(注記)
 以下の文章は、2003年(平成15年)3月1日土曜日に、九州大学箱崎キャンパス法学部研究棟2階大会議室において行われた政治研究会において発表されたものです。正式な報告原稿ではないため当日はこの原稿を配布しませんでしたが(レジュメのみ配布)、当日航空機の運行トラブルがあったためご出席いただけなかった方もいらっしゃるかもしれないということもあり、読み上げ用に作成したものを若干の変更を加えた上で掲載することにしました。
 当日は、福田有広氏による「共和主義」の報告もありましたが、もう一つ予定されていた豊永郁子氏の「リーダーシップ」に関する報告は、残念ながら体調不良との事でキャンセルされました。なお、『デモクラシーの政治学』全体及び各執筆部分について、コメントとして川崎修氏・杉田敦氏・鏑木政彦氏からも短時間の報告がなされました。
 このような貴重な機会を提供して下さった九州大学法学部の皆様、特に関口正司先生、コメンテーターをお引き受け下さいました木村俊道先生、また事務連絡や資料準備の労をお取いただいた鹿子生浩輝様、久野真大様、ご出席の諸先生、助手、大学院生の皆様、その他関係各位にあらためて御礼申し上げます。


九州大学政治研究会発表
「『集団』(福田・谷口編『デモクラシーの政治学』所収)をめぐって」
2003年3月1日九州大学箱崎キャンパス法学部研究棟2階大会議室
早川誠(立正大学法学部専任講師)

1.執筆の背景
 まず、執筆に際して、どのようなことを考えていたかというあたりからお話させていただきたいと思います。最初に、編者の方からのお話としては、この本の中では扱っていないのですが、一方では国家というものがあると。そして、他方では、これは本書第V部で取り上げられていますが、市場というものがある。ただ、この二つの間にあって、政治において何らかの役割を持つものがあるのではないか、それは例えば「政治的な」という修飾語やあるいは「公的な」「パブリックな」という修飾語がつくのかもしれませんが、いずれにせよ、国家とは違う場所で政治的な役割を担うアクターとしての集団というものについて書いて欲しい、というようなことだったのではないかと私自身は受け取らせていただきました。こうした問題関心というのは、例えば90年代からの市民社会論の流行などを受けてのものであったのではないかと考えております。
 次に、この本の構成の面からくる配慮というものがありまして、第U部では「集団」のほかに「共同体」というテーマを扱った章がございます。この区別をどうつけるのかというのが1つの問題でありました。これに関しては、実は執筆段階ではあらかじめ辻先生と連絡を取り合ったわけではございませんでした。とりあえず書き上げてみて、研究会のときに両者を見比べてみる、という方法を取ったわけです。そこで実際に見比べてみると、辻先生の方は、「抽象的なレヴェルでの図式化を避け、具体的な争点のレヴェルで主張される価値・ニーズを特定し、それらを比較検討する」(144頁)というスタンスを取っておりまして、リベラル=コミュニタリアン論争、少数派社会の問題、参加の問題、市場の問題、さらにナショナリズムやパトリオティズムといった具体的な論点が取り上げられています。ここではもちろん、参加の問題や市場の問題など「集団」の章と重なる部分もあるのですが、それとは随分違ったものも多い。従って、技術的というか構成面でというか、そういう点ではおそらく問題ないだろうというのが私の持った感じでした。もっとも、重なりが一致しないというのは、それはそれで単に構成面で重複しないから良いという話だけではなくて、もう少し議論する意味のある実質的な問題もあるかもしれません。例えば、先日行われました別の合評会では、「共同体」という言葉に付随するGemeinschaft的なニュアンスといったものが指摘されたりもしました。実際、「集団」という言葉にも、例えばGemeinschaftに対応させるのであればGesellschaftという言葉のニュアンスが強く含まれているようにも思います。ただそうなると、例えば冒頭に申しました「市民社会論」の話などは全部ゲゼルシャフトの話でゲマインシャフトの話は何も絡んでいないのかといえば、そんなこともないわけで、ナショナリズムの話など入っていないわけでもありません。このあたりは、私たちが「集団」に対して持っている暗黙の、そしてかなりあいまいなイメージというものが関連していると考えられます。この話は、具体的な論文の説明の中で確認してみたいと思います。

2.執筆の意図
 こうした条件を踏まえた上で、どのような筋で書いていくのかが次の問題になるわけですが、まず1つの考え方は、「集団」についての辞書的とも言えるような分類と分析を行うという選択肢が考えられます。実際例えば、最近国家学会雑誌の学界展望に書評を書かせていただいたのですが、M. E.Warrenの"Democracy and Association"は集団の包括的な分類と評価を試みた業績であります(『国家学会雑誌』115巻11・12号)。もっとも、ウォーレンの本はただの分類論ではなくて、はっきりとしたメッセージも持っておりまして、この点は私も問題意識を共有しているのですが、この点についてはすぐ後に申し上げます。
 ただ、私としては、こうした書き方は意図しておりませんでした。1つは私の能力不足があるのですが、もう1つは政治学におけるいわゆる「集団理論」を中心として取り上げる形で問題提起的な書き方をした方が面白い、と感じたからでもあります。それは、第一義的には「集団理論」が20世紀の政治学における有力説だったから、それを批判的に取り上げることで議論の焦点がはっきりするということもありますし、それからもう少し大きな文脈で言うと「集団理論」が提出した集団に対するある種のイメージというのは、集団理論が少なくとも通説とまでは言えなくなった現在においても払拭されているというわけではない、という問題もあると思うのです。
 「市民社会論」の話を先ほど出しましたが、この市民社会論と比べてみてもいいでしょう。「集団理論」は、集団間の自由競争が、一定の政治的同質性の下で、自由な政治体制を形成すると主張します。「市民社会論」の方は、確かに国家との敵対的な関係が強調されるなどアクセントの違いはあるのですが、やはりこれも異質な意見が交流するいわば意見の自由な競争の場が成立することで、自由な政治体制が成立すると見る。この両者の距離は実は意外なほど近いといえるのではないでしょうか。
 先ほどウォーレンの本にはメッセージがあると申し上げましたが、それはウォーレンによれば「トクヴィリアン・パラダイム」への批判なのだと表現されています。トクヴィリアン・パラダイムというのは、国家という権力機構と家族などの親密な集団の中間に位置する媒介的な自発的集団に重点を置くもので、さらにそれら集団の利益が国家と調和的な形で代表され、またその中で市民として行動するために必要な一定の習慣づけ、civic consciousnessの形成がおこなわれるとされます(pp. 29-31)。こうなると、実はこれは集団理論も市民社会論も変わりはない。集団理論にはcivic consciousness育成といった問題意識はなかったと言った反論もあるかもしれませんが、これも以前学界展望に書評を掲載させていただいたのですが、A. I. Eisenbergの"Reconstrunting Political Pluralism"などは、集団理論にもこうしたある種の市民教育の問題意識があったことを主張しております(『国家学会雑誌』111巻1・2号)。
 こう見てくると、実は「集団理論」というものを念頭に置きながら書いていくことで、実は「集団を中心とするデモクラシー」という非常に大きな意味で言えば現在でも流通している「通説」を扱うことができる、ということになる。しかも冒頭で申し上げたように、我々が「集団」に対して持っているイメージが実は相当に曖昧だということになれば、通説としてそのまま単純に受け入れるというわけにはいかない。「集団理論」に対して一時期なされた「利益集団の身勝手」というような批判を置いておいたままで「市民社会論」を歓迎する、というような簡単な話にはならないわけであります。
 もっとも、反論自体は非常に単純な話であります。集団に対するトクヴィル的なイメージの中に全ての集団を入れて肯定的に評価するという態度がまずいということであれば、集団にもいろいろあって中にはデモクラシーの観点からするとどうも危険な集団もある、しかもそのことがデモクラシーにおいては避けられないのだ、と議論できればいいわけです。この点は、実は執筆者研究会をしていたときに、「要するに早川君の話っていうのは集団にも色々あるっていうことだよね」というような指摘もありまして、自分でそんなに単純な話をしていたのかとあらためて愕然とするという経験もあったのですが、どうもこれは悲しいことにやはりそういう単純な話だといわざるをえません。ただ、単純な話ではあるのですが、それなりに意味のある話でもあるのではないか、とは考えております。
 ちなみに、もう一点補足しておきますと、『レヴァイアサン』31号の特集「市民社会とNGO――アジアからの視座」の中で辻中豊先生が従来の日本の市民社会論の固有性、イデオロギー性といったものを批判しております。今回の報告ではこの論点そのものには踏み込みませんが、興味深いのは、辻中先生が利益集団とNGOなどを比較しながら議論を進めている点です。これでもし利益集団論とNGOの話が結構近いのだということになれば、トクヴィリアン・パラダイムという今回の話に似てくるはずで、また私の論文の第三部とも話がつながってくる可能性があります。また逆に利益集団とNGOなどはかなり違うということであれば、ではどんな形でトクヴィリアン・パラダイムを逃れているのかが気になります。いずれにせよ、辻中先生は日本の市民社会論のイデオロギー性を批判しておられるわけですが、私としては辻中先生の議論を含めてそうしたイデオロギー的な色彩を抜いた形での研究も大分進んできておりますので、現在の日本の少なくともアカデミックな政治学では、かなり冷静な議論が可能になっているのではないだろうか、というような感じは持っております。

3.論文の構成
 以上申し上げてきた事情や執筆意図を背景として、簡単にここで論文の構造を振り返ってみたいと思います。
 まず、ダールやヘルドの議論を用いながら、デモクラシーと集団に関する標準的な見解を冒頭で取り上げて、議論の場を設定しています(179-180頁)。これは先ほどの「トクヴィリアン・パラダイム」と言ってもいいかと思いますが、もう少し大雑把な言い方をすると、「間接民主制の直接民主制化」というようなタームで特徴付けても良いかもしれません。つまり、直接民主制の下で重視される参加の意義やあるいは政治的生活への献身的な寄与といった要素を大規模な間接民主制の下で実現可能とするために、媒介的で協調的な集団が積極的な役割を果たす、という見解です。
 ただし、やや留保が必要かもしれないのは、例えばヘルドの議論などにも見られるのですが、シュンペーターのように指導者選出を現代デモクラシーの主要な要素と見なす議論と集団理論とは必ずしも合致するわけではないという側面もあります。そうすると、シュンペーター型民主主義はやはり現代デモクラシー理論の有力な潮流であるわけで、そこでは集団の話はどこへ行ってしまったんだろうということにもなりかねない。ただこの点については、ヘルドも集団理論とシュンペーター理論を相互に排他的なものというよりは互いを補うものだと考えているわけですし、またdeliberative democracyをめぐる議論において、シュンペーター型の競争理論、rational choice、ダール型の多元主義論等を利益の多様性と競合を重視する点で同一の枠で論じるケースも見られます(Bohman and Rehg (eds.), Deliberative Democracy)。これらを考え合わせますと、やはり「集団」が現代政治理論の中心的要素であるという考えは根強いものとみなしてよいのではないかと考えております。
 さて、こうした集団に対する通説的イメージに対して、本論文では三つの、あるいは三重のと言ったほうがいいかもしれませんが、反論を提示しました。まず初めに、デモクラシー内部での問題というものがあります。これは大まかに言って第二節「デモクラシーにおける集団」の第一項「国家と集団」の議論に対応するのですが、つまりデモクラシー内部でデモクラシーに貢献すると考えられている集団が、まさにそのデモクラシーに貢献するとされる要素の反作用によってデモクラシーにマイナスの効果を及ぼす、と考えられる事態があるわけです。ここでは、集団人格実在論をめぐるラスキらとバーカーとの見解の相違と言う形で例を示しました。集団に独自のpersonalityを認めると、確かに集団は専制的な国家とは十分に区別されその中で各個人の成長が期待できるのですが、他方ではまさに国家権力への対抗力を有するがゆえに国家権力へと成長していってしまうわけです。
 こうしてみると、集団があるから政治はバラ色ということにはならないわけですが、ただ逆に多少なりとも政治をバラ色にしたければバラ色ではない部分とも付き合っていかなければならないということでもあります。つまり政治と集団とのかかわりは当たり前のことではありますが一筋縄ではいかないわけで、その点をもう少し拡張して説明したのが第一節第二項の「集団の種類」ということになる。そこでは便宜的に二つの軸を使っているのですが、一つ目は自発性という集団の内在的性格で、二つ目は国家との協調性という外在的な軸です。この点について執筆者研究会では、例えば二つの軸だと四象限できるのでそれぞれについて詳しく説明した方がいいのではないか、というようなコメントもいただいたのですが、私としては重点を置いているのは、デモクラシーに対して肯定的な働きをすると考えられる集団が、同時に否定的な働きをすることもある、という点であります。非自発的な民族集団が内部的には反民主的な性格を持ちながら、民族の独立や自決等外在的な文脈で民主的役割を果たしうるケースを挙げたのはそうした意識から来るものです。
 第三項の「集団への評価」は、当然第二項までの集団の多様性という議論を受けて、その多様な集団への多様な評価という議論を扱っているわけですが、ここでは実はもう少し実質的に踏み込んだ議論がなされています。というのは、デモクラシーの中での集団が果たす役割について批判的評価が強くなれば、「本当にデモクラシーにとって集団というのは必要なのか?」という議論、さらには「本当に政治にとって集団というのは必要なのか」という議論が出てきても不思議ではないからです。実際、ローウィなどによる利益集団政治批判はこうした方向性を強く示唆していた、と考えられます。というのは、ここで取り上げたダールの主張(p.188)は抑制・均衡といった点を強調しているためにデモクラシーというよりはリベラリズムの観点からの集団の擁護といった色合いを持っています。そして、第二項までに取り上げたデモクラシーにおける集団の擁護という主張が維持できないとしても、こうしたリベラリズムからの擁護というのは、別種の議論として受け入れることが出来る。しかし、ローウィ等の批判はそうしたリベラリズムによる集団の擁護にまでも疑問を突きつける形となっているわけです。ただ、私自身は、ここでの利益集団批判は最後までは行かなかった、リベラリズムにおける集団の役割を否定する所までは進まなかった、と考えます。集団が政治の中で場を与えられなくなったわけではなくて、ただ適正な場を占めるようになるために国家の役割が再導入されたに過ぎない。ただし、それ以上に進んでいった議論もあるわけで、それが第三節の「政治と集団」で扱った議論ということになります。
 第三節第一項では、1920年代にアメリカで集団というものがどのような扱いを受けていたかを、エリスの議論を例にとりながら論じています。この当時決して集団研究は政治学の主力ではありませんでした。これは、単にエリスのように政治が求心的・統合的なモメントを持つものとして考えられていたと言うだけではなくて、そもそも集団に関心がもたれていなかったわけです。実際例えば利益集団研究で著名なペンドルトン・へリングなども、インタビューの中で、1930年頃のアメリカ政治学会で、圧力団体に関する円卓会議を開いた際に、出席者は10人にも満たなかったことを話しています(『アメリカ政治学を創った人達』ミネルヴァ書房、2001年、31頁)。集団が政治学において取り上げられてきた時期というのは、意外に新しく、また意外に短い、ということになります。
 そして、第二項では、集団というものを中心に置かない政治学の例ということで、同じ問題を日本政治学における多元主義論の導入を題材に取りながら議論しています。ただここで一点だけ強調しておきたいのは、私自身としては、確かに多元主義論に対して距離をとるという意味での批判的なスタンスは取っていますが、決して否定的なスタンスは取っていないということです。これは第三節第一項末尾で取り上げた政治学の科学化の問題とも関連するのですが、要するに集団理論あるいは集団研究というものは、確かに功罪両面があるのですけれど、それはあくまでコインの裏表で切り離せないということがあるかと思います。現に、日本型多元主義論にも色々なディフェンスの仕方はあるわけでして、その点はこの後に取り上げたいと思います。

4.諸問題点
 さて、本論文に対しては色々な面から批判があるはずですし、コメンテーターの木村俊道先生の方からもこの後ご批判いただけると思いますが、ここでは執筆者研究会の際に出た議論を1つと、私自身から1つ、議論の題材を出させていただきたいと思います。
 まず一点目は、集団の重要性といいますか重みといいますか、その「程度」に関する問題です。これは執筆者研究会の際に指摘があったのですが、前半と後半といいますか、第二節の「デモクラシーにおける集団」の話と第三節の「政治と集団」の話の関連がどうもよく見えない、という批判がありました。この二つは結局同じ話をしているのではないか、というような批判もあったと思います。例えば、第二節で取り上げた利益集団政治への批判と、第三節で扱っている日本型多元主義への批判は、基本的には集団政治への同じような問題意識に貫かれているものですから、両者があまり違って見えないという点があります。これについては、一つには先ほど申し上げましたように、片方はあくまでも集団政治を健全化するという目的で集団以外に国家などの話が入ってくるのに対し、後のほうの話では集団政治がどのような形を取るかというのは必ずしも重点的に扱われてこないという面で違いがある、というのが私の見解です。ただ、この違いがあるのかないのかという話は、また違った文脈で実質的な議論を含んでいる可能性があります。どういうことかというと、第二節の議論では国家を導入しながら集団を捨てないとはいうものの、やはりそこでは集団が重要ではなくなってきますから、集団がどれだけ重要ではなくなるのか、という議論が入ってこなければならない。他方、第三節の議論では集団はほとんど視野の外に置かれるというものの、だからといって集団がなくなっていいというわけではないわけでして、現代デモクラシーではやはり集団の役割というのは無視することは出来ませんから、それでは集団をどのくらいまで重要なものと見なければならないのか、という議論が入ってくることになる。こうなると、第二節と第三節の議論はやはりつながってくるということになります。これは具体的には、先ほど申し上げた日本型多元主義論の評価如何ということにも関わってきます。つまり、集団がどれだけ重要でなおかつどれだけ重要でないか、ということにはグレーゾーン・中間的な見解の中に様々なヴァリエーションがありうると思うのです。記述的分析のためには集団の概念が必要なのか、規範的観点からすればどうか、あるいは短期的にみれば記述的にも規範的にも集団を重視していいのではないか等々、色々な考え方がありうるはずです。この論文では第二節と第三節を区切ったために、二項対立的な図式になってしまっていて、こうした「集団をどの程度重視すればよいのか」という論点はあまり見えてこなくなっています。ただむしろこちらの問題の方が生産的とも言えるわけで、この点では本論文には不足しているものが多いかもしれません。
 それからもう一つ私自身が問題と感じているのは、これは第二節第一項で国家と集団の対比というところから話を始めたことの結果でもあるのですが、実は国家の枠を超えた形での集団の活動というものがあまり視野に入ってきておりません。これは、例えば杉田論文「政治」と見比べても明らかであります。「集団」と「国家」の区別がつきにくい、という議論と同様に、「集団」と「市場」の区別がつきにくい、という議論は当然ありまして、むしろこちらの方が最近の政治学では取り上げられることが多いとも言えます。問題は、本論文では、集団を中心とする政治学に対して、求心的な政治権力を対立させる政治の考え方もあるのだという反論の仕方で相対化をはかったのですが、それとは異なって、「集団理論」が暗黙の前提としている主権国家による政治がグローバリゼーションにより維持できなくなったという議論で集団理論の相対化を図る考え方もあるでしょう。この場合には、現実に求心的な政治権力では扱えない問題が出てきているわけですから、私の論文はどうも古い、というようなことにもなってしまうわけです。これに対しては、執筆者研究会の際に話題に上がったのですが、、集団がいろいろあるという話はある種のネットワーク型の集団というような話にもつながっていく可能性もありまして、そうした部分を論じる余地もあったかもしれません。この論文ではそうした視点がうまく出てこないという問題があろうかと思います。

5.今後の展望
 最後に、本論文からどのような発展的な議論が可能かということについて、筆者の若干の見通しをお話して終わらせていただきたいと思います。
 一つ目は、集団が果たす役割についてのケース・スタディです。例えば、Robert PutnumのSocial Capitalの議論は、集団の役割に関して「トクヴィリアン・パラダイム」にのっとった解釈をしているように見えますが、むしろ重要なのはトクヴィリアン・パラダイムそのものを検証する形で議論を提示してきたという点だと思います。もちろん、議論の帰結については賛否両論あると思いますが、こうした姿勢での研究は今後集団研究にとって非常に重要になってくるのではないかと思います。また、Social Capitalの議論を含めて、福元論文「参加」もこうした点について示唆的であると思います。
 二点目は、先ほど「集団」と「市場」という形でグローバリゼーションの問題を取り上げましたが、もう一度さらにひっくり返して考えると、こうしたグローバリゼーションの中だからこそ国家などの求心的な政治制度の役割というのはもう一度考え直されなければならないとも言えます。私自身は、例えばPaul HirstのAssociative Democracyなどが少なくとも部分的にはこうした問題を扱っていると考えて勉強しているのですが、「集団」についての議論が深まるのとあわせてこうした国家論の分野が充実すると、議論がかみ合いますので、有益ではないかと考えます。
 最後に三点目ですが、これはむしろ私自身の興味・関心といったほうがいいかもしれませんが、20世紀前半の日本政治学というものをもう少し考えてみたいと思っております。というのは、今回の論文でも20世紀前半のアメリカ政治学と20世紀後半のアメリカ政治学は出てきておりまして、また20世紀後半の日本政治学も出てきております。ただ、20世紀前半の日本政治学はぽっかり穴が開いてしまっております。ここは比較政治思想史とでもいうような研究が可能な所ではないかと考えておりまして、いずれ詰めて考えてみたいところであります。
(完)