夢唄


 どうやら、完全にはぐれたらしい。
 そう判断すると同時に、シルウィルは師を捜す努力をあっさりと放棄した。
 しかしながら、それは彼が薄情であるとか、このチャンスにこんな陰気くさい仕事はサボってやろうと考えたとか、そういうわけでは決してない。単に、目的地は決まっているのだから、下手に相手を捜して動き回るより現地で落ち合ったほうが手っ取り早いと考えただけである。向こうもおそらく同じ結論に達しているだろう。
 特に個性的な判断ではない。たとえば街中の雑踏で連れとはぐれたりしたときには、大抵の人はそうするだろう。ただ、実践が難しくなるのは、ひとりで進むのが心細いとき――たとえば、そう、霧深く鬱蒼と薄暗い、コンパスの針が気紛れなダンスを踊るような森の中を歩いているときだ。今のシルウィルのように。
 シルウィルは特に剛胆な青年というわけではなかったが、こういった状況には比較的慣れていた。師についていろいろな土地を歩き回っていると、このような奇妙な場所に足を踏み入れることも少なくない。慌てず騒がず周囲を見まわし、冷静に思考を働かせて進むべき方向を見極める。
 ひとり黙々と歩き続けたシルウィルは、やがて自分の判断の正しさが半分は証明されたことを知った。木々が途切れ、目の前に朽ちかけた城壁が姿を現したのである。どうやら、方向を間違えることなく目的の場所へ辿り着くことができたようだ。
 白い霧の底に横たわる廃墟。ここには、かつてひとつの国があったのだ。
 壁にそって歩いていくと、すぐに門が見つかった。半ば崩れ落ち、蔦が這っているが、はるか昔にはこの国を出入りする人々を悠然と見下ろしていたのだろう。石材はぴたりと隙間なく積み上げられており、当時の建築技術の高さがうかがえる。
「先生はまだ着いていないのかな」
 門の中をのぞき込んでつぶやく。正面には幅の広い道が奧に向かってまっすぐに伸びており、人のいる気配はなかった。
 ひょっとしたら、助手であるシルウィルを待たずにさっさと調査を始めているのかもしれない。それは大いにあり得ることだったし、シルウィルでさえ辿り着けたのだから、遺跡に対して異常に鼻の利く師が道に迷っているはずなどない。
 調べると決めた遺跡や遺物は、それが実在している限りほぼ確実に見つけ出してしまう彼は、いつだったかそんな己を評してこう言った。
「伝説が私を呼んでいるのさ」
 なにやら壮大な響きだが、つまるところ並はずれた執念のなせるわざであろう。
 シルウィルは少し考えてから、瓦礫を慎重にまたぎ越して廃墟に足を踏み入れた。とりあえずこの周辺を捜してみて、見当たらなければ門に戻って待とう。それが一番確実だと思われたし、実のところ、シルウィルも早く中の様子を見てみたかったのである。なんだかんだ言っても、似たもの師弟であった。
 壁の内側には、整然とした街並みが広がっていた。正しくは、かつて街並みだった光景が、ではあるが。
 崩れた家々。石畳の剥がれた道。整備は大通りだけでなく、小さな路地にまで及んでいた形跡がある。あちこちに設けられた広場や水場。遠く霧の向こうに見える大きな建造物は水道橋だろうか。
「すごい……」
 思わず感嘆の声が漏れる。
 かつては美しく、立派な都市だったのだろう。実際、豊かに栄えた国だったと聞いた。
 教えてくれたのは、近くの村の住人たちだ。彼らは、遺跡の噂を聞いてやってきた都からの客人に、村に言い伝えられていることを快く話してくれた。
「それほどの国が、なぜ滅んでしまったんです?」
 シルウィルの質問には、当然とばかりに「戦争さ」という答えが返ってきた。
「その国の豊かさに目を付けた近隣国が攻め込んできたんだ」
 長く続いた平和のために、その国の軍隊はすっかり弱体化していた。彼らは必死に応戦したが、貪欲な侵略者を前に、なすすべなく敗北したという。
 そこまでならよくある話だ。だが、この国に限っては、まだ続きがあった。
 侵略者たちは征服の象徴に、国の中心にあった神殿を破壊した。しかし、神殿には、それまでこの国が封じてきたあらゆる災厄が眠っていたのだ。解き放たれ、溢れ出した災いは敵もろとも国を滅ぼし、廃墟へと変えてしまったのである。
「教訓だな。平和ボケして内部の権力ゲームばかりに精を出していると、手痛いしっぺ返しを食らうぞ、と」
「違うと思います」
 もっともらしくうなずいた師に、シルウィルはさっくりと言った。そういう皮肉は、派閥争いに熱中している軍のお偉方の前で言ってやらなければ意味がない。もっとも、言ったところで通じる相手ではないだろうが。
 ふたりがこの地を訪ねてきたのは、むろん、そんなどうでもいい感想を述べるためではない。
 その遺跡には、亡霊の噂があったのだ。
 いわく、道に迷った旅人がこの“国”で親切にもてなされ、一夜が明けてみるとそこは寂れた廃墟に様変わりしていたという。いわく、霧の中から賑やかなざわめきが聞こえ、真夜中にたくさんの明かりが灯っているのを見た者がいるという。
「死者たちの魂が、まだあの遺跡でさまよって、幻を見せているのさ」
 近寄らないほうがいいと、村人たちは警告した。遺跡に入り込んだまま二度と戻ってこない者が、昔から後を絶たないのだ。
 彼らの情報と忠告に、ふたりは丁寧に感謝の言葉を述べたが、もちろん亡霊の呪いなどというものを真に受けたわけではない。
「やはり妖種が関係しているのでしょうか」
 シルウィルの問いに、黒髪の師はうなずいた。
「その可能性を切り捨てることはできないだろうな。妖種が幻を見せることは珍しくない。そう仮定した場合、問題は妖種がその国とどのような関係にあったのかということだが……」
「神殿には災いが封じられていたんですよね。その災いというのが、凶悪な妖種だったのでは?」
「そして、解き放たれて征服者もろとも国を滅ぼした妖種が、己を封じることで人間たちが平和を甘受していた頃の国の幻を見せている? それは少し妙な気もするな」
「わかりませんよ。旅人をおびき寄せて食らうための罠かもしれません」
「ふむ、なるほどな」
 師はうなずいて考え込む仕種を見せたが、シルウィルの提示した一例についてだけでなく、その頭の内側ではさらに様々な可能性が挙げられ、吟味されているに違いなかった。
 もし本当にこの遺跡に妖種が関わっており、それが危険なものであった場合――遺跡の過去の姿に思いを馳せつつそう考えながら歩いていたシルウィルは、不意に足を止めた。
 ざわめきが聞こえたのだ。
 雑多に混ざり合った話し声と、行き交う無数の足音、石畳を行く馬車の蹄の音と車輪の軋みなどが無秩序に入り乱れた、それは大通りの雑踏のざわめきだった。
 だが、それはほんの一瞬、耳をかすめただけだった。立ち止まってあたりを見まわすシルウィルの目に映るのは、豊かな都の喧噪ではなくうっすらと霧がかった廃墟であり、周囲を囲む森のざわめきすら届かぬひそやかな沈黙の中に横たわっている。
 もし彼がこれまでの調査の経験と、事前に仕入れた情報とを携えていなかったとしたら、己の聴覚と精神力とに疑問を投げかけざるを得なかっただろう。しかし事実はその反対であったので、変わり者の学者の助手は、すぐにそれが例の幻の一部であろうと判断した。注意深く周囲を見まわしたのは、恐怖からではなく、その後にさらに別の現象が続くのかどうか、そうであれば些細な変化のひとつも見逃すまいとしたためであった。
 しかし、立て続けにそれ以上の異変が起こる気配はなかった。師の姿も見当たらない。ひとまず門まで戻ろうときびすを返しかけたシルウィルの視界の端を、ふと動くものがよぎった。
 それは軽やかにひるがえった白い衣の裾と、銀色の長い髪だった。
 通りの向こうをひらりと横切った人影を、シルウィルはとっさに追いかけることを選んだ。
 偶然、自分たちとときを同じくして遺跡に迷い込んだ旅人、という可能性もちらりと脳裏をよぎらないではなかったが、単純にそう思い込むことができるほど呑気な場所では、ここはなかった。幻の一部、あるいはこの遺跡に関する様々な噂の真相に辿り着くための手掛かりの一端、その可能性のほうを、シルウィルは重視したのである。
 事実、旅人であれ近隣の土地の住人であれ、このような場所をうろつくには、その人影はあまりに軽装だった。細い背中は、おそらく女性、それも少女のものだろう。身に纏っている白い衣装はこの土地でこの季節、夜を迎えるには薄すぎるし、白い素足は森を歩くにも、この瓦礫だらけの道を歩くにも適さない。
 少女は軽やかな足取りで町の奧へと進んでいく。走っているようにも見えないのに、追いつくどころか、霧に紛れて消えそうになる後ろ姿を見失わないようにするだけで精一杯だった。時折、シルウィルを待っているかのように、足を止めて振り返る。
「待って!」
 息を切らせてシルウィルは叫んだ。
「きみは誰なんだ? きみが幻を見せているのか?」
 少女は微笑んだ。そしてまた背を向けて歩き出す。霧は、さらに深くなりつつあった。


「ほう、これは美味いな」
 まるで新しく発表された論文の評価でもするような口調でつぶやいたのは、標準的な旅装に身を包んだ、標準よりやや背の高い男だった。手にしているのは、すぐ傍らの露店で求めた軽食だ。肉と野菜を薄く伸ばしたパン生地で包んで油で揚げた、手軽でかつボリュームのある、この国でよく見かける庶民の味である。
 旅人の重々しい論評に、店主や周囲の他の客たちは快活に笑った。
「そうだろう、旅の人。どうだい、もうひとつ」
「そうしたいところだが、さすがにふたつは無理そうだ。連れがいればよかったのだがな。まったく、どこへ行ったものやら」
「なんだい、連れの人とはぐれたのかい」
「不肖の助手でね。呑気なもので、いつも苦労させられる」
 もしこの言葉を助手本人が聞いていたら、呑気なのはどちらですかと呆れたため息をつきつつぼやいたに違いない。
 彼は名をザムザといい、シルウィルが師と仰ぐ人物であった。
 森の中でシルウィルとはぐれたザムザが辿り着いたのは、賑やかで活気にあふれた立派な国だった。見張りの立つ立派な門の内側には、たくさんの人が行き交う大通りが町の中心に向かってまっすぐに伸び、白く美しい街並みが広がっていた。下町は市のように賑わい、城壁の外に広がる農地で収穫された瑞々しい野菜や果物が店先に積み上げられている。規模では劣るが、その豊かさは、帝国の都にも勝るとも劣らない。
 ザムザが率直にその賞賛の言葉を口にすると、彼らは誇らしげにうなずいた。
「ここは平和な、いい国だ。戦も飢えもない。気に入ったなら、あんたもここに住んだらどうだい」
「それもいいな。移住は認められるのかい?」
「ああ。この国が気に入ってそのまま住み着いちまう旅人さんは、ときどきいるよ」
 つまりそれが、“行ったきり二度と戻ってこない者”か。
 ザムザは思考をめぐらせた。それは、本当に彼らが戻らないことを望んだためなのか、それとも魔に魅入られたためか。さて、この幻の国の食べ物を口にした自分には何か身体的、あるいは精神的な変化が訪れるのだろうかと、己の状態にも注意を向ける。この背の高い黒髪の学者は、自分自身さえ、実験の材料とするふしがあるのだった。もっとも、腹が空いていて、露店で売られていた包み揚げがやたらに美味そうだったというのも確かな事実ではあったが。
「ここで暮らしたいなら、一度、巫女様にお会いしてくるといい。神殿におられて、この国を守ってくださっている御方だ」
 そう言って店主が指さしたのは、国の中心、丘の上に建つひときわ大きな建物だった。
 ザムザは目を細めてそれを見やった。災厄が封じられているという神殿。国が滅び、すべてが幻となった今、そこには何が祀られているというのだろう。
「さて、もし俺が二度とここから戻れなかった場合は、研究はすべてシルウィルに引き継いでもらわねばならんな」
 危機感のない口調でひとりごちて、ザムザは歩き出した。


 少女を追ってシルウィルが辿り着いたのは、遺跡の中心に位置する、開けた丘の上だった。
 開けているのは、かつてこの場所にあったであろう建造物が激しく損壊し、建物の基部や折れた柱の残骸がかろうじて点在しているだけになっているためだった。この遺跡の中で、おそらく最も激しい破壊の痕跡だ。
 神殿。シルウィルの脳裏にその単語がよみがえる。侵略者に破壊され、国の滅亡を導いた災厄の封印地。
 わずかに残った遺構からだけでも、それが広大で壮麗な神殿であったことを推測するのは難しくない。何も知らなければ宮殿の跡だと思っただろう。神殿の長は、聖職者であると同時に国の統治者でもあったのかもしれない。
 少女は神殿の奧で、白い階段の残骸に腰を下ろしてシルウィルを待っていた。両脇に並ぶ柱の跡。その階の先には、かつては祭壇があったのだろうと思われた。
「きみは、この神殿を守っていたんだね? 神殿と、ここに封じられた“災厄”を」
 すでにシルウィルの思考はひとつの結論、あるいは仮説に達していた。
 彼女はおそらく、封印を守護する巫女であったと。
 敵国に攻め入られ、彼女は、彼女らは、神殿と封印を守ることができなかった。溢れ出した災いは守るべき国と民をも殺し尽くし、それを悔やみ、嘆いて、死してなおこの地に留まり、豊かで平和であった頃の夢を紡ぎ続けている。そしてその夢が、幻となって現れているのだ。
 理由あってのことではない。だが、彼女が、たとえば師と話していた妖種のような禍々しい存在であるとは、シルウィルには到底思えなかった。
 この考えを師が聞けば、それは彼の願望であって仮定ですらないと、辛辣な評価を下したかもしれない。今ここにその師はおらず、彼ひとりであることが、果たして幸いであったのか、その逆であったのか。
 少女は銀色の大きな瞳でまっすぐにシルウィルを見上げている。
「きみは僕を、ここへ連れてきた。伝えたいことがあるなら聞くよ。手伝えることがあるのなら手伝う。僕でよければ」
「国は」
 少女が初めて口を開いた。鈴の音のような澄んだ声だった。
「国は、滅んだの」
「うん」
「美しい国だったのに、なにもかもが破壊されてしまった」
 なぜ、と少女は問うた。
「なぜあんなにたくさんの血が流れなければならなかったの。なぜ、この国は屍で覆い尽くされなければならなかったの」
「いつの時代にも、どんな場所でも、人は同じことを繰り返してきたよ。今だって続いてる。きみの咎じゃない。きみだけがずっと苦しみ続けなければならない理由なんてないんだ」
 たったひとり、美しい幻を紡ぎ続けるという孤独。
 どんな大義名分を掲げようと、戦と呼ばれるものが残していくのは、いつだって深い傷跡だけだ。
 呪術師でもないこの身に、果たしてこの寂しい場所から彼女を解放してやることはできるだろうか。
 もちろんこのときシルウィルは、はぐれた師や行方不明になった人々のことを忘れていたわけではない。彼女自身が幻から解き放たれれば、そこに絡め取られてしまった人たちも戻ってくることができるだろう。手遅れになっていなければ、という注釈つきではあるが。
「でも」
 小さく首を振り、つぶやくように少女は言った。
「それでもわたしは、許さない」


 巫女様は瞑想中でございます、と申し訳なさそうに言われ、ザムザは神殿を出た。後ほどお改めください、という声が背の高い後ろ姿にかけられる。
「実は昼寝中なんじゃないだろうな」
 と口に出して言ったわけではないが、自分も今度会いたくない客が訪ねてきたときにはそう言ってやろうかと考えた。昼寝も瞑想も似たようなものだろう。
 ザムザが気になったのは、この国の中でその巫女とやらは正気を保っているのかどうかということだった。正気とはつまり、すでに国が虚ろな幻影となり果てていることを認識しているという意味だ。もし“遺跡の亡霊”が巫女に生み出されたもの、あるいは無数の思念を巫女が束ねているのであれば、表層か深層かの違いはあれど、巫女にはその自覚があるはずである。
「しかしまあ、よくできた幻だ」
 高台から見下ろす街並みは、実に大したものだ。仕事柄、多くの妖種を見てきた彼も、ここまで大規模で精緻な幻覚を見せる妖種には、いまだお目にかかったことがない。
「妖種、か……」
 今のところ、“巫女様”とやらが妖種である証拠は何もない。強い力を持つ呪者であるという可能性も、もちろんあるのだ。
 しかし、黒髪の学者の脳裏では妖種の二文字がことあるごとに点滅し、自己主張を繰り返していた。
 学問や研究は直感では成立しない。ひとつの思いつきに固執すれば、理論は単なるこじつけに成り下がるし、視野が狭まって他の手掛かりを見失う。肝心なのは、仮定をどこまで冷静に仮定として扱えるかだ。
 もし巫女が妖種であったなら――これはザムザにとって興味深い命題だった。
 巫女は民に慕われている。巫女は民を慈しんでいるという。それが巫女に都合良く歪められた幻でないとは言い切れないが、少なくとも国が滅びる以前も、巫女と神殿は国を災いから守っていたのだ。
 人と妖の共存。それは一体何を意味するのだろうか。
 さしあさって、巫女との面会がかなわなかったザムザが次ぎに足を向けたのは、彼と同じように外からやってきて、そのままこの国で暮らしているという男のもとだった。
「ああ、そうだったなぁ。俺も余所から来たんだった」
 そう言って頭を掻いた男は、闊達で働き者と評判の人物であるにも関わらず、自分の出身地や森に迷い込んだ経緯を、おぼろげにしか思い出せなくなっていた。そしてそれを、奇異とも感じていない。
「ここで暮らし始めてから、国の外に出たことは?」
 淡々と訪ねたザムザに、彼は笑って答えた。
「そんな必要はないよ、旅人さん。国の中ですべてまかなえるんだからね。それに、こんないいところを出て、一体どこに行くっていうんだい?」
 生まれた土地から離れないまま一生を過ごすのは珍しいことではない。むしろそれが一般的で、旅芸人や隊商、ザムザのように様々な土地を訪ね歩く者はごく少数だ。しかし、近隣の村落とさえ交流がないというのは不自然だ。ザムザが聞いて回った限りでは、所用で国を出たことがあるという者すらいない。
 閉ざされた環境。ここが“亡霊の国”であるなら当然と言えば当然だが、それだけでは片づけられない違和感を、徐々にザムザは感じ始めていた。
 日が暮れようとしている。


 今が一日のどの時間帯にあたるのか、シルウィルには判然としなかった。
 遺跡の探索を始めてどのくらい経っただろうか。ほんの少し歩いただけのような気もするし、ずいぶん長いこと歩き回っていたような気もする。そもそも遺跡に足を踏み入れたのが昼間だったのか夕暮れが近かったのか、それすらもはっきりとは思い出せなかった。少なくとも、師と森を歩いていたときにはまだ十分に陽が高かったはずなのだが。
 白い霧の漂う遺跡は薄暗く、まるで永遠の薄闇に囚われているような錯覚をおぼえる。
「許さない?」
 シルウィルは少女の言葉を繰り返した。国を滅ぼされたことを許せないから、ここでかつての幸せな夢を見続けている? なんとなく、それとこれとは直接には結びつかないような気がする。それとも、彼女はまったく別のことを言っているのだろうか。
 少女はじっと青年を見上げているが、その口元にはいつかうっすらと笑みが浮かんでいた。ついさっきまでの、痛々しいような無表情ではなく。
 わけもなくぞくりとした。少女の微笑は決して不穏なものではなく、可憐で優しげですらあるというのに。
 穏やかな微笑をたたえたまま、少女はこくりとうなずいた。白く細い指がシルウィルの腕に添えられる。
「そう。だって、この国はわたしたちのものだもの。彼らは民を殺し尽くし、国を破壊し、挙げ句にこの神殿まで略奪の対象にしようとした。だから、災いを解き放してやったの。ずっとわたしたちが封じてきた、ありとあらゆる災厄を。敵はみんな死んだ。当然の報いだわ。わたしたちだけが滅んで、あの侵略者たちやその子孫が、この地で繁栄を謳歌するなんて許さない。ここはずっと、わたしたちの墓所であり続けるの。ゆるさない。認めない。ねえ、あなただってそう思うでしょう?」
 少女の銀色の瞳が、まっすぐにシルウィルの目をのぞき込む。その月のような輝きに引き込まれそうになりながら、シルウィルは必至に踏みとどまって思考を働かせた。
 耳に流れ込んでくる言葉は、村で聞いた話の内容と食い違っている。封じられていた災厄は、神殿を破壊した侵略者が自ら呼び覚ましてしまったのではなかったのか。そのために、敵も味方も滅んだと。しかし、この少女は己がそれをしたという。もう失うものは残されていなかったから、そうして復讐を遂げたのだと。
 それが、歴史の真実であるならば。
「きみは」
 人が度々迷い込む、豊かな国の幻。
「なにを望んで、ここに」
 この地は永久に彼らの墓所なのだと。
「きみが認めたくないのは」
 どちらかが現実で、どちらかが幻であるのなら。
「わかるでしょう?」
 少女が笑った。華奢な手がそっと置かれただけの腕は、ぴくりとも動かない。
「ねえ、力を貸して」
 薄闇の中で、少女の瞳が飢えた獣のように輝いた。


 二度目の訪問で、ザムザは巫女との面会の機会を得ることができた。
 篝火の焚かれた広い部屋に姿を見せた亜麻色の髪の娘は、この国の歴史を教えてほしいという旅人の頼みを、快く承諾した。
「あまり、誇ってお話しできるようなものではございませんが」
 巫女の印象は、ひと言で言うならごく平凡な娘だ。繊細な容貌と凛とした眼差しを持ち、国守の巫女という大仰な肩書きを不釣り合いに見せない威厳も備えてはいるが、言ってしまえばそれだけだ。当たり前の人間の範疇を出ない。むろん、妖種でもない。
「私たちの祖先は、別の土地からここに移り住んできたのだと言われています。当時、祖先の暮らしていた土地は度重なる干魃や災害のために荒れ果てて、困窮のすえ、彼らは故郷を捨て、新たな土地へ移ることを決めたのです」
 新しい、豊かな土地。それが、かつてオルファンと呼ばれていたこの国だった。
「一方的な戦になったそうです。オルファンは豊かでしたが、軍は戦に慣れず、死に物狂いで攻め寄せた祖先たちに、なすすべなく敗北しました」
 しかし、そのまま彼らがこの土地の支配者となったわけではなかった。侵略する者とされる者は、最後に大きな過ちを犯してしまったのだ。それは神殿の破壊であったと、巫女は語った。
「オルファンの最後の抵抗は、神殿に立てこもって行われました。彼らは降伏の呼びかけに応じず、祖先たちの攻撃はいっそう苛烈なものとなりました。そして、いよいよ敗北を悟った彼らは自ら神殿を破壊し、自害したのです。そしてその行為が神殿に祀られていた神の怒りに触れ、大きな惨事を招きました。神殿だけでなく、祖先たちをも巻き込んで、国そのものが崩壊してしまったのです」
 あるいはそれこそがオルファンの狙いだったのかもしれない。神の怒りを呼び寄せることで、彼らは敵に一方的な勝利を与えるのではなく、共倒れの道を強いることができたのだから。
「けれど、それで私たちすべてが滅んだわけではありません。戦には参加していなかった女子どもや、戦士の中にもかろうじて生き延びた者もございましたから。すべて廃墟となってしまいましたが、それでもこの土地は、祖先が捨ててきた土地よりもはるかに実り多き地であることに変わりはありませんでした。残された祖先たちは死者を弔い、長い時間をかけてこの地に新たな国を築き直しました」
「それが今のこの国というわけですね」
「はい」
「この神殿のご神体は? 今は何を祀られているのです?」
「かつてのオルファンの神が、今の私たちの神でもあります」
 巫女は微笑んだ。
「生き残った祖先たちはまず神殿を再建して儀式を行い、神の怒りを鎮め、新たな加護を乞いました。神は我々を受け入れてくださり、今でもこの国を守護してくださっております」
 巫女はつつましく指を組み、国守の神へ感謝の祈りを捧げた。その姿を見やりながら、なるほど、とザムザはつぶやいた。
「貴重なお話、ありがとうございます。大変参考になりました」
「この国への移住をご希望されますか」
「いいえ。素晴らしい国だとは思いますが、いろいろやり残した仕事もありますので」
「そうですか」
 少し戸惑ったように、巫女はうなずく。神殿まで来訪しながら国に留まることを望まなかった者は、これまでいなかったのだろう。そもそも、国の外という概念そのものが、彼らには希薄だ。来る者は受け入れるが、出て行く、去っていくという行為の意味がピンとこないのだろう。
 辞去する直前、黒髪の学者はふと思い出したように巫女を振り返った。
「そうそう、よろしければ、あなたがたの神にお伝え下さい」
 首をかしげた娘に、ザムザはあくまで礼儀正しい口調で告げた。
「うちの助手は、食あたりを起こす危険性があるのでお気を付けください、と」
 外に出ると、すでに月が高くなっていた。明るい満月の晩だ。
「さてと。できれば俺も噂の遺跡とやらを拝んでみたいものだが、どうしたものかな」


 甲高い悲鳴が耳を打ち、シルウィルを正気に返らせた。
 ぼんやりと白濁しかけていた意識が明瞭になり、慌てて瞬きを繰り返す。先程までシルウィルの目をのぞき込んでいたはずの少女は、一歩離れたところから、ひどく驚いたように両目を見開いてシルウィルを凝視していた。長い銀色の髪は乱れ、片手の肘から先がひどい火傷を負ったようになって、指先からぼろぼろと崩れていた。
「なに、これ……なんなの? どうして……」
「あの、ごめん。何が起こったのかよくわからなくて……。怪我をしたの? 大丈夫?」
 手を伸ばすと、少女は弾かれたように飛びのいた。青年を見上げる銀の双眸は、今や激しい敵意にぎらぎらと輝いている。
「おまえ、呪術師だったのね」
「呪術師?」
「前にもいたわ。わたしを殺しに来たの。おまえもそうだったのね。わたしを騙して、殺すつもりで近づいたんでしょう!」
 わけがわからない。彼女は一体どうしたというのだろう。
「ひどい。ひどい。ひどい。こんなやり方。おまえもあいつらとおんなじだ。おまえもあいつらの仲間なんだ。親しげなふりをして、油断をさせて、手のひらを返す! みんな殺して、わたしも殺すのね。滅んでしまえばいいのに、おまえたちなんて。返して。みんなを返して。わたしたちの国を返して……!」
 シルウィルも混乱してはいたが、少女のほうがより激しい混乱状態にあるのは明らかだった。火傷に似た変色と引きつれはさらに広がり、全身を侵食しつつある。無事だったほうの手も、少し遅れて崩れ始めた。崩れて、灰になっていく。
 どうしてそうなったのか、理由はわからない。しかし、その現象が意味するところは知っていた。それでもシルウィルは動いた。わからないけれど、知っているけれど、他にどうすることもできなかったのだ。
「ごめん。何もしてあげられないけど、大丈夫だよ。これで終わる。ぜんぶ終わる。もう苦しまなくていいんだ。これが最後だから」
 だから泣かないで。
 妖種は穢れの具現。おぞましい、忌むべきもの。自ら手を触れる者などいない。それでもシルウィルは、少女を抱きしめた。腕の中の華奢な身体の手応えが消え、すべて灰となって風にさらわれてしまうまで。
 そして、シルウィルの意識も途切れた。


          *

「要するに、すべて逆だったのさ」
 澄ました顔でザムザが言った。
「我々は、霧に包まれた遺跡が現実であって、そこにかつての国の幻が姿を見せているのだと思っていた。しかし、実際には、そこにはすでに新しい都市が栄えているのに、妖種が生み出す遺跡の幻によって閉ざされ、隠されていたというわけだ。亡霊に化かされたと思われていた連中は幻を見たんじゃなく、幻の亀裂から本来のこの地の姿を見ていたのさ」
 師の言葉に、シルウィルも眼下に視線を向けた。無数の灯りが連なる、海の底の都のような景色。遠くで風が鳴り、ふたりが座り込んでいる丘の草も静かにそよいだ。この丘をもっと登って行った先が神殿だ。
 ふと目を開くと、シルウィルは冷たい草の中に横たわっていたのだった。頬には一筋、冷たい涙が流れていた。横にはザムザが腰を下ろしていて、驚いて跳ね起きた弟子に、軽く眉を上げて声をかけた。そして帝都からやってきた学者とその助手は、互いの身に起こったことをそれぞれ確認し合ったのだ。
「しかし、良かったな、そのお嬢さんに食われずに済んで」
「それなんですけど、よくわからないんです。どうして彼女はあんなふうになったのでしょう? 僕は何もしなかったし、そもそもできることもないし」
「おまえの功績でも責任でもないさ。そこを見てみろ」
「え?」
「外套の裾だ」
 言われるままに、すりきれた外套の裾をたぐり寄せる。すると、示された場所に不自然な縫い跡が見つかった。糸を切って中を探ると、何か小さな破片が手の上に転がり出てきた。つやつやとした、平たい小石だろうか。真っ二つに割れて、白く曇ってはいたが、月明かりにかざすと不思議な光沢を放った。
「呪石だそうだ。妖種を酔わせる芳香を発するが、食うと毒になるらしい。その妖種のお嬢さんは、おまえを飲み込もうとしたときにその石の力まで取り込んじまって、食中毒を起こしたのさ。バドが勝手に置いていったんだが、どうやら本当に効果があったらしいな」
 バドとは、ザムザの知り合いの呪術師の名だ。シルウィルも何度か顔を合わせたことがある。
「いつの間にそんなものを縫い込んで……っていうかちょっと待って下さい。まさか僕を実験台に使ったんですか!?」
「まあそう言うな。まさかこんなかたちでおまえが妖種に食われかけるような羽目に陥るとは思っていなかったしな。おかげで助かったんだ、結果オーライということで」
 なんという適当な師か。シルウィルは呆れようとしたが、半分しか成功しなかった。
 なぜ「こちら側」にいながらシルウィルの置かれた状況を推測できたのかという問いに、ザムザはこう答えた。
「“行ったきり戻ってこない人間が後を絶たない”――そう言われているわりには、この国に住み着いたよそ者の数は少ない。珍しいことだから住人の印象にはよく残ってるようだが、実際には、十数年にひとりがせいぜいだそうだ。噂が誇張されたものであるにしろ、それにしたって数が合わない」
 確かに、村では具体的に何人か、ここ何年かで姿を消した人間の名前が挙げられていた。シルウィルたちがやってくることになったのも、都を訪れた旅人から噂話を聞いたのがきっかけだった。それなりの根拠と信憑性がなければ、帝都にまで届くほどの噂には成長しない。似たような話なら、どこの地方にもひとつやふたつはあるものだ。
「だとすると、その数の差は何を示しているのか? 単に道を見失って野垂れ死んだというわけではあるまい」
「つまり、僕もあやうくその数の差のうちに入るところだったわけですね」
「そういうことだ。帰ってこなかった者の大変は、あの妖種に食われたのだろう。衰えてきた力を補い、幻を維持するために」
「………」
 シルウィルは組んだ指に額を乗せ、地面に目を落とした。助かったことへの安堵はもちろんあるが、胸を満たしているのはそればかりではなかった。
「彼女の行いは、もちろん、正しくはないのでしょう。僕だって殺されるのはご免だし、どれだけの人間を犠牲にしようと、幻は幻で、現実に死んだ人々や国が蘇るわけじゃない。でも……」
 許さないとつぶやいた少女の声。愛する国を滅ぼされた怒りと嘆きは、こちらの胸まで締めつけられるほど深く痛々しかった。
「少なくとも、そのオルファンという国では、妖種と人間の共存関係が成立していたことは間違いない。力のある妖種を恐れて神のように崇め、供物を捧げるという例は昔から度々あるが、妖種が神殿の主となって国を守り、ここまで執着するというのは他に類を見ない。実に興味深い事例だ」
 研究対象に一切感情移入することのない師の口調は素っ気ないほど淡々としていたが、シルウィルには却ってそれがありがたかった。研究のことだけに思考を傾ければ、余計なことを考えずに済む。
 古来より、人と妖種は相容れない存在だった。人は妖種を恐れ、忌み嫌い、妖種は人や獣を喰らい、あるいはただ殺戮し、そこには憎悪と敵意しか生まれることはない。稀にそれ以外の絆が結ばれることはあっても、それは個対個に限られ、社会や種という単位で正の方向の関係を築くことはまず皆無であり、人と妖が相容れぬことは一種の原理であるとすら信じられてきたのだ。
 妖種と人々が信頼と親愛の情で結ばれ、ともに生きる。
 侵略者を憎み、みんなを返してと泣き叫ぶほどに、彼女は彼らを愛していた。
 呆気なく陥落した国の中で、最後まで敵の手には落ちなかった神殿。彼らはなによりもまず、彼女を守った。
「妖種とは、一体なんなのでしょう……」
「それがわかれば、俺の研究は完成してしまうよ。そんなに簡単に解き明かしまっては張り合いがない。まだまだこれからさ」
 ザムザは草をはたいて立ち上がった。
「妖種は死んだ。幻は消えた。まだ誰ひとり気づいてはいないようだが、この町は明日から“現実”の中に晒される。住人も外の連中も戸惑うだろうが、今までの状況のほうがあまりに不自然だったんだ。そのうちに慣れて、なんとかなるだろう」
「そう考えると、彼女は今までもずっと、この土地を守り続けてきたとも言えますね。結界に閉ざされていたからこそ、戦にも巻き込まれず、平穏に暮らしてこられたのですから。それが間違いであったとしても」
「そういう考え方もできるな」
 言外に甘いと言われたのはわかったが、反論しようとは思わなかった。それはこの国の人々のためでも、あの少女のためでもなく、己の気持ちを整理するための言葉であると自覚していた。
「近隣の村とこの町で聞ける話はともかく、遺跡と妖種については、記憶が少しでも鮮明なうちに記録をつけておく必要があるな。一夜の宿くらい取れるだろう。シルウィル、もう少し詳しい話を聞かせてくれ」
「はい」
 うなずいて、シルウィルも立ち上がる。
「でも先生、結局、どれが正しいんでしょうね。村で聞いた話と、彼女の言葉と、この国の人たちの言う歴史と……」
 それぞれで語られる歴史は、すべてよく似ていながら、まったく異なるものでもあった。それらのどこまでが真実で、どこからが虚辞なのだろう。
 振り返った黒髪の学者は、かすかに笑ったようだった。
「歴史に真実などないさ、シルウィル。すべてが真実であり、作り話でもある。意図するしないに関わらず、出来事は、それを伝える人間によって歪められ、時間とともに姿を変える。我々にできるのは、様々な情報を整理し、根拠を探し、少しでも“真実”に近い姿を探し続けることだけだ」
 銀色の月に照らされた道が、町へと続いている。彼女が守りたかった風景は、今眼下に広がる街並みと似ていたのだろうか。
「しかし、なぜシルウィルだけが招かれて、俺は入れてもらえなかったんだろうか。幻の亀裂が広がっていたのだとしても、差別だと思わないか?」
 結局、一度も遺跡を見ることができなかったのが心残りらしい。ぶつくさとぼやくザムザに、今度はシルウィルが澄まして言った。
「僕の外套に妙な石を仕込んだのは先生ですよ」
「いや、呪石を持っていない人間だって入り込んでいるんだからな。これは差別だ」
「じゃあ、きっと先生の理論と理屈で完全武装した質問攻めに遭うのが嫌だったんですよ。さすがですね、会う前から先生の性格を見抜くなんて」
「………」
 夜が明けたら、彼女もこの国も、長い長い夢から覚める。シルウィルは、手のひらにほんの一握り残っていた灰を、夜の風にそっと流した。



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