嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ





水島監督の第1作「ヤキニクロード」は、ギャグを優先したために、ストーリーや人物描写が粗雑となっており、その反動からか、第2作「カスカベボーイズ」は全くその反対となっています。

これまでの本郷監督や原監督の時も、作品ごとに一つ一つ違った特徴が表れていましたが、同じ監督で二つの全くタイプの違う作品が連続して製作されるのは例のない事です。

そして、二つの全く正反対の作品によって、その監督の特徴がより多く側面から見られ、そのため水島監督の作品はわずか2つであるとしても、強く印象を残すものであると言えます。ただし、全く正反対であっても、同じ監督であるため、両作品には共通する点も見出すことができます。

「ヤキニクロード」はプレタイトルのシーンがなく、いきなりオープニングから始まっているのに対し、「カスカベボーイズ」ではプレタイトルのシーンは復活していますが、「カスカベボーイズ」のタイトルが表示されるのはオープニングの前ではなく後であり、これは「ヤキニクロード」と同じです。

そして、オープニング後にタイトルが表示されるのは、この2作、つまり水島監督の作品のみで、水島監督の、他の劇しんの作品と自分の作品を区別しようという意欲が垣間見られます。また、「カスカベボーイズ」のオープニングテーマが、その時のテレビアニメのそれ(当時は華原朋美の「PLEASURE」)が使用される慣例を捨て、「オラはにんきもの」を使用している事からも、同様の事が言えます。

ただし、「オラはにんきもの」が「現役」でテレビアニメの主題歌に使用されていた当時は、クレしんの全盛期であり(劇場版は「ハイグレ魔王」、「ブリブリ王国」、「雲黒斎」)、タイトルに「嵐を呼ぶ」が使用されているのと同様に、縁起担ぎの意味が含まれているのかもしれません。

さて、プレタイトルのシーンでは、かすかべ防衛隊の5人のみが登場していますが、しんちゃん以外の4人が登場するのは初めてのことです。ここから、「カスカベボーイズ」がどういう作品なのかが予想できます。つまり、本作品ではかすかべ防衛隊の活躍がメインであり、これもまた劇しん史上初の事です。

これまで劇しんにおいて、かすかべ防衛隊はチョイ役でしか登場していないことが多く、「ブタのヒヅメ」や「ジャングル」等の様に、大きな活躍を見せる作品でも、クライマックスでは脇に追いやられていました。これは、劇しんが家族や正義といったテーマを重視してきたために、友情をどうしてもそれらより軽視せざるを得なかったからだと言えます。

しかし、「カスカベボーイズ」はクライマックスにかすかべ防衛隊の活躍があり、これもまた水島監督が今までに無い要素を取り入れることで、自分の作品をアピールしようとした例であると考えられます。

さて、そのプレタイトルのシーンでは、かすかべ防衛隊はリアル鬼ごっこなる遊びをしており、カスカベ座にやって来るという点以外では、ストーリーとなんら関係も無いかに見えますが、マサオ君がしんちゃんに「覚悟しろや、オニギリ!」と言われるシーンは、後にネネちゃんがマサオ君を「焼きオニギリ」と言うシーンの伏線であると言えなくもないです(この時のマサオ君の姿をしんちゃんが見て、かすかべ防衛隊の決め台詞を思い出す)。

オープニング後、5人はカスカベ座にやって来て、しんちゃん以外の4人は中に入るのをためらいますが、しんちゃんの「かすかべ防衛隊ファイヤー!」という決め台詞によって、渋々ながら中に入ります。これは、後のマイクの推理に当てはめてみれば、途中までで止まっている映画を終わらせるために、救出に向かう5人の姿として見ることが出来ます。

さて、このカスカベ座で、しんちゃん以外の4人は映画の世界に引き込まれてしまいます。しんちゃんだけはトイレに行っていたため、一度は助かりますが、無論これは野原一家も映画の世界に連れて行くための役割を背負っているからです。

わざわざ野原一家も映画の世界へ引き込むのは、当然野原一家の見せ場も登場させるためです。さすがに、かすかべ防衛隊の活躍がメインである本作品においても、野原一家の見せ場を無くしてしまうほどの「暴挙」には出られなかったと考えられます。

映画の世界に入り込んでしまった野原一家が、荒野をうろつく中で、ジャスティスロボや鉄道を発見するシーンは、「雲黒斎」や「ブリブリ王国」を思い起こさせ(ジャスティスロボを見て、みさえは「やだ、SFって嫌いよ」と言うが、「雲黒斎」でも同様の事を言っており、「ブリブリ王国」でも野原一家が鉄道を発見するシーンがある)、過去の作品に対するオマージュと受け取れます。

そして、このようなオマージュは、タイトルの「嵐を呼ぶ」やオープニングテーマが「オラはにんきもの」であるのと同様に、一種の縁起担ぎと言えなくもないです。

さて、野原一家はジャスティスシティという街にたどり着き、その街の酒場で風間君と再会します。しかし、シェリフ(保安官)となっていた彼は春日部にいた頃の記憶を失っており(実は失っていたフリをしていた事が後で判明するが)、しんちゃんを殴ります。

風間君がしんちゃんと喧嘩する話はテレビアニメにもありますが(「風間君とケンカだゾ」(1994年10月24日放送))、「カスカベボーイズ」のこのシーンは、風間君がしんちゃんを一方的であり、しかもこれほどシリアスに描いている例は過去にありません。

本作品のテーマは友情でありますが、それが完全に崩壊しており、何としてでも修復しなければならないことを示しています。「ヤキニクロード」でも友情の崩壊は描かれていますが、こちらは単に密告しただけであり(密告もとんでもない事ではあるが)、直接手を下したわけではないことから、「カスカベボーイズ」の方がより深刻であると言えます。

しかし、逆に言えば、より深刻であるからこそ、「カスカベボーイズ」のテーマである友情がより一層強調されるわけでもあります。さて、酒場から逃げ、追っ手からも逃れた野原一家は、つばきやマイクらの出会いから、ジャスティスシティについて詳しく知るようになります。

そして、春日部での記憶を無くさないように努め、帰る方法を考えつつジャスティスシティでの日常を過ごすことになります。この場合の日常とは、あくまで非日常の中の日常です。そして、この後のジャスティスらとの戦いが非日常である事から、「カスカベボーイズ」は構造上、「戦国大合戦」と同じであると言えます。

つまり、一見すると日常→非日常→日常という展開ではあるものの、映画の世界の中にいる非日常の部分は、さらに日常と非日常に分けることが出来ます。つまり、ジャスティスシティで暮らす日常と、ジャスティスらと戦う非日常とにです。さらに、「戦国大合戦」との共通点はこれだけにとどまりません。

「カスカベボーイズ」には強いおねいさんが登場しませんが、代わりにつばきという女の子が登場します。彼女は、強くはなく守られるべきおねいさんという点で、「戦国大合戦」の廉姫と同じです。そして、「カスカベボーイズ」で又兵衛に当たるのがしんちゃんなのです。

つまり、「カスカベボーイズ」は春日部の住人達がどうやって元の世界に帰るのかを縦糸に、しんちゃんとつばきの恋愛を横糸として織りなされており、これもまた「戦国大合戦」と同じ構造です。

さて、映画の世界の中にあるジャスティスシティという街は、ジャスティスという知事が不正義と戦い理想のパラダイスを創るという名目で、春日部から来た外部の人間達に強制労働をさせるという、言わば専制政治を敷いています。

このジャスティスは、これまでの劇しんの敵の中では「ジャングル」のパラダイキングに最も近いと言えます。どちらも肉体的なカリスマ性を持ち、また大勢の部下(パラダイスキングの部下はサルだが)を率いて、外部からの人間達に強制労働を課すという点も同じです。

また、後にジャスティスは風間君にシェリフをやらせていた理由に、退屈しのぎだと答えていますが、これは「ジャングル」でパラダイスキングが王様は退屈しているんだという台詞にリンクします。つまり、両者とも暇をもてあましているという点も同じなのです。

そして、劇中でのしんちゃんのナレーションで、ジャスティスシティの住人は、映画の登場人物達と春日部から来た人々がいることが分かりますが、映画の中の登場人物達は、「ジャングル」ではパラダイスキング(ジャスティス)とサルに当たります。

ただし、「カスカベボーイズ」の場合、映画の世界の住人の中にも、オケガワのようなアンチジャスティスの人間はおり、またつばきのように、ジャスティスの側にいつつも、野原一家など春日部から来た人々を手助けする、どっちつかずの人間もいます。

つまり、「カスカベボーイズ」の人物関係は「ジャングル」よりも複雑であり、逆に言えば、「ジャングル」がそれだけ簡略化されている証拠でもあります。

そして、「ジャングル」に比べ、「カスカベボーイズ」の何よりも恐ろしいところは、春日部から来た人々は元の世界の記憶を失くしていき、しかもそれが苦にならなくなるという事です。しかも、前に取り上げたしんちゃんのナレーションによれば、うれしい事があると一層忘れやすくなります。つまり、元の世界、つまり春日部に帰る気を持ち続けるためには、うれしい事や楽しい事はあってはならず、辛い目、苦しい目にあい続けなければならないわけです。

さて、ジャスティスシティでみさえが当初就いた仕事が、この事について非常に興味深い例を提示しています。その仕事というのは酒場での歌手であり、マリリン・モンローばりの格好で客を魅了します(と、あくまで本人だけがそう思っている)。みさえはこの仕事が好きだと明言しており、客の間で人気がある(と、あくまで本人だけがそう思っている)ので非常に充実した生活になっているように見えます。

そして、ある日ジャスティスに自分の屋敷で歌ってもらえないかと依頼を受けます。「これをきっかけに街一番の人気者になっちゃうかも」とみさえは言いますが、もし本当に(絶対にありえない事ではあるが)街一番の人気者になっていたら、みさえは春日部に帰る気を失い、野原一家という家族は崩壊していたかもしれません。

そして、みさえが歌っていた歌詞の内容が、さも春日部にいた頃を忘れさせるような内容であったり、みさえがしんちゃんに対して「子供がいるなんて分かったら人気ガタ落ちじゃない」と言っていたり、まさに家族の崩壊を暗示しており、さらにこの時のひまわりがしんちゃんを忘れてしまっているのは、その事が具体的に表れていると言えます。

しかし、みさえがジャスティスの屋敷で演奏するものの、それはジャスティスの罠であり、それに対し立ち向かうしんちゃんが鞭打たれ、みさえが「幼児虐待で訴えてやる」と言うシーンは、家族が復活したことを示すという、ある意味皮肉な結果を生んでいると言えます、そして、この事件によって、みさえは自分の人気が全く無かった事を自覚し、春日部に帰る気を失わずに済んだとも言えます(しんちゃんがジャスティスの屋敷で、「絶対、春日部に帰る!」と言い、みさえがそれに同意するシーンからも明らか)。

やがて、春日部に帰るためには映画を終わらせなければならないという結論が、ひろしとマイクによって出されます。そして、そのためにはオケガワが非常に重要な存在となってきます。オケガワは怪しげな研究を繰り返し、そのために保安隊によって毎日馬に引きずり回されていました。

そして、皮肉にもそれは、時間が止まった映画の世界においてはカレンダー代わりとなっていました。別の視点から見れば、時間が止まっているからこそ、彼は自分が本当にやらねばならない事が何か、分からなかったわけです。

そして、彼がジャスティスを倒すために研究していたのだと、自らの役割を自覚した時、太陽が動き出します。つまり、この映画の世界の太陽もまた、オケガワによって自分が何をなすべきかを思い出したというわけです。

そして、(しんちゃんがぶりぶりざえもんを描けたり、マイクが自分の職業(レンタルビデオ屋の店長)を思い出したりと)春日部から来た人々の記憶が戻り始め、自分達のすべき事を自覚し始めます。この映画の世界では、太陽が動くのと動かないのでははっきりとした違いが分かります。

太陽が動いていない時は、春日部にいた頃の記憶を失っていきますが、それは「忘れる」ということが、この映画の世界の中で存在していくための条件だと言えるからです(だからこそ、前述したように、うれしい事があると、つまり映画の中の世界が心地良いと感じると、記憶を失いやすくなる)。

しかし、太陽が動き出したことにより、今度は自分たちが本来どういう存在なのかを「思い出す」ことが条件となる方向へと動き始めます。ボーちゃんが「ここは太陽も動くのを忘れた土地」と言うシーンがありますが、太陽自身も自分が今までどういう存在なのか、何をすべきなのかを忘れていたのであり、オケガワによって思い出したと言えるのです。

つまり、映画を終わらせるためには、自分の役割をオケガワに押し付けて(つまりカレンダー代わりにして)いてはならないと、はっきり自覚したわけです。しかし、この時点では、まだ誰もが自分達がどういう存在であるのかを思い出したわけではありません。

例えばそれは、風間君がこの時点ではまだシェリフであることからも分かります。しかし、春日部からの人々に捕らえられた時、しんちゃんによって、実は春日部での記憶があるのにシェリフをやっていた、つまり自分の本来あるべき存在から目を背けていた事が分かります(ちなみに、劇中でしんちゃんに耳をはみはみされて、「僕の・・・いや、俺様の耳をはみはみするなー!」と怒るシーンがあり、これは、最初に自分のことを「僕」と言っていることから、うっかり春日部の風間トオルとしての自分を露わにしてしまっていると言える)。

さて、風間君にも無理やりオケガワのパンツをはかせ、かすかべ防衛隊の5人が揃いますが、この時点ではしんちゃんとボーちゃん以外の3人はまだ自分の役割を見出せておらず(ネネちゃんとマサオ君も非常に消極的)、パンツの力が出せずにいます。つまり、かすかべ防衛隊の友情はまだ崩壊したままなのです。

春日部の住人達が自分たちの本来の存在を思い出し、自覚することは、ジャスティスらの戦いへと必然的につながり、ここで非日常の日常から非日常へ移っていきます。そして、つばきの言葉に従い、封印された場所へ行くことになります。その途中で風間君が汽車から落ちて、ジャスティスの部下に轢き殺されそうになりますが、間一髪でしんちゃんに救われます。

そして、ネネちゃん、マサオ君、ボーちゃんも駆けつけ、ここで5人が何をなすべきか、その意思が一致することになります。特に風間君の場合、自分の本来あるべきところだと思っていたシェリフとしての地位はあっさり否定され(「保安官ごっこは楽しかったか、ボク?」とジャスティスに言われる)、一方でしんちゃんが必死で助けたという両者のギャップの大きさから、他の4人よりも心の変化が大きかったと見られます。

さて、変身した5人は、ジャスティスの部下を次々と倒していき、ジャスティスを一時退けけます。その後、しんちゃんはつばきに自分の彼女に対する思いを告白します。

「カスカベボーイズ」が、春日部から来た人々がどうやって元の世界に帰るのかを縦糸に、しんちゃんとつばきの恋愛を横糸として織りなされている事は前述しましたが、この告白はしんちゃんが縦糸の部分において何をなすべきかを自覚するのと同様に、横糸の部分においても自分のあるべき姿を見出したと言えるシーンです。

しんちゃんは、自分は女子高生以上にしか興味が無いと言って、つばきに惚れていない事をボーちゃんに言うシーンがありますが、この(時間が止まっている)時点では、まだシェリフだった風間君と同様、自分の本来の心の動きに目を背けてきたわけです。そして、この告白でようやく横糸の部分も進展してきたということを示しています(しんちゃんがつばきのことが好きだとはっきり自覚しているのは、つばきがジャスティスに捕まった時に「こらー、恋人ドロボー!」と叫ぶシーンからでも明白)。

そして、つばきもまた自分の役割をはっきり自覚してこなかった一人だと言えます。彼女は、自分が春日部からの人間なのか映画の登場人物なのかも忘れており、前述したように、ジャスティスに仕え、その一方でジャスティスニ歯向かいやられてしまった人々にも手を差し伸べたりと、ジャスティスの側なのか、アンチジャスティスなのか、どっちつかずの微妙な立場にいます。

本人の態度もはっきりせす、鞭に打たれたしんちゃんを手当てする時、「私、臆病だから」と言うシーンは、本人も自分がどっちにつくべきか分からないことを示しています。そして、しんちゃん達を封印された場所へ先導するのは、彼女の心がアンチジャスティスの方へ向かい始めた兆しであると見られますが、まだはっきりとしたものではありません。

そして、ジャスティスロボに乗ったジャスティスに、封印された場所には何も無いと言うように迫られます。ここで、つばきはいよいよ自分の役割を自覚する時がやってきたのです。結果、彼女はアンチジャスティスの立場を選択する事になります。

それは、アンチジャスティスとしての役割を自分も背負っていることを見出したのであり、初めてジャスティスに真っ向から逆らうことになったのです(この時の、自分の役割に対する彼女の意志は、この後ジャスティスによって死んでしまってもかまわないくらい、強固なものになっている。ただし、強固な意志とは別に、しんちゃんが自分を助けてくれるという、しんちゃんに対する絶対的な信頼感があったとも考えられる)。

さて、カスカベボーイズの変身により、かすかべ防衛隊の友情は完全に復活したかと言うと、否だと言わざるをえません。というのは、最初の変身ではまだすべての力を出しきっていないからで、5人の合言葉(「かすかべ防衛隊ファイヤー!」)を思い出すことで完全に修復されたのであって、合言葉を忘れている限りでは修復は無理だったわけです。

逆に言えば、合言葉を忘れてしまうほど、時間の止まっていた映画の世界での「傷跡」は大きいと言えます。そして、その「傷跡」の大きさをより明確にしていているのがジャスティスなのです。

ジャスティスは、自分が映画の主人公であるという絶対的な自信を持っており、それは時が動いても変わりありませんでした。しかし、しんちゃん達が封印場所に向かおうとすると、総動員をかけ、さらには自身の切り札と言えるジャスティスロボまでもを使い、力尽くで止めようとします。

ジャスティスは、映画は既に終わっており、自分がその主人公であるという確固たる意思の裏に隠された心の奥底で、実はまだ映画は終わっておらず、最後は自分が負けるという真の結末に対して、恐怖心を抱いていたと考えられます。そして、ジャスティスロボを使い、(ダイナマイトを何発も撃つなど)激しい攻撃を仕掛けてくるのは、その恐怖心に対する裏返しだという解釈が可能です。

そして、カスカベボーイズの5人にやられ、封印が解かれようとしても、なお意地でも止めようとしますが、結局ロボットはバラバラになって、映画は終わりを迎えます。ジャスティスは最後、「まだ終わりたくねえ」と愚痴をこぼしますが、これが彼の迎えるべき結末での姿であったと言えます。

時間の止まった映画の世界では、記憶を失っていき、自分がいったい何者で、いかなる存在なのかというアイデンティティまでも失ったり、あるいは目を背けたりしたりもしますが、最後の最後まで自分のアイデンティティに目を背けていたのは、実はジャスティスであったと考えられます。

つまり、最後には負けるという恐怖を心のどこかで抱いていたのに、あえてそれを無視し、自分を主人公であるというごり押しをし続けてきたわけなのです。

また、アンチジャスティスの立場を選択したつばきも、自分のアイデンティティが最後まで見出せなかったと言えます。しんちゃんのナレーションの中に、しんちゃんが自分は映画の登場人物か、春日部から来た人間か、どっちなのかと言っており、これは、前述したように、つばきも同様でした。

しかし、映画が終わった時、自分は映画の登場人物であり、しんちゃん達とは違う世界の人間である思い出したと思われます。彼女が最後に、しんちゃんに見せた、どこか悲愴な雰囲気を漂わせた表情からも、その事が伺えます。

また、つばきは結局しんちゃんを恋に陥らせた、つまりしんちゃんの心をあまりにも揺さぶらせてしまったことから、一作品ごとに完結されている劇しんにおいては、「ブタのヒヅメ」のぶりぶりざえもん、「戦国大合戦」の又兵衛と同じ「消えなければならないキャラクター」だったとも言えます。

そして、しんちゃんがつばきと永遠の別れを果たしてしまったと知ると、当然ひどく落ち込みますが、シロと再開したことにより元気を取り戻します。このシーンから、もしシロも映画の世界に来ていたら、立ち直れなかったかもしれません。

また、たとえつらい別れがあったとしても、その先にはうれしい再会(または出会い)もあるもあるという事を、示しているとも言えます。「カスカベボーイズ」には、シロの出番はほとんどありませんが、このように見ると、シロは極めて重要な役割を負っており、作品におけるキャラクターの登場頻度と重要度の間に、これほどの乖離が生じている例は他にありません。

劇中で、しんちゃんのナレーションを入れることでストーリーを補っているところからも、「カスカベボーイズ」はストーリーを重視し、また人物描写も、自分が何をなすべきか、いかなる人物なのかの模索を描くことで、、より深いものにしています。

しかし、水島監督は、本作品公開後、クレしんのアニメ製作の会社であるシンエイ動画を退社し、監督の座を降りてしまいました。そして、劇しんは、2004年7月にテレビアニメ版の監督に就いたムトウユージ氏によって、引き継がれることになったのです。





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