デモクラシーを論じること

・・・・・・(前略)・・・・・・
重要なのは、このエリート主義的な要素を受け入れたことではじめて、デモクラシーが政治的に有効な選択肢として採用されるようになったという抗いようのない事実である。それは単にデモクラシーが技術的に実現可能になったということを意味していただけではなかった。エリートによる意思決定が少なくとも部分的には政治にとって不可欠であり、さらに衆愚政による弊害の防波堤となりうるという論点が加わったことによって、はじめてデモクラシーが総体的に望ましいものと考えられるようになったということでもあったのである。もしこのエリート主義との組み合わせを望ましいと、あるいは望ましくはないとしても不可避であると考えるのであれば、新しいデモクラシー論の潮流がよりラディイカルなデモクラシーの構想を求めれば求めるほど、それに対応するためのエリート論の練り直しが必要となる可能性を無視するわけにはいかないだろう。そしてエリート論を組み入れなければならない度合いに比して、新しいデモクラシー論は、エリート論と距離を取る直接民主主義的性格を強調するがゆえに、自らを「デモクラシー」として規定することに困難を見出すということにもなりかねない。逆に利益集約型の側では、新しいデモクラシー論との関係において、非デモクラティックなエリート主義的要素が強調されていくということになるであろう。つまり、デモクラシーの根源的な意味合いを突き止めようという試みが真摯であればあるほど、エリート論を排除する「純粋」デモクラシーとエリート論と妥協した「似非」デモクラシーとの二項対立的な図式の中で、かえってデモクラシーの意味付けが曖昧になってしまうという危険性があるのだ。
・・・・・・(後略)・・・・・・