タイの王朝 Thai Dynasty

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ラーチャプルック (ราชพฤกษ)

タイ語で、「植物の王」の意。タイの国花。
マメ科のカワラケツメイ属の落葉高木で、
和名は、ナンバンサイカチ(南蛮皀莢)。
学名は、Cassia Fistula L.
ゴールデンシャワー(Golden shower)とも呼ばれる。


スコータイ時代 Sukhothai Era

 「タイ」は、1939年06月24日立憲革命記念日に、ピブーンが改名するまで、「シャム」と呼ばれていた。シャムの語源は、ポーナガルのチャンパ碑文(1050)やパガンのビルマ語碑文(1120)、クメールのアンコール・ワットの刻文(12世紀)にも見られる「Syām」に遡る。ビルマの「Shan」とも関係がある。漢字表記の「暹羅」の「暹」はスコータイを表すと言われていたが、南のスワンナプーム(後のスパンブリー)またはシャム湾沿岸の町を指すという説が有力である。

 東南アジアへの人類の移住は50万年より前で、スピリットケーブで見つかった稲作の遺跡は西暦紀元前6800年より前の物と言われている。インドが出身地といわれるドゥヴァーラーヴァティ人は、少なくとも5000年前には稲作を始め、農耕文明の礎を築いた。紀元前4500年にバーンチエンは青銅器文明の中心地だったと推定される。6世紀頃になると集団生活力に長けたモン族が興隆し小国家がいくつも誕生した。モン族の小国家はクメール人の圧力を受け、11世紀には強大な力を誇るアンコール朝の支配下に置かれた。

ワット・プラパイルアン

アンコール朝クメール支配下のスコー
タイの中心地。現在の城壁の北部に
位置する。

 タイ諸族の故地はアルタイ山脈の麓である。大タイ主義のプロパガンダだとして、これを否定する説もある。13世紀まで支那の史料以外に有効な史料がほとんどなく、漢代には「西南夷」という蔑称で呼ばれている。紀元前6世紀頃、タイ諸族は長江南部に移り、紀元前2〜1世紀頃に漢族の圧迫により徐々に南下して、雲南のチエンルン(景洪)にシップソンパンナー(12千田、16世紀にビルマへの朝貢が始まってから付けられた名で貢ぎ物の単位パンナーが12ヶ所あるという意味。支那人は「西双版納」と当てた。)に移住した稲作を営む農耕民族である。現在でも一部が支那の広西チワン族自治区、雲南省などに住んでいる。
 紀元前後に、漢族の圧迫を再び受け、波状的に何百年にも渡って徐々に南下西進して拡散していった。タイ諸族だけではなく、ビルマ族も越南(ヴェトナム)族も支那南部が故地であり、ビルマ族はチベットから雲南を経てエーヤワディー(イラワジ)川を南下し11世紀にパガンに王国(パガン朝)を築いた。越南族は南シナ海沿岸のチャム族やクメール族の地を数百年掛けて南下侵略し、18世紀までにメコンデルタに達した。
 220年頃には、漢の崩壊に続いて、六詔(りくしょう)が成立し、そのうち蒙舎詔(南詔、ナン・カオ)が他の5詔を従え、ノーンセー(大理)にナン・カオが成立した。支配民族はタイ諸族ではなく、チベット・ビルマ語族のロロ族と言われる。ナン・カオは10世紀初頭に滅亡し、タイ諸族は南下西進しインドシナ半島に達し、フォン川、メコン河、サルウィン河の河川沿いに扇状に歩を進めた。ナン・カオは大理に引き継がれたが、13世紀の元による侵略により、インドシナ半島への南下西進が加速され、現在のヴェトナム、ラオス、タイ、ビルマに分布するようになった。北は雲南から、東は海南島、西はインドのアッサム、南はマレー半島にいたる東南アジア大陸部一帯に分布している。
 最も西進したタイ諸族は現在のインドのアッサム州プラマプトラ川沿いにアホーム王国を13世紀に興した。エーヤワディー(イラワジ)川沿い、タンルウィン川沿いに南下したタイ諸族は、同時期にエーヤワディ川沿いを南下したパガン朝のビルマ族からシャンと呼ばれ、自らはタイ・ヤーイ(大タイ)族と呼び、ムンマオ、セーンウィー、ケントゥンにムアンを建設し、現在ビルマの主要民族となっている。また、メコン河沿いに南下したタイ諸族はタイ・ノーイ(小タイ)族で、11世紀にチエンセーンにラーンナー(百万の田)王国を興し、13世紀にマンラーイ王はチエンラーイ、ファングと都を遷し、1296年にチャオプラヤー河の支流、ピング川の畔にチエンマイ(新城市)を建設、王都と定めた。メコン河を南下し、14世紀半ば、ルアンパバーンにファーグムが周辺のムアンを統合し、ラーンサーン(百万の象)王国を打ち立てた。これが現在のラオの原型になっている。メコン河の支那名、瀾滄江は ラーンサーンに由来する。
 しかしながら、今の支那人がかつての漢族ではなく数多くの遊牧民を主とする征服王朝によって何世代にもわたって混血・断種した雑種であるのと同様に、タイ族も南下の過程で、モン、クメール、マレー、支那等々と数多くの民族と混血を繰り返して現在に至っている。かつて、アユタヤでどういうわけだか夕食を奢ってもらった華僑に雲南から南下という通説を披露したところ、激しく異論を唱えられた思い出がある。史料や書物だけでは歴史というもの、民族というものが捉えられないということを付記しておく。

 7〜11世紀のモン族のドゥヴァーラーヴァティ朝の遺産を継承し、11〜13世紀にはインド文明を継承した全盛期のクメールのアンコール朝(802?〜1431/62)、ビルマのパガン朝(1044〜1287/99)の支配下で文明を学んだ。モンゴルが勃興し支那が宋朝から元朝に変わり国際情勢が流動化し、アンコール朝の統制が弱くなり、軛を解かれた小国家(ムアン)が簇生した。「スコータイ」は、これらの小国家を統一して、小タイ族(シャム族)により初めて建国された王朝で、「幸福の夜明け」と言う意味である。

ワット・マハータート

 クメールのアンコール朝から、初代シーインタラーティットは独立を勝ち取り、シャム族にとって初々しい時代が始まった。スコータイの歴代王は伝説上のプラ・ルワンを先祖だと称したので、歴代の王は代名詞的にプラ・ルワンと呼ばれた。タイ語ではスコータイ朝をプラ・ルワン朝と呼ぶこともある。3代ラームカムヘーンに各地のシャム族が臣属し、最盛期を迎えた。ラーンナー王国のメンラーイ王、パヤオ王国のンガムムアン王と友好関係を結び、「水に魚あり、田に稲あり。」に象徴されるように、豊饒な国土、父のような存在(ポークン)という温情主義で、物事のやりとりを法的・商業的な契約によるものではなく、個人的な関係によって行った平和な時代だったようだ。ところが、ラームカムヘーンが北部のガムムアン、マンラーイと結んだ同盟も個人的関係、つまり友情からだったといわれている。同様にラームカムヘーンは各地を同様の手法で統治したが、逆に、ラームカムヘーンの死は、各地の国主との個人的関係の消滅と判断され、各地の離反が相次いで起こり急速に国力が衰える一因となった。4代ルータイ期に属国が相次いで離反し、6代リタイは失地を一部回復したが、力をつけたアユタヤの独立を認め、7代マハータンマラーチャー2世期には属国と化し、9代マハータンマラーチャー4世が死ぬと、アユタヤに吸収され消えてしまった。

 ラームカムヘーン大王の像を前にしたとき、思わず全身に震えを覚えるとまで言われるほど崇敬されている。シャムの理想の桃源郷の君主像が投影されている。


スコータイ時代
スコータイ朝(プラ・ルワン朝)シーインタラーティット

ワット・マハータート

スコータイ朝の王室守護寺院。都城建設後シーインタラティット王により建立。

1240頃〜1270頃小タイ族(シャム族)を中心とするタイ最初の王。
スコータイはクメールのアンコール朝の西北隅の有力城市だったが、アンコール朝の最盛期のジャバルマン7世の死後、支配力が弱体化していた。
1240(1238?)年頃、アンコール朝配下のラート国(ウタラディット?ペッチャブーン?)のシャム族土侯のパームアンが、バーンヤーン国(現在のピサヌローク県ナコーンタイ郡)のシャム族土侯のバーンクラーンハーオを誘い挙兵。クメール人太守を敗走させスコータイを攻略。
最初に挙兵を計画したパームアンが、パーンクラーンハーオをスコータイ王に推戴。王剣と「シーインタラボディンタラーティット」という称号を贈り、自らは摂政となる。バーンクラーンハーオは縮めて「シーインタラーティット」と称した。シーインタラーティットとパームアンは同一人物という説もある。
スコータイ王国の成立。
新しいスコタイ王国は、奴隷制も重税もない柔軟性な法支配の国に見え、シャム族の土候国が集まった。
1254年からモンゴル(元)のフビライ・ハンの軍が南下。ビルマのバガン朝や雲南の大理を滅亡させ、タイ族の難民が流入。
バーンムアン1270頃〜1279?シーインタラーティットの長男。在位は短期間に終わる。
ラームカムヘーン
<<ラームカムヘーン大王>>

スコータイ遺跡公園にあるラームカムヘーン大王の像

ラームカムヘーン王碑文

3王の記念碑

左がパヤオ王国のンガムムアン王、中央がラーンナー王国のマンラーイ王、右がスコータイ王国のラームカムヘン王。チエンマイの中心の旧王宮(ホーカム)、現チエンマイ市芸術文化センター前広場にある。

クワン・パヤオを望むンガムムアン王の像

チエンライにあるマンラーイ王の像

1279?〜1298シーインタラーティットの3人の王子の3男(次男とも?)。母はナーン・スアン。19歳でチョート国の王と戦ったとき、自軍が敗走する中、敵軍中に踏み留まり、クン・サームチョンとの騎馬戦に勝ち、自軍を勝利を導いた。父王シーインタラーティットは「ラーマ王の如く強い(ラームカムヘーン)」という名を贈り讃えた。
モンゴル(元)の4度にわたる侵略(1277年〜1287年)を受け、ビルマのバガン王朝が滅亡。存亡の危機が迫り来る中、ラーンナー王朝のマンラーイ王、パヤオ王国のンガムムアン王と友好関係を保ち、三国が同盟してモンゴル(元)に対抗した(三王の盟約)。
三王の盟約について疑義説もあるくらいで、三王がラヴォー(ロッブリー)で学友だったという話に至っては講談の域を出ない。
スコータイを中心に数十劼領療擇髻⊆分の娘をモン族の王と結婚させ勢力はベンガル半島のバゴー、ルアンパバン、ウィエンチャン、マレー半島のナコンシータマラートにまで一気に拡げた。支那に使節を送り国交を結んだ。
「ポークン」という尊称が王に用いられ、一家の父のような存在という温情主義を強調。「王国を訪れる者からは徴税せず、誰でも何でも持ち込んで自由に商売ができた。また、困りごとのある者は王宮の入口につるされた鐘を鳴らすと、王自身が弱いものの訴えにも耳を貸し、公平に裁きをしていた。」(ラームカムヘーン王碑文)
スコータイは人口が少なく、王一人でほとんどすべての業務をこなせたようだ。タイ版水戸黄門というところか。
領内のシーサッチャナーライ、ナコーンチュム(カムペーンペット)、ソーンクウェー(ピッサヌローク)、サルワの「四大ムアン」(ムアンルークルワン、副首都程度の意味)に副王(ウパラージャ)並びに王族を置き、ポークンの思想を持って統治。また、大ムアンと呼ばれる地方の重要都市にも王族を置きこれもポークンの思想で統治。スコータイ近辺のムアンにはタイ族に同化していないモン族が多く居住していたが、これもスコータイの歴代の王は友情関係によって相手国を属国化しており、非常に穏やかな、強権的ではない地方統治がなされていた。
1283年頃、古モン文字を元にタイ文字を考案。スィラーと呼ばれるラームカムヘーン王碑文には、「わが父の名はシーインタラーティット、母の名はスアン」で始まり、「水に魚あり、田に稲あり。」の有名な一節がある。
19世紀に、発見者のチャクリー朝のモンクット(ラーマ4世)の捏造説が有力。ラームカムヘーン大王も存在していないという説がある。また、ウィアンクムカム遺跡からスコータイ文字によく似た文字が発見されていることから、すでに各地で使われていたと思われる。
セイロンからシヒン仏を輸入し、ナコーンシータンマラートから高僧を招いて上座部仏教の普及を行い、国教を大乗仏教から上座部仏教に変えた。
支那から陶工を招き、スワンカロークで「寸胡録焼」を生産。
ラームカムヘーンも完全無欠ではなく、「英雄色を好む」逸話も残されている。
ルアン王(ラームカムヘーン大王)はラーンナーの習わしに従い、毎年新年のソンクラーンにメコン河へ髪を洗いに行っていた。ある年の帰り道、仲の良いンガムムアン王の許を訪れたが、生憎と不在だったが、第1妃ウア・チエンセーン(チエンセーン家の次女)に魅せられて関係を結んでしまった。ルアン王はウア・チェンセーンのことを片時も忘れることができず、それからというもの何かと理由をつけては、パヤオへ出かけて行った。これを知ったンガムムアン王は怒り、ルアン王は呪術で金色の鹿に変身して逃げたが捕えられ、城門脇の牢獄に閉じ込めた。
ンガムムアン王は、「ルアン王には死で償ってもらうのが世の道義だ。しかし、相手は大国スコータイ。戦さともなれば、我が小国パヤオなど一溜まりもない。どうしたら良いものか。」と悩み、もう一人の盟友のマンラーイ王に処置を一任した。
かくして三者会談が始まった。
マンラーイ王「私は神に清められた偉大な王である。功績があり、慈悲がある。その上、大きな権力もある。」
ルアン王「私の方から誘ったのではない。彼女の料理を食べたら。ふと出来心で。若気の至りだ(このとき40代)。」
ガムムアン王「ウアの手料理を食べたのだな。彼女得意の媚薬入りに違いない。」
ガムムアン王「私は偉大な王である。人徳があり、慈悲がある。妃はウア一人だけではない。何人もいる。私ほどの王ともなれば、妃になりたいと言う者は後を絶たない」
マンラーイ王は、ルアン王はガムムアン王へのお詫びとして、現金9ルン9ルアン(99万宝貝、宝貝は当時の貨幣)を支払うこととする裁定を下した。
ンガムムアン王は、湖の畔で三日三晩、宴を催し、マンラーイ王の労をねぎらった。その後、3人の王は、イン川の辺へ行き、3人の血を混ぜた水を飲んで、永遠の友情を誓った。さらにルアン王は、宮殿でガムムアン王に得意の呪術を伝授した。このため、宮殿はワンカム(黄金宮殿)と呼ばれるようになった。
ルータイ1298〜1346/47ラームカムヘーン大王の長男。下ビルマのモン族がスコータイに離反し、派兵したが失敗。
ラオ系諸王国やナコーンシータンマラートの王が離反。ナコーンサワン、ターク、カンペーンペットなどの周辺の属国も独立。
グワナムトゥム1346〜1347ルータイの末弟。ルータイ王の王子リタイをシーサッチャナライの王に任じた。
マハータンマラーチャー1世(リタイ)

チンナラート仏

ピサヌロークのワット・プラシーラタナハマタート(通称ワット・ヤイ)にあり、タイで最も美しい仏像と言われる。

1346/47〜1368/74ルータイの子。かつての属領、ピサヌローク、ナコーンサワンを失地回復。
シーサッチャナーライ・スコータイ・カンペーンペットの3都を結ぶ街道を整備。
仏教に厚く帰依。一時期出家して「正法王」タンマラーチャーティラートと称した。タンマラーチャー(ダルマラージャ)は宗教を楯にした権力強化のための思想。仏教を利用し社会秩序を守らせる為に「三界経」が作られた。功徳は業で因果応報(タム・チュワ=ダイ・チュワ、タム・ディ=ダイ・ディー)を強調。
「高貴な人は前世において、修行者のように功徳を積み、布施を行ったのでよい生活をしているのである。」支配者階級の権力を正当化。貧富の差を肯定。タート(奴隷)・農民の生産意欲は低下し、王族・官僚は利益の追求を過剰に行った。
釋尊の教えに反するもので仏教と言えない。アユタヤ朝に入っても継続し、アユタヤ朝後期には、外国人が王族・官僚と結託し、生産意欲のないタイ人をさしおいて利益を独占するという状況を生みだした。この状況は現在も同じである。後に、チャクリー朝のラーマ4世が即位前に始めた戒律遵守運動から生まれたタンマユット派が批判しているが、「社会的地位を前世の功徳による宿命であり、現世の功徳により来世での幸福をつかむことができる。」という、現在も一般に流れているシャム人の心性を形成している。
リタイの後は「ポークン」は薄れ、王は「宗教(仏教でないことに注意)」を保護しなければならないとされた。仏教の優勢を確立し、仏法による統治を行った。しかし、ポークンの思想により、家臣が他宗教を信ずることも「暖かく」保護し、他宗教を弾圧することは起こらなかった。

1362年、アユタヤやルアンパバーン王国に対抗するため、東のヨム川沿いのピサヌロークに遷都。
弱体化していたスコータイに対して、ウートーンが謀反。1351年ウートーンのアユタヤでの独立を承認。アユタヤ王国の成立。
1371年にはアユタヤー王国の3代目ボーロマラーチャー1世に攻められた。
マハータンマラーチャー2世1368/74?〜1398?1371年、アユタヤ王国のボーロマラーチャー1世がスコータイ王国に侵攻。1375年、ボーロマラーチャー1世がピサヌロークを占領。1378年、スコータイはカンペーンペットとピサヌロークに二分。
サイルータイ王はボーロマラーチャー1世の家臣のピサヌローク王に格下げ。アユタヤに服属。
マハータンマラーチャー3世(サイルータイ)1398〜1419二分化されたスコータイ王国のうちのピサヌローク王。1400年、アユタヤからナコーンサワンを奪還。1412年、再びアユタヤに服属。
僧団を王の下に組織。大僧正を任命。
マハータンマラーチャー4世(バロムパーン)1419〜1438サイルータイの死後、長男のバーンムアン王子と次男のラーム王子が王位を争った。アユタヤ王国のナコーンイン王が調停に入り、長男のバーンムアンをマハータンマラーチャー4世として、ピサヌローク王に、ラームをスコータイ王にした。

ワット・シーチュムのアチャナ仏

アチャナ仏は喋れると信じられ、戦になると、アチャナ仏が兵士を激励し士気を高めた。実は王が壁の間の秘密通路を通ってアチャナ仏の裏側に周り、アチャナ仏を通じて激励していた。アチャナ仏の秘密を守るため、製作に関わった者は全て殺された。
 サイルータイ王の王女がアユタヤのサームプラヤーの王妃となり、ラーメースワン王子(後のトライローカナート王)を産んだ。
 1438年、マハータンマラーチャー4世の死後、王位継承者が絶えた。ラーメースワン王子が家督を継ぎ、スコータイ王国はアユタヤ王国に吸収され消滅した。

ワット・マハータット

中央の塔は、蓮の蕾を象ったもの。スコータイ独特の様式。


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アユタヤ時代 Ayutthaya Era

 「アユタヤ」の語源は、インドの古代叙事詩ラーマーヤナに出てくるコサラ王国の都「アヨードヤー」(Ayodhya)。インドのウッダル・プラデッシュ州にアヨードヤー(Ayodhya)という町がある。歴史の栄光を讃えて、現在の県や県庁所在地の公式名称は都の意味を付して、「プラタナコーン・シーアユタヤー」である。

 アユタヤ王国は、1351年から1767年にビルマのコンバウン朝のシンビューシンンに滅ぼされるまでの416年、歴代36代の王が続いた。しかし、ラーメースワンは2代と5代に2回即位しており、16代シーシンや17代ウォーラウォンサーを王統に数えなかったりで、33代、34代、35代と記している書もある。戦乱とクーデターの血で血を洗うタイの戦国時代である。前期は、東部のクメール、南部のマレー、北部のチエンマイ(ランナータイ)への侵攻戦、後期は、西部のビルマの侵攻に対する防衛戦(ほとんどが領内に攻め込まれ負け戦)である。

 「アヨードヤー(後のアユタヤ)」は、チャオプラヤー川、ロッブリー川、パーサック川の3河川の合流点に位置する北方と海洋の接点の島である。周囲は稲作に適した平野が広がり、シャム湾経由の支那やインド、イスラム教徒との貿易にも適していた。
 「スワンナプーム(後のスパンブリー)」はナコーンチャイシー、ラーチャブリー、ペッチャブリーからナコーンシータマラートまで上座部仏教を国教とするシャム族が勢力をもっていた。
 「ラヴォー(後のロップリー)」はチャオプラヤー川東岸、クメール族、モン族、パーサック川に沿って北と東北からシャム族が混住し、大乗仏教、ビルマから上座部仏教、クメールからバラモン教が混淆した宗教を信奉していた。

 ペチャブリーの支那人ウートーンが、スワンナプーム(後のスパンブリー)候、1340年にはラヴォー(後のロッブリー)・アヨードヤー(後のアユタヤ)候の娘と次々に婚姻関係を結び、両国を糾合し両国の中間にすでにあったアヨードヤーに新王朝を開いた。日本の奥三河での松平家(徳川家)の草創期とよく似ている。
 スコータイ王国を約1世紀掛けて属国として併合し、スコータイ王国は消滅した。ところが、初代ウートーンは、ラーメスワン王子をロップリー(ラヴォー)候、王妃の兄(弟?)のパグワをスパンブリー(スワンナプーム)候に任じ、ロップリー朝とスパンブリー朝との間で王位継承の争いが相次ぎ、政変(クーデター)が絶えなかった。1409年に7代ナコーンイン(スパンプリー朝)が実権を握り、初代ウートーンの直接の子孫であるロップリー朝は途絶えた。

アユタヤの玉座 (映画「スリヨータイ」

 衰退期にあったアンコール朝のクメールに勢力を伸ばすベトナムに対抗し、1362年にクメールをアユタヤの版図に加え、1369年、1388年、1431年の3回王都アンコール・トムを攻略した。そのため、クメールは東のプノンペンに遷都せざるを得ず、1432年にはアンコール朝は滅亡した。北部はスコータイを併合したが、チエンマイの占領には失敗した。南部はナコーンシータマラートを支配下に置き、さらにマレー半島諸国に覇権を伸ばそうとしたが、15世紀早くからマレー半島ではマラッカやタンブラリンガ以南のマレー半島諸都市はイスラム教に改宗し、とりわけムザッファル・シャーがイスラムを国教と定めたマラッカ王国(1402〜1511年)はマレー半島域やスマトラ島東海岸に勢力を拡大していた。これらマレー半島諸都市はアユタヤに逆らい、支那王朝の明の保護下に入った。結果的にアユタヤはマレー半島南部を失ったが、マレー半島北部を維持し高級品を求めた支那商人によりアユタヤは国際都市として栄えた。

騎象戦 (映画「スリヨータイ」

 16世紀頃からアユタヤの伸長は北のチエンマイ、下ビルマのモン族支配地域でビルマとの確執となり、西のビルマはタイ中部の豊かな稲作地帯と太平洋諸国への交易路を求めて、執拗に攻撃を繰り返した。ビルマのタウングー朝のバインナウン王は難攻不落と言われたアユタヤを1556年に陥落、1560年に18代チャクラパット、1569年には19代マヒンを下している。21代ナーレスワンによってアユタヤは再興され、17世紀には下ビルマのタヴォイ、メルギ、テナセリムの港市を占領、インド洋側で西洋やインドとの交易を行った。この後、ビルマが内乱に見舞われたことから一時ビルマの侵攻は収まったが、1767年に、コンバウン朝のシンビューシンによってアユタヤ王朝が滅亡し、アユタヤの町は徹底的に破壊され、タークシンはアユタヤ再興を諦めトンブリーへと移った。


アユタヤ時代
ロップリー朝(ウートーン朝) ラーマティボディー1世(ウートーン)

ウートーン

ワット・プータイサワン

1351〜1369支那人、ウートーン(金の揺り籠の意)は、1331年にペチャブリーのスワンナプーム(後のスパンブリー)候の姫と結婚、1340年にはラヴォー(後のロッブリー)・アヨードヤー(後のアユタヤ)候の姫とも結婚。スワンナプーム(スパンブリー)出身、ラヴォー(ロッブリー)出身説や、ランナータイ朝の血筋でチエンセーンの出自という説もある。
ラームカムヘーン大王の死後、ペグー朝が反乱を起こし、西海岸の港町メルギとテナセリムの港市を征服。ルータイ王はこれらの港の戦略的重要性を理解せず、港市の奪還に消極的だった。そこで、ウートーン候は自らの軍隊を差し向け奪還し領土に加えた。
1348(1347?)年、スワンナプーム(スパンブリー)のウートーンから、疫病(コレラ?)のため、アユタヤの西南地区(現在のワット・プッタイサワン)に移り、ウィエンレック宮殿を築いて3年間滞在。島内の新宮殿に移るとこの地に寺院を建立。
1349(1351?)年、東岸のロッブリー川付近のノーンサノーンに遷った。
1349年、ラヴォー(後のロッブリー)とスワンナプーム(シャムの「暹羅」の「暹」)を合併し、アユタヤ朝建国の基盤を作る。
スコータイ王国がモン族の反乱にあったとき、これを討伐し功績を挙げた。
1351年03月04日(金)、ウートーンはラーマーティボーディー(「王中のラーマ」の意)と称して、アユタヤ王に即位し、スコータイから独立。王妃の兄(弟?)のパグワをスワンナプーム(スパンブリー)王に、ラーメースワン王子をラヴォー(ロップリー)王に任命。
文武混合の行政組織、首都、宮内、大蔵、農業の大臣の体制を整え、支那、インド、ペルシャなどと交易。
マレー半島全域を占領。マレー半島は当時スコータイの領土であったため、スコータイのリタイ王は、クメールのアンコール朝の加勢を得て討伐したが、失敗。
1362年、ウートーン王は逆にベトナム勢力に対抗するクメールを平定し自治を認めた。スーコタイに討伐軍を送り、チャイナートを占領。チャイナートは後にサイルータイに返還。
国内統一のため、セイロンから仏僧を招き、上座部仏教を国教とする。ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に三印法典を整備。三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能。
ラーメースワン

ワット・プラマハタート

建立者は、ラーメースワン説とパグア説の2説がある。

1369〜1370ラヴォー(後のロップリー)王家とスワンナプーム(後のスパンブリー)王家の争いのため地位が安定せず、二回王位に就く。
ラーメースワンとはアユタヤ王朝初期の100年間、王位継承者の称号として使われた。
初代ウートーン王の王子。母はウートーンが統治したラヴォー(ロップリー)・アヨードヤー候の姫。ラヴォー(ロップリー)候となり、父王の死後、後を継いだ。
1369年、ウートーン王の命で5千人の兵を率い、クメールのアンコール・トムを攻撃したが失敗。スワンナプーム(スパンブリー)王のパグワの加勢を得て、ようやく攻略に成功。ラーメースワンの権威は失墜。
多くのクメール人を捕虜としてアユタヤに移住させた。
パグワはクーデターで王位を簒奪され、18年間ラヴォー(ロップリー)を統治した。
スパンブリー朝(スワンナプーム朝) ボーロマラーチャー1世(ボーロマラーチャーティラート1世、パグア)

ワット・プラマハタート

1370〜1388ウートーン王の王妃の兄(弟?)に当たる。スワンナプーム(後のスパンブリー)候。
1369年、ラーメースワンがクメールの討伐に失敗し、当時スワンナプーム(スパンブリー)候のパグワの援軍により成功。クーデターでボーロマラーチャーを自称し即位。
スワンナプームをスパンブリーに改称。
1371年、スコータイ王国に侵攻。1375年ピサヌロークを占領。
1378年、ナコーンサワン、ピサヌローク、カムペーンペットを占領し、スコータイのマハータンマラーチャ2世が降伏。アユタヤの属国となる。

スパンブリー王家は北方への膨張、ロップリー王家は南部への膨張に意欲を示した。

トーンチャン(トーンラン)1388パグワの死後即位したが、わずか7日間でラーメースワンに処刑された。王位を降ろされワット・コークプラヤーで出家し難を逃れたという説もある。
ロップリー朝
(ウートーン朝)
ラーメースワン
〔重祚〕
1388〜1395パグワが死に、その息子トーンチャンが王位に就くと、クーデターを起こし7日で再び王位に就いた(重祚)。
1388年、チエンマイ、アンコール・トムを攻撃。支配できず。
1390年、チエンマイを占領。住民を南部のナコーンシータマラート、パッタルン、ソンクラーおよび東南部のチャンタブリーに入植させる。
ラーマラーチャー(ラーマラーチャーティラート)1395〜1409ラーメースワン王が死に、王子のラーマラーチャーが即位。
4代王トーンチャンの弟のナコーンインがスパンブリー王となる。
1400年、スコータイのサイルータイがアユタヤよりナコーンサワンを奪還。アユタヤの北方政策が頓挫。
1409年、チャオプラヤー・マハーセーナーボーディーのクーデターにより、強制的に出家させられ、ウートーン王の直接の子孫であるロップリー朝の家系は途絶えた。
スパンブリー朝(スワンナプーム朝) ナコーンイン(インタラーチャー1世、ナカリンタラーティラート)

ワット・ロカヤスタの涅槃仏

1409〜1424ロップリー朝のラーマラーチャーをチャオプラヤー・マハーセーナーボーディーがクーデターで廃し推戴され王位に就いた。
1412年、スコータイが再びアユタヤの属国。ラーメースワン王子を統治者として送り込む。
チエンマイのラーンナー王国をはじめとする北部勢力を牽制するため、支配下にあったスコタイ王国の家督争いを調停。
アイプラヤー、イープラヤー、サームプラヤーという3人の王子がおり、各々をスパンブリー候、プレークシーラーチャー候、チャイナート候に任命。
ボーロマラーチャー2世(ボーロマラーチャーティラート2世、サームプラヤー)

ワット・ラチャーブラナ

王位継承の騎象戦で命を落とした長兄アイプラヤーと次兄イープラヤーの菩提を弔い、サームプラヤーが建立。

1424〜1448インタラーチャーの死後、王位をめぐり王子3人が騎象戦をしたが、上の兄2人が相討ちで即死。3男のサームプラヤーが王位に就いた。
スコータイ朝のサイルータイの王女が王妃となり、ラーメースワン王子(後のトライローカナート王)を産んだ。
1431〜1432年、アンコール・トムを攻略し王子が統治。クメールから多数のテクノクラートや官吏や住民を捕虜としてアユタヤへ連行。クメールはプノンペンに遷都を余儀なくされた(アンコール朝の滅亡)。
政治、慣習、芸術にクメールの影響が強まる。アユタヤ朝にバラモン教が入り込む。「王は神である。」とするバラモン的な神王思想。王語が発達。バラモン風の宮中儀式に改める。サックディナー制度を導入。

* サックディナー制度
貴賤を差別化し身分を定め、領内の全ての土地は王の所有物であるとし、人の身分に合わせて王が貸す土地(主に田園)の広さを定めた。この他にも、この貸し出された土地にあわせて、刑罰や罰金の重さなども定めた。サックディナー制度はこれ以降、タイの王朝の基本的体制となる。チャクリー朝ラーマ5世のチャクリー改革によって給料制を導入。重要性はなくなり、1932年のタイ民主革命の時に廃止。

1438年、マハータンマラーチャー4世が死に、スコータイはアユタヤの一地方となった。ラーメースワン王子(後の9代トライローカナート)をピサヌローク候に任命。
2回チエンマイを攻撃。占領には至らなかったが、12万人の住民を移住させた。
トライローカナート(ボーロマトライローカナート)

アユタヤ王宮跡

ウートーンが建てた王宮の北側に新王宮を建設。それまでの王宮の跡に王室の守護寺院としてワット・プラシーサンペットを建立

1448〜1488サームプラヤー王の王子。1431生まれ。母はスコータイ朝8代サイルータイ王の王女。スコータイ朝のとりわけリタイ王に帰依。1465年にピサヌロークで8ケ月出家。スコータイ王国の仏教政策を範にする。「トライローカナート」は仏教宇宙観の「三界の王」の意。
1438年、スコータイ朝最後の9代マハータンマラーチャ4世が死ぬと、ピサヌローク王。一時スコータイ王。
1448年、父のサームプラヤー王が亡くなり17歳で即位。一時、ピサヌロークに遷都を目論む。
1456/57年、プレー、ランパンに軍を派遣。ランナータイ朝のティローカラート王に撃退され、スコータイを一時占領された。
1460年、ランナータイ朝のティローカラート王がピサヌローク、カンペーンペットを攻撃。
1462年スコータイを奪還。この頃、アユタヤがテナセリムを占領。マラッカのムスリムを制圧。スワンカローク王がチエンマイのラーンナータイ王国と共に南下。
1463年、防衛上の理由から、トライローカナート王はアユタヤ王を辞し、ピサヌロークに遷都 。1464年、インタラーチャーをボーロマラーチャー3世に叙し、アユタヤ王に任じた。
1471年、最初の白象を捕らえた。
1474年、ティローカラート王と戦い、まずスワンカロークを、そしてチエンマイを討ち休戦。この北部征伐の様子はのちに文学作品「リリット・ユワンパーイ」の題材となる。
1487年、ティローカラート王が死亡。
1488年、タヴォイを占領。インド洋側の対外貿易中継地を確保。
、 従来の首都、宮内、大蔵、農業の大臣に加えて、カラーホーム(兵部卿)、マハートタイ(内務卿)の二大を顕職を置く。軍部総司令官を定め、その下に2人の司令官、その下に象兵長、歩兵隊三隊を定め、行政を効率化した。この行政体系はラーマ5世によるチャクリー改革まで続いた。
神王政治を発展させ、サックディナー制度を完成。官僚および人民の位階の上下の明確化。サックディナー制度は、1932年に立憲革命が起こるまで存続した。
「欽定版ジャータカ物語」、「リリット・プラロー」などの著作。真偽については諸説。
ボーロマラーチャー3世(ボーロマラーチャーティラート3世、インタラーチャー2世)1488〜14911464年、父王のトライローカナートがピサヌロークに遷都。
インタララーチャー王子をボーロマラーチャー3世に叙し、アユタヤ王にした。ボーロマラーチャー3世は北部の侵略を退ける役目を25年間担った。
1488年、トライローカナート王が死にインタララーチャー2世として正式に即位。
再びピサヌロークからアユタヤに遷都。弟のチュタ王子をピサヌローク王とする。天然痘で死亡。
1488年 テナッセリムのタヴォイ(今日のビルマのダウェー)を占領。インド洋側の貿易中継地を確保。
ラーマーティボディー2世(チェーサダー)1491〜1529トライローカナート王の息子。インタラーチャー2世の弟。
父王トライローカナートのチエンマイ北伐に加わり、「リリット・ユワンパーイ」を詩作したとも言われる。「ユワン」とは「ユワン族(北タイ族)」のこと、「パーイ」とは「敗れる」と言う意味。
1507〜1515年、ヨートチエンラーイ?と、廃位させ即位したムアンケーオ?のランナータイ王国と戦争。
1511年、ポルトガル人が当時タイ領土であったマラッカを占領。ポルトガルの主権をラーマーティボディー2世に認めさせた。
これを機に1511年にポルトガル人ドゥアルテ・フェルナンデスが、西洋人として初めてアユタヤに来航。
1515年、ランパーンを攻略。ラオのランサンがスコータイに侵攻。
1516年にポルトガルと条約締結。
ボーロマラーチャー4世(ボーロマラーチャーティラート4世、ボーロマラーチャーマハープッターンクーン)1529〜1533父のラーマーティボディー2世の後を継いで即位。4年後の1533年、天然痘で死亡。
ラッサダー(ラッサダーティラートクマーン)


若きスリヨータイ (映画「スリヨータイ」

1533〜1534ボーロマラーチャー4世の息子。わずか6才(4才?)で即位。
チャイラーチャーのクーデターによりわずか5ヶ月で殺害された。

* 王族の処刑
15世紀に定められた王族処刑の儀典に則り、処刑に際して王の尊い血は流されてはならない。黄金の手枷・足枷で戒められ、香を焚きしめた天鵞絨の袋に入れられる。太鼓に合わせて踊る数人の処刑人によって、寄ってたかって白檀の棍棒で撲殺される。

映画「スリヨータイ」でも見られたが、ラッサダーが死の恐怖で震えながら袋詰めにされ、白檀の棍棒が降り下ろされる場面が実に陰惨で、目に焼きついて離れない。刃物で殺す方がよほど良心的だ。切腹の方が格段に清々しいと感じるのは文化の違いだろうか。
室町幕府13代将軍足利義輝の最期が少し似ている。松永弾正久秀と三好三人衆の大軍に攻め込また足利義輝(上泉信綱に剣を習い、塚原ト伝の秘伝を受けた免許直伝の剣豪)は、畳に所蔵の名刀十数本を突き立て、血糊で切れ味が悪くなると新しい刀に換え寄せ手を斬りに斬った。十数人とか言われる。しかし、槍で足を掬われ転倒し、多数の兵に障子や襖で押さえつけられて身動きを封じられた。下剋上の時代とはいえ、兵たちは「将軍殺し」を恐れたので、松永弾正久秀は芋か米俵だと思えと叱咤し、障子や襖を目隠しにして滅多刺しにして惨殺した。
チャイラーチャー(チャイヤラーチャーティラート)

チャイラチャー (映画「スリヨータイ」

スダーチャン (映画「スリヨータイ」

1534〜1547ラーマーティボーディー2世の子。ピサヌローク王であったが、当時わずか6才(4才?)だった甥のラッサダーを処刑して王位に就いた。
潜水と火渡りによる裁判制度を創設。

アユタヤに来たボルトガル人

300人のポルトガル人がタイに来朝し、このうち120人を鉄砲傭兵隊として雇用。
1545年にランパーン、ランプーン、チエンマイがビルマに寝返り、ポルトガル人傭兵隊を用いて討伐。
これから約1世紀の間、チエンマイのランナータイ王国はビルマ側に付いた。
クメール人で、チャイラーチャー王に歌を歌って聞かせていた小姓ブンシーが、王妃スダーチャンと不義密通。
スダーチャンはチャイラーチャーに対して「ブンシーは親戚。」と偽り、ブンシーを「パン・ブットラシーテープ」の官位・欽錫名に取り立て、王の仏間を取り仕切る役を与えた。ブンシーは、スダーチャンをそそのかし、チャイラーチャーを毒殺させた。

川から見たアユタヤ島(ワット・カサトラティラート)

ヨートファー(ケーオファー)

スダーチャンとブンシーとの情事
(映画「スリヨータイ」)

1547〜1548チャイラーチャーを妃のスダーチャンが毒殺したため、息子のヨートファー王子が11才で即位。
ティエンラチャー王子(後のチャクラパット)が摂政となったが、スダーチャンが操っていた。
ティエンラチャー王子を出家させ、スダーチャンが摂政。
1548年、13才になったヨートファーは、母のスダーチャンが、父王のチャイラーチャーの小姓であったブンシー(後のウォーラウォンサー)と不義密通しているのを知り除こうとしたが、失敗し逆に処刑された。
シーシン1548 チャイラーチャーの息子で、ヨートファーの弟。ヨートファー王が母のスダーチャンとブンシー(後のウォーラウォンサー)に処刑され、後継としてわずか7才で王位に就いた。 ブンシーが摂政。
在位2〜3週間で、ブンシー(パン・ブットシーテープ)が王位に就き廃位。
ウォーラウォンサー朝 ウォーラウォンサー(ウォーラウォンサーティラート)

ウォーラウォンサー
映画「スリヨータイ」

1548クメール人で、名はブンシー。アユタヤ王家の出ではない。
元はチャイラーチャー王に歌を歌って聞かせていた小姓。
チャイラーチャー王の妃スダーチャンと通じた。
妃のスダーチャンは、チャイラーチャー王に対して「ブンシーは親戚。」と偽り、「パン・ブットラシーテープ」の官位・欽錫名に取り立て、王の仏間を取り仕切る役を得た。
その後、スダーチャンをそそのかしてチャイラーチャーを毒殺。軍隊の最高指揮官(クン・ウォーラウォンサーティラート)の地位に付いた。
チャイラーチャーの毒殺後に、チャイラーチャーとスダーチャンの息子のヨートファーが王位に就いた。
ヨートファー王はウォーラウォンサーが王位を狙っていると知り、ウォーラウォンサーの殺害を計画したが失敗し、逆にヨートファーが処刑された。
ヨートファーの弟シーシン王子が王位に就き、ウォーラウォンサーは摂政。
すぐにシーシン王を廃し、自らが王位に就いた。
アユタヤ朝にとって、アユタヤ王家でない者が、妃と不義密通の上、王位に就くことは、到底受け容れられるものではない。
即位から42日後、ウォーラウォンサーに反感を抱く、クン・ピレーントーンテープとクン・インタラーテープが、象狩りにウォーラウォンサーを誘き出し暗殺。
スパンブリー朝(スワンナプーム朝) チャクラパット1548〜1569
--------------〔以下未整理〕--------------
もと僧籍にあったが、前王ウォーラウォンサーティラートがクン・ピレーンテープ(後のマハータンマラーチャー王)に殺された後、王位に招かれて即位した。同年アユタヤーの混乱に乗じてアユタヤー王朝を乗っ取ろうとするビルマ・タウングー王朝のバインナウンと衝突した。チャクラパットは敵の先鋒との戦いで負けそうになったが、妃のスリヨータイが捨て身の形で相手の一撃を受け止めたため、チャクラパットは一命を取り留めた。 1549年 ダビンシュウェティー王率いるビルマ軍が侵入し、王子ラーメースワンを人質として連行。王妃スリヨータイが男装して副王に扮して戦い、傷を負って象の上で亡くなった。この機に乗じて、カンボジアも侵入。 ダビンシュウェティーによって建国され、第2代国王バインナウンのときモン族のペグー朝、シャン族のアヴァ朝を倒し勢力を拡大、アユタヤ朝にも打撃を与えた。18世紀にビンニャダラ率いるモン族により滅ぼされた。 隣国ビルマによる【西洋暦1564年】と【西洋暦1569年】の2回首都陥落を この戦いの後、チャクラパットはビルマの侵略が大きくなることを予測して、戦象を増やすため象狩りを盛んに行った。この時白象を7頭を集めることが出来たため白象王と呼ばれるようになった。 1551 タウングー朝、バインナウン王即位(-81) 1556 バインナウン、チエンマイ占領。以後1781年まで、ラーンナータイ王国はビルマ支配下 1556 ラーンサーン王国、ビエンチャン遷都 即位から15年後にビルマの王はその白象の内2頭を要求したが、チャクラパットは拒否したため、ビルマ軍がアユタヤーに侵攻し、白象を4頭取られたほか、人質を多数取られアユタヤはビルマの属国となった。
マヒン(マヒンタラーティラート)1569チャクラパット王の次男。アユタヤはビルマ・タウングー王朝の属国と化していたが、1590年にビルマの侵攻を再び受けアユタヤは完全に陥落。アユタヤ陥落後、マヒン王はビルマに連行される道中で病気にかかり死亡。暗殺説もある。(前期アユタヤー王朝の終焉)。 1569年8月 バインナウン王(タイ語名ブレーンノーン)率いるビルマ軍が、アユタヤを占領。
マハータンマラーチャー朝
(スコータイ朝)
マハータンマラーチャー(マハータンマラーチャーティラート、サンペット1世)1569〜1590サンペット1世とも言う。スコータイ王朝の末裔であると言われている。昔はクン・ピレーントーンテープという小役人であった。アユタヤ王朝のチャイヤラーチャーティラート王が没したとき、その妻のターオ・シースダーチャンがすでに即位していた自分の息子、ヨートファー王を処刑し、浮気相手のクメール人の小役人、ブンシーをウォーラウォンサーティラートとして即位させた。この後、ウォーラウォンサーを正当な跡継ぎと認めていなかったアユタヤの官吏を束ね、ウォーラウォンサーを即位42日目に暗殺し、チャクラパットを即位させた。この功により、チャクラパットから娘を嫁として与えられ、マハータンマラーチャーティラートの称号を戴き、ピサヌロークの知事となった。 アユタヤー王朝が崩壊した時、クン・ピレーンはアユタヤ宮廷内での支持者が多かったことから占領者のバインナウンからアユタヤの統治を任された(後期アユタヤー王朝の成立)。そのときサンペットの称号を戴く。その後、ビルマの人質となっていた息子のナレースワン王子を娘のスパンカンラヤーと引き替えに返還させた。帰国後、ナレースワンはバインナウン王朝に対して反撃を開始し、非常に優秀な軍人であったため、アユタヤーはビルマから失地を回復し、マハータンマラーチャー王の治世の内にアユタヤは以前の姿を取り戻した。ビルマ軍がピッサヌロークを占領すると捕虜となり、以後ビルマに協力。ビルマの傀儡としてアユタヤの王となる。 1574 バインナウン、ビエンチャン占領。約10年後、ラーンサーン王国独立回復
ナレースワン(サンペット2世)
<<ナレースワン大王>>

ピサヌロークにあるナレースワン大王の像

1590〜1605マハータンマラーチャー王の子でピサヌロークの出身。 ナレースワンが幼少の頃、父はピッサヌロークの知事だった。1563年にピッサヌロークがビルマに負けると、養子として(実質は人質)ナレースワンはビルマに連行された。人質時代にナレースワンはビルマで戦術を学んだ。 1569年、前期アユタヤー王朝がミャンマーに掌握されると、ピッサヌロークの父はミャンマー政府からの信任を受け、アユタヤの傀儡王に就いた。同年、父王はナレースワンを取り戻すため、娘のスパンカンラヤーをビルマ王の妻として差し出し、代わりにナレースワンを返させた。この後ナレースワンはタイ独立へ向けて、タイ兵士を独特の武道で鍛えた。タイの国技とも言われるムエタイはこのときの武道がその原型となったと言われる。 1574年、ナレースワンは機が熟したと見て、アユタヤー王朝の独立を宣言する。同年ミャンマーのシッタン川でビルマ軍の先鋒を銃殺したしたのを皮切りに、攻めてくるビルマ軍をことごとくうち破った。アユタヤー王は次々と失地を回復し、ナレースワンが王に就く前に、アユタヤー王朝は以前の栄光を取り戻した。王位に就いた後もビルマに対し数々の戦争をした。ある時カンボジアのラウェークを捕らえ斬首し、その血で足を洗った(これは当時インドシナ半島で行われていた一種の戦勝儀式である)。 1604年、ビルマの王ナンタブレンが毒殺されたのを機にミャンマーのタイ族の治めるシャン族の州がタイに寝返った。新たなビルマの国王がこれを討ったため、ナレースワンはシャン族の保護を目的に、自ら兵を率いてアユタヤから北上したが、翌年チエンマイ県の北部で病死した。 現在、彼は救国の英雄としてタイ三大王の一人となっている。やや神格化もされ、ムエタイの創設者という意味からムエタイ選手は彼の像の前で、戦勝を祈ることもある。
エーカートッサロット(サンペット3世)1605〜1610タイの昔の王朝アユタヤ王朝の22代目の王。サンペット1世の子。即位前からナレースワンの反ビルマ戦争を助け、アユタヤ王朝の独立を助けた。即位後はビルマとの戦争を避け、税制と整え、寺院を建設し内政を強化した。外交面では多くの功績を残した。オランダと接触し、オランダに1607年、タイ史上初めて西洋に使節団を送った。1612年にはイギリスと接触し、イギリス人のアユタヤおよびパタニ王国での商業を許可した。
シーサオワパーク(サンペット4世)1610〜1611エーカートッサロット王の崩御の後、即位。即位後、間もなくシーシン(後のソンタム王)に処刑された。
ソンタム(インタラーチャー、ボーロマラーチャー1世)1611〜162824代目の王。シーサオワパーク(前君主)を処刑し即位。ビルマとの戦で同士討ちを嫌ったポルトガル人傭兵隊が役に立たなかった、当時戦国時代を終えたばかりの日本から渡ってきた、津田又左右衛門を筆頭とする日本人600人を傭兵として雇った。このころ、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた。
チェダーティタラート(ボーロマラーチャー2世)1628〜162925代目の王。タイの王位継承権は王の正室の子供の中の一番年齢の低いものがなると決まっていたが、チェーター親王は王の遺言により、シーウォーラウォン(後のプラーサートトーン王)の後援を得て即位した。 即位後に叔父のプラパン・シーシンが王位をねらっていると気付き、叔父をペッチャブリーに流したが、それでも叔父の動きが怪しいので、チェーターティラートは叔父を処刑した。その後、チャオプラヤー・カラーホームスリヤウォン(シーウォーラウォン)が反逆を企てていると言う情報を聞き、兵を差し向けようとしたが、その前に殺された。
アーティッタヤウォン162926代目の王。ソンタム王の子。即位当時あまりに幼すぎたため官吏の不信感がたまり、後のプラーサートトーン王によってわずか37日間即位した後廃された。後の1637年、手勢100人程度を集めて王宮を襲撃したが失敗、処刑された。
プラサートトーン朝プラサートトーン(サンペット5世)1629〜165627代目の王。エーカートッサロット王の隠し子であると言われる。16才の時から仕官していた。ソンタム王の信任を受け、プラヤー・シーウォーラウォンに昇進。ソンタムの死後はソンタムの遺言に従い、チェーター親王を即位させた。チェーター王が叔父のシーシン親王が王位をねらっていると聞き、シーウォーラウォンに処刑させた。その功によってチャオプラヤー・カラーホーム・スリヤウォンに昇進した。しかし、チェーター王が不振な動きを示したのでこれを処刑し、その後アーティッタヤウォンを即位させたが、あまりに幼く官吏らがカラーホームに王位に付くよう願ったので、王位に就いた。 この王の間、パタニ王国が謀反を起こしたので沈静しに軍を派遣したが、一方で手薄になったチエンマイはビルマに取られてしまった。 内政面では、大蔵省を設置し、対外貿易政策として貴重品等は国庫に納めてから外国へ送られることになり、最大の輸出品目である米についても、王の許可を受けなければならないとし、タイの華僑に打撃を与えた。 ちなみに日本では、この王は「オーヤー・カラホム」とし、山田長政関連の小説で、ずるがしこい官吏として小説数本に見えている。
チャイ(サンペット6世)1656プラサートトーン王の子である。即位したとたん、異母兄弟で後の王のナーラーイマハーラート王と叔父で次期国王のシースタンマラーチャー王に殺された。
スタンマラーチャー(シースタンマラーチャー、サンペット7世)165629代目の王。プラーサートトーン王の弟である。即位したとたん、異母兄弟の後のナーラーイ王と共同でチャイを殺し即位したが、すぐにナーラーイと不仲になりナーラーイに殺された
ナーラーイ(ラーマティボーディー3世)1656〜1688プラーサートトーン王が死んだとき、兄のサンペット6世(チャオファー・チャイ)が王位に就いたが、これをいやがったナーラーイは叔父のシースタンマラーチャーと共同でサンペット6世を殺し、叔父をサンペット7世として即位させた。しかしながら、すぐに不仲になり叔父を殺し王として即位した。 1663年にモン族が多数、ビルマから逃れてアユタヤーまでやって来て王に帰化を求めた。ナーラーイ王は彼らを保護したが、これを嫌がったビルマが移住してきたモン族の返還を求めて攻め込んできた。ナーラーイ王は反撃し、現在のカーンチャナブリー・サイヨークでビルマ軍を敗った。そして勢いに乗ったナーラーイ王は、翌年にはビルマ本国に攻め込んだ。しかし、プカームを包囲したときには兵糧が尽き、引き返した。 文化面ではシープラート、プラ・マハーラーチャクルー、クン・テープカウィーなどの文学者が出現し、アユタヤー王朝文学史のなかでも黄金時代を迎えた。 この王の時代アユタヤー王朝は外交面で大きな発展を見せた。この時代はイギリス・フランスの重商主義時代であった。そのためイギリス人は頻繁にタイを訪れていたようである。ナーラーイ王は彼らに自由に商売をすることを許した。一方で、ナーラーイ王も負けじと王船を用意し、アジア各国と貿易をおこなった。またこのころには、ローマ教皇・アレクサンデル7世とフランスのルイ14世のキリスト教宣教師一団が訪れた。その一方で宣教師達は教育・医療に従事しアユタヤー王朝に貢献した。 一方で、前述同年の1664年に、それまで対立していたタイ華僑とオランダ人商人が遂に衝突した。武装した華僑一団が、あるオランダ人の経営する工場を襲撃したため、翌年には怒ったオランダ東インド会社が武装した船にポルトガルの国旗を掲げバンコク湾を封鎖し、中国のジャンク船を人質として捕らえて、皮革製品などに関して独占貿易を要求したのである。ナーラーイ王は仕方なくこの要求を受け入れた。ナーラーイ王は国に一大事があった時のために、ロッブリーに副都を建設した。この事件以降、ナーラーイ王はオランダ人を信用しなくなったという。 1670年ギリシャ人のコンスタンティン・フォールコンがアユタヤーを訪れ、一度出国したものの再びタイへ戻り高級官吏になり外交面での実権を握った。 1673年にはルイ14世から親書を送り、ナーラーイ王はその8年後に返礼を送ったが使節が難破し、2年後再び使節を送った。その後フランスから外交官・シュバリエ・ド・ショーモンが訪れ、ナーラーイ王にキリスト教に改宗するように説得したが、ナーラーイ王は応じなかった。 翌年の1684年にド・ショーモンが帰国する際、ナーラーイ王はプラ・ウィスートスントーン(後のチャオプラヤー・コーサーティボーディー、通称コーサーパーン)を使節として派遣した。コーサーパーンはフランスで歓迎を受け、アユタヤーの軍隊をフランスで訓練させてフランスの新たな大使・シモン・ド・ラ・ルベールを連れ3年後帰国した。ド・ラ・ルベールはフランス軍636名を連れてアユタヤーに入城しようとしたが、ナーラーイ王はオランダとの対立に学んだ経験から、危険を感じこれを拒否した。 ド・ラ・ルベールが帰国する際には、4回目の使節団を同行させたが、この後ナーラーイ王が死んだためフランスとの交流はとぎれた。王の死後には外交関係は急速に悪化し、タイは鎖国を始めた。 しかしながら、アユタヤー王朝の中でも文学面、外交面に於いて優れた功績を残した時代であったため、この時期はアユタヤー王朝の黄金期とされる。この王はタイ三大王には入っていないが、それでも大王(マハーラート)の称号が付いている。
パーンプルールアン朝ペートラーチャー(マハーブルット)1688〜1703現・スパンブリー県のバーンプルールワンに生まれた。ナーラーイ王の元では像隊長を任命され軍事面で重宝された。ナーラーイ王が病床に伏したとき、息子のチャオプラヤー・コーサーパーンに王位に就くことを頼まれ、ギリシャ人の高官チャオプラヤー・ウィッチャイェーン(フォールコン)を殺し王位に就いた。アユタヤー王家の血が流れていないことで、反乱勢力が大きく、即位中のほとんどは反乱勢力の討伐に明け暮れていたという。 外交政策としてはナーラーイ王時代のフランスの侵略外交が祟り、鎖国を推進した。
スリイェーンタラーティボディ(スア、サンペット8世)1703〜1709ナーラーイ王がチエンマイ征伐から帰ってきたとき、チェンマイ王室の姫を略奪し連れて来て妃にした。
当時、家来だったペートラーチャー王に与えた直後に産まれた子であるので、ナーラーイ王の落とし子と噂された。気性が荒く、スア王(虎王)とあだ名された。
古式ムエタイと釣りを趣味としていたが、船を壊したパン・ターイノーラシンを処刑した逸話が有名。
パン・ターイノーラシン(พันท้ายนรสิงห์)
はタイのアユタヤー王朝の王・スア王に仕えた官吏。パンは官位、ターイは欽錫名、ノーラシンが本名。釣り好きのスア王の船こぎとして仕えていた。1704年、スア王はノーラシンを連れ、釣りをするためサムットサーコーンの運河を突き進んでいたが、船首を岸の木にぶつけ破損させてしまった。当時の法によれば船首を破損させたものは死刑であった。そこでノーラシンは折れた船首を祭る祠を建て、首をはねて祠に添えようとした。 スア王は感服し、恩赦を施そうとしたが、ノーラシンは「示しが付かない」と拒否。スア王はそこで、代わりに泥の人形を作ってノーラシンに見立てて首をはねこれで、一件落着としたが、ノーラシンはそれでも拒否したので、スア王は仕方なく処刑した。
プーミンタラーチャ(ターイサ、サンペット9世)1709〜1733スリイェーンタラーティボーディー王と同じく釣り好きであったと言われ、池端宮に好んで住んだので、池端王とも呼ばれそちらの名前の方がよく使われる。長くアユタヤ王朝は鎖国をしていたがこの王の時にはイギリス東インド会社との通商を開いた。ベトナムと手を結んで独立していたクメールを「保護」し図版に加えた。
ボーロマコート(マハータンマラーチャー2世、ボーロマラーチャーティラート3世)1733〜1758元々ターイサ王の息子で、プラ・バントゥーラノーイの名前の元、副王をしていた。ターイサ王が病むと、アパイ王子に位を譲ろうとしたため、副王だったプラ・バントゥーラノーイはこれを不服に思い、アパイ王子と衝突し、見事勝ったことから、王となった。この王はスリランカにタイの仏教の狭義を特色とする上座部仏教の宗派サヤームニカーイを設立したことで有名。
ウトゥムポーン(ボーロマラーチャーティラート4世)1758ボーロマコート王の第7子である。即位後なにも行わず、わずか二ヶ月足らずで出家し、王位を兄のエーカタットに譲った。このため求寺王とも呼ばれる。
スリヤーマリン(スリヤートアマリン、エーカータット、ボーロマラーチャー3世)1758〜1767アユタヤー王朝最後の王。皮膚病を病んでいてあたかも癩病に罹っているように見えたので癩王とあだ名された。またエーカタット王の呼び名がありこちらが一番よく使われる。ビルマ軍が攻めてきたときに、大砲で耳の鼓膜が破れるのを恐れてプラヤー・ターク(後のタークシン王)に王の許可を得てから大砲を撃つように命じたが、プラヤー・タークが聞き入れなかったので、プラヤー・タークを謹慎処分にしたというのはアユタヤ王朝の失墜を象徴する事件として有名である。この王の時代にビルマ軍が遂にアユタヤーを陥落させ、約400年あまり続いた王朝に終止符が打たれた。アユタヤが陥落すると、スリヤートアマリン王は、バーンパイン(アユタヤ県)あたりまで単独で逃亡した。ビルマ軍の追っ手に捕まえられたときには10日間断食し無言で抵抗したが、遂に力つきたという。
バインナウン王(1517年 - 1581年、在位:1551年 - 1581年)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の一人。この王は小タイ族の王朝、アユタヤ王朝に何度も攻撃を仕掛けたことがあり、タイの歴史書に頻繁に登場するのでタイ語訛のブレーンノーン王(สมเด็จพระบุเรงนอง)と言う表記がされることもある。 バインナウンは、パガンのサトウヤシから砂糖を精製する業者の息子であると言われる。バインナウンは幼児の頃、おむつにシロアリ(チャテー)がたかったので、幼少期にはチャテーとあだ名された。バインナウンが生まれたすぐ後にタウングーの王、ミンチーニョーの妻の一人に息子が出来たので、バインナウンの母は乳母としてこの王の息子の養育にあたった。この王の息子はのちにタビンシュエーティー(1517年 - 1551年)として父の後に即位した。 母が乳母として王宮に入ったので、バインナウンも王宮で育つことになり、成人すると役職を与えられた。しかし、王女と恋愛関係に陥った事件があり、ミンチーニョーはバインナウンを罰しようとしたが、この時ある仏僧が仲介に入り事なきを得た。後に乳母兄弟であるタビンシュエーティーが即位(1531年)すると、バインナウンはこの王女との婚姻が許され、バインナウン(王の兄)という名を与えられた。タビンシュエーティーの統治期間ほとんどのタビンシュエーティーの送った軍に参戦し、大きな勲功を挙げ、猛将として知られるようになり、遂にタビンシュエーティーにより副王に任命された。 タビンシュエーティーが崩御すると、タウングー王朝は分裂を始めた。崩御の年の1551年、バインナウンはタビンシュエーティーの弟と共同で首都のタウングーをモン族から奪還。同年に中央ビルマを完全に掌握した。1553年にはアワを攻撃して占領すると、そこへ遷都した。バインナウンは前の王の時代から居たポルトガル人鉄砲隊を巧みに利用し領土を拡大、1558年、ラーンナータイ王朝があったチエンマイを支配下に置いた。1559年までにはバインナウンは上ビルマ全域を支配下に置いた。1559年には西ビルマにしてきたインドのマニプール軍を制圧。1560年にはタビンシュエーティーの念願であった、アユタヤ王朝の首都・アユタヤの領有を画策、兵糧責めにした。アユタヤは難攻不落と言われていたが、バインナウンの一年以上に及ぶ兵糧責めにより、脱走兵が続出し最終的に陥落、白象王と呼ばれたアユタヤ・チャクラパットから白象四頭と人質を取り、毎年30頭の象と300斤の銀の納入を約束させ、委任統治した。 しかし、この後アユタヤではチャクラパットやその後に即位したマヒンが死亡したので、アユタヤのマハータンマラーチャー(サンペット1世)を即位させた。サンペット1世は人質として取られている自分の息子を、自分の王女と引き替えに解放を要求した。バインナウンはこれに応じたが、これが逆にバインナウンの猛将ぶりの終わりとなった。このサンペット1世の息子は、ナレースワンと呼ばれたがナレースワンは現在のラオスにあったラーンサーン王国と共同で1563年にビルマに反旗を翻し、アユタヤの独立を達成。この後ナレースワンはバインナウンの占領したタイ族の領土を次々と回復した。後にバインナウンは1574年にラーンサーン王国を攻撃しているが失敗に終わっている。 1581年、バインナウンは66人の子供を残し崩御したが、その後この強力な王が死んだのをみて各地の有力者が独立を始め、タウングー国内は再びバインナウンの即位前の状態に逆戻りした。しかしなが、平民から出世しビルマを大きくしたこの王の偉業はビルマ人の記憶に残り続け、今でもビルマ人に英雄視される王の一人である。


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トンブリー・ラタナコーシン時代 Ayutthaya Era

「タクシン」の綴りは ทักษิณ であり、
トンブリー王朝の「タークシン(ตากสิน)」と違う
ので、注意する必要がある。あだ名はメーオ(モン族の意。経済成長著しいタイでは、都市部の中高所得層と地方の貧困層との格差が拡大。金権体質との批判も強いタクシン前首相は在任中、農民の債務返済の一時凍結や三十バーツ(約九十円)の低額で診療を受けられる制度などを創設し、農村の貧困層から絶大な支持を集めていた。 タークシン王(Taksin、1734年4月17日 - 1782年4月7日)はタイのタークシン王朝の王。中国名は鄭昭。タクシンと表記されることがあり、現首相のタクシン・チナワットと混同されやすいが、タークシンと、タクシンとはタイ語の綴りが違い、別の名前である。 潮州系中国人の子で、父親は賭博場で税徴収をしていたと言われる。プラヤー・チャックリー(ラーマ1世とは別の人)という官吏の元に養子に出され「宝(シン、潮州語)」と名づけられる。5歳の時、寺に預けられ、13歳まで勉学に励んだ。その後アユタヤー王朝に仕官し、宮内の外国人の学者達に積極的に教えを請うたという。21歳でタイの伝統に則り、出家。24歳で再び還俗し、小姓となった。その後、ターク国の監察官をしていたが、任務中にターク国主が死んだのでそのままターク国主となった。このとき付けられたターク国主の称号に本名の「シン」が付けられ彼の通用名「タークシン」となった タークシンはラヨーンで兵を挙げると、反対勢力のチャンタブリーを制圧した後、潮州系の華人をかき集めてチャオプラヤー川を遡りアユタヤに向かった。しかしアユタヤはすでに廃墟になっていたため、再び下流に下り、1767年(タイ仏歴2310年、トンブリーに王朝を建てた。これがトンブリー王朝である。 しかし、タークシンは自分が中国系の血を引いていることを忌み嫌い、アユタヤ王朝の血を引いていないことに強いコンプレックスを抱いていた。それによって晩年は精神錯乱をきたしたとされる。 タークシンは文武両道の王で、アユタヤ朝滅亡後、敵対勢敵対勢力にはピサヌローク国主、ナコーンシータンマラート国主、ピマーイ国主、プラ・ファーンなどがいたが次々に討伐し、北部ランナー国を属国とした。さらに、アユタヤ朝時代の属国であったカンボジア、ラオスをも次々に回復している。即位中15年の多くを、戦争に費やさなければならなかったタークシン王の重要な将軍として活躍したのがチャオプラヤー・チャックリー(後のラーマ1世)でタークシン王は家来のプラヤー・サンに反乱を鎮圧するように命じたが、プラヤー・サンは逆に反乱者を集めトンブリーに攻め入り、王を強制的に出家させて自らは摂政の位に就いた。王位もねらっていたが、そのときカンボジア遠征に行っていた、チャオプラヤー・マハーカサット・スック(上の段落のチャオプラヤー・チャックリー、もしくはラーマ1世)がトンブリーに戻ってきた。民衆はチャオプラヤー・マハーカサット・スックにタークシンの処刑を求めた。 アユタヤ王、ターイサの時代には、トーンダムというモン族でアユタヤ王朝の官吏であった人物が移住してきた。この息子はトーンディーと言い、ラーマ1世の父親に当たる人物である。後のチャクリー王朝初期にはラーマ1世の父親ゆかりの地ということから、ウタイターニーはやや開発がなされた。 ラーマ4世は、イギリス施設ジョン・ポウリング卿に、チャクリー王室はアユタヤ時代のナレースワン大王がビルマから連れてきたモン人貴族の出身であると語ったといわれ、またラーマ1世の王妃はサムットソンクラーム県アンパワー郡バーンチャーンのモン系村長の娘であった。モンクット王子(ラーマ4世)は、仏教界の改革を目指して、ビルマのモン人のサンガを範とした。王室での護呪経典の度胸には、モン式が採用されている。 「ラタナコーシン朝」は、インド神話に出てくる「インドラ神」すなわち「帝釈天・たいしゃくてん」と「エメラルド仏像」を指す「宝玉」という意味の「ラタナ」を合成した言葉です。 歴代のチャクリー王はラーマ5世までを中心に、華人に対して官位を与え、優遇する動きをみせた。なかでもラーマ2世の正室の一人は、華人であり、その後の王もこの人の血を引いているため、タイは華人国家という側面が多少含まれている。 乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ9世を含めて、9代の歴王が名を連ねる。


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トンブリー・ラタナコーシン(チャクリー)時代
トンプリー朝タークシン1767〜1782
チャクリー(ラタナコーシン)朝チャクリー(ラーマ1世)
ブッタコートファーチュラーローク王
1782〜1809
ラーマ2世
(ブッタルートラーナバーライ王)
1809〜1824
ラーマ3世(ナン王)1824〜1851
ラーマ4世(モンクット王)1851〜1868
ラーマ5世(チュラーロンコーン王)1868〜1910
ラーマ6世(ワチラーウット王)1910〜1925
ラーマ7世(プラチャーティポック王)1925〜1935
ラーマ8世(アーナンタマヒドン王)1935〜1946
ラーマ9世
(プーミポンアドゥンラヤーデート王)
1946〜




ラーンナータイ王朝 Lanna Thai Dynasty


ラーンナータイ王朝
マンラーイ朝マンラーイ(メーンラーイ)1261〜1311
チャイヤソンクラーム1311〜1325
セーンプー1325〜1334
カムプー1334〜1336
パーユー1336〜1355
クーナー1355〜1385
セーンムアンマー 1385〜1401
サームファンケーン1401〜1441
ティローカラート1441〜1487
ヨートチエンラーイ1487〜1495
ムアンケーオ1495〜1525
ケートクラオ1526〜1538
サーイカム1538〜1543
ケートクラオ
(12代目と同じ人物)
1543〜1545
チーラプラパー王妃1545〜1546
チャイヤチェーターティラート
(チャイチェーター)
ラーンサーン王のセーターティラートと同一人物
1546〜1547
メークットウィスッティウォン
ターオ・メークー
1551〜1564
ウィスッティーウィー王妃1564〜1578
ビルマ支配下サワーティーナラトラーマンソーシー
(マンナラターソー、マンサーナラターマンクイ)
1578/9〜1607
プラ・ソイ
(モーンスワイタオ、サトーコーイ)
1607〜1608/9
チャイティプ1608/9〜1611/3
プラ・ソイ
(モーンスワイタオ、サトーコーイ)
1611/3〜1614/5
〔ナーン国の王〕1614/5〜1631
ルアン・ティパッネート1631〜1650/5
セーンムアン1650/5〜1659/63
〔プレー国の王〕1659/63〜1672
ウンセ1672〜1675/85
チャプトラーイ1675/85〜?
マンレナラー1707〜1727
テープシン1727
オンカム1727〜1759
チャン1759〜1761
キーフッツ1761〜1763
アバヤガマニ1763〜1768/9
モヤガマニ1768/9〜1774
チエンマイ朝
(チャオ・ラェット・トン朝)
カーウィラ1782〜1813
タンマランカー1815〜1821
カムファン(セーティーカムファン)1823〜1825
プッタウォン1826〜1846
マハーウォン(マトロプラテート)1847〜1854
カーウィローロット・スリヤウォン1856〜1870
インタノン(インタラウィチャヤーノン)1873〜1896
スリヤウォン(インタワローロット・スリヤウォン)1901〜1909
インケーオ(ケーオナワラット)1911〜1939


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引用・参考

「タイの事典」
「南十字星は語らず」
「続タイの常識非常識」
「ランナーエクスプローラー」
「山と旅への招待」
「物語 タイの歴史」
「タイ 中進国の模索」
「ウィキペディア(Wikipedia)」
ほか多数
--------------〔以下未整理〕--------------
パヤオ王国 1096年パヤオに小規模な都市国家が建設され、王が治めるパヤオ王国となった。13世紀にはパヤオのガムムアン王が西方のラーンナータイ王朝の王、メーンラーイや、スコータイ王朝の王、ラームカムヘーンなどと同盟してその勢力を確立。しかし、後にパヤオ王国は1338年にはラーンナータイの 属国となった。その後ビルマ・タウングー王朝の軍の占領あり、パヤオは廃墟となった。1897年にはチエンラーイの領域となったが。1977年08月28日には県として独立。 チェンライの町を1262年に建設後、勢力拡張の勢いを増していったグン・ヤーンというタイ族の首長国のメンラーイ王は、1276年パヤオを占領するために、チェンライから軍を率い南下する。しかしながら戦いは行われず、かえってパヤオ国9代・ガムムアン王とメンラーイ王との間には、強い同盟関係が結ばれることになった。 もう一つの王国、パヤオ王国(正式にはプ−ガムヤーオ国)はシージョムタム王によって10世紀半ばに建国され、その後ンガムムアン王により発展した。ランナー・タイ、スコータイと並ぶタイの三王国の一つとなった。しかしンガムムアン王の死後、チェンセーン国とナンタブリー国(何れもランナー・タイ王国の属国になる)の攻撃を受け、衰退する。やがてパヤオ王国もランナー・タイ王国の属国の一つとなってしまう。 パヤオ王国が独立を守ったのは約280年間であった。現在の王朝、チャクリー王朝の統治下ではチェンライ県の一部となっていたが、1977年にタイで72番目の県となった。(2005.01.09) 1932年の立憲革命を主導しタイを絶対王政から立憲君主制に移行させた故プリディー・パノムヨン元首相の未亡人のタンプーイン(タイ国王が女性に授ける高位の称号)・プーンスク・パノムヨンさんが2007年05月12日、バンコクのチュラロンコン大学病院で死去した。95歳。故人の遺志により、葬儀は行わない。遺体は同病院に献体され、その後焼却、遺灰はチャオプラヤ川に散骨する。  プーンスクさんは1928年にプリディー氏と結婚し、6人の子をもうけた。49年にプリディー氏がライバルのピブーンソンクラーム首相に追われ中国に亡命。プーンスクさんは1952年、国家の安全を脅かしたとして3カ月近く投獄され、53年に出国、中国でプリディー氏と合流した。一家は74年にフランスに移住、プリディー氏は83年にパリで客死した。プーンスクさんは86年にタイに帰国した。 〈プリディー・パノムヨン〉  1900年、タイの中国人コメ商人の家に生まれた。仏パリ大学留学後帰国し、タイ法務省に勤務。若手官僚グループを組織し、1932年の立憲革命を主導、タイを絶対王政から立憲君主制に移行させた。34年にタマサート大学を創設。34―41年にかけ、内相、財務相、外相を務め、外相として諸外国との不平等条約の撤廃を勝ち取ったほか、タイ中央銀行の前身である組織を作った。  日本軍のタイ進駐後の1942年、英米への宣戦布告への署名を拒否し当時のピブーンソンクラーム首相に解任され、その後、抗日運動を組織。第2次大戦が連合国側の勝利となり、46年3月に首相に就任。6月にラマ8世王が銃で撃たれ死亡、同年8月に首相を辞任。タイの共和国化を狙ったプリディー氏がラマ8世王の死に関与したといううわさが流れ、49年から中国に亡命。以来タイの土を踏むことなく、83年にパリで客死した。 タイに近代的医療を導入した人物として知られ、「タイの医療の父」と呼ばれる。以下、生前の名前「ソンクラーナカリン」で表記する。ハーヴァード大学へ留学。1926年にも再び留学を行い博士号を取得している。1929年家族ぐるみで帰国するが、帰国中に死を遂げた。死因は肝臓の腫瘍と肺と心臓へ水が溜まったこととされたが、一部で暗殺説もささやかれている。享年37であり、小児医学を学ぼうとしていた矢先であった。1934年(同2477年)ラーマ7世が退位するとタイの国会の決定で即位したが、すぐにスイスに帰り学業を続けた。 1945年(同2488年)に学業を終えると帰国する。しかし翌年には「事故」で崩御した。 アーナンタ・マヒドン王という。外国ではアーナンタ王、マヒドン王とも呼ばれる。タイの現王朝のチャクリー王朝の8代目の王。業を続けた。日本の友好象徴として祭り上げられた。その後ラーマ8世は戦後、謎の変死を遂げるが、あくまでも暗殺説を唱える人は、日本との友好的な印象が敗戦後にはマイナスに作用したため殺されたと主張する人もいる(この記述はタイでは違法)。 1945年(同2488年)に学業を終えると帰国する。しかし翌年には「事故」で崩御した。 ボーロマピマーン宮殿で銃声がしたので駆けつけてみると、ラーマ8世は死んでいた、といわれる。そのまま銃の暴発事故で片づけられそうになったが、警察が検死結果を元に他殺説を示唆した。ラーマ8世死亡事件捜査本部が設置されたものの結局それ以上の捜査は続けられず、責任をとって内閣は総辞職し、数人の王室関係者が処刑されたが、真相は未だもって不明である。 ラーマ5世の69番目の子息、ソンクラーナカリン親王を父に持つ。学業はスイスのローザンヌ大学で修めた。 学業中にいったん休学し1945年(タイ仏暦2488年)にタイへ帰国するが、翌年の1946年6月9日に兄ラーマ8世アーナンタが怪死したため兄王の死の12時間後タイ国王に即位。 健全な社会を構築するてめには乞食に施し物をするなと言われております。施しを善行だとする宗教とは異なる意見です。しかしこの善行は一般受けをします。タクシンの一般受けする農村対策、金のばら撒き施政は有識者の目を曇らせておりました。日本からすると国民所得が数分の一、そして国民の経済格差が二桁もあるかもしれ ないところへ、世界の長者番付にも乗るようなタクシンが金をばら撒くのは容易なことです。そしてそれを基盤にして職務に関連して平気で自分の蓄財を試みていたのは目に余るところです。そしてつ いにそれが命取りになりました。丁度マイクロソフトのBill Gatesに似ております。その当時何もなかった通信産業に種をまいたのです。タイといえどもこれは大木に成りました。実業家としては多くはない逸物です。農民に金をばら撒くだけではなく代議士の選挙基金はほとんど彼のフトコロから出ていたということです。それあることか、彼が失脚したとたん彼の組織したタイ愛国党(日本の愛国党・フランスの愛国党とは性格が全く違う)は早くも空中分解始めております。それにしてもこの秀才のメンタリティに精神病を思わせる行動が目に付くようになっておりました。一月ほどまえアメリカの大統領に彼の現状を説明して理解を求める手紙をだしたなどはキチガイかと思わせます。自分では分からないのですね  私が批判するのは、国王が現在78歳という高齢であり、そう遠くない将来、ワチラロンコーン(1952年7月28日 -)皇太子への王位継承が起こることが必至だからです。ラーマ9世(プーミポン・アドゥンラヤデート)とシリキット王妃の間に生まれた長男(第2子)でプーミポン国王の唯一の男子。皇太子の一人。  王位継承がなぜ問題かと言うと、この皇太子がタイ国民の間で非常に評判が悪いからです。  評判が悪い理由は三つあります。  第一に、彼が冷たく親しみを感じさせない人柄であること、第二に、軍歴が長く、前回のクーデター後の軍政の過程でバンコック市民の血が多数流されたこともあり、軍部とともに彼自身もタイ国民の反感の対象になったこと、ワチラーロンコーン親王が市民と衝突し多くの犠牲者を出した「反民主主義的」な軍隊に荷担していたそして、第三に、皇太子をめぐる女性関係の乱れ、です  第三の点ですが、皇太子は、初婚の相手は母方の従姉妹たる貴族であったところ、女の子を1人設けただけで離婚し、次には平民の女性と内縁関係を結び、4男1女を設けます。しかし、この女性のタイ空軍大将との不倫により内縁関係は破綻し、4人の男の子は全員王族籍を剥奪されます(注5)。その後、皇太子は別の平民の女性と結婚するのですが、その事実は伏せられ、2005年に、男の子が生誕するに至ってようやく公表される、という乱れっぷりです(注 6)。  (注5)皇太子には男子の兄弟はおらず、また、このように長期にわたって王孫たる正嫡の男子が産まれなかったため、この間にタイの法律が改正され、タイの現王朝には女性が王位に就いた前例がなかったにもかかわらず、現在では女性が王位を継承することが可能になっている。ただし、女系継承は依然認められていない。  (注6)皇太子は、何かと言えば、その妹のシリントーン内親王(1955年4月2日-)王女と比較される。シリンドロンは、英仏支三カ国語を自在に操り、トランペットやタイの伝統諸楽器の名手であって発達教育学の博士号を持ち、士官学校の歴史の教官もしている。また、技術や情報技術にも造詣が深く、それらの振興にも力を入れている。なお、彼女は独身。シリントーン内親王の興味の対象が元々文学であったことから、言語学にも興味を示し言語学の学位も持っている。古言語としてサンスクリット=パーリ語、古代クメール語などに精通。欧米の言語としては英語、フランス語に通じ、またドイツ語、ラテン語などを学んだこともある。中国の文化には特に興味を持っており、中国語を操ることが出来るほか、中国を頻繁に訪れ中国文化の研究も行っている。 http://en.wikipedia.org/wiki/Maha_Chakri_Sirindhorn 。9月29日アクセス)  ですから、現プミポン国王とちがって、王位継承後にワチラロンコーンが政治に介入するようなことがあり、しかもそれが軍がらみの動きであれば、タイ国民が承伏するとは到底考えられず、王制の存続が問われることは必至であり、タイの政情が不安定化する懼れがあるのです。  とすれば、せっかく14年間にわたって民主主義が機能してきたのですから、今度のクーデターにプミポン国王は同意を与えるようなことなく、立憲君主として毅然とした姿勢をタイ国民のみならず、ワチラロンコーンにも示すべきだったのです。  この関連におけるもう一つの懸念材料は、タイで不敬罪が依然として厳格に適用されており、タイ国民は、以上のようなワチラロンコーンへの否定的な思いを一切口に出すわけにいかないことです(注7)。    (注7)米国のジャーナリストが今年、プミポン国王についての本(Paul M. Handley, The King Never Smiles, Yale University Press)を出そうとしたところ、タイ政府から出版しないように求められた。プミポン国王が一貫して秩序の維持、すなわち王制の維持を民主主義より優先してきた、という内容だったからだ。著者側は、国王就位60周年記念日の後まで出版期日を延ばしたものの要求は拒否した。もちろん、タイ国内ではこの本を販売できない。( http://www.nytimes.com/2006/09/25/world/asia/25thailand.html?ref=world&pagewanted=print 。9月26日アクセス)  日本でも不敬罪は終戦直後まで存在していました(典拠省略)が、皇室や王室への尊敬の念は、本来強制にはなじまないだけに、不敬罪は廃止しないまでも、その適用はできるだけ控えることが望ましいのであって、前述のように、プミポン国王が昨年、自分に対する批判を行ってよいと述べたのは賢明でした。  可及的速やかにこの国王の考えに従って、不敬罪の厳格適用の緩和化が図られるべきでしょう。  ワチラロンコーンが王位を継承してから、彼に対する批判が許されないとなれば、タイ国民の憤懣がたまってそれがいつ何時爆発しないとも限らないからです。  繰り返しましょう。  タイ王室のためにも、ひいてはタイのためにも、プミポン国王は今次クーデターに同意を与えるべきではなかったのです。


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