月と太陽の螺旋
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第十一章 ひとつだけ叶うなら

 忘れてくれればいいと思っていた。
 まだ小さな少年だった。あの月の夜、ここで自分と出会ったことは夢か何かだったと思って忘れてくれればいいと。
 暗示をかけて強制的に忘れさせることもできたけれど、なぜかそれはためらわれた。今となってはもう無理だ。彼の魔術の習熟度は、あの頃と比べて驚くほど上がってしまったから。
 あのときそうしておくべきだったと、何度悔やんだかわからない。
 悔やみながら、それでも、試みることもしなかったのは事実だ。
 たぶん、本当は忘れてほしくなかった。
 とても自分勝手で我が儘で、けれど、本当はそうだったのだ。
 もうとっくに忘れたと思っていたぬくもりを、思い出させてくれた人だった。


 次に彼女に会ったとき、最初に出会った月夜の晩から三年が経っていた。
 あのときと同じ庭園。同じように月の明るい夜。あのときは迷い込んだ道を、今度は自分の意志で選んで辿った。誰にも見つからないよう、細心の注意を払う。行けば会えると思った明確な根拠があったわけではない。けれど、信じて疑わなかった。必ずもう一度会えると。
 そして、彼女はそこにいた。
 美しい銀の髪。最初は月明かりの妖精ではないかと思った少女。
「もうここへ来てはだめだと言ったのに」
 戸惑ったその言葉は、彼女がイアスを忘れていなかった証拠だ。
 それが嬉しくて、けれど同時に胸が締めつけられるように苦しくなる。
 やはりそうだ。あのときは彼女のほうがずっと年上に見えたのに、今はまるで同じくらいだ。身長なら、少しではあるけれどもうイアスのほうが高い。
 この美しい庭園に遊ぶ妖精であってくれたほうがどんなによかったろう。
「きみはナーエ様でしょう?」
 尋ねると、少女の紫水晶の瞳が大きく見開かれた。
 あれからずっとイアスは調べていたのだ。神殿の奥深くで出会った不思議な少女のことを。
 神殿長ナーエの名は、ダーシェンに暮らす者なら誰でも知っている。だが、その人と直接会うことが許されるのは、ごく限られた高位の神官と巫女だけだ。それ以外のほとんどの者たちは、姿を見ることもなければ声を聞くこともない。いまだ正位にさえ上がれていない見習いとなればなおさらだった。
 その見習いでしかないイアスが“ナーエ”の存在に辿り着くのは容易なことではなかった。入ってはいけない場所で出会った、会ってはいけない少女である。誰かに尋ねたりするわけにはいかないことは子供心にもわかっていた。だが、立ち入り禁止の区画に入り込むのも、位階制限のある資料を探し出すのも、イアスの魔力をもってすれば不可能ではなかった。慎重に行動し、三年をかけてようやく結論に達した。あの少女こそが神殿長ナーエであること。そして、ナーエの負う役割とその意味。
 そしてこの夜、イアスはそれを確かめに来た。
「今日も眠れなかったんだね」
 夢を見るのだと彼女は言っていた。どうして夜の庭園にひとりでいるのかと尋ねたイアスに、おそろしい夢を見るのだと答えた。ひどい夢ばかり見る。だから眠るのが怖いと。
 そうして眠れぬ夜の果てに、自分が正気を失うことを彼女は知っていた。いつかずっとこの悪夢に閉じこめられる。わたしはわたしでなくなってしまう。あの暗い闇に飲み込まれるのが怖い。そう怯えて泣いていた。
「もう泣かなくていいんだ」
 イアスはナーエの手を取った。白く華奢な、頼りない少女の指。
 神殿長だからとか、そんなことはどうでもよくて。
「僕がきみを助ける。約束する。だからもう、泣かないで」
 ただ笑ってほしかった。悲しそうな顔ではなく、笑顔が見たかった。それだけだった。

 イアスが考えたのは、ナーエから“滅びの記憶”を分離させ、それを無数の欠片に砕いて世界中にばらまくという方法だった。“大異変”の滅亡の記憶も、神殿の尽力と五百年の歳月によっていくらかは薄れてきている。そしてそれをただ解き放つのではなく、可能な限り細かな破片にして拡散させてしまうのだ。多少の影響は出るにしても、もうこの世界は、破片のひとつひとつであれば受け入れられる程度には回復している。理論的には可能なはずだった。そしてイアスは、自分にならできると思ったのだ。
 ナーエはイアスを止めた。そんなことをしてはいけないと厳しく言った。耳を貸さなかったのはイアスだ。年端もいかない子供の、あさはかな思い上がりだった。
 だから悪いのはナーエではない。すべてイアスが、自分自身の意志で選んでやったことだった。

 結果として、イアスは失敗したのだ。


 三度目の邂逅は、それからさらに一年後になった。その三度目で、ナーエはイアスを失いかけた。
 彼が本気であることはわかっていた。だが、たった十三歳でしかない少年が、まさか本当にナーエと“記憶”の分離を試みることができるまでの力量を備えているとは思いもよらなかったのだ。
 その才能が逆に災いした。ナーエを解放しようとした少年は“記憶”の制御に失敗し、みずからほどこした術の暴走に巻き込まれた。
 当時すでにナーエの補佐官に名を連ねていたオルジアンらがいち早く異変を察知して駆けつけ、事態の収拾にあたらなければ、イアスは確実に命を落とし、神殿にも甚大な被害を及ぼしていたことだろう。
 ぎりぎりのところで助け出されたイアスは、その後の治療によって一命は取り留めたものの、次に目が覚めたとき、それまでとはまったく違う自分と出会うことになった。
 濃い栗色の髪は薄茶色に、夏の夜空のような深い青だった瞳は、ごく薄い水色に変わっていた。
 不自然に色素が抜け落ちるのは“記憶”を受け継ぐノナエたちの特徴でもある。ノナエとなった者は長い年月のうちに少しずつ色彩を失っていくが、耐性を持たないイアスは“記憶”の塊に直接触れようとしたことで、著しくその影響を受けたのだ。
 さらに、記憶もひどく混乱し、自分のしたこともナーエのことも、何も覚えていなかった。
 それでいいとナーエは思った。生きていてくれただけでいい。ナーエという名を、尊称としてではなく本当の名前のように呼んでくれた声も、冷え切っていた手を握ってくれた指のあたたかさも、二度と戻らなくていい。本来であれば、自分には望むことさえ許されないものだったのだからと、そう自分に言い聞かせた。
 だから、目を覚ました彼のことは一度も見舞わなかった。二度と同じ誤りが繰り返されないよう、ナーエの過ごす一画には今までよりも一層厳重に結界がめぐらされた。
 それなのにこの少年は、十年近くも経ってから、何食わぬ顔で再びナーエの前に現れたのだ。
 ずば抜けた才能の持ち主だがサボリ魔の問題児というお墨付きの、従三位神官として。
「お初にお目にかかります、ナーエ様」
 何かしら揚げ足を取って小言を言ってやろうと待ち構えていた上層部ですら認めざるを得ないほど完璧な一礼。生真面目で一途な少年は、背の高い、穏やかで人好きのする青年に成長していた。もっともそれは化けの皮で、神殿には居着かないし上官の命令でさえ気にくわなければ平然と無視する、手に負えない不良神官であったのだが。
 そして彼は、すべて覚えていた。自分の外見が変わった理由も、あの庭園でナーエと会ったことも。あからさまに態度に出すことはなかったが、間違いなかった。彼は何も忘れてなどいなかったのだ。


 演技をしていたわけではない。事件直後、記憶が混乱して何もわからなくなっていたのは本当だ。ただし、その後ならば演技だった。少しずつ記憶が戻ってきたことを隠し、忘れたままのフリをしていた。あれからイアスのことをオルジアンたちが注意深く監視していたので、今後できるだけ自由に動くことができるよう、油断させておく必要があったのだ。
 仕事をさぼって禁書を解読し、あちこちほっつき歩いては“楔”と“支柱”、賢者と弟子たちが“大異変”を鎮めた仕組み(メカニズム)を調べ、重要な地点には布石を打って回った。たまに連れ戻されて説教され、オルジアンには何度も釘を刺された。思えば、彼のほうがナーエよりも早く、イアスの記憶が戻っていることに気づいていたかもしれない。
 そう。イアスはまったく諦めてなどいなかったのだ。
 彼女の苦しみを、終わりにすると決めていた。
 あの日からずっと。


          *

 ダーシェン大神殿の最上層。そこは高いドーム状の屋根と美しい柱の並ぶ壮麗な聖堂であったが、今や壁面の半分近くが跡形もなく吹き飛び、無惨な姿を晒していた。破壊の衝撃はダーシェンの森を覆う深い霧さえ散らしてしまったのか、眼下には深い緑の色をはっきりと見て取ることができる。
 ナーエの悲鳴に共鳴するかのように起こった破壊の嵐は、彼女の座していた背後の壁をことごとく粉砕し吹き飛ばした。永くノナエたちの最期を見届けてきた漆黒の玉座も無数の瓦礫となって床に散らばり、破片のいくつかは崩れた床の縁から転がり落ちていった。もしこの衝撃が反対側に、つまりナーエの正面に向かって放たれていたら、リューオたちも全員跡形もなく消し飛ぶか、宙に放り出され、はるか下の地面に叩きつけられて死ぬかのどちらかであっただろう。イアスやオルジアンでさえ何の手も打つことができなかった、一瞬の出来事だった。
「セフィア姫、ご無事ですか!? どういうことです、一体何が……!」
 真っ先にリューオに駆け寄って無事を確かめたユンギルが厳しい表情で神官たちを振り返った。驚きよりも明確に説明を求める響きが強いのは、この若者が突然の事態にも冷静さを失っていない証拠だった。もっとも、近い未来の伴侶である少女の身にまで被害が及んでいたとしたら、そうもいかなかったかもしれないが。
 オルジアンが口を開きかけたが、答えたのは別の声だった。
「“記憶”が……」
 つぶやくような小さな声。
「“滅びの記憶”が、解き放たれた……。ああ、わたしはおそろしいことをしてしまった……!」
 ナーエは黒い破片の中に座り込み、大きく見開いた両目でぽっかりと開いた空を凝視していた。おののき震えてはいるが、その声からはもう先程までの狂気めいた危うい気配は消えていた。そしてそのことが、彼女の内側から精神を蝕み続けていた昏く重い何かが消え去ったことを、なによりも明確に物語っていた。
「では、これからどうなると言うのだ? 例の“大異変”の再来とやらか」
 場違いなほど冷静に尋ねたのはカーヴァルだった。“ナーエ”の負う役目については彼らもイアスから説明を受けていたが、この男の淡々とした態度はいまだその実感が湧かないというより、たとえそれが現実に起こっても世界の行く末を見届けるだけだという、徹底した観察者の意識からくるもののようだった。
「……いえ、どうやらその可能性は回避されたようです。幸いなことに」
 答えたのはオルジアンだったが、呻くような声が言葉の内容を完全に裏切っていた。あれを、と空の一点を指し示す。それはナーエが食い入るように見つめている方角だった。
 崩れた床の縁に歩み寄ると、強い風が頬を叩いた。ダーシェンでは今まで感じたことのない、するどく渦を巻く荒々しい風だ。その強風に目を細め、示された方角を見る。
 東に雲があった。
 天球を横切る“金の蛇”に導かれるように、じわじわと空を浸食していく黒い雲。
 その瞬間、ぞくりと肌が粟立った。
 あれはおかしい。何かがひどく歪んでいる。
 特別な目を持たないリューオたちにさえ、その光景に含まれた禍々しさを感じ取るのは容易なことだった。神官たちやナーエの目には、さらにそれ以上のものが映っているのだろう。彼らの表情には本能的な驚愕と恐怖だけでなく、その正体を知るがゆえの危惧の色も浮かんでいた。
「“記憶”が暴走しています」
 オルジアンがそう説明を続けた。
「本来ならば、解放された“記憶”の影響はまず理の傾きに現れるはずです。しかし、あれでは歪みが一点に集中しすぎている。広範囲における被害は免れても、その一点が犠牲になります。歪みが集約され、それこそ局地的な“大異変”の再来になりかねません。そしておそらく……まずその犠牲となるのはラキトスでしょう」
「どういうこと!?」
 弾かれたように振り返り、叫ぶようにリューオは聞き返した。たった今聞いたばかりの言葉の意味がまるでわからなかった。
「馬鹿を言わないで。なぜラキトスが滅ばなければならないの!?」
 確かにあの黒雲の先にはラキトスがある。だが、なにもわざわざラキトスでなくともいいはずだ。他の国や地域であればどうなろうと構わないというわけではない。しかし、大陸中に無数の小国がひしめき合う中、なぜ狙いすましたかのようにラキトスを選ぶ必要があるのだ。
 自分のせいだ、とナーエが言った。
 “滅びの記憶”は檻であったナーエの影響を受けてしまったのだ。彼女が抱き続けてきた願いがラキトスの滅亡であったこともまた、滅びを導く“記憶”との同調を強くする要因となった。そして、放たれた“記憶”は宿主の影響に引きずられ、ラキトスへと襲いかかった。
「どうなさいます、殿下」
 カーヴァルの目がリューオに向けられる。あまりにいつも通りの口調と表情に、リューオは思わずこんなときにまで人を試すつもりなのかと怒鳴りたくなったが、かろうじてその衝動を飲み込んだ。逆上して冷静な判断力を失ったら負けだ。カーヴァルにではない。この状況にだ。
 だが、嫌味のひとつくらいは言ってやろうと口を開きかけた瞬間、激しい眩暈がリューオを襲った。気がつくと、リューオの目の前には瓦礫の山があった。それは見覚えのある風景のなれの果てだ。巨大な地震で崩壊した王都カンザ。山が崩れ、土砂に飲み込まれた村落。降り続いた大雨で河が溢れ、濁流の底に沈んだイズアラ平原。荒涼たる死の大地と廃墟の連なり。そして、それらすべての光景を埋め尽くす、夥しい数の亡骸――……。
「お願い、リューオ!」
 必死な声がリューオを我に返らせた。泣き出しそうな薄紫の瞳がリューオを見上げていた。その瞳に浮かんでいるのは、今までに見たいつよりも強い光だ。それは恐怖と狂気に蝕まれた少女の譫言ではなく、世界の調和を保つ礎のひとつとして重責を果たし続けてきたひとりのノナエからの、真摯で切実な要請だった。
「もう一度わたしに“記憶”を封じ直しても長くはもたない。わたしは封印の器として一度壊れてしまったから。もうあなたしかいないの。このままでは大勢死んでしまう。ラキトスだけで済むとは限らない。“大異変”が繰り返されてしまうのよ! わたしが招いたことだとわかっている。でもわかって。もう取り返しはつかない。他に方法もないの。お願い、ノナエの役割を継ぐと言って、リューオ!」
「…………」
 きつく唇を噛む。あの幻視は一瞬だった。しかし、リューオにはそれがまぎれもない現実だとわかっていた。これから起こり得る、解き放たれた“記憶”が引き起こそうとしている新たな滅びの道筋だ。全身にじっとりと汗が滲んでいる。幻などという言葉で片付けるにはあまりにも生々しい体験だった。
 このままでは、ラキトスはあの姿になる。
 すべてが死に絶え、荒れ果てた不毛の地に。
 それはあまりにも卑怯だ。
 このままリューオが拒絶を続ければ、ラキトスはああなるという。国が滅んで人が残るのならいい。しかしそうではなく、豊かな自然も人の営みも何もかもが破壊され消え失せるのだ。それではリューオは神殿の言いなりになって次の“ナーエ”となるしかないではないか。国ではなく民を滅ぼすという、これ以上の脅しがあるだろうか。
 きつく護符を握りしめたリューオの肩に、不意に誰かの手が置かれた。振り返ると、すぐ後ろに赤い髪の傭兵が立っていた。
 レオンは何か言うでも、リューオを見つめるでもなかった。ただ寄り添うように、すぐそばに立っている。
 それだけで、不思議と気持ちが静まった。
 受け入れることは屈することではない。もうこれは、ナーエの試みの果てにあることではない。それをリューオは拒み、今度は選ぶのだ。ラキトスを守るために。大切な約束を守るために。
 ひとつ、深く呼吸をする。
「ごめんなさい、ユンギル」
 リューオはユンギルを振り返った。それぞれの国を背負ってともに歩もうと思った、生真面目で有能なサウザーの青年。
「わたしから持ちかけたことなのに、約束を守れなくなってしまったみたい。それでもどうか、ラキトスと同盟を結ぶという誓いだけは破らないで。わたしがいなくても、ラキトス軍は強いわ」
 小さく笑う。こんなときだというのに、小さくも力強い、不敵な微笑だった。おまえも脅してるじゃねえか、とレオンがぼやく。
「セフィア姫……」
 追いつめられていったナーエの変化は、ユンギルもその一部を見て知っている。呼吸を整える必要があったのは、同盟者となるラキトスの王女を失うという、それだけの理由からではなかった。
 しかし。
「……いえ、その必要はないでしょう」
 そう言ったのはイアスだった。
 驚いたように全員が振り返る。色素の薄い青年神官は、それぞれの顔をまっすぐに見つめながら、きっぱりとした口調で告げた。
「俺に任せてくれませんか。方法が、ひとつだけあります」
 その言葉に、最初に反応したのはオルジアンだった。
「イアス、まさかそなた……!」
「ええ、そのまさかです」
 あっさりとイアスはうなずき、それからひょいとリューオを振り返った。
「手伝ってくれますか、リューオ。あなたはノナエにならなくていいしラキトスも滅びない。まあ多少は被害を防ぎきれない部分もあるでしょうが、そのあたりは今からあなたに“記憶”を封じ直したところで同じでもあります。どうでしょう、ここはひとつ。乗って損はさせませんよ」
 無駄に愛想がいいので、なにやら怪しい商売めいて聞こえる。
 だが、答えたのはリューオではなく、悲鳴のような甲高い声だった。
「だめよ! あなたは何もしないで!」
 ナーエがキッとイアスを見上げる。きつく睨む眼差しの中に、なぜかひどく怯えたような色が混ざっていた。
「これはあなたが手を出すことじゃない。死にたいの? 死ぬわよ、今度こそ! 余計なことはしないでって、一体何度言ったらわかるの。閉じ込めたってすぐに抜け出して、勝手なことばかりして!」
「ナーエ様」
「勝算があるんだかなんだか知らないけど、あなたの自信なんか信用できない。自分の身のことなんかちっとも考えていないんだから。もう何もしないで。イアス、お願いだから……!」
「ナーエ様」
 穏やかに、けれど強く名前を呼ばれ、ナーエは口を閉ざした。きつく唇を結んだ少女の前に、イアスが膝をつく。
「大丈夫です。俺はまだ死んだりしませんから」
「そんなこと言ったって……!」
「俺はね、ナーエ様。あのときあなたに笑ってほしいと思った。だから助けたいと思った。それは今も同じです。だから無茶な賭けに出る気はありませんし、たとえナーエ様が解放されたとしても、それでナーエ様が泣くようなことはしません」
 手を伸ばして、乱れた長い銀の髪をそっと撫でつける。あれ以来、誰の前でも二度と弱音を吐こうとしなかった少女。特にイアスの前では弱っていることを必死に隠し、心配などされる筋合いではないと言い続けてきた。手を差し伸べられ、その手が失われることを恐れ、頑なな態度を崩さなかった。
 その眼差しが、今はじめて揺れた。重責を負って長い年月を生きてきたノナエではなく、まるで外見そのものの少女のように、頼りなく。
「あのときと今とでは、条件はまったく違います。いろいろ時間をかけて準備をしてきましたし、俺自身もあのときほど未熟じゃない。今度ばかりはオルジアンたちも嫌でも協力せざるを得ないでしょうし、何よりここにはノナエの素質を持つリューオがいる。これ以上の好条件が他にありますか?」
 途中でオルジアンが渋い表情になったが、イアスは素知らぬ顔で立ち上がると、改めてリューオに向き直った。
「あまり迷ってる暇はないんですけど、できれば俺はリューオに継承を行ってほしくないんです。ノナエという仕組み自体をなくしてしまいたい。手伝ってもらえますか?」
 リューオはすぐには答えなかった。レオンを、ユンギルを、カーヴァルを、そして神殿の権威に楯突いてまでここへ来てくれたラキトスとサウザーの兵士たちを振り返る。
 迷い、問いかける眼差しでなかった。
「待っていてください」
 毅然と顔を上げて。
「わたしは必ず皆とともに戻ります。わたしたちのラキトスへ。だから、もう少しだけ信じて待っていてください」
 殿下、といくつもの声が上がった。セフィア殿下。姫様。呼びかける者。姿勢を正して敬礼する者。兜を脱ぎ膝をつく者。ラキトス兵もサウザー兵も関係なく、全員がそれぞれのやり方で彼らの王女の言葉に応えた。
 リューオもひとつうなずき返すと、返答を待つ青年神官を振り返った。
「やりましょう。わたしは何をしたらいいの?」


 ヴン、と低い唸りを立てて刀身に金色の光が宿った。
「おい、そいつは俺の長年の相棒なんだからな。くれぐれも折るんじゃねえぞ」
「大丈夫ですって。媒体として使うだけですから」
 横から口を出したレオンにイアスが軽く応じる。術が施されているのはレオンから借り受けた剣だったが、実際にはイアスが「それじゃないとイヤです。それ貸してください」と強引に押し切って半強制的に提供させたというのが正確ないきさつだった。
「剣なんかどれだって同じだろう」
「自分の愛剣にやたらこだわってるくせに何言ってるんですか」
「剣士が剣にこだわるのは当然だ。しかし重さだの握りの具合だの、魔術にはまったく関係ないだろうが」
「これが一番魔術のなじみが良さそうだったんです。それに、今まで何度もリューオを守ってきた剣でしょう? その縁が、今度も彼女の守護になりますよ」
「……ふん、なるほどな」
 レオンが答えるまで少し間があったが、イアスはちらりと笑っただけで指摘もせず、淡く輝く剣を栗色の髪の少女に差し出した。
「これを。決して躊躇わず、一気に突き刺してください。物理的に貫くわけではありませんから、俺を信じて迷わずにやってください」
 リューオの指が剣の柄に触れると、音もなく青白い火花が散った。注意深く受け取りながら、小さく首をかしげる。
「いいの? こんなものを渡して。いっそこの機に恨みを晴らそうと思って、本気で殺そうとするかもしれないわよ」
 イアスはわずかに苦笑した。
「いっそそのくらいの方がいいです。思い切りがよくなりますから」
「わたしが迷えば彼女は死ぬということなの?」
 向けられた視線の先には、オルジアンたちが用意した魔法円の中心に立つナーエの姿がある。ゆったりとした巫女服ごしにもわかる、異常なまでにやつれて細い身体。精神の平衡は取り戻しても、限界の近づいていた身体の衰えはどうにもならないのだ。立っていられるのが不思議なほど、この少女の肉体は弱り果てている。
 ラキトスに襲いかかろうとしている“滅びの記憶”を再びこのナーエに封じ、魔術を施した剣でナーエを貫くことによって檻ごとそれを砕き、拡散させて世界に還すというのがイアスの提案した方法だった。より広範囲への均一的な拡散を促し急激な力場の歪みを緩和させるための仕掛けは、すでに世界のあちこちに設置してあるという。それを起動させるのは、ダーシェンの優秀な神官と巫女たちの役目だ。
 ちなみに、イアスが独断で進めてきた準備の周到さは、どちらかといえば神殿関係者たちを感心させたというより呆れさせたが、本人は「これもダーシェンの神官としての立派な仕事です。俺が仕事をサボっていたなんて心外極まりないですね」とむしろ胸を張っていた。
「ナーエ様とあなたには、“記憶”という巨大な負荷がかかる。その力はとても強いので、あなたがたのどちらか片方でも激しく動揺したりすれば、この剣にかけた術が揺らいで本当に刺すことになってしまいます」
 もっとも、とイアスはつけ加えた。苦笑とも自嘲ともつかない、何かを堪えるような複雑な微笑が口元に浮かぶ。
「どのみち、長くは生きられないんですけどね。あの方が人間の寿命を無視してこれまで生き続けてきたのは、ノナエであったからです。その役目を終えれば、結局は遠からず命を終えることになる。……そのことに気づいたのは、わりと最近なんですけど。間抜けなことに」
「……そう」
 リューオはうなずくと、それ以上は何も言わずに両手で剣を握り直した。本当ならリューオの腕力では持ち上げることにさえ苦労するはずの剣だが、今は驚くほど軽い。さすがに片手では無理だが、両手でなら難なく扱うことができる。
 詠唱が始まった。ときに唱和し、ときに絡み合うようにしながら紡がれていく、力に満ちた特別な言葉と音律。幾重にも重なり合い遠く響き渡っていくのは、神殿中で同じように詠唱が行われているためだ。
 魔法円を描く光の線が床から浮かび上がり、脈打ち始める。目まぐるしく変化する記号と紋様。荒れ狂う風が髪をなぶる。大気の密度が高まる。呼吸もできないような圧力。
 特別な目を持たないリューオたちにも、とてつもなく大きな力が動いていることがはっきりと感じられた。空では“金の蛇”がのたうつように震え、まばゆい光を放つ。
 そして。
 巨大な落雷のような激しい衝撃に、神殿全体が大きく揺れた。
 幾重にも防御を巡らせた堅固な魔術の砦であるはずのダーシェン大神殿が動揺し、柱に、床に、無数の細かな亀裂が走る。それでも詠唱は途切れない。術師たちの額に浮く汗。それはイアスとて例外ではない。
 ナーエの足元にあった魔法円は、今や球状に変化して少女の小さな身体を閉じ込めていた。その表面に散る雷光。激しい抵抗。
 リューオは柄を握る手に力を込めると、「ナーエ!」と叫んだ。
「わたしはあなたのことなんか好きでもないし大切でもない。あなたが死のうがどうしようがどうだっていい。だから恐れないし迷いもしない。だからあなたも、わたしとこの不良神官を信じなさい!」
 声は届いている。ナーエの目がリューオを捉える。苦しげな表情で、それでもナーエははっきりとうなずいた。


 リューオの足が床を蹴る。
 おかしいと気づいたのはその瞬間だった。


「どうして……」
 青灰色の瞳を大きく見開き、呆然とリューオはつぶやいた。
「姫様……?」
 目の前にいたのは銀の髪の幼い少女ではなく、まったく別の人物だった。
 半壊したダーシェンの聖堂。力場を支えるオルジアンら神官たち。詠唱の声。見守るレオンやユンギルたち。周囲は何も変わっていない。ただひとつ、その中心に立つ人間だけが変わっている。
 その長い栗色の髪を、リューオはよく知っている。澄んだ湖面のような青い瞳を知っている。穏やかな微笑みを。その胸にさがる銀の護符を。すべて知っている。
「リューオ」
 呼びかけるその声も、何もかも。
「リューオ。私の大切な半身」
「姫様……」
「一緒に来てくれるでしょう?」
 しなやかな白い手が差し出される。
「約束をしたものね。ともにこの国を、ラキトスを守りましょうって。私にはあなたが必要だわ。そばにいてくれたらとても心強い」
 姫様、ともう一度つぶやく。
 わかっている。これは幻だ。
 先程の幻視と同じ。今ここに封じられようとしているのは、起こるはずだったもうひとつの未来だ。だからその力がリューオに見せている。今度はリューオの心を反映して形を変え、リューオが望む、あり得たかもしれない別の未来を。
 この先もまだ、セフィアの傍らを歩んでいけるという未来を。
 差し伸べられた手を取ることができたらどんなにいいだろう。どれほど強く望んだだろう。もう一度会いたいと。その声で名前を呼んでほしいと。
 ただひとり、心からの忠誠を誓った大切な人。
「どこまでも、ご一緒いたします。姫様」
 片手でそっと護符に触れる。刻まれた王家の紋章。アクアマリンの澄んだ輝き。
 王女セフィアの護符。
「リューオはいつも、姫様のおそばにおります。ですから――……」
 もう一度、しっかりと剣を握り直す。
「帰りましょう。一緒に、ラキトスへ」
 呆気ないほど軽い手応え。
 セフィアの胸を貫いた刀身が輝きを増した。その清い光に触れた部分から、幻が崩れて消えていく。無数の花弁が風にさらわれて舞い散っていくように。


 そのときラキトスの人々が見たのは、上空を覆う厚い黒雲が、まるで風に散らされる霧のように消えていく光景だった。薄闇に閉ざされていた大地にやわらかな陽差しが差し込み、見上げる人々を照らしていく。地震もいつか収まり、怯えて身を寄せ合っていた者たちも、互いに顔を見合わせて危機が去ったことを知る。
 そして、やがてその空から、目には見えない無数のかけらが降り注ぎはじめた。
 ラキトスだけでなく、サウザーにも、他の国々へも、はるか北の大地に連なる山脈や南の大海、風のわたる平原、この世界中のありとあらゆる場所へ。空を駆け、大きな力のうねりに運ばれていく。
 それらはすべて、粉々に砕かれた“滅びの記憶”の破片だ。
 本当はきっと、最初からこうするべきだった。
 巨大な“もうひとつの道筋”をまるごと分離させ封印するのは、“大異変”当時にはやむを得ない選択であったのだろう。しかし、今や最も危険な時期は過ぎ去り、世界は回復への道を確実に歩んでいる。また、“記憶”のすべてを受け入れるのはナーエやリューオのような特異な体質の持ち主でなければ不可能だが、無数に砕かれたほんのひとかけらであればその限りではないのだ。
 様々なことが起こるだろう。どこかで大きな災害があるかもしれない。海が荒れ、森が枯れ、気候が変わるかもしれない。夜ごとどこかで誰かが、おそろしい夢にうなされて飛び起きるかもしれない。被害はあるだろう。それによって失われる命も、確かにあるだろう。
 だが、それでも、世界の運命を大きくねじ曲げた代償は、生き残った世界に生きる人々が平等に背負うべきなのだ。
 “ノナエ”は最初から、いずれ廃される役目でなければならなかった。
 そして、最後のノナエは今、役目を終えた。



 気がつくと、リューオは赤毛の傭兵の腕に抱えられていた。
 いつかもこんなことがあった。あのときは、リューオが刺されたほうだった。今度は逆で、たった今リューオが振るったばかりの剣が、魔力の光を失って白い床の上に転がっている。
「……ナーエは?」
 かすれた声で尋ねる。
「ちゃんと、無事でいる?」
「なんだ、死んでも構わないんじゃなかったのか」
 呆れた声で答えたレオンに、リューオはふんと笑ってみせた。
「馬鹿言わないで。わたしはもう、これ以上この騒ぎで誰かが死ぬのを見るのはごめんなの」
 目を向けると、離れた場所に倒れ伏していたナーエをイアスが抱き上げたところだった。意識はないようだが、薄い胸がかすかに上下して呼吸をしているのが見て取れる。
「お見事でした、殿下」
 それもいつかと同じ台詞。抑揚のない淡々とした口調は相変わらずだが、カーヴァルには珍しく試す響きのない、率直な賞賛の言葉だった。もっともそれは今だけのことで、ラキトスに戻ればリューオはまたこの怜悧な元傭兵に主君としての器量を問われることになるのだろうが。
 セフィア姫、とユンギルが手を差し出した。一瞬だけ、その手に別の白い手が重なって見える。けれど、瞬きと同時に最後の幻も消えた。そこに立っているのはリューオとよく似た少女ではなく、淡い金髪と鮮やかな緑の瞳をした、すらりとした若者だ。ラキトスの未来をともに背負う存在としてリューオが選んだ青年。
 差し出された手を取って立ち上がる。頬を撫でていく風はもう荒れ狂う大気の悲鳴ではない。東の空を蝕んでいた黒い死の雲は散り散りになって消え失せ、そのはるか上層では、ぼんやりと広がった“金の蛇”が陽光にとけて消えていこうとしていた。
 そこまで確認したところで、またすうっと意識が闇に吸い込まれた。傾いだ肩を誰かの腕が抱き留める。それはたぶんユンギルだったのだろうが、押し寄せてくる眠りの波に抗うことができず、確かめることはできなかった。
 休んでろ、とレオンの声が言った気がしたが、よくわからなかった。





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