共産主義の犯罪

 

 

 

目次

     日本共産党編

     ポーランドとチェコスロバキア(現在はチェコ共和国とスロバキア共和国に分離)でのドイツ系民族大虐殺編

     ユーゴスラビア編

     エチオピア編

     ベトナム編

     キューバ編

     カンボジア編

     ソ連編(レーニン編)

 

     日本共産党編

 私は、日本共産党と左翼により犠牲になった死者の数は約一万人であろうと推定する。この数字は真実として広められなければならない。そして、世界中の共産主義犠牲者博物館に展示され、世界中の共産主義の犯罪の研究書に明記されなければならない。水谷尚子さんの著作である『「反日」以前』の九十六ページからには一九五〇年代前半、北京に政治亡命していた日本共産党の幹部、袴田里見と野坂参三が同じく北京に滞在中であった党幹部、伊藤律を「スパイの疑いがあるから『処刑』あるいは『処分』して欲しい」と依頼した(中国共産党は拒否)ことが暴露されているが、このような事実は後世に伝えられなければならない。

共産党が犯した殺人事件としては、宮本顕治が査問と称するリンチで小畑達夫を殺した事件、昭和24年7月15日に中央線三鷹駅の車庫から無人電車を動かし駅前の交番と民家に突入させて6名の死者を出した三鷹事件、昭和24年8月17日に青森発上野行きの旅客列車を、東北本線、福島県金谷川駅と松川駅のカーブを通過する時に脱線転覆させ、3名の死者を出した松川事件、昭和26年12月に東京都練馬区旭町の駐在所に勤務していた伊藤巡査を殺害した事件(印藤巡査となっている文献もある)、昭和27年1月に札幌警察署警備課長の白鳥一雄警部を背後から拳銃で狙撃し殺害した事件、昭和27年5月1日に使用を禁止されていた皇居前広場に突入し暴れ、8名が死亡した血のメーデー事件がまず思い浮かぶ。

 日本共産党は武装蜂起時代にたくさんの犠牲者を出した。武装蜂起の時代とは、日本共産党が軍事方針に基づいて軍事闘争を行った昭和26年からしばらくのことである。この軍事闘争は、日本共産党が朝鮮戦争で北朝鮮=ソ連・中国共産党を支援するための後方撹乱戦術であった。

 当時、交番を日本共産党の軍事委員会のメンバーが火炎瓶をもって次々と襲撃し、火炎瓶を投げ込んで警官を負傷させ、時には殺害するという事件が続発した。最初に起きたのは、伊藤巡査殺害事件である。以下、兵本達吉氏著の『日本共産党戦後秘史』から抜粋する。「東京都練馬区旭町の駐在所に勤務していた伊藤勝郎巡査は、管轄内の製紙会社の労働組合が第一組合と第二組合に分裂したとき、たまたま共産党系の第一組合員を逮捕したことから共産党員に深く恨まれた。そして、「会社の近くで人が倒れている」とおびき出されて殺害されたうえ、拳銃を奪われた。・・・警視庁は、捜査の結果、共産党北部地区委員会・軍事委員会の指揮による犯行であることを突き止め、14人の党員らを強盗致死罪で検挙した。」

 昭和27年1月には白鳥事件も起きた。これは、共産党札幌委員会が、札幌警察署警備課長の白鳥一雄警部を、札幌市内での勤務を終えて自転車で帰宅の途中、背後から拳銃で狙撃し殺害した事件である。共産党は警察と検察のでっちあげであると主張し、20年間にわたって裁判所で激しく争われた。しかし、主犯とされた日本共産党札幌委員会の委員長で軍事委員会委員長でもあった村上国冶は、一審で無期懲役、二審で懲役15年、最高裁で上告棄却(懲役20年)の判決を受け、再審請求や異議申し立て、最高裁再審特別抗告もすべて棄却された。そして、平成10年10月29日付の「北海道新聞」が『白鳥事件党員の犯行を裏付け、元共産党幹部が証言』という一面トップ記事を掲載し、共産党の犯行であったということが確実になったのである。

 昭和27年5月1日の血のメーデー事件でも多数の死傷者が出た。警察の資料によると、警察側で832人が負傷(生命危篤8人、重傷71人、軽傷753人)であり、共産党側の資料によると、警官の死亡が3名、重傷28名、負傷53名、デモ隊側の死亡が5名、負傷者300名とある。

 査問・リンチ事件について言えば、何人もの無実の党員がリンチされ、生命を失っている。宮本・袴田の「スパイ査問事件」は有名であるが、他にも尹基協射殺事件昭和七年、平安名常孝殺害未遂事件昭和七年、大串雅美リンチ事件昭和八年、波多然事件昭和九年、大沢武男事件昭和九年など、数えあげれば切りがない。

 共産主義研究家の兵本達吉氏は、小畑達夫の死は明確にリンチによる傷害致死ないしは殺人事件であると断言している。詳しく知りたい人は、前述の『日本共産党戦後秘史』の「春日質問と「スパイリンチ事件」」、あるいは雑誌『正論』の2000年6月号の「いま明かす共産党スパイ査問事件の内部調査」を研究されたい。

 また、査問事件にからみ、傷つき、廃人となったり精神に異常をきたしたり、あるいは自殺した人もいる。不破氏と同じ東京大学の共産党に所属していたが、今は共産党をやめ共産党の批判活動をしている安東仁兵衛氏の『戦後日本共産党秘史』によると、昭和26年2月、不破氏はスパイ容疑で激しい査問を受けている。拷問ともリンチとも言えるようなそのあまりのひどさに不破氏とともに査問を受けた戸塚秀夫氏は自殺をはかっている。

 共産党員が地主宅に押し入り、暴虐の限りを尽くし、金品を強奪する事件も頻発した。有名なのは曙事件である。以下も、兵本達吉氏の『日本共産党戦後秘史』からの抜粋である。「日本共産党の十名の山村工作隊員が、山林地主佐野喜盛宅へ「佐野喜盛を人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と称して、竹槍、こん棒を持って押し入り、就寝中の佐野及び妻、女中、さらには小学生3人をも竹槍でつき刺し、こん棒で殴打し、あるいは荒縄で縛り上げ、頭から冷や水を浴びせるなど、暴虐の限りをつくし、・・・、現金4860円と籾一俵を強奪した。」横川元代議士襲撃事件では、「昭和27年8月7日午後9時20分頃、日本共産党埼玉県西部独立遊撃隊と武蔵野独立遊撃隊の13人が、党資金を獲得するため、埼玉県比企郡大河村腰越居住の武蔵野銀行取締役、元商工政務次官で元代議士の横川重次(当時57歳)宅を襲った。・・・。目潰しを喰わせ、日本刀、短刀、登山用ナイフ等で同人の首、肩、腹、腰などを切りつけたり突いたりして瀕死の重傷を追わせた。」。

 また、ある種の調査によると、ソ連のスターリンの大粛清時代にKGBによって粛清された日本人は100名近くになるが(たとえば、http://members.jcom.home.ne.jp/072286711/Moscow.html を参照)、その中には野坂参三元日本共産党名誉議長の密告により銃殺された山本懸蔵氏や同じく山本懸蔵氏の密告により銃殺されたり強制収容所に送られた人がたくさんいる。もちろん密告された人のほとんどは無実であった。これらの人たちも日本共産党による犠牲者として数えられなければならない。ちなみにイタリアでは、すでに『イタリア共産党黒書』が発行されていて、イタリア共産党による密告などで死亡した事件に関する本が発行されている。日本でも早い『日本共産党黒書』の発行が待たれる。

現在でも日本共産党による犠牲者は出ている。共産党系の医師、看護士などが共産党の活動ばかり熱心にやって医療活動をおろそかにし、患者を殺した事件として、2000年7月の共産党系医療団体である全日本民主医療機関連合会(以下=民医連)の大阪の病院である耳原総合病院でのセラチア菌院内感染事件、同じく民医連の京都民医連中央病院で2002年9月に発覚した手抜き検査事件がある。セラチア菌院内感染事件では、堺市の耳原総合病院でセラチア菌の集団院内感染が起き、一年の間に約70人の患者からセラチア菌が検出され、八人が死亡した。手抜き検査事件では、京都市の京都民医連中央病院の臨床検査技師が、1998年以降、細菌検査をしていないのに「最近を検出せず」の虚偽の判定結果を出し、診療報酬を請求していて、手抜き検査に関係していた患者のうち、89人が死亡した。その他類するものとして川崎協同病院の安楽死事件がある。1998年11月に主治医が入院患者に大量の筋弛緩剤を投与して死亡させた。民医連では異常な事件が相次いでいる。たとえば、愛知県の名南病院では、当時の理事長であった鈴木幹男医師が、患者自宅で死亡した患者を患者宅で遺体解剖し、南警察署から書類送検されるという事件が起きている。この事件は、2003年37日の午前零時ごろ、鈴木医師が看護師五名を伴って患者宅に行き、患者宅でそのまま遺体解剖を行ったという常識ではまったく考えられない事件である(中日新聞 2003年(平成15年)618日号など参照)。

 忘れてはならないのは、いったん共産党にかかわったものの、共産党のやり方についていけず、ノイローゼになり精神を病み、自殺した人たちである。共産党に入党したものの、朝、昼、晩とのべつくまなく共産党から電話が職場にかかってきて党勢を増やすようにがんがん指示され、病気になり、生命を絶った人がたくさんいる。あるいは、共産党に入党したものの、疑問を感じて共産党をやめようとしたが、いく先々に共産党がおしかけてきてやめるなとおどされ、精神を病み、廃人になったり、自殺した人がたくさんいる。このような人たちの総数は、統計がないのではっきりとはわからないが、一万人近くいると考えられる。この数字は誇張でもなんでもない。たとえば、元共産党愛知県委員会で働いていた宮地健一さんの研究によると、「愛知県委員会の約半分のスタッフを抱える名古屋中北地区委員会は、専従の党員が53名いた。そのうち、22名が病気になり、さらにそのうちの12名がノイローゼになった」という。宮地健一さんのホームページは共産党研究として定評がある。アドレスは、http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm である。興味のある人は、閲覧して欲しい。また、共産党系医療団体である全日本民主医療機関連合会の職員の死因で一位を占めるのは自殺であるという事実がある。

 もともと、共産主義が生命や平和を大切にすると言うのは嘘である。たとえば、共産党の青年組織である民主青年同盟の同盟員に人気のある歌に「ケセラ」という歌があるが、三番の歌詞には「いつも思い出すのは 自由のために死を選んだ グェンバンチョイ、ジョーヒル、ビクトルハラを 決して忘れはしないさ」とある。このような歌を自分の子供が口ずさむのを聞いて親はぎょっとする。共産党は青年組織に革命のために奉仕し生命を捧げるように教育する危険な団体である。それがために、共産党員の中には党活動に一生懸命になりすぎて過労死する人が出てくるのである。有名な例としては、平成十年二月に日本共産党の青年組織である日本民主青年同盟中央地委員会の森実一広委員長が過労死した事件がある。なお、彼の友人であった宮本たけし前日本共産党参議院議員のホームページには、「彼が最初風邪であったがむりをしてこじらせてしまった」とある。ちなみに、グェンバンチョイとは、ベトナム戦争のときにアメリカ軍に無実の爆弾事件をでっち上げられ処刑された人物であると共産党は主張し、ジョーヒルはアメリカで労働運動を指導したがでっち上げの罪でアメリカ政府により処刑された人物であると共産党は主張し、ビクトルハラはチリで1970年に成立したアジェンデ共産主義政権を支持していたがアメリカの後押しで軍部がクーデターを起こした時、虐殺された人物であると共産党は主張している。

 それから、日本共産党を批判したために除名になるなどして、不審な死を遂げた人もいる。除名にはならなかったが、党の最高幹部会議による戦略の失敗を個人の責任になすりつけられて処分された「アカハタ」の編集局長の聴濤(きくなみ)克己氏は、もんもんと苦悩するうちに死んだ。また、彼の長男で中国の人民大学出身の聴濤学氏は親中国共産党派であったので反党分子として除名され、これまた悶々とするうちに死んだが、その死因や死亡経過には不審な点がある。

 どうか、読者のみなさん、日本共産党によって殺された、あるいは死に追い込まれた人の話しを知っている人がいたら、私にまでご一報をお願いしたい。そうして、日本共産党による犯罪の実態を明らかにしていこうではないか。それは、日本共産党によって殺された人の無念を晴らすためにも、ぜひ、必要である。

 また、私をふくめて、日本共産党を批判したために日本共産党により代々木病院の精神科に連れて行かれるなどして精神医療を悪用した人権弾圧を受けた三人の事例も明記される必要がある。三人とは、私と兵本達吉さんと宮地健一さんである。

 まったく共産主義は許せない。健康で全然病気でない人を共産主義を批判するなどという理由で精神病院に強制収容するとは。しかも政治的偏執狂などという民主主義国家では認められない病名をでっちあげて。元共産党の国会議員の秘書であった兵本達吉さんは、1990年、信頼のおける友人3人への年賀状に「宮本独裁30年」と書いた。そうしたら、密告により、共産党本部の書記局から呼び出しがあり、「兵本氏は一連の東欧の社会主義の崩壊を目撃して非常にショックを受けたために、年賀状を書いた時は精神が動揺して精神的にも不安定だった」とされ、共産党系病院の総本山である代々木病院の精神科での診察、精神鑑定を強要されたのである。

 私は東京の日本共産党の中野地区委員会の専従だった時に日本共産党を批判するなどしたところ日本共産党の中央委員会の指示により代々木病院の精神科に連れて行かれた。1989年1月31日のことである。その後、共産党の犯罪を告発しようとする私に対して、共産党は私を自殺の常習者や不倫の常習者、変質者にでっち上げ(もちろん私は自殺未遂はなく、不倫とは無縁で、変質者とは正反対のまじめな人間である)、精神科に連れていかれて当然の人間にでっちあげたのである。そして、私の出入りする先々、たとえば、東京青山の国連大学や霞ヶ関の国会図書館に共産党系医療団体である全日本民主医療機関連合会の職員とともにおしかけたのである。あるいは、東京新宿にある東京医大病院に私が歯の治療で手術をしている時に病院内の共産党員らが私をそのまま精神科に入院させろと押しかけてきたこともある。詳しくは私の著書『日本共産党に強制収容所』を読んでいただきたい。

 共産党系の病院は宮本顕治や不破哲三など共産党の指導者にたてついた共産党幹部の収容先となっていて、志井和夫委員長も2005年に「かぜ」を理由に静養という名のもとに長期間入院させられた。その他にもたくさんの共産党の幹部が代々木病院に収容された。

 いろいろなことを考えると、日本共産党による犠牲者は約一万人であると推定される。この他にも、過激派による死者、社会党による死者などについても研究されなければならない。社会党系の教員が学校で校長先生などの管理職をつるし上げ、たびたび自殺に追い込んだことはよく知られている。

 また、大東亜戦争は、共産主義者の陰謀により引き起こされたことが、最近の研究で明白になっている。共産主義者にとって、大規模な戦争が起これば、戦争を内乱に転化させ、共産主義国を増やすことができるのである。それは、レーニンの有名なテーゼである。日中戦争の発端となった1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件は、長い間、中国を侵略するために日本軍が仕組んだ事件であるとされてきたが、実際は、中国共産党が大東亜戦争を起こすために仕組んだ事件であることが明らかになっている。この小さな事件を事変に、さらに戦争へと拡大するのに日本政府に潜む共産主義者たちが一役買った。また、共産主義者の陰謀として、「ハル・ノート」も有名である。アメリカ政府に巣くっていた政府高官の共産主義者グループは、ルーズベルト大統領に実行することが不可能な要求を日本に提示させ、日本に戦争させたのである。となると、大東亜戦争、太平洋戦争の犠牲者も共産主義の犠牲者として、共産主義犠牲者博物館に展示する必要がある。大東亜戦争を起こした共産主義者の陰謀については、たくさんのすぐれた研究書が出版されているので、どうか読んでいただきたい。

 残念なことに、日本共産党と日本の左翼の犯罪は、世界中の共産主義博物館に記されていない。これではいけない。みんなで世界中の共産主義博物館に手紙を書いて、日本共産党の犯罪を共産主義の犯罪に加えてもらおう。みんなで日本共産党と日本の左翼の犯罪を広めよう。

 

○ ポーランドとチェコスロバキア(現在はチェコ共和国とスロバキア共和国に分離)でのドイツ系民族大虐殺編

 

 スターリンの、共産党に従わない民族への大弾圧は有名であった。ウクライナで人為的な飢餓を起こしウクライナ人を大量に餓死させたり、クリミア半島の民族やタタール民族やチェチェン民族やグルジア地方のメスクヘティアン民族やモンゴル系のカルミクミン族やドイツ系住民を、民族まるごと戦争の初期に極寒のシベリアに追放したりした。

 東欧の共産主義国家もスターリンに負けず劣らず自分たちに都合の悪い民族を大弾圧した。ドイツ系住民は標的であった。東欧諸国で、ドイツ系住民はありとあらゆるものを奪われ、追放され、多くの者が死んだ。実質上の民族大虐殺である。特に、ポーランドとチェコスロバキアでひどかった。

 ソ連赤軍は、ナチスドイツの攻勢を押し返し、東ヨーロッパに進出するにつれ、ドイツ系住民を虐待し、シベリアに奴隷労働者として連れて行ったり、無一文で追放したりしたが、その後を引き継いだポーランドとチェコスロバキアの共産主義政権はソ連のやり方はてぬるいとドイツ系民族をまるごと弾圧した。

 第二次世界大戦の前でさえ、チェコスロバキアには約25パーセントのドイツ系住民がいた。ポーランドのドイツ系民族はそれよりは少なかったが、ポーランドの国境を、ソ連がポーランドの東側を併合したので西側に拡張すると連合国が決定したために、戦後はドイツ系住民の割合は高まっていた。ポーランドとチェコスロバキアの政府は、ドイツ系住民から財産のすべてを取り上げた後、無一文で追放した。厳しい環境のもと、彼らの多くが生き延びられないであろうことを承知の上で。1945から1948年にかけて約1200万のドイツ系住民のうち、約1100万が追放され、飢餓などのために150万が死亡した。

 まったく許されないことに、当時暫定政権であったポーランドとチェコスロバキアの共産主義者は、意図的にドイツ系住民への民族丸ごとの大弾圧を行った。彼らは、ドイツ系住民から財産を取り上げ、彼らの資産とし、政権の基盤がために必要な物資を手に入れようとしたのである。さらに、ドイツ系住民の追放によって引き起こされる混乱は、共産党の政敵を弾圧するのに最適であった。混乱に生じて、政敵を撃滅するというのは、共産主義者の常套手段である。

 自国を占領したナチスが憎いというよりも、周到な計算の上にドイツ系民族丸ごとへの大弾圧を行ったポーランドとチェコスロバキアの共産党は許されない。

 

○ ユーゴスラビア編

 

 ユーゴスラビアはソ連共産党とも中国共産党とも手を結ばず、非同盟であったために良いイメージを持っている人が多い。ユーゴスラビアのチトー大統領は、アフリカやアジアの第三世界の国々と共同し、多民族国家を上手に運営し(ご存知のように、ユーゴスラビアはチトー大統領の死後、ただちに内戦状態になり分解してしまった)、理想の国家をつくったと思っている人も多い。日本の共産主義者が、来たるべき共産主義国家日本のモデルの一つとしたこともある。しかし、実際は、ユーゴスラビアの共産党とチトー大統領は無実の国民を百万人以上死に至らしめた犯罪者である。

 スターリンの大粛清時代に、ソ連に亡命していたユーゴスラビアの共産主義者はほとんどが処刑された。チトーはスターリンの粛清をまぬがれた数少ないユーゴスラビア共産党員である。そのおかげでチトーは1930年代後半に自然にユーゴスラビア共産党の指導者となった。チトーはヒットラーがソ連に侵攻した後、ユーゴスラビアで対ナチゲリラ戦を指揮した。第二次世界大戦の最中、チトーはナチと非共産党のナチへの抵抗者と、二つの戦いをした。チトーは彼の手で、その時、十万人の無実の人を殺した。戦争は、彼に共産党への敵対者を抹殺するという好条件をもたらした。この戦略によりチトーはドイツの降伏のあと、ユーゴスラビアを完全に支配することができた。

 第二次世界大戦の後に権力を握った他の東欧の共産主義者と違って、チトーは独力で権力を握った。チトーは望んだとおり、独力で権力を得た。処刑が行われ、強制収容所が建設された。ドイツ系住民の民族単位での追放が始まった。スターリンは東欧諸国で一時的にせよ民主主義の擬態を取ったが、チトーの警察はただちに国を支配した。1948年のスターリンとチトーの断絶は、モスクワに少しでも忠誠を見せる人への手当たりしだいの粛清を引き起こした。チトーは多くの人をソ連よりとして処刑し、強制収容所に送り込んだ。チトーはソ連の攻撃から自分の体制を守るために西側の応援を求めたが、その影響もあって1950年代以降、国民の虐殺は弱まった。しかし、チトーは無実の国民百万人以上を殺害した。

 

○ エチオピア編

 

 アフリカにもいくつかの共産主義国が存在した。その一つがエチオピアであった。エチオピアはソ連共産党から正式に共産主義陣営として認められ、膨大な援助を受けていた。共産主義国家エチオピアの指導者はメンギスであった。彼は共産主義国家を指導した1977年から1991年の間、無数の処刑や人為的な飢餓により膨大な無実のエチオピア人を殺した。

 もともとエチオピアは皇帝のもとで長年にわたって独立し、アフリカの中で成功した地域であったが、マルクス主義者が動乱を起こし権力を掌握した。当時、エチオピアはエリトリアとの間で抗争をかかえていたが、メンギスは皇帝を倒すと、ただちにエリトリアの運動の徹底的な弾圧に着手した。何人かのマルクス主義者の中には、アンドム国防大臣のようにエリトリアの反乱軍との和平交渉を主張する者もいたが、メンギスは彼の家に押しかけて彼を殺害し、その夜のうちに他の59人の政府の役人がメンギスの命令で射殺された。

 メンギスは徹底的にライバルを粛清した。1976年にはライバルであったジャモル将軍を右よりの傾向を支持したという理由で処刑した。1977年には会議の場で、メンギスのボディーガードの銃が突然火を噴き、ライバルのテフェリ将軍らを殺害した。1978年までにはもともとの党の指導者の120人のうち80人がメンギスの命令によって射殺された。メンギスは粛清をレーニンのことばを引用して必要なことであると主張した。

 メンギスは急速な農家の集団化を実行した。まず、土地を所有していた農家が家族ごと残酷な方法で皆殺しにされた。次に、中国をまねた急進的な集団農業の実践により、人為的な大飢饉が起きて、数十万人の人が死んだ。それでも、メンギスは飢餓の救済に国家予算を使わず、軍備の増強に走った。飢餓が最高に達した1984年、国家の収入の60パーセントは軍事費に使われていた。

 メンギスは中国の紅衛兵をまねて若者に共産主義をたたきこみ地方に送った。しかし、彼らが過激になりメンギスよりも毛沢東などを尊敬しだすのを見ると、一転して彼らを反革命者とし、地の大弾圧を行った。東ドイツの秘密警察の援助のもと、メンギスの秘密警察はキャンペーンが始まって数日間で数千人を反革命者として逮捕した。メンギスがもともと憎んでいた知識人階層である大学の教授や学生は特に標的となった。公開処刑が行われ、死体は街にさらされた。愛する者を失った家族は死体を見せられ、諸兄に使われた弾丸の代金を請求された。首都アジスアベバだけで一万人以上が殺害された。

 さらにメンギスは高校生を処刑の対象とした。共産党に忠実ではないとでっちあげられた高校生が殺害された。一週間だけで五千人以上もの高校生が殺されたこともある。スウェーデン人はメンギスの秘密警察によって殺された数千人の子供の死体を目撃した。

 ソ連の崩壊後、エチオピアへの共産主義ブロックからの援助は途絶え、アメリカの大統領であったカーターなどがメンギスと反政府勢力との間の内戦の和平交渉をとりもつことを買って出たが、メンギスは拒否し、反政府勢力との徹底的な戦いを主張し、いたずらに死者を増やした。

 1991年、共産主義国家エチオピアは倒れ、メンギスはジンバブエに亡命した。

 

○ ベトナム編

 

 ベトナム共産党の独裁者であったホーチミンは1920年のフランス共産党創立大会に参加したこともある筋金入りの共産主義者であった。20代前半にはモスクワで鉄の共産主義教育を受けた。そして、権力を掌握後、ベトナムにたくさんの強制収容所を建設し、粛清を行い、少数民族を弾圧し、宗教者を弾圧したのである。ベトナム統一後だけで一万人近くが殺害された。

 ホーチミンを美化する勢力は日本には多い。たとえば日本共産党は今は廃止された独習指定文献にベトナム共産党の戦いを描いた小説を入れていたが、そこではホーチミンとベトナム共産党は、アメリカなどの横暴に反対する普通の人たちとして描かれている。また、ホーチミンらはソ連から援助をもらうためだけに共産主義者を名乗っただけだと宣伝する人たちもいる。これは、日本共産党が冷戦時に非同盟諸国のリーダーとして活躍したベトナムをまねしたかったので、意図的に流した虚偽であろう。実際のホーチミンは前述のようにごりごりの共産主義者であった。

 

○ キューバ編

 

 キューバでは、独裁者であるカストロ首相率いるキューバ共産党により残酷な人権抑圧政治が続いている。自由や民主主義を主張する者は投獄され拷問を受ける。今でも世界人権宣言を所持していただけで逮捕されたりする。最近、キューバを美化し、キューバを賛美する人たちが増え、そのような人たちにだまされてキューバを旅する若者が出てきたが、われわれはキューバ共産党の犯罪の真実を明らかにし、日本人がカストロにだまされないようにキューバ共産党の真実を広めなければならない。また、日本が中国と対決するためにアメリカとの同盟を必要としているのであれば、キューバ共産党と対決するアメリカ政府に理解を示し、カストロの犯罪を広める義務がある。日本人が中国や北朝鮮と対決するのにアメリカに助けを求めるが、逆にアメリカの敵であるキューバと仲良くしようとするのであれば、アメリカは日本を助けないであろう。

 カストロがクーデターによりバチスタ政権を倒した時、カストロはキューバ国民を解放したと宣言し、腐敗を一掃し、私有財産を保障し、報道の自由を保障し、アメリカ政府と友好関係を維持すると約束した。アメリカのマスコミはカストロを賞賛し、カストロをキューバのジョージワシントンだと賞賛する著名なニュースキャスターもいた。元アメリカ大統領のハリートルーマンもカストロをキューバ国民のための最適の若者と呼んだ。実際、当時はアメリカ政府は中南米の国の政府が新しくなった時に認知するのに数週間かけていたが、カストロのキューバ政府は数日で認知した。歴史はいつでも繰り返されるものである。カストロの非人間的な本性を訴え、カストロの危険性を訴える者は異端視され冷たい視線を浴び、カストロにだまされてカストロを賛美する者が大手を振って街を歩いたのである。

 しかし、正しい者が勝つのは歴史の常である。すぐさま、共産主義者カストロの危険性を訴える者が正しいことが明らかになった。

 カストロがハバナに入ってから数ヶ月のうちに、六百人から千百人の少年から男性が殺害され、キューバの刑務所はバチスタ政権時代の十倍以上の囚人であふれかえった。一年過ぎると、カストロはアメリカを人間性を食い物にするハゲワシと呼び、すべての新聞とテレビを統制し、外国の資産を没収した。そして、カストロは1961年12月に彼自身を一生のマルクスレーニン主義者と名のった。

 キューバ国民はカストロが独裁するようになってから悲惨な目にあうようになった。

 1992年までに約200万人のキューバ人がキューバを逃れようとした。彼らのほとんどは、わずかばかりの衣類を携えての必死の脱出であった。キューバ人であるアメリカの学者のアルマンド・ラゴ博士の推定によると約8万3千人のキューバ人がキューバからの脱出を試みている時に海で生命を落とした。

 共産国であるキューバの悲惨さはその自殺率の高さにも現れている。1986年、キューバ人の自殺率は千人の国民に対して24人の割り合いに達した。この数字は他のラテン諸国の二倍で、カストロ以前のキューバの三倍で、世界中の女性の中でもっとも自殺するのがキューバの女性であるということになり、15歳から48歳のキューバ人の死因の第一位が自殺ということになった。そのため、キューバ政府は自殺に関する統計を公表しなくなり、国家機密とした。

 1959年1月8日にハバナにはいってすぐ、カストロは親友であるチェ・ゲバラを処刑者に任命した。チェ・ゲバラは「人々を処刑せよ。裁判は必要ない。法律の手続きはブルジョアの遺物だ。これは革命だ。革命家は、純粋な憎悪による冷酷な殺人マシンとならなければならない」と宣言した。そして、キューバには死体の山が築かれた。最終的には8千人以上が殺害されたと見積もられている。

 キューバの人口は1960年に620万人であった。フリーダムハウスという自由と民主主義のための有名なNGOの報告によると50万人のキューバ人が強制収容所を経験し、1961年から2年にかけては30万人のキューバ人が強制収容所に収容されていたという。この率は、カストロの投獄率がヒットラーのそれよりもスターリンのそれよりも高かったことを示している。

 また、世界の中でもっとも強制収容所に長期間収容された人はキューバ人の収容者である。セノレス・マリオ・チャネス・デ・アルマスやエンジェル・デ・ファナやユーセビオ・ペナルベルなどは30年以上もキューバの強制収容所に収容されたままである。

 詩人のアルマンド・バラダラスも30年の強制収容所生活を体験するところであった。彼は、カストロを支持するスローガンを机に置くことを拒否して1960年に30年の投獄の刑を受けたのである。彼は拷問を受けてもカストロに屈服しなかった。欧米の政府が彼の釈放のために動き、国際的な人権団体も彼の釈放のために運動した。そして、カストロは彼を釈放した。このように、共産主義者への国際的な圧力がどれほど大切かが理解できる。

 1965年にキューバで共産主義への敵対活動が一段落し、世界でもケネディとフルシチョフの会談で雪解けが訪れると、カストロ体制はキューバ国民を脅すのに新たな口実が必要となった。そのために、カストロは若者をターゲットにした。カストロは、長髪やロック音楽を愛好する若者や同性愛の青年を、反社会主義的分子とか逸脱者として大量に逮捕した。

 1980年代半ばにはそのような若者の100人以上がエイズ治療薬の実験台にされ、死亡した。亡命者であるウラジミール・セバロスさんのドキュメンタリーフィルム、「呪われた名前、自由」にその陰惨な出来事は記録されている。なお、エイズ治療薬の開発の目的は、治療薬を開発してアメリカなどに売り外貨を稼ぐことであった。

 同じようにキューバ政府は1980年代半ばに若者をだまして集めて、エイズ治療薬の実験台にして殺害した。キューバ政府はテレビのコマーシャルでエイズ療養所は豪華な食事とプールとカラーテレビがあり地上の極楽であると宣伝し、若者を集め、エイズに感染させ、死亡させた。豪華な生活を夢見て多くの若者が集まったが、エイズに感染させられ、ほとんどはハバナのサンティアゴ・デ・ラ・ベガス近くのエイズ療養所で数年のうちに死亡した。

 カストロも毛沢東や金日成に負けず劣らず権力欲に強く粛清を繰り返し目的を達成するためならどんなことでもする陰謀の好きな人間であった。

 革命キューバの最初の大統領であるマニュエル・ウルティア氏は、カストロに大統領に任命されてからちょうど六ヵ月後に、大統領執務室のテレビでカストロが彼を共産主義を少し批判したという罪で反逆者とレッテル張りしているのを見た。その数分後にドアの向こうに騒々しい足音を聞いて、ウルティア氏は後方のドアから逃げ出し、深夜遅くベネズエラ大使館に牛乳配達人を装って逃げ込んだ。

 ヒューバー・マトス司令官は、カストロにより革命の救世主と賞賛された。彼は大量の兵器をキューバに空輸し、キューバ革命を成功に導いた。マトスは、キューバ革命の成功後、60人以上のバチスタの兵士を処刑した。その中には怪我をしていたために担架に載せられていた兵士も含まれていた。  

 マトスはすぐさまカストロの共産主義革命に幻滅し、真の革命を訴えた。カストロは直ちに彼を処刑したかったが、彼が真の共産主義の殉教者になることを恐れて、幽閉した。彼は20年幽閉された後、1979年に釈放され、現在はアメリカのマイアミでキューバ民主独立運動のリーダーをしている。

 アマルド・オチョア氏はアンゴラ内戦やエチオピアのエリトリアの反乱軍制圧で功のあるすぐれた将軍であった。しかし、1989年7月13日に彼はハバナの郊外で処刑された。キューバの麻薬の密輸に対する国際的な批判の高まりを抑えるために、カストロがオチョア将軍に罪をなすりつけ、スケープゴートにしたのである。また、亡命した空軍の将軍であるラファエル・デル・ピノ氏の説によると、カストロはオチョア将軍の、カストロの命令に無条件に従わない独立した人格を嫌ったという。また、オチョア将軍は、カストロが非難するゴルバチョフの改革に理解を示した。悪いことに当時のキューバの軍隊の指揮官はソ連で訓練を受け、ソ連の軍指導者と仲が良かったのである。

 カストロのテロリストとしてのキャリアは、彼がハバナ大学の学生であった頃から始まっていた。カストロは、学生の共産主義グループの指導者争いのライバルであったマノロ・カストロ氏を殺害し、レオネル・ゴメス氏を殺害しようとしたが未遂に終わった。殺害現場を目撃し、法廷で証言をする準備をしていた学内警察官のフェルナンデス・カラル氏は一九四八年七月七日にカストロによって殺害された。非番であったカラル警察官は五歳の息子とともに家の玄関にいたが、カストロは胸をピストルで撃った。

 

○ カンボジア編

 

 カンボジアの共産主義ポルポト政権は、1975年に首都プノンペンを制圧してから1979年1月7日にベトナム軍がプノンペンを占領し、同月12日にヘン・サムリン政権がカンボジア人民共和国の樹立を宣言するまでの3年8ヶ月の間に国民の約3分の1に当たる200万人近くを殺害した。人類は決してこの事実を忘れてはならない。

 私の研究によると、この悲劇はポルポト政権がマルクス主義、共産主義を原則的に忠実に実行しようとしたから起きたのである。カンボジアの悲劇は共産主義からの逸脱ではない。中国の文化大革命と同じように共産主義理論を徹底した結果である。その意味で、ポルポト政権の研究は共産主義の本質を知る上で欠かせない。ポルポト政権を研究すれば、共産主義の行き着く先がわかる。なぜ、文化大革命やポルポト共産主義を共産主義の徹底と言うかについて知りたい方は、いつでも筆者まで連絡いただきたい。

 カンボジア共産党は政権を奪取すると、直ちにその日は人類の新しい歴史を切り拓く記念するべき日になるであろうと宣言した。彼らは、直ちに資本主義と市場と貨幣を廃止してみせると宣言した。そして、その年の年号をゼロ年とした。

 カンボジア共産党は、人々は新しい共産主義的人間に生まれ変わらなければならないと主張し、革命前の個人の記録やドキュメント、アルバムなどを一切捨て、頭をいったん白紙にすることを要求した。彼らは、革命には不要と、愛した故人の思い出を一切焼却し、忘れることを要求した。

 カンボジア共産党はプノンペンを制圧して数時間のうちにすべての都市住民に郊外に移住し「農業ユートピア」を実現するように要求した。他の都市でも同じようなことが行われた。都市の退去までには24時間しか与えられなかった。理由を問われると、カンボジア共産党はアメリカが爆撃しようとしているからだと嘘をついた。

 カンボジア共産党は、「理想の共産主義的農業ユートピア」の実現の障害として都市住民を憎んだ。彼らは、テレビやラジオや新聞により資本主義に汚染されポルポト政権に異を主張する可能性のある敵であった。夫婦も親子も別々の農業基地に行かされた。そして、再会することはできなかった。愛する人が死んだという知らせが届いても悲しむことはできなかった。ポルポト政権は、革命に無用な人間的な感情、愛する人への悲しみなどのいっさいを表現しないことを要求した。共産主義者の非情な要求に絶望した人たちは自殺した。最後には、ポルポト政権は国内の郵便を禁止したために、愛する人の音信すら知ることができなくなった。

 カンボジア共産党は子供を親から引き離し、カンボジア共産党に盲目的に従う人間へと教育しようとした。

 運良く同じ農業基地に夫婦が配属されても性交は死刑に当たるものとして禁止された。家族で暮らしても、子供は親の思想を報告するように教育された。このような政策の結果、カンボジアの出生率は65パーセント下がった。

 都市から郊外の農業基地への食料も水もほとんどない強行徒歩軍の過程でたくさんの人が疲労や病気で死んだ。しかし、カンボジア共産党は革命に奉仕できない貧弱な人間が淘汰されるのだと肯定的にとらえた。

 都市からの移住者は、農業基地に到着すると私有財産をいっさい禁止され、共同生活を要求された。そして、カンボジア共産党は元住民との間に差別を設け、お互いが憎しみあうようにした。時々、都市からの移住者によりよい農業基地への募集があったが、それは罠であった。応募した者は、利己主義の強い反共産主義者として、再教育収容所に送られた。そこでは、食料も医療もなく、収容者は壁に鎖でつながれ、平均寿命は三ヶ月であった。しかし、ポルポトは国内には一つも収容所、刑務所は存在しない。あるのは、教育センターだけであると主張した。

 すべての人間性、創造性、創意、個性は完全にカンボジアから消滅した。教育、移動の自由、貿易、医学、宗教、執筆は消滅した。すべての国民は首までボタンのある黒いシャツを着用するように義務付けられた。許される行動は少なくなった。愛情の表現、議論、侮蔑、不平、涙などすべて禁止された。苦しんでいる他者を助けようとする者に兵士は言った。「君には彼を助ける義務はない。君にはまだ哀れみと友情の感情が残っている。君はそのような感情を消し去り、個人主義を君の頭の中から払拭しなければならない。」死ということばを使うことはタブーとされ、人々はかわりに消滅した肉体と死者のことを呼んだ。

 人々の空腹はポルポト政権にとって有用だった。人々がやせ衰え、逃亡する体力をなくすからだ。

 カンボジア共産党は技術を徹底的に拒否した。カンボジア共産党は、ダムや運河を建設するのに必要なものは政治的な教育のみだと主張した。技術なしで作られるダムの建設現場では一度に数百人の労働者が水に呑み込まれる惨事が起きたりした。技術者は黙っているしかなかった。もし、忠言をしようものなら、野蛮な拷問を受け、処刑されるのであった。カンボジア共産党は、「我々は資本主義者の技術を必要としない」と主張し、医者も技術者も否定した。カンボジア共産党は、人民を農業で働かすだけだと主張した。

 ポルポト政権の基本戦略は人々を共産主義思想以外の考え方には無知にしておくことであった。学校はすべて廃止された。識字率はポルポト政権にとってどうでもいいことであった。国民は自由や人間の尊厳といった考え方に触れることはなかった。

 外国の影響は徹底的に排除された。フランス語や英語を含むすべての書物は廃棄された。外国の書物を所持する者はCIAかと詰問された。

 革命に先立って、公務員であったり知識人であったりしたような教育を受けていた者は粛清された。特に、メガネをかけている者は、読書や学習のシンボルとしてすべて粛清された。

 ポルポトの大虐殺はすさまじいものであった。ある地区では、7万人の居住者のうち4万人がCIAとの共謀による反逆者として殺害された。カンボジア居住の中国人やベトナム人も殺害された。ベトナム人の友人やベトナム語を話す者も次々と殺された。カンボジアにはイスラム系のチャム族が1970年に25万人いた。しかし、ポルポト政権の最後の時、チャム族は半分近くになっていた。

 ポルポト政権下では、宝石を身に着けていること、性交をすること、亡くなった親族を悲しむこと、家畜を失ったり飼育に失敗したりすること、割り当てられた仕事を終えられないこと、体制について否定的なことを言うこと、空腹であるということなど、すべて死罪に値した。なによりも、カンボジア共産党の兵士はただ単にそうしたいからという理由で国民を殺すことができた。ある場合は、兵士は人々を農作物の肥料にしたいからという理由で殺害した。

 ポルポトはスターリンや毛沢東と違って個人崇拝をしなかった。著作も公表せず、伝記も作らず、写真も肖像画も作らなかった。そして、ミステリアスなイメージを作った。ポルポトは、その方が、恐怖により国民を支配しやすいと考えたのである。

 ポルポトの大虐殺の数字は大小さまざまある。ベトナム共産党の傀儡であったカンボジア人民共和国は300万人と主張し、アムネスティ・インターナショナルは140万人、ヤール大虐殺プロジェクトは170万人であると計算している。どちらにしても、カンボジア全国民の7分の1から3分の1がポルポト政権により殺害されたのである。

 

○ ソ連編(レーニン編)

 

 日本共産党をはじめ、左翼はレーニンを過ちを犯さない偉大な指導者として描いている。しかし、ソ連の崩壊後に明らかになった資料は、レーニンが無実の人を情け容赦なく殺害する殺人鬼であることを暴露した。日本共産党はこれまで発行したレーニンに関する本をすべて回収し、これまで国民に嘘を教えてきたことを謝罪しなければならない。

 レーニンはロシア革命に成功すると直ちにKGBの前進である秘密警察、チェーカーを作った。チェーカーは裁判をすることなく「人民の敵」を次々に処刑した。1918年7月にはチェキストの数は特別部隊を勘定に入れずに2000人になった。同時期、内務省には400人しかいなかったのだから2000人とは巨大な数字である。さらにその数は、年末には約4万、1921年初めには28万人以上に増加した。

 有名なレーニンの虐殺事件にアストラハンの虐殺とクロンシュッタトの虐殺がある。どちらも、レーニンの政策に反対してストライキを行う労働者に対してレーニンが血の弾圧を加えたもので、前者では3千から5千人が、後者では2000人が裁判もなしに殺された。