているが、それはもはや自己目的化しており、ウンツィの長官としての本来の任務である、世界の平和を守るよりも優先している事が、後に判明する。

それは、自分の信念と任務が重複していたために、彼も当初は善であったのだが、爆弾が外れたのに、シロとしんのすけとお駒をロケットから助けようとしないことである。この信念と任務という二つの側面が乖離し、善であったのが、時雨院の本来の目的である時間通りの計画遂行によって悪へと転換するのである、そして、この時間通りに計画を遂行するという、生真面目であり杓子定規でもある時雨院の存在そのものは、「ケツだけ爆弾」におけるアンチテーゼであり、そのアンチテーゼこそが器用さなのである。

ただし、このような悪の側面は、善の側にいた劇中の前半にも伏線としてか、にじみ出ているシーンがある。時雨院が野原一家の情報を手帳に記していき、「翌々日、12時0分0秒に爆弾を地球爆発圏外へと射出する」と隊員達に指示を出すと、笑みを浮かべるシーンがそうである。

この時点では、まだ爆弾を宇宙へ飛ばしたわけではないのだが、彼としてはもはや飛ばしたも同然になっていると思われる。それは、計画遂行が絶対である彼にとって、計画を立てたとは即ち計画を成し遂げた、つまり任務完了を意味するからである。時雨院の笑みは、地球の平和を守るために任務を全うしようとする公人としてではなく、計画を思い通りに進めようとする、エゴイズムに満ちた私人としての笑みなのである。

このように、自らの思い通りに完璧にこなす時雨院は、器用である事を具現化した人物だとも言える。そして、その器用さの反対に立つ、即ち不器用さの象徴さこそが日常の生活を送る野原一家なのである。

時雨院の笑みの後、沖縄のホテルのバルコニーから花火を見る野原一家のシーンに移り、彼らのミュージカルがそこで始まる。野原一家の歌うそのミュージカルの歌詞は、彼らのありのままの日常を歌い上げたものである(しんのすけの遅刻や、ダイエットに失敗するみさえなど)。そのような日常の生活を一言で表すならば、それはまさに歌の中にもあるグデグデなのである。

このグデグデという言葉のニュアンス、そして日常の生活の具体的な内容から、自分達が特に理想的な生活を送っているわけではない、まさに不器用を象徴したものである。逆に言えば、この不器用さこそが野原一家そのものの象徴でもあり、これと対極にある時雨院の存在とその器用さは、本作品ひいてはクレヨンしんちゃんという作品そのものにおけるアンチテーゼの象徴なのである。

しかし、そのような日常は、シロに爆弾が装着してしまったために破壊され、非日常に巻き込まれたしんのすけは、シロを守るために、そのような不器用を放棄することとなる。雨の中、しんのすけは涙を流しながら、桜の木の下をシロと共に必死に逃げる描写が出てくるが、ここで描かれる桜は、その時のしんのすけとシロを表したものであろう。

即ち、(その前のボーちゃんの逃げるしかないという台詞から)ただひたすら逃げる以外に、何の解決策も見出せない絶望、そして悲しみの中、シロと共に必死に生きようとするしんのすけの崇高さ、悲愴美をしんのすけとシロに重ねて描いていると思われる。

その桜の木々は花びらが散っており、木から離れた花びらは、雨の夜の中、暗く冷たい地へと落ちてゆく。しんのすけを桜の木に例えるとしたら、シロはまさに桜の花びらなのである。つまり、シロがいつ暗い闇へと落ちてゆくか分からない状況の中、しんのすけは必死に落ちるのを引きとめようとするのである。

このような悲惨さを謳い上げた美は、普段の日常の生活に見られるものではない、一つの器用さを象徴したものなのである。その後、しんのすけとシロは橋の下に逃げ込み、しんのすけはポケットの中からちんすこうを見つける。

このちんすこうは、沖縄の空港でポケットにこっそりしまいこんだもので、不器用さの象徴だと言えるが、もはや器用さのそれに転換している。しんのすけはそのちんすこうを二つにして、半分をシロに渡し、本人はそれをしゃぶるだけでなかなか食べようとしない。

これは、貴重な食糧をすぐに食べてしまわないためであるのだろうが、この後のシロの回想とは全くの対極をなしている。そのシロの回想とは、しんのすけがシロにソーセージを2本持ってくるものの、両方ともしんのすけが食べてしまうというものである。

この回想では、2本あるのにしんのすけはシロに分けることはなく、しかもそれぞれ一口で食べてしまう。それに対し、その時の状況では、1本しか無いちんすこうの半分をシロに分けて、しかもしんのすけはしゃぶるだけである。つまり、シロの回想は日常における不器用さを描いたものであり、ちんすこうの方は非日常における器用さを描いたものであると言える。

シロは回想での日常におけるしんのすけの不器用さに一瞬憤慨し、次にフリスビーをシロが持ってくる間、しんのすけはきれいなおねいさんのカバンに食いついているという別の回想をし、日常のしんのすけの不器用さにあきれ返る。そして、次にシロは犬小屋で自分としんのすけが寝ている事を回想し、ここで日常の尊さを見出すのである。つまり、たとえ不器用さによって不愉快な事がしばしば起きていたとしても、日常はそれ自体が幸福である事を土台にして成り立っていたという事を認識したのである。

そしてシロは、ソーセージの時とは違い、ちんすこうを半分も分けてもらったのであるが、そのようなささやかな幸福を得た背景には、もはや日常におけるあまりにも大きな幸福を代償として失ってしまっているのである。そのような非日常におけるささやかな幸福の土台にあるもの、それは何の希望も見出す事も出来ない絶望であり、不幸以外の何者でもない。

ささやかな不幸が存在する日常という幸福から、ささやかな幸福が存在する非日常という不幸という状況に置かれてしまい、そして二度と幸福な日常には戻れないというその状況に対するシロの心情こそが、回想の直後に流した涙である。

遂に、しんのすけは体力の限界から眠りにつき、シロはウンツィに見つかってしまい、彼らに向かって吠えることでささやかな抵抗を試みるものの、結局は観念して自ら捕まりに行く。先ほどの桜に例えるならば、花びらが自ら木から落ちていったのである。

この時シロは、自分一匹になっても逃げようとはせず、もはや逃げるのをあきらめたのである。シロは、日常の尊さを認識したからこそ、その日常を、そして自らの生を放棄する事を選んだのである。これ以上、自分だけで逃げようとしても、結局はしんのすけと別れてしまう。同じ別れであるならば、自分から捕まる方がまだ世界のためになる。

そもそも爆弾を見つけ、それをしんのすけにも見つけさせたのは、つまり野原一家の日常を破壊する原因を作ったのは、他ならぬシロである。自分でまいた種は、自分で解決しなければならず、それは命という代償を支払う以外に無いのだと認識したのだと思われる。

シロがウンツィに捕まる時、しんのすけに向けて流した涙は、シロの様々な感情が込められている。

しんのすけとの別れの悲しさ、死への恐怖、自らが野原家の日常を壊し、世界中の人々に脅威を与えてしまっているという自責の念、そして何よりも、不器用ながらも日常の中で築かれていた、自分としんのすけのかけがえのない絆、それを失った事を知った時の、しんのすけが受けるであろう悲しみを想像する耐え難さである。

自らが死に、自らが野原一家と別れる。それはまだ耐えられるであろう。自分は、もはやこの世からいなくなるのだから。しかし、この世に残された、自分とはあまりにも深い絆で結ばれた他者を悲しませるのは、何よりも耐え難い事ではないか。

他者であるからこそ、その悲しみを自分が身代わりになって受ける事は絶対に不可能なのである。そしてそれこそが、シロが自ら捕まる際に、最も悲しんだ事ではないだろうか。

こうして、数多の涙を心に刻んで、自らあらゆる希望を捨て、シロは自分からウンツィに捕まったのである。

しかし、そのようなシロの数々の悲しみを、しんのすけが自ら自ら身代わりになって受ける事もまた、絶対に不可能である。あらゆる希望を捨てたシロは、もはや精神的な面においては生きる屍と化しており、ロケットの中での(「シロくんありがとう」と書かれたドッグフードの直後の)シロは、もはや表情が分からない姿からでもその事が窺える。

シロがそのような生きる屍となるまでに受けた悲しみに対して、絶対に身代わりになれないからこそ、しんのすけはシロを助けようとひろしとみさえに訴える。シロはかけがえのない野原家の一員、しんのすけとは計り知れない深い絆で結ばれている。だからこそ、決してしんのすけが受けられないであろうほどの悲しい思いさせられているシロを、放っておいてはならないのである。

自分が悲しみを背負うのはまだ耐えられるが、かけがえのない絆で結ばれた他者に背負わせる事は、絶対にあってはならない。しんのすけにとって、その他者とはひろしであり、みさえであり、ひまわりであり、そしてシロなのである。

このようなしんのすけの思いが伝わったことで、ひろしとみさえは「器用である大人」から「不器用である野原一家」に戻り、シロを助ける決意をする。それはまさに、ひろしとみさえの持つ、家族への想いが、大人としての社会的な常識や倫理に勝利した瞬間なのである。

なぜ、自分達は日常の生活を守ってきたのか。それは世界平和のためなどではなく、他ならぬ家族が共に暮らしていけるようにするためである。大人としての常識や倫理から言えば、シロを引き渡す事が正解なのであるが、本来の野原一家からすれば、家族を引き離すという事は、決してあってはならないのである。

地球が爆発するという、事の重大さから、ひろしとみさえは本来なすべき事を見失っていたのだが、しんのすけの説得で初めて何をなすべきかに気付いたのである。まさに、アンデルセン童話で、子供の指摘によって初めて、大人達は王様が裸である事に気付いたがごとく。それは、しんのすけに靴を差し出したみさえが「いま、できること、すべてをやりきるのが私たちらしいと思う」という台詞で示されている。

さて、シロを助けようと奔走する野原一家だが、ひなげし歌劇団の乱入により、再び三つ巴の状態となる。ひなげし歌劇団は、世界征服を願うお駒の私利私欲から動いていることから、この時点でもやはり悪である。

一方、ウンツィは世界の平和を守るという大義が存在している以上、こちらはやはり善である。そして、野原一家はその善悪の間に存在している、ただ家族を守るという当たり前の感情にしたがっているわけなのだが、この関係はやがて変化し始めるのである。つまり、本作品における悪の立場が、ひなげし歌劇団からウンツィの時雨院長官に移ったことである。

ロケットの中で再会を果たしたしんのすけとシロは、爆弾を手に入れるべくロケットに入ってきたお駒と追いかけっこをして、爆弾が偶然にも外れる。しかし、その時ロケットのドアは既に閉まっており、時雨院は開けて、彼らを助ける気は全く無い(そもそも中にいる事が分かっていて、ドアを閉めている)。

ここに、世界平和を守るという大義は一切無く、あるのは単に自分の立てた、12時ちょうどに爆弾を乗せたロケットを発射するという計画を何が何でも実行したいからという、単に彼個人のエゴ、私利私欲のみのためである。家族を守るという、人間とした当然の感情で動く野原一家とは別の倫理を投げ捨て、自分のエゴを優先させることで、時雨院はウンツィという組織から離れ、一人だけ善から悪へと移行したのである。

時雨院が善から悪へ転化する伏線は、それ以前にも(前述した「翌々日、12時0分0秒に爆弾を地球爆発圏外へと射出する」と隊員達に指示を出し、笑みを浮かべるシーンのように)存在したが、それまでは自分のエゴと世界平和を守るための行動が一致していたからに過ぎず、この二つにズレが生じると、彼はエゴを選ぶことで悪へと移り、それは「私の計画を邪魔する者は、誰であろうと許さない」、「計画の変更はしねえよ」などといった台詞からでもそれが示されている。

一方、これまで悪であったひなげし歌劇団、というよりお駒はロケットから出たい、死にたくないという、人間として当たり前の感情に従うだけの、(善でも悪でもない)野原一家と同じ立場に移るようになる。しかし、シロから爆弾が外れた以上、倫理的な側面でも時雨院(ウンツィ)がシロを助けるのはもはや当然という事になり、ここで野原一家は本当の意味で、初めて本作品における善へと移ったことになる。

組織としてのウンツィ(個人としてはゴリラとカバら隊員達)は、しんのすけがロケットに乗っている事を案じつつも、悪と化した長官の存在からどうにもならない、善悪の間で戸惑う中間のような存在、つまりシロに爆弾が付いていた時の野原一家と似た存在である。それは、お駒の行方を案じるようになるひなげし歌劇団も同様であろう。

さて、しんのすけとシロは爆弾が外れてからというもの、悲観することは全くなくなり、それどころかロケットが打ち上がってしまうという事の重大さの認識さえしていない。これは、金色のカンタムに簡単につられたり、アクション仮面を観ていて、シロの爆弾についての認識が遅れたのと同様、子供としての危うさを描いたものである。子供としての存在というのは、大人(ひろしとみさえ)に王様は裸(シロは家族)だと指摘して、説得する場合もあるが、そのベクトルが異なれば、このような危うさにも遭遇しかねないのである。

しかし、いかなる状況にも動じないという、マイペースなしんのすけ本来の姿に戻っているのもまた事実である。これは、しんのすけとシロがもはや日常に戻ったも同然である事を示しているとも言える。そして、シロのオシッコで発射したロケットのドアが開き、しんのすけらはロケットから出され、空中を落下するが、その際にしんのすけとシロはお駒のパラシュートにちゃっかり捕まり、生還を果たすのである。

この時のしんのすけはマイペースで、悪運が強く、厚かましい(お駒のパラシュートに捕まる)ことから、本来の日常姿そのものであるのは前述した通りである。これは、野原しんのすけが本来いかなるキャラクターであり、その本来の姿で、非日常から日常への生還を果たしているかを示している。

例えば、「オトナ帝国」での階段を必死に駆け上がるといった、普段では見られない側面は、「ケツだけ爆弾」では中盤(桜の木の下を走るシーン)で、あくまでも作品の一部分に留めており、このラストのクライマックスのシーンでは、普段の全くのありのままの姿でいることで、野原しんのすけというキャラクター、ひいてはクレヨンしんちゃんという作品の本質を最も重視しているのである。

それは極めてマイペースな主人公と、その不器用な日常というものである。そして、その不器用な日常に戻る事の賛美歌となっているのが、パラシュートで地表に降りていく際に流れる、グデグデの歌(パンフレットによれば、「野原一家愛のテーマ『グデグデ・Good Day』」)なのである。

こうして、野原一家は無事に再び全員揃うのだが、この時点ではまだ善だけでなく悪も勝利したことになっている。それは、爆弾を時間通りにロケットで飛ばすという時雨院の計画がうまくいったためである。しかし、時雨院はひろしに殴られ、「計画通りいかないから人生なんだ」と、善の側の言い分を聞かされ、その直後ウンチを漏らしてしまったことで、このひろしの台詞を、身をもって知ることになる。

このウンチのお漏らしは、ひろしが時雨院のシャンパンに下剤を入れてしまった事が原因であるのだが、ひろしは下剤を入れる意図は全く無く、その時は時雨院の手帳を奪うのが目的であった。そのひろしの「計画」(時雨院に言わせれば「実現性の低い思いつき」)は見事にうまくいかず、その代わり時雨院にウンチをもらさせている。

つまり、ひろしは時雨院に計画通りに行かない事を教えるという目的を、計画通りにいっていない手段で教えた、即ち目的と手段が、「計画はうまくいかない」という点で全く一致しているのである。

この目的と手段が一致したひろしの行動により、時雨院はウンチを漏らすという、おそらく初めて計画通りにいかないという経験を果たしてしまったのである。時雨院が悪であった根拠は、計画通りに生きるという事であり、その悪を成していた根拠が打ち砕かれたことから、まさに悪が敗北したわけである。

ここで、本当の意味で非日常は終わりを告げるのである。また、ひなげし歌劇団を悪とたらしめていたのは爆弾であり、爆弾を手にすることもなく失った以上、こちらの悪も敗北したと言える(もっとも、お駒がロケットに閉じ込められた時点で、既に悪は消滅していたと言えるが、この時点では爆弾がまだ存在していたことから、厳密には悪の敗北というわけではない。少なくとも、悪の敗北とみなすには根拠が脆弱であろう)。このような、二つの悪の敗北から、本作品では二重の意味で悪に対する勝利があったのである。

その後、野原一家はこれまでの作品通り、日常の生活を再び送るのであるが、本作品が今までの作品と異なるのは、非日常の要素を全く引きずっていない点である。

例えば、「ハイグレ魔王」ではアクション仮面から変身セットが送られ、「ブリブリ王国」ではひろしとみさえが旅行での写真を眺め、しんのすけはシロに旅行での事を話す。「戦国大合戦」では野原一家と廉姫が又兵衛の雲を眺め、「3分ポッキリ」では非日常の間にたまっていたゴミを、みさえが慌てて捨てる、などといったシーンである。「ケツだけ爆弾」には、そのような非日常を思わせるものが一切登場しないのである。

これは、今までの作品では、例えば「ヘンダーランド」ではファンタジー、「ブタのヒヅメ」ではスパイアクション、「オトナ帝国」ではノスタルジーが各作品のテーマであるのに対して、「ケツだけ爆弾」は家族の生き方や日常の生活を生きる事についてといった、あくまで日常の要素になっているのである。これまでの作品は、日常が非日常に従属していたのに対して、「ケツだけ爆弾」は非日常が日常に従属しているのである。

なお、そのような意味では、「ヤキニクロード」も「ケツだけ爆弾」と類似しているのである。エンディング後にラストで、焼肉にありつくという日常を描いている事からも言える。このシーンでも、非日常の要素は全く登場していない。焼肉はあくまでも、日常の側についている要素なのである。

ストーリー上の視点から言えば、「ケツだけ爆弾」での日常を描いたラストシーンでは、冒頭のケツだけ星人を登場させても良いのであろうが、あえてエンディングの中で、台詞の無い、ストーリー上納得がいくための必要最小限の形に留めている。ケツだけ星人という非日常の要素よりも優先させたのが、日常とは、家族とはといったテーマなのである。

それらを強調しようとする意図は、エンディングのラストで、野原一家全員を映している点からも明らかであろう。また、前述した、クライマックスでのしんのすけの様子からもその事が窺える。

その野原一家が、本作品のみならず、これまで15年に亘る作品において、守ろうとしたものは何であったのか。それは、これまで何度も書いたように、日常の生活であり、それを象徴しているのがエンディングのラストのシーンで書かれている、Good dayなのである。

野原一家は、決して理想の家族などではない。沖縄旅行で、しんのすけばかりか、みさえまでもがひろしの勤続15年の勤続を反則と言い間違えるシーンがあり、みさえはその前に、ひろしのアプローチに関わらず他の男に見とれている。ひろしもまた、劇中ではウンツィの女性隊員に鼻の下を伸ばし、みさえに殴られているが、このようにひろしが他の女性に関心を示し、みさえに制裁を受けるというのは、原作やテレビアニメでは昔からの定番である。

沖縄からの帰りの(おそらく行きも)飛行機では、シロをぬいぐるみとして機内に入れている。いみじくも時雨院が指摘したように、規則を平気で破っているのである。また、時雨院が「近頃の親御さんは子供一人の説得も出来ないのですか」と言っているように、家族全員が常に一致団結できるわけではない。橋の下でのシロの回想にあったように、しんのすけはシロにソーセージを渡さず自分だけで食べてしまっている。

しんのすけとシロがパラシュートで地表へ近づく際には、ひろしとみさえは走ってしんのすけを追いかけるが、その途中でひろしは転んでしまい、受け止める時も、服の背中の部分が破けてしまうほどに転んでしまっている。そもそも、ひろしとみさえはしんのすけらの乗ったロケットの発射を、時雨院から止めることが出来なかったのである。しんのすけとシロが無事に生還できたのは、彼らの悪運の強さと要領の良さによるもので、ひろしとみさえの家族愛によるものではない。

このように、野原一家が理想に程遠い事を示す例は枚挙に暇が無く、まさに不器用な一家なのである(だから、善悪はともかく、「器用な」時雨院から子供一人の説得も出来ないのか、あるいは(ひろしを)計画性の無いヤツといった台詞で、その不器用さが指摘されている)。その不器用さこそがGood dayとひっかけたグデグデなのであるが、その不器用な日常の生活そのものが幸福なのである。

たとえ理想でなくても、野原一家は幸福で明るい日常の生活を送っているのである。そのような、幸福で明るい生活を象徴するのがGood day(英語の挨拶の一つ)である。

つまり、エンディングのラストに書かれたGood dayとは、不器用(グデグデ)であるけれど、幸福(Good day)でもあるという日常の生活が集約されているのであり、野原一家はこのために、今まで映画の世界で戦ってきたのである。決して世界平和という崇高なものなどではなく、あくまで日常の生活を守るためだけなのである。

そして、劇場版では初めてシロを主役にして、それを最大のテーマとして掲げた作品こそが、この映画15周年記念作の「ケツだけ爆弾」である。

野原一家がこれまで悪と戦ってきた真の理由に焦点を当てた本作品で、映画15周年という節目を迎えた劇しんは、一つの到達点に達したのである。





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