幸福への道

                            


目次

1.少欲知足 7.個としての存在はない 13.動揺しない心 19.法について
2.悠々とした生き方 8.悟りの境地 14.迷いを断つ智の力 20.身・口・意の三業
3.此岸と彼岸 9.与える大事さ 15.十界と六道輪廻 21.縁起(因縁生起の略)
4.仏(ほとけ)について 10.戒を持(たも)つ 16.十二因縁
5.お釈迦さま 11.耐え忍ぶ 17.中道
6.すべては移り行く 12.怠りなく努めること 18.五蘊(ごおん)


1.少欲知足

「欲少なくして足るを知る」と読みます。誰れでも自分の欲しいものを手に入れられたら良いな、と思ったことがあるでしょう。その欲望が社会の発展に寄与している一面があることも否定できません。しかし、個人のレベルで考えた場合、欲望のままに振り回されていては決して幸福にはなれません。欲しいものを手に入れるとその瞬間は天にも昇るほどの喜びを味わえます。

 しかしその喜びは永くは続きません。必ずもっと良いものを、との欲望が芽生えてきます。それを手に入れるとまた次の欲しいものが現れ、欲望には際限がないのです。しかもその欲望には他の人への優越感が混じってることが普通です。その優越感が知らぬうちに他者との壁を作り上げています。人間の満足感には限度がありませんが、少なくとも生きて行く上で「必要なものは最低限」満たされていることに満足し感謝できれば「少欲知足」の言葉の持つ重さを理解していただけたことになるでしょう。少欲知足に則った考え方が環境保護と自然との共存につながることは言うまでもないことはお分かりいただけると思います。


2.悠々とした生き方

何事にも動じないで悠々とした生き方ができれば、人生はどんなに明るく価値のあるものになるでしょうか。それにはまず「苦」が無くなることが欠かせないでしょう。釈尊は筋道たててその方法を説いてくださってます。

出家される前、釈尊は「この世は苦である」と認識されてました。そして悟りを開かれて最初に説かれた教えが四諦(したい)の教えでした。諦は、今日では主に「諦める」の意味で使われてますが、この場合「明らかにする」の意味です。四諦は、苦、集、滅,道の四つについて明らかにした教えです。第一番目の「苦」はその実体は何かについて、第二番目の「集」は苦の原因は何かについて、第三番目の「滅」は苦を滅した状態について、「道」は苦を滅するための八つの正しい道(八正道)について明らかにされてます。

「苦」の実体について生老病死の四苦、それに、愛する者と別れなければならない苦しみ「愛別離苦」、欲しいものが入手できない苦しみ「求不得苦」、生きて行く上で怨みや憎しみを持っている人にも会わなければならない苦しみ「怨憎会苦」、生身の肉体を持つ故生じる苦しみ「五蘊盛苦」の四苦が挙げられています。(ちなみに前の四苦とあとの四苦を併せたのが四苦八苦の語源です。私たちが日常何気なく使っている言葉には、仏教から由来しているものが多いのです。縁起などもそうです。)

「集」はこれらの苦の原因について明かされてます。苦の原因となるのは、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろか)などの煩悩や、眼、耳、鼻、舌、身,意)など六根から生じる愛着なのだと指摘されてます。

「滅」は「苦」「集」を滅した悟りの境涯、つまり悠々として生き方のことです。

「道」は悠々とした生き方をするにはどうすればよいか、について八つの正しい道を示してくださってます。

1)正見 世間・出世間についての正しい見解
2)正思 正しい思考
3)正語 二枚舌や嘘、真実でない飾り立てた言葉などでない、正しい言葉を使う
4)正業 正しい行いをする
5)正命 まともな仕事に就き正しい生活をする
6)正精進 正しく精進(努力)すること
7)正念 観念の正しいこと
8)正定 精神集中で正しく心を安定させ迷いのない境地に入ること

八正道では、まず正見によって正思、正語、正業、正命を知り、これを成就しようと正しく精進し、また正念して最後に正定を得て解脱して涅槃の悟りを得るとしています。

八つの徳目の幾つかは、特に正見など簡単にできそうですが、日常生活ではいつの間にか自分に都合のよい見解に陥っていることに気づかされ、正しい見解を持つことが如何に困難であるか実感させられます。でも八正道に従った生き方を心掛けていると何時か悠々とした生き方が出来るようになるのは間違いないと信じてます。


3.此岸と彼岸

私たちは年に二回春と秋に彼岸を迎えます。仏教では此岸は煩悩に振り回され迷い、苦しむ境涯、彼岸は煩悩から離れ、迷い、苦しみを超越した境涯を指します。(彼岸は死後の世界のことだと誤解しないでください。)「縁無き衆生は度し難し」という言葉を皆さんは聞かれたことがあるでしょう。「度す」とは「渡す」という意味で、此岸から彼岸へ渡してやりたいけど仏教に縁のない人は渡してやろうにも渡してやりようがない、というお釈迦様の嘆きの気持ちが込められています。「度す」はサンスクリット語でパラミータと言います。仏教がインドから中国へもたらされたとき、片仮名が中国にはありませんので訳者玄奘法師(孫悟空に出てくる三蔵法師)が波羅密多と当て字しました。
 
 波羅密多? どこかで聞いたことあるなあ、と思いませんか。そうです。般若心経の正式な名前は摩訶般若波羅密多心経なのです。摩訶は大きいさま、優れたさま、般若は智慧を、心経は肝心の教えですから、偉大な智慧で此岸から彼岸へ渡してくれる大事な教えと言うことなのです。般若心経が尊ばれる由縁です。そしてその教えの最も大事な点は「執着を離れる」ということです。(この点についてはいずれ詳しくお話することがあると思います。)

 前に記した「悠々とした生き方」の「集」の中で貪欲、瞋恚、愚痴などの煩悩や六根から生じる愛着が苦しみ、悩みの原因と申しましたが、それと併せて考えていただくと仏教が何を言わんとしているか、少し理解できた気になりませんか。


4.仏(ほとけ)について

仏について皆さんはどう考えていますか? 葬式などで「仏さまにお焼香をお願いします」などと葬儀社の人が当然のように言います。ですから仏と聞くと一般的には亡くなられた方を連想するのではないでしょうか。なにか困難に直面したとき「仏さまなんとか助けてください」と祈願しますが、頭にあるのは亡くなられた近親者またはご先祖さまではないですか。生前あれほど自分を愛してくれた近親者または血縁のあるご先祖様だから亡くなっても自分たちを守ってくれる筈と思い込んで祈願するのは人情として尤もなことです。

真実は、仏という言葉は仏陀(ブッダ)から由来しています。仏陀とは煩悩や六根から生じる愛着を離れ、悟りを開かれた人のことです。お釈迦さまはそのような悟りを開かれた方ですから仏陀=仏と呼ばれ、それが仏の正しい使われ方なのです。

では、なぜ葬儀社の人は死者のことを仏と呼ぶのでしょう。肉体を滅した死者は、すでに煩悩や六根から生じる愛着から離れています。その点だけを捉えてみればお釈迦さまと同じですから、葬儀社の人は死者を仏と呼ぶのです。

お釈迦さまと死者との大きな違いは、お釈迦さまは生前に仏となられていることです。お釈迦さまの有り難いところは、教えを説いてくださっていることなどいろいろありますが、生きた身で仏になる実例を私たちに示してくださっていることにもあります。

 一方無始無終の時間に亘り、また地球を含む果てしなき宇宙に存在する法としての仏があります。それを法身仏といいます。応身仏としてのお釈迦さまは法身仏から遣わされた仏といってよいかもしれません。


5.お釈迦さま

 お釈迦さまと私たちが呼称する仏は、釈迦族の王浄飯王を父、その妃摩耶夫人を母としてお生まれになり、ゴータマ・シッダールタというお名前でした。長じて出家し悟りを開かれ仏陀(=仏)となりました。それで釈迦族出身の聖者(牟尼)ということで釈迦牟尼あるいは世にも尊いとの尊称をつけ釈迦牟尼世尊と呼ばれました(世尊とのみ呼ばれることもあります)。いつの間にか牟尼や牟尼世尊が省かれお釈迦さまと呼ばれるようになったのです。

今日、仏教書などでは釈尊と呼ばれるのが普通ですので、今後此のHPでも釈尊とお呼びさせていただきます。悟りを開かれた人は誰も仏陀(仏)ですから、混同を避ける意味からも釈迦族出身の仏陀(つまりお釈迦さま)を釈尊と憶えていただければ幸いです。


6.すべては移り行く − 諸行無常

スマトラ島沖地震による死者の数は周辺諸国を含め十数万人と伝えられています。亡くなられた方は本当にお気の毒で、ご冥福をお祈りします。亡くなられた方のうち、地震前日どれくらいの人が「明日は自分のいのちはないのだ」と思っていたでしょうか。おそらく一人もいなかったでしょう。

 数年前のことですが、テレビで外国の数千メートルの高さの山中で塩が産出される画面を映していました。山の中でなぜ塩が取れる?という疑問は、その山は数万年前海底にあったという説明で解けました。

 この世で絶対な存在はない。すべては移り行く、諸行は無常である、と釈尊は説いておられます。明日のいのちの知れないのは、地震で亡くなれた方ばかりではありません。私たちも同様なのです。

 「すべては移り行く、明日のいのちも分からない」という真理を前にして人はどのように考えるでしょう。それなら自分の欲望のままに放逸に生きようと思う人が居るかも知れません。しかし、その生き方はおそらく後悔以外何も産み出さないでしょう。釈尊が説かれた諸行無常の教えから学ぶことは、明日をも知れないいのちだからこそ、今という瞬間を大事にし、一所懸命生きなさいということなのです。それが幸せにつながる生き方でもあるのです。


7.個としての存在はない − 諸法無我

私たちは誰も私たちの身体は自分のもの、と理解しています。だから自我があります。しかし、今ここに私たちが存在するのは、まず両親があってのことです。さらに両親、その両親と遡っていくと例えば30代遡る(つまり2x30乗)だけでも十億数千万人の数になり、その中の一人でも欠けていると私たちは存在しない訳です。

また日常の生活に必要な衣食住はほとんどを自分以外の人からの供給に頼っています。自給自足している人は現代社会にあっては、もし居たとしても極く例外の存在でしょう。

 私たちが今ここに存在して居られるのは、両親とその庇護をはじめ、実に多くの人のお蔭があってのことは容易に理解できると思います。他方、私たちもまた仕事などを通じて多くの人のお役に立っていることは自明のことです。

視点を変えて自然との係わりについて考えてみましょう。人間が生きるには植物の吐き出す酸素を必要とします。植物は人間、その他の動物が吐き出す炭酸ガスを取り入れ、それを太陽の光のエネルギーによる光合成により炭水化物に変えることで成長します。そのような過程を経て成長した野菜などを私たちは食べています。

一方、私たちの肉体について考えて見ましょう。肉体は酸素、炭素、水素、窒素、カルシューム、燐、カリウム、硫黄、ナトリウム、塩素、マグネシューム、鉄などの元素で出来ています。これらの元素は150億年前のビッグバンで放出されたりその後の進化の過程で生じたりしたもので、生物、無生物を問わずすべての物質の構成要素になっており、分子レベルではすべての存在は繋がっているのだそうです。さらに太陽と地球と月の微妙な位置関係が、地球をあらゆる生物・植物に生存可能な環境を与えてくれています。

上記は世の中の成り立ちのごく一端を例示しているにすぎませんが、こう考えてきますと、人間一人ひとりは個として存在出来るものでなく、生物・無生物を含む他者との大きなつながりの中で存在していることに思い至りませんか。私たちは実に多くの目に見えないものによって生かされているのです。これが諸法無我なのです。

 俺が、俺が、と突っ張ることや、自分の利益のみを優先して振舞うことが如何に思慮に欠けた行いであるか、諸法無我は教えてくれます。


8.悟りの境地 − 涅槃寂静

 煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は心の静まった安らぎの境地(寂静)であるということ。涅槃は、元の意味は「吹き消す」と言うことで、いのちが吹き消されたと言うことで「死」を意味することもあります。例えば釈尊が亡くなられたことを涅槃に入られたと言います。

 因みに、これまで述べた諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つの教えは仏教のシンボル的教えとして三法印といいます。


9.与える大事さ − 布施 [六波羅密()]

先に波羅密多(波羅密と同じ)は度す(渡す)という意味で、此岸から彼岸へ渡す、つまり煩悩にまみれた世界から悟りの世界へ渡すということであると説明しました。釈尊は悟りへ至る六つの徳目をお示しになっています。布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の徳目で、これを六波羅密と言います。

布施はサンスクリット語ではダナーと言い、中国での当て字は檀那です。僧侶は在家の人からの布施で生活しています。布施をしてくれる家すなわち檀那の家が檀家です。今日の日本では檀那が別の意味に転化して使われています。

布施はお寺に差し上げる金銭と一般的に理解されています。しかし物で差し上げる場合もあります。これらを財施と言います。お寺へ労力でご奉仕することは身施です。仏の教えなどを人に説くことは法施です。これらの布施は対象を必ずしもお寺に限るものではありません。他者のためにボランティアとして働くことは立派な身施であり、或いは災害地へ献金することは立派な財施と言えます。布施の大事な点は他者のために金銭、財物、労力、知識を惜しむことなく提供できるようになることが、執着の心を消滅することにつながり、悟りへ近づける点にあります。


10.戒を持(たも)つ ― 持戒{六波羅密〔二〕}

仏教に帰依する者の守るべき規則〔戒〕を持(たも)ち、生活を律して非の無いように努めること。釈尊は享楽主義を厳しく戒め、在家の男女は五戒〔不殺生、不偸盗、不妄語、不邪淫、不飲酒〕を受け、比丘〔男の僧〕は二百五十戒、比丘尼〔女の僧〕は三百数十戒を受けた。持戒を誓ったものに与えられる名前が本来の戒名である。


11.耐え忍ぶ ― 忍辱{六波羅密(三)}

あらゆる侮辱や迫害を耐え忍んで怒りの心を起こさないこと。

 自分が何も悪いことをしてないのに、怒られることがあります。まして善意でした行いを誤解されて叱責されたりした時など、こちらもつい腹を立てたくなります。そのような場合、相手の怒りに、すぐ怒りで応じることをしないで、客観情勢を分析し、相手の気持ちも忖度する寛容の気持ちで対処するのが事態を円満に収めることになります。

逆に人から尊敬されたり、もてはやされたりしても有頂天にならず平常心でいることも忍辱の教えです。


12.怠りなく努めること − 精進[六波羅密〔四〕]

仏道修行を一心に怠りなく努めること。この言葉は修行中生じやすい懈怠の気持を戒める言葉でもあります。

目標に向かって進むとき、私たちは兎角楽な方へ流されがちですが、こつこつと地道に怠りなく努力する人が結局勝利を手にします。


13.動揺しない心 − 禅定[六波羅密(五)]

 どんなことが起きても迷ったり動揺したりすることのない静で落ち着いた心の状態です。

 私たちの周りでは常に様々な出来事が生じます。それらに振り回され心が動揺します。しかし、世の中の真の姿〔実相〕を仏教に照らして理解していれば、それらの出来事に一喜一憂することもありません。それが禅定です。


14.迷いを断つ智の力 ― 智慧[六波羅密(六)]

 無常、苦、無我,縁起、中道など諸法の道理を洞察する強靭な認識の力を指します(縁起、中道などはいずれご説明します)。

 私たちは分かってはいるが、つい本能の命ずるままに行動したり、目先の利益だけで行動し、後になって悔いを残すことがしばしばあります。無常、苦、無我、縁起、中道など諸法に従って行動すれば悔いを残すことがありません。智慧を会得すれば自らの欲するところに従って行動し、しかも道を外すことがなくなり、自由自在な生き方ができます。


15.十界と六道輪廻

 十界とは我々が瞬間瞬間に表わすいのちの状態を言ったり、到達した境界を指したりします。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界のことです。

地獄界 ― 身動きできず不自由な中で、苦悩し煩悶する状態

餓鬼界 ― 強い欲望に心身が苛まされている状態

畜生界 ― 理性や意志を持たず本能的欲求に振り回されている状態

修羅界 ― 自己中心的で怒りやすく欲望を満たすためには、他人をもないがしろにする状態

人間界 ― 平静に物事を判断し人間として普通で平穏な状態

天上界 ― 自分の欲望、願望が叶い心身とも歓喜に満ちた状態だが永続しない。

声聞界 ― 四諦(前述)の教えに依り、煩悩を断ち悟りを求める境界
縁覚界 ― 十二因縁の法に依り、或いは師につくことなく自己体験などにより悟りを求める境界

菩薩界 ― 衆生救済を願いつつ、行に励み悟りを得ることを目指す境界

仏 界 ― 真理を悟った円満具足の仏の境界


 煩悩にまみれたまま生きる衆生が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の生死を繰り返すことを六道輪廻といいます。


16.十二因縁


仏教の中心をなす大事な教え。

人間の生誕、成長、老死に至る因縁を肉体・精神の両面に於いて過去、現在、未来の三世に亘り説き、迷いを除くための道筋を明らかにしている。

@無明(むみょう) 物事の本質をあるがままに見抜く叡智が無いこと

A行(ぎょう) 無明のままに為す行為

B識(しき) 無明から生じる行為が繰り返され業となり、その業を背負ったたましいが母体に宿ること。受胎の瞬間に識が生じる。

C名色(みょうしき) 名はこころ、色は肉体を指す。心身が胎内で発育し始めるが眼、耳、鼻、舌がまだ形成されてない状態。

D六入(ろくにゅう) 眼、耳、鼻、舌、身、の五つの感覚器官と、その五官で感じたものを知覚する意(こころの働き)が名色に備わること。六入が終えた時点で人間は誕生する。(眼、耳、鼻、舌、身、意を六根ともいう。)

E触(そく) 生誕の瞬間、赤ん坊は眼で形、色を見(生誕直後は眼は閉じているが明暗は感じている)、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わい、体で母親の肌に触れ、それらからこころの働きが生じる。好悪の判断はまだない。

F受(じゅ) 六根で感受した外界の物、或いは物事に好悪の判断をもって受け取るはたらき。6−7歳以後に生じる。

G愛(あい) 受によって生じる欲望。(例えば異性や事物を求める欲望)14−5歳以後に生じる。

H取(しゅ) 欲しい物に執着するはたらき。

I有(う) 前記の「愛」と「取」により人間はいろいろな行動をするが、それが原因となっていろいろな結果を引き起こすはたらき。例えば好きな相手と結婚するなど。

J生(しょう)「受」と「愛」と「取」と「有」により新しい生が形成される。例えば結婚の結果として子供が生まれる。

K老死 生を享けると必ず老い死を迎えることになる。


註 1)@無明とA行は過去世の二因で、これが因となってB識からF受までの現在の五果がある。またG愛からI有までは現在の三因で、それが因となってJ生とK老死の未来の二果がある。この三世が両方に重なっているので三世両重の因果とも言われる。

  2)十二の因縁が連鎖のように関係し合って人は或いは生まれ、あるいは死ぬなど絶えず六道の苦界を輪廻する。その苦界から離脱するには無明を断じることが肝心であると説くのが十二因縁の教えである。まづ無明を断つことが悟りへ至る第一歩と言える。釈尊の教えはそのためにあるといってよい。

  3)因みに受胎の瞬間を「生有」(しょうう)、死ぬ瞬間を「死有」(しう)と言い、「生有」と「死有」との間、つまり人が生きている一生を「本有」(ほんぬ)、そして死後,再び受胎の瞬間(識)を迎えるまでの期間を「中有」(ちゅうう)と言う。(死後私たちのたましいは中有に漂うと言われる。)


17.中道(ちゅうどう)

相互に矛盾対立する二つの極端な立場(二辺)のどれからも離れた自由な立場(中−ちゅう)の実践のこと。(中)は二つのものの中間ではなく、二つのものから離れ矛盾対立を超えることを意味し、(道)は実践・方法を指す。

釈尊ご在世のころ、さまざまな教えがあった。人間の欲望は自然なものだから欲望のままに快楽に耽ることが解脱への道とする快楽主義の一派や、反対に極端な禁欲主義や苦行を標榜し、食欲をできる限り抑制するため一日米一粒、ゴマ一粒に限る修行をしたり、何も食べずに餓死することを喜びとしたりする苦行主義の一派もあった。真剣に道を求めた釈尊も当初苦行により悟達する道を選び、餓死寸前に至るほどの苛酷な修行を続けた。しかし苦行は正しい悟りに至る道でないと覚り、突然苦行を中止し、ネランジャー河で沐浴し身を清め、その後村の娘スじゃータの捧げる乳粥で体力を回復し、ブッダガヤの菩提樹の下で禅定に入り、7日目に暁の明星をみて悟りを開かれた。釈尊は苦行主義と快楽主義の何れにも偏らない(不苦不楽の中道)を特徴とする八正道によって悟りに到達したとされる。

悟りを開かれた後の最初の説法で「如来は二辺(両極端)を捨て中道を悟ったのである」と言われ、「何をもって中道とするか。八正道(正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定)が中道である。それが如来の悟った中道であり、人間の眼を開き、正しい智慧を起こさせ寂静の境地に至らしめ涅槃に導く」と説かれた。

(註 後世、いろいろな中道観が生まれる。)


18.五蘊(ごおん)

蘊はもともとは糸が縺れ合った状態で、それが発展して集合物の意味になりました。五蘊(ごおん)はあらゆる生き物、特に人間を形成している五つの構成要素で、色、受、想、行、識のことです。

色(しき)人間の肉体を含む外界に在るあらゆるかたちあるもの
受(じゅ)眼、耳、鼻、舌、皮膚などを通して外界にあるものを私たちが感じ受ける作用で、感受ないし感覚のこと。
想(そう)感受したものに応じて私たちの脳にそれぞれのイメージが形成されます。このイメージないし表象のこと。
行(ぎょう)表象が私たちの中に形成さていくにつれて好き嫌いなどの意志が形成されること。
識(しき)色、受、想、行を通じて私たちの脳に形成される認識のこと。

すでにお気付きと思いますが、人間について言えば、色は肉体、その他は精神作用で、五蘊は私たちの存在と解釈してください。五蘊は大変難しいのですが、上記はひとつの手がかりとしてご理解いただければ幸いです。


19.法について

法と聞くと頭に思い浮かぶのは六法全書に記載された国法でしょう。この法律は人間生活を円滑に進める上で欠かせないルールです。これに反する行いをした場合、罰則も適用されます。

一方、社会生活を送る上で人間関係を規制する不文律があります。世間法です。葬儀のときの香典をいくらにするかとか、結婚式の祝儀をいくらにするかとか、文字に記されてないですが暗黙のうちに定められたルールです。これを逸脱すると人間関係で思わぬ不協和音を生み出します。

国法も世間法も人間が成長する過程で、それらがどういうものか自ずと理解するので取り立てて問題視されることはありません。

上記のほか、仏教上の法があります。サンスクリット語のダルマを意訳したもので、幾つかの意味があります。@世の中の全ての物事とか現象、A仏の教え B因果関係でとらえた真理、法則 などです。

諸法実相というような場合の法は@であり、諸行無常、諸法無我、四諦、六波羅密、十二因縁などはAの仏の教えとしての法です。殺人や姦淫を心中に想い描いても国法や世間法では罰せられたり、非難されたりすることはありませんが、そのような空想でもBの法に照らすと、業として残り、業が因となりそれに相応しい果が出て来るから仏教上の法は国法や世間法より厳しいといえるでしょう。

仏教上の法には幾つかの意味があり、同じ言葉が時と場合で違った意味で使われることを覚えていてください。 


20.身・口・意の三業(しん・く・いのさんごう)

身業 ― 身で行う行為(動作、振る舞い)
口業 ― 口で行う行為(言葉)
意業 ― 心で行う行為(ああしよう、こうしようとの思い、意念)
以上を身・口・意の三業(しん・く・いのさんごう)といいます。この三業を正しい智慧により律することが仏道修行には欠かせません。


21.縁起(因縁生起の略)

子供の頃、通学の途中で霊柩車が通ると、「あ、縁起が悪い」とみんなで囃したて少し暗い気分になったりしたものです。また、10円玉(もう数十年前のことです)を拾うと「縁起いい」と、こころ密かに良いことが起きることを期待したりしました。つまり悪い出会いは悪い結果を、良い出会いは良い結果を引き起こすと信じる気持ちが子供の単純な頭にありました。成人して何か不吉なことでも話すと「縁起でもない」と目上の人からたしなめられたことがあります。縁起については一般の人も似たような理解ではないでしょうか。

仏教上の縁起(の法)は、この世には絶対的に固定した存在は一つとしてない。必ず或る原因があり、それがある条件(縁)に会うことにより、現われた〔結果〕ものである。だから原因や条件が変化したり消滅すればその結果も変化したり消滅するという教えです。釈尊の悟りの根幹の部分と言われています。

縁起という言葉は「○○山」縁起などのように社寺の由来などに使われることもあります。


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