2002年1月の本棚

『すべての道はローマに通ず ローマ人の物語X』

塩野 七生 著

新潮社
3000円+税
ISBN4−10−309619−5

「インフラ」の意味
 本書は、刊行が続いている『ローマ人の物語』の第10巻に当たります。塩野さんの描くローマの歴史物語を楽しみにしている読者の方も多いのではないでしょうか。ただ、この巻は、これまでのシリーズの中の作品とはやや趣を違えています。というのも、時系列的なローマの歴史を扱うのではなく、帝政初期を中心とはしているものの、著述の核を「インフラストラクチャー」という特定のテーマに絞っているからです。著者もこの点については相当気を遣っているようで、「はじめに」の中で「読むのも困難であるはずで」であるとか「読んでくれるあなたに向って、まだ読みはじめもしない前から、覚悟してください、と告げているのだから」などの記述が見られます。しかし、私の読んだところでは、確かに性質の違う書物になってはいるものの、面白さという面では例えば第U巻の『ハンニバル戦記』に劣るとは思えません。むしろ、異質な書物であることによって、また別の知的刺激を与えてくれる作品になっていると思います。
 その大きな要因の一つは、「インフラ」というものについて、ローマの事例を通しながら明確な一つのイメージを提供することに成功している、という点にあります。無駄な(?)道路や空港建設が批判される現代日本の中で、私たちはそれにもかかわらず「インフラ」というものをどう考えるのか、明確な視点を持っていないように感じられます。インフラは、何のため、誰のため、誰によって形づくられるべきなのでしょうか?国のため?地域のため?・・・著者によって描かれたローマのインフラにおいては、インフラとは「必要な大事業」であり、「人間が人間らしい生活をおくるためには必要な大事業」であったとされます。「ところが、当のローマ人の書いたものの中には、文献にかぎらず碑文の中にも、後世に遺す記念日を意味するような語は一つもない。ローマ人は、後世への記念碑を遺すつもりであの大事業を行ったのではなく、人間らしい生活をおくるためには必要だからやったのだ。それが結果として、ローマ文明の偉大なる記念碑、になったにすぎない」(18頁)。こうしてみると、公共事業の根本にある「公共」性といったものへと話が進んでいくのは当然のことといえます。

インフラと「公」と「私」
 そうは言っても、現代日本でも当然政治家は「インフラは公共のために整備されるべきものだ」と考えているでしょう。では、その場合の「公」とローマにおけるインフラの「公」とは、同じものと考えられるのでしょうか。具体的に記述を見ていきましょう。本書の中核部分をなしいてるのが、インフラストラクチャーとしての「街道」です。アッピア街道をはじめ、ローマを起点とする高度に整備された街道網が、ローマ発展の原動力の一つでした。当時、道は「公道」「軍道」「支線」「私道」に分類されていたとされますが、この中でも特徴的なのが、総延長8万キロに及び幹線をなしいていた「公道」に対するローマ人のアプローチです。公道は、車道道幅4メートル(両側の歩道は各々3メートル)の広さを持った対抗2車線道路であり、敷石舗装によって高速移動が可能となっていました。また、馬交換・馬車修理用の施設や、食堂施設も沿線に完備され、郵便制度も確立しています。では、なぜこれほど高度に洗練された道路網が整備されたのでしょうか。著者は、道路網の整備がローマの軍事・政治と一体であったことを浮き彫りにしていきます。つまり、こうした街道はローマ軍の移動を迅速なものとします。また、征服地にこうした道路を通すことで流通の活発化と周辺住民の生活向上が実現され、版図の平和的拡大が可能となっていきます。つまり、ローマにおけるインフラ整備は、政治戦略と密接不可分のものだったわけです。そうなると、インフラを「公」的に維持しなければならない。しかも、インフラが国家の存亡に関わる問題だということになりますから、長期的かつ現実的に持続可能な手法で維持されなければならない。「ローマ人に言わせれば、インフラとは人間らしい生活を送るために必要なこと、なのである。それを「公」が負担するのは、税金をとっている以上は当然至極のこと、と考えていたにちがいない。もしも古代のローマ人が現代日本の道路公団の苦境を知ったら、不可解という顔をして言うだろう。 借金などしないで、予算内で可能な事業だけをやること。だからこそ、何をどこまで国が担当し、それ以外は地方自治体に、また私人の公共心に期待できるかを、明確にすることだ、と言うにちがいない」(29頁)。こうして見ると、確かに日本においても「インフラ」が「公」のものと考えられてはいるとしても、その視野の広さと、政策的な首尾一貫性については、ローマの域に及んでいないのではないか、という疑念が生じてこないでもありません。

「公私」とインフラの関係の複雑性
 もう少し進んで言えば、「公」で全てを負担することができないのであれば、インフラストラクチャーを「私」の活動を活発化させる助けとするのみにとどめて、財政支出を抑えるというやり方もあります。例えば、現代では当然のものとなった「公的医療」や「公教育」が、ローマにおいては「私」の領域の問題であったことが描かれます。カエサルは、医師と教師にローマ市民権を与えるというインフラストラクチャー整備によって、両職の改善と活発化を実現しました。ローマ市民権に付随する数々の特典を求めて、各地の医師も教師もローマを目指し、競争が行われ、資質が向上していきます。しかもこれは、当時のローマが財政難であったから、ではありません。「「私」が中心になって担当すべき分野と考えたカエサル時代のローマの経済力は、上昇の一途にあったのである。それゆえに、現代の研究者たちの一部が唱える、ローマ帝国における医療制度の完全な欠如、とは、経済力を反映しての政策ではなかったことがわかる。これはもう、「公」中心か「私」中心かの、概念のちがいに帰すしかない問題ではないだろうか」(213頁)。私たちは、インフラストラクチャーと言うと国なり自治体なりが負担すべきものであって、それ以外のあり方は考えられないと規定しがちです。しかし、実際には、「公」と「私」をどのように配分するのか、「私」の領域に対してどのような制度を作るのか(規制的な制度を作るか、促進的な制度か)など様々なタイプの方策があるはずです。 現代の状況を一時離れて過去の異国に目を向けることで、私たちは、何か新しいインフラストラクチャー整備の「概念」を手に入れることができないでしょうか。

 著者が述べるようにインフラストラクチャーが「必要」なものであるとしたら、「道路公団」等の問題があるとはいえそれでインフラ整備をただ単に中止しようという議論はあまりにも乱暴です。他方で、「道路公団」型のインフラ整備が全てであるかのような議論ももう一方の極端にある議論に過ぎません。より精緻化されたインフラストラクチャーへの取り組み方を、私たちが開発することができるのかどうか(このこと自体インフラストラクチャー整備の一貫でもあるかもしれません)。本書は、歴史を紐解くことによって、私たちに新しい視野と展望を与えてくれる著作になっていると言っていいでしょう。

2001年12月29日
文責 早川 誠