宵闇の月と踊る

 もう死のう、死ぬしかない、とエルバートは思った。
 トリステンの城の構造は、おそろしく複雑怪奇だ。いくつもの尖塔を持つ複雑な外観は優美そのものだが、歴代の王たちがこぞって増改築を繰り返してきた結果、内部は「十年住んでも全貌が把握できない」と言われるほどややこしく入り組んでしまったのである。隠し部屋や隠し通路の伝説も数え上げればきりがないが、それも最初からそう造られたのではなく、もともとはごく普通に使われていた廊下や階段があちこちでふさがれたり忘れ去られたりして、いつの間にか秘密の場所のようになってしまったというのが実際のところだった。
 しかし、そうであれば当然、城の中には華やかな宮廷とは無縁の、滅多に人が寄りつかないような場所も数多く存在する。エルバートが選んだのも、城の奥まったところにある、今はもうまったく使われていない塔のひとつだった。
 高い屋根の上に登ったエルバートは、おそるおそる端に寄って、遙か下の地面をちらりとのぞき込んだ。あまりの高さに目眩がする。手頃なロープが見つからなかったので首をくくる方法は断念せざるをえなかったのだが、ここから飛び降りればまず間違いなく天に召されることができるだろう。ちょっと足がガクガクしているが、失敗する心配だけはない。大丈夫だ。絶対に大丈夫じゃないから大丈夫だ。
「申し訳ありません、国王様。エルバートは死んでお詫びをいたします……!」
 傾斜した屋根の端っこに立って、息を吸って、吐いて、三つ数えて、ふと思いついて靴を脱いできちんと揃え、また息を吸って吐いて、三つ数えて、さあ飛ぼう、今すぐ飛ぼう、次こそ飛ぼうと決意を固め、ぎゅっと目を閉じていよいよ空中に身を投げようとした、まさにその瞬間。
「お待ちなさい!」
 凛とした声とともに、ぐいと身体が後ろへ引っ張られた。
「う、うわあ!?」
 勢い余って尻餅をつく。その頭上に、再び先程と同じ声が降ってきた。
「身投げをするのは結構だけど、もうちょっと場所というものを考えてちょうだい。人の部屋の目の前で飛び降りるなんて傍迷惑もいいところだわ。食事がまずくなるでしょう。やるならどこか余所でおやりなさい!」
「え、あの……す、すみません」
 振り返ってみると、いつからそこにいたのか、小柄な少女がひとり、腕を組んでエルバートを見下ろしていた。黒のレースを何重にも重ねた豪奢なドレスと、小さな顔の輪郭をふちどるやわらかそうな亜麻色の髪。精巧な人形を思わせる美貌には、あからさまに不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
「だいたい、さっきから見ていればいつまでもぐずぐずぐずぐず、鬱陶しいったらないわ。男ならさっさと腹を括って飛び降りてみせたらどうなの!」
「す、すみません……」
 なんだかよくわからないが、迫力に押されてつい謝ってしまう。
「あ、あの、失礼ですが、どちらのお嬢様でしょうか……?」
 おそるおそる尋ねると、少女は冷ややかな視線をエルバートに向けた。
「答える義理があって?」
「あ、いえ……そ、そうですよね。すみません」
 命令し慣れた口調といい、上等な布地をふんだんに使ったドレスといい、少女がどこかの貴族の姫君であることは間違いない。一方のエルバートといえば、城の下働きの使用人だ。それを考えれば、一見理不尽な少女の対応もごく当然のものといえるのである。
 しかし、そんな高貴な身分のご令嬢がなぜこんな屋根の上にいるのかという疑問を覚えるほどの余裕は、今のエルバートにはなかった。しゅんと肩を落とし、再びフラフラと屋根の縁に歩み寄る。
「大変お見苦しいところをお見せしました。それではお嬢様、ごきげんよう。今度こそ永久に失礼いたします……」
「だからここでやるなと言っているの!」
 ふたたび襟首をつかんで引き戻される。エルバートはじたばたともがいた。
「お願いです、止めないでください! もう死ぬしかないんだ。僕は大変なことをしてしまった……!」
「誰も止めてはいないでしょう。人の話を聞いてるの?」
 もちろん耳には入っている。頭に入っていないだけだ。
「僕は、僕は大変なことをしてしまったんです」
「それは今聞いたわ」
「実は……実は僕……」
「ああ、結構よ。それ以上は言ってくれなくて結構。べつにおまえの事情になんか興味はないし」
「お皿を割ってしまったんです!」
 血を吐くようなエルバートの告白に、少女はしばし沈黙した。
「……皿?」
「そうです、お皿です!」
「皿を割って死のうと思ったの? たかが皿のために? おまえ、ひょっとして馬鹿なの?」
「た、ただのお皿じゃないんです! 僕が割ってしまったのは、王家所有の大切なお皿で……」
 このトリステンの城では、明日、国王の誕生日を記念して盛大な祝賀式典が開かれる。今日は城中がその準備でおおわらわだ。厨房で働くエルバートも、式典の後の晩餐会に使う食器やクロスの準備に追われていた。
 特別な晩餐だから、当然、食器類も普段の食事では使われないような高価なものもテーブルに並ぶことになる。その不幸な事故が起こったのは、蔵から運び出してきた大きな木箱を抱えて廊下を歩いていたときだった。
 もちろん、エルバートは慎重に歩いていた。木箱の中に丁寧に収められているのは城にある高価な食器の中でも滅多にお目見えすることのない貴重な大皿で、はるばる遠くの国から取り寄せた、ある高名な職人の最高傑作と言われるほどの代物なのだ。手が震えそうになるのを必死におさえて、絶対に落としたりしないよう、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
 しかし、いくら自分が注意していても、不注意な他人がひとり存在するだけで、その努力はすべて水泡に帰してしまう。事故というのは、総じて不幸で理不尽なものなのである。
 エルバートにとっての不幸と理不尽は、若い人間の姿をしていた。突然廊下の角から走り出してきたその人物とエルバートは、出会い頭に思い切りぶつかってしまったのだ。
 ほとんど体当たりといっていいほどの衝突に、ふたりはもんどりをうって床に転がった。
『ああ、大丈夫? 怪我はなかったかい? 急いでいたもので、すまなかったね』
 先に立ち上がってエルバートに手を差し出してくれたのは、身なりのいい青年だった。彼はエルバートの腕から飛び出した箱も拾って渡してくれると、「悪かったね、それじゃ」と言い残してまた忙しそうに走り去っていった。
 取り残されたエルバートはしばらく呆然と立ち尽くしていた。箱を抱える手が、つい先程までとはまったく違う理由で震えていた。物陰に行ってそっとフタを開けて、今度こそ本当に頭が真っ白になった。中から出てきたのはいくつもの陶器の破片だった。敷き詰められた緩衝材の中で、うつくしい装飾の施された皿は、無残に割れてしまっていたのだ。
「あのお皿はエリアーデ王女様も気に入っていらっしゃるとかで、本当に特別なものだったんです。僕の一生分のお給金なんかじゃとてもお返しできない……身寄りのない僕を拾って働かせてくれていた厨房長にも顔向けができません。ああっ、やっぱり僕にはもう死んでお詫びする他に方法はないんだーっ!」
「だからお待ちなさいと言っているでしょう」
 わっと泣き出しながら空中へ突進しようとしたエルバートを、またしても呆れ混じりの少女が止める。三度までも阻止された少年は半泣きの情けない表情で後ろを振り返り、少し首を傾げた。
 少女は途中から腰を下ろしてエルバートの話を聞いていたのだが、今もそこから一歩も動いていないのだ。立ち上がりもせずに、駆け出したエルバートの襟首に手が届くはずがないのだが。
 だが、その違和感が明確な疑問になるより先に少女が口を開いた。
「そういうことなら、何もおまえひとりが責任を感じて身を投げる必要はないじゃないの。そもそもの原因はぶつかってきた相手のほうにあるんだから」
「そんな、とても言えません! だってあの方はウィレット伯爵の弟君なんですよ。悪い方ではないと思いますけど、あの方とぶつかって落としたなんて言ったら、使用人が貴族に責任をなすりつけようとしているって言われて、余計に状況が悪化するだけです」
 たとえ事故ではなく、あの青年がエルバートから箱を取り上げて床に叩きつけたのだとしても同じことだ。所詮、平民の立場などそういうものである。
「ふん、頭が悪そうなわりによくわかってるじゃない」
 少女は鼻を鳴らしてつぶやくと、「ちょっと待ってなさい」とおもむろに立ち上がった。
 彼女が歩いて行ったのは、屋根伝いに行ける隣の塔のほうだった。そこには開けっ放しになっていた窓があり、そこからひょいと慣れた動作で部屋の中に消える。あんなところに部屋があったのか、とエルバートは思い、そういえば最初に人の部屋の前でとか言っていたことも思い出した。あの少女は、こんなひとけのないところに住んでいるのだろうか?
 エルバートはしばらくぼんやりと白いカーテンの揺れる窓を眺めていたが、ふと我に返った。そうだ、今がチャンスではないか。少女が戻ってくるのを待っていては、どうせまた止められてしまう。
 しかし、踏み出そうとした足が、なぜかぴくりとも動かなかった。無意識の恐怖から身体が強張って動かなかったわけではない。膝は曲がるし、反対側の足も動く。まるで何かにがっちりと足首をつかまれているかのように、その足を持ち上げることだけができないのだ。
「おかしいな……なんだろう、これ」
 ひょっとして、何かものすごく粘着力のあるものを踏んでしまって、靴底が屋根から離れなくなってしまったのだろうか。いや違う。エルバートの靴は今、きちんとそろえて脇に置かれている。動かないのは、本当に足そのものだ。一体どうなっているのだろうと屈み込もうとしたとき、目の前に何かまぶしいものが差し出された。
「おまえが割ったというのはこういう皿ではなくて?」
「うっ、すみません、まぶしくてよく見えません。いえあの、後光が差してるとかそういう抽象的な意味じゃなくて、純粋に太陽の反射が僕の目を直撃しています」
「まったく、世話が焼けるわね。ほら、これならどう?」
「ええ、ありがとうございます。このお皿がどうか……えっ、ええっ!?」
 少女が角度を変えてくれたおかげで太陽の反射攻撃から逃れられた途端、エルバートは素頓狂な声を上げた。
「なっ、なんで、どうしてそのお皿がここに!?」
 そう、少女が持ってきたのは、まさしくつい小一時間ほど前にエルバートが割ってしまった皿そのものだったのである。わけがわからずに混乱していると、少女が落ち着き払った口調で、皿に描かれた装飾の一部を指さした。
「よく見なさい。この部分の模様が、おまえの割ったものとは左右が逆になっているでしょう。縁取りの金と銀の順序も反対だったはずよ」
「え? あ、ああ、確かに……!」
 箱の中身を実際に見たのは今日が初めてだったが、割れた破片をパズルのように並べ直して穴が空くほど見つめていたので、装飾の図案はすっかり脳裏に焼き付いてしまっていた。言われてみれば、確かにその通りだ。少女が持っている皿は、あの皿と見間違えるほどよく似ているが、微妙にデザインの細部が異なっている。
「この皿はね、もともと二枚で一対なの。おまえが割ったのはその片割れの一枚よ」
「は、はあ……でも、どうしてお嬢様がそんなものを……」
「ちょっとね。気に入ったからもらったの」
「は……!?」
 少女の言葉が事実だとすれば、今目の前にあるこの皿も最高級の貴重品だということになる。何か功績のあった家臣に褒美として下賜されるのならまだわかるが、「ちょっと気に入った」くらいでもらえるようなものではないはずだ。
 驚きのあまりぽかんとしているエルバートを見やって、不意に少女はにやりと笑った。たとえようもなく美しいのだが、それと同じくらい、いやそれ以上に、ものすごく不吉な、邪悪な笑みであった。
 そして、次の瞬間。
 よく晴れた空の下、複雑に入り組んだ城の屋根の片隅という奇妙な場所に、陶器の割れる甲高い、それでいて拍子抜けするほど呆気ない音が響き渡った。
 手に持っていた皿を、少女が勢いよく屋根に叩きつけたのである。繊細な純白の陶器は、まるでいわれなき暴挙への抗議だといわんばかりに、いっそ見事なほど粉々に砕け散っていた。
「あ、あ、あああっ、なな、何をするんですかーっ!」
 真っ青になって震えるエルバートの悲鳴にかぶせるように、少女は口元に手をあてて高らかに笑う。
「ほほほほほ。しがない使用人のおまえはこれで死にたくなるのかもしれないけれど、わたしはちっともならないわね! こんなもの、所詮はただの皿よ。もとを辿れば粘土よ。土くれよ! 十枚や二十枚割れたところで痛くもかゆくもないわ!」
 もはやわけがわからない。この少女は一体何がしたいのか。いや、たぶん意味は特にないのだろう。問題は、身分の違いを誇示するためだけに王家でも大切に扱うほど価値のある品物を平然と壊してしまう少女の経済感覚のほうだ。貴族のお姫様というのはこのくらいでないと務まらないのだろうか。
 ショックのあまり卒倒寸前になっているエルバートに思う存分高笑いを浴びせると、少女はふたたび「ふん」と不機嫌そうな表情に戻った。
「おまえ、名前は?」
「えっ? あ、し、失礼いたしました、料理人見習いのエルバートと申します」
「そう。ではエルバート。一度死ぬ覚悟をしたくらいなら大抵のことはできるでしょう。おまえにちょっと面白いものを見せてやるわ」
 言いながら、白く細い指をパチンと鳴らす。
「それを連れてお行き」
「え? あ、うわあっ!」
 いつの間にか、エルバートのすぐ横に大きな黒い犬が座っていた。まるで闇そのもののような見事な漆黒の毛並みで、一見しただけでは目や鼻がどこについているのかちょっとわからないくらいだ。
「こ、これは、お嬢様の犬ですか?」
「まあ、そんなところね。それは鼻がきくから、後をついて行ってみなさい。場合によってはこんなところから飛び降りてつぶれたトマトにならずに済むかもしれなくてよ」
「えっ、どういうことですか?」
「おまえにぶつかったウィレット家の弟」つまらなさそうに横を向いて、拾い上げた陶器の欠片を目の高さにかざす。「あの伯爵家は近頃ずいぶん羽振りがいいようね。ついこの間まで、投資に失敗して借金にまみれていたようだけど」
「え、ええ、最後の賭で新しく立ち上げた事業のほうがうまくいったそうです。あ、あの、破片には触らないでください。僕が片付けておきますから。指に怪我をしたら大変です」
「……怪我ね。わたしが怪我なんかしたところで……」
 そのつぶやきは小さく、エルバートには聞き取れなかった。「え?」と聞き返したが少女は答えず、きらきらと陽光を反射した破片を無造作に投げ捨てただけだった。
「とにかく、言われた通りにしてみなさい。皿を割った責任をどう取るかは、その後に決めても遅くはないでしょう」
 言うだけ言ってさっさと身を翻す。エルバートはその後ろ姿に慌てて声をかけた。
「あ、あの! この犬の名前はなんていうんですか?」
「ないわ。つけたければ勝手につけなさい」
「あ、そ、そうなんですか……」
 本当はもうひとつ聞きたかったのだが、先程怒られてしまったので言い出しにくい。すると、ためらっているエルバートの心中を察したかのように少女が足を止めて振り返った。
「それと」夏の夜空のようにきらめく瞳が、まっすぐにエルバートを射た。「わたしのことは、お嬢様ではなく、ユーフェミアとお呼び」


「ねえ、ちょっと待って。待ってってば、クロ。一体どこへ行くんだい?」
 エルバートは、前を歩く黒い犬に置いて行かれないよう、早足に城の中を歩いていた。そろそろ陽が傾きかけて、真っ黒な犬の姿は薄暗い廊下の影にとけて今にも見えなくなってしまいそうだ。
 ちなみに、黒いからクロである。安直と言われようが、他に思いつかなかったのだから仕方ない。だいたい、他人の犬に凝った名前をつけるのもどうかと思うし、当面の不便を解消するための呼び名なのだから、わかりやすいほうがいいに決まっている。
 しかも、どうやらクロの姿は、エルバート以外の人間には見えていないようなのだ。予期せず出くわしたら明らかにぎょっとしそうな大型犬なのに、すれ違う誰も反応を示さない。我が物顔で悠然と歩くクロと荷物を抱えて小走りに通り過ぎる女中がすれ違ったときには、エルバートのときのような衝突事故が起きるのではないかとひやひやしたくらいだ。
「ああ、この忙しいときにこんなところで仕事をサボってるのがばれたら大目玉だな……。あ、でもどうせ飛び降りるつもりだったなら気にしなくていいのか。そういえばユーフェミアさんもそんなようなこと言ってたな」
 動物相手についつい話しかけてしまう。しかし、どうもこの犬は言葉がわかっているのではないかという気がするのだ。今もちらりと後ろの少年を振り返り、呑気者め、とでもいうように「わふん」と吠えた。呆れた気配がひしひしと伝わってくる。
「……おまえって、なんだかユーフェミアさんとよく似てるよね。ねえ、ユーフェミアさんって何者なの? あんなところに住んでるみたいだし、すごく偉そうだし、でもトリステンの貴族にあんなご令嬢がいるなんて噂にも聞いたことないし。あ、いや、もちろん、僕なんかが詮索することじゃないんだけど」
 ひょっとして何か騙されているのかなぁ、という気がしないでもなかったが、それこそ身投げすることを考えればべつにいいか、というものである。エルバートは、思いつめると周囲が見えなくなるが、本質的には楽天的な少年だった。
 クロはどんどん、エルバートが足を踏み入れたことのないほうへと進んでいく。人の気配が絶え、方向感覚もあやふやになってくると、さすがに少し不安になってきた。
「ねえ、クロ、まさかとは思うけど何のあてもなく気まぐれに散歩してるわけじゃないよね? このお城で迷子になって遭難って、現実味がありすぎてすごく怖いんだけど。あ、でも、もとから飛び降りるつもりだったんだし、それを思えば……」
 結局、思考の行き着く先はそこである。クロは「勝手に言ってろ」とでもいうようにフンと鼻を鳴らした。やはり飼い主によく似ている。
 やがてクロは、迷路のような細い廊下の突きあたりにある古い扉の前で立ち止まった。エルバートを振り返り、促すように鼻先で扉を示す。
「え、ここ? ここに入るの?」
 鍵がかかってるんじゃないかなぁ、というエルバートのつぶやきに反して、扉は少し軋んだだけであっさりと開いた。中は少し埃っぽく、奥に窓はあるが、部屋中にいろいろな荷物がうずたかく積み上げられ、すでに陽が落ちかかっていることもあって薄暗い。
「どれもこれもすいぶん古そうだね。きっと昔、物置に使ってたのが、いつの間にか忘れられちゃったんだろうな」
 しかし、こんなところで何をしろというのだろう。まさか、この中からあの皿以上のお宝を見つけて失点を挽回せよということだろうか。
「でも、たとえすごい掘り出し物があったとしても、あれを割っちゃったっていう事実は消えないと思うんだけどなぁ……」
 ぼやきながら、それでも一応、目についた場所を物色してみる。最初に手に取った箱の中には、なぜか大量の手紙が入っていた。どれもこれもすっかり黄ばんで、相当に古そうだ。
「うわあ、これ全部同じ人からの恋文だ。しかもほとんど毎回、一度でいいから返事をくださいって書いてある。こんなに熱烈なラブレターなのに全部無視されてたんだ……。しかもこんなところに置き去りにされて……ど、どうしよう、いきなり大変なものを見つけてしまった……」
 しょっぱなから妙なものに引っかかっているエルバートに業を煮やしたのか、クロがシャツの裾を引っ張る。連れて行かれたのは、壁際の大きな棚の前だった。
「これを調べろっていうんだね。はいはい、わかりましたよ。まったく、ユーフェミアさんといいクロといい、気が短いんだから……って、痛い! ごめんごめん噛まないで! 明かりも持ってきてないし、暗くなる前に済ませちゃえってことでしょ? ちょっと言ってみただけだってば!」
 わかればよろしい、というようにぱかりとクロが口を開く。きっと流血の大惨事になっているに違いないと思ったのに、解放された左手には、不思議なことに歯形ひとつついていなかった。おかしいな、あんなに痛かったのにとエルバートは首をかしげたが、また噛みつかれてはたまらないので、おとなしく棚に視線を戻した。
「うん……? あれ、ちょっと待って。これ、なんだかすごく見覚えがあるような気が……」
 彼の目に止まったのは、ちょうど足元あたりの段に押し込まれていた平たい木の箱だった。取り出してみると、材質といい大きさといい、やはりよく似ている。似ている? 何に? 決まっている。これは、この箱は……。
「はは、まさか。まさかね……」
 乾いた笑いを漏らしながら、震える手で蓋を開ける。
 中に入っていたのは、美しい白磁の皿だった。薄闇の中でも淡く光を放っているかのような純白の地に、一点の曇りもない金と銀の縁取りと、優美で繊細な彩色が施されている。決して高い教養の持ち主とは言えないエルバートから見ても疑問を差し挟む余地のない、一級の芸術品だ。
 ユーフェミアは二枚で一対だと言っていたが、本当は三枚一組だったのだろうか。無理矢理そう考えて納得しようとするが、どうしてもうまくいかない。あのときは確かに認められた装飾の差異が、今度はまったく判別できないのだ。見れば見るほど、エルバートが必死に破片を集めて復元した皿の「完成品」そのものである。
「ど、どうして同じ皿が二枚も……勝手に破片がくっついて元に戻る魔法のお皿? いや違う。僕が割っちゃったやつは東の階段の下の納戸に隠したんだから、そうだとしてもこんなところにあるはずがない」
 ねえクロ、と振り返ろうとしたところで、不意にガチャリとドアノブの回る音が耳を打った。蝶番がギシリと軋んで扉が開く。
(やばい!)
 エルバートはとっさに部屋の奥の物陰に飛び込んだ。やましいことをしていたわけではないのだが、つい反射的に隠れてしまったのである。
 入ってきたのは男の二人連れだった。どちらも身なりのいい、一目で上流階級の所属とわかる紳士だ。
「しかし兄さん、今回は予想以上にうまくいきましたね」
「ああ、まったくだ。まさかこうも堂々と偽物を処分する機会が巡ってくるとはな。よくできた贋作だったが、壊れてしまったほうがすり替えに気づかれる可能性も低い。陛下もエリアーデ姫も、まさかただのガラクタになった破片までまじまじとご覧になるようなことはなさないだろう」
「忘れないでくださいよ、兄さん。あの贋作師を見つけてきたのは僕ですからね。約束通り、売値の半分は僕の分け前です」
「わかっている、弟よ。なんといっても幻の名器と言われる“トエイハの三部作”のひとつだからな。これまでで一番の値がつくことは間違いあるまい」
 そっと首を伸ばしてふたりの顔をのぞき見たエルバートは、思わずあっと声を上げそうになった。ふたりのうちの片方は、廊下でエルバートとぶつかって転んだ、あの貴族の青年だったのだ。もうひとりはもちろん、彼の兄であるウィレット伯爵だ。
「誕生祝賀会の前日に貴重な皿が割れるという不祥事が起きることになってしまったのは申し訳ないが、なに、下働きの平民の首がひとつ飛べば済む話だ。陛下におかれても、そうとも知らずに家臣や来賓たちの前に偽物を披露してしまうなどという滑稽な役所を演じずに済んで、実に結構な話ではないか」
「自分で偽物にすり替えておいて、ひどいことを言うなぁ、兄さん。あの少年も、真面目そうな子だったのに気の毒なことをしてしまった」
 言葉の内容とは裏腹に、青年はくくっと楽しげに笑う。
 ここまでくれば嫌でもわかる。つまり、あの衝突は偶然などではなく、意図的な「事故」だったのだ。エルバートは、彼らのための体のいい犠牲の羊として大抜擢されてしまったのである。ある意味では確かに悲劇の主人公だが、世の中にはできれば辞退したい主役の座もあるのだということを、エルバートは身をもって実感した。
 しかし、舞台裏を知ってしまったからといって一体どうしたらいいのか。仮にエルバートが割れた皿は偽物だったと主張したところで、誰もまともにとりあってはくれないだろう。せいぜい苦しい言い訳だと思われるくらいで、へたをすれば、それこそ貴族の子弟に罪をなすりつけようとしていると言って余計に責められかねない。会話を立ち聞きしただけでは、なんの証拠にもならないのだ。
 エルバートが冷や汗をかきながらじっと息をひそめていると、やがて弟のほうが「あれ?」と訝しげな声を上げた。
「おかしい、この棚に本物の皿を紛れ込ませておいたはずなのに……兄さん、どこか別の場所に動かしましたか?」
「いや、確かにそこに置いたはずだ。どういうことだ? こんな場所に用のある人間など我々くらしかいないはずだが……」
 しまった、とエルバートは思った。慌てていたので、箱を元の場所に戻しておくのを忘れてしまったのだ。せめて蓋くらいは閉めてあっただろうか……と、考えたところで、ふとエルバートは自分の腕の中に目を落とした。
(あ、あ、あああーっ! しまったあああ!)
 あろうことか、エルバートは両腕でしっかりと肝心の木箱を抱えていたのである。無意識のうちに、自分が触っていたものまで一緒に持ってきてしまったらしい。
「まずいですよ、兄さん。もし誰かが持って行ったとしたら……!」
「さ、探せ! そのあたりにあるかもしれん」
 慌てた様子で、兄弟はあたりのガラクタの山をひっくり返し始める。
(ど、どうしよう。返しにいくべき? 中身は見てないフリをして……でもよりによって僕だし、話を聞いちゃったのはごまかしようがないし、そもそも返したら返したで僕の首が……!)
「あっ!」とどちらかわからないが声を上げ、エルバートはびくりと身をすくませた。
「おい、今まで気づかなかったが、ここにあるのは叔父上の手紙じゃないか! 若い頃、長年の片思いの末にざっくりふられたミェルダン子爵令嬢に宛てて書いた恋文の数々だ。まさかこんなところに放置されていたとは……」
「なんと! 処分する手間すらかけてもらえなかったとは……兄さん、この事実は僕たちの胸にしまっておきましょう。叔父上にはあまりにも酷な話だ」
「そうだな、見なかったことにしよう。子爵令嬢は叔父上のしつこさに辟易していたという話だったが、本当だったのだなぁ。きっとこれも当人は受け取りもせず、困った女中あたりが捨てるに捨てられず、仕方なくとっておいたものだったのだろう」
「お気の毒な叔父上だ……」
 しみじみとうなずき合う兄と弟。あの手紙の束もまた、ウィレット一族と関連のある品であったらしい。なんとも言えない微妙な過去に、むしろこちらのほうが聞くべきではない話だったのでは、とひそかにエルバートは思った。
 しかし、それでつい気をゆるめてしまったのがいけなかった。箱を抱え直した拍子に、後ろにあった小さな置物に肘をぶつけてしまったのだ。コトン、という軽い音が、薄暗い部屋の中にいやに大きく響いた。
 ウィレット兄弟がハッとしたように顔を上げる。
「なんだ、今の音は。そこに誰かいるのか!」
「いえ、あの、いません、誰もいませんっ!」つい返事をしてしまうエルバート。
「おいおい、こいつは驚いた。あのときの少年じゃないか」
 エルバートのいる隙間をひょいとのぞき込んだ青年は口笛でも吹くような口調で言ったが、その両目には明らかに剣呑な光が浮かんでいる。貴族然とした整った容貌に、「あのとき」のような人の良さは欠片も感じられなかった。
「うわっ、ちょっ、ど、どうしよう。どうしようクロ……って、あれ? クロ?」
 慌ててきょろきょろとあたりを見回すが、あの大きな黒い犬の姿がどこにも見当たらない。箱を開けたときは確かに横にいたと思うのだが。まさか、エルバートがひとりで逃げ隠れしている間にさっさと自分だけドアの隙間から立ち去ったのだろうか。とても犬とは思えない的確な状況判断だが、ものすごくあり得る気がする。
「何をひとりでぶつぶつ言ってるんだ。どうやってこの場所を嗅ぎつけたのか知らないが、その腕の中のものを寄越しな。大事に抱えてるってことは、中身が何か知ってるんだろう? だったら、おとなしく渡したほうが身のためだってこともわかるはずだ。言う通りにすれば手荒な真似はしない。暴力は嫌いでね」
「……い、嫌です」
 震える声で、エルバートはどうにかそれだけ言った。箱を抱える手にぎゅっと力をこめる。これを渡したら終わりだ。それだけはわかった。
 今度は兄のウィレット伯爵が口を開いた。
「強情を張るんじゃない。そうだな、きみが我々に協力してくれるというなら、皿が割れたいきさつを弟からも正直に陛下に申し上げ、きみの処分ができるだけ軽くなるようとりなしてやろう。なに、きみはまだ若いのだから、城からの追放処分くらいで済めばいくらでもやり直しがきくだろう。どうだい? 金が欲しければ金貨もくれてやる。悪い話ではなかろう」
 気味の悪い猫なで声。下働きの小僧など簡単に言いくるめられると思っているのだろう。確かにエルバートには学はない。しかし、そんな話を鵜呑みにするほど馬鹿でもなかった。
「嫌です。どうせ、ここまで話を聞いてしまった僕を野放しにするつもりなんかないんでしょう? だいたい、このお皿は王家の持ち物で、あなたたちのものじゃない。このお城で働かせてもらっている以上、僕がお仕えしているのは国王様だ。僕には盗人から国王様の財産をお守りする義務がある!」
 勢いにまかせて言い切ってしまってから、途端にガタガタと身体が震え出す。ああ、だめだ。きっと殺される。でもどうせ殺されるんだ。それなら言いたいことを言ってしまったほうがいい。
「ふん、生意気な小僧だ。我々を盗人とは、言ってくれる。身分卑しい使用人の分際で小賢しい口をきいたことを、せいぜいあの世で後悔するがいい」
「死体は屋根の上から投げ捨てておいてやるよ。真面目な少年は大事な国王様の財産を壊してしまった罪に耐えきれずに自殺しましたってね。刺し傷があるかどうかなんて誰も気にしやしないさ」
 ユーフェミアに止められなければまさしくその通りになっていたのだが、あの屋根の上に立ったときと今とでは、まるで状況が違う。青年が上着のかくしから取り出した短剣が、暗がりのなかでにぶく光を放った。
 最初の一撃は、なんとか身をよじってよけた。しかし、棚や木箱に囲まれた狭い空間では逃げようにも限界がある。抱きかかえていた箱を横からもぎ取られ、バランスを崩したところをそのまま突き倒される。青年の膝が腹にめり込んで、一瞬、息がつまった。
「じゃあな、少年。運が悪かったと思ってくれ」
 するどい切っ先が目の前に迫り、エルバートはぎゅっと目を閉じた。もう駄目だ。終わりだ。僕はここで死ぬんだ。さようなら短かった我が人生、せめてクロは無事にユーフェミアのところへ戻っていますように……。
 しかし、いつまで経っても覚悟した痛みも衝撃もやってこない。ひょっとして何も感じないうちにあの世へ来てしまったのかとおそるおそる目を開けると、そこにはあの世以上に信じがたい光景が広がっていた。
 黒い影のようなものがウィレット兄弟の身体に巻き付き、ぎりぎりと締め上げている。ふたりとも一瞬前の姿勢のまま、ぴくりとも動けずにいるのだ。振り下ろされた短剣は、エルバートの喉元すれすれで静止していた。
 と、そこに聞き覚えのある声が響いた。
「間抜けだとは思っていたけれど、まさかここまでとはね。せっかく本物の在処へ案内してあげたというのに、わざわざそこで犯人と鉢合わせたばかりか、見つかって殺されそうになるなんて」
 繊細な黒いレースの裾がふわりと揺れる。小さなブーツの爪先。ドレスの背に落ちかかる豊かな亜麻色の髪と、夜空のようにきらめく瞳。
 そして、たぐいまれなる美少女は計算し尽くされた絶妙な角度に首をかしげてこうのたまった。
「馬鹿じゃないの?」

 馬鹿じゃないよとかどうしてここにとか言いたいことはいろいろあったが、結局、最初に口をついて出たのは一番シンプルな単語だった。
「ユーフェミアさん!」
「ごきげんよう、エルバート。また死に損なったようね?」
「ご、ごきげんようじゃないですよ! なんでそんなに優雅なんですか!」
 危険な刃の下から苦労して這い出すと、少女の足元に行儀よく座っている黒い犬と目が合った。思わず「クロ、おまえいつの間に……!」と言うと、クロも「よう、相棒」とばかりに「わふん」と返す。ひょっとしたら翻訳が間違っているかもしれないが。本当は「よう、間抜けな小僧」かもしれない。どちらかというと、その可能性のほうが大だ。
 犬と会話をするエルバートには見向きもせずにユーフェミアは「さてと」とつぶやくと、黒い影にからめとられているふたりの男のほうに近づいた。
「ごきげんよう、ウィレット伯爵。お目にかかるのは初めてだったかしら」
「い、忌姫……!」
 蒼白になって震えていたウィレット伯爵が、喘ぐようにようやくそれだけつぶやく。
 ユーフェミアはにこりと笑った。まるで大輪の薔薇のようにあでやかな、それでいてぞっとするほど冷ややかな微笑み。
「あら、嬉しい。わたしのことをご存じでいらっしゃるのね」
「忌姫……?」
 かすかに眉根を寄せてエルバートはつぶやいた。その言葉自体は初めて耳にするものだ。しかし、何かが妙に記憶の底を刺激した。そういえば、城に入ったばかりの頃、奇妙な噂を聞いたことがある。この国の王女であるエリアーデは本当は双子だというのがそれだ。そして、なぜだかその片割れの存在は公表されず、城のどこか奥深くに幽閉されているのだと。
 その双子の妹ってのは化け物なんだそうだ、とエルバートにその噂を教えてくれた同僚は言った。本当は生まれてすぐに殺そうとしたんだが、どんな方法もことごとく失敗に終わって、おそれをなした国王が厳重に閉じ込めておくように命じたって話だ。それでもときどき姫君は外を出歩いて、出会ってしまった人間は必ず恐ろしい目に遭うらしい。
 トリステンの城には数多い伝説のひとつだと思っていた。けれど、エルバートはエリアーデ姫の顔を間近で見たことはないものの、髪の色ならユーフェミアと同じやわらかな亜麻色だ。王女のお気に入りだという皿の片割れを持っていたこと。大のおとなである伯爵の、心底怯えた表情。
「エジュンの壺、ガイ・ラベクの絵皿、ファラーシャの香炉……名高いところだけでもこのくらいかしら? よくもまあ、王家のコレクションを次から次へと盗み出してくれたものね。ご丁寧に、その度につまらない置き土産まで用意して」
「な、なぜそこまで……」
 呻いたのは弟のほうだ。ユーフェミアは軽やかな動作で彼に歩み寄ると、息が触れそうなほど近く顔を寄せた。ヒッと短く引きつった悲鳴が上がる。
「いいこと? 王家のものであるということは、わたしのものでもあるということなのよ。持ち出した品を借金の返済に充てていただけならまだ可愛げもあるというものだけれど、少しばかり調子に乗って欲をかきすぎたようね」
 青年はもはや声もなくガタガタと震えている。その様子を満足げに見やったユーフェミアは、今度は兄のほうへ視線を向けた。
「さあ、それじゃそちらは返していただこうかしら」
 少女の声に応じるように、ウィレット伯爵に巻き付いていた影の一部がするりと動いた。まるで闇そのものが凝縮したかのように何の質感も感じさせない黒い手が、伯爵の手から取り上げた木箱を音もなく少女の前に差し出す。
「お、お許しを、忌姫様。ほんの出来心だったのです。もう二度と王家の御物には手をつけないと誓います。ですからどうか、命だけは……」
「まあ、用意周到な上にずいぶんと持続性のある出来心だこと」
 くすくすとユーフェミアは笑う。深く澄んだ青い瞳に、暗く冷たい光が浮かんだ。
「ひさしぶりに出てきたんだもの。せっかくだからご期待におこたえしてさしあげるわ。忌姫の犠牲者に名を連ねれば立派な伝説になれてよ。おまえたちのような成り上がりの新興貴族が歴史に名を残せることに感謝なさい」
 兄弟の背後から伸びてきた影が、それぞれの首にぴたりと巻き付く。
 その瞬間、気がつけばエルバートは立ち上がって叫んでいた。
「ユーフェミアさん、ダメです!」
 今まさにふたりの首を絞めようとしていた影の動きがぴくりと止まり、亜麻色の髪の少女が面倒くさそうに振り返る。
 向けられた冷ややかな眼差しに怯みそうになりながらも、エルバートは懸命に声をはげまして繰り返した。
「ダメです、ユーフェミアさん。その人たちがしたことは確かに犯罪ですけど、ユーフェミアさんが手を下しちゃダメです。壺だってお皿だって、結局ただのモノでしょう? 大変な価値のあるものだってことはわかってますし、そもそもお皿を割って身投げをしようとした僕がこんなことを言っても説得力がないかもしれませんけど、でも、ユーフェミアさんだってそう言ってたじゃないですか。罰が必要なら、証拠を揃えて、公の場できちんと罪を認めさせればいい。こんなことでユーフェミアさんが手を汚すのは、僕は嫌です」
 その言葉が、エルバートの思いが、どこまで届いたかはわからない。しばらくしてから、ユーフェミアは呆れたように小さくため息をついた。
「もう少しで自分が殺されるところだったというのに、呑気なものね」
「いいんです。死にませんでしたから。ユーフェミアさんが助けてくれたおかげです」
 胸を張って堂々と主張する。「そんなことを自慢するな」と言いたげなクロの視線が少し痛かったが、気にしないことにする。
「……いいわ。間抜けなエルバートに免じて、今回は見逃してあげる」
 しかし、くるりとウィレット兄弟に向き直ったユーフェミアは「ただし」と付け加えるのを忘れなかった。
「次の機会はないと思いなさい。この城には常にわたしの目が光っていることを、よくよく肝に銘じておくことね。せいぜい夜の闇にはお気をつけあそばせ」
 するりと影の拘束が解けると、途端にふたりはワッと悲鳴を上げ、我先にと争うようにして部屋を駆け出していった。紳士にあるまじき醜態だが、それどころではないのだろう。
 薄暗い部屋の中に、エルバートたちだけがぽつんと残された。
「ほら、これが本物の皿よ。持ってお行き」
 まだ空中にぶら下がっていた影の手が、無造作に木箱を放って寄越す。エルバートは慌てて手を伸ばして受け止めた。
「あ、あ、危ないなぁ! 間違って落として割っちゃったらどうするんですか!」
「ほほほ、そのときは今度こそおまえの責任ね。どこでも好きな屋根から飛び降りるがいいわ。ただし、わたしの部屋の前以外でね」
「まったくもう、ユーフェミアさんは……」
 ぶつくさ言いながらも、エルバートは片手で箱を抱え、もう片方の手で悠然と座っている黒い犬の頭を撫でた。
「ありがとう、クロ。おまえがユーフェミアさんを呼んできてくれたんだろ?」
 これがただの犬ではないことは、もうエルバートにもわかっている。つやつやとした漆黒の毛並みは陽炎のように奇妙に揺らめき、触れた手のひらには、生き物が持っているはずの体温がまったく伝わってこない。
「それに、ユーフェミアさんも」
 助けてくれてありがとうございます、と笑うエルバートを、黒いドレスに身を包んだ少女はおかしなものでも見るような目つきで見やった。
「……わたしは」
「うん?」
 聞き返すと、ユーフェミアはつんと顎を逸らして「なんでもないわ」と言った。
「言いかけてやめないでくださいよ、気になるなぁ……。それにしても、僕が割ったお皿、偽物だったんですね。あ、ひょっとして、ユーフェミアさんが割ったほうも偽物にすり替えられてたんですか?」
 だから躊躇なく屋根に叩きつけることができたのだろうか、と思ったのだが、
「いいえ、あれは正真正銘の本物よ。どうやらウィレットの兄弟もあの皿が二枚で対になっていることまでは知らなかったようね」
「ああ、そうなんですか……って、ええ!? 待ってください。本物!? あれ本当に本物だったんですか!? 本物をあんな豪快に粉々にしちゃったんですかユーフェミアさん!」
「おまえは馬鹿なの? エルバート。何度も言わせないでちょうだい。あんなものは所詮、ただの皿よ。こねて焼かれただけの粘土よ。粘土ごときがこのわたしを動揺させられると思ったら大間違いよ!」
「はあ、申し訳ありません……」
 やはり、ユーフェミアはどこまでもユーフェミアであった。
「さて、おまえもそろそろ持ち場に戻りなさい。この忙しい日に半日も仕事をサボって、せいぜい派手にどやされるがいいわ」
「あっ、そ、そうか。身投げしないならしないでマズイ状況になってるんだった……!」
「せめてクビにならないよう、その貧弱な頭を振り絞ってもっともらしい言い訳をひねり出すことね」
 ほほほほほ、と笑いながら身をひるがえしかけたユーフェミアが、ふと何か思い出したように振り返った。
「そうそう、一応確認しておくけれど、クロというのはまさか、黒いからとかいう安直極まりない命名ではないわよね?」
 途端に、うっと詰まるエルバート。
「す、すいませんね、安直で。い、いいじゃないですか、わかりやすくて……!」
 自覚はあっても、他人から指摘されるとなんとなく恥ずかしいものである。
 ユーフェミアはふふんと鼻で笑った。小馬鹿にした表情が、しかしどこか楽しげにも見えたのは、ひょっとしたらエルバートの気のせいかもしれない。
 蠢く影を背後に従える異形の少女。けれど、その傍らの窓の外に広がる宵空には、細い月が白くやわらかに輝いて浮かんでいる。まるで、闇の中に立つユーフェミアそのもののように。
「おまえごときのネーミングセンスじゃ仕方ないわね。――さあ、わたしたちも帰るわよ。おいで、クロ」
 艶やかな亜麻色の髪がふわりと宙に舞い、「わうん」と吠えたクロが小柄な主人の背中を追いかける。
 少女と犬の姿が、扉ではなく、部屋の暗がりに溶け込むようにして消えるのを見ても、エルバートはたいして驚かなかった。しばらくの間、エルバートはじっとその闇を見つめていた。口元に小さな微笑みを浮かべ、まるでふたりの後ろ姿を見送ってでもいるかのように。


          *

 祝賀式典は何の問題もなく、予定通りに挙行され、トリステンの城には平穏な日常が戻っていた。エルバートも相変わらず雑用に走り回る日々だが、ひとつだけ変わったのは、式典が終わって間もなく、厨房長が仕事をやめて故郷に帰ってしまったことだった。
 何かいろいろと理由をつけてはいたようだが、あの日、皿を持って戻ったエルバートを見た厨房長が顔色を変えてひどく慌てていたことから、おおよその事情は察せられた。よくよく考えてみれば、エルバートのような下っ端が一番高価な食器の準備を命じられたこと自体が不自然だったのだ。おそらく、ウィレット伯爵かその弟から忌姫の一件を聞かされたのだろう。あの兄弟も、式典の日以来めっきり宮廷に寄りつかなくなっていた。
 つまりエルバートは恩人だと思っていた人に売られていたわけで、落ち込まなかったと言えば嘘になるが、おかげで風変わりな友達もできた。あれきり一度も会っていないが、友達になれたと思っているのは、きっとエルバートのほうだけではないはずだ。
 ある日エルバートは、噂好きの女中たちの中でも特に歩く噂話の宝庫と名高いおばさんに、なにげなく忌姫について尋ねてみた。恰幅のいいおばさんは忌姫の二文字にぶるりと震え上がり、それから声をひそめて教えたくれた。
「どこで聞いたか知らないけど、その名前は滅多に口にするもんじゃないよ。ついこの間も現れたっていうし、もしこうやって噂しているのを聞かれちまったら大変だ。でも安心おし、国王様が今までの場所よりも、もっと城の奥深くにしっかり閉じ込め直してくださったそうだからね」
 おお怖い、と言いながら立ち去っていくおばさんの口調はどことなく楽しげだが、怪談を語る人間とは、怖がっているのは多くても半分で、残りの半分以上はおもしろがっているものなのである。
 しかし、話を聞いたほうはおもしろがるどころではなかった。その晩、皆が寝静まるのを待って、エルバートはこっそり部屋を抜け出した。
 小さなカンテラを片手に、あの日と同じ塔に登る。屋根伝いに向かったのは、あのときユーフェミアが皿を取りに入って行った窓だ。
「ユーフェミアさん!」
 暗い窓に鍵はかかっていなかった。もどかしい手つきで開き、中をのぞき込む。
 月明かりに照らされた部屋の中は、呆気ないほどがらんとしていた。壁も床も剥き出しで、置き忘れた家具のひとつもない。もしユーフェミアに会っていなかったら、少し前までここに誰か住んでいたとは思いもしなかっただろう。それくらい徹底的に、彼女の痕跡は消し去られていた。
「どこに行っちゃったんだろう……。ユーフェミアさんもクロも、ひと言教えてくれたってよかったのに、何も言わずにいなくなっちゃなんて……」
 思えばエルバートは、ここに来ればいつでも会えると高をくくっていたのだ。ユーフェミアは神出鬼没だから、どこにいようと関係ないと思っていたふしもある。けれど、今までより厳重に閉じ込められたということは、ユーフェミアも以前ほど自由がきかなくなってしまったのかもしれない。エルバートに皮肉のひとつも言いに来る暇もないまま、別の場所に移されてしまったという可能性だってあるのだ。
 しょんぼりと肩を落として窓枠に腰を下ろそうとしたエルバートは、カーテンの影に一枚の封筒が置かれていることに気づいた。慌てて拾い上げ、封を開ける。宛名も差出人の名前もなかったが、なぜだかユーフェミアが自分に残していったものだという確信があった。
 取り出した便箋を広げたエルバートは、思わず吹き出した。
 そこには見とれるほど流麗な筆跡で、いかにもこんなときにユーフェミアが言いそうな言葉が書かれていたのだ。
 ただひと言、
「馬鹿じゃないの?」
 ――と。
「まったく、本当にきみって人は!」
 本当なら、悲しんだり憤ったり、自分を助けてくれたせいでこんなことになったのかもしれないと悔やんだりするべきところなのかもしれない。事実、ここに来るまでのエルバートの胸の中は、そういった思いでいっぱいだったのだ。
 しかし、そんなことを言おうものなら、それこそこの手紙の文面のように「馬鹿じゃないの?」と鼻で笑われてしまうだろう。不思議と愉快な気持ちで、エルバートは何度も手紙の文字を読み返した。
「それじゃ、今度は僕のほうから探しにいくよ。この城中をぜんぶ探せば、きっと会えるだろう?」
 何年かかっても、きっと会いに行ってみせる。もっとも、それまでにユーフェミアとクロがエルバートのことをすっかり忘れてしまっていなければいいのだけれど。なんといっても、残すべき価値があるかないかで記憶まで自分で取捨選択していそうなユーフェミアのことだ。万が一「どちらさま?」なんて聞かれたら、この置き手紙をつきつけて思い出させてやらないと。
 明るい月が、迷路のように複雑な城を夢のように照らしている。このどこかに姫君プリンセスが隠されているというのなら、迷宮ラビリンスも悪くない、とエルバートは思った。



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