政治と私たち

B.私たちは「衆愚」でしょうか?

 投票に行くことは民主主義の中でとても重要な要素です。でも、「多数者の専制」という問題があったり、政治の混乱を避けるためにあまり政治への参加が多くない方が良いという意見があったり、どうも民主主義への不信感というか民主主義を実行する私たちへの不信感というものが、政治学の中に根強くあるように感じられますよね。

 実際、民主主義というのは昔からあまり評判のよい考え方ではなかったし、その上、現代ではなおさらダメだ、という議論も強くあるんです。どういうことかというと、現代の私たちは、「市民」ではなくて「大衆」になってしまったというわけです。ここでいう「市民」というのは横浜市民とか熊谷市民とかいうのではなくて、物事をちゃんと考える能力がある人間、という程度の意味。逆に言えば、「大衆」の方は、ちゃんとした判断力があるかどうか信頼できない、というわけですね。

 現代、私たちは、昔とは違って社会の中で孤立することが結構多くなっています。例えば、子供が悪戯をした時に怒ってくれる近所の怖いおじさんがいなくなったとか、近所づきあいがあまりないとか、家族の人数だって核家族化のために減ってしまったとか、他の人たちとのつながりを感じられない世界になっているというのが現代の特徴なんですね。そうすると、色んな人の意見を聞いて物事を違う側面から考えるという練習ができない。そうなると、「公」の事柄に関わる政治の問題だってちゃんと考えられるわけがないじゃないか、というわけです。

 しかも、人との付き合いがなくなった分どこで情報を仕入れるかというと、新聞やテレビ、ラジオやインターネットを通じた「マス・コミ」の通信によってですよね。確かにこれで情報は手に入るけれど、マス・コミはたくさんの人に同じ情報を流しますから、物事を考える訓練に本当になっているのか疑問もある。もしマス・コミが間違った情報を流したら、たくさんの人がそれを信じてしまう危険さえあります。こうして、あまり物事を深く考えずに、みんなが同じような意見をもった、活発じゃない民主主義が生まれてくる。これは「大衆民主主義」といって民主主義の悪い形と考えられているんです。

 こうした危険な民主主義は、昔から既に「衆愚政」と呼ばれ批判されていました。「衆愚」つまり「民衆はおろかもの」というわけです。仮に良い情報に恵まれ、人との付き合いが豊かでも、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というタイプの人っていますよね。確かに民主主義は平等を実現する素晴らしい制度です。でも、その制度がちゃんと作動するためには、私たちが努力する必要がある。政治といっても、結局最後は、「人間」なのですから。

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