月と太陽の螺旋
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エピローグ

 ラキトス南東部に位置する、山間の小さな家。細く立ちのぼる煙以外に人の住んでいる気配を窺わせない、人里離れたおんぼろ小屋から、この日は珍しく大きな声が聞こえていた。
「な、行こうよじいさん。今日出ればミカンの足でも間に合うからさ。リューオの晴れ舞台見たいだろ?」
「そんなもんに興味はない」
「リューオだって絶対喜ぶって。この前だって会いたがってたし。女王様になってますます忙しくなっちゃったら、こっち来られるのだってずっと先だろ? 顔くらい見せてやれよ」
「わしは行き倒れの小娘なら治療したが、王女なんぞを助けた覚えはない」
「この頑固ジジイ!」
 言わずと知れたシュウと老医師ノイエンである。
「シュウ、ノイエンさん、もう出られる?」
 中をのぞき込んで尋ねたユネに、シュウはここぞとばかりに訴えた。
「ねえちょっと姉ちゃんからも言ってやってよ。この偏屈ジジイ、岩みたいに頑固だし。いっそこのまま持ち上げてリューオのとこまで運んでく?」
「リューオじゃなくてセフィア殿下。もうすぐ陛下よ」
 姉の指摘に、「わかってるって」と言い返す。
 ユネは少し首をかしげて考える仕種をすると、梃子でも動かない構えで座っているノイエンに声をかけた。
「リューオに何か伝言はある? ノイエンさん」
「あっなんだよ姉ちゃんだってリューオって言ってるじゃん! しかもそれ全然説得じゃないし」
 弟の抗議は姉に無視され、ノイエンが短い沈黙の後、ぼそりと言った。
「ひとりで妙な場所をうろつくような真似はもうするなと言っておけ。次に行き倒れても、拾うのが考えなしのお人好し姉弟とは限らんからな」
「おい、じいさん、お人好しはともかく考えなしはないだろ」
「身体に気を付けて危険なことはしないように、ってことね。伝えておくわ。リューオのほうに時間があったらだけど。じゃあ行ってきますね、ノイエンさん」
 あんたも早く来なさい、とシュウにも声をかけてユネが戸口を離れる。シュウは渋々立ち上がりながら、くしゃくしゃと髪をかき回して「まったく」とつぶやいた。
「土産話楽しみにしてろよ! 絶対行けばよかったって思わせてやるし」
「フン、さっさと行かんか。いっそ戻ってこんでもいいぞ」
「やなこった!」
 すでにミカンはのんびりと歩き始めている。シュウはすぐに追いつくと、身軽な動作で荷台に乗り込んだ。ミカンの牽く荷車は、新品ではないが以前よりは新しく、質のいいものに変わっている。しばらくラキトス軍と行動をともにしていた行商人姉弟の荷馬車のあまりのみすぼらしさに――つぎはぎだらけの幌に致命傷を与えたのはイアスであったのだが――カンザに戻った後、ヴァーニが一台都合してくれたのだ。
「いい人だよね、ヴァーニ将軍。オレたちが受け取りやすいようにわざわざ使い古しのやつ選んでくれるとことか、よくわかってるし。ああいう人がリューオのそばにいてくれたら、オレも安心だよ。気に入らないけどレオンは強いし、ユンギル王子だって、あ、もう王様なんだっけ、とにかく有能なのは確かだし、あの顔ぶれとリューオなら、なんにも心配ないよね。楽しみだな、戴冠式。きっとリューオすごくきれいで、オレなんかひょっとして眩しくて直視できなかったりして……」
「シュウ」
 ユネが静かに遮ると、やたら陽気にまくしたてていたシュウはびくりとしたように口をつぐんだ。
「べつに無理してまで行くことはないのよ。リューオの即位も結婚も、あたしがあんたの分までちゃんと祝福してくるから」
「行くに決まってるだろ!」
 怒鳴るようにシュウは答えた。キッと姉を睨みつける。
「姉ちゃん、あんまりオレのこと見損なわないでよね。もうとっくにわかってるんだ。リューオが手の届かない人だってことくらい。それでもオレはリューオが大事だし、家族みたいにも思ってるし、だから誰よりオレが応援する。リューオの選んだ道を、ちゃんと見守るって決めたんだ。そのオレが行かなくてどうするんだよ。絶対に顔を見てお祝いを言う。きっとリューオも喜んでくれる!」
 息を切らせて言い切った弟を、ユネはフフンと笑って振り返った。
「なかなか言うようになったじゃない。ここでウジウジするようだったら、そこから蹴落として置いて行ってやるつもりだったけど」
「姉ちゃん、それひどい……」
「それとね、レオンなんだけど」
 前方に視線を戻しながら、何気ない口調でユネは続けた。
「戴冠式が済んだらラキトスを離れるそうよ」
「ふうん、ラキトスをね……って、え!? なにそれどういうこと!? 護衛官のくせにリューオを置いてどこ行くっていうんだよ!」
「だから、護衛官じゃなくなるんだってば。サウザーとの戦争が終わるまでって、最初からそういう約束だったんですって」
「はあ!?」
 意外だとか思いがけないとかいう次元を通り越して、もはやわけがわからなかった。そんな契約などいくらでも更新すればいいではないか。むしろいつまでも傭兵なんて立場にいないで、カーヴァル卿のようにラキトスでの正式な地位を得てしまえばいいのだ。リューオにはその権限があるし、ヴァーニたちだって反対はしないだろう。それどころか積極的に進言したっていいくらいだ。あんなにリューオを大事にしていたくせに、あんなにレオンを信頼していたくせに、ふたりとも何を考えているのか。
「……だからこそ離れる必要があるってことが、あんたにはわからないかしらねぇ」
 ユネのつぶやきはシュウの耳には入っていないようだった。荷台に座り込んだまま何やら思案にふけり、おもむろに顔を上げる。
「姉ちゃん、オレ、この機会にできたコネを最大限に活用しようと思う」
「あらそう」
「女王陛下の護衛官って、どうやったらなれるんだろう。つまり近衛兵ってことだよな? 騎士の称号もいるわけで……家柄とかいろいろ制限があるだろうし、でもやっぱり、とりあえずラキトス軍には志願しなきゃだよな、きっと。できたらリッツさんとかに相談してみよう。あの人も平民出身だって言ってたし、いろいろ教えてもらって……」
 ひとりでぶつぶつとつぶやいている。ユネはさっさと弟を放置して空を見上げた。
 晴れ渡った蒼穹とやわらかな金色の陽差し。道の脇では小さな花が咲き連なって、微風にかすかに揺れている。美しいラキトスの春だ。
「これからはラキトス=サウザー王国になるのよね。ほらミカン、頑張って。カンザに着いたらうんといい飼い葉をごちそうしてあげるから」
 わかっているのかいないのか、ミカンはやる気がなさそうに鼻を鳴らした。
 荷馬車はのんびりと王都カンザを目指す。


          *

 王都への凱旋、サウザーとの正式な講和の調印、様々な事後処理や即位に向けた準備で慌ただしく過ごしていた中で、リューオはその知らせを聞いた。
 ナーエが死んだことを直接リューオに伝えたのは、ごく私的な客人としてひっそり尋ねてきたイアスだった。ひっそりというか、例のごとくどこから入り込んだのかリューオの執務室にふらりと現れて、またふらりと去って行ったのだが。
 “記憶”を解放した後、意識こそはっきりしていたものの、ナーエが起き上がることは二度となかった。回復の兆しもなく、やがて食事も受け付けなくなり、ある晩少しだけ熱を出して、そのまま崩れるように静かに息を引き取ったという。
 償いもできないままでごめんなさい。それが最後の言葉だったそうだ。
「穏やかなお顔でした」そうイアスは語った。「笑ってくださいましたよ。たぶん、そばについていた俺たちのために。最後まで、あの方のままで旅立ってくださった。あなたがたのおかげです」
 穏やかに微笑んではいたが、いつも小憎たらしいほど飄々としている青年神官の顔には、隠しきれない疲労の影があった。それは看病の疲れというよりは、ナーエを失ったことそのものによるのだろう。彼にとってあの少女は、生涯をかけてでも救いたいと思った存在だったのだ。
「そんなわけで、俺はこれからしばらく、傷心の旅に出ようと思います」
「旅?」
「愛する人を失った男というのは、目的はよくわかりませんがとりあえず旅に出ることになってるんです」
 実はリューオの戴冠式に駆り出されそうになっていたので雲隠れしたのだという事実が発覚したのは、後日、オルジアンの口からであった。
 戴冠の儀式は通常、神殿から神官や巫女を招いて行われる。世界の理を司る彼らの手から王冠を授かることは、それを受ける人物がその国を守り導く良き王となる証となるのだ。実際には即位にあたって神殿の威光を借りることが半ば以上の目的だが、今回はそれに加えて、サウザーとの戦争の折に芽生えた民衆の神殿への不信感を払拭し、新たな信頼関係を印象づける必要もあった。そこで、ラキトスとサウザーの新たな王と女王の誕生にはダーシェン大神殿の神官が立ち会うという、中央諸国では最高の、特にサウザーなどにとってはこれまで考えられもしなかった栄誉を受けることになったのだが、ダーシェンにおいてリューオの戴冠はイアスが担当することで話がまとまりかけていたそうなのだ。
 正三位の筆頭神官ともなれば、位階だけでもダーシェンの代表となるのに不足はない。リューオとは何かと縁も深いし、何より彼のナーエへの献身を認めての、神殿側にしてみれば札付きの不良神官に対する歩み寄りの姿勢の表れでもあったのだ。
 だが、そこはイアスである。面倒な式典に引っ張り出されるのはごめんだとばかりに、自分のところに話が回ってきそうな気配を察するや否やさっさと姿をくらましたのだという。結局ユンギルとリューオの両方を担当することになったオルジアンの、ため息混じりの言であった。
 そして、その戴冠式も、いよいよ翌日に迫っている。
 明日、リューオはセフィア女王として正式に即位する。そして、一足早くサウザー王となったユンギルと婚礼を挙げることにより、両王家はひとつになり、ラキトスとサウザーの新しい歴史が始まる。
 よく晴れた穏やかな夜だった。明日もきっといい天候に恵まれるだろうと嬉しそうに言ったのは、式典よりもその後で繰り広げられる王都のお祭り騒ぎを楽しみにしているフェレイだ。王宮での宴はさっさと抜け出して街に繰り出す気でいるらしい。
 テラスに出ると、ひんやりとした夜風が心地良く頬を撫でた。月が明るく空にかかっている。その月明かりの下にたたずむ、背の高い人影。
「レオン」
 声をかけると、手すりに寄りかかって外を眺めていた先客が振り返った。夜目にも鮮やかな緋色の髪。そういえば、出会ったのも夜だった。
「まだ起きてたのか。さっさと寝ろよ。主役の王女様が寝不足で隈なんか作ってたら格好がつかないだろうが」
 リューオは構わずにレオンの傍らに歩み寄ると、少しだけためらってから、手すりに置かれていた彼の手に、自分の指をそっと重ねた。
「レオザルク」
 つぶやくようにそう呼ぶと、レオンは驚いたように目を瞠った。
「……覚えてたのか」
「当たり前でしょう」
 彼がここにいるのは、今夜が最後だ。明日の式典は、王都のどこかから見ていてはくれるだろう。けれど、こんなふうに隣にいてくれるのは今日が最後だった。
 この青年に出会わなければ、そしてその後もずっとそばにいてくれなければ、リューオは今ここにはいなかった。とうに命を落としていただろう。セフィアを失った後、戻ってくることはできなかっただろう。何度も助けられ、支えられてきた。
 けれど、わたしはこの人に、何か返すことはできたのだろうか。
 そんなものは求めていないとレオンは言うだろう。こなした仕事に見合う対価さえもらえれば十分だと。
 わかっている。そうでなければならない。傭兵と雇い主の信頼関係を越えた関係を築いたりしてはいけないのだ。
 一度認めてしまえば気持ちを止められなくなることがわかっているから。だから、自制の効く最後の波打ち際で、リューオは足を止めなければならないのだ。そして、足を止めているためには、これ以上一緒にはいられない。
「リューオ」
 名前を呼ぶ低い声。レオンの手がリューオの髪を撫でる。愛おしむように。それでいて、これが最後だときっぱり決めているかのように。
 顔を上げると、榛色の瞳がすぐそばにあった。目を閉じると、唇が重なって、そして離れた。
「いい女王になれ。姫さんの分までな」
 リューオはレオンをまっすぐに見上げ、そして微笑んだ。自信に満ちた、強くきらめく微笑。
「まかせなさい。この戦乱の世で、必ずラキトスを生き残らせてみせる」


 翌日は、フェレイの言葉通り気持ちのよい晴天に恵まれた。
 広場からセフィアを呼ぶたくさんの声が聞こえている。ユンギルを呼ぶ声。ラキトスを讃える声。晴れやかな歓呼のざわめきが王都を包む。
「セフィア陛下、ユンギル陛下。準備が整いました」
 やってきたヴァーニが恭しく一礼し、新たな主君となるふたりを促した。
 開け放たれた大きな扉の向こうにはラキトスとサウザーの重臣たち、そして、ともに戦い、あるいは互いに剣を交えた将軍たちが並んでいる。端然とたたずむカーヴァルと屈強なフェレイは一際人目を引き、その横でこっそり欠伸をしたシュトラッドがラクトに小突かれている。カンザ占領軍の司令官でリューオたちに降伏したウェンレイの姿もあった。
 立ち上がったリューオは、すぐには扉に向かおうとはせず、かたわらの青年を振り返った。
「ユンギル」
 向かい合い、彼の瞳を正面から見つめて言う。
「ひとつだけ、まだあなたに話していないことがあるの」
「あなたのもうひとつの名前のことですか?」
 ユンギルは穏やかに問い返した。
 素性を隠す必要があったときに使っていた名前なのだ、という簡単な説明はしていた。けれど、それだけではないことはユンギルにもわかっていたのだろう。それでも追及しなかったのは、いつかリューオから話してくれるはずだと、信じてくれていたからだ。
 ユンギルは微笑んだ。そしてリューオに手を差し伸べる。
「聞かせてください。どんな話であっても。あなたが誰であれ、私が選んだのは、セフィア姫、今私の目の前にいるあなたです」
「……ありがとう」
 リューオもまた微笑みを返してその手を取った。
 困難は多いだろう。ラキトス内にはいまだサウザーとの連合に反対する根強い声もある。近隣諸国との関係。新たな防衛体制の確立や、両国をいずれ完全なひとつの国にするための法の整備。すべて思うようにいくとは限らない。思いもよらないような事態にも、何度も直面することになるだろう。
 それでも乗り切っていけると思った。乗り切っていくのだ。ユンギルと協力し、カーヴァルの仕掛けてくる試験をことごとく突破し、ヴァーニたちに支えられて。大切な人たちに助けられてここまでやってきた。それを決して無駄にはしない。
 扉をくぐった瞬間、弾けるような歓喜の声がふたりを包んだ。市民だけでなく兵士の姿も多い。セフィア・フレイシアは兵士の歓呼がひときわ大きな女王であったと、後に歴史書には記されることになる。
 リューオが手を上げてその声に応えると、偽りの紋章を刻んだ銀の護符が陽光を弾いてまばゆく輝いた。その偽りは今、真実に変わろうとしている。他のなにものでもない、それを真実と信じる者たちによって。
 これが、新たな戦いの始まりだ。





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