母の愛情

(30になる今だからかける事)


このホームページの私の過去たちを読むと、まるで母が酷い人間みたいに思えてしまうかもしれない。

どうしてわかってくれなかったの?どうして無理に抵抗することを強要して許してくれなかったの・・?と、確かにあのときは辛かった。

母がもっとおおらかな人間だったら私はもっと違っていたかもしれないのに・・と思った事もあった。しかし今、30を目前として母が私にしてくれた究極の愛情を日常の中に見つけ、振返り、書きたくなった。これは母の愛といわずして何といえよう。

いろいろな事。

私が朝、学校へ行く前、緊張で朝食なんてろくにのどが通らなかった。そんな私を見かねて、母は、手を変え品を変え、一口でも私が食べれるように一生懸命であった。

学校へ行くとき、玄関先まで追っかけてきて、「一口でもいいから食べなさい」とか、「一口でもいいからお茶を飲んで。お母さんを安心させて。」と、私が朝、唯一のどを通ったスライスしたキウイフルーツの入ったお皿とフォークを持ってきて一切れ食べてからいったり、湯のみを持っておいかけてきて、お茶を一口飲んでからいったり。

私はキウイフルーツだけは何故かのどを通ったので、小学校から高校のはじめまで、私は気を紛らわすためにテレビなどを見ながらキウイを食べている間にいつも髪を結っていてくれた。高校のときは寝坊気味なわたしはウゴウゴルーガを見ながら、母が髪を結ってくれてるうちに私のほかに食べられた、母がいっぱい買い置きしてくれたリスボンのチーズクラッカーや、ミニマグカップヌードルなんかを食べていた記憶がある。

小、中学校のときは、学校へ向う足取りの重い私の後ろ姿を私道の私の姿が消えるまで家の前でいってらっしゃいと見送ってくれたり、更に元気のないときは、ほんの気休めなんだけど、「背中のねじを巻いてあげる。」と、ぜんまいを巻くようなしぐさをしたり・・・。

どれもこれも私はとても情けないのだが・・・。

それと、小学校低学年まではうちで咲いた花を切っては学校の花瓶にいけなさいと持っていかされた。母は、花を育てるのがとても大好きだった。

風邪を引けば美味しい梅干のおかゆを作ってくれたり、高熱で消耗した夕方は、とくべつメニューで母の自慢のお手製ぺシャメルソースで牛乳やチーズのたんぱく質たっぷりのシチューを作ってくれたり。

おやつも、高校生になっても母がお皿に数種類を少しずつ盛りつけて学校からくたびれた私を待っていてくれた。麦チョコとか、南部せんべいとか、小魚とか、体によいものがメインだったが私はこれだけで十分沢山食べたようなきがして、ポテトチップスを袋ごと食べる人がいるということを雑誌とかで読んだが信じられなかった。かなりの小食だったので、いつもおかずばかり食べてご飯を必ず残してしまうのでお結びにしたり、大根の葉っぱとじゃこでふりかけを作ったり野沢菜や海苔を用意したり、私が一口でも食べるようにあれこれ手を焼いてくれた。

もっと過去をたどれば、私が物心ついたときピアノをいつも触って一番低い音をおして「怖い音」、一番高い音をおして「きれいな音」としきりにやったり、童謡の探り引きをしたり、幼稚園へ上がれば一言も喋らずにないてばかりの私だったが、先生がオルガンやピアノで弾いた曲を先生の手元をじっと見たり、メロディーとしてすっかり覚えて、誰に教わったわけではないのに勝手に探り引きして同じように引く事に母は、「この子にはピアノをやらせるしかない」と思ったらしく、5歳ぐらいからピアノを習い始めたが、課題曲より自分で幼稚園で習った曲を勝手に弾く時間のほうが多かったり、ピアノの先生は、ある程度私が大きくなると、「課題曲の練習をあまりしないのは困るけれど、耳はとってもいいです。」と、どこかですれ違った時誉めてくれたらしく、小さな私に、先生はよくソルフェージュをやらしたり、「もっと声が大人になったら歌を教えてあげる。といわれたり、ときに、「あなたに新しい課題曲を弾いてあげると耳で覚えちゃって自分で楽譜を読まないからもう先生はひきません。」と、宣言された事もあった。あのときはそれが当たり前の事だと思っていたが、後になってそれは絶対音感と呼ばれる物を持っていたということを知った。

小学校二年生の時他のピアノ教室と合同で区民センターのホールを借りきって盛大にやったピアノの発表会でも本番まで先生は私のことを一番心配していたらしいが、私のほうはあっけらかんとしてて、直前楽屋でリハーサルの時も些細なミスをしてたらしいが、本番では完璧に演奏を成功させて楽屋に戻ったら先生が飛び出してきてよくやったとめったに誉めない先生が誉めてくれて、以来母には「あんたは土壇場に強い子」といわれた。

不登校でとても授業についていけずどこの高校もいかれないのではないか?と言う危機の時も、中3の夏休みの終わりに家庭教師をいやがる私に週二回付け、その日の夕食はさっと食べられるどんぶりものが多かったのを覚えている。そして5ヶ月で3年分プラス過去問をやった勉強で一応、私立の中で第一志望にしていた美術コースのある高校に、勉強する前高校に母と出向いたときは、その成績では・・といわれどうしだったが、入試本番では、解けない問題のほうが少ないぐらい勉強が出来るようになっていて、入学金を納めにいった母がその高校の教頭先生にすれ違った時、笑顔でこころから「よかったですねえ。」といわれたとか。

大学の時も予備校へいかずに独学で頑張って念願の美大と大学に両方合格し、母は始めて泣いて喜んでくれたのを覚えている。

お誕生日なども前の晩から手間隙かけて盛大に祝ってくれたし(ケーキも手作りで、不器用ながらにも一生懸命毎年デコレーションに絵を書いてくれた。)高価なプレゼントではなかったが、今思えば一番嬉しい心のこもった手作りの物や(ポプリの入ったサシェや、木箱をデコパージュして作ってくれた宝石箱や、当時日本では珍しい外国の習慣で抜けた乳歯を記念に取っておくためのケースをお手製で作ってくれたり)で、一つずつあなたたち(妹もいたので)譲っていくつもり、と毎年気恥ずかしくて御所大事にしまっておく事しか出来なかったが、今まで母が身みつけていたアクセサリーなどを贈ってくれた。

本当に、母がいた時は優雅な事が大好きでお茶会ごっこをしたり、祖母がケーキを買ってくれば選ぶ順番を快く譲り合ったり、少ないおこずかいを、自分のためより、身内のお誕生日などや親戚へのお土産など、人のために優先して使うことが当たり前だと思っていたし、母も私もある意味「姫体質」で(食べるのに異様に時間かかったり)母も英語の集りにお手製のお料理やお菓子を持ってしょっちゅう出かけたり、充実して過ごしていたようだが、その母のサークルの中の一人のもとはと言えば、私が病院へ行くときに母が付き添った帰り道、道に迷っていた外国人を助けたのがきっかけでその人もサークルに加わったり、頻繁にうちに遊びにきたりして、家にいながらにして国際交流も結構あって、ホームステイを日本にいながらにして、家族ぐるみでしたり、とにかく、人の出入りが絶えないよくお客さんがくる楽しい家だった。季節の行事もしっかりやってそう言うことをとても大事にするメリハリのある家だった。こういうことはとても大切だと思う。母のころは千行主婦が当たり前だったが、今は外で働くほうが主流で、お金はあっても逆に時間がないので、手作りでなく、お金を使ってケータリングや外食ですませたり、伝統の行事をやらなかったりしてきているが、じつはきちん、きちんと生きることは、専業主婦業も立派な仕事だと今は思う。

それと、小さいときから高校ぐらいまではバブル全盛期だったのでやりたいことはよほどのこと以外人並みに何でもやらしてもらえたり、毎日手をかけて作った美味しいご飯が待っていたし、小さいころは遠慮知らずで、心の中ではお嬢様に憧れていたのでお嬢様のつもりでいた。

母がいなくなって、女手がない事や、母がいない事はこんなにも味けないことか・・家に訪問する人もなくなりとても寂しくて心が寒々しい灰色の家となった。

母は自分が英語教室をやっておこずかいがあった頃は身なりをいつもきちっとして、華やかで、上品で、優雅で、研修先の青山で、先見の明があってこ洒落たものを見つけてはちょこちょこお土産に買って来てくれたり、小さいころお誕生日会に招待されればお手製のクッキーを持たされおめかしさせられ出掛けた事や、新学期、お洒落をして登校させられた事も覚えている。本当に気品と華がある人だった。そう言う母が好きだった。

私も母が英語教室を始めて母の生徒でもあったので小さい時から英語に慣れ親しんで、当時としては日本語は使わず、ビデオや、イラストのカードを使ってビジュアルでその絵の英語のの発音と結び付てやるメソッドだったので楽しく、ゲーム感覚で、英語のない日も母と私が英語だけで会話するゲームに乗ってくれたり、英語に関しては教えがいがあると誉めてくれて、5年生の時、アメリカ人のファミリーが遊びに来た時などひととうりの言いまわし(会話)が、フィーリングで出来たので、交流が楽しかった。中学校へ入って、your well comeが”ユアー・ウェルカム”と発音することが正しいと始めて知り、交流のあったアメリカ人が”ユアウェルアッカン”と発音していたのでてっきりそっちが正しいのかと思っていた。日本人には人見知り激しいのに、外国人とコミュニケーションするのは結構臆面なくでき、like a〜(みたいな)とか、I see とか、I'm 5th grade. I like playing the piano.とかぐらいは普通に言えた。そうそう、小さいときは名前に子がついてるほうが女の子らしくて憧れていたけれど、母は私も妹にもインターナショナルに通用するように子をつけなかったので、外国のファミリーも親しみやすくすぐに覚えて可愛がってくれたように思う。今となっては名前はお金でかうことは出来ないのでありがたいと思っている。

母はパーティーをするのが好きで、お客さんがくればすぐにパーティーになる。こなくても、「ビデオ・パーティー」と称して普段絶対ソファーに寝転んで袋ごとのポテトチップスやトルティアをつまむのはだらしないから禁止されていたが、このときはそれが許され無礼講の楽しいパーティーだった。

あと、父方の祖母゙がかってくれたパンこね機で、ピザを焼くのにこっていたこともある。トッピングを子供にお遊びのようにやらせて母は実は楽だったり・・・?

それと、テーブルマナーのために、母がシェフになって、特別なひようのテーブルクロスを敷いて、一品ずつ西洋料理をテーブルに運んできて、ナイフ・フォークの使いかたの勉強をかねたエンターテイメントをしたこともある。

いろいろな想い出があるが、私はそんな母の真似が出来るだろうか?家族を愛していなかったら、そんな事はとても出来ないと思う。母が旅行にいくたびに車の中ですぐ眠ってしまったのも当時は不思議だったが、今の私には、日頃それほど家族のためにエネルギーを使ってくたびれていたのだろうとよくわかるし。

母が早くに亡くなったのは悲しいことだけど私が生き続けている間は母が産んで、成長期まで育ててくれたからいま私がいるのだからいつまでも母は私の中で生き続けているはずだ。


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