月と太陽の螺旋
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第十章 霧深き楔の地

 ――弱ったな。
 そう思いながら、イアスは足音をしのばせて暗い廊下を歩いていた。両側に柱の並ぶその回廊は広く長く、天井は闇の中に消えてしまって見えないほど高い。小さな靴音はあたりにかすかに反響し、天井の暗がりに吸い込まれるようにすうっと消えていった。
 ここはどこだろう。途中で、通ってはいけない“壁”を何度かすり抜けてしまった気がする。こんなことろにいるのが見つかったら、きっとひどく叱られるだろう。
 まだダーシェンの神殿に入って間もないイアスは、ひとりで出歩くたびにしばしばこういった状況に陥った。広く複雑に入り組んだ神殿の構造に不慣れなためと、強すぎる魔力を無意識に操ってしまうせいで、迷った挙げ句、本来なら立ち入りを禁じられている――より正確に言うならば、結界で出入りを制限されているはずの場所にまで知らぬ間に入り込んでしまうのだ。
 その晩も、早く戻らなくてはと焦っていた。しかし、神殿の中は様々な力や術で溢れているせいで、決して方向に疎いわけではない少年をおかしな具合に酔わせ、感覚を狂わせてしまうのだった。
 だめだ。頭がぐるぐるする。このあたりは、何かがひどく歪んでいる。
 少し先に壁が途切れて月光が差し込んできている場所があった。とにかく新鮮な空気を吸おうと、イアスはよろけるようにそこから外へ出た。
 そこは美しい中庭だった。月明かりを受けて白く燐光を放つ小さな花が咲き乱れ、中心の小さな泉からは絶えず清らかな水が湧き、水面に青く澄んだ輝きを宿している。さらりと頬を撫でる、ダーシェンの夏の夜の風。まるでここから見上げるためだけに用意されたかのような、一面の星月夜。
 そして。
「……誰?」
 振り返った小さな影。その動きに合わせて、長い銀色の髪がさらさらと揺れた。
 透き通った紫水晶の瞳。
 年の頃はイアスよりもいくつか上に見えた。
「泣いてるの?」
 少女は、突然現れた小さな少年を驚いたように見つめていた。
「悲しいことがあったの?」
 重ねて尋ねると、ようやく少女が小さく首を振った。

 そこは彼女の他には誰も入ってくるはずのない場所だったから、たぶん、あのときのナーエはひどく油断していたのだ。
 無邪気な問いと、無防備な答え。
 そのときナーエが何と答えたのか、イアスは今でもよく覚えている。


          *

 ダーシェンに連れてこられたリューオの時間は、大半が同じことの繰り返しに費やされていた。
 まず、リューオがナーエの前に呼び出され、次のダーシェンの神殿長となることに同意するよう求められる。リューオは拒絶し、話し合いは平行線のままナーエが癇癪を起こしてその場はそれまでとなり、リューオは与えられた部屋に引き取るよう言われる。そして、時間を置いてまた同じことが繰り返されるのだ。むろん、リューオが常に世話役という名の巫女たちの監視下に置かれていることは言うまでもない。
 その朝もまた前夜の続きだった。ダーシェン大神殿最上階の聖堂で、リューオは漆黒の玉座に身を預けた神殿長ナーエと面会する。
 ナーエが外見通りの年齢ではないことは、知識としては知っているが、リューオの目に映るのはあくまで十二、三歳程度でしかない少女だ。ただ、長い銀色の髪には艶がなく、色の薄い肌は透き通るというより妙に白っぽくかさついた印象が強い。重い病にでもかかっているように青白くやつれ、椅子にもたれかかっているのがやっとのように見えた。
「どう? そろそろ決心はついたかしら、リューオ」
 わざとらしいほど高慢な口調。弱っていることを必死に隠そうとしているのだ。それでも、肘掛けをつかむ華奢な指がかすかに震えているのを、リューオは視界の端に捉えていた。
「いつまで粘ったって同じことよ。いくら嫌だと言っても、あなたはここからは出られない。“ナーエ”の役目を引き継いでこのダーシェンの主となるしか道はないの。ねえ、この地上の権威の一番高いところに立つことができるのよ? ラキトスよりずっと強大な国の王だってあなたの前に跪く。悪くないでしょう? 強情を張らずに素直にうなずいたほうが、ラキトスのためにもいいと思うのだけれど、どうかしら」
 最後の言葉は明らかな脅迫だった。サウザーを使ったラキトス征服は失敗に終わったが、ダーシェンがその気になれば、他に打つ手はいくらでもあるのだ。サウザーとの講和は堅固になるどころか、まだ正式に結ばれてすらいない。その状況下で突然王女を失った混乱につけ込めば、ラキトスをさらなる戦禍の渦に叩き落とすことは容易いだろう。
 恭しく頭を垂れていたリューオが、この日でははじめて顔を上げた。青みを増した双眸が、ナーエの薄紫のそれをするどく見つめる。
「神聖なる神殿長ナーエ。恐れながら、わたくしが生涯をかけて尽くすのは祖国ラキトスのみでございます。いかに御命といえど、従うわけには参りません。貴女は御身の権威と力をもってこの身を拘束なさいました。そして今度は、ラキトスの民を人質としてわたくしから自由を奪うおつもりですか。本来であれば、国も身分も超越してすべての人々に手を差し伸べなければならない神殿の長であるあなたが」
 ナーエがぐっと唇を噛んだ。きつく手を握りしめる。そして、キッとリューオを睨み返した。
「なによ! 自分だけ正しいみたいに、自分だけキレイなことを言って! 勝手なのはどちら? わたしはわたしのためだけに言ってるんじゃない。あなたがうなずかなければ何が起こるか、何度説明したと思っているの? あなたの言っていることのほうが、よっぽど自分勝手な我が儘じゃない!」
 喚き散らすように叫んで、激しく咳き込む。こんなときに血を吐くのはいつものことだ。最初の対面で白い巫女服を血で汚して以来、ナーエはリューオと会うときには必ず黒いローブを上から羽織るようになった。
 リューオは間違ったことは言っていない。しかし、同時にナーエの言葉も一面の真実ではあるのだ。
 ナーエ。それは日常的な呼びかけのための尊称であって、その責を負う者を、正しくは“ノナエ”という。
 ノナエの役目とは世界の“記憶”を預かることなのだと、リューオはここに来て教えられた。
 世界が死に瀕したと言われる“大異変”から五百年あまり。賢者と五人の弟子が大地に支柱と楔を打ち込んだことによって世界はかろうじて踏みとどまったとされているが、実際には、取り戻した安定はいまだ完全なものでなはいのだという。
 ノナエの背負う“記憶”とは、“大異変”がそのまま進行していた場合に世界が辿るはずだった道筋、すなわち、すべて生命が死に絶え、天と地が死で覆い尽くされるまでに起こるあらゆる死の“記憶”だ。
 その滅亡のシナリオを、賢者たちは強制的に書き換えた。しかし、無数に存在する運命の枝分かれのうちで、最も太く最も強力であった道を無理矢理ねじ曲げたのである。進もうとしていたその道の先を、世界は容易には忘れてくれない。そしてそのことは、彼らがかろうじて保ったあやうい均衡を突き崩し、世界を再び“大異変”の混乱の渦に突き落とす要因になりかねなかったのだ。
 そこで彼らは、その“滅びの記憶”そのものを世界から分離させ、弟子のひとりを人柱として封印した。これが初代のノナエにあたる。
 “記憶”は、それを受け入れるのに適合した持ち主によって代々受け継がれ、ノナエ自身の持つ浄化作用と世界が安定を取り戻していくことによって、少しずつ薄れていく。そうして、空と大地が起こりえた滅亡の記憶を完全に忘れ去ったとき、ノナエの役目も終わるのだ。
 ノナエは、“記憶”を所有している間は歳を取らない。しかし、あまりに重い“記憶”を体内に封じる負荷と夜ごと訪れる凄惨な悪夢に少しずつ精神を蝕まれ、やがて悪夢と現実の区別がつかなくなり、時間の前後の感覚を失い、ついには正気を手放して廃人となり、そのまま死に到る。
 今リューオの目の前にいる“ナーエ”が、まさにその最終段階の一歩手前にあることは明らかだった。それゆえに、リューオを強制的に拉致するような手段にまで訴えたのだ。サウザーとラキトスを噛み合わせてラキトスを滅亡させ、行き場のなくなったリューオの身柄を引き受けるつもりが、一向に思うままにならない状況に焦りを覚えたのだろう。
 つまり、このままリューオが拒み続ければ、ナーエは“記憶”を保持したまま死に、封じる檻が壊れた“記憶”は外界に解き放たれる。五百年の歳月を経ていくらか薄まっているとはいえ、滅亡の道筋の残り香である。大きな被害をもたらし、下手をすれば“大異変”の再来につながる可能性さえあるのだ。そうなれば、失われる命は千や万ではきかない。ラキトスのような一小国の運命などとは、天秤にかけてみるまでもないのだ。
 それはリューオにもわかっている。わかっているのだ。
 それでも。
「すべてあなたが仕組んだ。姫様のことも、今回のサウザーの侵攻も。そのためにどれだけの人が傷つき、どれほどの血が流れたか。あなたの恐怖も、後継者が必要であることも、当然のことだと思う。けれどわたしには、あなたの行為を認めることはできないし、あなたの力になりたいと思うこともできない」
 非難というにはあまりに淡々とした口調。けれどそれは、激しく罵って殴りかかるよりもはるかに容赦のない言葉だった。
「なによ……」
 ナーエの小さな唇が震える。泣き出す寸前のような声だった。
「手段なんか選んでいられなかった。あなたとラキトスの結びつきが強すぎて。どうしてあなたなんかがわたしの後継者なのよ! どうしてあなたみたいな、強い絆に縛られている人が……!」
 悲鳴のように叫び、身をよじって長い銀色の髪を掻きむしる。
「でも他にいないんだもの。仕方がないじゃない! ずっと待って、ずっと探して、やっと見つけたのよ。わたしだって受け入れた。自分の意思も自由も、大事なものも、何もかも捨てた! 捨てて受け入れて、役目を果たしてきた! これが最後の責務なの。後継者を見つけられなかったら、継承ができないままわたしが死んだら、すべて無駄になる。“大異変”から世界を救った導師オディスたちの努力も、神殿が果たしてきた役目も、今までの“ノナエ”の犠牲もなにもかも! どうしてそれをわかってくれないの!? あなたが最後の望みなのに。もうわたしには少しの時間しか残されていないのに……!」
 最後のほうは低い呻き声になってほとんど聞き取れなかった。呼吸が荒くなっている。細い喉が、息をするたびに苦しげな音を立てていた。
 傍らに控えていた世話役の巫女たちがナーエに駆け寄る。お下がりください、とリューオを振り返って告げ、数人で抱えるようにしてぐったりとした小さな少女の身体を抱え上げていった。だらりと垂れ下がった細い腕。きっとひどく軽いのだろう。何度も繰り返された光景。
 いつまでこのようなことを続ければいいのか。ブラウの城のように逃げ出すことが不可能であることは、いちいち指摘されるまでもなくわかっている。リリズの状況も心配だった。


「リューオ様、よろしいですか」
 少し時間を置いてリューオのもとを訪ねてきたのは、オルジアンという名の神官だった。ナーエの側近筆頭であり、彼女の精神状態が芳しくない現在、事実上ダーシェンを取り仕切っている人物でもある。今までナーエのそばについていたのか、表情には疲労の色がうかがえた。あるいはそれは、身体的な疲れ以上の心労によるものかもしれない。
「あなたのお気持ちはごもっともです。ラキトスに対するナーエ様の……いえ、我々の行為の数々が道に悖るものであったことも、重々承知しております。しかし、あのようななさりかたはナーエ様を追いつめるだけです。この数日だけでも発作の頻度が上がっていることは、リューオ様も気づいておられるでしょう」
 ナーエの限界が早まれば早まるほど、リューオにも早く覚悟を決めてもらわなければならない。それがますますナーエを焦らせる。どうしようもない悪循環だった。
 リューオがここに連れて来られたとき、最初に会ったのがこのオルジアンだった。そのときも彼は、時間がないのです、とリューオに告げたのだ。
 あの方が正気を保っていられるのは、あとわずかな間。自我を失った後でも継承の儀式は行えますが、そうなってからでは坂を転がり落ちるよう死へ向かうようなもの。長くお待ちすることはできません。どうか一日も早く、あの方に安らかな眠りをお与えください。
 リューオは今や一国の王女であり、遠からず女王として国を治める身である。しかし、世俗の身分にとらわれない神官――それもダーシェン大神殿の高位神官ともなれば、リューオなど取るに足らない小娘でしかない。その小娘相手に、噛みしめるように、懇願するように頭を下げたのだ。リューオがいずれ次の“ナーエ”になることを前提としているとしても。
 その真摯な訴えを、リューオは頑なに無視し続けている。
「本当は、あの方とてこれ以上の戦など起こしたくはないのです。ご自身を苛む恐怖と同じほどに強く、犠牲を悼んでもおられる。そのご心情を、どうかお察しください」
「それで? 心を鬼にして姫様の人生を奪い、多くのラキトスの民を傷つけた彼女に同情して、すべてを許せというの?」
 吐き捨てるような、苛立ちを隠そうともしないリューオの言葉に、オルジアンがかすかに眉をひそめた。非難するというよりは、それまで冷静な態度を崩すことのなかった少女が見せた感情の揺れを案じるような表情だった。だが、彼が何か言おうとするのを、リューオは激しく首を振って止めた。
「彼女がどうなってもいいとか、“大異変”の再来なんて知ったことではないとか、そういうことではないの。ただ、それはわたしにどうにかできることの範疇を越えている。わたしの手は、ラキトスのことだけで一杯なの」
 そしてそのラキトスは、リューオにとって何よりも大切なものなのだ。
 ナーエが何もしなければ、その“予言”通りにリューオはとっくに死んでいたかもしれない。“セフィア”と出会うこともなかっただろう。けれど、そうであったなら、リューオと彼女の道が交わることもなかった代わりに、あの優しく健気な少女があんな死に方をすることもなかったのだ。
 もしも、もう一度自分の意思でやり直せるなら、リューオはセフィアと出会わない道を選ぶ。彼女をあんなにも苦しめ、自ら死を選ばせるくらいなら、あの大切な日々を差し出す痛みのほうがよほどマシだ。けれども出会ってしまったから、失ってしまったから、その事実がある限り、リューオはナーエを肯定することはできない。すべてがナーエだけの責ではないと、わかってはいても。
「だから、どうしたってわたしはうなずけない。うなずけないの!」
「リューオ様……」
 彼らがリューオの了承を得ることにこだわっている理由は、薄々わかっている。おそらく、強制はできないのだ。“記憶”を受け取る側に、それを受け入れる意識がなければ継承は行えないのだろう。積極的な意志とまではいかない、諦めや無抵抗でもいい。とにかく、拒絶する明確な意志が継承者の中にあってはならないのだ。
 それはあまりに残酷な事実だった。強制ができるのであれば、どれほど楽だったろうか。ナーエにとっても、リューオにとっても。
 ここまでの道筋さえ違えば、リューオはどれだけラキトスを愛していても、災厄を防ぐことはラキトスのためでもあると言い聞かせ、自分を納得させることができていたかもしれない。けれど、ねじ曲がってしまった道は、二度と元には戻らないのだ。
 誰にも、何もできないまま、時間だけが過ぎていった。


          *

「駄目だな。これ以上行っても無駄だ」
 あっさりと言ってレオンが手綱を引き、馬の足を止めた。
 鬱蒼とした森の中を進んでいたのは、二種類の軍装に身を包んだ騎兵たちだ。リリズからかなりの強行軍を続けてきたのが、感心なことに脱落者はほとんどおらず、ラキトス軍もサウザー軍もほぼ出発したときの数のままダーシェンの森まで辿り着いていた。
 しかし、問題は森に入ってからだった。人を拒むような暗く深い森だが、人の往来がある証拠に、一応の道はある。その道を辿ってきたはいいのだが、木々の間から大神殿の威容が見えてきたあたりで、さっぱり前に進むことができなくなったのだ。
 薄い霧越しに神殿の塔は見えている。馬を走らせることもできる。だが、どれだけ進んでも神殿は一向に近づかない。道を逸れて回り込もうとしても、いつの間にかまた同じ場所に戻ってきてしまうのだ。
「なるほど、これがダーシェンの結界か。どうやら我々は招かれざる客のようだな」
「喜んで迎え入れられたりしたらむしろ気味が悪いがな」
 カーヴァルのつぶやきにレオンがフンと笑う。抗議の声を上げたのはユンギルだった。
「しかし、簡単に諦めるわけにはいかないでしょう。よく探せば、どこか入り込める場所があるかもしれない」
「ねえよ、そんなもん。相手を誰だと思ってる? 天下のダーシェン大神殿だぜ」
「だからと言って……!」
 ダーシェンに殴り込みをかけると言い出した張本人のあまりの諦めの早さに、ユンギルの声に苛立ちが混じる。この男は本気でセフィア王女を助け出す気があるのか。
 生真面目な若者が向ける非難の眼差しには頓着せず、レオンは懐から何か取り出すと、おもむろにぽんと放った。反射的に受け止めたユンギルは、手の中におさまったものを見てわずかに首をかしげた。
「神官の腕輪……?」
「投げてみろ、そのあたりだ」
 示されたのは、彼らが立っている道の先だった。一見したところ、遮るものは何もなく、道はそのまま森の奧へと続いている。
「堂々巡りして戻ってくるのは必ずこの場所だ。ここに障壁があるんだろう。たぶんそれで破れる」
 ユンギルは束の間、迷うように腕輪の破片と道の先とを見比べたが、すぐに「やってみましょう」とうなずき、手首をするどくひらめかせた。
 投げられた銀の腕輪が虚空の一点に達した瞬間、ガラスの割れるような音を立てて空間に亀裂が入った。腕輪が閃光を放ち、ひび割れは瞬く間に大きく広がって、そこにあった不可視の壁がぼろぼろと崩れていく。最後には、消し炭のように小さくぼろぼろになった腕輪の残骸だけがぽつんと地面の上に落ちて残っていた。おお、と兵士たちの間からどよめきが漏れる。
「ふん、やっぱりな。あの不良神官が伝言のためだけにわざわざ腕輪を割ってまで預けるわけがないと思ったんだ」
「ユンギル王子にやらせたのは何か意味があるのか」カーヴァルが尋ね、
「いや、べつに。勘が外れてたら投げた奴が一番恥ずかしいだろ」
「…………」
 沈黙を守ったユンギルは大人であった。
「とにかく、この結界を破ったことはすぐに神殿の連中にも知れる。急ぐぞ」
 五百の騎馬がふたたび地を蹴る。森は今度こそ、彼らの前に道を開いた。
「レオンどの、何か策はあるのですか? 我々が直接行ったところで彼らが簡単にセフィア姫を返すとは思えません。かと言って相手は神官と巫女たちだ。魔術でこちらの動きを封じられるようなことになれば、手も足も出せなくなる」
「そこは賭けだな。腕輪と同じだ」
「例の神官とやらですか? ひどい重症で動けずに使者を寄越したのだと聞きましたが」
「這ってでも来るさ。あの姉弟に伝言を任せたのはダーシェンに戻る余力を残すためだろうからな。問題は間に合うかだが……」
「間に合わなかったら?」
「邪魔する連中は全員、呪文のひとつも唱えられないうちに切り捨てろ。神官だって所詮人間だ。何か対処法くらいある」
 乱暴な論法だが、それは諦めるつもりがないという意思表示でもあった。きっぱりと言い切る口調にも、前方を見据える榛色の目にも、わずかの不安もためらいもない。あるのはただ、その道の先にいる少女を無事に取り戻すという強い決意だけだ。
「そうですね。やれるだけのことをやりましょう。そしてセフィア姫を助け出す。必ず」
「当たり前だ」
 ユンギルに答えた後、レオンはひとりごとのように低くつぶやいた。
「こっちを動かすだけ動かしといて遅刻なんかしやがったら、張り倒すぞあの野郎……!」


          *

 たった五百というわずかな数でありながら、レオンたちの突入はダーシェンを混乱に陥れることに成功していた。ひとつはカーヴァルの指揮による徹底した攪乱作戦によって神殿側も侵入者の正確な数を把握するのに手間取ったのと、位階の低い神官たちは上層部の行いを知らず、すぐには何が起こっているのかわからなかったためであった。
「ハッ、どれだけ優秀な術師を集めて理の管理者だかを気取っても、所詮は戦場を知らねえ兵隊だな。指揮系統くらいさっさと立て直しやがれ」
「立て直されてはこちらが不利です、レオンどの」
「ああそうだな、的確な助言をありがとよ」
 神殿の建物内部に入り込むことに成功したレオンとユンギルの頭上から、捕縛の網が襲いかかった。もっとも、襲われたほうがそうと知ったのは、空中に散った火花と衝撃、続いて降ってきた呑気な声によってだったが。
「はいはい、一般人相手に術を使うのはやめようねー。ちょっとばかり物騒な人たちだけど、ちょっかい出さなきゃ噛みつきもしないから、ここは黙って通してあげましょう」
「イアス!」
 トンと宙を踏んで床に降り立った青年神官は、レオンを振り返っていつもの人好きのする笑みを浮かべた。
「思ったより早かったですね。いやぁ、こっちは強奪した馬がすぐに潰れちゃうし、着替えてる暇がなかったから怪我をした神官様のお世話をしようという善良な一般市民が宿だ食事だと引き止めようとしてくるし、いろいろ大変でした」
「そうかよ」
「あ、ちなみに他の方々にも術が効かないようにしておきましたから。かなりの精鋭を選んで連れてきたみたいだし、生身の人間同士なら神殿側に勝ち目はないですよ。まあ、オルジアンあたりが出てくれば別ですけど、そんな余裕はないでしょう」
 今度の台詞はレオンたちを捕らえようとした術者にも向けられたものだ。壮年の神官が忌々しげにイアスを睨んだ。
「くっ……やはりおまえの仕業だったのだな。森の結界にまで穴を空けるとは、さすがはダーシェンの脱走王、“結界破りのイアス”というわけか……!」
「脱走王か。いい異名を持ってるな」とレオンが感心し、
「……ねえ、その呼び方変えない? 結界破りはともかく前半のほう」イアスがごく控えめに抗議した。
 その場にいた神官全員の動きを封じて捕虜にしてしまったところで、不意にレオンが眉をひそめてイアスを見やった。
「おい、おまえ……前に会ったときより薄くなってねえか」
「え? 髪がですか? やだなぁ、まだまだふさふさですって。失礼なこと言わないでくださいよ」
「そうじゃねえだろ。その目もだ。前も薄かったが、もっとはっきり色がついてただろう」
 イアスはかすかに笑った。不自然に薄い茶色の髪。水色の瞳も、青い色素が抜けて、光の加減によっては銀色のように見える。
「俺もね、引きずられるんです。干渉してしまったから。その上、あの方と違って受け入れる素養がないから、進行も早い」
「干渉? あの方ってのはナーエのことか」
 だが、それ以上の問いにはイアスは答えなかった。
「行きましょう。彼女は上です」


          *

 異変が起こっていることは、最上層にいたリューオも察していた。
 神殿には大勢の神官と巫女たちが暮らしているが、普段はその気配はナーエの領域であるこの階層までは届かない。だが、今は耳を澄ませば外や下層で起こっている騒ぎの気配が伝わってくる。ナーエの容体が落ち着いたにしては少し早いにも関わらず再び聖堂に呼び戻されたのも、これが尋常な事態でないことを示していた。
「どうやら、リューオ、あなたの大事なラキトスの臣と、わたしを裏切ったサウザーの王子が、あなたを迎えに来たようよ」
 リューオは思わず顔を上げてナーエを見た。常と変わらず壇上に座した少女は、いつにも増して青白い顔で、胸を押さえて浅い呼吸を繰り返していた。なめらかな額には、銀色の髪が汗で張りついている。ただ薄紫の瞳だけが、底光りするような奇妙な輝きをたたえている。話すのも普段の甲高い早口ではなく、絞り出すようにゆっくりだった。
 リューオもまた、ゆっくりと口を開いた。
「ユンギル王子は裏切ったわけではないでしょう。あなたは自分の本当の目的を教えもせず、サウザーを利用していたのだから。むしろ、講和の直前に至ってこんなふうにわたしを連れ去ったことのほうが裏切り行為にあたるのではないの?」
「うるさい! あなたなんか大嫌い!」
 栗色の髪の少女を睨みつけるナーエの目に浮かんでいるのは紛れもない憎悪だ。
 彼女がリューオを必要とするのと、好意を抱くことはまったく別の問題だ。これまでのやりとりから、互いが互いを嫌っていたところで不思議はない。だが、ぎらぎらと光るふたつの瞳にたたえられた昏い炎は明らかに正常なものではなかった。この幼い姿をしたノナエは、今にも正気の縁から足を踏み外そうとしている。
「オルジアン! ちゃんと結界を張ってあるのでしょうね。通してはだめよ。絶対にだめ。みんな殺してしまいなさい。リューオの心残りになるようなものはぜんぶ! ひとりぼっちになればリューオはここに来るわ。来てくれる。だから早く、ユンギルもみんな殺してしまって……!」
「ナーエ様……」
 ナーエは常にラキトスを滅ぼすことを求めていた。その国を地図の上から抹消しろと。だが、他者の死を命じたことはなかった。ラキトスの民を皆殺しにしろとは、一度として口にしなかったのだ。
 そのとき、ナーエのわめき声をかき消すような音が聖堂いっぱいに響いた。耳鳴りに似た激しい共鳴音。そして、聖堂全体を覆っていた力場が一瞬だけ金色に輝き、あっという間に砕けて消えた。
 反射的に耳を塞ぎ、次いで顔を上げたリューオが最初に見たのは、鮮やかな緋色の髪だった。
「うわぁ、すっごい力業。豪快ですねぇ」
「うるせえよ。おまえが思いっきり斬れって言ったんだろ」
「ええ、そりゃ言いましたけど、こんなに衝撃がくるほど思い切ってくれなくても……。うーん、手がビリビリする。カーヴァル卿かユンギル殿下に頼めばよかった」
「喧嘩売る気か? いいぜ、その脳天かち割ってやる」
「ふたりとも、無駄口を叩いている場合ではないでしょう!」
 ユンギルにぴしゃりと言われてイアスが笑ってごまかし、カーヴァルはふざけたやりとりを完全に無視して聖堂の中に鋭い視線を向けている。彼らに率いられた兵士たちは、すでにラキトス兵とサウザー兵の区別なく、一体となってこちらを取り囲んでいた。
 そして、
「レオン!」
 穏やかな榛色の瞳が、まっすぐにリューオを見た。
「よう、元気そうだな。リューオ」
 にやりと笑う表情。低い声。
 手にした抜き身の剣は、結界を破った名残か、ぼんやりと淡い光を纏っている。服のあちこちに点々と返り血の跡があるのは、ここまで来るためにも何度かその剣を振るった証拠だろう。よく見ればわずかに息を乱しているのがわかる。それは隣のユンギルも同様だった。
「サウザーが協定を破ったとおっしゃるなら、どうぞご自由に。ただし、セフィア姫は返していただきます」
 涼やかな声が宣言する。サウザーの若者はリューオと視線を合わせると、無事な姿に安堵するように微笑んで、「お迎えに上がりました」と告げた。
 離れていたのはほんの数日でしかない。それでもこの陰鬱な神殿でナーエとの出口の見えない問答をひたすら繰り返し、今こうして見るレオンやカーヴァル、そしてユンギルの姿が、どれほどなつかしく感じられるか。
「ナーエ様の体調を慮って、あまり頑強な結界を張れませんでしたね? オルジアン」
 ごく何気ない動作でイアスが足を踏み出した。結界の残滓がちらりと金色の炎になって彼の足を舐め、踏み砕かれてパリンと消える。
「俺が壊しにかかるとわかっていたから、その衝撃の負荷がナーエ様にかからないように」
 そして色素の薄い青年神官は、にこりと微笑んでこうつけ加えた。ありがとうございます、と。他意のない、穏やかな微笑だった。
 しかし、次にナーエに向けた視線は、一転して痛みをこらえる色になっていた。
「ナーエ様、やはり症状が……」
「イアス……また、あなたなのっ……!」
 ぎり、とナーエが歯を食いしばった。握りしめた小さな手が激しく震えている。
「いつも、いつも、いつも……余計なことばかりして! おとなしくしていてって、何度、言ったら……あなたなんか、そうやって、巻き込まれて死ぬのよ! どうして関わるの! どうして! わたしのことは、ほうっておいてちょうだい!」
 叫び声は次第に大きく、甲高くなっていく。その異様な気迫に縛られたように、今や神官も兵士も区別なく、誰もがナーエを見つめていた。
「もういや、もういや、もういや! 誰もかれも、みんなわたしの邪魔をして! やっと時が満ちて、道筋を変えられたと思ったのに! なのに、どうして、邪魔を、してっ……死んで、しまうのよ。何もかも滅んで、死の息吹が、大地に、満ち、る……! あ、ああ……!」
「ナーエ様!」
「いけない、ナーエ様!」
 オルジアンとイアスが同時に叫ぶ。そして、ナーエの細い喉から、彼女のものとは思えないほどのすさまじい悲鳴が迸った。


          *

 最初に感じたのは微かな振動だった。
 リリズにおける両軍の混乱は一応の収束に成功していたが、シュトラッドの予想通り、演説ひとつでサウザー軍に向けられた疑惑を完全に晴らすことは難しかった。ユネとシュウの姉弟が持っていた腕輪をレオンに預けてしまったのも、痛かったといえば痛かったかもしれない。互いの陣営地の間には、一触即発とは言わないまでも、緊張を含んだ不穏な空気が漂っている。
 死者の埋葬と負傷者の治療が済んでしまうと、あとはダーシェンに向かったレオンとユンギルが戻るのを待つしかなかった。ラキトス軍もサウザー軍も、最高司令官を欠いた状態だ。軍を預かる将たちは、それまでの間に何かをきっかけにして再び無意味な衝突が起こることがないよう、細心の注意を払って任務にあたっていた。
 ヴァーニがその揺れに気づいたときにはほんの微かな振動でしかなかったが、次第にはっきりと身体に感じられるようになってきた頃には、さすがにほとんどの者たちが異常に気づきはじめていた。つながれた馬たちも不安げにいななく。
「地震か……?」
 ラキトスでは地震は珍しい。ヴァーニは眉をひそめてつぶやいたが、彼がとっさに案じたのは、揺れによる被害そのもの以上に、兵士たちがパニックを起こして混乱状態に逆戻りすることだった。立っていられないほどではないが、揺れは長く執拗に続いている。
 混乱を防ぐために部下を呼んでいくつか指示を与えたところで、背後から声をかけられた。
「おい、ヴァーニ」
 振り返ると、巡回から戻ったばかりらしいフェレイが馬を寄せてきたところだった。揺れに落ち着かない様子の愛馬をなだめながら鞍を降り、「見てみろ」と西を指し示す。
 とっさには、それが何なのかわからなかった。
 西の空を覆う奇妙な黒い色。それを雲だと認識するまでにしばらくかかった。
 空の果てにわき上がった黒い雲が、まるで生き物のように空を這い、こちらに迫ってこようとしている。雲の縁は、そこだけがぼんやりと淡い金色を帯びて鈍く発光し、それがより一層、その雲を生き物めいた禍々しいものに見せていた。
 すぐに言葉が出なかったのは認識に手間取ったせいばかりではない。それを見た瞬間、言い様のない悪寒が全身を走り、幾度も死線をくぐってきた歴戦の将から言葉を奪ったのだ。
「……あれは」
 ようやく、絞り出すようにつぶやく。
「わからねえ。だが、あんなに気味の悪い雲を見るのは初めてだ」
 まったくだ、とヴァーニはうなずいた。
 だが、何よりも彼らを不安にさせたのは、その異変が西から起こっている、という点だった。
 西にはダーシェンがある。
 普段は畏敬をもって呼ばれるこの名が、今ほど不穏に感じられることはなかった。
「ご無事でおられればよいが……」
 ラキトスの双璧と讃えられるふたりの勇将でさえ、不吉な予感にとらわれたのである。他の兵士たちが平然としていられるはずもなかった。西の空を仰いだ者たちの間から不安げな声が上がり、彼らもまた魅入られたように立ち尽くしていた。
 理屈でなく、誰もが本能的に悟っていた。
 あれは違う。
 あの雲は違う。あれは恵みをもたらす雨を運ぶ雲ではない。黒くわき上がる、あれは不吉な死の群像だ。
「あの方角は、まさか……」
 呻くようにつぶやいたのはラクトだった。ユンギルの片腕である黒髪の青年は、連絡のために訪れていたラキトス軍の司令部でこの奇妙な光景の目撃者となったのだった。
 西には何があるか。彼が真っ先に考えたのもそのことだった。
「まさか、ダーシェンで何か……! 冗談ではないぞ。今あそこにはユンギル様がおられるのだ。もし殿下の身に何かあれば……!」
「ガタガタ騒がないで。ダーシェンにいるのはうちの王女殿下も同じよ」
 ピシャリと遮られて振り向くと、戦場には不似合いな若い娘がラクトと同じように西の黒雲を睨んで立っていた。ユネという名は知っている。彼女とその弟が例の神官からの伝言を預かってきたのだと聞いていた。
 ユネは空から視線を外し、ラクトを振り返った。
「一度送り出したのなら信じて待ちなさい。戻ってくる人たちを胸を張って迎えられるようにしておくのが、あたしたちの役目でしょう」
 その強い眼差しは、彼女自身が覚悟を決めて誰かを送り出したという証拠だ。あるいは、先程の口ぶりからして、セフィア王女と何らかの面識があるのかもしれない。ラクトは容易く動揺した己を恥じた。
「その通りだな……。すまない、少々取り乱したようだ」
「謝らなくてもいいわよ。こっちだって虚勢張るので精一杯なんだから。近くで不安なことを言われたら伝染しそうで嫌だっただけ」
「いや、虚勢だけでも張らなければ呑まれる。あれは危険だ」
 言いながら、もう一度視線を空へ投げる。何が違うというわけでもないのに、何かひどくおぞましい黒雲。あれがここへ来たら終わりだと、一刻も早く逃げ出せと、頭の奧のほうで誰かが声高に叫んでいる。それを強引にねじ伏せて、ラクトは馬の手綱を取った。
「すまないが、私はサウザー軍の陣営に戻っていると、ヴァーニ将軍かシュトラッド騎士団長どのに伝えておいてもらえるだろうか」
「いいわよ。せいぜい頑張ってサウザー軍をとりまとめておいてちょうだいね」
 喧嘩を売るようなユネの言い方に、ラクトはかすかに笑った。本人が言ったように虚勢を張っているせいなのか、もともとの性格なのか、おそらくは両方だろう。どちらにしろ、この状況下で少しでも笑う余裕ができたことは大きかった。
 揺れは続いている。何が起こるにせよ、常に最善の状態を保っておくことが、ユンギルから軍を預かったラクトの果たすべき役目だった。


 奇妙な地震と言い様のない恐怖に襲われたのはリリズの兵士たちばかりではなかった。カンザでもオレーンでも、人々は息を飲んで西の空を覆う禍々しい黒雲を見つめていた。地震だけならば、東部のクィーゼを含むラキトス全域にわたっている。
 異変は明らかに西から起こっているにも関わらず揺れが最も激しいのは王都カンザだったが、それは誰にも知りようのないことだった。また、たとえ知ったところでその意味するところまで理解することはできなかっただろう。
 死を運ぶ雲が、小さくも美しいこの国を覆い尽くそうとしていた。





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