タイクーデター Thai Coup d'etat

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2006年09月19日(火)夜半

タイのテレビ局が一斉に通常放送を中止し、「クーデターが発生。
国軍が全土を掌握。タイ憲法は失効した。」と繰り返し放送を始めた。



目次
序章  クーデターの予兆 客家タクシンの増長 ~2006年09月19日
1章  クーデターの進行 客家政権の崩壊 2006年09月19日~30日
2章  クーデターの残響 権力への執着と鼠の逃亡 <<2006年クーデター>> 2006年10月01日~11月09日
3章  大ドブネズミ、チャワリット・ヨンチャイユット現る 2006年11月10日~12月31日
4章  客家タクシンの隠然たる影響力 策謀・外遊 2006年12月31日~2007年02月11日
5章  クーデターの明暗 ソムキット対2人のソンティ、PTVとiTV 2007年02月12日~03月07日
6章  通信王タクシンの不敬罪 PTV、hi-thaksin.netによる煽動 2007年03月08日~05月29日
7章  タクシンの政党の非合法化 タイ・ラック・タイ党に解散命令 2007年05月30日~07月05日
8章  タイを乗っ取ったタクシン マンチェスター・シティとパラン・プラチャーチョン党 2007年07月06日~08月18日
9章  新憲法が国民投票で発効 総選挙に向け政争 2007年08月19日~09月31日
10章  ソンティ司令官が退官、副首相で入閣 血と金で洗う選挙戦 2007年10月01日~12月22日
11章  タクシンの政党が下院選で勝利 6党が野合し連立 2007年12月23日~2008年01月20日
12章  タクシンの政権 報復の嵐の開始 2008年01月21日~2008年02月27日
13章  タクシン帰る 恣意と増長の政治、再び 2008年02月28日~2008年05月20日
14章  改憲阻止 民主主義市民連合の集会とデモ再開 2008年05月21日~2008年06月17日
15章  売国奴タクシン カオプラウィハーンの国境紛争 2008年06月18日~2008年07月30日
16章  犯罪者タクシン国外逃亡 デモ隊、首相官邸を占拠 2008年07月31日~2008年09月11日
17章  首相官邸から国会議事堂にデモ 2空港も占拠 2008年09月12日~2008年12月01日
18章  タクシン派与党3党に解党命令 民主党連立政権誕生  <<2008年クーデター>> 2008年12月02日~2009年03月01日
19章  国際逃亡犯タクシンの謀略 赤服を操りタイの破壊工作 2009年03月02日~2009年04月07日
20章  タクシン派赤服 タイ正月(ソンクラーン)の暴乱 2009年04月08日~2009年04月23日
21章  非常事態宣言解除 タクシン派赤服の反政府集会続く 2009年04月24日~2009年07月09日
22章  国内治安法適用 プーケットのASEAN関連会議 2009年07月10日~2009年07月25日
23章  還暦タクシン 赤服を使い恩赦請求集会多発 2009年07月26日~2009年09月08日
24章  タクシン派の更迭・分裂、チャワリット入党と国境紛争 2009年09月09日~2009年11月03日
25章  売国奴タクシン カンボジアの経済顧問就任と外交戦 2009年11月04日~2010年02月25日
26章  汚職蓄財王タクシンの国内資産没収判決と赤服の動員 2010年02月26日~2010年03月11日
27章  クルングテープの99日(前) 赤服の首都占領と血の呪術 2010年03月12日~2010年04月06日
28章  クルングテープの99日(後) 非常事態宣言発令・市街戦で殺戮 2010年04月07日~2010年05月19日
29章  タクシン派赤服による略奪・放火の結末 爆弾テロが続く 2010年05月20日~2010年06月07日
30章  赤服暴乱冷める間もなく国境紛争再燃 黄服再登場 2010年06月08日~2010年09月18日
31章  クーデターから4年目 赤服の集会と爆弾テロ、黄服の集会が頻発 2010年09月19日~2011年02月03日
32章  カンボジアのタクシン支援の国境紛争再々燃 死傷者と難民 2011年02月04日~2011年05月07日
33章  タクシンの傀儡、妹インラック登場 タクシンの売国選挙選 2011年05月08日~2011年07月02日
34章  インラック傀儡政権 カンボジアへの売国と身贔屓バラマキ政治 2011年07月03日~2011年10月13日
35章  泣いた赤鬼、インラック 洪水に泣くしか能のない木偶人形 2011年10月14日~2012年02月08日
36章  国外逃亡犯タクシンのための憲法修正 爆弾テロと不敬罪続発 2012年02月09日~2012年05月25日
37章  国外逃亡犯タクシン免罪法案と改憲に対し、憲法裁の審議中止命令 2012年05月26日~2012年09月17日
38章  タクシンの画策 民主党幹部を遡及罷免・殺人罪、タクシンの小舅の昇格 2012年09月18日~2012年10月23日
39章  ピタック・サイアムの登場と退場 国内治安法発令、警官隊が衝突 2012年10月24日~2012年11月27日
40章  不信任否決 恩赦で帰国させろ、インラックを操縦するタクシン 2012年11月28日~2013年03月10日
41章  タクシンの指令 タクシンのために恩赦法を作れ 2013年03月11日~2013年05月30日
42章  タウィンの左遷無効 仮面の反タクシンデモ、V・フォー・タイランド 2013年05月31日~2013年08月19日
43章  タクシンの利得論議 改憲・恩赦・2兆B、機動隊出動で強行採決 2013年08月20日~2013年10月08日
44章  支那李克強訪タイ名目で国内治安法 反タクシン抗議集会拡大 2013年10月09日~2013年11月19日
45章  改憲は憲法違反、憲法裁判決 抗争激化で死者も 民主党全下院議員総辞職 2013年11月20日~2013年12月08日
46章  インラック下院解散 反タクシン派ステープ総選挙粉砕20万人デモ 2013年12月09日~2013年12月22日
47章  反タクシン反政府派のデモ隊、下院総選挙妨害で衝突 2013年12月23日~2014年01月12日
48章  クルングテープ封鎖 ステープ首都主要交差点で集会 爆弾発砲テロ 2014年01月13日~2014年02月01日
49章  インラック下院総選挙強行 反政府派、政府派、米農家のデモ 2014年02月02日~2014年03月20日
50章  憲法裁、下院総選挙を無効と判断 政府派のテロ、反政府派のデモ激化 2014年03月21日~2014年05月06日
51章  憲法裁、上院 インラック首相ら失職判決 2014年05月07日~2014年05月19日
52章  陸軍が戒厳令を発令 政府派、反政府派の和解を探る 2014年05月20日~2014年05月21日
53章  7者会談決裂 プラユット司令官が全権を掌握 2014年05月22日~2014年05月25日 <<2014年クーデター>> 
新着の情報はこちら → 新着情報


タクシンとタクシン一族の詳説は膨大になったので、
分離してこちら(未完成) →
タクシン Thaksin

1981年04月のクーデター未遂事件、1985年09月のクーデター未遂事件、
1991年クーデター(1992年の5月流血事件)は、
こちら → 1991年タイクーデター Thai Coup d'etat in 1991

繰り返された政変、戦争、タイ王朝史は、
こちら(アユタヤ朝中期まで完成) → タイの王朝 Thai Dynasty


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序章  クーデターの予兆 客家タクシンの増長
2006年01月21日(金)アムプルリッチ・インベストメンツは、保有していたシン・コーポレーション株5.49%を1株1Bで、タクシン・チナワット(丘達新)首相の長男パーントーングテー・チナワットと長女ピントーングター・チナワットに売却。

← 左から、次女ペートーングターン、タクシン、長女ピントーングター、長男パーントーングテー

シン株は、タクシンとポチャマン夫人が個人で出資するほか、アムプルリッチが保有していたが、政治家とその配偶者の許認可事業株保有を禁止する憲法の規定のため、タクシンとポチャマン夫人名義のシン株を長男パーントーングテー、長女ピントーングターに譲渡。ポチャマン夫人の実兄のバンナポット・ダマポン(Bannapot Damapong)にもシン・コーポレーションの株式450万株(市場価格7億3800万B)を結婚祝として譲渡。さらには、運転手や家政婦ドゥアンガまで総動員して名義を書き替え、関連会社の「チナワット」を全て「シン」に書き変える荒技に出た。

* アムプルリッチ・インベストメンツ(Ample Rich Investments)
タックスへブンの英領ヴァージン諸島に登記したタクシンの資産管理会社(ダミーのペーパー・カンパニー)。1999年03月12日にタクシンが全額出資して設立。有り余る金持ちのための投資会社という意。シン株の米ナスダック市場への上場準備のため当時額面10Bだったシン株3292万株を受領。この計画は1999年06月11日にSECに報告している。

しかし、タクシンはアムプルリッチ保有の株はそのままにして、2000年12月01日に、アムプルリッチの全株式を長男パーングトーンテーに譲渡。2005年05月にそのうちの20%を長女ピントーングターに譲渡。
01月23日(月)タクシンが創業したシナワトラグループの持株会社シン・コーポレーションのタクシン家とダムロン家(ポチャマン夫人の実兄)保有の株式49.59%をシンガポール政府系投資会社テマセク・ホールディングスに733億Bで売却。形式的にはこれらの株はセダー・ホールディング社(Ceder Holdings)とアスペン・ホールディング社(Aspen Holdings)に売り渡され、両社は全株を形式上競売。その間、シン・コーポレーションの株式の上場は維持。
英領ヴァージン諸島迂回の節税工作により、税金がわずか2500万Bに過ぎず批判を浴びる。
長男パーントーングテーと長女ピントーングターは1株1Bの額面価格で取得したアムプルリッチ保有のシン株を翌営業日のこの日にテマセクに1株49.25Bで転売。2人はアムプルリッチ保有株の転売だけで158億2000万Bのキャピタルゲインを得たことになる。

なお、この取引は01月31日になってようやく証券当局に報告されている。報告の遅れは情報収集に手間取ったためとか。
◇ 法律的に、一連の取引で問題になるのは、
①タクシンによる長男パーントーングテーへのアムプルリッチ社株の譲渡
②長男パーントーングテーによる長女ピントーングターへのアムプルリッチ社株譲渡
③アムプルリッチ社による長男パーントーングテー長女ピントーングターへのシン株譲渡

タクシンによるパーントーングテーへの株式譲渡が事実でなかった場合、タクシンは国家汚職防止取締委員会に資産を虚偽報告をしていたことになる。タクシンがパーントーングテーにアムプルリッチの持分を譲渡した時期は、2001年01月の総選挙直前の2000年12月ということになっている。パーントーングテーはアムプルリッチの株式を取得していたなら、シン株を個人名義で持つほかにアムプルリッチ名義でも保有していたことになり、同一の団体と見なされ、大量保有の開示義務が生じるが、当局には報告していない。たとえ節税だけだとしても、政治的道義的責任は免れない。シンガポールに通信などの基幹産業を売り飛ばした売国奴との非難も当然。

* シン・コーポレーションの株主と持株比率(2006年01月末時点)
1. シーダー・ホールディングス(Cedar Holdings)38.6% シンガポールのテマセク社とサイアム商業銀行(SCB)、タイ人投資家グループで設立した持ち株会社。資本金4億B。出資比率はテマセクが48.99%、SCBが9.9%、タイ人投資家グループ(詳細未公開)が41.1%。
2. シンガポール・テレコミュニケーション(Singapore Telecommunication:シンテル)21.4% テマセク社はシンテルの株式の63%を保有。
3. テマセク傘下の持ち株会社エスペン・ホールディングス(Aspen Holdings)11% 資本金10万B。テマセクが99.94%出資。

* シン・コーポレーションの主要な傘下企業と持株比率(2006年01月末時点)
キャピタルOK(消費者金融) 60.0%、iTV(民放テレビ) 52.9%、タイ・エアアジア(格安航空) 50.0%、AIS(携帯電話1位) 42.8%、シン・サテライト(衛星通信) 41.3%、CSロックスインフォ(ネット接続業者) 40.2%

* テマセク・ホールディングス(Temasek Holdings)
1974年、シンガポール政府が投資した港湾や航空、銀行など戦略的企業の持ち株会社として、李光耀(Lee Kuan-Yew、リー・クアンユー)肝煎りで財務省の管轄下で設立されたシンガポール政府100%出資の企業。テマセクが株式を保有・管理する企業には、港湾管理会社PSAコープ(持ち株率100%。北九州市の響コンテナターミナルの運営。)、シンガポール・テクノロジーズ(同100%)、シンガポール・テレコム(同67%)、鉄道会社SMRT(同62%)、シンガポール航空(同56%)、同国最大手銀行DBS(同29%)など約40社。その業種は港湾、運輸、通信、製造業、金融、電力など多岐にわたる。テマセク傘下企業が、シンガポール取引所(SGX)上場企業の株式時価総額に占める割合は2003年10月時点で20%超。(2004年08月時点)。執行取締役は、李光耀(リー・クアンユー)の長男の李顯龍(リー・シェンロン、Lee Hsien-Loong)3代首相の後妻の何晶(ホー・チン、Ho Ching)。

マレー語の「e」は「エ」ではないし、語尾の「k」は「ッ」と聞こえるので、「トゥマセッ」が近いが、日本で発音されている「テマセク」にしておく。「Temasek」はシンガポールの古名で、マレー語で「港町」の意。

* シンガポール政府投資会社(GIC)
1981年にシンガポール財務省直轄の投資会社として設立。1000億US$以上の政府準備金を運用。投資会社の規模としては世界最大規模。投資・運用実績などは一切非公開。GICの傘下に、不動産物件に投資するGICリアルエステーツ、ベンチャーキャピタルとプライベート・エクイティーに投資するGICスペシャル・インベストメンツ社。
GICは野村證券の最大顧客。GICリアルエステーツは世界中に不動産物件を持ち、日本では汐留シティーセンターもその1つ。
シンガポール政府投資公社(GIC)の不動産部門、GICリアルエステーツは2007年04月16日までに、米投資会社コロニー・キャピタルから、福岡市の複合商業施設「ホークスタウン」を買収したと発表。ホークスタウンは、プロ野球福岡ソフトバンクホークスの本拠地、ヤフードームのほか、JALリゾート・シーホークホテル福岡(客室数1052)、商業施設のホークスタウンモールなどからなる。2004年03月に経営再建中のダイエーからコロニーが取得していた。

米シティグループは2008年01月15日、サブプライム・ローンによる損失を補填するため、シンガポール政府投資公社(GIC)などに転換社債を発行し、総額125億US$を調達すると発表。GICの投資額は68億8000万US$。GICは既にシティグループの株式を0.3%保有しており、転換社債を株式転換すれば出資比率は4%に拡大する。

  

 李光耀(リー・クアンユー)   長男の李顯龍(リー・シェンロン)    長男の嫁の何晶(ホー・チン)

GICの会長がシンガポール建国の父、李光耀(リー・クアンユー)現顧問相(初代首相)。李光耀(リー・クアンユー)の長男が李顯龍(リー・シェンロン)3代首相(現首相)。テマセク・ホールディングスの執行取締役は長男の後妻の何晶(ホー・チン、Ho Ching)。シンガポール・テレコムの最高経営責任者は次男の李顕楊(リー・シェンヤン、Lee Hsien-Yang)
李光耀(リー・クアンユー)は、GICとテマセクを媒体とした開発独裁で、政府資金を直接投入、シンガポールの経済発展に貢献。しかし,タクシンと同じ客家の李家が、シンガポールを政治・経済の両面から支配し、他家や民間企業の競争、発展を大きく阻害。李氏新嘉坡。李顯龍は靖国神社批判など支那の国益を代弁した反日行動が目につく。タクシンの丘(チナワット)家が尊敬し、目標としているのが李(リー)家である。
02月01日(水)タクシン首相一族の代理人のスワン・ワライサティアン元商業副大臣は記者会見で、タクシン首相がシン株を放出するまでの経緯を説明。タクシン首相とポチャマン夫人が保有していたシン株を、同家の使用人や長男パーントーングテー、長女ピントーングター名義に書き換えていった経緯を時系列で説明。「全ての取引は合法で、やましい部分は何1つない。」と強調。
釈明会見を聞いた多くの者の印象は、「株式売却をめぐる国民の疑いを解くことに失敗した。」(ウィーラ・ソムクワムキット汚職監視市民ネットワーク事務局長)。釈明会見へのこうした評価は、野党、タクシン首相に批判的な市民グループや学者だけでなく財界人も共有。
02月02日(水)タクシン首相は、税当局、証券当局のトップに会見を開かせ、違法性がなかったとする見解を示させた。幕引きを狙ったこうした行動も不信感を増幅。
02月24日(金)数万人規模の街頭デモで窮地に追い込まれたタクシン首相は、国民の信を問うためと、下院を解散。
02月26日(日)タイのタクシン首相辞任を求める市民団体や労働組合とチャムロン元副首相(元クルングテープ都知事)の率いる仏教団体などは王宮前広場でタクシン政権発足後で最大の反政府集会集会を開催。参加者は5万人を超えた。
02月28日(火)陸軍のソンティ司令官は、「クーデターを起こしたい者はいないし、軍はクーデターを起こさないことを保証できる。」発言。
03月06日(月)陸軍のソンティ司令官は、「軍隊は政治的な対立にかかわらない。政治的な紛争は政治家によって解決されるべきで、軍事クーデターは過去のものである。」と発言。
     03月クルングテープで退陣を求めるデモが活発化。

← 不適切だと見做されたサイトは規制され、見れなくなった。

03月23日(木)今まで沈黙していたプミポン国王が枢機卿17名をホアヒンに呼びつけ、現状を大変憂慮し、3時間に及ぶ会議を開催。結論めいたものは何も発表されず。

王宮前広場で開かれた反タクシン首相の集会 →

03月29日(水)民主主義市民連合がサイヤム・スクエアで大規模な反タクシンデモ。参加者7万人(5万人とも、主催者発表では10万人)。オープンしたばかりのサイアム・パラゴン、サイアム・センター、サイアム・ディスカバリーセンターの3つのショッピング・センターが2日間の休業。周辺の多くの小売店、銀行も営業停止を余儀なくされた。このデモによる経済的打撃は6百万Bと言われ、また、市内は大渋滞。スラポン政府報道官が経済に影響を与え国民の生活にも影響を与える目に見えない爆弾の様なものだと批判。BTSは、サヤーム駅で停車せず、通過させる措置を講じたが、開業以来最高記録の54万6597人が利用。因みに、これまで開業して6年3ヶ月での最高記録は、サイアム・パラゴンがオープンした2005年12月09日の53万7328人。
連合側は徹夜で集会を開催。集会の檀上で、シーロム通りのトリニティー・モールで自発的に「タクシン・オークパイ(出て行け)!」と叫んだ商店関係者2人が拍手喝采を浴び、「タクシン・オークパイ!」の大合唱。「アイ・コン・ナー・リヤム(四角顔の奴)」がかかると踊りだす人も。飲料水や食事が無料で配られ、タクシンのロゴの入ったTシャツや鉢巻などは飛ぶように売れていた。サイヤム・スクエア周辺のMKスキや7-11等のレストラン、食堂コンビニでは、集会参加者の利用で列ができる大盛況。タクシンの長男パーントーンテーが経営するインターネットカフェーは休業。

* アイ・コン・ナー・リヤム(四角顔の奴)
タクシン首相のことを歌った曲。四角い顔という意味のほかに「策略に富んだ」というような意味もある。
タイラックタイ党は、連合の集会の場で好評を博しているタクシン首相を皮肉った「アイ・コン・ナー・リヤム(四角顔の奴)」という曲を歌っているスワロンと名乗る夫婦歌手及びこの曲をCD化し販売した関係者に対し名誉毀損で法的措置を講じると明言。

サイアム・パラゴン前のメインステージで行われる予定だったアイ・コン・ナー・リヤムを歌っている歌手の公表は、本人や関係者に危険が及ぶ恐れがあるとして中止。

連合は30日朝10時に中央選挙委員会に向けデモ行進を行うと発表。
連合の一部の関係者が中央選挙委員会ビル前に集まり、軍のヘリコプターを使用して移動するなど数々の選挙違反行為を犯してきたタクシン首相(タイラックタイ党比例代表名簿第1位)の候補者資格剥奪措置及び総選挙の中止を求め座り込み抗議。
南部のチュムポン県ターセ郡では、首相就任以来5年間に渡って南部を無視し続けてきたタクシン首相に抗議する為に南部14県から集まった民主主義市民連合関係者約8000人がペートガセーム通りを10㎞に渡って座り込みを行い道路を封鎖。
国家警察本部のコーウィット本部長は、国務省からの緊急指令を受け連合幹部のソンティ・リムトーングクンとコム・チャット・ルゥック紙に対して告発されている不敬罪疑惑の捜査を進めるため警察将校クラスで構成された特別捜査チームを29日に編成。政府の意向を受けた不敬罪を盾にした連合に対する抑圧行為と見られる。
04月02日(日)総選挙。野党民主党など主要野党3党が選挙をボイコットし白票が相次ぐ。与党タイラックタイ(タイ愛国)党は1640万票を集め圧勝したが、400選挙区中39選挙区で有効票が規定に達せず再選挙が決定。
04月04日(火)23時国王に退陣を表明。次期首相が決まるまで休養に入り、首相の職務はチットチャイ・ワンナサティット副首相が代行することとなったが、実際には暫定首相としてタクシン首相が職務を継続。国民からの反発を招く。
04月25日(火)夜プミポン国王は「500人揃わなければ国会は開会できない。」と述べ開会に必要な詔勅への署名を拒否する意向を示す。
「選挙に1政党しか立候補しないのは民主主義ではあり得ない。」とも語り、全400の小選挙区のうち約7割が与党・タイラックタイ愛国党候補のみとなった総選挙に不快感。
05月08日(月)プミポン国王が裁判所に善処を指示し、憲法裁判所は選挙の無効やり直しを裁定。タイラックタイ愛国党、民主党の2大政党が選挙違反に問われ、公判中。有罪の場合は解党命令が出る可能性がある。(2007年01月現在)
05月18日(木)夜ルアンロー最高司令官、 陸軍のソンティ司令官、海軍のサティラパン司令官は長引く政治危機を巡って初めての協議。コンサク内相も参加。
ソンティ司令官は17日に「国家の問題は依然続いており、国王を悲しませている。それが心配だ。国王の兵士の一人として、国王の心配を取り除くために何でもする。」と、ソンティ司令官はクーデターの可能性を否定。サティラパン司令官は18日に「今の国家情勢を協議する。全当事者に和解を求めたい。」と発言。
06月中旬タクシン首相が「国王の威光を着た我々の敵がいる。」とラジオで発言。軍の高官の配置転換で、タクシンはプレム枢密院議長(元首相)と衝突。プレム枢密院議長は、配置転換の意見の衝突を「我々軍隊は競馬の馬で、政府はその騎手だ。しかし彼らは我々の主人ではない。馬の主人は国王だ。」と例えた。
08月24日(木)タクシン暫定首相私邸付近(クルントン橋とバーンプラットの交差点の間約300mの場所で、首相私邸があるソーイ・チャラン・サニッタウォン69にも近い)で、大量の爆薬を積んだ朝鮮車(大宇)が警察車両の追跡をかわして逃走。車を乗り捨て運転手が逃走。問題の朝鮮車は2ケ月以上前から暫定首相私邸付近で度々目撃されていた。 <タクシン暗殺未遂事件>
クルントン橋を含む周囲の道路は爆弾処理のため、全面通行止。
処理は10:30頃までに終了。TNTが2箱4.5kg、C4が1.6kg、硝酸アンモニウムとガソリンが67kg、その他遠隔操作用回路など起爆装置の部品が発見される。少なくとも半径1kmの範囲に被害を及ぼし、特に半径30~50mの範囲に甚大な被害をもたらす恐れがあった。爆発物は「いつでも爆発できる状態」というのが警察の発表だが、当初の発表では、「材料だけで」、爆発物はセットされていなかったというのが真実のようだ。
陸軍国内治安作戦部隊員タワチャイ・キンチャナ陸軍中尉(43)が逮捕される。タワチャイ中尉は「200Bで雇われてスアン・オイ(タクシン私邸の近く)にこの乗用車を運ぶ途中で中身は知らない。」と供述。クーデター後にタワチャイ中尉は、「『 もし暗殺が失敗したらクーデターを起こす予定だ。』と国家安全作戦部隊のトップに言われていた。」と新聞に告白している。
直属の上官であるパロップ・ピンマニー大将(副司令官)が解任される。容疑を言下に否定し、「誰がこんな馬鹿げたことをやるのか?もし私がその気になれば、暗殺はとっくに成功しているはずだ。私は誠心誠意治安維持の任務を遂行してきた人間だ。」と語った。 パンロップ(1936年生)は民主運動家チャムロン少将と士官学校7期の同期生であり、親交が厚かったと噂され、タクシン派からはかねてから煙たがられていた人物である。しかし、一方では、パンロップは民主派のイメージとはほど遠く、以前、南タイの叛徒掃討の現地軍副司令官であり、2004年05月04日の「クルセ・モスク事件」ではモスクを破壊し、32名のイスラム教徒を殺害した責任者として有名である。その後のタク・バイ事件(78名の虐殺)での軍の行動を支持。パンロップは政府の南タイのイスラム叛徒弾圧策が生ぬるいという批判を繰り返していたタカ派。まったタワチャイ中尉は以前、パロップ将軍の運転手をしていたことがある。
爆弾を積んでいた朝鮮車(大宇)はチャクリット上級曹長が中古車センターで買った登録期限の切れたボンコツ。チャクリット上級曹長所有のニッサンのピックアップからM16機関銃と実弾20発が発見される。
タワチャイ中尉の背後関係は不明だが、彼の自宅を警察が家宅捜索したところ与党のタイラックタイ党のブレザーが発見されただけで、タクシン首相の自作自演の狂言だという噂が飛び交う。
「自分が関係しておればタクシン暫定首相は絶対に逃げられなかった。」という談話をソンティー陸軍司令官が発表。
09月09日(土)ヘルシンキでのアジア欧州会議(ASEM)、ハバナでの非同盟諸国会議、国連総会に連続して出席のため、タクシンの専用機Thai Koofa号でフィンランドへ出国。
58個の大型スーツケースやトランクが積み込まれる。
09月17日(日)タクシンの指示で後発機(エアバス340-600)で56個の大型スーツケースやトランクを国外に持ち出す。
09月19日(火)08時タクシン暫定首相に代わり、チットチャイ暫定副首相が閣議召集。ハジャイ爆破事件について国軍3軍司令官に閣議参加を命じるが、所用を理由に3軍司令官とも命令を拒否。
午前国連総会でのタクシン暫定首相演説はもともと20日昼過ぎ(タイ時間21日未明)に予定されていた。18日夜(同19日午前)になって、「モンテネグロと順番を入れ替え前倒しする。」とタイ政府から国連事務局に通告。
朝からクルングテープで軍隊の移動が盛んに行われ、軍事クーデターの噂が流れる。
日本大使館に事前に「19日夜に軍関係者から何らかの発表がある。」との情報がタイ側から寄せられる。

高機動多用途装輪車(HMMWV)
ハンヴィー HMMWV(Humvee)
High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle

 M151(ケネディジープ)の後継であるほか、M274、M561、M880等の軽中型トラック等も統合する目的で開発された軍事用車両に対する総称。1985年から配備。ハンヴィーの民生用の車種がハマー(HUMMER)。AMゼネラルで生産され、エンジンはGM製V8、6200cc。M998四輪駆動軽汎用車とその派生型で、仕様の異なる榴弾砲の牽引車両や救急車、TOW対戦車ミサイル搭載車両などが存在する。
M1114 * 乗員:4~6名 * 全長:4.84m * 車幅:2.16m * 車高:1.87m * 路上最高速度:125km/h * 路上航続距離:443km * エンジン:6.2ℓ 水冷V型8気筒ディーゼルエンジン * 最大出力:190hp * 燃料搭載量:94.63ℓ

〔参考〕軽装甲機動車(日本自衛隊)

 自衛隊のイラク派遣では、現地を刺激しないため、96式装輪装甲車(小松製作所)、高機動車(トヨタの民間車のメガクルーザーの軍事用転用)に加えて、軽装甲機動車(小松製作所)が使われた。軽装甲機動車は2002年(平成14年)度から部隊配備。
軽装甲機動車 * 乗員:4名 * 全長:4.4m * 全幅:2.04m * 全高:1.85m * 空車重量:約4.4t * 戦闘重量:約5.5t * 行動距離:約500km * 最高速度:約100km/h * 登坂能力:60% * 製造:小松製作所 * 価格:約2625万円(平成17年度調達価格)


1章  クーデターの進行 客家政権の崩壊
2006年09月19日(火)午後陸軍第3軍管区司令官サプラン・カンヤンミット中将が第1騎兵師団に出向き臨戦待機を命令。第2騎兵師団サーニット・ポラマート少将(士官予備学校10期でタクシン暫定首相と同期)が臨戦待機。第1騎兵師団が臨戦待機を一旦解除。
暫定内閣閣僚間に反タクシン派軍部の決起が避けられないとの観測。
B為替レートは当初6年ぶりの高値を更新(1US$=37B前半)、クーデタの噂で37.90Bに下がる。7週間ぶりの安値。変動幅は過去3年で最大。
17時ペンジット・パンヤワォラナシリ元官僚ら10人の文官が陸軍司令部を訪れソンティ大将(陸軍司令官)に「軍の力で閉塞した政治情勢を打破せよ。」との請願文を提出。
18時30分頃第1特殊作戦師団所属大隊がロップリーから出発。
プレム枢密院議長が国王に拝謁。
18時55分タクシン暫定首相が当初予定の22日ではなく21日に帰国との報道。
19時反タクシン派軍部とタクシン暫定首相が水面下で交渉。タクシンが退陣を拒否し交渉決裂。
首都防衛の主力の第2騎兵師団長が「指揮下の部隊は一切動かさない。」と明言。
19時30分第3軍管区司令官が「指揮下部隊は平常勤務。」と発表。
20時反首相派のソンティ陸軍司令官が、首相派のルンロート国軍最高司令官と会談。タクシン暫定首相の政界引退を要求。
プレム枢密院議長に近い軍高官が 「夕方にプレム枢密議長が国王に拝謁した。」と明かす。用件はブア・キッティヤカラの仏教儀式について。
警視庁機動隊にM16ライフルを配布。出動準備命令。
20時10分プレム枢密院議長(元首相)がプミポン国王に謁見。タクシンの政界引退に問題ないと説明か?
21時陸軍系テレビ局チャンネル5が突然通常の放送を中止し、国王賛美の映像に変わった。
タイ国軍の複数の幹部がクーデタ決行を公言。
第1特殊作戦師団(ロッブリ駐屯)所属部隊がバス数十台に分乗して首都入り。同部隊の一部(バス2台)が陸軍司令部に入る。陸軍司令部秘書官事務所への送電停止。 ネット掲示板pantip.comで、クーデタ発生についての質問が掲載。
反タクシン派の軍と警察がテレビ各局を占拠。
21時20分陸軍将兵約20名がスコータイ宮(王子の住居)周辺の警備に当たる。
タクシン暫定首相がニューヨークからチャンネル11に電話中継の準備を命令。
21時30分タクシン暫定首相が非常事態宣言を発令。ソンティ陸軍司令官の解任を命じる。
チットチャイ暫定副首相、タンマラック・イサランクン・ナ・アユタヤ大将(暫定国防相)の身柄を拘束、タクシンの長男パントンテー・チナワットが18日より海外へ脱出済みとの情報。タクシン派が意図的に流した虚報。
21時35分プロミン暫定首相秘書官長が顔面蒼白で首相官邸に登庁。
21時40分チャンネル5の移動中継車と軍の輸送トラック多数が陸軍司令部に到着。
タクシン暫定首相がニューヨークからチャンネル9に生中継の準備を命令。
21時45分プロミン暫定首相秘書官長が大きな書類鞄を持ってチットチャイ暫定副首相の公用車に乗り首相官邸を出る。
22時00分クルングテープ市内要所を陸軍部隊が制圧。警視庁は閉門。所属機動隊の出動準備命令を継続。
CNNがクーデタ発生を速報。
タクシン暫定首相がチャンネル11に国際電話で緊急電話中継を試みるも、中継前に陸軍部隊が放送局を制圧。
22時10分豪雨の降りしきる中、第4大隊司令部より陸軍部隊が移動開始。
22時12分M113装甲兵員輸送車装甲車やM998四輪駆動軽汎用車20台がラーマ5世騎馬像前広場に向かい、3~4台のM41ウォーカー・ブルドッグ軽戦車が首相官邸に向かう。
22時13分タクシン暫定首相、ニューヨークからクルングテープ都に非常事態宣言を発令し、チャンネル9(MCOT系列)で放送。「ソンティー陸軍司令官を解任、ルアンロート・マハサラノン大将(国軍最高司令官)が陸軍司令官を兼務する。」と発表。ソンティ陸軍司令官に解任、首相府への出頭命令。ルアンロート国軍最高司令官に緊急事態収拾命令。
22時14分陸軍部隊が首相官邸を包囲し制圧。約50名の兵士が建物内に入り占拠。
M41軽戦車3台がプレム枢密院議長の私邸を警備。M41軽戦車2台と多数の輸送トラックが砲兵師団司令部を出発。
22時15分多数の陸軍部隊がクルングテープ市内各幹線道路に展開。
チャンネル9(MCOT)のミンクワン・センスワン同局幹部役員が制圧部隊に拘束されたとの情報。後に本人が事実関係を否定。
22時20分陸軍部隊がチャンネル9(MCOT)を完全制圧。軍はそのまま政府施設やテレビ局を占拠。
タクシン派のヨンユット前天然資源・環境相とネーウィン前暫定首相府相がライフルなどで武装した軍・警察部隊を率いる。
22時24分陸軍部隊,タクシン暫定首相私邸を包囲制圧。
22時25分チャンネル3,チャンネル9以外の各局が通常放送を中止。国王賛美のビデオを放映。そのまま陸軍管轄チャンネル5の放送内容に。
陸軍部隊がウィナイ・トンソン警察少将(機動隊統監)とトライロン・イントラタット大将(陸軍顧問)の身柄を拘束。
22時26分陸軍部隊がチャンネル9のタクシン暫定首相の非常事態宣言放送を中止させる。タクシン暫定首相が非常事態宣言3号を読み上げている途中で放送中止。放送は数分で打ち切られ、タイ国軍も警察も動かなかった。陸軍部隊が同放送局を停電させたか同放送局内で放送停止を命じたとの情報。
22時40分地上派放送チャンネルが全て放送停止。
22時41分CNNが「地上波放送がすべて放映・放送停止された。」と報道。また、非常事態宣言の内容を報道。
22時44分陸軍部隊が首相官邸周辺の報道関係者の拘束・排除に乗り出す。
22時54分「タイ国特別任務テレビ放送」を通じて民主改革評議会が権力掌握の声明を全放送局から放送。
民主改革評議会(คณะปฏิรูปการปกครองในระบอบประชาธิปไตย อันมีพระมหากษัตริย์ทรงเป็นประมุข、Council for Democratic Reform (CDR))は、「国王を元首とする民主主義体制改革評議会」と訳すべきだが、「国王を長とする民主体制下の行政改革評議会」、「行政改革協議会 」、「民主体制下の行政改革団」という訳もある。
CNNとBBCが陸軍部隊の動きを報道。
陸軍部隊がクーデターの軍隊が首相府やタクシン暫定首相宅、タクシン暫定首相系のビル「チナワットタワー」(タクシン前暫定首相所有,iTVがある)を包囲し占拠。政府庁舎、放送局などを次々と制圧し、実権を掌握。
22時55分報道関係者を帰宅させる。
23時00分タンマラック大将(暫定国防相)の身柄を拘束。
23時05分国軍4軍警首脳が民主改革評議会の声明を読みあげ、首都周辺の平静を保つよう呼びかける。ソンティ陸軍司令官が代表の民主改革評議会(CDR)が実権掌握とテレビで発表。
在タイ日本大使館が在留邦人に緊急の電子メール。「軍の動きは活発化しており、不測の事態も予想される。」と、自宅やホテルなど安全な場所へでの待機を求める。
夜半アメリカのホワイトハウスのジョーンズ国家安全保障会議(NSC)報道官は「事態の推移を注視しているが、状況は不透明だ。我々は、タイの人々が政治上の相違を平和的な手段で解消し、民主主義と法の支配の原則にたって行動するよう求める。」と、クーデターを批判。
23時10分陸軍系(101MHz)ラジオ放送局に対し99.5MHz局からの生中継放送命令。
23時15分陸軍部隊30名がネイション・チャンネルが入っているネイション・タワーを占拠。
シーアユタヤ通りとラチャダムン通りにバリケードを構築し封鎖。陸軍部隊が首相官邸警備の警察部隊に武装解除を命じる.
23時27分プラパート・サクンタナート少将(チャンネル5元広報官)が放送を通じて,民主改革評議会の権力掌握声明を2度読み上げる.
23時30分チットチャイ前暫定副首相、プロミン前暫定首相秘書官長、ソムチャイ法務省事務次官,ドゥシット・シリワン(タクシン支持派の重要人物)の身柄を拘束。
23時40分警察特殊部隊の武装解除。
23時50分民主改革評議会布告(1/2549)民主改革評議会が権力奪取の正当性を説明。国家正常化のため」とクーデターの理由を発表。
23時55分UBC系のチャンネル53(CNN)を停止。NHKワールドや、CNN、BBCなどが映らなくなった。
23時59分ソンティー司令官ら民主改革評議会首脳部がチットラダー宮殿でプミポン国王に謁見。

クーデターの成功が内定。

プミポン国王とシリキット王妃に謁見する国軍3軍の司令官 →

09月20日(水)00時28分プラパート少将が2006年09月19日21時09分に戒厳令が発効と発表。
00時30分民主改革評議会布告(2/2549)プラパート少将が憲法と国会、内閣、憲法裁判所、非常事態宣言の無効を発表。軍に基地待機を命じる。
00時41分「民主主義のための民衆同盟」代表ソンティ・リムトングクンが、混乱回避と戒厳令のため、20日17時よりラーマ5世騎馬像前広場で予定されていた大規模な反タクシン集会を延期すると発表。
00時43分プラパート少将が民主改革評議会布告(3/2549)を読み上げた。1997年憲法、国会、内閣、憲法裁判所を停止。枢密院、司法裁判所は継続して存続。
01時15分国軍最高司令官、国軍3軍司令官が陸軍司令部で会合。
01時29分プラパート少将が民主改革評議会布告(4/2549)「権力を掌握した。」と発表。
02時15分20日未明の国王謁見時の写真を公開。
02時30分20日を公共機関及び銀行の休日にすると発表。この決定によりタイ証券取引所の取引も休止。官公庁幹部に20日09時にラチャダムヌン・ヌア通りの陸軍司令部まで出頭するように命令。
05時30分チャンネル5は民主改革評議会布告を繰り返し放送。
「国王を元首とする民主体制下の行政改革評議会」がテレビを通じて発表した声明の要旨」
「未曽有の社会的対立が発生し、政権の不正や汚職で状況は悪化しており、解決の兆しが見えない。国家機関や独立機関は政治的な干渉で正常な役割を果たすことができない。」「民主改革評議会は統治する意志はなく、国民に主権を一刻も早く返したい。平和と安全、国王のために実権を掌握し、戒厳令を布告した。(タクシン暫定首相の)非常事態宣言は無効とする。軍は民主改革評議会の許可なく、移動してはならない。以下を命じる。
(1)1997年の現行憲法を無効とする。
(2)上院、下院、内閣、憲法裁判所を無効とする。
(3)枢密院の役割は継続する。
(4)憲法裁を除く裁判所は役割を継続する。」
ソンティー陸軍司令官は、クーデターが国の安定のためであることを強調。タクシン暫定首相を「国王に対し不敬罪に近い言動を繰り返してきた。」、「親族企業に利権を誘導し、国民融和を阻害した。」と強く非難。
陸軍第1~4管区所属各部隊がそれぞれ国内の治安維持にあたることを発表。
08時00分各放送局に対し、チャンネル5からの指示がない限り通常の放送番組の放送を許可。
08時50分官公庁、大学幹部が陸軍司令部に出頭。反タクシンの汚職防止委員、チャルワンに注目が集まる。
09時20分ソンティ大将(陸軍司令官)が民主改革評議会構成員と一連の民主改革評議会布告を読み上げる。
09時50分タクシン前暫定首相が英国行きを考えているとの報道。
午前タクシン暫定首相は予定されていた国連演説を中止。
安倍官房長官は「このような事態が発生したことは残念で、我が国としては重大な関心をもって事態の推移を注視している。速やかに状況が正常化し、民主的な政治体制が回復されることを強く期待する。」と述べた。
在タイ日本大使館に事前に情報がタイ側から寄せられ警戒し、クーデター発生後は大使館員をクルングテープ市内に配置し、装甲車の出動などを確認させるなど情報収集をした。
チャチャイ副暫定首相兼法相とプロミン暫定首相首席補佐官、タクシン暫定首相の妹の夫ソムチャイ法務次官、プリン・スワンナタット少将及びサーニット・プラホマート少将の身柄を拘束。ソンティー陸軍司令官は「身柄の拘束ではなく出頭の要請である。」と説明。
10時40分民主改革評議会布告(5/2549)学生の政治参加。
(6/2549)労働者・農民の問題。
(7/2549)政治活動の禁止について 5人以上の政治集会禁止。
(8/2549)分乗値上げや売り惜しみの禁止。
(9/2549)外交政策について。
(10/2549)報道機関への協力要請。
10時52分民主改革評議会命令(5/2549)情報通信技術省に反クーデタ的な扇動活動や情報の流布の監視命令。情報通信技術省は放送局幹部を呼び出し、テレビやラジオで政治に関する市民の意見を流さないよう要請。ウェブサイトの管理者には政治に関する意見の投稿を削除するよう求める。新聞は対象外。
11時民主改革評議会布告(11/2549)民主改革評議会(国軍3軍司令官、国軍最高司令官、警察長官など6名で構成。)の首脳任命。
13時反クーデタのハンストを実施していたチャラート・ワォラチャット、タウィ・クライクップ元下院議員ほか数名の活動家が5人以上の政治集会を禁じる民主改革評議会布告違反で逮捕される。
13時30分陸軍司令部で、日本を含む駐タイ大使ら43ケ各国の外交関係者らに事情説明。
ソンティー陸軍司令官は「当面、暫定首相を務めるが、2週間以内に暫定新憲法を制定したうえ文民政権に権限を移譲、1年以内に新憲法が制定し総選挙が実施する。」との見通しを示す。
暫定新憲法では、1997年憲法の問題点として指摘されていた、同一政党に90日以上所属することを下院選挙の立候補条件とすることや、議員資格として学士号が必要といった点などの改正が含まれている。
14時タマサート大学の学生生グループが反クーデタ集会を開催。
14時過ぎ
(現地時間03時過ぎ)
タクシン前暫定首相が空港に向かい、ニューヨークをチャーター機で出発。「私は首相としてここに来たが、無職の男として去ることになった。(国のために)働くつもりはあるが、誰も仕事をくれないだろう。」
18時民主改革評議会布告(12/2549)会計検査院を廃止。チャルワン・メンタカOAG総裁が職務代行。
夕刻プミポン国王はソンティー司令官が、軍や警察のリーダーによる「民主改革評議会」の議長となり、タクシン暫定首相に代わる暫定首相に就任することを承認。やり直し総選挙で勝利し続投を狙っていたタクシン政権は、2001年02月の第1次内閣発足以来、5年7ケ月で崩壊。

タクシン政権の崩壊と非常事態宣言の無効が確定。

ソンティー陸軍司令官は「誰も我々の後ろにいないし、我々は我々自身で決め、人々が求めた政府の不始末の処理をした。」、「タクシンはタイ人で同胞である。彼が帰国すると決めるのは全く問題はない。我々は兄弟のように似ている。」と発言
ヨンユット前天然資源・環境相とネーウィン前暫定首相府相は、抵抗を断念。
NHKワールドや、CNN、BBCなどが映るようになる。
タイ証券取引所(SET)は命令により臨時休業。シンガポール市場に上場している酒造最大手タイ・ビバレッジ(THBEV)は前日比3.45%下落。
金融政策をめぐり、タクシン政権としばしば対立していた、プリディヤトン・タイ中央銀行総裁は、首相候補として名前が挙がったが、シンガポールからの帰国後、ドンムアン国際空港での記者団の質問に応じ、就任の報道を否定。
21時半民主改革評議会命令(9/2549)ネーウィン・チットチョープ前暫定首相府相、ヨンユット・ティヤパイラット前天然資源・環境相の召喚の方針。21日正午までの出頭を命令。
ネーウィンは、タクシン側近として反政府的なマスメディアを規制。親タクシン的メディアネットワーク構築。ヨンユットは、20日に予定されていた反タクシン集会を弾圧するため、森林警備隊に動員令を出した。
バンコクポストによると、今回の軍事行動の直接のきっかけが、20日に予定されていた市民グループ「大衆民主主義同盟(PAD)」による反タクシン集会。政府がこの集会の阻止のため、東北部のカオヤイ国立公園に駐在する森林警備隊を動員し、予想される反タクシン、親タクシン・グループ間の流血沙汰を避けるため、軍部が行動を起こしたという見方がある。

民主改革評議会布告(13/2549)選挙管理委員会を存続し、5名の委員も留任。
23時半過ぎ
(現地時間17時半過ぎ)
ロンドン郊外のガトウィック空港に到着。約1時間後、業務用ゲートから警察の車に先導され、空港を後にする。長女ピントーンター・チナワット(Pintongta Shinawatra)がロンドン大学に通っており、ロンドン郊外のケンジントンの豪華アパートの別邸で生活。

事実上の亡命。2001年に誕生したタクシン政権は外遊中のクーデターで崩壊。

09月21日(木)為替や株価に大きな変動はなく、「投資に与える影響はないだろう。」(プリディヤトン・タイ中央銀行総裁)と楽観。日系メーカーも通常業務。
民主改革評議会布告(14/2549)議会会計監査院の存続。
(15/2549)2541年政党法の存続。政党活動の禁止。
タクシン前暫定首相よりの警察官僚が更迭される。ジュムポン・マンマイ警察大将(国家情報局長)、ピラパン・プレムプティ警察少将(首相府政務次官)、プリヤオパン・ダマポン警察大将(国家警察副本部長)、チャロ・チュウォン警察中将(国家警察本部長補佐)。
ヨンユット前天然資源・環境相とネーウィン前暫定首相府相が陸軍本部に出頭。
09月22日(金)ソンティ民主改革評議会議長の親任式。
タクシンが進めた村落基金、国民皆健康保険、SML村落予算などが廃止されるとの風説流布。民主改革評議会が否定。
民主改革評議会布告(19/2549)国家汚職防止取締委員会を存続。パンテープ・グラナロンランを委員長。
ケーブル局から配信されるCNN, BBC, CNBC, NHKの各局のタクシン前暫定首相に関する報道内容が検閲。300局以上のコミュニティ・ラジオ局(タクシン政権の宣伝機関)が放送停止。
「9月19日ネットワーク(เครือข่าย 19 กันยา ต้านรัฐประหาร )」、「人民連合党」などがチュラローンコーン大学教員チャイ・ウンパコンとともにサイヤム・パラゴン前で反クーデタ集会。参加者数は20~100人?インディペンデント紙によれば、この集会で参加者の女子学生1名が公安に連行。
タクシンの実弟のパヤップ・チナワット(Payap Shinawatra)はクルングテープからチエンマイへの飛行機が到着後すぐ軍隊に拘留されたが、やがて解放。民主改革評議会は事実関係を否定。タクシンの妹の ヤオワパ・ウォングサワット(Yaowapa Wongsawat)、ヤオワレット・チナワット(Yaowaret Shinawatra)とインラク・チナワット(Yinglak Shinawatra)は 海外に逃げたと思われる。
09月23日(土)民主改革評議会命令(13/2549)プラパン・プレムプット警察少将(内閣官房長官)を解任。ロンポン・ジャルンパン内閣秘書官長が職務代行。
当初、タクシンは金持ちや有名人がよく出没するので有名なドーチェスターホテルで見かけられ、反クーデターを計画。MI5の情報部の護衛付きで、パークレーン55(ロンドンW1)に滞在中。ここは親友のハロッズのオーナーのモハメド・アルファイドの所有。長女ピントーンターの住むケンジントンの豪華アパートの別邸には行かなかった。
タクシン前暫定首相がソンティ民主改革評議会議長に電話。自身の一切の政治活動の中止を表明。帰国は次期首相選出後と説明。
09月24日(日)民主改革評議会布告(21/2549)通信傍受(盗聴)を禁止。
国家汚職防止取締委員会、クーデタ後初会合。タクシン政権の元閣僚全員に個人資産を同委員会事務局(サラウット・マナサウェート事務局長)に報告するよう命令。
民主改革評議会布告(23/2549) 前内閣承認事業計画不正調査委員会を設置。スワット・チョークパニットを委員長に任命。
スダラット・ゲユラパン、タイラックタイ党副党首、フランスより帰国。国連事務総長候補で副党首でもあったスラキアット・サティヤンラタイ前副首相(元外相)が離党。
09月25日(月)01時30分タクシン夫人のポチャマン・チナワット(Potjaman Shinawatra)がTG910便でロンドンに向かう。長男パーントーンテー・チナワット(Panthongtae Shinawatra)と次女ペートーンターン・チナワット(Paetongtarn Shinawatra)はタイ国内に残った。
タクシン側近の1人、ネーウィン・チットチョープ総理府相とともにシンガポールに脱出後、ロンドンでタクシン前暫定首相と合流したというのは意図的に流された虚報。タクシン夫人のポチャマンはクーデター時には、都内パホンヨーティンにある隠れ家に一時身を隠し、サイアム商業銀行、バンコク銀行、タナチャート銀行にあるテマセクへのシン社売却益の500億Bの財産を管理していたが、トンブリ、バングプラット、チャランサニットウォングのソイ69の邸宅に戻って、2人の子供と合流。軍隊と警察に護衛された。
「タマサート大学ドームデン会」(ウィチェン・チェンセン代表)、「チュラローンコーン大学自由学生同盟」ほか都内主要大学の学生50名がタマサート大学で反軍・反クーデタ集会。
09月26日(火)民主改革評議会は民政移管に向けた暫定憲法案が完成と発表。
新憲法は新政権の発足から8カ月余りで制定できるとの見通しを示す。民主改革評議会は民政移管後も「国家安全保障評議会」(คณะมนตรีความมั่นคงแห่งชาติ 、Council for National Security (CNS))として存続。
新首相を指名し各層の代表2000人から成る国民会議が設立。その中から選ばれる約200人が新憲法案の起草。新憲法案は最終的に国民投票にかけられ、賛成が得られれば新憲法下で総選挙が実施。
チャンネル9を運営するMCOTのミンクワン・サンスワン社長が辞任を表明。チットナロン・クナクリダティカン副社長が社長代行。
ウィサヌ・クルアガム(タクシン政権で副首相)とウォウォンサック・ウワンノ内閣官房室長が民主改革評議会の任命した暫定憲法起草法律顧問を辞任。/TD>
民主改革評議会、経済、外務、社会各部門の顧問団を設置(総勢58名)。
09月27日(水)02時
~02時半
カンペンペート県の学校5校での間に放火。被害総額は160万B。カンペンペート県はタクシン首相のタイラックタイ党の支持者が多く、国会議員5議席全てがタイラックタイ党の議員。
チュラローンコーン大自由学生同盟が政治学部で反クーデター討論会開催。チャイ助教授、プラパート・ピントップテン助教授などの一部教員も参加。
チエンマイ大学民主学生ネットも討論会を企画。公安が集会の中止を促したため散会。
09月28(木)米国政府はタイの軍事クーデターが不当なものであるとして、年間2400万US$の軍事援助の削減、軍事訓練および教育、平和維持活動、反テロ対策などの停止を含む制裁措置を発動。
米国の犬、アナン国連事務総長もクーデターを厳しく批判。
タクシン前暫定首相に近いスラシット・サンカポン警察少将が政府宝籤局長を辞職。
ソンティ大将がスラユット大将を訪問。スラユット・チュラノン大将(枢密院議員)が暫定首相に内定の模様。
09月30日(土)06時頃タクシー運転手が、戦車に体当たり攻撃。
都内ドゥシット区内にあるラーマ5世像前広場前ロイヤルプラザの近くに停車していた戦車に、車体に大きく「国家に対して悪事を働く輩へ鉄槌」、「民主主義のために命を捧げる」などと書かれたタクシーが激突。タクシー運転手ヌアムトン・プラワン(60)が肋骨を4本折る重傷。戦車に被害はなかった。
穏やかではない文言が大書されたタクシーの事情聴取を行おうとしたところ、タクシーが急発進し一直線に戦車に激突。病院に搬送されたヌアムトン運転手は警察に対して、「国家に多大な損害を与えた民主改革評議会に抗議するため、敢えて激突した。車に書かれた文字は自分でスプレー書きした。」と証言。
民主改革評議会布告(27/2549)政党法違反により解散を命じられた政党の執行委員に対し5年間の選挙権・被選挙権取消措置。
民主改革評議会、事業計画不正調査委員会の構成に批判が殺到したため、民主改革評議会布告(23/2549)を廃止。民主改革評議会布告(30/2549)新委員12名を任命。
08月24日のタクシン暗殺未遂事件の容疑者を釈放。クーデターの翌日に暗殺未遂の証拠は警察から消えてしまっていた

ソンティー司令官

ロンドン、ガドウィック空港に到着したタクシン前暫定首相


M41軽戦車

タクシン・チナワット
(ทักษิณ ชินวัตร、Thaksin Shinawatra)
M41軽戦車(ウォーカー・ブルドッグ)

 朝鮮戦争、ベトナム戦争で多く使われた軽戦車(低火力、低装甲、低重量、低価格の物を指す事が多く、高速展開可能で主に偵察用)。1951年、M24軽戦車の後継としてゼネラルモーターズ社が開発し、ゼネラルモーターズ社の傘下キャデラック社が製造。
* 乗員 4 名 * 全長 8.212 m * 全幅 3.198 m * 全高 2.726 m * 重量 23.224 t * 懸架方式 トーションバー方式 * 速度 72.42 km/h * 行動距離 161 km * 主砲 60口径76.2mmライフル砲M32×1 * 副武装 12.7mm重機関銃M2×1 * 7.62mm機関銃M1919A4×2 * 装甲 最大 38 mm * エンジンコンチネンタル AOS 895-3 6気筒ガソリンエンジン 500 hp (373 kW)

 陸軍とは外敵に対する防衛と同時に、内部の叛乱勢力に対する治安維持を目的としている。大日本帝國陸軍でも廃藩置県のために1871(明治4)年、薩摩、長州、土佐から徴集した天皇直属の御親兵を起源としている。国内の治安維持、西南の役のような叛乱勢力の鎮圧に使われた。  M41などのような軽戦車は、対戦車ミサイルや対戦車地雷が発達した現在では時代後れの遺物などというのは素人考えで、何も対戦車戦を想定しているわけではない。今回のようなクーデターには、機動力と外観の威圧感とで無用な争いを避けるために最適な機種と言えよう。


クーデター Coup d'etat

 既存の政治体制を構成する一部の勢力が、権力の全面的掌握または権力の拡大のために、非合法的に武力を行使すること。 国家権力が一つの階級から他の階級に移行する革命とは区別される。  迅速な襲撃で政府の実権を握る行為で、特に権力者内部の少数グループ(軍部など)が武力によって実権を握る行為を指すことが多い。より大きなグループによる反乱や政治的意図から体制を変革する革命とは異なる。ただし、必ずしも排他的な概念ではなく、革命的意図を持ったクーデターもある。
 日本語では政変・武力政変などと訳される。クーデターはフランス語で「国家への不意打ち」の意味がある。

 タイでのクーデターは1991年クーデター以来15年ぶりだが、1932年の立憲革命以降20回以上のクーデターが起こっている。タイの政権交代はクーデターの連続で、政権は任期の4年を待たずに交代するのが常であり、2001年に誕生したタクシン政権の一期目4年間はタイ史上初めて4年の任期を満了した内閣であった。


クーデター(未遂や計画段階で終了したものを除く)
1947年政治家の汚職、国家経済の悪化軍部優位の政治へ
1957年不正選挙の放置、共産主義の脅威ピブン首相、国外に亡命。
1958年タイ式民主主義の構築サリット体制の誕生。
1971年下院議員による政府の行政撹乱十月十四日政変起こる。
1976年学生による王室不敬 血の水曜日事件起こる。
1977年国の安定、政治・経済の悪化1976年憲法廃止。
1991年国会の独裁、汚職五月流血事件起こる。

1991年クーデターと1992年5月流血事件とその背景となった1981年04月のクーデター未遂事件および1985年09月のクーデター未遂事件については、こちらで詳説。


09月30日にクーデターに抗議して、戦車に体当り攻撃をしたヌアムトン・プラワン(60)のタクシー退院して10月31日に首吊り自殺をしたときの遺書。


ソンティ・ブンヤラガリン(สนธิ บุญยรัตกลิน、Sonthi Boonyaratglin)

1946年10月02日生。2005年からタイ王国陸軍の総司令官。陸軍大将。
1969年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵部隊に配属。
タイ共産党掃討戦、ベトナム戦争、カンボジア内戦などの前線勤務を経る。2002年にロップリーにあるタイ陸軍の特殊部隊、特別戦闘司令部(SWC)の司令官に就任。2004年08月には陸軍副司令官、2005年10月、仏教徒が多数をしめるタイにおいて、イスラム教徒として初めて陸軍総司令官に昇進。
昇進の裏には、特殊作戦部隊で、スラユット退役最高司令官の元直属の部下であり、スラユットはプレム枢密院議長(元陸軍司令官)の元直属の部下で、2人の引きによるものである。2人ともプミポン国王の信任の厚い枢密院顧問でもある。
2005年初めから、タクシン・チナワット首相の支持者と反対者との間で政争。タクシン首相の軍幹部人事に対して強く反対。
2006年09月の軍事クーデターを指揮。政権奪取後、SWC元司令官のスラユット枢密院顧問を首相に招いた。

スラユット・チュラーノン(สุรยุทธ์ จุลานนท์、Surayud Chulanont)

1943年8月27日生。陸軍大将。1992年、1996年の2期にわたって上院議員。2006年クーデターによる暫定憲法下で、2006年10月01日から総理大臣。現在の妻のチトラワディー・チュラーノン (พล,ต,หญิง คุญหญิงจิตรวดี จุลานนท์)陸軍少将も元軍人。
母方の祖父は、1932年立憲革命を起こした人民党のプラヤー・パホンと同時期にドイツに留学していた立憲革命前後期の陸軍将校(立憲革命時は陸軍参謀本部教育長)である。シーシッティ大佐は、プラヤー・パホンから人民党へ誘われたが、立憲君主制への移行には賛成したもののクーデタによる政権奪取には反対しており、誘いを断った。教育省ボーイスカウト中央会議副議長に出向していたシーシッティ大佐は1933年04月の急進派追放政変でピブンら人民党武官派の画策で陸軍参謀長に推挙されるが、わずか2ケ月後に王政復古阻止クーデタで、守旧派の復権を警戒する人民党武官派はシーシッティ大佐を陸軍参謀長から旧職に左遷。人民党武官派に捨て駒のように使われたことに憤激したシーシッティ大佐は1933年10月,ボワラデット親王とともに反人民党政権の兵を挙げた。10月23日深夜、 ナコンラチャシマ県パークチョン郡の山中で政府軍の狙撃を受け人民党に対する復讐を成就することなく非業の死を遂げた。(ボーウォーラデートの反乱)。
父はパヨム・チュラーノン中佐。人民党武官派首領ピブンの腹心として東部地方の国境防衛を一任されていたエリート将校だった。ピブンに従って1947年の将校団クーデタに参加、人民党文官派のタワン・タムロンナワサワットを政権から追い落とした。翌1948年、ペッブリ県選出の下院議員に当選したパヨム大佐はクワン政権の国防大臣秘書官に就任。しかし,ピブン主導の第2次将校団クーデタでクワン政権が倒れると、反ピブン派に加わり陸軍参謀クーデタを起こした。このクーデタは未遂に終わり支那に亡命。エート(後のスラユット大将)がわずか5歳の時。1952年から54年にかけて北京のマルクス・レーニン主義学院で教育を受け,共産主義者となった。亡命先から帰国したパヨム中佐はペッブリ県から下院議員に立候補し圧倒的支持を得て再選。しかし、1958年、サリット元帥がクーデタを起こして議会を停止。パヨム中佐は地下活動を経て1963年、ナコンパノム県ナーゲ郡コンルアン区で遂に「カウ・パー(森に入る)。」地下に潜伏して、タイ共産党人民解放軍の幹部となった。1967年、パヨム中佐は「タイ愛国戦線」の幹部として人民ラジオを通じた宣伝作戦に従事。その後、「カムタン同志(สหายคำตัน)」と呼ばれるようになり、1975年、タイ国人民解放軍 (共産党の軍事部門)の高級参謀としてタイ・ラオス国境付近の解放区を転戦。
スラユット大将がまだ青年将校であった頃、パヨム中佐との戦場で劇的な再会を果たした。ナーン県のラオス国境地帯で共産党掃討作戦に参加していたスラユット青年は,父カムタン同志(パヨム中佐)の指揮する人民解放軍と遭遇し、「コミュニストの息子」という レッテルを返上するため、父親の部隊を相手に勇敢に戦ったという。「この世に生を授けてくれた父を殺すことになるかもしれない。」と考え、内心の葛藤に苦しんだと伝えられている。その20年後、チャートチャイ・チュンハワン大将の計らいで支那亡命中の父カムタン同志をスラユット大将が訪ねている。父カムタン同志は、その数ケ月後に支那で客死。後に「父は私の英雄だった。」と語った。
聖ガブリエルの大学とスアンクラープ専門学校の幼年学校過程を経て、1965年チュラチョームクラオ王立陸軍陸軍学校を卒業。この時の12組の級友が陸軍司令官時の改革の手足となった。軽砲部隊や落下傘兵部隊に配属された後、対共産党闘争の指揮を取って昇進。
1972年から1978年まで、特殊作戦部隊の教官。プレムが陸軍司令官と内閣総理大臣の側近。1992年に特殊作戦部隊の隊長でソンティと接点。
1992年の5月流血事件で、特殊作戦部隊が、ロイヤルホテルの血だらけのロビーを通ってデモ参加者を撃ち、引きずっているのが見られた。 兵に射撃命令を出していないと主張。「軍隊が政治に決してかかわるべきでないと確信した。」と発言。後に「生命が失われたことを嘆き、射撃命令を出していないし、決して議論もしなかった。」述べた。
1994年、陸軍第2軍管区司令官。1998年10月01日から2002年09月30日まで陸軍司令官。当時、彼の昇進は先任の数人抜きで論議を呼ぶ。
数人の級友を任命。ソムポング・マイウィチット中将をパング・マラクルナアユタヤ大将に換え任命。陸軍のチャンネル5と7を管理させ、「軍事マフィア」の腐敗構造を遮断。チャーン・ブーンプラセル大将に換え、ブーンロット・ソムタップ中将に陸軍の改革を指示。ビルマ避難民、とりわけカレン族の強制送還の方針を転換。任期中にタイ軍は東ティモールの国連平和維持軍に参加。
2003年にタクシン首相と反目し、名誉職の最高司令官に昇進。陸軍司令官はソムタット・アッタナンに換えられた。退役後、出家したが、2003年11月14日にプミポン国王が枢密院の顧問に任命。
カオヤイ国立公園保護財団の理事長として自然保護活動も行っている。


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