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Lola Montez
ローラ・モンテス
(1818〜1879)



  ローラ・モンテスは、ちょこっと19世紀の歴史をかじったことのある方なら誰もが耳にするであろう、19世紀最もスキャンダラスな高級娼婦である。彼女の罠にかかったそうそうたる著名人は抜きん出て当時有名な者ばかり。作家アレクサンドル・デュマ、作曲家リスト、そしてバイエルン国王ルートヴィッヒ祇ぁΑΑΑ
  スペイン人ダンサーと称してヨーロッパをさすらい、著名人と浮名を流し、たえずスキャンダルを撒き散らした美女で、その華やかな人生は、今でもミュージカルや映画や本などによって人々を惹きつけています。また、その時代、最も恥知らずな女とまで言われ、アレクサンドル.デュマに「彼女を愛するようになったら身の破滅である。」とまで言わせた女性である。


ローラ・モンテスの生き方は、ミュージカルや映画になっている。

                               

  芸名ローラ・モンテスこと本名マリア・ギルバートは、彼女が周りの人々にスペイン人であると信じ込ませたのとは裏腹に、1818年、アイルランドのリメリックに生まれた。
  母親はダブリン出身の婦人帽子屋、父親は英領東インド陸軍大尉だった。ローラはインドのカルカッタで育ったが、多くの召し使いに甘やかされ、自由奔放の子娘に成長した。父がコレラで亡くなり、母は、亡父の親友であった男と再婚。ローラは、スコットランドの親戚に預けられ、その後パリの学校へ送られた。ローラは、黒髪と淡いブルーの瞳を持つ美女になっていた。若い士官と駆け落ちしたが、すぐに捨てられた。
  その後ローラはスパニッシュ.ダンサーになるためにアンダルシア出身のダンス教師を雇い、自らスペインに行き雰囲気を身につけスペイン語と身のこなしを習得した。ロンドンの王立劇場の舞台に立ったが、ダンスは上手いとは言えず、リズムやタイミングのセンスもなかった。ただ、黒いレースに赤いバラをつけて着飾ると美しさは際立っていたという。それから数年、ダンスを続けながらヨーロッパ各地をさまよった。


ローラ・モンテスのポートレート

                               


  そんなとき、ドレスデンでフランツ.リストと知り合った。ローラが彼の目をじっと見つめると、リストは彼女の虜になった。しばらくの間、ふたりは、どこへ行くのも一緒で、喧嘩と仲直りを際限なく繰り返しながらも愛の生活を味わっていた。しかし、ふたりが一緒にいると、名声がリストからローラに移っていくのが明らかだった。というのも、あまりにも彼女のダンスは、いかがわしく下品だった。ある朝ローラには内緒でリストは所持品をまとめると、こっそりとアパートから抜け出し去っていった。後に残されたローラは、怒り狂い、窓から家具類を投げ捨てたという。
  ローラはパリへ行き、彼女の高まりつつあった悪評のお陰でポール.サン.マルタン劇場で雇ってもらえることになった。しかしローラのダンスは未だに二流だったため、観客から野次られる。だが彼女は、野次る者に向かって連発花火のように怒りをまき散らした。 こんな彼女に興味を持った文芸評論家アンリ.デュジャリエ氏がローラのダンスを見に来た。ふたりは、互いに惹かれ合う。 彼はローラをジョルジュ.サンドのサロンに連れていった。そこで彼女は、デュマ、ユーゴー、バルザック、ゴーチェといった大文豪に出会った。彼女の頭脳のキレには文豪たちをも、驚かせるものがあった。彼女は、デュジャリエの影響で熱烈な共和主義者になる。デュジャリエは、彼女に結婚を申し込む。 ところが、ある晩、デュジャリエは、ライバル紙のジャン.ド.ボーヴァロンとの口論により、決闘となり、心臓を打ち抜かれ殺されてしまう。
  この事件から、ローラの心は空虚になった。彼女は踊り続け、ババリアを回る計画をたてる。
  これはババリアのルートヴィヒ一世との世紀の大恋愛のきっかけとなった。ルートヴィヒにとって、美術、彫刻、建築美ほど重要なものはなかった。ルートヴィヒは彫像を集めるようなやり方で美しい女性も集めていた。ローラは、ミュンヘンの国立劇場で踊ったが、踊りがいまひとつだという理由で支配人は、ローラの名を看板からはずした。それに激怒したローラは、国王に直接訴えて支援してもらうことを思い付く。 ローラに謁見したルートヴィヒ王は、すっかり彼女にのぼせあがって、ミュンヘン劇場での契約を約束し、3日続けてローラのダンスを見に行った。王はローラを王宮に連れていき、「私のいちばんの友」と紹介して大臣たちを驚かせた。王は、ローラを溺愛し屋敷を与え贅沢を許し、爵位まで与えようとした。ローラは政治的野心が激しく、王を共和主義にするために、ジェスイット派を非難排斥しようとした。現職の諸大臣たちを辞職させ、進歩的な自由主義者たちで新しい内閣が構成された。「ローラ内閣」であった。 だが、ジェスイット派の教授を解雇させたことから学生たちの反感を買い、学生運動からその後、革命の気配になりつつあった事態に危惧した王はローラをババリアから放逐するという文書に署名した。
ローラ・モンテスの肖像

中央がルートヴィヒ祇い画家に描かせたという肖像画。
今もドイツのミュンヘンにあるニンフェンブルグ城の美人画廊に飾られている。

  ローラはババリアを追われロンドンへ向かう。髪に赤いバラをさし、黒いビロードの服を着た彼女は、たいへん魅力的であった。若い女性たちは、皆ローラの真似をし、男性達は、ローラの催すパーティーになんとかして出席しようとした。こうしたなかに若い近衛士官ジョージ.ヘルドがいた。彼は、ローラより20歳も若く、資産家であった。3年ほど一緒に暮らしたものの、彼女の気性は荒れて激しくなる一方で、ある日、凄まじい喧嘩のあと、ローラはジョージを刃物で刺してしまった。彼はいったんは彼女のもとを離れたが、結局彼女なしでは生きられず、また戻ってくる。だが、カジノでジョージの財産を使い果たしたローラは、ふたりの子供を残し、ジョージのもとを去っていく。
  その後パリからアメリカに渡り、数々の浮き名を流した。 1859年頃には、以前よりも痩せ、髪も相当抜け落ち、服装もだらしなくなっていた。ローラは不治の病にかかっていて、その事を自分でも知っていた。 彼女は宗教と心霊術に慰めを求めるようになっていたが、クリスチャンだと名乗る邪なビュキャナン夫人が最後まで面倒を見るという約束で粗末な小屋にローラを置き去りにし、彼女の宝石類をだまし取ってしまう。
  臨終の際、彼女を訪れたプロテスタントの牧師にローラは長年自分が犯してきた悪のすべてを悔悟した。牧師は彼女のところに留まり、彼女を慰め、安らぎを与えた。
ローラ・モンテスの墓と足型
  

ローラ・モンテスに関する本
(その多くはドイツで出版されている。)

ローラ・モンテスは美容法に関する記述も多く残した




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