〜〜作 曲 家〜〜




マルコム・アーノルド(1921-)
1921年、イギリス、ノーザンプトン生まれ。作曲家・指揮者でイギリス楽壇の長老的存在。
『戦場にかける橋』の”クワイ河マーチ”など映画音楽の作曲も手掛ける。
ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでトランペットをアーネスト・ホールに、作曲をゴードン・ジェーコブに学ぶ。ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の首席トランペット奏者を務め、1948年ロンドンフィルを辞めてからは作曲と指揮活動に専念する。










エルネスト・アンセルメ(1883-1969)
1883年スイスのレマン湖畔のヴェヴェイに生まれた。
大学で数学を学び、ローザンヌの大学で数学の教鞭をとっていた。それと同時に音楽の勉強をして、1910年音楽家となる。
1910年、ディアギレフの主宰するロシア・バレエ団(バレエ・リュス)に指揮者として参加。
1918年の秋に、ジュネーヴにスイス・ロマンド管弦楽団を創設し、その後このオーケストラを世界一流に仕上げた。










ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)
ドイツ・ボンで生れる。
ハイドン、モーツァルトの音楽を受け継ぎ、古典派を大成し、ロマン派へのきっかけを作った音楽史上非常に重要な作曲家。1798年、28歳で突然、聴力の病気に見舞われ、1802年にハイリゲンシュタットの遺書を残す。
聴力減衰にもかかわらず、9つの交響曲、32のピアノ・ソナタ、20に近い弦楽四重奏曲等の数々の名曲を残した。










ヨハネス・ブラームス (1833-1897)
19世紀ドイツの大作曲家。ハンブルクの貧民街で生まれ、市立劇場のコントラバス奏者をしていた父にバイオリンとチェロを、その後ピアノをマスター。1853年にハンガリーのバイオリニスト、レメーニイの演奏旅行にピアノ伴奏者として同行し、ハンガリーのバイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと知りあう。ヨアヒムの紹介でシューマンを訪問。シューマンはブラームスの未出版の作品に感銘をうけ、作品紹介を雑誌「音楽新時報」に記事を掲載。ブラームスはクララ・シューマンを愛していたが、1856年のシューマンの死後も独身でとおした。

クラリネットの名曲の影には必ず名クラリネット奏者がいた。モーツァルトにはアントン・シュタードラー、ウェーバーとメンデルスゾーンにはハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマン、そしてブラームスの晩年にいくつかの不朽の名作を書かせたのはリヒャルト・ミュールフェルトである。
ブラームスは1890年頃に、憂鬱症、意欲の減退に陥っていた。ブラームスは何度も作り直した作品を、親しい友人の前で試演し、また手を加えて、ようやく世に発表していた努力家である。弦楽五重奏曲第2番を書き終えた時点で疲れのせいなのか、身辺整理、遺書を書いたりしている。
1891年3月にマイニンゲンを訪問した際、ミュールフェルトの演奏を聞き(曲はくしくもモーツァルトの五重奏曲であったといわれている)、彼はすぐにクララ・シューマンに「当地のミュールフェルト以上に美しいクラリネットを吹くことはだれにもできません」と手紙をだしている。ブラームスはしばらく滞在し、ミュールフェルトにモーツァルトの五重奏曲やウェーバーのコンチェルトを何度も演奏してもらい、この楽器の音楽的な特性の知識を深め、またミュールフェルトに質問し、こうしてクラリネットのためのすばらしい作品を創りあげたのである。










ハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマン(1784-1847)










マックス・ブルッフ(1838-1920)
ドイツの作曲家。ケルンに生まれ、ライネッケなどに作曲を師事。
正統的ドイツ・ロマン派の流れで成長し、リストやワーグナーといった進歩派に反対し、ブラームスと同様な保守的の立場を守りながらロマンティックな作品を作る。
ブルッフはブラームスと5歳違い、ビゼーやムソルグスキーと同世代、マーラーやドビュッシーよりも長く生きた。
ブルッフは20世紀の音楽の進んでいる過程を見届けている。しかしながらブルッフは最先端を進むようなことはなく、あくまでも保守的で安定した作曲をした。
ブルッフは10歳になったばかりの頃からすでに室内楽曲をいくつか作曲している。ブルッフは、協奏曲作曲家とのイメージがあるが、器楽作品は彼の作品の中で3分の1程度でほとんどが声楽、合唱曲となっている。

日本ではよく知られていないが、母国ドイツでは作曲家としての評価は高い。










ウジェーヌ・ボザ(1905-1991)
フランスの指揮者、作曲家、ヴァイオリン奏者。パリ音楽院でイベールらに師事。
1934年にカンタータ「ルクマニの伝説」でローマ大賞。1939年から1948年までパリ・オペラ・コミークの常任指揮者を務め、1951年からはヴァランシエンヌ校長となった。
作曲家としては小品を数多く残しているが、ほぼ忘れ去られている。










アンドレ・ブロック(1873-1960)
クラリネットやアルト・サックスのためにいくつか作品を残している。











アルベール・ボーカン(1921-1967)
ルーアンで生まれた作曲家。指揮者としても活躍。










アルバン・ベルク(1885-1935)
新ウィーン楽派のひとり。
新ウィーン楽派のメンバーは3人で、アーノルド・シェーンベルク(1874-1951)、アントン・フォン・ヴェーベルン(1883-1945)、そしてアルバン・ベルク。
新ウィ−ン楽派は3者3様のスタイルで12音技法を身に付けた。ベルクの作品は豊かな叙情に溢れており、代表作としてはピアノソナタOp.1や、ヴァイオリン協奏曲などがある。










ルチアーノ・ベリオ(1925- )
第2次大戦後の前衛音楽を代表するイタリアの作曲家。1955年にマデルナとともにイタリアで最初の電子音楽スタジオを設立。
音列技法や電子音など最先端を吸収しつつ、伝統とのバランスを保ちながら活動している。
また、民謡や古い時代の音楽へ目を向け編曲を行っている。。










ピエール・ブーレーズ (1925-  )
今では指揮者として有名になってしまったが、戦後の現代音楽の主導的役割を担った重要なフランスの作曲家である。
1995年には還暦を祝して世界各地でブーレーズ・フェスティヴァルを開催した。パリ音楽院でメシアンに師事、それと並んでレイボヴィッツにシェーンベルクらの12音技法を学んでいる。
1976年にアンサンブル・アンテルコンタンポランを設立。










レナード・バーンスタイン(1918-1990)
マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学を卒業後、カーティス音楽学院に学んだ。
カラヤンと並んで20世紀後半を代表する指揮者の一人。ピアニストとしても優れていた。
1943年、カーネギー・ホールでのニューヨーク・フィルの指揮で注目。1953年にアメリカ人の指揮者として初めてミラノ・スカラ座へ招かれた。
1957年、ブロードウェイで「ウエスト・サイド物語」が初演され脚光を浴び、同年、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任し、1969年まで務めた。その後もイスラエル・フィル、ウィーン・フィルなど世界各国のオーケストラで活躍。
代表作はミュージカルでは「オン・ザ・タウン」「ワンダフル・タウン」「キャンディード」、バレエでは「ファンシー・フリー」「ファクシミル」など。
その他、ジーン・アーサー主演の「ピーターパン」の音楽も担当している。
バーンスタインはまたクラシックの世界にジャズを評価させるべく、様々な試みを行った。










アーノルド・バックス(1883-1953)
英国生まれのヴォーン・ウィリアムズと同時代の作曲家。 ロイヤル・フィルハーモニック協会の金メダル(1931年)を始め、数々の名誉を受け、1937年にはナイトの称号、42年には王室楽長に任命されている。
アイルランドやケルトの文化・音楽・文学から強い影響を受けた作曲家で、美しい管弦楽法を駆使したトーンポエム(音詩)、7曲ものシンフォニー、多数の魅力的な室内楽、ピアノ曲、歌曲がある。
バックスの作品は、ケルト的な旋律を使いながらも、民謡をそのまま使うことなく、構成は複雑である。










オーギュスト・ド・ブック(1865-1931)
メルフテム生まれのベルギーの作曲家兼オルガニスト。王立ブリュッセル音楽院で作曲法と和声法を学んだ。
1909年から1921年まで王立アントワープ音楽院で和声法を教える。
後年、ブリュッセル音楽院で和声法科を教えた。
メヒェレン音楽院院長も経験。
オルガニストとしても活躍した。










ベルンハルト・ヘンリク・クルーセル(1775-1838)
フィンランド南西部のニースタード生まれ。製本業者の息子。
19世紀前半にクラリネットの名手、作曲家として活躍。ベートーヴェンとほぼ同時期の作曲家である。
1791年にストックホルムに移住して一生をその地で過ごす。
少年時代に軍楽隊のクラリネット奏者などにクラリネットを学び、1973から1833までストックホルムの宮廷楽団のクラリネット奏者を務め、宮廷楽団の指揮者に登りつめる。そののち作曲家となる。
晩年には外国のオペラのスウェーデン語に翻訳したりもしている。スウェーデンでもっとも人気のある作曲家と呼ばれたこともある。
1803年にパリでベルトンやゴセクに作曲を学び、フランスの音楽家から情報を得て、また1820年代には病気療養のためにドイツに渡り、メンデルスゾーンやウェーバーと知り合った。
クラリネット協奏曲を3曲、クラリネットと弦楽器のための四重奏曲3曲、クラリネット二重奏曲などを残している。










ルイ・カユザック(1880-1960)











アーロン・コープランド(1900-1990)
ニューヨーク生まれで20世紀アメリカ音楽の発展に大きく貢献した作曲家。1920年にフランスに留学し、ナディア・ブーランジェに師事。1924年まで彼女のもとで学んだ。当時のフランス音楽はフランス六人組の全盛期でコープランドは彼らと親しく付き合った。
代表的な作品としてはメキシコ・シティの酒場の名をつけた「エル・サロン・メヒコ」、マーサ・グラハム舞踊団のためのバレエ組曲「アパラチアの春」、バレエ組曲「ロデオ」、アメリカ民謡を使ったバレエ音楽「ビリー・ザ・キッド」、ベニー・グッドマンの委嘱作品のクラリネット協奏曲などがある。











マリウス・コンスタン(1925-  )
ルーマニアのブカレストで生まれる。パリでメシアンやブーランジェらに作曲を学ぶ。アンサンブル・アルス・ノヴァの指導者。パリ・オペラ座バレエ団の音楽監督などでも活躍。












セバスチャン・カーリア(1959- )











エルネスト・ショーソン(1855-1899)
フランスの作曲家。パリ生まれ。弁護士試験に合格した後、音楽の道に入った作曲家。
法律を学んだ後、24歳でパリ音楽院へ。1871年に創設された国民音楽協会の一員として活動した。
歌曲に優れ、管弦楽と歌曲とを融合させる新しい試みを成功させた”愛と海の詩”などの傑作を残す。
1899年パリ郊外の別荘地ルメイで娘と自転車で散策中に事故死(自殺説もある)した。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。











フランシス・ドヴィエンヌ(1759-1803)
フランス生まれ。フランスのモーツァルトと言われる。
なぜかというと、活躍した時代が同じ(モーツァルトは1756年生まれ、ドヴィエンヌは1759年生まれ)、またモーツァルトのような優美さをドヴィエンヌの音楽は持っており、フルート奏者としても天才だった。
フルート奏者であったドヴィエンヌはであるから当然フルートの作品が多い。
スイス軍の軍楽隊出身で30歳で劇場のファゴット奏者になり、36歳から亡くなる前年の43歳までパリ音楽院の初代フルート科教授の地位にあった。
また、フルート以外の器楽曲や劇音楽を残している











クロード・ドビュッシー(1862-1918)
フランスのサン・ジェルマン=アン・レーに生まれる。1872年、10歳でパリ音楽院への入学が許可された。パリ音楽院へはこれ以降ローマ大賞を受賞するまでの12年間在籍。1884年カンタータ”放蕩息子”でローマ大賞受賞。「印象主義」の創始者として活躍。近代音楽の幕を開いたとされる。
1909年にパリ音楽院上級評議会の委員に就任。代表作;交響詩「海」「牧神の午後への前奏曲」、ピアノ曲「ベルガマスク組曲」「映像」等。

優秀でありながら幾多の女性問題を起こした作曲家である。











マルセル・ドートルメール(1906-1978)
パリ国立高等音楽院で作曲を学んだ作曲家で、伝統的な形式を重んじた作品を残している。また、ナンシー市立音楽院の校長や同市のオーケストラの指揮者も務めた。












ジャン=ミシェル・ダマーズ(1928- )
フランスボルドー生まれの作曲家、ピアニスト、教育者。ハーピストを母に持つ。
パリ音楽院へ進学し、ピアノをアルフレッド・コルトー、作曲をアンリ・ビュセール、和声および対位法をマルセル・デュプレに師事。15才で一等賞を得て卒業。
1947年にカンタータ”そして美女は目覚めた”でローマ大賞獲得。
ピアニストの活動の合間に室内楽や器楽作品を中心に数多くの作品を残している。ダマーズはメシアンなどと異なり、実験的な作曲を好まず伝統的な書法を生かしたエレガントな作品を書く。
また教育者としても活動し、パリ音楽院の副学長も務める。
母親と妻がハーピストであるためか、ハープを用いた曲が多い。











フランツ・ダンツィ(1763-1826)
ドイツに生まれベートーヴェンとほぼ同時代を生きた作曲家で、マンハイム宮廷管弦楽団のチェロ奏者であった父の跡を継いで同楽団でチェロを弾いていた。23歳年下のウェーバーと親交が深く、強い影響を受けた。ダンツィはウェーバーと共にロマン派のオペラ作曲家の先駆者として音楽史的に重要な人物である。
16曲のオペラ、4曲の協奏交響曲、8曲の交響曲など多様なジャンルの作品を作曲したが、一部の協奏曲以外ほとんど忘れ去られている。しかし当時流行していた木管五重奏曲は全部で9曲残されたが、現在も重要なレパートリーとして愛好されている。











ジャン・フランセ(1912- )
ル・マンで生まれたフランスの作曲家、ピアニスト。父はル・マン音楽院の院長、母は声楽家。
10歳でナディア・ブーランジェについて作曲を学び、14歳でパリ音楽院に入学。25歳までにすでに様々なジャンルの61曲もの作品を書いている。
1992年にSACEM賞、1992年にオネゲル賞を受賞。
作品はプーランク以上に洒脱で諧謔的、しかしプーランクのような悲しさが見られない。












ジェラルド・フィンジ(1901-1956)
20世紀のイギリスの作曲家。1930年に王立音楽学校で教鞭を執ったが、1933年に女流芸術家ジョイス・ブラックと結婚してロンドンを離れる。ニューベリー近郊のアシュマンズワースにて林檎の品種改良をする傍ら、1939年にニューベリー・ストリング・プレイヤーズを結成し、指揮者として活躍し、18世紀イギリス音楽の紹介につとめた。











フィリップ・ゴーベール(1879-1941)
フランス、カオール生まれのフルーティスト、指揮者、教育者、作曲家。
パウル・タファネルにフルートを学ぶ。1905年にローマ大賞第2位を獲得し、パリ音楽院で指揮法の教鞭を執る。パリ音楽院およびオペラ座の主席フルーティストとして活躍しながら指揮を振り、パリ音楽院で1904年からアシスタント指揮者として、またアンドレ・メサージェの引退後の1919年から1938年は主席指揮者として活躍した。
オペラ座では同時期に指揮者として活躍し、フォーレの”マスクとベルガマスク”などの初演を手がけた。
フルーティストとして活躍し、マルセル・モイーズら多くの弟子を輩出した。
弟子の多くがアメリカに移住して、ボストン、フィラデルフィア、ニュー・ヨーク、シカゴ交響楽団の主席フルート奏者となったことでも知られている。











ルイ−テオドール・グヴィ(1819-1898)
フランスの作曲家。生まれは独仏国境近くのゴフォンテーヌ。文学博士を得てから1836年にパリに法律を学びにいく。ここで音楽に魅了され、作曲を勉強する。










アンリ・ガニェーバン(1886-1977)
スイスの作曲家、教育家、オルガニスト。ジュネーブ音楽院で教鞭をとっていた。











スタン・ゴレスタン(1875-1956)
ルーマニアの作曲家、評論家。












アルチュール・オスカル・オネゲル(1892-1955)
北フランス、ル・アーヴル生まれのスイス国籍の作曲家。
1907年からチューリヒ音楽院にて、1911年からパリ音楽院で学ぶ。ヴィドールらに師事。
1914年〜1915年に軍役のためスイスへ帰国。1916年に、詩人のジャン・コクトーと若手作曲家らとで創設された”新青年(のちの六人組)”に加わる。
反印象主義の推進役の一人であり、1921年の交響的詩篇《ダヴィデ王》の成功で作曲家としての名声を得る。











レイナルド・アーン(1875-1947)
フランスの作曲家。父親はドイツ人、母親はベネズエラ人。
作風は穏健なサロン風の音楽。凝った和音もなく、上品で洒落た曲を書いている。











パウル・ヒンデミット(1895-1963)
ドイツの作曲家。
新古典主義の先駆者のひとり。1920年代以降の新音楽を代表する人物。
無調のような「現代的な書法」ながら基本を調的な構築性に置き、J.S.バッハを仰ぐような線的対位法を追求する独自のスタイル。”画家マチス”が有名作品。












ウィリアム・ハールストン(1876-1906)
幼児期から才能を発揮し、9歳にして作品集が出版されたほどのイギリスの作曲家。喘息の持病のためわずか30歳で亡くなる。クラリネットの作品としてはピアノと木管の合奏曲が数曲残されている。











イサン・ユン (1917-)
尹伊桑は、武満徹とともに、国際的に有名なアジアの作曲家である。1917年韓国に生まれ、日本で作曲を学ぶ。朝鮮の独立運動に参加し、1943年に投獄。朝鮮の解放後、各地で教鞭をとり、55年より、パリやベルリンで学び、前衛作曲家として出発する。67年に北朝鮮のスパイ容疑で拉致され2年間ソウルで服役。解放後、西ドイツに帰化。彼の作品は、精神的には東アジアの源泉に立って、朝鮮の音のイメージを西洋現代の作曲技法の助けを借りて音楽化したもの。70年代後半以降の作品では、アジア的性格は、背景に退き、テーマもより普遍的な性格のものになっている。











アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974)
現代フランスを代表する作曲家。1936年、メシアン、ルシュール、ボデリエらとベルリオーズ的美学への復帰を唱え(若きフランス)、音列主義によらず旋法や新しい転調法、和声、リズムなど種々の方法を用いて調性からの開放を試みた。また、師匠のヴァレーズの影響で、様々な楽器の可能性を探求した。65年から70年までパリ音楽院の教授をつとめた。












フランティシェック・ヴィンツェンツ・クラマーシュ(フランツ・クロンマー) (1759-1831)
1759年チェコ(南モラヴィア)のカメニツェに生まれた。
チェコでオルガン奏者、ヴァイオリン奏者として活動をはじめ、1785年ハンガリーの宮廷楽団に、1790年にはハンガリーのペーチユの楽長、さらにカーロイ公爵の宮廷楽長。1795年以降はウィーンで作曲家兼ヴァイオリニストとして活躍。1818年にハプスブルク家の宮廷作曲家兼楽長に。
モーツァルトとベートーヴェンの時代にまたがっており、特に、ベートーヴェン、シューベルトと同じ時期にウィーンで活躍していた。クロンマーと、モーツァルトにコンチェルトなどを書かせた、アントン・シュタードラーと弟のヨハン・ネポムク・フランツらと、面識があり、2本のクラリネットのための協奏曲変ホ長調作品35が彼ら2人のために書かれた可能性は多いにありうる。
クロンマーはこの作品以降もクラリネットをソロとして扱った作品を多く残している。
クロンマーは同時代の人々から高い評価を得て非常に多くな作品を残した。弦楽四重奏曲はハイドンの作品と比べられ、ベートーヴェンの好敵手とされていた。1820年代からは現在もそうであるが、心地よいだけの音楽との評価になってしまった。しかしながら、クラリネットの作品においては貴重な先駆的な作曲家である。











ヨーゼフ・キュフナー (1776-1856)










ステファン・キセレフスキー(1911- )
ポーランドの作曲家。











フィリップクーチェフ(1903- )
ブルガリアの作曲家。1951年に歌と踊りの民族アンサンブルを組織し、ヨーロッパなどを演奏旅行し、日本にも来日している。












ヴィトルト・ルトスワフスキー(1913-1994)
ポーランドの作曲家。
現代のポーランドの音楽の指導的人物。新音楽の「父」の1人である。1945年まで、彼の洋式は、まさしく現代的であった。1956年以降ようやくシェーンベルクの12音技法に関心を示し始めた。続いて彼は、音列音楽、偶然性の音楽、さらに、言葉の要素を用いる音楽へと次第に関心をむけていった。
ルトスワフスキの音楽は、巧妙な方法を用いた複雑で多様なものであった。












ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
モーツァルトとクラリネット                           











ダリウス・ミヨー(1892-1974)
南仏エクス・アン・プロヴァンス生まれのユダヤ系フランス人の作曲家。
18才、パリ音楽院へ入学し、シャルル・ウィドールらに師事。
エリック・サティ、ジャン・コクトー(詩人)を信奉するオネゲル、オーリック、タイユフェール、デュレー、プーランクとともに、”新青年”(のちの六人組)を結成。
伝統的な形式を壊した印象主義のあり方に異を唱え、フランス古典音楽への回帰とドイツ・ロマン主義の放棄などを掲げた。
第二次大戦中は渡米。カリフォルニア州オークランドのミルス=カレッジで教鞭を執る。1947年に帰国しパリ音楽院の教授に就任。
多作家で膨大な作品を書いた。晩年はスイスのジュネーヴで過ごした。
音楽史家の評価は高く、「20世紀を代表する作曲家の一人」と書いてあることもあるが、現在日本ではほとんど知られていない。
ミヨーの曲にはブラジルの民謡や、アメリカのジャズの要素が含まれていて、また色々なリズム美しいメロディーの積み重ねが多く、多調的で複雑である。











ジャン・マルティノン(1910-1976)
日本へ何度も訪れて名演奏の数々を聴かせてくれたフランスの名指揮者。












レイモン・ガロワ・モンブラン(1918-1996)
サイゴン生まれ。名ヴァイオリニスト。フランスの保守的な書法の現代作曲家で、パリ国立音楽院の院長を務め、ここの改革者として知られている。











ボフスラフ・マルティヌー(1890-1959)
チェコスロバキアの作曲家。プラハ音楽院でヴァイオリンを学ぶ。1918年にチェコ管へ入団。1923年からパリ音楽院でアルベール・ルーセルに師事。ストラヴィンスキーやフランス六人組の影響を受けた。第2次大戦中から渡米後には民族主義的色調を深めていく。かなりの作品を書いており、渡米直後の5年間に毎年1曲ずつ交響曲を残したほどである。
マルティヌーの音楽を特定の様式的範疇に当てはめる事は不可能であろう。チェコスロバキアの民族音楽、イギリスのマドリガル、フランスの印象主義からの影響が見られる。
マルティヌーは「彼自身の人生哲学というもの」を聴衆に伝える事を目指していた。「科学技術や産業においてわれわれが絶大なる進歩を遂げているにもかかわらず、人々の人の心に本当に触れる感情や疑問といったものは、まったく変わっていないのだ、という結論に私は達した。本当の問題は、友情、愛、死、といったものなのである。」












フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)
ハンブルクの作曲家。3歳の時ベルリンへ。母にピアノの手ほどきを受け、8歳から作曲を学ぶ。9歳で演奏会を開き、10歳で音楽団体に入会。13歳の終わり頃には対位法と古典の様式、特にソナタ形式に熟達していた。1821年には師匠のツェルターの紹介でゲーテに出会う(その後も訪問して大きな影響を受けている)。1822年には家族とともにヨーロッパへ演奏旅行に出かける。27年、ベルリン大学に入学。音楽学者ティボーに古い音楽の良さを教わり(メンデルスゾーンは同世代の作品よりも、バッハ、ヘンデル、モーツァルトの影響が見られる。)、29年、バッハの「マタイ受難曲」を100年ぶりに復活上演。その年初めてイギリスに旅行し各地の音楽家と交流を深めながら交響曲「イタリア」同「スコットランド」などを創る。33年デュッセルドルフに移る。音楽監督として力をつくすが理解を得られず、35年にはライプツィヒへ。ゲヴァントハウス演奏会の指揮を中心としながら、プログラムの構成等に新しいコンセプトを取り入れ、マイナーな作品の紹介にも務めた。41年までこの地で「ピアノ・コンチェルト第2番」や「無言歌集」などを作曲、37年にはセシル・ジャンルノーと結婚。41年、ベルリンへ。ここでは芸術アカデミーの上演する古典劇の音楽作成が中心であった。さらに王立オケの演奏会への作品提供も行ったが王の政策が失敗に及び44年、再びライプツィヒへ。43年、音楽学校が開校され教育活動に力を注ぐ。44年「ヴァイオリンコンチェルトホ短調」を完成させた頃から体調を崩す。46年大オラトリオ「エリア」を作曲。バーミンガムで初演を行うが更に体調が悪化。47年、イギリスで脳卒中で倒れライプツィヒの自宅で死去。若干38歳。











オリヴィエ・メシアン(1908-1992)
南仏アヴィニョン生まれのフランスの作曲家。
11才でパリ音楽院へ進学。ポール・デュカに作曲法、マルセル・デュプレにオルガン、モーリス・エマニュエルに楽史を師事した。
1931年にパリの聖トリニティ教会付オルガニストとなる。
フランス六人組に反発し、アンドレ・ジョリヴェ、ジャン・ダニエル=ルシュールらとともに、1936年に”若きフランス”を組織した。
1942年から1978年までパリ音楽院教授に就任して作曲法、和声法、音楽哲学ほかの教鞭をとった。ブレーズらを育成し、またシュトックハウゼンら戦後の前衛音楽に多大な影響を与えた人物である。











アンドレ・メサージェ(1853-1929)
指揮者やオルガニストとして活躍したフランスの作曲家。作品はオペラが中心。











ロバート・ムチンスキー(1929-)











フランシス・プーランク(1899-1963)
フランスの作曲家。パリのソッセー広場二番地に,代々カトリック教徒で,フランス最大手の化学工場の経営者であった父エミールと、パリの古くからの家具職人の一族であるロワイエ家の娘であった母ジェニーの間に生まれる。
ジャン・コクトー、エリック・サティを支持するオーリック、ミヨー、タイユフュール、デュレー、オネゲルらとともに「新青年」を結成。この演奏会を聴いた批評家のアンリ・コレによって「六人組」と呼ばれた。プーランクはフランス六人組の中で最も若い作曲家。
1913年、14歳の時、ドビュッシーの「神聖な舞曲と世俗的舞曲」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」の初演を聴いて強い影響を受ける。17歳で作曲したダダイズムの作品”黒人狂詩曲”で知られるようになる。
プーランクはちゃんとした作曲法を習っていなかったので1921年にリセ・コンドルセに進み、シャルル・ケックランに作曲を師事。
作品は器楽や歌曲が有名でフランス的エスプリと簡素な形式、哀愁を帯びた作風で”「フランス版シューベルト”と評される。後に宗教作品も作曲し、作風を広げた。











アンリ・コンスタン・ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)
ロレーヌ地方のメッツに生まれたフランスの指揮者兼オルガニスト兼作曲家。
メッツ音楽院の声楽科の教師の父、ピアノ教師の母をもつ。
パリ音楽院へ進学。1882年までに4部門で一等賞を得た。
1882年、カンタータ”エディト”でローマ大賞を獲得。
1890年に聖クロチルド教会のオルガニストとなり、1903年にはコロンヌ管弦楽団で助演指揮者に就任した。1910年から1934年までコロンヌ管弦楽団の常任指揮者となり、ドビュッシー、ラヴェルなどの作品を数多く初演し、特にストラヴィンスキーの火の鳥を指揮者として初演した事で知られている。
レジオン・ドヌール5等勲章受章。オペラやバレエなど様々なジャンルの作品を残している。











クシュイシュトフ・ペンデレツキ(1933-   )
東ポーランドのデンビツァに生まれた作曲家。
現代のポーランドの音楽の指導的人物
ポーランドの民族音楽に一身に取り組んでいた。1950年代の後半になってようやく、西欧の前衛的な活動に参加し始めた。トレノス、アナクラシスという管弦楽作品によって、無名だった作曲家が脚光を浴びた。











マックス・レーガー(1873-1916)
バイエルンのブラント市で生まれた。
1901年ミュンヒェン音楽アカデミーから作曲とオルガンの講師を依頼されてから、作曲家としての名声が高まる。
1911年当時ドイツ最高楽団の1つであるマイニンゲンの宮廷楽団の音楽監督に就任。
1916年、ライプツィヒのホテルで43歳で亡くなった。











カール・ライネッケ (1824-1910)
ライネッケは今日では、ロマン派のマイナーな作曲家と思われがちであるが、当時では作曲家、ピアニスト、指揮者として名声を得ていた。青年時代にはデンマークの宮廷ピアニストに任命され、ライプツィヒではメンデルスゾーンとシューマン一家に温かく迎えられ、リストは彼の美しいタッチを賞賛したらしい。
その後は、ケルンの音楽院で教鞭を取り、バルメンとブレスラウの音楽監督をつとめ、1860年にライプツィヒ音楽院の教授に任命され、1897年には院長になって音楽院をヨーロッパで最も名声の高いもののひとつに押し上げた。彼はまたゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者もつとめた。
ライネッケは傑出した室内楽の作曲家であったようで、特に晩年の作品では変化にとんだ形式の中で威厳と暖かさを表現している。












ジョアッキーノ・ロッシーニ (1782-1868)
1792年、イタリアの田舎町ペザロに生まれた。幼少より音楽に携わる両親の影響を受け、ボローニャ音楽学校で勉強した後18才の若さでオペラ作曲家デビュー。以後39曲に及ぶオペラを作曲したが、37才で書いた「ウィリアム・テル」を最後に突然オペラの作曲を辞め、その後は宗教曲や器楽曲、歌曲等を作曲したが、76才で死ぬまで1曲もオペラを書かなかった。彼がなぜオペラの作曲を辞めてしまったかは彼が生前に語らなかったこともあり今日でも様々な憶測を呼んでいる。ロッシーニという名は常に「オペラの」と形容される。「セビリアの理髪師」「ウィリアム・テル」などの作品、オーケストラの充実やフィナーレの拡大などのロッシーニが果たした功績を考えれば当然である。
さて音楽史上筋金入りの食通と言われた大食漢であったロッシーニについての引退後の39年間について、現在でも「ロッシーニ風」と冠される料理が残るほどの名シェフ、名グルマンとしておおいに活躍した足跡が、料理研究家またはスタンダール、バルザックなどの作家の筆により記録が残されてる。












アンリ・ラボー(1873-1949)
フランスパリ生まれの作曲家兼指揮者。
パリ音楽院チェロ科教授を父にもつ。
1893年パリ音楽院へ進んだ。
1894年にカンタータ”ダフネ”でローマ大賞を受賞。
1910年からパリ音楽院で教え、1920年〜1940年までフォーレの後任として院長に就任。
指揮者としても活躍し、パリ・オペラ・コミークの指揮者、その後1914年から1918年までパリ・オペラ座歌劇場の指揮者。
作曲家としては保守・穏健な近代フランス音楽を推進した。










ジャン・リヴィエ(1896-1987)
フランスの作曲家。パリ音楽院で学ぶ。ル・トリトン(室内楽演奏団体)の一員として活躍した。新古典主義の作風。











カール・シュターミッツ(1745-1801)
ドイツのヴァイオリン奏者兼ビオラ奏者兼指揮者兼作曲家。父ヨハン・シュターミッツ(バイオリン奏者兼作曲家)、弟アントン・シュターミッツ(バイオリン奏者兼作曲家)とマンハイム楽派を確立。
1762年から1770年までマンハイムの宮廷管弦楽団のヴァイオリン奏者を務め、その後パリに移りルイ・ド・ノアイユ公の宮廷作曲家となった。1785年以降は再びドイツに活動の場を移した。
1770年以降、協奏交響曲が花開いたのはシュターミッツに負うところが大きい。ほとんどの作品は失われたが、51曲の交響曲、38曲の協奏交響曲とおよそ50曲の協奏曲(うちクラリネット協奏曲11曲)、多くの室内楽曲を書いている。
クラリネット協奏曲が11曲も残っているところを見ると、マンハイムの初期の作品ですでにクラリネットが重要な位置を占めていたのだろう。シュターミッツは当時まだ世に出回ったばかりのクラリネットの可能性を追求し、ヴぃルトゥオーゾ性と甘美な旋律性を余すとこなく引き出した。
シュターミッツは後半生は非常に苦しかったようで、錬金術に手を出し借財まみれで世を去ったといわれている。











ルイス・シュポーア (1784-1859)
初期ロマン派に属する作曲家。
シュポーアはパガニーニと並ぶ19世紀の代表的なヴァイオリニスト。ヴァイオリンの顎あてを発明し、また、指揮者としてはじめて指揮棒を使った人物。
アン・デア・ヴィーン劇場の指揮者を務め、10作のオペラ、10曲の交響曲、15曲のヴァイオリン協奏曲、36曲の弦楽四重奏曲などを書いている。しかし、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの偉大な作曲家の陰にあって、現在の評価は妥当ではない。シュポアはヨハン・ジーモン・ヘルムシュテットのために、4曲の協奏曲を書いている。












ロベルト・シューマン(1810-1856)
ドイツの作曲家。
シューマンは、ロマン派を代表する作曲家である。自身の主催する雑誌で、若き日のブラームスやショパンを紹介したのは有名である。後にイェーナ大学から博士号を得ている。
幼い頃から音楽的才能を示しながら、父に従ってライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学で法律を学んだ。父親の死後、20歳になって音楽家になる。はじめはピアニストをめざし猛練習したが、指を痛め、作曲家となった。1840年、周囲の反対を押し切りクララと結婚。音楽家として認められるようになってからは、メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院で教えたり、デュッセルドルフの音楽監督になったが、うつ病に悩まされ1854年ライン川に投身自殺を企てる。救助された後、ボンの近くの精神病院に入り、そこで46歳の生涯を閉じた。












カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)
名ピアニスト・名オルガニストでもあった作曲家。文学や科学への造詣も深く、多才であった。自国の器楽興隆のため国民音楽協会を創設した。1921年86歳のとき、旅への情熱が強かったサンサーンスは気に入っていた北アフリカのアルジェで世を去った。











イーゴル・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882-1971)
ロシアのペテルスブルグ生まれの作曲家兼指揮者兼ピアニスト。
サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウムで、マリインスキ劇場の著名なバス歌手の息子として生まれた。
1901年にペテルスブルク大学で哲学および法律を学び、1902年、リムスキー=コルサコフに認められた。
”花火”の初演でディアギレフに認められ”火の鳥”の依頼を受ける。1910年に代役でディアギレフ率いるロシア・バレエ団のために作曲したバレエ音楽”火の鳥”が大成功。1911年”ペトルーシュカ”、1913年”春の祭典”を発表。バレエ音楽のほか、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲など数々の作品を発表。
その後、健康上の問題でスイスに移住。大戦中はスイスで活動し”ある兵士の物語”などを発表。
1920年に再びフランスへ。
第2次世界大戦中にアメリカへ移住し、ハリウッドを拠点として活動。1971年、ニューヨーク没。
野蛮主義(バーバリズム)の先駆者としてドビュッシーと並ぶ20世紀音楽の先駆者で、ベルク、シェーンベルクらのウィーン楽壇に大きな影響を与えた。











フロラン・シュミット(1870-1958)
1870年仏ロレーヌ県ブラモン生まれのフランスの作曲家。
ピアノと作曲を学んだ後、1889年パリ音楽院へ進み、和声法をテオドール・デュボワらに、対位法をアンドレ・ジェダルジュ、作曲法をガブリエル・フォーレらに師事した。
1897年にカンタータ”フレデゴンド”でローマ大賞第2位、1900年にカンタータ”セミラミス”でローマ大賞獲得。
1922年から1924年にかけてリヨン音楽院の院長を務め、1936年にはパリ音楽院の院長に。












フランツ・シューベルト (1797-1828)
1797年1月31日、ウィーンにて小学校の助教員の子として生まれたオーストリアの作曲家。
1808年に宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員となり、ウィーンの宮廷歌手を養成する寄宿学校に入学。宮廷楽長をつとめていたイタリアの作曲家サリエリの指導をうけ、学生オーケストラでバイオリンを担当。
11月19日、チフスのため31歳で死去。
シューベルトは歌曲やピアノ曲の分野で有名であるが、室内楽でもそれに劣らぬ作品を残している。15曲の弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲《鱒》、弦楽五重奏曲など。












カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-)
1928年8月22日ドイツ(メドラート)に生まれる
1947〜51年の間、ケルン音楽大学とケルン大学で学ぶ。
1950年から作曲作品を発表し始める。
1951年 ダルムシュタット国際夏期講習に初参加。1952年にパリ留学。オリヴィエ・メシアンのクラスに出席。











ティベル・オラー(1928-)
ルーマニアの作曲家。声楽と映画音楽の分野でルーマニアでは第一人者として評価されている。











アレック・テンプルトン(1910-1963)
イギリス生まれの盲目のピアニスト兼作曲家。1935年にアメリカにわたりラジオ番組で活躍、ポピュラーとクラシックの両方のジャンルで活動する。1941年にアメリカに帰化。











カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)
ドイツの作曲家。ドイツのロマン派の創始者で指導的な作曲家の一人。ワーグナーなどに影響を与えた。
虚弱な体質で幼い頃から足が不自由。
巡回歌劇団の主催者だった父と共に各地を転々とし、父親はウェーバーを各地で優れた音楽家に師事させた。
「自伝的スケッチ」によれば11歳ですでにオペラを含む習作を書いていたという。
1798年、母が結核で亡くなり、父が職をかえ落ち着いた生活に入ると、ウェーバーは作曲活動に没頭する。この時期にオペラ「森の娘」をはじめ、ミサ曲、歌曲、ピアノ小品などを書いている。
1801年からザルツブルクに滞在。1804年には17歳でブレスラウ歌劇場の指揮者兼オペラ作曲家となる。ブレスラウでの仕事は3年ほどだった。1806年周囲の中傷などによりブレスラウを去る。
その後音楽好きの将軍オイゲンに仕えるべく、カールスルーエに向かう。ここでの生活は快適であった。しかしオイゲン公のナポレオン戦のための出征にともない、この生活も半年で終わる。
1807年、シュトゥットガルトに到着。ルートヴィヒ公の秘書を務めながら作曲に取り組み、声楽・器楽曲を完成。充実した生活をおくる。しかし金銭がらみの事件を起こし、1810年追放。
その後は父が亡くなるまで作曲や文筆活動をしながら各地を転々とした。
父の死後にベルリンを訪れ、1813年プラハ市立劇場の指揮者に就任。主要都市でも活躍するようになる。しかし創作環境は決してよくはなく1816年にはプラハを去る。その後ドレスデンに移り、カロリーネ・ブラントと結婚。ドレスデンではピアノ曲「舞踏への勧誘」をはじめ、器楽曲や歌曲もかかれた。1826年、肺結核にかかったウェーバーは、イギリス旅行があだとなり同年6月イギリスの友人宅にて40歳の若さで息をひきとる。

クラリネットの重要な作品の裏には、作曲家と優れたクラリネッティストの関係がある。
モーツアルトとアントン・シュタードラー、ブラームスとリヒャルト・ミュールフェルト。そしてウェーバーはハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマンのためにコンチェルト、五重奏曲などを書いた。











シャルル=マリー・ヴィドール(1844-1937)
近代フランスのオルガンの巨匠兼作曲家。ロッシーニとミヨーの双方と面識があったというから西洋音楽の変動を目の当たりにした人物であろう。
リヨンの教会のオルガン奏者の父から学び、少年時代から即興演奏に才能を発揮した。
ブリュッセルでレマンにオルガン、フェティスに作曲を学び、1860年からリヨンの教会のオルガン奏者となる。
1869〜1934年はパリのサンシュルピース大聖堂のオルガン奏者となる。
1890年にフランクの後を継いでパリ音楽院のオルガン科の教授となる。
1896年からデュボアの後任として対位法、フーガ、作曲の教授となった。門下生のA.シュバイツアーとバッハのオルガン全集の編纂にあたる。また近代オルガン曲集の編纂もおこなった。
門下からシュヴァイツァー、マルセル・デュプレ、オネゲル、ミヨーらを輩出した。











レオ・ヴァイネル(1885-1960)
ハンガリーの作曲家、教育家。
ブタペスト音楽院で学んだ。
彼の作品は様々な賞を獲得し、ウィーン、ミュンヘン、ベルリン、パリなど訪問している。
1908年以降は母校の教授となった。











アレック・ワイルダー(1907-1980)
アメリカ人作曲家。クラッシックからポップスまで幅広く活躍した。











北爪 道夫(1948-)
1948年、東京で生まれる。父はクラリネット奏者の北爪利世氏。
東京藝術大学音楽学部を経て、1974年同大学大学院修了。作曲を池内友次郎らに師事。
1977年、演奏家と作曲家による創作集団「アンサンブル・ヴァン・ドリアン」の結成に参画。
1979年にパリ国立高等音楽院において研鑚を積む。
京都市立芸術大学音楽学部教授を経て、現在愛知県立芸術大学音楽学部教授。
作曲家の北爪やよひ氏は実姉である。












北爪 やよひ(1945-)
父はクラリネット奏者の北爪利世氏で作曲家の北爪道夫氏の実姉である。











末松 保雄(1937-)











藤家 渓子(1963-)
1963年京都市生まれ。東京芸術大学および同大学院修了。
主な作品に「弦楽トリオ」(1990 アジアコンポーザーズリーグ青年作曲賞)、「クラリネット協奏曲」(1986年)など











藤田 正典(1946-)











松下 功(-)
作曲家兼指揮者。
東京芸術大学、及び同大学院にて黛敏郎らに師事。
1977年、日本音楽コンクール作曲部門管弦楽の部入賞。1979年、ベルリン芸術大学にて尹伊桑氏に師事。1985年ドイツ・メンヒェングラードバッハ市国際作曲コンクール第1位。











三善 晃(1933-)
1933年東京生まれ。
1951年東京大学文学部仏文科に入学。在学中の1953年<ソナタ>が第22回日本音楽コンクール作曲部門第1位、1954年<ピアノと管弦楽のための協奏交響曲>が第3回尾高賞、文化庁芸術祭奨励賞を受賞し注目される。
1955年パリ音楽院に留学、アンリ・シャラン、レイモン・ガロワ・モンブランに師事。
1957年帰国、東京大学に復学し60年に卒業。
管弦楽、室内楽はもとより歌曲、特に合唱作品に優れた作品を生み出している。
1963年から桐朋学園大学で教え、1974〜95年まで桐朋学園大学学長。
現在東京文化会館館長。2001年11月文化功労者。












安田 芙充央(-)











湯浅 譲二(1929-)
1929年福島県郡山市生まれ。
1949年慶応大学医学部教養課程に入学。在学中より武満 徹らと親交を結ぶ。
以来、オーケストラ、室内楽、合唱、劇場用音楽、インターメディア、電子音楽、コンピュータ音楽など、幅広い作曲活動を行う。
1981年からカリフォルニア大学サン・ディエゴ校教授を務め、現在日本大学芸術学部教授、東京音楽大学客員教授を務めている。
1997年<ヴァイオリン協奏曲>により第28回サントリー音楽賞を受賞。
1998年より武満徹の後任として、「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」のアーティスティック・ディレクターを務めている。











吉松 隆(1953-)
驚いた。管理人と同じ誕生日でした・・・
東京生まれ。
吉松隆ホームページ












※このページの内容はクラリネット・ハンドブック及び多くのCDジャケットを参考に作文してあります。