多元主義論と「政治」の位相 論文要旨

             1998年9月提出博士論文要旨
                  早川 誠

 20世紀も終わりを迎えようとする今日、「多元主義」は大きな注目を集めている。それは、一方では冷戦後の世界に現れた国民国家以外の政治主体の活動によるものである。新しい社会運動や民族問題の頻発などはその具体例である。しかし、多元主義論はそれ自体、多大な歴史的遺産を背景としている。社会集団の多元性という問題に限ってみても、少なくとも今世紀初頭の「多元的国家論」以来100年近くの歴史が多元主義論を支えている。本稿は、こうした多元主義論の歴史を背景として、現在の多元主義論の歴史的位置とそれが抱える問題点を明らかにしようとする試みである。その際に、リベラル・デモクラシー内での多元主義の役割を論じるという枠組みを採用せず、今世紀のいわゆる「政治的多元主義論」がそれぞれの時代の中で「政治」(集合的な秩序を求めるという意味での)というものをどのように把握してきたのか、という点を中心に論述を進めていく。
 第1章では、初の自覚的な「政治的」多元主義論であるイギリス多元的国家論を扱う。従来、多元的国家論は、大衆社会到来の中で集産主義的方向への革新を図った当時のリベラリズムに対する反動と位置づけられてきた。そこからは、多かれ少なかれ多元的国家論のアナーキーな性格が強調されることになる。しかし、自発的集団の伝統を重んじるイギリス「国家」においては、反集産主義が必然的に国家への敵意を意味するわけではない。J.N.フィッギスやE.バーカーの議論は、むしろ、伝統的な集団の役割が重んじられてこそ国家による実効的な統治が可能となる、ということを主張するものであった。集団の「公的」性格が強調されているのはその反映である。H.J.ラスキやG.D.H.コールになると、階級的な分断への危機感から確かに従来通りの国家に対する信頼は消滅している。だが、それを補うために新しい政治的共同体の構想が展開されていることも事実である。ラスキのマルクス主義への接近はこの共同体の探求の延長線上にあるものであり、コールの「共同体」構想も同様であった。こうした点で、多元的国家論はあくまでも「統合」の理論であった。
 第2章では、多元的国家論が同時期の米国政治学の中にどのように導入されていったかを概観する。言うまでもなく、多元主義論は世紀後半のアメリカ政治学で主流の位置を占めた議論である。そして、その多元主義論とイギリスの多元的国家論は、表面上ほとんどつながりを持たないかのように見える。しかし、戦後多元主義論は、1920年代に多元的国家論をめぐってアメリカで行われた論争の中でその基本的な性格を決定されてきており、両者の関係を無視することはできない。
 20世紀初頭までのアメリカ政治学は、「多元主義論」と親和的な性格を持つものではなかった。政治学に学問的な中核を与え、さらには人民の存在を確証する役割を果たしていた「国家」概念の影響の下、事実としての多元主義が論じられることはあっても、それは政治の病理形態として描かれていたに過ぎない。そのため、1920年前後に多元的国家論が「多元主義論」としてアメリカ政治学の論壇に登場した時も、反応は好意的とは言えなかった。一元論的国家観の形而上学的性格を補正するものとして部分的な評価はなされたものの、それは論点の選択的な受容という域を越えることはなかったのである。しかし、ファシズムとの対立という軸が加わることで、多元主義論は次第に積極的な評価を受けるようになる。G.E.G.カトリンに見られるように、ファシズムのイデオロギー的性格を批判するため、集団行動という政治の現実を直視する「科学的」理論としての多元主義論を採用しようとする傾向が強まっていった。しかしこれには、W.Y.エリオット等から「プラグマティック」な「科学的」議論こそファシズムの台頭を許した張本人であるとの批判も寄せられ、多元主義論に対する評価は定まったとは言い難かった。
 いずれにせよ注目すべきは、多元的国家論が英国で論じられていたコンテクストからの距離である。アメリカに上陸した多元的国家論は、当初、秩序を危うくしかねない危険思想として批判された。そして評価が好転した時も、それは秩序と安定を提供するからではなく、「科学」的な議論であるとされたからであった。こうした経緯は、多元的国家論が本来持っていた新しい「政治」構想への創造的な取り組みという側面を不可視化させる結果を伴うことになる。実際、リベラル・デモクラシーの勝利が明らかになるにつれて、多元主義論は既に実現された秩序としての現実政治への依存を強め、「政治」をめぐる問いかけを忘却していったのである。
 第3章では、こうした「科学的」理論の典型である、第二次大戦後のアメリカ「多元的民主主義論」を扱う。「ベントレーの再発見」や「政治科学」と「政治理論」の分離という事態にも明らかなように、この時期には多元主義論はアメリカ政治学の中で確固とした地位を占め、さらには主流を形成する伝統であるとさえ考えられるようになっていた。そこではもはや多元主義論が包摂される「政治」秩序は所与であり、多元主義論による「科学」的研究の進歩も当然のこととされた。しかし、一旦所与の「政治」が安定性を失うと、多元主義論も即反省を迫られることになる。R.A.ダールの議論は、こうした多元主義論の行程に関して象徴的な推移を示している。当初社会民主主義的傾向を示していたダールの議論は、1950年代に入るとリベラル・デモクラシーの擁護論へと変化していく。多元主義論が政治研究に導入され、「多元的民主主義論」として発展させられる。地域、国家、いずれにおいても多元主義はアメリカに事実として存在し、リベラル・デモクラシーの健全な機能を支えているとされた。しかし、多元主義が存続するために一定の合意が必要とされていることからも明らかなように、これは政治的・経済的安定期に可能となった暫定的な秩序を基礎とした理論に過ぎなかった。事実、人種問題やベトナム戦争という内外の混乱によって、多元的民主主義論が大規模組織・大企業の専横を許容する偏向した理論であるとの批判が噴出する。ダール自身この問題を認め、1960年代後半からは小規模集団を考慮した参加民主主義への傾倒を深めていく。もちろん、現実からの批判だけでなく、規範的理論からの批判、さらには科学的政治学からの多元主義論に対する内部批判も次々と現れてきていた。
 こうした中で多元主義論は、ダールの変化にも見られたように、「多元的民主主義論」の保守性を超えて新たな多元性を獲得しようと腐心していくことになる。そこでは、「新しい社会運動」などを組み入れ、大規模集団の圧力に屈した「利益集団多元主義」から脱却しようとする試みがなされた。しかし、問題はむしろ、どのような多元性を維持すべきかを決定する「政治」の役割が明確化されていない点にあった。多元的民主主義論批判の中で、1920年代以来続いている統合問題の不可視化という事態への対応はいまだ明らかになっていない。
 第4章では、多元的民主主義論の一つの改善形態である「文化的多元主義論」と、多元主義論と「政治」の関係そのものを破壊しかねない根源的な問題にまで踏み込んだ「ポスト・モダン多元主義論」の主張を検討する。文化的多元主義論は、「文化」「価値」「アイデンティティー」を中心にした集団を組み入れている点で、利益集団を軸とする多元的民主主義論の狭隘さを克服するものであった。さらに、共産圏の崩壊後「市民社会」の重要性が認識されたことで、自発的結社の活動を重視する多元主義論は再び注目を集めている。しかし、ある意味ではこれもまた現実からの追い風を受けての動向であり、「政治」の役割という問題は依然解決されないままである。特に、ポスト・モダニズムやフェミニズムなど「アイデンティティー」の流動性を主張する議論が登場した後では、「政治」をめぐる議論は一層困難になりつつある。国家内の民族の独立という問題をも視野に入れている点で文化的多元主義論のもっとも先鋭化された形態であると考えられる多文化主義論も、基本的には国民国家という政治的共同体を前提としている。そのため、場合によっては問題を「私的」領域へと撤退させ、脱政治化を促すという逆説に陥りかねない。他方、ポスト・モダン多元主義論は、文化的集団のみならず個人の内面にまで多元性を導入し、国民国家以外にも「政治」の場を探求しようとすることにおいて、はるかに徹底的な議論を展開している。しかし、そのような「政治」は日常のあらゆる場に拡散し、秩序形成とそのための決定を不可能にしかねない。実際それは、当初の意図に反し、全体的な政治秩序の問題を放棄することで現状をなし崩し的に受容する保守的議論との批判を受けることになるのである。
 「多元性」と「統合」の間で、「政治」の役割を定めることは非常に困難になってきている。多元主義論は、長年この問題から逃避し続けることで、自らの地位を保ってきた。だが、もし多元主義が「政治」の重要な一要素であるのならば、我々は今や「政治」に何を担わせるべきかを自ら決定しなくてはならない。政治的多元主義論の歴史をたどる作業は、この決定の必要性と可能性を明らかにするために不可欠の準備作業なのである。