月と太陽の螺旋
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第六章 片翼の飛翔

 豊かな森と湖沼地帯、肥沃な平野を有するラキトスは、その恵まれた環境ゆえに常に近隣国に狙われ、戦の絶えない国ではあったが、勇猛な軍隊とすぐれた戦略的外交によって幾度となく侵略の手を退け、大きく領土を奪われることもなく戦乱の世を生き延びてきた。
 しかし、この年の夏の終わりに隣国サウザーの奇襲を受け、王都カンザを奪われ、さらには王と王子を一度に討ち取られるというありうべからざる出来事によって、その歴史はいささか喜ばしくない方向転換を余儀なくされた。
 かつてない国の存続の危機に立たされたラキトスに残されたのは、若干十七歳の王女ただひとり。
 その王女セフィアが王都奪還を掲げて挙兵宣言を行ったのが、その秋のことである。


 ラキトスの東部に位置するクィーゼには、兵を率いた領主や名のある騎士たちが次々と到着しつつあった。普段は静かな城も、今は大勢の兵士たちで活気に溢れている。みな、セフィアの布告に応じて集まってきた者たちだ。
「やはり御旗の有無は大きいか……」
 色素の薄い瞳でその様子を見下ろし、誰にともなくつぶやいたのは、淡い茶色の髪と水色の瞳を持つダーシェンの青年神官である。
 実のところ、こうしてラキトスに残された兵力が集結しつつあるのは、彼の貢献によるところが大きい。セフィアの毒刃を受けたリューオの生命を救い、その後失踪した彼女の居場所を見つけ出した彼の働きがなければ、今のこの状況はなかっただろう。
 リューオを助けたことが間違っていたとは思わない。だが。
(果たして彼女をラキトスの陣営に戻したのは正しかったのか)
 事態は順調に進み始めたように見え、そしてそれはまったくの事実であるのだが、あくまでラキトス側から見ての話だ。サウザーにしてみれば、イアスの行動は余計な真似でしかないだろう。そして、サウザーの目的は、彼の所属するダーシェン大神殿、ひいては神殿長ナーエの目的と一致する。少なくとも当面においては。
 つまり、リューオは無事に生きてさえいれば、ここには戻らないほうがナーエの思惑には沿っていたのだ。
 多少不利な状況になったところで、ナーエがリューオを諦めることはあり得ない。だとすると、自分の行動は事態をややこしくし、最終的な戦乱の犠牲を大きくしただけではないのか。
 そこまで考えて、イアスは葛藤を振り払うように首を振った。
 違う。そうではない。ナーエの意図には沿わないほうが良いのだ。目的を達成させてはならない。何よりも、ナーエ自身のために。
「ナーエ様も、もう少し俺を信じてくださらないと」
 俺はもう、あのときの無力な子供ではないのですから。
 つぶやいて、イアスは誰にも見咎められることなくそこから姿を消した。


 王都カンザ陥落から、季節はまだひとつしか交替していない。より正確に言うなら、終わりかけていた季節が次の季節に主役の座を譲り渡しただけだ。その短期間に、戦局は大きく動いていた。否、サウザー軍の勢いがとどまるところを知らず、すべてにおいて後手にまわっているラキトス勢がなすすべなく後退を余儀なくされているという点において、事態は進行し続けているのであって、変局とは呼べないのかもしれない。
 カンザを本拠地としたサウザー軍はまず、すぐ西のオレーン地方に牙を剥くと、領主軍の抵抗を紙のように食い破って勝利をおさめ、その勢いのまま南下してリリズ地方に襲いかかった。
「リリズはまだ完全に敵の手に落ちたわけではありませんが、すでに趨勢は決しているも同然です。時間の問題でしょう」
 優雅さすら感じさせる仕種で、カーヴァルの指が地図の上をすべる。リューオは唇を噛んでその説明に聞き入っていた。青灰色の双眸は、黒髪の城主が示す場所にじっと注がれている。
「オレーンが……。領主のブラウ卿は?」
「亡くなったようです。敵との交戦中に命を落とされたと」
「そう」
 うなずいたリューオの声は、あくまで平静の域を出るものではない。レオンがちらりとその横顔を見やったが、口に出しては何も言わなかった。
 このとき、臨時の司令室となったクィーゼ城の一室には、リューオ、カーヴァルを筆頭に、主立った指揮官たちが顔をそろえていた。カーヴァルの説明を引き取るように、その中のひとりが口を開く。
「今のところ、サウザー軍は反時計回りに制圧を進めているかたちになります。リリズを落としたら、次は間違いなくイズアラ平原でしょう。むしろ、最初からイズアラを手に入れるのに最も効率の良いルートを選んでいると言っていい」
 発言したのは、王国騎士団のウィンガー分団長シュトラッドだった。ウィンガー砦に根拠地を置き、東の国境の防衛にあたる分団を率いる彼は、最低限の人員と副官を現地に残し、部下を率いてリューオのもとに参じたのだ。
 国境にあって数々の死線をくぐってきた歴戦の戦士であるはずなのだが、シュトラッドはまるでそういった雰囲気を感じさせない。隆々とした筋肉をほこるわけでも、レオンやカーヴァルのような均整の取れた長身というわけでもなく、むしろ体格は貧弱に見えるほどだ。その上、眠そうな目とおさまりの悪い髪はいかにも冴えない印象で、副官と並んで立つと、階級を逆に見られるどころか、単なる従者だと思われることもしばしばだともっぱらの評判である。
 今も彼はごくのんびりとした口調で発言したのだが、その内容は重要を極めた。イズアラ平原は「ラキトスの食糧庫」と呼ばれる最大の穀倉地帯である。奇しくも収穫を終えたばかりの時期であり、これを奪われれば、サウザーはカンザに匹敵する巨大な補給地を得ることになる。ラキトス軍にとっては大きすぎる打撃だ。
「ここで止めなければ」
 つぶやいたリューオにカーヴァルもうなずいたが、単なる同意には留まらなかった。
「たとえユンギル王子の軍を一戦のもとに葬ったとしても、サウザー軍にはまだカンザがあります。残存兵力は少なくとも、城門を閉じ防戦に出られては、大軍をもってこれを包囲したとしても攻め落とすことは容易ではありますまい。その上、敵は城内のカンザ市民のことごとくを人質とし、見せしめに虐殺を行って我々を脅迫することもできる」
「そのようなことはさせられません」
 するどく顔を上げ、きっぱりとリューオは言い切った。その視線を受けて、黒髪の城主は淡々と言を継いだ。
「ゆえに、一軍をもってユンギル王子の進軍を阻むと同時に、カンザを解放して退路を断ち、その上で一気にこれを打ちます」
 唖然とした空気が流れた。彼らにとって、カンザの奪還は最大の目的ではあったが、それゆえに困難を極めるであろうことも知悉しているのだ。カーヴァル自身の口からも、つい今し方それが語られたばかりではないか。リューオの後ろに控えるレオンとシュトラッドだけが、興味深げな視線を傭兵上がりの男に向けている。
「しかし、どうやって王都を取り戻すってんです?」
 いち早く立ち直って尋ねたのは、カーヴァルの補佐役であるフェレイという男だった。真向かいのシュトラッドとは対照的な堂々たる偉丈夫であり、頬には大きな傷跡がある。飄々とした態度と愛嬌のある目もとのせいで、不思議と威圧感を感じさせないが、この大男がひとたび武器を取って戦場に立てば、すさまじい破壊の嵐を巻き起こすであろうことは想像に難くなかった。
 彼の言葉に、一同も気を取り直したようにカーヴァルに目を向けた。
「カンザにはヴァーニ将軍が捕虜として囚われているという噂があります」
 直接の回答にはなっていない言葉だったが、幾人かがうなずいた。
「ヴァーニ将軍が生きているのですか」
 声を上げたのはリューオだ。王女の囮となったリューオについた騎士たちは、彼の部下だった。王都防衛の責任者であったヴァーニは、指揮官としての手腕と重厚な人柄の双方において信頼のおける人物であり、国王の信任も厚く、兵士からの人気も高かった。あの夜も、彼の采配があったからこそ、リューオもセフィアもカンザからの脱出をはかることができたのだ。
「いくつかそれを裏付ける情報も上がっておりますし、事実と見て間違いないでしょう。私がサウザーの指揮官であったとしても、みすみす死なせはしません。ヴァーニ将軍のような重要な人物を、戦闘中に倒したというならともかく、一度捕らえておきながら何ら活かすことなく処刑や拷問で殺すようなら、ユンギル王子もたいした器量ではない」
 実際、ユンギルはヴァーニの処遇の重要さをよくわきまえていたし、サウザーの若い王子は少なくともこの点についてはカーヴァルに落第点をつけられずに済んだわけだが、当人がそれを知ったところで喜ぶかどうかは定かでない。
「しかし、この際はユンギル王子どのの見識を、逆に利用させていただきましょう。そして、セフィア殿下。王都解放の成否は貴女さまにかかっております」
 小さからぬざわめきが起こった。この場に集まっている者の大半は、リューオがどのような人間であるか知らない。王女を主君と仰いで参じたとはいえ、宮廷にも滅多に姿を見せることがなかった深窓の姫君にラキトスの象徴として以上の期待を寄せようなどとは考えてもいなかったのである。
 リューオの肩もかすかに強張ったが、青灰色の瞳に怯む色はなかった。カーヴァルが己に求めているであろう役割を半ば予想しつつ、挑むように見つめ返す。
「いいでしょう。あなたの作戦案を聞かせてください」


 会議が終わった後、クィーゼ城の中庭を歩くふたりの武人の姿があった。片方は一目で戦士とわかる、頬に傷跡のある大男で、もう片方はうだつの上がらない青年学者ふうの人物である。言わずと知れたフェレイとシュトラッドであった。
「おまえさんもとうとうウィンガーから出てくる羽目になったか。かの“ウィンガーの居眠り隊長”どのも、今回ばかりは重い腰を上げざるを得なかったようだな」
「いえ、実はこちらには適当な指揮官をつけて私は砦に残るつもりだったのですが、親愛なる我らが副分団長に蹴り出されてしまいまして」
 それが冗談ではなく心からの本音であるところが、シュトラッドのシュトラッドたるゆえんである。
「フォールセンは内乱でもう二、三年は戦争どころじゃないだろう。おまえさんがしばらく砦を留守にしても心配はなかろうよ」
 フォールセンは、ラキトスの東の国境を接する国である。昨年から王位をめぐった内紛が続いており、侵略戦争どころではなくなっているが、それまでは頻繁に国境を襲い、その度にウィンガー騎士団に撃退されていた。“居眠り隊長”などというとぼけたあだ名のシュトラッドにしてやられ続けたことは、フォールセン軍にとっては不本意の極みであったろう。
「だからこそです。砦に居座っていれば楽をできたのに」
 ため息をつきつつぼやく。この若い騎士は、このようなとかくやる気のない発言のせいで、その功績にも関わらず宮廷のお歴々から白眼視されがちなのである。本人のほうでも宮廷を敬遠しており、王都での主要な式典の際にも何やかやと理由をつけて滅多に出席しない。
「しかし、楽をしてる間にラキトスが滅んじまったら元も子もないだろう」
「そのときは、さっさと逃げてどこかの山奥にでも隠棲しますよ。晴耕雨読こそ人生の本道です」
「おまえさん、一体何が楽しくて騎士になったんだ」
 至極もっともなフェレイの疑問にシュトラッドが何か答えようと口を開きかけたとき、ざわめきが風に乗って流れてきた。
「どうやら始まったらしい」
 ふたりは足を速めた。これからセフィア王女の閲兵が行われるのだ。
 兵士たちが集まった広場に着くと、バルコニーの上にはすでに王女の姿があった。整った容姿の少女だが、顔立ちそのものよりも、強い輝きを放つ青灰色の瞳が見る者に強い印象を与える。今やこの少女が、ラキトス王家の最後の生き残りなのだ。王都を失い、侵略軍に食い荒らされつつあるこの国の最後の希望でもある。
 王女が言葉を発し、居並ぶ将兵が歓呼の声で応える。その様子を、フェレイとシュトラッドは少し離れた場所から眺めやった。
 広場を包む熱気と、「王女殿下万歳」「ラキトス万歳」の叫びは、半ば以上がサウザー軍への敵愾心に由来するものであり、王女その人への忠誠心は、あくまでも形式的なものに留まる。セフィアは重要な旗印であり、ラキトスの諸勢力をまとめる上で不可欠の存在ではあるが、それはあくまでも象徴としてであり、正統性の裏付け以上の意味を持たないこともまた事実なのだ。
 実際、クィーゼに参集したのは、ラキトスの全戦力とは言い難い。最低限の国境配備や壊滅状態にある王都駐留軍、すでにサウザー軍と矛を交えているオレーン、リリズの兵力を除くとしても、そのうちの七割に達するかどうかというところだろう。それでもよく集まったと見るべきだ。
 残りは要するに日和見だが、一概に彼らを不忠者として非難することはできない。なんといってもラキトスはすでに都を奪われているのだし、不意をつかれたとはいえ、事実、サウザー軍は強い。大陸全土に戦乱が絶えず、王朝の盛衰も目まぐるしい時代である。国は滅んでも人は生き延びなければならないのだから、慎重になるのは当然のことであった。ロジオン王かディオル王子のいずれかが存命であれば、あるいは彼らのうちにも駆けつけた者はいたかもしれないが、頂点に立つのが王宮の奥深くで育った戦も知らぬ小娘とあっては、どうしても求心力は不足せざるを得ない。
 しかし、クィーゼで諸将を迎えた王女は、彼らの抱いていた「か弱い姫君」のイメージとは少々異なっていた。
 先程の軍議の際も、王女は臆することなく歴戦の勇士たちを見まわしてまずこう告げたのである。
「わたくしは戦場に立ったことはおろか、一兵を指揮した経験もありません。国土解放を唱えても、それはあなたがたの力があればこそ。この国のために、どうか力を貸してください」
 高飛車に命じるでも、どうにかしろと喚き散らすでもない。真摯で丁寧な、それでいて毅然とした物腰だった。
 外見とは裏腹に肝の据わったお嬢さんだ――それはかつてオレーンのブラウが抱いた印象であり、当面はフェレイたちにとっても同様であった。
 このように第一印象は良い意味で予想を裏切られたわけだが、主君として忠誠に足る人物であるかはまた別の問題だ。今の歓呼が本物になるかどうかは、今後の彼女次第である。
 そして、そういった観察をする者がいる一方で、王女の揺るぎない態度が、演技は言い過ぎにしても、半ば以上が努力の成果であることを見抜いている人物も存在した。旅の傭兵であり、現在は便宜上、王女の護衛官の立場に収まっている青年、レオンである。
 閲兵を終え、城内のざわめきから外れた窓辺にたたずむ少女の背中に、素っ気ない声が投げかけられた。
「あのとき逃げ出さなければ状況は違っていたかもしれない――なんてことは考えるなよ。無意味だ」
 ひとり思案に沈んでいたリューオはハッとしたように顔を上げた。隣にやってきた傭兵の端整な横顔を見やって、小さく息をつく。
「ええ、わかってる」
 何のことか、とリューオは問わなかった。
 王女セフィア死亡の噂を信じたブラウは、リューオをその身代わりに据えて反サウザー勢力の統一を図ろうとした。それを知ったリューオは、確実なセフィアの消息をつかむためにオレーンを飛び出したのだが、結果として彼女は今、ブラウが意図した通りの立場にいる。そこに到る様々な事情があったとはいえ、どうせ同じことになるなら、最初から自分が彼の提案を受け入れていれば、あるいはブラウは孤軍でサウザー軍と相対することもなく、死ぬこともなかったのではないか。
 たとえあのときに戻ってやり直せるとしても、リューオはその道を選ばない。選べないと、わかっている。そう自覚していても、後悔に似た痛みが胸をよぎるのはどうしようもなかった。ブラウがサウザー軍に敗れたと聞いた瞬間、地図の上に置かれていた少女の手がきつく握られたことに、レオンは気づいていたのだ。
「反省にもならないことで悔やむ暇があったら、これからやるべきことだけ考えろ。悲壮な顔して城の奧に座って戦果を待ってるだけでいい王女さんってのも、世の中にはいるだろうが、おまえはそういうわけにはいかないんだからな」
「そうね……。でも大丈夫よ。わたしはひとりじゃないし、心強い護衛だっているもの」
 静かに微笑んでリューオが答えると、レオンは何とも言い難い表情になって口を閉ざした。何か気味の悪いもののように傍らの少女を見下ろす。
「フェレイはラキトスでも屈指の騎士なの。今はクィーゼの副城司を任じられているけど、ヴァーニ将軍と並んで王国の双璧と称されたこともある人よ。心強い同行者ができて本当に良かったわ」
「…………」
「それに」
 顔を上げたリューオの口元に不敵な笑みが浮かんだ。陽光を受けてきらめく青灰色の瞳に、もう先程までの翳りはない。
「わたし以外の一体誰に、この役割が果たせると思うの?」
 確信に満ちた口調は出会ったときと同じだ。そして今はそこに、あのときはなかった静かな落ち着きがある。
 腰まであった長い栗色の髪は、今は背の半ばで切りそろえられていた。邪魔になるからという理由ではあったが、切った髪の一房が質素な棺に収められ、彼女の半身とともに眠りについたことを思うと、本当の意図がどこにあったのかは明白だ。それについてリューオは何も言わなかったし、レオンもわざわざ言及しようとはしなかった。
「さあ、行きましょう。もうラキトスを掌中に収めたつもりでいるユンギル王子の鼻を明かしてやるのよ」
 王女が身を翻すのに合わせて、護符を飾るアクアマリンが澄んだ光を弾く。
「……こいつを敵に回すとは、サウザー軍も気の毒なこったな」
 やれやれとばかりにつぶやいて、レオンもそれに続いた。


          *

 ラキトス軍接近の報が伝えられたとき、サウザー軍はすでにリリズの城塞を制圧していた。
「王女の軍、というわけか」
 つぶやいたユンギルに、そばに控えていたラクトが淡々と答える。
「はい。しかし、当の王女の姿は陣中にはないようです。おそらく指揮の全権を部下にゆだね、クィーゼに残っているものと」
「それは残念だな。すれ違い続きだったラキトスの姫君とようやくお会いできると思ったのだが、なかなか縁に恵まれないようだ」
 ラクトは一瞬、ユンギルが冗談を言ったのかと思ったが、どうやらそうでななさそうだった。彼の幼馴染みであり主君でもある金髪の若者は、穏やかな秋の陽差しに整った横顔を撫でさせたまま、じっと思案に沈んでいる。
 表面上だけを見れば、セフィア王女は陣の後方に控えて戦の結果を見届けるだけのこともできない、臆病で無責任な姫君である。豊かな王宮の奥深くで真綿にくるまれて育った繊弱な少女ではそれも無理からぬことと言えるが、やはり気にかかるのは、セフィアに浅からぬ執着を見せていたダーシェン神殿長ナーエの態度だ。果たしてただそれだけの人物に、神殿が特別な関心を寄せたりするだろうか。
 セフィアが所在を明らかにし、サウザー軍討伐を呼びかける布告を出したときも、幼い姿をしたダーシェンの長は苛立ちを隠そうともせずにユンギルを呼びつけたのである。
「あなたがもたもたしているからこんなことになったのよ。まんまと王女に再起を許すなんて。クィーゼのカーヴァルは有能な将だというわ。勝算はあるのでしょうね?」
 全力を尽くすことをユンギルは誓ったが、具体的な方策を述べようとせず、必ずと言い切ることもしなかったことがよほど気に障ったらしい。ナーエは癇癪を起こし、一方的に会見は断ち切られた。
 もともと高圧的で、子供じみた言動の目立つ人物ではあった。だが、以前はこれほど感情の起伏が激しくはなかったような気がする。
 ラキトス軍がようやく統一の取れた反撃を開始したからといって、まだサウザー側の敗北が決まったわけではない。ああも取り乱すほど、ナーエは一体何を焦っているのか。やはり鍵を握っているのは王女セフィアなのか。そうだとしても、神殿が望んでいるのは彼女の死なのか、身柄を手に入れることであるのか。
「直接まみえれば何かわかるかもしれないと思ったが……」
「お命じくだされば、私がクィーゼに潜入いたします。神殿との取引材料は、ひとつでも多いほうがよろしいでしょう」
 ユンギルは少し考えてから首を振った。
「いや……一度盟主として立った王女を今さら誘拐などしたら、集結したラキトス勢の結束がより強固になるだけだ。ラキトス軍に抵抗する力がなくなれば、嫌でも顔を合わせることになるだろう。次の戦いが、おそらくこの戦の趨勢を左右する。おまえにはここで私の補佐をしてもらわなければ」
「御意」
「苦労をかけるが、よろしく頼む」
 ラクトは返事をする代わりに、目を伏せて深く頭を下げた。
 この若い王子がどれほどサウザーの貧しさを憂い、民に少しでも楽な暮らしをさせてやりたいと願っているか、ともに育ったラクトはよく知っている。この戦いに懸けた願いも。
「ラキトス軍はあとどのくらいで到着する?」
「五日というところでしょう。数の上では我が軍が有利です」
 ユンギルはうなずいた。
「この砦を陥とすのには苦労させられたが、我々が城壁に依って戦うことはあまり意味がない。五日の間に準備を整え、ラキトス軍を迎え撃つ」


 ラキトス軍はクィーゼからリリズへ向けて進軍を続けていた。王家の紋章が縫い取られた旗をかかげ、陽光に甲冑をきらめかせての堂々たる行軍である。
 すでに里程は半ばを過ぎつつある現在、兵力はクィーゼを進発したときに比べ、ささやかな数ではあるが増強の傾向を見せていた。
 新たに加わったのは、いずれも近隣の町や農村から駆けつけてきた志願兵だ。このまま手をこまねいて自分たちの土地をサウザー軍に踏み荒らされるなど冗談ではない、王女殿下について戦おうというのである。軍列の中に王女本人の姿がないことに落胆する者もいないではかったが、概して彼らの志気は高かった。
 諸将の中には、何の訓練も受けていない農夫の集団など戦力になどなりはしない、それどころか統一された行動のさまたげになるだけだと言って苦い顔をする者もあったが、カーヴァルはむしろ積極的にそういった者たちを受け入れていた。
「要するに、宣伝効果だな」
 眠たげに馬の背に揺られながらシュトラッドがつぶやいた。彼はカーヴァルとともに第一陣を率いて馬を進めているのだが、勇壮な行軍の中で、このひょろりとした青年の周囲だけぽっかりと穴が空いたように緊張感というものが欠落している。錯覚ではあるのだが、馬の歩みまでのんびりしているように見えるのだった。
 彼らの最大の目的は、言うまでもなくサウザー軍と戦ってこれを撃滅することだ。しかし、ただ単純に敵のいる場所まで出向き、剣を交え、勝利すればいいというものではない。いや、結果としては勝たなければならないのだが、そのために打てる策はいくらでも打っておくべきなのだ。
 この場合で言えば、戦場に着いてからはともかく、着くまでに重要なのは、とにかく目立つことにある。大軍が迫っていることをことさらにサウザー軍に見せつけて精神的な圧力をかけ、味方に対しては、その勇姿をもって民の不安を静め、いまだ参集をためらっている者たちの決断を促す。平民たちまでがささやかな武器を手に立ち上がったという事実は、実際の戦力としてはともかく、ラキトス全体を沸き立たせる良いアピール材料になるだろう。サウザー軍にしても、笑って済ませられることではない。
「しかし、数の上ではいまだサウザー軍が有利であることは事実です」
 楽観とはかけ離れた口調でカーヴァルは言い、傍らのいっこう騎士らしくない騎士に問いかけた。
「ユンギル王子らはリリズの砦をすでに押さえているとのことですが、彼らは籠城戦に出ると思われますか」
 カーヴァルは自分より十近く年少であるシュトラッドに対して、表面的なものであるにせよ、慇懃な態度を崩さない。それは礼儀というより政治的な配慮によるもので、ふたりが第一陣を率いているのも、同様の事情によるのだった。
 いくら実力で得た地位とはいえ、カーヴァルは新参者であり、傭兵という無頼者からの成り上がりである。王女を保護した当人であり、今回の作戦の発案者であるという立場上、総指揮を執る権限を賜ってはいるが、当然ながら反発もあるし、風当たりも強くならざるを得ない。
 一方のシュトラッドは、本人のやる気のなさを除けば、少々若いものの家柄も武勲も申し分ない。宮廷人には「理解不能」とやや遠巻きにされているが、案外、兵士の間では人望があるのだ。彼を筆頭に、ラキトスの旧勢力からも信頼が厚く有能な人物を幾人か選び出し、意見を取り入れて丁重に扱うことで、カーヴァル個人への反感をやわらげ、内部に余計な亀裂が入らないようにしているのだった。
 そういった事情はシュトラッドのほうでもそれを諒解していた。特に利用されているとは思わず、むしろ、細かいことに気の回る御仁だと感心しているほどだ。そもそも彼は、そういった駆け引きめいたことが億劫で、国境の騎士団に配属されたのをいいことに滅多に出てこようとしないのである。
 “ウィンガーの居眠り隊長”は、その名の通りのほほんとした声と表情で答えた。
「いえ、それはないでしょう。意味がない」
 何気ない口調で意外にきっぱりものを言うのがこの男の特徴である。
「サウザー軍の目的が我々の足止めであるならともかく、そんなことをしていては自分たちを孤立に追い込むだけです。援軍のあてもなく、さいわい、この秋の収穫も城内に運び込まれる直前でした。そうなれば、我々は悠然と城壁を包囲して、食糧の尽きた敵が耐えかねて飛び出してくるのを叩けばいい。よほど無能な指揮官でなければ、あらかじめ部隊を配置して我々を待ち受け、主導権を握った状態で戦端を開こうと考えるでしょう。カンザを一夜で手に入れたユンギル王子が無能だとは、少なくとも私は思いませんね」
「なるほど。では、奇襲の可能性は? カンザは完全に不意をつかれるかたちになりましたが」
「それもないでしょうね。少なくともしばらくは」
「しばらくは、というと?」
「問題は渡河です。サウザーが何か仕掛けてくるとしたら、まず間違いなくトゥール河でしょう」
 そこまで言ってから、シュトラッドはそれまでとまったく変わらない口調でつけ加えた。
「……と、まあこんなことは、わざわざ私が言うまでもなく、カーヴァル卿におかれましてはとっくに推測済みでしょう。どうです、私の回答は及第点でしたかね」
 他人が言えば明らかな皮肉だが、シュトラッドの口から出ると、なぜか「教師の採点を待つ悪びれない落第生」という雰囲気になるのだった。
 あまり表情を動かすことないカーヴァルも、思わずといったようにわずかに苦笑した。
「いえ、失礼。貴殿を試したわけではありません。むしろ、ウィンガー騎士団長どのが私と同じ見解を示してくださって安心しているところです」
 むろんこれは、自分の意見に自信がなかったからなどという可愛い理由からではない。シュトラッドがカーヴァルに同意してくれれば、その分、指揮もしやすくなるのである。
 その晩、カーヴァルは諸将を集めて具体的な打ち合わせを行った。話し合いを終えて天幕を出たシュトラッドが、くしゃくしゃの髪をかき回しながら、
「ああ、面倒くさい」
 とぼやいたが、見張りの兵士たちが聞かなかったフリをしたので、とりあえず誰も知らないことになっている。


 トゥール河は、リリズとイズアラ平原を隔てて流れる河である。豊かな水量を誇るが、流れが緩やかで川幅に比して水深が浅いため、渡河は比較的容易だ。両岸ともにラキトス国の領土であるため、特に壁や城塞も築かれていない。大きな橋もないのは、小舟での渡しが主な交通手段として用いられているためであった。
 ラキトス軍は悠々と渡河を開始した。馬を乗り入れ、あるいは近隣住民に貨幣を支払って借り受けた小舟に荷を積み、兵士たちが次々と対岸へ渡る。整然と秩序だった行動だが、まだ敵地ではないという認識のためだろう、過度に緊張した様子は見られない。
 何事もなく全軍が河を渡り終え、再度隊列を組み直す。
 それらの様子は、すべてサウザー軍の知るところだった。彼らはリリズの城塞を離れ、ラキトス軍が河を越えてくるのを待ち構えていたのだ。
 ユンギルが突撃の命令を下したのは、ラキトス軍が再び動き出した、その直後のことだった。
 先鋒は槍を構えた騎馬隊である。ラキトス軍めがけ、三方から一斉に突撃する。そろえられた穂先が陽光にきらめき、馬蹄の轟きが大地を揺るがした。
「サウザー軍だ!」
 驚愕の叫び声があちこちで上がる。確かに彼らはサウザー軍と戦うために歩を進めていたのだが、敵がこれほど近くまできているとは思っていなかったのだろう。サウザー軍が野戦を選ぶとしても、今少し砦に近い場所を戦場に設定してくるはずだと、普通であれば考える。
 不意をつかれたラキトス軍は対応が遅れた。隊列を整えたとは言っても、それは移動のためのものであり、敵を迎え撃つ陣形ではない。後退して体勢を立て直そうにも、背後はトゥール河だ。渡河が容易だというのは、それにのみ集中できる場合に限っての話である。この状態でそれを行おうとすれば、混乱と脱落者を大量生産し、サウザー軍の格好の餌食になるのは目に見えている。ラキトスの指揮官が叫んだ。
「進め! 中央を突破して敵の背後に出る!」
 勇敢だとか勇猛だとかいう以前に、それしか取るべき道がなかったのである。
 しかし、さすがというべきか、一度方針が定まれば、ラキトス軍が混乱から立ち直るのは早かった。戦力を一点に集中し、一気にサウザー軍に叩きつける。
 ラキトス軍の反撃は凄まじかった。この突破が成功するか否かに自分たちの命運がかかっているのだから当然である。猛攻を支えきれずに、とうとうサウザー軍の中央付近の一角が崩れた。その一点から、楔を打ち込むようにラキトス軍がなだれ込む。サウザー軍はほとんどなすすべなく分断され、ラキトス軍が目的を達するかに見えた。
 しかし、それは罠だった。突破を許すと見せかけて、サウザー軍はラキトス軍を己の陣中深くに引きずり込んでいたのだ。ひたすら突き進むことだけに集中していたラキトス軍は、自分たちの陣形があまりに細く引き延ばされていることに気づいていなかった。
「今だ!」
 ユンギルが号令をかける。サウザー軍が押されているように見えたのは巧妙な演技だった。もともと兵力はサウザー軍が勝っている。このままラキトス軍を各所で分断し、押し包んで一気に殲滅するという作戦だった。
 もっとも隙が大きくなる渡河の最中を狙うことは、ユンギルも考えなかったわけではない。目的が防衛であればそれで十分だろう。しかし、それではラキトス軍を混乱に陥れ、川向こうに追い払うことはできても、壊滅させることはできない。この“王女の軍”は、純然たる戦力としてだけではなく、残されたラキトス国民の気持ちを挫かせるという意味合いにおいても、徹底的に叩く必要があった。
 作戦は、絵に描いたようにぴたりとはまるかと思われた。
 そのとき。
 背後から迫る鬨の声と馬蹄の響きがサウザー兵たちの耳を打った。彼らがぎょっとして振り向くと同時に、右後方から突如として現れた騎馬の一群が猛然とサウザー軍の右翼に躍りかかった。
「援軍だと!?」
 新たに出現したのは大戦力とは言い難かったが、厄介なことにやたら強かった。いくつかの集団に分かれ、少数の機動力を活かしてサウザー軍に食らいつき、かき回し、深入りせずに傷口を噛みちぎって離脱する。一連の行動があまりにすばやく鮮やかで、とても対応が追いつかない。
 ユンギルの知ったことではないが、これはシュトラッド率いるウィンガー騎士団であった。夜陰にまぎれてひそかに本隊を離れ、あらかじめ下流から回り込んで時機をうかがっていたのである。
「嵌められたのは我々のほうか……!」
 ユンギルは唸った。
 彼の目には、すでに敵の狙いがはっきりと映っていた。シュトラッドにかき回された右翼は秩序を失い、巧みな動きに引きずられて南に移動しつつある。それに合わせて、中央突破しようとしていたはずのラキトス軍本隊がくるりと向きを変え、両側に展開するサウザー軍の南側にだけ激しく攻撃を浴びせ始めたのだ。あらかじめ指示が徹底してあるのだろう、攻撃を担当する者と反対側の防御に徹する者とで明確に役割分担がされている。
 ラキトス軍は、包囲を誘うことで逆にサウザー軍を分断し、各個撃破を図るつもりなのだ。総数対総数では劣っても、半数に対してならその不等号は逆転する。
 ユンギルは決して、ここまでの連勝に驕ってラキトス軍をなめてかかったわけではない。純粋に、今回はラキトス軍のほうが一枚上手だったのだ。
「殿下」
 呼びかけたラクトの声は緊張を孕んではいたが、焦ってはいなかった。ユンギルはうなずいた。
「ここは一旦退いて立て直そう。このまま続けても泥沼になる。いずれ勝てるとしても被害が甚大になっては意味がない」
 作戦を逆手に取られたことも状況の急変も、この金髪の若者から冷静な判断力を奪うことはできなかった。すぐさま全軍に命令が下される。
 取るべき行動さえ決まれば、サウザー軍も動きは早い。力任せにぶつかるのではなく、戦力を一点に集中して、ラキトス軍が完成させかけていた包囲に穴を開ける。ユンギル自ら陣頭に立って退路を確保し、シュトラッドらの猛攻を支えながら味方を脱出させると、そのまま最後尾を守りながら後退を開始した。
 壊走でも敗走でもない、整然と秩序だった退却である。
 ラキトス軍は深追いしなかった。無意味であったし、つけいる隙もなかったのだ。
「こうしてみると、さすがに大軍。こわいこわい」
 部下をまとめつつサウザー軍を見送って、まったく実のこもらない声でシュトラッドがつぶやいた。
「あれに寝返ったラキトス勢が加わったら、もう打つ手がないなぁ」
「隊長」
 近くにいた部下のひとりがさすがに咎めるように――と言うかたしなめるように――声を上げたが、シュトラッドはいいからというように軽く手を振って遮った。それはカーヴァルがやってきたからだったが、聞かれたらまずいというより、単に会話を中断するための合図であった。
「お見事でした、シュトラッド卿」
「まあ、うまく逃げられましたがねぇ」
「こんなものでしょう」
 カーヴァルは落ち着き払って答えた。この段階で勝敗を決することができるとは、もとより考えていないのだ。
「しかし、これほどの相手が背後に潜んでいることに今まで気づかなかったとは。なるほど、カンザが奪われるわけです」
 状況が一転したと見るやすぐさま退却を決めたユンギルの判断を、ラキトス軍の中には慎重すぎるだとか臆病だとか評する声もあったが、それだけに、目先の勝敗にとらわれない広い視野を持っていなければ下せない決断であったと、カーヴァルもシュトラッドも理解している。さらには統率力もあり、兵もよく訓練されている。一筋縄ではいかない相手であることは明白だった。
 皮肉とも冷静な観察ともつかないカーヴァルのつぶやきに、シュトラッドは「戦のど素人まで連れてあれだけの演出をしてみせたおたくのほうが、おれはよっぽどおそろしいね」と呆れ半分に思ったが、その感想は胸の内にとどめた。


 これを発端として、両軍の断続的な戦闘が幕を開けた。
 ラキトス軍が取った戦法は、基本的には緒戦でウィンガー騎士団が行ったことと同じである。とにかく素早く攻撃を仕掛け、ある程度の被害を与えると、包囲される前にさっさと逃げ出す。これを執拗に繰り返してじりじりと消耗を誘い、あわよくばサウザー軍の一部を引きずり出してこれを殲滅する。カーヴァルはトゥール河を渡るのと前後してリリズの敗残兵とも接触を図っており、彼らを案内人とすることでリリズの地形を最大限に利用することができたのである。
 しかし、ユンギルを思惑に乗せるのは容易なことではなかった。サウザー軍は堅実に守りを固め、挑発にもほとんど応じない。冷静に見極めた最大限の反撃には、気を抜けば仕掛けたラキトス軍のほうが足をすくわれそうになる。何度か絶妙のタイミングで一斉攻勢に切り替え、正面決戦に持ち込もうともしてきたが、それは逆にカーヴァルが巧みに防いだ。
 一貫して主導権を握るラキトス軍を動揺させようという目的もあったのだろう。一度、ユンギルはカーヴァルらを無視してイズアラ平原に進もうとする動きを見せた。これに対し、黒髪のクィーゼ領主は「ほう」とわずかに目を細めた他に取り立てて反応は見せなかったが、冷徹な表情とは正反対の激しい突撃を行った。騎士だけで編成した突撃部隊の攻撃は苛烈のひと言に尽きたが、一撃離脱の基本方針は変えず、幾度もそれを繰り返した。強引に進めば、サウザー軍は移動しつつさらに凶悪になった猛禽につきまとわれることになる。「無事にイズアラに辿り着けると思うならやってみろ」という、それは挑発というより脅迫であった。売ったはずの喧嘩がいつの間にか売られた喧嘩になっていたわけだが、むろん、ユンギルは受けて立つような愚はおかさなかった。
「じわじわと戦力を削りつつ、思うように戦闘をさせないことで精神的な消耗も誘います。苛立って統率が乱れればつけ込めばよし、砦に逃げ帰って籠城するというなら勝手に自滅していただきましょう」
 カーヴァルのこの作戦に対するシュトラッドの評価はひと言、
「あくどい」
 であったが、彼の指揮ぶりはラキトス軍中、最も辛辣を極めた。
 なにしろ彼はラキトス東部において「シュトラッドがウィンガーで居眠りをしている限り、フォールセン軍が国境を越えることあたわず」という、絶大かつなんだか微妙な信頼を置かれている男である。本人の希望通りウィンガーで留守番をしていれば、彼も楽をできたが、ユンギルも今少し楽な戦いができたに違いない。
 一向に「まともな防衛戦」をしようとしないラキトス軍によほど苛立ちをつのらせていたのだろう。何度目かの戦闘で、シュトラッドと剣を交わした生真面目そうな若い騎士が、思わずといったように怒鳴った。
「いい加減に真面目に戦ったらどうだ!」
 それは己も一部隊を指揮する身であるラクトだったのだが、彼はシュトラッドをラキトス軍の重要人物と認識した上で文句をつけたわけではなく、シュトラッドのほうでも相手が誰であるかなど知ったことではなかったので、返答はただひと言、簡潔に、
「やなこった」
 であった。もっとも、この分団長の場合は、相手が一兵卒であろうと名のある貴族であろうと態度が変わることはない。
「むしろ、いっそのことこのへんで諦めてさくっと帰っちゃうっていうのはどう?」
「馬鹿を言うな」
 即答された。
「そうだろうねぇ。残念」
 乱戦の中であったので、そこでふたりは互いを見失ってしまったのだが、そのやりとりは近くにいた部下にしっかり聞かれていた。
「隊長、まじめにやってください」
「やってる、やってる」
 誠意のない口調で答えつつ、横から突き込まれた剣を軽くかわす。
 今でこそラキトス軍がサウザー軍を翻弄しているように見えるが、あまり長引けば、ラキトス軍が先に息切れを起こすことになるのは確実だ。縦横無尽に駆け回るということは、その分疲労も大きく、休息も短くなるということだ。サウザー軍のほうも、襲撃への対処を身につけつつある。もともとシュトラッドらの役割は、サウザー軍の戦力を地道に削りつつ場をつなぐことであるから、問題ないといえばないのだが、厄介な持久戦になるのはできるだけ避けたいところだった。
 味方に反転の指示を出し、馬首を返しながらシュトラッドはつぶやいた。
「あとはそちら次第なんですから、よろしく頼みますよ、王女殿下」





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