熱

「道祖神」




注意書き:
 直接描写はないものの、性的な暗喩や遊里について描いています。また、鶴屋南北の歌舞伎「お染久松」を題材にしたので、心中事件を示唆する描写が入ります。また文体は現代語ですがやや硬く、漢字を多用しましたので、十二歳以下の拝読者はご注意を。


あらすじ:
 記憶を失った男装の女は、辻神の祠の前で意識を取り戻す。燃え尽きる黄昏の灯を浴びた幽玄な屋敷が目に入る――「生身の人間がこっちの夜を一度でも体験すっともう戻れなくなる。あんたは戻りたくないのかい」―― 傍に岩のような男がいた。その男の名は、雨後目。女の精を食らい、夢を形にするという妖怪だった。和風の雅な世界をベースにした雰囲気の幻想小説です。


キーワード:異世界、遊郭、妖怪、建築
目次 



「道祖神」1

 目を開けると大きな屋敷が見えた。
 川の向こうにぼんやりと灯篭が点き、水鏡に幽玄な姿が浮かぶ。明かりが薄紅色にぼやけ、障子越しに漏れる黄白色の光に混ざる。揺れる波間に。
 あれは何の屋敷だろうか。
「ぼんぼりが点きはじめたぜ……そろそろ行くとするか」
 私の傍にいた男がそんなことを呟き、手にしていた煙管を膝で叩く。
 ぽん……ころころ。
 小さな燃えがらが地面に転がり落ちていく。隠微な紫煙に包まれる。匂いは麝香に似ている。濃厚な甘みの中に、微かに漂う清涼な刺激臭が鼻腔から内壁へ侵入する。
 男の匂い。
 その炎の名残を眺めていたら「なあ」と声をかけられた。
 私ははっとしてその男に視線を戻した。
 まだ、日は地平をさまよっている。燃え尽きる前の激しい光の狭間に、その化け物は存在した。濃淡のついた姿が見える。目の前にいるのは岩だった。
 これは人ではない、はずだ。
「どうやら、お前さん、こっちの世界で影がついちまったようだ。あの天道が隠れる前に、後ろにある辻神に祈って返してもらえ。てめえの世界に戻りたいなら、なあ」
 私は背後を振り返った。
 細長い影が私の足元からスッと伸びていき、ある祠の前に到達した。その奥にある小さな扉は開いている。扉の奥からはとても小さな光が漏れていた。光を見ていると、思い出したくないものを思い出しそうになり、気分が悪くなった。体が重く、息苦しく、目の前が軽く渦を巻いて動き出す。
 私はここで何をしているのだろうか。なぜ、この男と一緒にいるのか。
 不意に体から力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。倒れ込む寸前、私の体をごつごつした硬い腕が支える。男が私の体を片手で一掴みにして抱き起す。私は吐き気をこらえて、彼に頭を下げた。
「かたじけない」
 私が何とか声を絞り出すと、男が応えた。肝の中で砂利の擦れるような音だ。
「けったいな言葉を……お前さん、どうして男のなりをしてんだい? 勿体ないぜ」
 その瞬間、我慢していたものが喉からあふれ出そうになった。私はきつく唇をかんで、吐き気を我慢する。拳を握っていたら、男はそっと目をそらした。
 彼は再び煙管を口に持っていき、小さく口を開けて噛んだ。
 陰影は濃く、男の姿は真っ黒に見える。ただ、口を開けた瞬間に、柔らかそうな舌がかすかに見えた。それは岩の中から漏れ出た松の根のような艶めかしさである。
 地平から吹き抜ける青臭い風の匂いがした。麝香の空気が吹き流される。その性的な匂いは男から流れていたようだ。私は目の前の岩男に嫌悪を感じた。
 思い出しそう……思い出したくない。
 男は藍色に染まる空を見上げて声を出した。
「生身の人間が、こっちの夜を一度でも体験すっと……もう戻れなくなると聞いたがな。あんたはそっちの方がありがたくて、やってきたのかもしんねえ。戻りたくねえのかい」
 空の上に点々と煌めきが見えた。
 夜が来るようだ。その冷たい感触に心が落ち着くのを感じた。おそらく、男が言っていることは正しいだろう。私はこの冷気を望み、ここに来たような気がした。
 私は吐き気が収まるのを待って、話した。
「私はいつからここにいたのでしょうか」
 男は応えた。
「あんたの目がこの世界を映し始めた時からさ。本当の化物はあの世から浮き上がってくるらしいな。おぞましい光景を見せてくれてありがとうよ」
 その男は私の出現を始終見ていたらしい。妖怪が異界から転送されて来たら、私もそのようにしてじっくりと眺めていたかもしれない。いや、恐ろしさから逃げただろう。その男は心が強いのかもしれない。好奇心が恐怖に勝ったらしい。それとも、異界の人間が出現することはよくあるのだろうか。
 私は目頭を押さえて、頭痛をこらえた。
 生身の人間……それが私の正体らしい。
 男は煙管をくわえたまま、腰かけていた岩場から身を起こした。どちらが岩なのかわからない。影は不気味な姿を描いている。その男は低い声で囁いた。
「姐さん、名前は何ていう?」 
「私は、女ではない」
「そうかい。では、そういうことにしておくか。俺の鼻はそうではないと訴えてるが」
「私の名前は……久末」
 久末。
 その音に懐かしくも哀しい香りを思い出した。麝香と白木の混じった柔らかい香の味わい……その名はそんな香りのする名前だった。白檀は、女の香りだ。黒髪の女。せせらぎが苔の隙間を通るような情けない声で鳴く女だった。
「雨後目だ」
 男は足元に置かれていた四角い箱を肩に担ぎあげた。二歩進んでから「久末、ついてきな」と呼ばれた。私はよろめきつつ、彼の後をついていく。
 雨後目、とは、その男の名前だと後で気づいた。
 明るい屋敷を目指して原野を歩く。
 細かい繊維のような草が膝の高さで揺れている。この一帯は沼地のようだ。足がふかふかとした大地に沈み、ぬかるみに取られそうになる。目の前にいる男は一歩一歩大地を踏みしめ、足元の泥を鳴らしながら進んでいく。両手を振り上げ、駆け足気味に彼を追った。
 宵の口、一面の草場に蚊柱が立つ。
 こんこんと熱は落ちゆく。下がりゆく。
 大地は泥の香りに混ざり、生々しい温さを足に感じ、足の指の隙間から柔らかい泥が滲み出る。くっちゃりくちゃり、と水の音を出せば、目の前にいた男が肩を揺らして笑った。
「いい音が出てるぜ」
 不意に片足が足首まではまって動けなくなった。私は足を踏ん張って力いっぱい抜こうとした。と、突然、足首にかかっていた力が抜け、足が大地から離れてひっくり返った。
「あ」
 悲鳴を上げる間もなかった。気がついたら、腰が冷たく濡れている感じがして、思わず顔をしかめてしまった。男は立ち止まらずに先を歩き「早く進め。沈むぞ」と呼ぶ。
 私は前かがみになった状態で起き上がり、周囲の草を両手でつかんだ。草を引きながら、体を安定させて前に進む。硬い葉に指先が切れたらしく、少し血の匂いが風に交じる。柔らかい沼地と硬い砂地を交互に通り、光に向かって進んだ。
 泣きべそをかいたが、何とか自力で沼地を抜け、固い大地に足をのせた。
 男は大きな眼鏡橋を登って、私を手招きした。木製の橋は朱色の塗料が塗られていた。橋の名前が金で描かれているが、文字が読めない。丸く盛り上がった橋は、半ばまで登りやすいように階段がついている。橋には男の足跡が泥と一緒についている。
 猪牙船に似た細長い舟が、橋の下へ流れる川面を滑りゆく。水に鮮やかな灯篭の火が写り込み、船の動きに合わせて大きく揺れ動き、光の景色をゆがませる。
 川の水は透き通っているのか濁っているのか、もうわからない。
 日はとうに暮れていた。
 橋の頂点で一度足を止め、前方に見えた巨大な光の街を見た。
 橋からその軒下にかけてきれいに掃き清められ、箒によってつけられた太さのそろった筋道ができている。美しく半円を描きつつ、雨だれのような波紋を見せる。それは灰形を盛る炭あしらいのように美しく、秩序のある流れである。
「湯屋か……?」
 屋敷のあちらこちらから白い湯気が出ている。
 男は橋の手すりに腰かけて私を待っていた。片足を組んで、屋敷を見上げ「まあ、湯もあるがな」と答えた。
 その男を薄紅光の中で見つめる。
 予想通り、彼の体は半分が硬い岩でできていた。残りは鉱物でできているらしく、七色に透き通っており、意外にも美しかった。赤い灯篭の光を照り返し、えもいわれぬ色合いで輝きを深めている。天然の鉱脈が人の形をして命を宿してしまったようである。
 瞳は一つしかなく、金色に輝いている。片目を閉じたような様子で瞼が覆いかぶさって見えるのだが。右目がない、と言えばわかるだろうか。その顔も目や鼻、口が人のような形でついているように見えるので、一見するとそのような生物を模した石像に見える。
 奇妙な妖怪に案内を頼んでしまった。私は男の脇をすり抜けて、先を進む。
 白いひげを生やした竜神のような生物が、空から舞い降りた。直後、鬼火が橋を一飛びにして屋敷の中に飛び込む。ここは化物屋敷だろう。
「おや、雨後目、遅かったじゃないか」
 屋敷の前にいた男が声をかける。私は雨後目を振り返り、足を止めた。
 雨後目はゆったりとした歩みで近づき「足が汚れた」と答える。男はこげ茶色の直垂を着付けている。ここは武家屋敷だろうか。彼は雨後目と私の足を見て「裏手から入りんさい」と手を振った。雨後目は橋を渡り終え、そちらの方角へ体を向ける。
「ん? 匂うなあ」
 男がそんなことを言って、私を見た。その時、その男の目の瞳孔が上下二つに分かれていることに気がついた。まるで瓢箪のような形の瞳孔だった。
 鼻をすするように鳴らして、私の傍に寄ってくる。私は落ち着かない気分で雨後目を振り返る。雨後目は肩越しにちらと私を見て「俺の弟子だ」と一言で片づけた。男はにんまり笑って「女だな」と小さな声で言う。私は気分が悪くなり、その男から離れた。
 屋敷の裏手から中に入る。
 そこは料亭だった。白装束の男たちが手に包丁を持ち、鉢巻きにたすき掛け、小さな前掛けをした格好で、慌ただしく動き回る。小さく折りたたんだ烏帽子を頭につけている。
 雨後目は土間で立ったまま「綿蜘蛛を呼んでくれ!」と叫んだ。小さな少年が笊になすびを入れたまま「ただいま、ただいま」と叫んで、走り去った。
 土間にある切り株に腰かけようとしたら、雨後目が片手で私の頭を叩いて止めた。
「そこは食材を切る場所だ。泥のついたケツを乗せるな」
 頬が熱くなる感触を味わったが、黙ってその言葉を受け入れて頭を下げた。
 立ったまま、目の前で食材が刻まれていくのを見た。不揃いな蕪をたらいの中で洗い、少年がざるに引き上げる。刃物を持っている男が、そのざるから蕪を取り出した。長い葉を切り落とし、白い根の部分の皮をむき、大きさのそろった賽の目に切っていく。トントンとリズムのある板場の音が響く。
 音の狭間で、暖簾を上げて和装の女が顔を出した。
「遅かったじゃないか、雨後目……ひどい格好だ。湯に入りたいとか、言うつもりかい」
「入れてくれてもいいだろう? 今夜から泊まりだ」
「飯盛に手を出したら、あんたでも折檻するよ」
「俺がそんな粗相をしたことがあったか」
「いつもしてるだろ……女すきなくせに」
 一度外に出ろ、と言われ、雨後目と共に奥庭へ出た。調理場から離れて、井戸のある水場へ行く。闇の中で泥つきレンコンを洗っている少年たちの中に入り、足首までを水で流した。調理場から持ってきた高歯の下駄に履き替え、濡れ縁から屋敷の中に入る。
 一度、沼地で転んだため、私の尻は泥だらけだ。手で隠しつつ、雨後目の後を歩いた。
 私は彼の弟子ということになってしまった。彼は何をする人なのか。
 屋敷の中を歩く女は、綿蜘蛛という名だ。蜘蛛の化け物なのだろうか。薄紫の地に大きな牡丹を描いた着物は華やかで女によく似合っていた。少しゆったりと帯を締め、奥襟を大胆に抜いている。それが女の肉体をしなやかに可憐にみせるのだ。粋な着崩し方をして、男を誘う女だった。
 目元に鮮やかな朱を入れ、唇にも紅を引いている。ただ、両手の先から、星の滴のような装飾品が下がっていた。それが、まるで蜘蛛の糸のように見える。
「めずらしい生き物を拾ったね、あんた」
 しゃなり、と歩を進めつつ、その女が口を開く。雨後目は知らん顔で無視していた。
 綿蜘蛛が私を流し目で見つめる。その瞳の妖しさに体が火照った。その女の色気はまるで毒だ。滴のような宝玉を指に絡ませつつ、その細い指を私に向ける。顎をくいっと持ち上げられ、その女の目をまともに見てしまった。幾重にも連なる虹彩が渦を巻いている。その洞穴は、バネが伸びたり縮んだりするようにして、蠢いている。うっとりとした視線に絡め取られ、私は彼女の指に身を委ねる。
 まるで強い毒に触れたように。
「きれいな顔をした男だ。まるで女のようじゃないか」
 直後、その女は身をよじるようにして笑い、雨後目に「後で食う気だろう、お前さん」と呼びかけた。私は気分が悪くなり、その女の手を片手で払うようにして退けた。金縛りが解けると、私は二人の体を押しのけるようにして前に出て行った。
 濡れ縁はぐるりと屋敷を回っている。半間ほどいくと、すぐに厠があり、それを超えると曲がり角にきた。角を曲がると景色が変わる。
 長い廊下の左右に客間が並んでいた。その部屋の数は無限に見える。客がいるところには光がついているようだ。透かし漉きの和障子越しに光と闇が交互に現れる。烏帽子をかぶった少女らが、盆の上に前菜を盛り付けて運んでいく。長押を二人がかりで持ち上げて、そそくさと前に進む。光のついている座敷の前に着くと「こんち! 一番皿の供えにございます!」と声をかけて中に入った。
 障子が開くとともに、にぎやかな囃子の音が流れてきた。飯盛の少女らは両手をついて頭を下げ、長押と共に部屋に入る。すっと障子がしまり、音が少し小さくなる。
 廊下を次々と少女たちが長押と高坏を持ってやってくる。
 背後で、綿蜘蛛がのんびりとした口調で声を出した。
「お前さんらの仕事場はあっちだ」
 そうして、私の脇をすり抜けて、廊下を進んでいく。雨後目が仕事道具を担ぎ直して後に続く。私も少ししてから二人の後をついていった。
 雨後目は何をしている男なのだろう。細長い木箱の中には彼の仕事道具があるはずだ。まるで大工が使う何かの道具箱に見える。
 少女たちが私の傍で「二番皿の供えにございます!」と叫び、障子を開けた。
 客に姿を見られることを恐れつつも、好奇心から障子の中にある世界を覗いてしまった。どんな客がいるのだろう。しかし、そこは下座だったようで、客の気配はすれども姿は見えない。障子の奥の方に座敷が続いているらしい。私には三味線を鳴らす狐芸者の姿が屏風の隙間越しに見えただけだった。その芸者は、ほっそりした白い顔に三日月のような目を緩ませつつ、私を見上げる。
 通り過ぎる刹那、遊女のようなものを見た気がした。
 ほんの少し、着物の裾が見えただけなのだが。
「久末……遊びじゃねえぞ」
 雨後目の威圧的な声が低く響く。私は状況を思い出し、その場を走り去った。廊下を走ったら足音が響いたので、綿蜘蛛にも睨まれてしまう。私は二人に頭を下げて、大人しく付き従う。
 今は保護してくれている雨後目の傍にいよう。もしかしたら、その男は、後で本当に私を食べるつもりなのかもしれないけれど、他に頼るべきものもいない。
 せめて、この世界の理を得るまでは。
 座敷棟の終わりははるか向こうにある。廊下の突き当たりは金箔が張られ、真っ赤な椿が生けてある。右側から飯盛の女が出てくるので、そちらは台所へ続くのだろう。紅に染めた暖簾が見えないように下がっており、調理場の色や形は漏れないようになっている。
 反対方向にも廊下が続く。別の遊郭へ通じる渡り廊下が伸びていた。それは屋敷の外に出て、池の上にかかっている。
 その渡り廊下は、食事処のある並びから直角には交わっておらず、少し開いた角度で外に出ている。そのために月の明かりが椿まできちんと届くようだった。淡い銀燭の月明かりが池の水面を経て金箔に反射すると、揺らぐ水面の影と共に夢幻の煌めきに彩られる。
 渡り廊下の入り口は鼈甲で作られた灯篭が置かれ、淡い光が薄暗い闇に浮かぶ。飴のような甘い輝きを放ち、形は達磨を象っていた。それを通り抜け、池の上に出る。
 池の大きさは夜の中で広漠と見えた。渡り廊下の上から水面を見ると、宙に浮かぶ月が静かに写り込んでいる。輝く盆の中を小さな水黽が通り過ぎ、波紋を生む。
 水上を吹き抜ける風はすがすがしく、ほどよく焼けた茸の香りが調理場から流れてくる。振り返れば、池に座敷の灯が写り込み、上下に二重の屋形船が浮いているように見えた。障子は池に向けて開いており、遠目に客と遊女が戯れているのがわかる。
 左岸から、飯盛の少女が濡れ縁の上を歩いてやってきて屋敷の中に入った。あちらの裏側に先ほどの調理場があるのだろう。
「……そっちのは、やたらと屋敷を歩き回らないようにしておくれ」
 私のことらしい。私は視線を戻して、前を歩く雨後目たちを追いかけた。
 雨後目は大した問題ではないと言わんばかりの調子で「厠はあそこだけなのかい」と笑う。綿蜘蛛は「そらすんじゃないよ」とたしなめる。私は二人に軽く頭を下げる。私は好奇心の強い人間らしい。
「それで? 何だって、こんな厄介そうな人間を拾っちまったんだい。男に化けた女なんて、事情があるに決まってるさ。首を突っ込むつもりかい。いつの世から紛れ込んだものやら……血の匂いがするよ。さぞ、おそろしい世から来たんだろうよ」
 廊下を吹き抜ける風に隠微な香が混じる。白檀の香だ。女の匂い。
 雨後目は歩きながら答えた。
「記憶がないらしい。こっちに来ちまった理由を自分ではわからないようだ」
「まったく人の好い奴だね」
「人並みに愛玩も欲しくなったのさ。弟子にして、傍においててやらあ」
 渡り廊下が少し坂になって下り始めた。池から別棟の中に入ると、廊下の形状が少し変化した。廊下は途中から下り階段になり、先に玉砂利の敷かれた土間が見えた。その土間に飛び石のように石橋が置かれている。屋内にできた小さな枯山水の庭を通っていくと、屋敷の中に小さな鳥居のような門があり、そこから特別な空間が始まることが理解できた。
 天上から、水あめを引き延ばしたような水暖簾が落ち、空間を仕切っていた。石庭に小さな滴を落とし、滝の音がささやかに流れる。
 水に紛れて鳥居の奥から強い香が漂う。脇に格子を廻らせた部屋があった。
 ここはどんな場所なのか。
「遊女の風呂場を直すと聞いたが、全部ぶち壊すなら俺の手下を入れよう。壊し屋を数日屋敷に入れて、ここを更地にしてからやらせてもらうぜ」
「お前さん、残念だったね。打ち壊しは、うちの若い衆にやらせたから」
 綿蜘蛛はにんまり笑って、ひらりと手を振った。雨後目は仕事道具を担いだまま、笑みを浮かべて「そうかい」と答えた。
 鳥居の奥には、橋を象った登り階段があり、その頭上の天井には真珠と貝が埋め込まれていた。手の込んだ装飾で天上世界の珠色を表現する。それは、天上界に暮らす天女、いや、遊女の住処と言う意味らしい。その階段から上に、睦の極楽世界が広がる。
 私は再び眩暈を感じて、軽く目頭を押さえた。
 どうして、この世界にいるのだろうか。私は男のふりをして、世界の隅にうずもれて死んでしまってもよいと思っている。元の世界に戻ろうとも思わない。
 私は戻りそうになる記憶に恐怖を感じた。理由も思い出したくない。
「久末」
 雨後目が私の名を呼んだ。ゆっくりと目を開けて、彼を見る。雨後目は「行くぞ」と続けた。私は彼の後をついていく。

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