鹿児島のコリーの歴史


  鹿児島のコリーの歴史について
 コリークラブの会報コリーファンシー
 1973年2月号の「九州のコリー」より
 引用しました。(原文どおり)
 
「九州のコリー」 ◎戦前のコリーについて
 コリー風土記−鹿児島 谷村鴻章氏
 「九州のコリー」

 表題のテーマで原稿の依頼を受けましたが,急なことで日時がなく資料も集まりませんので,思いつくまま書いてみたいと思います。

◎戦前のコリーについて
 鹿児島以外の県にコリーがいたかどうかはっきり知りませんが,大正10年鹿児島に米人宣教師イー・アー・ブール氏が牡牝各1頭のコリーを連れて来朝し,繁殖がなされ数年後この犬は鴨池動物公園に寄贈されました。これ等のコリーが基礎となって鹿児島コリーの歴史が始まったものです。そしてだんだんと愛好家も増えて昭和8年に獣医師の高野季信氏,勝目清氏,山下梯助氏,宇都泰造氏等が中心となって鹿児島コリークラブが誕生したのですが,やがて支部事変が大東亜戦争戦争へと進展し趣味の会のコリークラブも自然消滅してしまったのです。

 私の家でも番犬として前述の鴨池動物公園で生まれた牝コリーを飼育しましたが繁殖をこころみましたが,生まれませんでした。その後2代目のコリーはベルという 呼名の牡でこの犬は戦前戦後をとおして家族と苦楽をともにしました。この犬について思い出話を書いてみます。

 戦時中は犬の数も少なく鹿児島市に7〜8頭いたような記憶ですが,現在とちがって自動車もほとんど通らず紐なしでのんびり散歩したものですが,通りすがりの人が「わあ!ライオンが来た」と言ってこわがったり珍しがって道をあけてくれたものです。
戦争も末期の頃食糧不足から「畜犬撲殺令」なるものが出来て命令で犬はすべて殺される運命になり最後の別れの朝がやってきました。
 大事なとっておきの牛肉の罐詰をあけて腹一杯食べさせ,泣く泣く家族と別離を惜しんで市役所に連れていったのですが,係官が純粋犬を見る目があったのでしょうか。これは珍しい貴重な犬だ殺すにしのびない,特別に連れて帰って大事に飼ってよいと無罪放免になって,天にも昇る気分で大喜びして犬を連れて帰って家族全員が犬を抱いて喜び合ったものです。

 また家族と一緒に隣家に落ちた爆弾の爆風を受けましたが奇跡的に助かり田舎に疎開しました。この時のショックで一時放心状態で耳も聞えないようでしたが,それも日が経つに連れてよく治って敵機B29の爆音を空襲警報のサイレンよりも早く聞きわけさかんにほえ走り廻ったものです。このように家族の一員として苦楽を共にし,戦後長女が3歳半になるまで番犬として,また子供の遊び相手として老後をおくり昭和24年に一生を終わりました。

 もう一つ悲しい思い出があります。昭和20年6月17日の大空襲で全市が殆ど消失しましたが,その時近所の田原醸造店のトライのコリーが家族と離反して難をのがれ,戦火のおさまった自分の家の焼け跡に主人を待つションボリ疲れきった姿のコリーの悲しい思いでもあります。