模擬授業 〜民主主義の色々な形〜


民主主義の色々な形


早川誠
2002年11月3日立正大学熊谷オープンキャンパス模擬授業
於6102教室


 民主主義。私たちは当たり前のようにこの言葉を使っています。日本は民主主義の国であって、その中では国民一人一人の声が大切にされます。憲法にも国民が主権を持つという国民主権の原理が定められていますし、もっと身近にはたとえば学校での学級会だって、一人一人の意見をしっかりと聞きながら会議が進められているはずです。
 でも、民主主義という言葉が当たり前な割には、「民主主義ってなんですか?」と聞かれると困ってしまう人も多いのではないでしょうか。いったい民主主義の「定義」ってどんなものなのでしょう。例えば、数学で「円」の定義といったら、「中心から等距離にある点の軌跡」でしょうし、「三角形」の定義ならば、「三つの点を結ぶ線分によってできる図形」となりますよね。それでは、「民主主義」は?
 とりあえず、高校の政治経済の教科書をのぞいてみましょうか。山川出版社の『改訂版現代の政治・経済』(1998年検定済)には、こんな風に書いてあります。「『政治は国民の意思にもとづいて国民の手によりおこなわれるべきだ』という思想を『民主主義』、それにしたがってつくられた政治制度を『民主制』といい、その制度のもとで行われる現実の政治を民主政治という。英語ではいずれもデモクラシー(democracy)という言葉であらわされる」(25ページ)。どうでしょう、これでわかりますか?他にも、東京書籍の『政治・経済』(平成10年検定済)では、こうです。「民主主義とは、人民が複雑なルールや代表者を組み込みながら人民のための自治、自己統治を行っていく政治のしくみである」(26ページ)。それから、参考書も見てみることにしましょう。大学受験生の皆さんはよく使うと思いますが、山川出版社の『改訂新版政治・経済用語集』での定義はこうなっています。「民主主義の語源は、ギリシア語のdemos(民衆)とkratia(権力・支配)を結合したもので、国民の意思に従って政治を行なう政治体制。市民革命以後の近代民主制は、人権の尊重、権力分立、法の支配、国民主権などの原則と結び付いて発達した」(19ページ)。
 さてこうして見てみると、民主主義というのは、非常に大雑把に言えば、人々が自分自身で政治を行っていくことを意味している、と考えてよさそうですね。ところで、「あれ?」と思った人もいるのではないでしょうか?私たちは、民主主義というのは現代になって初めて生まれてきた政治の形のように思いがちです。例えば、世界史や政治・経済を習うと「社会契約説」というのを教わりますよね。つまり、イギリス革命やフランス革命(『ベルサイユの薔薇』の世界ですね)の時期に、人民が平等な立場から契約を結ぶことで国を作るんだという考えが、王様による支配という考え方に代わって出てきたんだと。日本国憲法が前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって」と定めているのも、こうした考え方にもとづいているんだ、と教わるのではないかと思います。ところが、『政治・経済用語集』の定義を見直してみると、民主主義の語源は、ギリシア語だと書いてありますね。そしてこのギリシア語が使われていたのは、フランス革命のあった18世紀ではなくて、なんとそれよりも2000年以上前、古代ギリシアの「ポリス」という共同体の中でのことだったんです。
 「ポリス」なんていうと何のことだろうと思うかもしれませんけれど、今で言う「国」のことです。ただこの当時は、「国」は今ほど大きくなくて、一つの都市がそのまま「国」としての役割を果たしていたので、日本語では「ポリス」のことを「都市国家」と訳したりするんですね。特に、ギリシアのアテネは非常に有力なポリスで、ここで行われていた民主政治が古代の民主制の典型的な例だとされています。さて、ここで問題です。2000年以上も前に民主政治が行われていたにもかかわらず、どうしてイギリス革命やフランス革命が起こってから民主主義が発展してきたように教えられるのでしょうか?私たち日本人が大切にしているすばらしい政治制度である民主制は、アテネの民主制と革命の時代の間は、一体どこに行ってしまっていたのでしょうか?
 ヒントを探りに、昔の人の考えを訪ねてみましょう。古代アテネで生まれ育ったプラトンという人がいます。たくさんの著作を残した、非常に優秀な哲学者です。今の時代に生まれてきたら、ノーベル賞級の研究をしたかもしれません。そのプラトンさんの書いた『法律』という本の中に、プラトンさん自身の母国であるアテネの民主制について、こんなフレーズがあります。「万事に関して知恵があると思う、万人のうぬぼれや法の無視が、わたしたちの上に生じ、それと歩調を合わせて、万人の身勝手な自由が生まれてきたのでした。というのも、かれらは、みずからを識者であるかのようにおもうところから、畏れなきものとなり、その無畏が無恥を生んだのです。思うに、思い上がりのために、自分よりすぐれた人物の意見をおそれないということ、まさにこのことこそ、悪徳ともいうべき無恥であり、それは、あまりにも思い上がった身勝手な自由から生じてくるものなのです」(『法律』岩波文庫、216−217ページ)。つまりどういうことかというと、この当時の民主政治について、プラトンさんは、「あまり良くない」と考えているわけですね。どうしてかというと、みんなうぬぼれてしまって、法律を無視したり、自分勝手な行動を取ったりする。注意する人がいても、その人の言うことを聞こうとしない。こういうものが民主政治の現実の姿なんだ、とプラトンさんは言うわけです。そして実際、アテネの民主制は次第に混乱していって、世界政治の中心もローマに移り、ローマでは貴族や皇帝が中心になって政治を行いますから、その後長く民主政治の伝統は消えてしまうことになります。要するに、私たちは民主主義が良いものだと考えていますけれども、昔の人達にとっては、民主主義というのは人々が好き勝手なことをやって混乱してしまう非常に悪い政治の形なんだ、というイメージの方が強かったわけですね。
 プラトンさんの考え方は、もう2000年以上も前の非常に古いものですけれど、でも私たちにとってある意味では馴染み深い主張でもあるんです。例えば、親子関係について、あまりにも親と子が友達感覚で付き合ったりすると親の威厳がなくなってしまうから、親子でも礼儀はしっかり守るべきだ!なんていう主張は、プラトンさんの考え方と似ていませんか?それから、最近はみんな選挙の時に投票に行かないので、投票率が下がって困る、なんていうことも言われますよね。これも、プラトンさんに言わせれば、人々が好き勝手に自分のことばかりを考えて国のことを考えない、悪い風潮の現れだ、ということになるかもしれません。となると、わたしたちの生きる現代でも、プラトンさんの生きていた古代のアテネと同じように、民主主義はやっぱり悪い制度なのだから、変えたほうがよさそうだ、ということにもなりそうです。それではどうして、そんなに悪い政治の形である民主主義を、現代の私たちは受け入れるようになったのでしょうか。
 実は、私たちは日本が民主主義の国だと思っていますけれども、厳密に言えば、日本は民主主義の国ではないとも言えるんです。考えてみて下さい。最初の定義のところで見たように、もし民主主義の定義が「人々が自分自身で政治を行っていくこと」であるならば、本当ならば私たち全員が国会議員でなければおかしいと思いませんか?それから、私たち全員が官僚や裁判官でなければならない、ということにもなるでしょう。もしかしたら、学級会は民主主義といえるかもしれませんね。みんなが議論に参加して、みんなでいろいろな仕事を分け合って、全員参加でクラスの運営をしている学校もあるかもしれません。でも、日本という「国」のレベルではどうでしょうか?そんなことはありませんよね。だから、日本は純粋な意味での民主主義国家とは言えない。
 もっとも、ある意味では、「日本は民主主義ではない」といった私の言葉の方が間違っている、ということも言えるかもしれません。というのは、現代では、私たちは普通、民主主義という言葉で純粋な民主主義のことを意味しようとしないことが多いんです。では、何を意味するのか。実は、現代に「民主主義」という言葉を使う場合には、私たちは普通「自由民主主義」ということを意味しています。「民主主義」の頭に「自由」がくっついていますね。これはどういうことかというと、現代では、民主主義を自由主義というものと組み合わせて使う、というのが常識になっているということなんです。では、自由主義というのは何のことでしょうか。ここで、みなさん興味を持っている「法学部」で学ぶ「法律」というものが非常に大きな役割を果たすのですが、つまり自由主義というのは、民主主義によって身勝手な人々に乱暴な政治を行われてはたまらないから、民主主義が行き過ぎないように、ルールつまり「法律」をつくって、民主主義がうまく行われるように助けてあげましょう、という考え方なわけですね。そして、この「法律」によって民主主義を横からサポートしていくという考え方を、「法の支配」という言葉で言い表したりもします。つまり「人の支配」を追及すると、悪い人が出てきたときに困ってしまうのですが、しっかりとした「法の支配」によって国が治められるのならば、ルールにのっとった落ち着いた生活をみんなが楽しむことができるというわけです。
 こうして民主主義が自由民主主義のことを意味するようになった現代では、それ以前のただ皆が参加するだけの民主主義のことを「直接民主制」というように言っています。それに対して自由民主主義のほうは、例えば国民の中からもう一段上の能力を持つ政治家を選挙で選んで議会を構成するというようなシステムを作っているので、「代議制民主主義」「議会制民主主義」といったり、「直接民主制」と対比する意味で「間接民主制」といったりします。もっとも、「直接民主制」が全くなくなってしまったというわけでもなくて、例えば都道府県や市町村など国よりも小さな政治単位では、人々がお互いを良く知っていてじっくりとした話し合いをしやすいので、みんなが参加できる制度が作られている所もあります。
 いずれにせよ、現代では、民主主義というのは100パーセント完璧な制度ではなくて、いろいろな細かい調整が必要な制度なんだ、と考えられるようになっているんですね。そして、法律を学ぶということは、さっきの「法の支配」の所でお話したように、この民主主義の調整の方法を学ぶということになります。つまり、法学部に入るということは、民主主義を守る守護者の役割を身につけるということ。人々が民主主義の中で幸せな暮らしを送ることができるように、見守り、必要があれば注意をしたり手助けをしたりする、そういう仕事に就くということを意味しているわけです。その意味では、法学部生は、社会を守るエリートの卵です。だから、勉強も大変ですよ。実際、法学部で学ぶことによって得られる資格には、裁判官や弁護士を目指す司法試験から、司法書士や行政書士といった人々の生活に必要な書類作成や事務手続きのプロフェッショナルの資格などがあります。それから、法律を学んで試験を受け、いずれは公務員になりたい、警察官になりたい、という人もいらっしゃるかもしれません。どの道を歩むにしても、難しい試験が待っているということにもなります。でも、その先にあるのは、人々の幸せを守る、という充実感とやりがいのある仕事です。私自身、法学部で教えているということをとても誇らしく思っています。どうぞ、自分自身の手でよりよい社会を作っていこうという意欲のある人、未来の社会に希望を持っている人、エリートとしての責任感を担うことができる人、そういうみなさんに、是非立正大学の法学部へ来て学んでいただきたいと思っています。是非頑張って入学試験を通り、このキャンパスに学びに来て下さい。私たち教員も、みなさんと一緒に学問を語り合える日を、心から楽しみにしています。