2002年度前期講義を終えて


前期講義を終えて

 昨年まで、講義については、いくつかの項目を立てた上で、5段階での自己評価を掲載してきました。これは、自由記述型の自己評価にすると、客観的評価から逸脱する可能性が高いのではないか、と考えていたからです。ただ今年は、あえて自由記述型で記しておきたいと思います。それは、点数では表現できない部分を多く感じた、ということがあるからです。これは、点数評価の無意味さを指摘する、という趣旨ではありません。点数評価に関しては、授業評価アンケートも実施していますので(実施方法、公表方法については、大学の担当委員会の方で再検討中だということですので、学生の皆さんにはもうしばらくお待ちいただきたいと思います)それに任せればよい。こうしたホームページでは、自分の考えを素直に学生に伝えられるのがメリットですから、そのメリットを最大限に活かしたい、と考えています。ただ、もし私の考えが主観的に過ぎるということであれば、学生の皆さんも、掲示板なりメールなりで積極的にアプローチしてください。評価をするのは、評価することそれ自体が目的なのではありません。お互いがよりよく理解しあうことこそ、評価の最大の目的なのですから。

1.「常識」の差
 今年の講義の中で考えさせられたことの一つが、どういうことを「常識」と考えるか、ということについての、学生の皆さんとの意識のズレでした。たとえば、日記にも書いているように、講義の中で私が私語が多いと思う時が一定数あります。学生の皆さんの中からも、同様の意見が出る。でも、それでは皆が皆うるさいと思っているかというと、そうでもない、という感じがします。「そうですね、ちょっとうるさいかもしれませんね」という感覚だったり、「高校のときもこんな感じでしたよ」という感覚だったり、そういう学生の方もいるわけです。
 こうなると、対応をどうすればいいのかに苦慮することになります。静かに集中して講義を受けたいという学生の方からすれば注意してほしいということになると思いますが、他方ではこの位でも良いという感覚を持った学生の方は注意されると気分を害するでしょう。もちろん、気分を害することを怖がっていては教員はつとまらないわけですが、根本的な問題は、気分を害することが教室全体の学問へ向かう雰囲気を低下させてしまうことです。つまり、静かでなくともそこそこ学問的な雰囲気に満ちた教室と、学問的な雰囲気を犠牲にして静かになった教室とどちらを選べばいいか、というほとんど不可能な選択を迫られる場合を想定しなくてはならない。こうした考え方をしなければならない背景には、多数の講義に出席しない学生の方に比べれば、たとえ私語をしていたとしても、教室に来ている学生の方は少なくとも多少なりとも学問への意思があると考えなければならない、という事情もあります。
 この問題は、教室の雰囲気だけではなくて、内容にも絡んでいます。つまり、大学の講義内容として想定している難易度が、各学生によって大きく違っています。それに加えて、大学の講義内容に関してはおそらく一定の社会的な要請というものもあるはずです。そう考えると、ニーズのどの部分を満足させる講義をすべきなのかは、非常に不透明にならざるを得ない。現実と理想の間でのせめぎあい、そして複数の現実の間、複数の理想の間でのせめぎあいもあります。こうした部分について、対処方法がまったく見つからなかった、というのが前期講義の一つの結末でした。

2.準備の量と教育の質
 今年度、私にとって一番大きな外部的変化は、担当コマ数の増加と大崎での講義の受け持ちでした。内訳は、大教室での講義週2コマ、小教室での講義1コマ、ゼミ3,4年生各1コマ、1年生用英語科目1コマです。このうち講義3コマは、ホームページでもアナウンスしたように、基本的に同一内容のもの。そして後期には、公務員試験用の問題演習科目がもう1コマ入ってきます。出講日数は、前後期とも、大崎月曜、熊谷火・水曜の週3日です。
 学生の皆さんからすると、同内容の講義を三つおこない、さらに週休4日の生活は楽そうに考えられるかもしれません。でも実際には、これはそれほど楽な作業ではありません。たとえば、講義1コマを考えても、毎週ゼミで1時間半の発表をする生活が3ヶ月続くことを考えてください。これだけでも相当な負担です。しかも、大学の講義に対して「いすに座って喋るだけでやる気がない」「ノートを読み上げるだけでつまらない」といった批判がある中では、毎週1時間半の講義をある程度暗記し、教壇の上や教室を歩き回りながら授業をする、という工夫も必要になってきます。そうなると、月火水の授業を終えた翌日の木曜日は体力を使い果たしていて、ほとんど起き上がるのが困難という状況になります。そうなると、講義の準備に使えるのは金土日の三日間。そのうち日曜日は講義内容の最終確認と暗記をしないといけませんから、残るのは金土の二日間。ここで講義内容のアップデート(講義の基本線は、毎年同じノートを用いています。それに、新しい政治状況や学問的成果を付け加えて各年の講義ノートを作るわけです)と、本や論文の原稿を書いたりという自分の研究をおこないます。そうするとほぼ1週間が終わってしまう、場合によっては教授会をはじめとする様々な会議や学会が入りますから、講義内容を改善する余裕すらないということもありました(5月末、熊本での学会時など)。さらに、これにゼミ等の準備が入ってきます。
 私は、自分だけが忙しいと主張するつもりはありませんし、これよりも多くの業務をこなしている先生がいらっしゃることも事実です。ただ問題なのは、こうした状況を当たり前と感じる感覚が教員や学生に普及してしまうと、それは事実上講義の質とレベルを低下させることにつながる、ということです。大学の講義で最も重要なのは、その「質」を保持することです。そのためには、どこかで何かを犠牲にしなければならないかもしれない。たとえば、私が前期に感じたのは、「椅子に座って講義をさせてもらえないだろうか」ということでした。この程度のことでも、もし学生の皆さんや社会が許容してくれるのであれば、木曜日に体力を持ち越すことができ、したがって講義内容を改善する余裕が生じます。しかし、私語や教室の雰囲気の実際から考えて、そうすることは難しいかもしれない。ただ、そのことが決してよい状況ではないということだけは、私たちはしっかり認識しておかなければならないだろうと考えています。

3.研究と教育
 2で述べたことを「教員」ではなく「研究者」という立場から見直してみると、それは研究と教育のバランスをどのように考えるか、という問題につながってくると思います。現在の日本の大学では、2のように講義と大学運営に多くの時間と労力が割かれる現状で、一定程度研究が妨げられるのは仕方がない、という風潮がここかしこに存在するように私には見えます。あからさまに「仕方がない」という論調もあるでしょうし、「教育型大学と研究型大学の分離」というかなり精緻な考え方もあります。
 「仕方がない」という考え方に関しては、それが「大学教員が楽をするための言い訳になっていないだろうか?」というのが私の疑問です。従来大学教員については、ほとんど研究成果を出さない、社会と交わらない、といった批判が多くなされてきました。こういう批判に対して、より一層の研究ではなく、研究以外の仕事の増加とそこから生じる多忙さをもってこたえるとすれば、それはある種自殺的行為であるといってもいいのではないでしょうか。
 考えなければならないのは、教育型大学と研究型大学という分類です。こちらは理論的には正当な議論であろうと私も思います。大学間にレベルの差があるのは明らかですから、たとえば現在の立正のレベルであれば学生の教育を重視した大学運営をしていく。そのために、バランスとしては研究から教育へと重点を移す。このこと自体、間違っているとは思いません。問題なのは、大学教育においては、研究が活用されない限り教育自体が困難である、ということです。たとえば、私は今期、自分の講義内容が昨年までに比べて劣化していると考えています。単純に言って、コマ数が増えた分研究と講義準備にかけることができる時間が減っているという事情があります。そうするとどうなるかというと、教育内容が陳腐化し古くなる。講義の場でアドリブがきかなくなる。つまり、学生の皆さんにとってつまらない授業になってしまう、という現状があるわけです。まして、教育型大学がレベルからいえば高くない大学であるということを考えるならば、学生の皆さんの興味や関心を喚起するためにも、難しい研究を(このために研究する時間が必要です)わかりやすく説明する(このために講義を準備をする時間が必要です)ことが何よりも重要になってきます。
 この問題は、もう少し踏み込んで言えば、学生の皆さんや父兄の方にも考えていただきたい問題です。立正大学に限らず多くの大学では、たとえば父兄会をしたり、学生との個別相談をしたり、と様々な仕事をおこなっています。そして、そうしたことに対しては、比較的学生や父兄の方から支持されることも多い。しかし、そのことによって学生の皆さんが受ける講義の質が落ちているとしたらどうでしょうか。私は、大学が学生や父兄の皆さんに対して提供できる一番の「親切」は、良い内容の講義を提供することだと考えています。それは、大学の本来の職務でもあります。端的に言って、講義以外の大学の仕事は、そのこと自体では大学の良し悪しを判断する基準にはなりません。学生に対して面倒見の良い大学が、必ずしも良い大学であるわけではありません。講義が充実していることが大前提であって、それ以外の「おまけ」として様々なサービスがあるだけです。おまけがつくことでお菓子の売れ行きは伸びるでしょうが、おまけがついたことはお菓子が美味しいということとは全く別のことです。


 前期の講義の中で考えていたことを、今回は散文的に書き連ねてきました。これが、学生の皆さんと理解しあうきっかけになれば幸いです。

早川誠
平成14年7月14日