2001年度日本政治学会分科会B「主権概念の再検討――政治思想史の視点から」報告
2001年10月13日(土)  於立教大学

主権と国家の関係 −多元的国家論の視角から−

早川 誠(立正大学法学部)

1.はじめに

 主権、あるいは主権国家の問題を考える際には、多様な接近方法があり得る。例えば、主権概念の概念史という道筋、主権国家の歴史的展開を語る政治史的な手法、主権概念に対する規範的検討、等々が考えられよう。本報告では、主権概念の把握が、いかに国家の政治制度の設計というものに影響を与えるのか、という観点から議論を進めていきたい。その理由は2つある。第1に、往々にして国家擁護論と国家批判論の間の激しい対立に帰着する傾向のある主権論ではあるが、しかし主権国家のあり方には様々なスタイルが可能だと考えられる。主権概念を必要とする立場をとるとしてもそこから特定の政治制度が必然的に帰結するわけではなく、逆に主権概念の変容を説くからといって現在の主権国家の政治制度をひとしなみに廃棄しなくてはならないというものでもない。この主権概念の幅の広さ、そして主権国家のあり方の幅広さを指摘したい。第2に、具体的な政治制度を絡めて主権論を論じることで、政治思想史の視点から現代政治理論等への架橋が可能になると考える。主権国家の問題は、歴史的な課題であると同時に我々にとって同時代的な課題でもある。政治制度という議論の場を設定することにより、異なる分野間での交流を可能としたい1。

 以上の目的のため、本報告では、まず多元的国家論における主権論と国家論を検討する。ここでは、ハロルド・J・ラスキの『政治学大綱 A Grammar of Politics』において展開された、詳細な制度設計が指針となろう。ついで、多元的国家論の伝統を吸収しながら現代において展開されているポール・Q・ハーストの結社民主主義(associative democracy)論の分析を行う。これにより、多元的国家論の歴史的位置が明らかにされるとともに、その現代における応用がどのような課題を生ぜしめるのかが議論されることになる。さらに、国内政治のみならず国際政治上の主権概念と、国際政治上の制度についても言及がなされる。以上の作業により、20世紀初頭政治思想から議論の手がかりを見出し、さらにそれを現代の国内・国際政治上で応用していく道筋を探究することとする。

2.多元的国家論における主権と国家

 20世紀初頭のイギリスにおいて、J・N・フィッギスやE・バーカー、そしてラスキらが主張した多元的国家論(The Pluralist Theory of the State)は、当時集産主義的政策によって存在感を高めつつあった主権国家に対する痛切な批判を含むものであった。ラスキが初期に物した著作が「主権三部作」と括られるように、主権批判は多元的国家論の基礎をなしている。そこでは、主権が至高の権力の具体化であり2、領土を持つ究極の最高機関としての国家がそれを担い3、従って国家に対する無条件の服従が主権の内容をなす4、という当時の主権論の内容が批判される。そして、主権の絶対性を奉ずる国家の一元的理論(the monistic theory of the State)に対して、国家のみならず集団の存在を重視する国家の多元的理論(the pluralistic theory of the State)が提唱されるのである5。

 ラスキが多元的国家論を推奨する理由を、主に2つ挙げておこう。第1に、主権の絶対性は事実ではない。人間は、国家の命令である法に常に従うわけではなく、さらに言えば法は命令ではない。同意を得ることのできない法に、実効性は期待できない6。第2に、規範的議論として、法的(legal)主権は道徳的(moral)主権と同一ではない7。そして、人間が従うべきは道徳的目的であって、それを法が実現していると各個人が判断するからこそ、秩序は保たれるのである8。

 こうした一種無秩序の賞揚とも受け取られかねない主張が、ではどのような政治制度と結びつくのであろうか。『政治学大綱』でも、主権論に対する以前からの態度に変化はない。主権概念の歴史を辿りながら、その無制約性が現実と齟齬をきたしていること、現実的分析が主権の限界を示すことが論じられる9。また、人間を縛るものが決して法的義務ではなく、正義に従う道徳的義務であることが主張されている10。

 問題は、こうした主権論批判、主権国家批判が、即国家の無意味化や、まして廃絶などという思想に結びついているわけではないということである。「諸職能(functions)間の調整は、最終的に国家が担当しなければならない領野である。国家は、それらが活動する条件を整えることによって、国家の個々のメンバーが、人間としての使命を全うするために欠かせない財を無理なく入手することができるようにしなければならない。・・・(中略)・・・この種の問題について、国家は明らかに公的サービス団体である。それは他の結社とは、第1にメンバーへの加入が強制的である点、第2に、基本的に領域的な性質を持つ点で、異なっている。消費者としての人間の利益は、ほとんど地理的な近さから生じる利益なのである」11。しかしラスキの見るところ、経済的不平等の拡大によって国家の公共的機能は損なわれており12、その回復が政治科学の果たすべき急務として論じられている。つまり、国家が法的卓越性のみならず道徳的卓越性を持ち、いわばナショナル・ミニマムを達成するということになりさえすれば、国家は不要であるどころか、不可欠の政治機構となるのである。

 では、その国家の政治制度はどのようなものであろうか。国家が公的サービス団体として存続するということは、従来からの立法府や行政府に、その存否までをかけた根本的変更を加えることができないということである。すると問題は、その従来型機構の絶対的集権化と恣意的行動にどのように歯止めをかけるのか、という点にかかってくる。そこでもっとも重要なのは、審議会、諮問委員会を活用することである。したがって、ラスキの議論は、当時の政治機構を審議会等で全面的に包囲するという戦略をとることになる。

 まず立法府の構成を見てみよう。ラスキは立法府について、選挙制度等についても論じているが、実は主眼はそこにはない。「政治的決定は、得票を数えるという算術的プロセスによってなされるわけではない。もっと急を要するのは、立法過程で生じる諸影響力をはかりに掛けることである」13。したがって、中核をなす政党政治を取り巻く形で、特定の争点や職業に基づいた集団、あるいは消費者集団が、「直接請求を通してではなく中間的職能制度により」立法府に影響を与えることが主張される。また二院制への批判の文脈で行政府に意見を伝える諮問会議の方が上院設置よりも推奨され14、さらに当時のイギリスの政治制度を補うために、立法府・行政府間の連絡を密にする諮問委員会の設置や15、法案細部について立法の任を引き受ける議会内の立法委員会設置が提案されるのも16、上記の意図に基づいてのことに他ならない。

 ついで行政府にも同様の改革が提案される。現代国家における行政府は、立法府との密な関係による政治的側面、執行機関としての側面、そしてより広く公衆と交流する役割、の3つの機能を果たしている17。そして、政治的側面においては先述の立法委員会による議会との連携が主張され、行政府に対するコントロールが肝要であるとされる。また、執行機関としての役割においては、各省の政策に対する調査研究の重要性という文脈で、専門家により構成される諮問委員会の活用が説かれている18。さらに市民との交流に関しては(この側面についてもっとも改革の余地があると論じられる)、イギリスに既存の各種諮問委員会を例に挙げながら、その意義が詳しく論じられることになる19。まず、委員会はあくまでも助言を行うのみで、行政に対する命令機関ではなく、政策立案をすべきでもない20。委員会の職務は、関連諸法案、一般的な行政施策の検討と、それに対する助言、さらに官僚の権力濫用に対する防波堤としての役割に限られる21。

 ここで注意すべきは、こうした諮問委員会の活用が、肥大化する行政国家への疑念と密接に結びついていることであろう。「よく知られているように、国家活動の範囲拡大によって、立法の大半は、詳細かつ包括的なものではなく骨組みだけのものにとどまり、その隙間を関連する行政部局が様々な形で埋めている。・・・(中略)・・・思うに、公衆をこれら官僚権力の濫用から守ることがますます必要になってきているのである」22。そしてまた、こうした官僚制の質的肥大が主権論批判の中核をなすことも明らかである。「国家が悪事をなしえないのは、それが主権国家であるからであり、そして主権というものの明白な徴とはそれが自己の行為に対して責任を問われ得ないということなのである。・・・(中略)・・・簡便な改善策は、国家を私人と同様に訴追可能にすることである。そのためには政府部局への法人格付与によって責任の源泉を明確にすることが要請されるだろう」23。ここでは、主権の絶対性への批判が、責任政治の復権という問題へと展開されているのがわかる。主権概念自体の当否ということを論じるのは可能だが、実際に主権が政治的に問題とされるのは、このように特定の時代の特定の課題に対してという状況がほとんどであろう。その際には、主権の特定の性質が問題視され、それに対する部分的改良が施される。そして主権概念の部分的改良に即して、主権国家に対する特定の制度的改革が要求される。つまり、主権、国家、主権国家という大枠を維持する中で、相互的に変革がなされる余地が生じているのである。この大枠は、実は内部でのかなり広範な裁量を許容するものであると考えられる。20世紀前半から後半へと時代を超えてさらに考察してみたい。

3.結社民主主義論における主権と国家

 現代、多元的国家論の主張を取り入れながら、ポール・ハーストは結社民主主義論を提唱している24。まず、多元的国家論という思想史的資源を導入するにあたって、ハーストは以下のような主権論を展開する。フィッギス、ラスキ、コールといった多元的国家論の主張者は、各自の用意する代替案こそ異なるものの、以下の点で主権論を批判することについては共通であった。すなわち、主権国家が自律的な結社の活動を妨害すること、国家を単一のアクターであるかのごとく扱っていること、正統化の必要を持たない国家権力が専制に堕することである25。こうした主権論批判は、現代から見ると政治学説史における歴史上の議論に過ぎないと思われてしまうかもしれないが、実際はそうではない。ヨーロッパ統合への抵抗やサッチャー政権における議会主権の過度の強化に見られるように、政治的ドクトリンとしての主権論は、現代においても決して時代遅れの政治学説ではないのである26。

 ハーストの議論でもっとも特徴的なのは、ニュー・ライトの「小さな政府」論と主権論との関係についてである。それによれば、ニュー・ライトは、国家の活動領域を縮小はしたものの、国家主権については何ら変更を加えることはなかった。むしろ、主権を前提として左右の対立軸が形成されたために、「法の支配という保守的なリベラルの議論と干渉主義的社会福祉国家という社会民主主義的理論は、ともに、現代の多様な巨大政府を前にしていかに公的責任と統制を確保するかという中心的課題を回避してしまっているのである」27。つまり、責任政治という足場に立てば、保守も社会民主主義も無策であることに何ら変わりはない、というのである。ここでは、ラスキの議論との類似性を指摘することができるであろう。ラスキの場合、主権論批判は、諮問委員会を基礎とする制度改革によって、議会政治の責任性を回復することに結びついていた。ハーストの場合も、主権論批判は、「公的責任と統制」の確保へとつながっている。もちろん両者をめぐる時代状況には違いがあり、議会制への信頼度の相違や社会主義への期待など他の論点に関しては別途議論が必要であろう。しかし、ハーストが議論を展開する現代においても、主権論批判と主権国家批判が、主権国家を前提とした上で公的責任の再生を目指す制度改革に結びつく余地は残されており、単に主権国家の盛衰を語れば問題が片付くというわけではないことは考慮に入れておく必要がある。

 では、ハーストの具体的な制度構想はどのようなものであろうか。ハーストの構想する国家は、地方を主軸にする連邦制のシステムをとっている。まず連邦政府は、最低限度のサービス提供を確保するための最低所得保障制度(GMI)を含め、地域間調整や再分配のフレームワークに関わる問題のみを扱う。したがって、立法府も各地域で基本的な権利が守られるよう概括的な法のみを定めることになる。また地方政府の代表者を集めた連邦財政会議(Federal Funding Council)が、財政政策、再分配政策を担当する。他方、税徴収の主体は地方政府である。また地区レベルでは自発的結社によるサービス供給が行われ、サービス分野ごとに個別の結社議会(Associational Chambers)が設置される。結社議会は、各サービスの標準を決定する役割を負う。また、各結社議会から送られた代表者による地方レベルでの連合財政会議(Consociational Funding Council)が設けられる。この機関は、サービスの標準設定と監査を担当し、またサービスに必要な予算を地方議会に提出する。各結社は、こうした連邦システムに加入することで公的資金獲得の資格を得るが、実際の資金獲得は同一分野内の結社間の競争成果による。また、連邦システムに加入せず、私的に活動を行うことも許容されている28。

 こうした連邦型国家は、ラスキの構想とやや異なる形においてではあるが、肥大化した官僚制に対して市民からの働きかけを可能にする枠組みであった。「民主的統治は、単に市民による選挙や多数決による決定の権力からなるのではない。統治者と被統治者の間における継続的な情報の流通によってこそ、統治者は被統治者の同意と協力を獲得しようとするのである」29。ハーストが諮問委員会の活用以上に連邦制を強調する背景には、議会主権の専横に対する危機感があるのであろう。しかし、従来型主権国家の漸進的改革という議論の大筋において、両者にさほどの相違は見られない。さらに、両者ともに国家の公的役割ということについて強調していることが注目される。ラスキについては既述のとおりだが、ハーストも結社に対する公的サポートが国家機構との結びつきを確保するものであると主張している。自発的結社は、成員に対して有責であるとともに「公的資金を付与された活動の実績について、選挙された代表および裁判官や監査役など任命された官僚からなる公的政治制度に対して責任を負う」30。主権を議論する際に、公的領域がどこに設定されるかを意識しておくことは、重要であろう。政治の公的役割を捨象してしまえば、主権論の困難を無視して議論を進めることは容易である。しかし、諮問会議によって公的領域の回復を図るラスキや、自発的結社を取り入れることでいわば拡大した公的領域を再設定するハーストに見られるように、主権論の枠内で様々な公的領域の形成が可能であり、それに応じた政治制度の設計も可能なのである。この工夫の余地を残したままで議論を進めることは、バランスを失するといわなければならないであろう。

4.国際政治における主権と国家

 では、現在もっとも主権論が鋭く批判に晒されている国際政治に関して、こうした漸進的改革論はどのような視点を提供できるであろうか。ラスキとハーストそれぞれの構想を概観しよう。

 ラスキは、国際政治においても、事実規範両面から主権国家批判を行っている。相互に孤立した主権国家のイメージは「人類の利益」と両立不可能であり、「世界的相互依存」という現実ともかけ離れている31。したがって、各国家が自らの意思を反映させることができるような、世界政府の形成とその制度化が主張されることになる。その具体的な制度設計は当時の国際連盟の実際に沿って展開されているが、ここで重要なのは、国際連盟と主権国家の関係が、役割の分担という枠組みで議論されていることであろう。「国家主権は特定の目的と義務を実現するためのみの権力であることがわかる。大社会の出現とともに、それら目的と義務は、単一国家が影響力を揮うことはできても最終的な決定権力を及ぼすことのできないような組織によってのみ、大枠では定義され得るようになった」。つまり、主権国家はより広い国際社会の中で「地域的重要性を持つ統一体」へと変化しなければならないのである32。例えば、ラスキは国際連盟の政治的役割において、国境の調整を関係各国間に紛争がある場合のみに明示的に限定しており、また少数民族の保護という問題についてもそれが国内問題から国際問題に移り変わるタイミングについて慎重に調査・検討から入っていくべきことを論じている33。ここでも課題は、国際連盟によって国家を代替することではなく、国際連盟を通じて主権国家間の連絡を密にすることにあった。国際連盟は、「反対勢力にルールを押し付ける立法機関ではなく、継続的な協議のチャンネルを形成する」、したがって、それは「超国家(super-State)ではない」のである34。国内政治に見られた、諮問委員会制度による主権国家改革は、国際政治においても協議機関としての国際連盟という形で一貫しているといってよい。ともに重要とされているのは、協議の活発化による意思疎通の密度の上昇である。

 ハーストの場合には、国際政治における国家の重要性への言及はさらに顕著なものとなっている。まず主権国家の歴史的成立を論じる中で、ハーストは、ウェストファリア体制の重要性をそれまでに形成されてきた主権が認知されたことにではなく、国際的な次元を持つ宗教紛争を沈静化することで国家が自国社会に対する統制権を獲得したことに求める。この状況の中で、国家は領域内での統一された行政と国民に対するヒエラルヒー的な支配を実現していく。つまり、他国による干渉を拒絶する国際体制の中でこそ、はじめて国家は国内における主権的支配を形成していくことが可能になったとされるのである35。さらに、国内における宗教的多様性の排除は、宗教以外の側面までも含んだ文化的一体性の意識を喚起し、それによって「ネイション」「ナショナリズム」が発生してくる36。では、グローバリゼーションの進む現代においてはこうした主権国家の役割など不要になってしまうのかと言えば、そうではない。宗教戦争で疲弊した人民が「市民社会」の能力に疑念をもって主権国家に正統性を与えたという歴史的背景を鑑みるならば、現代の主権国家にも何らかの果たすべき役割はあるはずである。「国際的統治は、いかに不可欠といっても、少なくとも一定数の有力な国民国家から継続的な同意と協力を得られない限り存続し得ない。ナショナルな同意なくしては、そうした国際機関は正統性を欠くことになろう」。つまり、正統性の確保こそ現代国家の役割に他ならない。そして国民国家は「統治権力の複雑な網目の中心的な結節点(全てを結びつける正統性の主要な源泉)」となるのである37。

 ハーストの構想では、国家は、国民と国際機関とを結びつけるくさびの役割を果たす。国際機関は、それだけでは市民による統制手段を提供していない。しかし、国家が国際機関における「代表」としての役割を果たすことによって、国際機関が国家に対して責任を負い、国家が国民に対して責任を負うという間接的な代表システムが成立する。よって、グローバリゼーションの進展によって、確かに主権国家としての国家の役割は減退するが、中継機としての国家の役割はむしろ増大するのである38。そして、この中継機としての国家が果たすべきは、何よりも「法の支配」の実現であるとされる。国家は、国内で確固とした正統性を有するがゆえに、権利と立憲制度を中心とする法の支配確立を担うことが可能であり、立憲制下で諸集団・諸利害間の調整を進めることによって、国家自体を含む多元的な集団の活動を可能にすることができる39。国家は、まさに多元的国家論が「諸社会の社会」と表現したような調整機関として、政治的に重要な役割を果たしていくのである。

5.おわりに

 ラスキとハーストの議論を通じて、主権と国家の関わり方を概観してきた。まとめると、主権論を論じるのみではなかなか見えてこない「幅」というものが主権国家にはあり、それが国家における様々な制度設計という形で表現されうる、ということである。特に、両者が現代の代議制民主主義に基本的変更を加えないままで、主権国家の変容を受容していることは、今後の主権論の方向性について1つの示唆を与えるものであろう。ただし、ここで紹介した制度構想自体には、見過ごすことのできない問題もある。

 ハーストの議論では、学ぶべき模範としてしばしば1980年代の日本やドイツへの言及がなされている。それらの経済的成功は、国家と市民社会を架橋し、効率的な経済運営を可能にした結社主義型経済によるものであると40。しかし、その後労働党が政権の座に復帰したというイギリスの事情の反面41、日本では90年代以降経済状況が悪化し、しかもその原因が、公的機関と私的機関の「癒着」をうながすいわば「結社主義」型の政治経済運営に求められたという事実がある。特殊法人民営化を含む構造改革が支持されることについて、この文脈において把握することも可能であろう。

 こうした問題が生じるのは、ある意味で当然のこととも言える。代議制民主主義の諸制度は、もともと政治体の構成員に対して政治家の公的・明示的なアカウンタビリティーを確保するためのものであった。ラスキやハーストの改革案は、このプロセスが官僚制の弊害や議会主権の過度の強化で機能しなくなっているという問題意識から生まれてきたものである。しかし、諮問委員会の活用にしても自発的結社への財源供給にしても、それが政治的意思決定機構の公開性を回避する傾向があることに変わりはない。委員会や結社への市民の直接参加が公開性の欠如を補い得るかどうかも決して明らかではない。ラスキが市民への教育の必要性を繰り返し強調し、ハーストが「法の支配」へ強い執着を見せるのも、この点への配慮であろう。その意味では、問題は、主権国家の中での改革案が、いかにして主権国家の担ってきた責任政治の実現という課題を果たしていくのか、という点にあるのである。

 主権論を論じる際には、もちろんその原理的考察も不可欠である。しかし、主権論の範囲内でさえいくつもの国家構想があり、そのそれぞれに解決すべき課題が山積していることを見過ごすべきではない。この主権国家内部での改革案の充実と、主権国家そのものの歴史的・理論的変遷と、2つの議論が適切に組み合わされてこそ、主権論の持つ可能性が十分に表現される、と言えるのである。



1 制度論と異なる文脈ではあるが、こうした試みの全体像について早川(2001)を参照。
2 Laski(1919), p. 29.
3 Laski(1921),(邦訳351頁).
4 Laski(1917), p. 7.
5 Ibid., p. 11, p. 23.
6 Ibid., p. 13.
7 Ibid., p. 20.
8 Ibid., p. 24.
9 Laski(1925), p. 49., p. 56.
10 Ibid., p. 63.
11 Ibid., p. 69.
12 Ibid., p. 87.
13 Ibid., p. 317.
14 Ibid., p. 332
15 Ibid., p. 349.
16 Ibid., p. 353.
17 Ibid., p. 356.
18 Ibid., p. 373.
19 Ibid., p. 375.
20 Ibid., p. 377.
21 Ibid., pp. 380-383.
22 Ibid., p. 388.
23 Ibid., p. 396
24 ハーストも含めてより広範にアソシエーティブ・デモクラシーを考察したものとして、福地(1999)を参照。
25 Hirst ed.(1989), pp. 25-26.
26 Ibid., p. 23. サッチャー政権批判については、Hirst(1989)を参照。
27 Hirst(1990), p. 108.
28 Hirst(1994), pp. 187-192. GMIについては、pp. 179-184.
29 Ibid., p. 20.
30 Ibid., p. 22.
31 Laski(1925), p. 64, p.587.
32 Ibid., p. 662.
33 Ibid., p. 590, p. 594.
34 Ibid., pp. 624-625.
35 Hirst(1997), pp. 218-222
36 Ibid., p. 224.
37 Ibid., pp. 230-231.
38 Ibid., p. 240.
39 Ibid., pp. 242-244.
40 Ibid., pp. 124-128.
41 結社民主主義と労働党政権との関係については、捧(2000)を参照。

参照文献

捧堅二「政治的多元主義とアソシエイション―ポール・ハーストの政治理論」『季報唯物論研究』Vol. 17 夏 第61号、1997年7月、23−43頁.
捧堅二「政治的多元主義とラディカルな分権化――ニュー・レイバーの政治思想」『季報唯物論研究』Vol. 24 秋 第74号、2000年11月、105−129頁.
早川誠「代表制を補完する−P.ハーストの結社民主主義論」東京大学社会科学研究所『社会科学研究』第52巻第3号、2001年3月、59−83頁.
早川誠『政治の隘路−多元主義論の20世紀』創文社、2001年.
福地潮人「現代ガヴァナンスとアソシエーション−アソシエーティブ・デモクラシーの議論を中心に」『立命館産業社会論集』第35巻第3号、1999年12月、43−63頁.
Hirst, Paul, After Thatcher, Collins, 1989.
Hirst, Paul, Representative democracy and its limits, Polity Press, 1990.
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Hirst, Paul Q. (ed.), The pluralist theory of the state: Selected writings of G.D.H.Cole, J.N.Figgis, and H.J.Laski, Routledge, 1989.
Laski, Harold J., Studies in the problem of sovereignty, Yale University Press, 1917.
Laski, Harold J., Authority in the modern state, Yale University Press, 1919.
Laski, Harold J., The foundations of sovereignty and other essays, Harcourt, Brace and Company, 1921(辻清明編『世界の名著第72巻 バジョット・ラスキ・マッキーヴァー』中央公論社(中公バックス)に抄訳).
Laski, Harold J., A grammar of politics, George Allen & Unwin LTD, 1925.

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