2002年度政治学原論後期講義の自己評価


 今回も前期に続き、自由記述の形で書いてみたいと思います。それは、今期に関して、授業のコンセプトに基本的な変化があったことを記しておきたいからです。

 2000年度、2001年度と講義を続けてきて、学生の皆さんの感想を聞いたり、あるいは授業評価アンケートを参照させていただいたりしてきました。また、研究と授業の兼ね合いや、大学教育・法学部教育・政治学教育の今後ということについても、色々な機会に考えさせられてきました。
 そうした中で、現在の私の講義に自分自身でもっとも違和感があったのが、例えば授業評価アンケート等で「熱意」のある教員として評価(相対的にですが)がされている、ということでした。もしかしたら、読んでいる皆さんの中には、「熱意があるのはいいことではないか」というように感じている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私はそれは端的に間違いだと思います。少し極端な例を考えて見ましょう。大学教員として、「熱意があるが講義レベルは低い」という教員と、「熱意はないが講義レベルは高い」という教員と、どちらが優れているでしょうか。私は後者だと思います。大学が学問を学ぶ場所であり、学問が単なる勉強ではなく真理の探究に基づくものであり、真理の探究が第一義的には熱意ではなく能力によって達成されるものである以上、講義を評価する第一基準が講義のレベルにあるということはほとんど自明のことだと思うのです。あるいは、こういったほうがわかりやすいでしょうか。学問を追及するためには、まして人間の生活に直接影響する可能性のある社会科学の分野においては、熱意がマイナスの要素になることさえあります。熱意を抑えた冷静な判断力と緻密な論理展開力こそが、学問の進展に貢献することもあるのです。

 こうした考え方を取ると、学生の皆さんに熱意を感じさせる講義になっているというのは、大きな問題である、ということになります。もし、「熱意のある先生だから」という理由で学生の皆さんが講義のレベルに関心を払っていないのであれば、私としては皆さんに「熱意」を感じさせない講義をすることが課題になります。従って、今期の講義に関しては、私はできるだけ余分な要素を排除し、講義の内容そのものを教室で伝えることを目的としました。つまり、俗な言い方をすれば、「つまらない」「工夫のない」講義をすることが今期の目的だったわけです。

 学生の皆さんの中には、「先生の中には声が小さくて良く聞こえなかったり板書が見えなかったりして、とても熱意の感じられない先生がいる。だから、熱意のある先生のほうがいいじゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、声が小さかったり板書が不十分だったりするのは熱意の問題ではなく、基本的な技術と常識の問題です。これは本来全ての教員がクリアしていなければいけない基準で、もしこうしたことをもとに熱意をはからなければならないとすれば、それはそれ自体が立正大学なり日本の大学なりのレベルの低さを表しているだけにすぎません。この面では、私は聞こえるように講義していますし、板書も見やすいように工夫しているつもりです。また、改善の要望があれば、もちろん応えていかなければなりません。いずれにせよ、これは熱意の問題ではありません。

 他にも、いくつか考えられる反論はあります。例えば、「大学は単に学問を学ぶ場所ではなく、人間形成の場でもある。その中で、熱意のある教員に出会うことは意味のあることだ」という反論がありえます。しかし、私はこの主張には大きなごまかしがあると思います。大学は確かに人間形成の場でもあるかもしれませんが、大学における人間形成は学問を通じた人間形成でなければならないはずです。世間的にはもしかしたら、「大学で学問をしなくたって、サークルやバイトでいろんな人間関係を学んでいけばいいんだ」と言う考え方があるかもしれません。しかし、学問の府としての大学を大事にしようと思うのであれば、「大学で学問をすることによって、いろんな人間関係を学ぶべきだ」という言い方にならなければならないはずです。もっとも、「大学の学問は実社会での人間形成をおこなえるようなものではなく、もっと抽象的で実用にならないものに過ぎないじゃないか」という反論もあります。実は、これに関しては、こうした観念を流布させてしまった大学教員の側にも少なからず責任があります。大学教員が研究者として生きる決意をするということは、学問が社会の中で何らかの意義を持ちうる、という考えを持つということだと思います。それにもかかわらず、大学の学問と実社会の人間形成が分離されて考えられているとしたら、それはこの二つがつながっているということを説明し切れなかった大学教員の能力不足だと思うのです。例えば、授業の内容自体がそもそも問題であるにもかかわらず(したがって唯一の改善策は授業に対してより多くの時間と労力をつぎ込むことであるにもかかわらず)、目先の入試政策やカリキュラム改正に走る日本の大学の傾向は、こうした問題点のはっきりとした現れであると私は考えています。

 さらに、現実性の面からの反論もあるでしょう。つまり、大衆化した大学はもはや「学問の府」としての意義を失った、という反論です。現在の大学生のレベルでは、大学としての学問はできない。従って、学問そのもので何らかの意義を学生に見出させるのではなく、それ以外の教員の熱意等で大学生活の意義を学生に納得させよう、という結論が、ここからは導かれます。こうした反論に対して私からの再反論は、「それでいいのですか?」というものです。仮に上記の反論を大学教員があからさまにするとすれば、それは研究者としての自殺宣言に等しいと思います。また、上記の反論を学生があからさまにするとすれば、そうした学生は大学の講義・学問的側面に対して、一切不平不満を述べる権利を持たない。さらに、上記の反論を父兄を含めた社会が表明するとすれば、そうした市民が社会の腐敗や政治の不正に対して批判する権利を持つといえるでしょうか。社会に対して不満を述べながら、そうした社会にこれからはばたいていく新しい市民を育てる大学の重要な役割を無視していいのでしょうか。確かに、中学や高校ならそれで良いかもしれない。しかし、大学で学位をとった市民たちは、否応なしに社会的エリートとして他の市民に対し権力を振るう立場に立つことにもなるのです。学生の就職が決まればそれで大学の役割が終わる、というようなタイプの議論は、あまりにもお粗末といえるのではないでしょうか。

 色々書いてきましたが、複雑なことをいっているわけではありません。私の基本的な考え方は、「大学は学問をおこなうところである」というものです。だから、大学教員も、学生も、関係者も、どうしたらより良い学問を行うことができるのか、という問題意識を中心に活動しなければならない。熱意があるかないか、就職が良いか悪いか、教員や職員の待遇が良いか悪いか、といったことは、全て二次的な問題にすぎないのです。

 こうした問題は、立正大学の問題に限られません。日本の大学教育全てにかかわってくる問題でしょうし、場合によっては、世界的にも考えなければならない問題かもしれない。原論の講義を通じて、学生や他の皆さんにも、こうした大学の学問的側面について、もっと考えていただければ、と思います。

早川誠
2003年01月20日 月曜日