祖母の話し


母方の祖母

母方の祖母には小さいころからひどいこと仕打ちをうけていた。ただでさえ臆病な私を怖がらせるような話しを平気でしたり、礼儀作法など何かにつけて口やかましい祖母は母が怒る前に私をたしなめた。幼稚園ぐらいまでは祖母と一緒にデパートへ行ったりしたが、母方の祖母は自分になつくときは猫なで声で接するけれど、基本的に、家族の中に子供がいるのが嫌なようであった。だから敬老の日など折角祖母へプレゼントをあげても私はまだ年よりではありませんと、幼稚園の私にですます調で言い放ち喜びもせず、色んな面で私の才能の芽をつむようなことをした。

子供と言うものは大人の真似事をしたり、めがねに興味を持ったりするのは自然なことなのに、祖母が絵をかいてる時に後で絵を書くと「真似しないで」とか、祖母のメガネを珍しがってかけてみたりすると、「私は好きで目が悪くなったんじゃありません。返して頂戴。」など強くたしなめた。祖母は会社勤めをしていたが、夕方の五時にはあがり、きまってスーパーから毎日は母に電話をかけ、電話口の母の声のトーンを聞けば一発で祖母からの電話だとわかるような、なんでも一人では決められない人間だった。そして、一人娘の母を、孫の私より溺愛し、何かと言えば私と母を比べあんたは母の子なのに・・・などコンプレックスを飢えつけた。

小学校のときハウス名作劇場というアニメを欠かさず見ていたが、その時小公女に出てきたミンチン先生にあまりにも祖母がそっくりだったので、ミンチン先生と祖母のことをこの親子で暗号として呼び合っていたこともあった。

母が癌の手遅れになり、母がお中元だか贈ったあとにでも、母が私が良くなったからと過信していたある開業医からヨックモックがお返しに贈られてくると封も切らずに「こんな汚らわしいもの!」と、すぐ近所の人にあげてしまった。逆恨みが激しかった。私が中学生で学校へ行けなかった時、母がいないすきに、「あんたが苦労をかけなければお母さんはもっといい格好が出来るのに。」とか、「児童相談所に相談してやるから」と、酷い口調で言い、私を泣かせた。母の死後は私のせいで母が死んだのだとさんざんのたまった挙句、一人娘を失い、私が美大へ入ったという小さな天下を取ったからか、よりかかるものがなくなったからか、私を立てるようになった。

母親は凄くいやがっていたが、母親が夕食を作っていると手伝いもしないのに、いつも作りもしないのに「今日の料理」を欠かさず見てテクニックだけ覚え、母にここはどうだとかなんだとか口やかましくいい、ずっと後で監視していたので母は物凄くいやがり、祖母がのたまった最高の言葉は「あんたが娘で良かったわ。もしあなたが息子で、お嫁さんを貰っていたら私は我慢できなかったでしょうからね。」だったらしい。そして、「キャベツの刻み方は私のほうがうまいわよ」などろくに料理もしたこともない祖母はのたまっていた。というのも、叔父に(祖母の兄)胃腸のためにキャベツを千切りにしてとどけるのが日課だったときがあるからだそうだ。

父方の祖母

父方の祖母は母方の祖母と全く対照的な性格で、私を怒ったり、やりたがっていることを面倒くさがって邪魔者扱いしてやらせなかったりすることはしなかったし逆に積極的にいちごのへたをそぐ作業をやらしてくれて包丁をもたせてくれたり、火もつかわせてくれたし、いつも、どんなに小さな進歩でも見逃さず、大げさなほど誉めてくれた。もしこの祖母がいなかったら今私はどうなっていたわからない。70代に入って腰の手術をするまでずっと渋いしまの着物をしゃんと着こなしていた。私は物心つく前を含めて何度祖母の家にとまりに行ったかわからない。余談になるが、母と祖母が始めてこの父方の祖母の家へ挨拶に行った時ざっくばらんに笑顔で手を振って迎えたくれたというエピソードがあり、それで安心して祖母が母親と父を結婚させることをみとめたという話しがあるぐらい子供のように心が純推で可愛い人。運動会の前は、着物姿のままいっしょにかけっこの練習をしてくれ、私が追い越しそうになると子供のように「ヒー」と言ってラストスパートをかけたりした。自転車を颯爽と着物で乗りこなし、結局、自転車の乗り方を教えてくれたのはこの祖母で、気が付いたら祖母が後で手をふっていたのを覚えている。母が英語教室の研修で忙しかった時など、毎日のように家へきてくれて、いつもチョコレートやアメなどのお菓子とかその頃近くにあった小僧寿司で海苔巻をかってくれた。そしていつもこの祖母のうちに親戚が集り、みんな集ると次第に、自然にパーティーになった。みんな祖母が風のように知らぬ間に動いて作ったつまみを食べながら大人達は飲んだりしていた。私にお小遣いをくれてたのもこの祖母である。家の事業が時代遅れになり、お金がなくなり、株やに奉公に出されたこともあり、株がとても上手でそのおかげでお金持ちでもあった。おもちゃを買ってくれたのもこの祖母で小さい時、髪の毛にワイアーが入っていてカールできる人形とおそろいに、ヘアローションとこてで、「あつくないですか?」なんて美容院ごっこをして遊んでくれたり、「雑草になりなさい」が口癖で、から揚げをあげれば、しらす結びを作れば、つまみ食いを積極的に進めてくれたのもこの祖母である。若いうちからそう入れ歯で、まるで自分のはのように固いものでも何でもバリバリ食べていた。私は祖母に嫌われたくないからずっといいこでいようとしていたような気もする。絵をかけばさすが母方のおじいちゃんのこだとか、敬老の日、プレゼントを上げれば心から喜んでくれて作品の裏まで眺めてあがめてくれたのもこの祖父母である。父方の祖父は1度もおこったことがないのが自慢だ。良く、祖母はおじいさんは内閣総理大臣になれるわ。などと言っていた。祖母はやんちゃな男の従兄弟のボール投げにも応じ、良く従兄弟同士レストランに連れていってくれたり、子供のころは欄干から飛びこんで川で泳いだとか、背が高かったからバスケットボールでは良く活躍していたなどいっていた。とにかく、母がのろのろ家事をやるとすればこの祖母は風の如くいつの間にやったの?と思うほど軽やかに動きいつも余裕があって、うちでは考えられない、野良猫をお座敷に上がらせて、浴衣の帯でじゃらして遊んだり自らのら猫を手なつけたいたりして凄く寛容だった。

よく、母親に好きな人の順番を聞かれると、1、母方のおじいちゃん、2、父方のおばあちゃん、・・と言う具合で母や父はかなりあとのほうで、母方の祖母が最下位であった。


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