月と太陽の螺旋
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第七章 王都解放

 クィーゼに集結したラキトス軍が動き出したという情報は、かなり早い段階で王都カンザにも届けられていた。
「やはり王女は生きていたのか……。少々厄介なことになったな。しかし、殿下は慢心とは無縁の御方だ。恐れることはあるまい」
 王宮の一室でそうつぶやいたのは、ウェンレイという名の少壮の将軍だった。進撃を続けるユンギルから占領した王都の守りを任されている人物である。
 総司令官であるユンギルを筆頭に、サウザー軍の幹部は全体に年齢層が低い傾向がある。これはユンギルが少年の頃から有能な人材の確保に努め、形骸化しつつあった軍の立て直しを図ってきた結果であった。ウェンレイはどちらかといえば地味で、あまり才気走ったところのない将だが、落ち着いてねばり強い用兵を評価され、今回のカンザ占領軍の統率を命じられたのだった。
 現在のところ、ウェンレイは王子の信頼によく応え、カンザの情勢は落ち着いている。
 ラキトス軍は、サウザー軍本体のいるリリズに向けて進軍しているという。ユンギルと彼の率いる軍勢さえ打ち破ってしまえば、カンザに残る兵力は多くないし、後背の憂いなく王都奪還に専念できる。逆に、まずカンザを奪い返そうとすれば、彼らは王都の堅固な城壁と、反転してくるユンギルの軍とを同時に相手取らなければならなくなる。ラキトス軍の行動は理に適っているといえた。
 さしあさってウェンレイがすべきは、王女挙兵の報がいたずらにカンザ市民の耳に入らぬよう、情報の管理と監視の強化を徹底し、治安を維持することだった。彼は決して、当面の当事者はユンギルらとラキトス軍だけであると高をくくって傍観に徹したわけでも、手を抜いていたわけでもない。かえって気を引き締め、自らも市街地の見回りに出たりしながら申し分なく任務を果たしていたのである。
 しかし、残念ながら完璧というものはこの世に存在せず、想定もしていない事態というのは現実に起こり得るのである。
 そしてその「想定外の事態」は、慌ただしく飛び込んできた部下の口から発せられた、ヴァーニ将軍脱走の報告で幕を開けた。
「逃げられた? どういうことだ!」
「わかりません。ただ、あちこちでラキトスの残党どもがそうわめき立てています。ヴァーニ将軍が牢を脱出し、残った勢力をかき集めてカンザを取り戻そうとしていると。捕虜や市民の一部が暴動を起こし、全市民に決起を呼びかけています」
「馬鹿な。手枷を引きちぎって鉄格子まで蹴破ったとでもいうのか? 看守たちは何をしている」
 ウェンレイは低く舌打ちした。サウザー軍が手に入れた虜囚の中でヴァーニが最も重要な駒であることは、彼も十分に承知している。だからこそ、死なせることがないよう尋問には細心の注意を払い、地下牢の奥深くに厳重に監禁してあったのだ。
「すぐに地下牢の状況を確認しろ。暴動は叩け。徹底的にだ。仮にヴァーニが本当に指揮を取っているのだとしたら、殺しても構わん」
 常時には、必要以上の略奪や殺戮を行わないよう厳しく言い渡しているウェンレイだが、飴と鞭の使い分けの重要性も心得ていた。半端な鎮圧はラキトス人をつけ上がらせる。反抗の無意味さは、徹底的に叩き込んでおかなければならない。
 命令を受け、部下たちが慌てて動き出す。その中の何人かは王宮の外れにある牢獄へと走ったのだが、実のところ、ヴァーニが脱走したという話は、ウェンレイ以上に、地下牢の看守たちにとって寝耳に水だった。
「どうしたもこうしたも、ラキトスのお偉い将軍どのならこの下だ。さっきも上等なメシを運んでやってきたところさ。知ってるか、ここの牢獄のメシには水にパンまでつくんだ。豪勢だろ?」
「ふざけている場合か。その豪華なメシを食って奴は脱走したんだぞ!」
「ふざけてるのはどっちだ。この部屋を通らずにどうやって地上に出るってんだ? 俺たちは誰も通しちゃいない。それとも何か、ラキトス人は幽霊みたいに透明になって壁を通り抜けられるのかね」
「おまえらが目を開けて居眠りしてたんじゃなけりゃそうなんだろうよ。いいからとにかく確認しろ! 外では暴動も起こってるんだ!」
 怒鳴りつけた兵士の形相と焦りように、看守たちもどうやらただごとではないと察したらしい。同僚と目を見合わせ、鍵束を手に慌てて立ち上がった。入り口の看守室からヴァーニの独房までは、いくつもの階段と、数枚のぶ厚い鉄の扉を通らなくてはならない。
 一方、彼らが慌ただしく向かおうとしている最下層の牢では、ひとりの男が手枷につながれて冷たい壁に背をあずけていた。
 薄汚れ憔悴してはいるが、鍛え上げられた体躯は一目で武人であると知れ、瞳に宿る理知的な光にはいささかの衰えも見られない。知っている者が見れば、すぐにそれがヴァーニ将軍その人であるとわかるだろう。外界の騒動とはまるで関係なく、彼はいまだ獄中の人であったのだ。
 一片の陽光も差さない地下牢にあっては、囚われてからどれだけの日を数えたのか、正確に把握することは難しい。王都守護の責任者として何度も足を運んだことのあるこの陰気な牢獄を、ヴァーニは好いていたこともないし、身を置く場所が鉄格子の反対側に変わったからといって何かしら新たな発見があるというわけでもなかった。
 これまでに行われた尋問の内容は多岐に渡るが、彼の気にかかっているのは、ここしばらく王女の行方を問われていないということだった。
 捜索を断念したとは思えない。考えられるのは、すでにサウザー軍がセフィアを捕らえるか殺すかして、ヴァーニから情報を得る必要がなくなったという可能性だ。
 だが、そうであったとしたら、サウザー軍はヴァーニの動揺と絶望を誘うために必ずそうと告げるはずだ。それに、リューオのこともある。
 一度、ユンギルがヴァーニにこう尋ねたことがあった。
「ラキトスの王女はひとりだけか?」と。
 カンザ城が陥落し、ヴァーニが牢の囚人となったその晩のことだ。そのときサウザーの王子はまだ血塗れた甲冑も脱がず、表情には苛烈な戦闘の名残がうかがえたが、新緑を思わせる緑の双眸はどこまでも冷静だった。この若者に、ラキトス軍は敗北したのだ。
 単なる系図上の王家の娘の数を尋ねているわけではないと、すぐにヴァーニは察した。
「私はラキトスの臣だ。おまえたちに語るべき言葉はない」
「それは残念だ」
 その瞬間、ヴァーニは死を覚悟した。ユンギルが腰の剣を一閃させ、ヴァーニの首を刎ねるのではないかと思ったのだ。実際にはふたりは鉄格子越しに対峙しており、そのようなことは不可能だとわかってはいたが、冷たい汗が背中を流れた。それはヴァーニが臆病であったからではなく、むしろ彼が目の前の若者が秘めた冷ややかな覇気とでもいうものを正確に見抜いたことを意味していた。
「ご無事でおられれば良いが……」
 つぶやいた言葉が、誰に――正確には、あの夜に彼が脱出の手筈を整えたどちらの少女に向けられたものだったのか、ヴァーニは考えなかったし、その必要もないはずだった。リューオは囮だった。無事を祈るべきはセフィア以外にはあり得ないのだ。
 だが、ほんの一瞬、脳裏をよぎった面影は、果たしてどちらのものであったのか……。ヴァーニは頭を振った。それ以上考えるべきではない気がしたのだが、幸いなことに、そこで彼の思考は中断された。聞き慣れない物音が耳を打ったのだ。
 階段を降りてくる扉越しの足音も鍵を回す音も、すっかり耳になじんだものだ。しかし、足音は妙に乱れているし、よほど慌てているのだろう、ガチャガチャと鍵を鳴らす音がこちら側にまで反響している。早口に何か言い交わす声もする。一日に一度の食事は先程差し入れられたばかりだし、尋問にしても様子が変だ。
 乱暴に扉が明けられ、声と足音が明瞭になる。四、五人だろうか。「どこだ」「いるのか」「おい、押すな」などと口々に言いながらこちらにやってくる。松明の明かりが通路の壁を照らすのが見えた。
 異変はそのとき起こった。
 くぐもった呻き声と、どさりと人の倒れる音。驚いたように上がりかけた別の声も中途半端に途切れ、火がついたままの松明がヴァーニの房の前に転がってきた。湿り気を帯びた石の床には燃え移る心配はないが、明らかに尋常な事態ではない。
「おい、どうした!?」
 呼びかけて身を乗り出すが、壁につながれた鎖のせいで様子をうかがうことができない。返事はなく、通路は静まりかえっている。
「何があった、返事をしろ!」
「この状況で敵の心配とは、人が好いというか相変わらずの堅物というか。もうちょっと楽観的な予想をしてみようとは思わんもんかね?」
 いやに呑気な声とともに、ひょいと松明が拾い上げられる。
 炎に照らされたその顔を見て、ヴァーニは信じられない思いで声を上げた。
「フェレイ!」
「よう、久し振りだな。思ったより元気そうだが、ダイエットはほどほどにしておいたほうがいいぜ」
 ヴァーニとフェレイは旧知の間柄である。単に同じ国の軍籍に身を置く同士というだけでなく、騎士見習いの頃からの友人であり、何度も戦場で肩を並べている。フェレイがカーヴァルの副官に任じられて王都を離れてからは互いに顔を合わせる機会もなかったが、まさかこんなところで再会することになろうとは思ってもみなかった。
 さらにそこへ涼やかな少女の声が加わる。
「遅くなってしまってごめんなさい。でも、ご無事で何よりです、ヴァーニ将軍」
「リューオどの」
 驚きも手伝って声がかすれる。看守から奪ったらしい鍵で鉄格子の扉を開けた栗色の髪の少女は、ヴァーニの視線を受けて顔を上げ、かすかに微笑んでうなずいた。小さいが、力強い笑みだ。その表情に、あの夜の彼女の顔が重なった。おまえが地下道を行きなさい――乳母エルダにそう命じられたリューオ。サウザー兵をそちらに引きつけ、セフィア王女に代わって殺されること。怯えたように見えたのはほんの一瞬だった。ひとつ息をついたときには、その瞳に強い決意を宿していた。そして、セフィアの前に膝をついて告げたのだ。ご無事をお祈りしていますと。我が君、セフィア王女殿下。虚勢も欺瞞もない、まっすぐな声と眼差しで。
「生きていたのか……」
 彼女の役割を考えれば、それは非難の言葉であるはずだ。しかし、つぶやいた声にはヴァーニ自身にも理由のわからない安堵が混じっていた。
「本当ならゆっくり休んでいただきたいところなんですけど、実はここを出てもう一働きしてもらわなくちゃならないんです。歩けますか? 足は?」
「問題ないでしょう。傷もほとんどふさがっていますし、むしろ休みすぎて身体がなまっているくらいです」
 手枷も外してもらって立ち上がると軽い眩暈がしたが、すぐに治まった。扉をくぐり、久し振りに格子の外側に出る。通路には、もう少しでヴァーニと対面することができたはずの不運なサウザー兵たちが折り重なって倒れていた。
「ほらよ、あんたのだろう」
 素っ気ない声とともに、鞘に収まった剣が一振り、目の前に放り出された。反射的に手を伸ばして受け止めると、確かにヴァーニの愛剣だ。
「ああ、礼を言う。きみは?」
 尋ねたのは、剣を放って寄越した青年に見覚えがなかったからだった。鮮やかな緋色の髪と、均整の取れた長身。リューオとフェレイには数人の兵士が従っていたが、その中のひとりという雰囲気ではない。かといって、落ち着き払った態度とするどい双眸は、明らかにいくつもの戦場をくぐり抜けてきた人間のものだ。
「レオン」
「わたしが護衛に雇いました。性格はともかく、信用できます」
 面倒くさそうに名乗った青年に、リューオがつけ加える。傭兵か、とヴァーニはつぶやいた。少し意外に思ったのは、言葉遣いこそ雑だが、彼には流れ者らしい粗野な印象があまり感じられなかったためだった。もっとも、あの貴公子然としたカーヴァルでさえ一時は傭兵であったのだから、それに比べればレオンはよほど「それらしい」とも言えたが。
 看守室でも、何人かのラキトス兵が外の様子を窺いながら待っていた。階段を上がってきたリューオたちを見て、「殿下、将軍、ご無事で」と声をかける。
 ヴァーニは一瞬、口を開きかけ、すぐに言葉を飲み込んだ。フェレイの目配せに小さくうなずき返す。今はリューオが「セフィア」として動いているということだろう。彼女を王女として扱うことには慣れている。
「これから何を? ひと仕事ということは、単純に私を助けに来て下さったというわけではないのでしょう」
 皮肉ではなく純然たる質問だ。リューオの同行者がフェレイであることからも、大まかな事情は推測できる。おそらくこれは、カーヴァルが絡んだ何らかの作戦行動だ。何かが動き出している。
 リューオがうなずいた。そして逆にヴァーニに問いかける。
「将軍は、現在カンザの留守居役を務めている人物をご存じですか?」
「確かウェンレイといったはずです。ユンギル王子に代わって、何度か尋問に立ち会っていました」
「そのウェンレイに会いにいきます」
 あやうく聞き逃してしまいそうなほど何気ない口調だった。
 もちろん、それがお茶を飲んで世間話をしに行くとかいう平和的な意味でないことは明白だ。
「まさか……カンザを取り戻すおつもりですか」
「ここまで来て、他に何かすべきことがありますか?」
 息を飲んだヴァーニに、リューオはちらりと笑って見せる。それから、悪戯を白状するような表情になって続けた。
「実は、ヴァーニ将軍が脱獄したという情報を、あらかじめばらまいておいたんです。今、仲間が煽動してあちこちで暴動を起こしています。彼らの指導者は将軍ということになっていますので、よろしくお願いしますね」
「サウザー軍は鎮圧にてんてこまいで、おかげで今は城内の守りが手薄だ。いやはや、おまえの働き者ぶりには感服するぜ」
 そう言って、フェレイがにやりと笑う。
「なんとまあ……」
 感心半分、呆れ半分でヴァーニはつぶやいた。サウザー兵たちが慌ててやって来た理由はそれでわかったが、先に実体のない騒ぎを起こしておいて、その混乱に乗じて事実のほうを沿わせてしまおうとは、なんとも大胆な作戦だ。ヴァーニ救出に手間取ったり、ましてや失敗などしてその「嘘」が明るみに出れば、拠り所のない反乱など簡単に瓦解する。サウザー軍はそれらを徹底的に叩き潰し、場合によってはヴァーニの公開処刑にも踏み切り、今度こそカンザの住人たちは抵抗の意思を根こそぎ奪われてしまうだろう。奇計というのは魅力的だが、諸刃の剣でもある。
 しかし、懸念ばかり並べていても意味がないことはヴァーニも承知していた。すでに始まっているのなら、やれるだけのことをやるしかない。
「その役目、お引き受けいたしましょう。殿下」
「ありがとうございます」
 これがシュトラッドあたりであれば、名前だけでも働かされていたのならその分の超過勤務手当がつかないものかとか言い出すところだが、生真面目な将軍ではそういった発想には到らなかったらしい。
「では行きましょう。派手に行動しますから、覚悟してくださいね」
 その言葉通り、牢を出た彼らが取った行動は隠密や潜伏といった表現からはかけ離れたものだった。
 あちこちで起こる暴動とその対処に追われるサウザー兵たちで、城内は騒然としてした。その混乱の中を、逃げも隠れもせずに堂々と突き進む。出会った敵はことごとく斬り結んでなぎ倒し、ことあるごとに、城主の帰還である、ラキトス人はともに起ってサウザー軍を排せと声高に叫んだ。これに驚いて慌てて伝令に駆け出す兵士はわざと追わずに行かせた。
 危険な行動ではあったが、フェレイが特に選んで連れてきた精鋭の部下は強く、またその中にあってもフェレイ本人やヴァーニ、レオンの腕は群を抜いていた。守られる立場であるリューオでさえ、素人ではない。その凶悪なまでの強さは、精強を誇るサウザー兵にとってさえ死の嵐と言う他なく、圧倒的多数で押し潰しでもしない限り止められるものではなかったが、部隊の多くは市街地の鎮圧に駆り出されている上、傍若無人な侵入者たちのほうもわざわざ多勢に無勢の状況に陥ってやるほどお人好しではなかった。
「おまえさん、やるなぁ」
 レオンと背中合わせに剣を振るったフェレイが、赤毛の傭兵の技量に感心してしみじみと言った。
「さすが、ひとりで姫様を守ってクィーゼまで来ただけのことはあるな。傭兵の間じゃかなり名前が売れてるんじゃないのか? 出身は? 敵に回すには惜しい腕だ。いっそこのままラキトス軍に入っちまえよ。姫様の護衛官の椅子は保証するぜ、たぶん姫様が」
 最初のうちは無視していたレオンだが、あまりにしつこくフェレイが話しかけ続けるので、我慢できなくなったらしくとうとう怒鳴った。
「いいからてめえは黙って王女の身でも守ってろ」
「はいはい、仰る通りで。まったく、どうしてうちの姫様はこんな無愛想な護衛を雇ったんだろう」
 こわいこわいとぼやきつつ、踊りかかってきたサウザー兵の首を飛ばし、返す刃でもうひとり床に沈めている。フェレイの剣さばきは豪快で迷いがない。味方には頼もしい限りだが、敵にしてみれば悪夢の具現以外の何者でもないだろう。
 遭遇した見張りの兵を一掃してしまうと、フェレイはおもむろに先程飛ばした頭部を拾い上げ、中庭に向かって張り出したバルコニーから外に向かって放り投げた。
 その広い中庭は、かつてはラキトスの貴族たちが優雅に散策とお喋りに興じた場所であったのだが、今は優雅さとはまるで無縁の血なまぐさい闘争の場と化していた。ラキトス人の一団を、サウザー軍が今まさに追いつめようとしていたのだ。ラキトス人のほうは暴徒の一部なのだろうが、武器は手にしていても、明らかに兵士らしくない出で立ちの者も多い。サウザー軍の監視のもとで不自由な職務と生活を強いられていた文官たちも、これを機に立ち上がっていたのである。
 フェレイの放った首はなめらかな放物線を描いて中庭のサウザー軍のただ中に落ち、目前の敵にばかり注意を向けていた彼らは、突然頭上から生暖かい血をまき散らして振ってきた生首にぎょっとして足を止めた。そこへすかさず、フェレイが声を投げかける。
「ご苦労なこったな、サウザー軍の諸君。そろそろ故郷に帰って仲間のための穴掘りでも始めたほうがいいぜ。ラキトスには余分な墓穴がないんでな、おまえさんたち全員を埋めてやるには、残念ながら定員オーバーだ」
 悠々と手すりにもたれかかって挑発する堂々たる体躯の大男を、サウザー兵たちは唖然としたように見上げたが、すぐに隊長格らしいひとりが気を取り直して叫んだ。
「な、なんだ、貴様は! ラキトス人だな!?」
 言うまでもないことを確認してくるあたり、本人が自覚している以上に動揺しているらしい。フェレイは飄々と応じた。
「いはやは、ご紹介が遅れて申し訳ない。俺は名乗るほどの者ではないが、こちらはセフィア王女殿下だ。これから侵略者諸君からカンザを奪還される予定なので、ひとつよろしく」
 その言葉とともにリューオが歩み出る。半歩後ろに付き従うのはヴァーニだ。
 それを見たラキトス側がワッと沸き立った。
「王女殿下だ! セフィア様が我々を救いに来て下さったぞ!」
「ヴァーニ将軍もご一緒だ!」
「それにあれはフェレイ卿じゃないか、ラキトスの双璧が揃っているぞ!」
 口々に叫ぶ“反乱軍”に向かって、リューオが声を張り上げた。
「わたしたちの都を、わたしたちの自由を、わたしたちの手で取り戻しましょう。必ず城門は開きます。もう少しだけ、信じて耐えてください!」
 歓呼の声がそれに応えた。対照的に顔色を失ったのはサウザー兵たちのほうだ。厳重に囚われていたヴァーニが自由の身となったのみならず、生死すら不明だったはずの王女まで姿を現したとあっては、サウザー軍には大打撃である。
「お、王女だ! あの娘を捕らえろ、いや、殺してしまえ!」
「させるかよ! 王女様、行ってください。留守居役のウェンレイは上にいるはずです!」
「ありがとう。みなさんも御武運を!」
 追いつめられかけていたはずのラキトス軍が、猛然とサウザー軍に食らいつく。
 城門は必ず開く。リューオのこの言葉は、爆発的な歓喜の波となって城内に広がり、城下で抵抗を続ける市民たちのもとへも伝えられた。王女とフェレイが王宮に直接姿を見せた効果は大きく、それまで息をひそめて成り行きを見守っていた者たちも、この知らせに意を決して次々と立ち上がった。
 サウザー軍は市民に対しそれほど暴虐でなかったが、無条件に寛大である理由も必要も、むろんのことなかった。最小限に留められていたとはいえ殺戮や処刑も行われたし、何よりカンザは建国以来無傷であり続けた城都である。侵略者に対する市民の反発は強い。一度吹き上がった炎は容易に消し止められるものではなかった。
 兵士も市民も区別なく、手に手に武器を持って立ち上がる。カンザの熱気はさらに高まりつつあった。


 一方で、精神衛生の観点から言えばそんな情報とは無縁でいたかったが、実際問題としてそうもいかない人物も存在した。カンザの留守を預かっているウェンレイである。
「つまり、市街地での暴動は陽動か」
 かろうじて舌打ちをこらえ、忌々しげにウェンレイは唸った。
 こうして見ると、市街地や王宮の各所で生じた反乱や武力蜂起が、場所といいタイミングといい、サウザー軍の戦力を実に効率よく分散させているのがわかる。キングが目と鼻の先にあるというのに、ウェンレイの手駒は少なく、指示もすべて後手に回ってしまっている。
「いかがいたしましょう、ウェンレイ卿」
「いいさ、このままここまで通してやれ。連中は私を押さえればチェック・メイトだ。必ずこの首を取りに来る。無駄に死者を増やすことはない。おびき寄せて囲んでしまえば、いくら手練れといえどどうしようもなかろう」
 ユンギルから信頼されるほどの武人が、いつまでも狼狽えているはずもない。ウェンレイは自らを囮とする方針を定めると、すぐにその準備を命じた。これで失敗すればいくつもの意味で生命はないにも関わらず、顔色ひとつ変えないのはさすがというべきである。
 しかし、彼のこの剛胆な決断は、あと一歩のところで報われなかった。
 いくつもの怒声と物音。ハッとしてウェンレイが振り返ったときにはもう、扉が蹴破られていた。
「はい、どうも、お邪魔しますよ。ウェンレイさんってのはこちらかね?」
 扉を蹴飛ばした本人とおぼしき屈強な大男が、場違いに呑気な声で言う。
「貴様……!」
 居合わせた部下たちが剣を抜こうとしたが、立て続けに部屋に飛び込んできた男たちが斬りかかってくるほうが早かった。複数の血飛沫と悲鳴が上がり、半分は永遠に動かなくなり、残る半数も身動きを封じられた。
 ウェンレイ自身の反応も決して遅かったわけではない。だが、彼の手は剣の柄をつかんだまま止まっていた。喉元に光る鋭利な切っ先。それを突きつけているのは、燃えるような緋色の髪をした青年だ。彼は最初から、正確にウェンレイひとりを狙っていた。榛色の双眸が、鋭くウェンレイを見据えている。
 そこへ、凛とした少女の声が響いた。
「あなたがウェンレイですね」
 それが合図であったかのように、青年がすっと剣を引く。途端にどっと冷や汗が吹き出るのを感じ、ウェンレイは、一瞬のことではあったが、自分が完全に青年に気圧されていたことに気づいた。
 しかし、まだ迂闊に身動きは取れない。青年の剣はいつでもウェンレイの喉を掻き切ることのできる距離にあるのだ。
 ゆっくりと剣の柄から手を離しながら、正面に目を向ける。そこに立っていたのは、長い栗色の髪とくすんだ青灰色の瞳をした少女と、彼女の背後を守るように控えているヴァーニだった。
 ラキトス王家の最後の生き残り、セフィア王女。この少女がそうなのか。
 そっと視線を動かすと、隣室も完全に制圧されている。どうやら、ウェンレイらが舞台を整え終えてしまわないうちに主賓が到着してしまったようだった。
「初めてお目にかかりますね。わたくしの名はセフィア・フレイシア。あなたがたがずいぶんお探しだった、この国の王女です」
「……王女はクィーゼに残っているわけではなかったのだな」
「いいえ、それも間違いではないわ。クィーゼにも、確かにわたしはいるのですから」
 ゆったりと微笑んで少女は言う。しかし、発言の内容は明らかにおかしい。この王女は頭のネジが何本か抜け落ちているのだろうかとウェンレイは疑ったが、それを確認する機会は与えられなかった。彼が口を開くより早く、隣の部屋で騒ぎが起こったのだ。
「何事だ?」
 ヴァーニが尋ね、外で見張りをしていたラキトス兵が何事か耳打ちする。ヴァーニはうなずき、「連れてこい」と命じた。
「この者が、あなたに何か報告をしたかったようだ。ウェンレイどの」
 自分を捕らえ、拷問に近い尋問を行っていた敵軍の将に対しても、ヴァーニの丁重な態度は崩れない。
 左右から拘束され、ラキトス軍に占拠されている司令室に連れてこられたのは、サウザー軍の伝令兵だった。ウェンレイが捕らえられたことは、まだ全軍の知るところではない。ウェンレイに急ぎの知らせを持って来て、この事態に遭遇したのだろう。敵意よりも驚きと狼狽が、まだ若い顔に浮かぶ表情の大半を占めていた。
「ウェンレイ将軍、これは一体……! 我々はもう負けたということですか!?」
「……状況は見ての通りだ。それで、何があった。サウザー軍が全滅でもしたか」
 ウェンレイは自嘲気味につぶやいたが、伝令兵はそれを皮肉とは受け取らなかったようだった。
「いいえ、まだです。しかし、街の連中が大挙して城門を襲い、東西二箇所の門がやられました! 開いた城門からラキトス軍がなだれ込んできています。我が軍は分断されて身動きが取れません。このままでは全滅も時間の問題です!」
「まさか……!」
 呻いたきり後が続かない。
 ラキトスの王女が悠然と微笑んだ。
「わたしたちが本命で、暴動は目くらましだと思いましたか? 残念ですが、どちらも本命です」
 そう、リューオたちの目的は、決して内側からカンザを掻き回すことだけではなかったのだ。
 ラキトス軍本体とは別にひそかにクィーゼを発ったリューオらは、カンザを前にさらに二手に分かれ、まず一方がリューオの案内で地下道を通って王都各所に潜入した。彼らは暴動の火種となり、混乱に乗じて内側から城門を開け、そこへ待機していたもう一方の部隊が突入する。さらに、リューオと少数の精鋭で王宮に直接乗り込んでヴァーニを救い出し、カンザ占領軍の責任者の身柄を確保する。
 すべての暴動は、王宮の警備を手薄にするだけでなく、後から突入した部隊に対してサウザー軍が秩序だった行動を取れなくなるよう、巧妙に計算されたものだったのだ。
 まず内側から穴を開けた上でだめ押しの一撃を加える。堅牢な城塞都市であるカンザを短時間で陥とすために、カーヴァルが考案した作戦だった。
 つまり、ウェンレイが考えたよりはるかに多くの人数が、この作戦には投入されていたのだ。リリズに向かったカーヴァルが積極的に“義勇兵”たちを受け入れたのは、宣伝効果(デモンストレーション)であると同時に、表面上の兵力を嵩ましすることによって戦力の分散を悟られにくくするための偽装(カムフラージュ)でもあったのである。
「降伏を宣言なさい。それとも、最後の一兵になるまで戦い、無意味な屍の山を築きますか」
 リューオの声にあるのは、勝者の余裕ではなく、むしろウェンレイが短慮を起こすことを厳しく先制する響きだった。
 ウェンレイとて、悲壮美に酔って勝ち目のない戦いを続けることがいかに馬鹿げているかよくわかっている。それに、彼の指揮下にあるのは、主君であるユンギルから預かった兵である。無為に損ね、これ以上ユンギルの信に背くわけにはいかなかった。
 苦渋の決断ではあったが、他に選択肢は存在しなかった。ウェンレイは降伏を宣言し、かつて一夜にして陥落した王都カンザは、一日をもって再び主の名を回復したのだった。


          *

 王女帰還。
 その知らせは、サウザーの占領下から解放されたカンザ市民に、より一層の熱狂をもって迎え入れられた。
 あの血の一夜の翌日、国王と王子の首級は王宮の門に高々と晒され、王女の行方は知れず、多くの者はラキトス王家はもはや絶えたと諦めていたのだ。だが、王女は生きてクィーゼに辿り着き、兵を率いて彼らを救いに戻って来た。
「今までほとんどお姿を拝見したこともなかったが、頼りになる王女様じゃないか」
 人々はそう語り合い、口々に王女セフィアの名を讃えた。
 王都解放から二日目にあたる日、カンザの中心部を貫く大通りは多くの市民で溢れていた。これから、南のリリズに残るサウザー軍を討つべく、王女が軍を率いて出陣するのだ。皆、その王女の姿をひと目見ようというのである。
「せわしないことだなぁ。我々を救ってくださったばかりだというのに、もう出発なさるのか」
「なあに、ヴァーニ将軍もフェレイ様もおられる。王女様がお出でになれば、サウザー軍なんぞすぐに追い払われちまうさ」
「おい、来たぞ! セフィア様だ!」
 道の向こうから姿を現した騎馬の隊列に、大きな歓声が上がる。
 石畳の道に重々しく響く蹄の音と、陽光にきらめく騎士たちの甲冑。掲げられた軍旗に、蔦と鷲を象ったラキトス王家の紋章がひるがえる。
 王女が率いるのは、クィーゼから行動を共にしてきた別働隊と、捕虜として囚われていた王都駐留軍の生き残りだ。かつて歴代の王たちが大軍を率いて遠征に赴いた際の壮麗さには及ばないが、この道をサウザー軍が闊歩する光景を目の当たりにした市民たちにとっては、これ以上なく頼もしく、そして輝かしい行軍であった。
 むろん、彼らの歓声がひときわ高くなるのは王女が目の前を通ったときである。
 隊列の中ほどで月毛の馬を進める王女は、しなやかな肢体をうつくしい銀の鎧で包み、素顔をそのまま陽光の下にさらしている。結い上げた栗色の髪には飾りひとつないが、凛とした表情と強くきらめく青灰色の双眸が、どんな宝石よりもその存在を際立たせていた。
 そのすぐ後方を守る位置で黒馬にまたがっているのはヴァーニ将軍で、彼もまた王女に劣らぬ歓声を受けていたが、市民に歓迎される王女を見守る彼の心境は、彼らほどに単純ではなかった。
 ヴァーニは最初、この出陣パレードで王女が顔を見せることに反対したのだ。もちろんそれは、ラキトス王家の娘は人前に素顔をされさないという慣習以上の意味においてである。
 カンザを取り戻し、秩序の回復、投降したサウザー兵たちへの対処、軍の再編成など山積した仕事に奔走する傍ら、ヴァーニが常に気に懸けていたのは、リューオが兵士や諸官に対し、セフィアとして接し続けていることだった。
 これまでにも何度となく彼女はセフィアの身代わりを務めてきたが、いくらなんでも期間が長く、何より人々と直に接しすぎている。何か意図があってのことだろうと自分に言い聞かせてはいたのだが、出陣の際に王女が民衆に顔を見せる予定だと知るとさすがにこらえきれず、周囲に人気のないときを見計らって旧知の友人をつかまえ、懸念を口にした。
「出陣のパレードに王女のお姿が必要なのはわかる。だが、いくらなんでもやりすぎではないのか。これではリューオどののお顔を、民衆は王女として認識してしまう。セフィア殿下がこちらにお出でになられるならともかく、そうでないならでせめて兜かベールをお召しになっていただくべきだ」
「いいじゃねえか。姫君の顔くらい、もったいぶってないでいくらでも見せてやりゃあいい。そのほうが皆も喜ぶ」
「そうではなく、私が言っているのは……」
「だから、あのお姫さんがセフィア王女なんだよ。ヴァーニ」
 ヴァーニはしばらくまじまじとフェレイの傷跡のある顔を凝視していたが、その言葉の意味を理解するにつれ、信じられないというように目を見開いた。
「フェレイ、それは一体どういう……」
「ややこしい話なんだが」
 そう言って頭を掻いたフェレイが語った内容を、ヴァーニはできるだけ冷静に聞いたつもりだった。しかし、やはり完全に平静ではいられなかったらしく、つぶやいた声はかすれていた。
「エルダどのが、まさかそこまでなさっていたとは……」
「カーヴァルから聞いただけなら、あの御仁がまた何か素っ頓狂なことを思いついたもんだと呆れりゃ済むところだが、生憎、エルダの婆さんの死に際の告白を直接聞いたのが俺でね」
 フェレイは広い肩をひょいとすくめた。
「正直に言わせてもらうと、この歪みを正したことが最善だったのか、俺にはわからない。もともと王女とその影武者のこともよく知ってたわけじゃねえし、死んじまった嬢ちゃんとは、結局クィーゼでも直接口をきく機会はなかったしな。目の前に現れたほうが王女本人だと言われれば、はいそうですかとうなずくしかない。ただ、あのお姫さんは、これまでのことも全部受け入れた上で、この国を守ろうとしている。その覚悟がある。それで十分なんじゃないか。少なくとも俺はそう思う。実際に王家の血を引いているかどうかってことを抜きにしてもな」
 そこまで言って、フェレイはわずかに苦笑した。
「まあ、どっちもよく知ってたおまえはそう簡単に割り切れるもんじゃねえとは思うが」
「…………」
 違う、とヴァーニは思った。
 自分の胸の内にある複雑な感情は、フェレイが考えているような、主君だと考えていた相手がそうでなく、忠誠心を向けるべき対象が変わってしまったことへの戸惑いだけではない。
 あのとき、地下牢に現れたリューオの姿を見て覚えた安堵。牢の中で自分が無事を願っていたのは、本当は誰だったのか。正面から向き合ってこなかった――あえて向き合うことを避けてきた、それらの心の動き。
 無意識に真実を見抜いていたのだと誇る気にはなれない。最初からリューオにこそ王女たる資質を見ていたというのなら、それは侮辱であり、裏切りだ。
 セフィアへの。この日、この話を聞くまでは、確かにヴァーニとっての「王女」であった少女への。
 それは、彼が主筋たるセフィアを軽んじていたという意味に他ならないのだから。
「セフィア様は……最初から、すべてをご存じだったのだな」
「そうらしい」
 うなずいてから、フェレイはちらりとヴァーニの表情を見やって言った。
「正解にしてやれ」
 そっけないくらいに淡々と。
「エルダの婆さんの考えもあのお嬢さん方の歩いてきた道も選択も、何が正しくて何が間違いなんだか、ねじ曲がりすぎてもうわかりゃしねえ。だったら、結果を“正解”だったことにしちまうしかねえだろう。俺たちにできるのは、せいぜい残った姫さんを支えてラキトスを守って、最終的な答えを最善に近づけることだけだ。あのお嬢さんのしてきたことをすべて無意味にしたくないなら、なおさらな」
「そうか……確かに、そうだな……」
 つぶやきながら、ようやくヴァーニは理解した。とうに「王女」と呼ばれることを受け入れていたリューオが、ヴァーニの目にはセフィアの影武者を務めていた彼女とまったく変わらずに映っていた理由が。
 リューオにとって、どこまでも「セフィア」は「セフィア」でしかないのだ。それは責任から逃れようとする意識ではなく、フェレイが言ったように、どうしようもない、すでに歩んできてしまった道をすべて認め、受け入れた上での決意と覚悟だ。
 リューオはセフィアに刺された際、一切抵抗をしなかったという。彼女が「セフィア」を心から慕い、楯となる己の役目に誇りさえ抱いていたことを、ヴァーニはよく知っている。そのリューオが「セフィア」の名を継ぐことを受け入れるために、どれだけの痛みや苦しみを抱えなければならなかったか。それはヴァーニがもういない「セフィア」に対して抱くやるせない気持ちなどとは比べ物にならないだろう。
「俺は事実を知っていて、なおかつ同じ城にいながら、結局カーヴァルのふざけた“実験”とやらを止められなかった。いずれ避けられない破局であったとしても、もっと別の形を取ることもできたはずだ。それがあんな、最悪に近い形で起こっちまったことは、俺にも責任の一端がある。やれるだけのことはやらせてもらうさ。でないと後味が悪くて仕方ねえ」
「やれるだけのことを、か。簡単そうに聞こえるが、本当は、それが一番難しいのだろうな」
 だから価値があるのさ、とフェレイは笑った。
 それから一度だけ、ヴァーニはこのことについてリューオと話をする機会を得た。と言ってもヴァーニが問い質したのではなく、リューオのほうから彼を呼び出したのだ。リューオは自分の口からすべて説明するつもりでいたらしかったのだが、すでに彼がフェレイからすっかり事情を聞いてしまったことを知ると、わずかに苦笑して話が遅くなったことを詫びた。
「この戦が終わったら、クィーゼへ、私もお会いしに行って構わないだろうか。セフィア様に」
 その言葉にリューオは驚いたように顔を上げ、やがて静かに微笑んでうなずいた。
「お喜びになると思います、きっと」
 すべて知った上で、ヴァーニが「彼女」をセフィアと呼んだこと。それが目の前の少女をこんなふうに微笑ませたのだと、ヴァーニにはわかっていた。そして、その意味でその名を口にするのが、これで最後だということも。
 以来、ヴァーニは一度も「リューオ」の名を口にしていない。「セフィア」という名は、今はもうリューオ自身の名前となったのだ。取り戻したのではなく、受け継いだものとして。
 今、ヴァーニの前を騎乗して進むのは、紛うかたなき「ラキトスの王女」なのだ。
 人々の歓声に送られて城門を出ると、行軍は途端に速度を上げた。市内での堂々と落ち着いた行進は、ラキトス軍の健在な姿を強調する必要があったのと、沿道に詰めかけた民衆を跳ねとばすわけにもいかないという配慮のためであって、実のところ、それほど悠長にはしていられないのだ。予定通りにことが運んでいれば、リリズへ向かったカーヴァルたちがそろそろユンギルの軍と戦端を開いている頃合いだ。リューオたちも、一日でも早く彼らに合流しなければならない。
「おまえ、着たままで平気なのか、それ」
 馬を寄せてリューオに声をかけたのは、それまで仏頂面で黙々と馬を進めていたレオンだった。ようやく見せ物としての役目から解放され、せいせいした表情をしている。
 レオンが指摘したのは、リューオが身につけている鎧のことだった。もともと機動力を重視したラキトスの騎士はそれほど重装備ではなく、リューオが着ているのも、袖のない鉄衣と手甲という組み合わせのごく簡略な軽鎧だ。とはいえ、慣れない者にとってはやはり重く、体力を消耗する。リューオなど、慣れないどころか生まれて初めて武具とういものを纏ったのだ。負担にならないはずがない。
 しかし、リューオは首を振って答えた。
「平気。とても軽いし、思ったよりずっと動きやすいの」
 虚勢ではない証拠に、速度を上げてもリューオの手綱さばきは少しも乱れていない。もともと乗馬が得意だということもあるが、実際にそれほど負担を感じていないのだ。
 当初、専用の武具を持たないリューオに関しては、本人もヴァーニも小柄な騎士見習い用のもので間に合わせるつもりでいたのだが、それを知った式部官たちが恭しく持ち出してきたのが、このひと揃いの鎧だった。
 王宮の奧にひっそりと保管されていたそれは、すでに先代となったセフィアの父ロジオン王から五代遡った王の御代に姫将軍と呼ばれ自ら兵を率いて戦った王女ジルヴァのものであるという。王女を極力表に出さないラキトス王家にも、やはりこのような例外は存在するのだ。彼女はすぐれた女騎士であり、いくつもの戦を勝利に導いただけでなく、後年、戦場を退いた後には施療院を整備するなどして多くの平民、特に貧民の救済に努めたと伝えられており、今でも多くのラキトス人に慕われている。
 兜を含めたそれらの武具は手入れが行き届おり、まったく古さを感じさせず、ジルヴァ姫も小柄な人であったのか、月のように輝く銀の鎧はまるでリューオのために作られたかのようにぴたりと身体に合っていた。
「なるほど、さすがにいい物を持ってるな、ラキトスは」
 感心したようにレオンはいい、それから口の端に皮肉な笑みを浮かべた。
「しかし、姫将軍のご加護とはまた大したプレッシャーだな。これで武勲がパッとしなきゃ、盛大なため息の嵐だぜ」
「プレッシャー? 馬鹿を言わないで」
 リューオはまるで動じずにふふんと笑う。
「実戦に関してはお飾りでしかない人間がそんなものを感じて何か意味があるの? プレッシャーがかかるのは実際の指揮を取るヴァーニ将軍やカーヴァルであって、わたしではないわ」
「おい、おまえな……」
 いっそ潔いほどの無責任発言にさすがのレオンも呆れた様子を見せたが、構わずにリューオは続けた。
「もちろん勝たなければならないけれど、戦闘を行って勝利を収めればそれですべて終わるというわけじゃない。わたし自身の役目は、もっと別のところにある。そうでしょう?」
 個々の戦に勝利し、武勲を立てるのは臣下の役目。そして、その結果を引き受け、国を守っていくのが主君の務め。自明の理ではあるが、それは果たしてエルダから教えられたことなのか、この少女が自分自身で導き出した結論なのか。
 どちらにせよ、その言葉は単なる観念的なものに留まらず、今まさに臨もうとしている戦においてすでに勝敗以上の何かを想定している響きがあった。
 へえ、とレオンはつぶやき、面白そうににやりと笑った。
 王女を戴くラキトス軍は、街道に砂塵を巻き上げ、一路リリズを目指す。


          *

 ダーシェン大神殿の最上層に位置する、巨大な聖堂。そのドーム状の高い天井に、甲高く上擦った声が響いた。
「どういうこと? サウザーの優位は、これでことごとく覆されてしまったじゃないの!」
 白と青を基調にした神殿の中にあって、それだけが異質な存在感をたたえている漆黒の玉座。黒曜石で作られたその至高の御座に身をゆだねているのは、ほんの十一、二歳に見える銀の髪の少女だ。
「ユンギルは一体何をしているの!? 約束をしておいて……あんなに、他の誰より可能性を持っていたくせに……!」
 肘掛けの部分をつかんだ指が震えているのは恐れのためではなく、激しい怒りと苛立ちのせいだ。
 王女の軍がリリズでカーヴァルらと合流すれば、ラキトス軍の総数はユンギルの兵力を上回る。ダーシェンの協力によって手に入れた王都をみすみす奪い返され、せめてイズアラ平原に到達したならともかく、リリズなどという中途半端な土地で追いつめられる羽目に陥るとは。
「ユンギルと戦いながら同時にカンザも取り戻すなんて、そんな馬鹿な話がある!? この状況で兵力を割いて、どちらも成功させようなんて都合のいい話……! どうしてカンザが陥ちるの。どうして! リューオの考えではないでしょう? あの娘はそんな馬鹿でも、図抜けた策略家でもないはずだもの」
「カーヴァルという者の発案のようです。傭兵上がりの、たいそう頭の切れる将であると」
 片膝をついて恭しく答えるのは、オルジアンという名の高位神官だ。神殿長補佐の筆頭を務める有能な人物であり、口調も表情も落ち着いているが、声高にわめきちらすナーエへ向ける目には隠しきれない危惧の色が浮かんでいる。
「カーヴァル、あの男……! 余計なことばかりして……!」
 頭を押さえて呻くようにつぶやき、不意にナーエはキッと顔を上げた。なめらかな白い額にはうっすらと汗がにじみ、薄紫の瞳はぎらぎらと異様な光を放っている。
「あなたもよ、イアス!」
 その言葉に、オルジアンをはじめ、控えていた他の神官たちも驚いたように振り返った。
 いつからそこにいたのか、大神殿の最高幹部である彼らにすら悟らせずに聖堂の入り口に立っていたのは、彼らと同じ神官服に身を包んだ青年だった。色の抜けたような薄茶の髪と、淡いを通り越して白に近い水色の瞳。それは単に色素が薄いというより、奇妙に不自然な色彩だった。風化し、褪せて、崩れて消える直前のような危うさ。オルジアンは特に、見る度にその印象を強くする。
「おや、見つかってしまいましたか。こっそり紛れ込んでいたつもりだったのですが、さすがナーエ様」
 緊張感のかけらもなくイアスはにこりと笑い、ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる。
「捕まえて、オルジアン! あの男を縛り上げてこの神殿の奧に閉じこめてしまって! 何もできないように。余計なことなんてひとつも。おとなしくしていればいいのよ、イアス、あなたなんて……!」
「なかなかどうして、ずいぶん嫌われたものですね、俺も」
 息を切らして睨みつけるナーエにも、イアスは動じない。
「お加減がよろしくないようですね、ナーエ様。少しお休みになられたほうがいいのでは? こんなときにまで無理をなさったら、お身体に障ります」
「うるさい! あなたには関係のないことだわ!」
 叫んだ拍子に激しく咳き込む。口元を押さえた手を、ナーエはすぐにきつく握りしめた。その内側に隠したものを誰にも見られまいとするように。
「ナーエ様」
 耐えかねたように別の補佐官が口を開いた。
「いっそ、そのリューオという娘を攫って参りましょう。ナーエ様がここまでの道筋を引かれたのです。今王女を失えば、ラキトス軍は動揺し、そこにサウザーがつけ込むことができれば勝機はありましょう。王女とて、その身に背負う使命の重大さを知れば、ナーエ様のお言葉に否やとは申しますまい。これ以上お待ちになることはございません。もはや……」
 真摯な言葉だったが、ナーエは最後まで聞かなかった。パニックを起こしたように激しくかぶりを降り、金切り声で叫ぶ。
「だめよ。だめ。そんなことではだめ。早くラキトスを滅ぼして。その名前を地図の上から消してしまって! そうでなければだめなの。二度と立ち上がれないように、完全に叩きのめすのよ!」
 ナーエ様、といくつもの声が呼びかける。少女は漆黒の玉座にぐったりと寄りかかり、せわしく浅い呼吸を繰り返していた。大きく見開かれた薄紫の両目は、しかし目の前の何も見ていない。長い髪を鷲掴みにした両手――その銀色の髪の一部を汚す赤い色は、先程手のひらに付着した血が擦れたものだ。
 立ち尽くす神官たちの中、一歩進み出たのはイアスだった。幼い姿をした最高指導者を見つめる双眸は、静かでありながら、他の誰よりも強い光を宿していた。
「ご自分の目的のためにラキトスとサウザーの罪なき国民(くにたみ)が血を流し殺し合うことを、あなたが真実お望みであるはずがない。このようなやり方は、何よりあなた自身をも傷つけるばかりです。他にも方法はあります、ナーエ様。必ず間に合わせてみせます。ですから……」
 痛みをこらえるような表情で、イアスは少女の震える指に手を伸ばす。しかし、その手は途中で別の手に掴まれた。
「イアス正三位」
 ふたりの間を遮るように立ったオルジアンは、イアスの手首をつかんだまま、厳しい眼差しを向けた。
「そなたのそういった行動がなおさらこの方を追いつめていると、まだわからないのか」
 イアスはキッと顔を上げた。整った穏やかな容貌に鋭い怒りの表情がひらめいたが、それは一瞬のことで、黙ってオルジアンの手を振り払うと慇懃に一礼して引き下がった。とはいえ、それは自分より位階の高いオルジアンに従ったというよりは、目の前の少女の状態に配慮しての行動のようだった。
 ナーエはふたりのやりとりも聞こえていないように、頭をかかえてうなだれている。
「ナーエ様をご寝所へ」
 オルジアンは世話役の巫女たちを呼んでそう指示し、さっさと踵を返して立ち去ろうとしていたイアスを呼び止めた。
「待ちなさい、イアス正三位」
「まだ何かご用ですか? 聞く気はありませんけど」
「そなたをダーシェンから出すわけにはいかない。神殿長のご命令だ」
「あんなのはただのうわごとですって。そういうことにしときません? そのほうが、みなさんも仕事が減って楽でしょう?」
 オルジアンはイアスの軽口にはつき合わなかった。
「いっそあのとき生命を落としていたほうが、そなたにもナーエ様にも幸いだったかもしれんな」
「皮肉ならともかく本気で言わないでください。さすがの俺もへこみます」
 その言葉への返事はなかった。空間が閉ざされる。束縛などという生易しいものではない。オルジアンと神官たちの手が虚空から杖をつかみ取り、一斉に床に打ちつけた。
 高い耳鳴りと、白い床を走る金色の光。
 イアスは目を細めた。薄い水色の双眸が剣呑な光を帯びる。
「仕掛けてきたのはそちらですからね。修繕費に関しては、俺は一切責任を持ちませんよ」





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