森唄


 森は暗くしんとして、湿った冷たい空気の中には鳥の声もない。
 透き通った水晶のような露がやどる枯草の中に、倒れて横たわる小さな影がある。その脇には、厚く重なり合った木々の葉をわずかに透かして、金色の細い光の棒が一本、斜めに頼りなく差している。その光の中に、一本の矢が溶け込むように交差している。
 それは幾本も矢の突き刺さった、小さな獣ふうの妖種の死骸だ。茶色の毛皮の背中の一筋と、尖った耳の先が黒く、尻尾は体と同じくらいに長い。毛並みはばさばさで、黒い血でところどころ固まっている。近隣の村人らが、追い回し追い回し、ようやく仕留めてそのままここに捨て置いたのだ。
 ところが不意に、その骸の下に小さな手が差し入れられた。
 大きな黒い目をりんと張ったこどもが、いくつもの鏃に肉を裂かれて死んだ妖種の亡骸を抱き上げる。妖種はふつう、死ぬとじきに灰となって崩れてしまうのだが、こどもの小さな腕に抱かれた亡骸は、灰にならずにその姿を留めていた。
 きっと口を結んだまま、黒い目のユーディユールはあわれな妖種の背や腹に刺さった矢を、一本ずつゆっくりと抜いていった。落ちた矢は地面に触れる前にぼろぼろと崩れ、溶けるように消える。
 小さな毛皮の妖種を抱いたまま、ユーディユールはゆっくりと歩き出す。人里とは反対の方向に木立を抜けると、そこは森に囲まれたきれいな丘だ。葉をつけない大きな樹が、銀色の枝を複雑に空へ伸ばしている。
 森の中に金色に差し込んでいたのは、月の光だった。大きな満月が中天にかかって、あたりは一面、青い闇と降り注ぐ金色の粉で静かに染められている。丘の草は霜が降りたように輝き、つめたく冷やされた露はまるで黄金の雫だ。
 丘を登るユーディユールの足元を、いつか小さな影がいくつも駆けていた。それはどれも、ユーディユールが抱いた亡骸と同じ種類の妖種で、眼の色だけが、そこらの露のような金色だ。せわしく息をつきながら、草を踏む小さな足にまとわりついたり、一心に丘を馳せ回ったりしている。
 小狐ほどの大きさしかないこれらの妖種は、人も襲わず畑も荒らさない、それ自体はおよそ害のない、おとなしい性質のものたちだ。それを里人らが見つけると、それはもう一心に追いかけ、森に分け入ってまで探し出し、なんとしても殺そうとするのは、かれらがもっと大きな、人を襲う凶悪な妖種を呼び寄せると信じられているためだ。この小さな妖種らは、人には不吉な黒雲の運び手で、現れることがすなわち罪状なのだ。そこで、先触れという意味で“オラデ”と呼ばれた。
 ユーディユールの腕の中で、ぐったりしていた妖種の耳がぴくんと跳ねた。ぱちりと眼を開き、首を伸ばしてちょっと頭を曲げるようにする。前は確かに黒かったその眼は、いつか回りを跳ね回っている同胞たちと同じ黄金色だ。傷はふさがって、黒く凝っていた血は月の光にすっかり洗い流された。
 はっはと息をして、それはユーディユールの腕を飛び出した。他のものたちも、新しい仲間に喜んでそこらを駆け回る。
「だめだよ、あんまり遠くへ行くなったら」
 ユーディユールは一足で銀色の樹の一番てっぺんの枝に跳ね上がり、そこに座って小さな水晶の笛を唇にあてた。オラデたちも静まってきちんと座り、耳をぴくぴくさせながら笛の音を聞いている。こんなよく晴れた晩には、ユーディユールはきっとその笛を吹くのだ。
 もしこの丘を誰か変わり者の絵描きや道に迷った旅人が通ったら、誰もみんな驚くはずだ。そこにはなんのかたちも見えないのに、高く澄んだ水晶の笛の音だけが天から降るように流れ、森の木々がりんりんと共鳴している。悦んで手を叩いて跳ね上がるか、真っ青になって震えだし、とうとう走って逃げ出すかは、その人しだいだ。
「さあ、もういいよ。行こう」
 笛を吹き終えると、ユーディユールはまたひらりと草の上に降りて、丘を下りはじめた。森の中はしんとして冷たい。木々の中に入る直前、オラデの一匹が丘を振り仰いでひと声長く吠えた。どこか近くで、寝ぼけた鳥が騒ぐ。それからまたすっかり静かになった。月が傾いて、森の黒い影の上にリンデンセンの星が青白く燃えている。


 それから四、五日経った、うすくらい昼間だった。
 雲がへんにぎらぎらして、近くは灰色に、遠くは黒く、ぎっしりと空を隠して垂れ込めている。あれは綿のようにも羊のようにも見えない、あれはまったく意地の悪い雲だ、きっともうすぐ冷たい雨が降るぞと、ユーディユールは考えた。それが今年最初のみぞれだったら、もう一気に冬がやってくる。
「はやく雪が降るといい」
 つぶやきながらこの間の丘を登って行ったところで、ユーディユールの目がきらっと険しく光った。
 丘の向こうの木立の中の暗がりを、ゆっくり動いているものがある。のそりのそりと重たげな体を揺すって歩いているのは、毛のない灰色の皮と、のっぺりと平たい頭を持つ大型の妖種だ。眼は小さく、裂けたような口の間からぎっしりのぞく歯と、四本の足の爪がむやみにするどい。
 ユーディユールの足元で、オラデたちが茶色の毛を逆立てて唸り声を上げる。
「静かにおし。だいじょうぶ心配いらない、そんなに騒ぐなったら」
 ユーディユールに背や頭を撫でられて、小さな獣の妖種たちはようよう静まった。舌を出して小さな主人の手を舐める。ユーディユールだけが、強そうに口を結んで、向こうを横切っていく大きな影をじっと見つめている。湿った嫌な風が吹いて森がざわざわと鳴った。
 里の者たちはこの妖種をウランジュの名で呼ぶ。“空腹”という意味だ。
 ウランジュは一度、人里に現れると、人や家畜をことごとくむさぼり食う。爪と牙はやすやすと肉を裂き、大きな顎は骨でも木の柵でも簡単に噛み砕いてしまう。灰色の厚い皮は硬く矢を通さず、槍でも深手は負わせられない。また少しばかりの傷ではびくともしないのだ。一頭で村ひとつをまるごと食い荒らすこともある。
 実際、ウランジュはいつも飢えている。人々は、オラデがウランジュの手下で、これを呼び寄せると信じているが、オラデにとってもウランジュは捕食者なのだ。ウランジュは、一年の大半を眠って過ごし、腹を空かせて目を覚ますと、餌であるオラデを探して森の中を移動する。そして、食い足りない分は人里を襲う。オラデは小さいが、ウランジュにとっては人や獣より美味であるし、よほど腹もふくれるのだ。ところが人間どもは、目についたオラデをことごとく殺してしまう。そこでウランジュは余計に腹を空かし、余計に人を喰うのだった。
 森や野原が一面の雪に覆われると、次の春までウランジュは出てこなくなる。あの一頭も、雪が降り出す前の、最後の腹ごしらえといったところだろう。
「今ここらには、一匹のオラデもいない。あの里はきっともうだめだろう」
 それは、あの満月の晩に、ユーディユールたちの一番新しい仲間を矢で射殺した集落だ。
 ユーディユールの額に、ひとつぶ小さな雫がはねる。そしてすぐに、そこらは雨の降る音でいっぱいになった。ユーディユールは、冷たい雨を降らせる重苦しい黒雲をちらりと見上げて、ふいっと身を翻した。
 殺戮は、その夕暮れに始まった。


 夜半から、雨はやっぱりみぞれになった。氷の粒が混じった雨が、暗い空からびちょびちょ降っている。月明かりも差さず、星もない。森の木々も黙ってぽたぽたと透き通った雫を落としている。
 雨がにおいを洗い流して、遠目には、ただ村はしんと静まりかえっているだけのようだ。しかし、一歩集落の中に足を踏み入れると、かすかな血のにおい、鼻をつく独特の臭気、そして足元の水たまりは、夜が明けて日が差せばうっすらと赤く染まっているのがわかるだろう。
 そこは実に、人と獣の死骸でいっぱいだった。みんなひどく食い荒らされて、この暗闇の中では、それが人間なのか家畜なのか、生き物の断片なのかそうでないのか、区別をつけるのはとても難しい。壊された納屋や家の中、道端や畑、どこを見てもいろんなものが散らばって、黒々とした影になっている。
 さあ嫌なにおいだ、こんな雨でもやっぱりこのにおいは消せないのだと、ユーディユールは思いながら村の中の道を歩いた。血のにおいでも死臭でもないこのいやなにおいは、ウランジュが傷を負ったときにそこから発するにおい、そしてウランジュが食い荒らした肉からも発するにおいなのだ。
 村人たちがウランジュを手負いにできたのかどうかはわからない。もうここにあの灰色の、平たい頭と恐ろしいするどい歯を持つ飢えた妖種の姿はなく、どちらにしろウランジュは食事を終えて立ち去ったのだ。
「ずいぶん雑な食べ方だ。あいつめ、ふん、この雨がよっぽど嫌だったらしいぞ」
 というのも、まだたべられそうな肉を残した死体が、あちこちにごろごろしているのだ。貪欲なウランジュは、裏を返せば几帳面でもあって、獲物をもっときれいに平らげる。骨やかたい皮、脳髄は好まないらしく顔の肉だけそぎ取られた頭蓋、そんなものを残すだけで、たいがい無駄なく食い尽くしてしまう。それが今夜はずいぶんおざなりなのは、半分凍ったこの雨のためだろう。食事の最後のあたりになると、冷たいみぞれに打たれるのが嫌になってきて、文字通り適当に食い散らかしていったのにちがいない。
「でも、これだけ食べておけば、もうこの冬の間は、あいつは出てこない」
 つぶやいたユーディユールのところに、数匹のオラデが駆けてきた。ユーディユールを見上げてしきりに吠えたり、足元をくるくる回ったりする。
 小さな妖種たちにしきりに急かされながら、ユーディユールはゆっくりと村外れまでやってきた。雨はそろそろ弱くなりはじめている。壊れた水車のそばに集まっていた何匹かが顔を上げ、ユーディユールと、ユーディユールについてきた仲間のために場所を空けた。
 オラデたちが囲んでいたのは、小さな死体だった。しかし、よく見ると、それはまだ死体ではなかった。ぐったりと目を閉じているが、ほんのすこうし、息があったのだ。脇腹が抉れているだけなのは、きっとウランジュが食事の終わり際に、ついでとばかりに一口食いちぎっていったのだろう。だが、血をたくさん流しているせいと、凍るような雨に打たれたせいで、今にも死にそうだった。ユーディユールがここで見ているうちにでも、小さな心臓は止まって、村人たちの作る死者の列に加わるだろう。
「いいよ。行こう。それも今に死ぬから」
 そう言ってユーディユールは村を出ようとしたが、ふしぎなことに足が動かなかった。オラデたちも、しきりにこの死にかけた子どもを気にしている。
「ぼくはこの子を知っている」
 ユーディユールはぼんやりと言った。
 そうだ。この子は里の子らでただひとり、オラデを見ても石を投げたり、木の枝でこしらえた鞭で罠のあるほうへ追ったり、おとなたちを呼びに行ったりせず、いつもちょっと驚いたようにしながら、黙ってじっと見ているのだった。そのためにかえって村では気味悪がられて、殴られもしないかわりに誰も相手にしなかった。
 ユーディユールの黒い瞳が、ちょっとおかしな光り方をした。そして、しばらく迷うようにしてから、思い切ったようにその子どもの傷口に手を伸ばした。
 茶色の毛並みを雨に打たせた金の眼の妖種たちが、頭をそらして、一斉に長く細い遠吠えをやった。


 夜が明ける頃には、雨はすっかり上がっていた。冷たく晴れた空には、わずかに消え残ったリンデンセンや他の星たちがぽつりぽつりと浮かんでいる。
 ぼんやりしたうすあかりのなかで、血と泥濘に覆われたその村は、それはそれはしんとしている。もう少ししたら金色の朝陽が差して、あたりを新鮮な光で満たすだろう。
 そのときふと、静寂の底で身動きをする小さな影があった。村外れの壊れた水車のわきで、尻尾の長い、小さな獣のようなものが起き上がり、茶色の毛並みをぶるっと揺すって水滴を振り落とした。それから、黒い目をせわしくまばたかせて周囲を見回した。
 その小さなオラデは、しきりに自分のにおいを嗅いだり、そこらをぐるぐる回ったりしていたが、やがて森のほうへ駆けていった。
 森の中の丘の上では、ユーディユールが銀色の枝に腰掛けて水晶の笛を吹いている。やってきた小さなオラデはちらっとそっちを見上げたが、そこには何も見えず、ふしぎな笛の音だけが聞こえているのだった。
 今度こそ、村には動くものは何もない。ただしんしんと、夜が明けるのを待っている。



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