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 このページでは、「いのちの教育」を信念とした教育者であり、またお念仏を喜ばれた真宗者である東井義雄先生の言葉(詩)をいくつかピックアップしてみました。

明治45年 兵庫県但東町佐々木の浄土真宗の寺に生まれる
昭和 7年 姫路師範学校卒業
昭和 7年 豊岡尋常高等小学校に勤務
昭和17年 合橋国民学校に勤務
昭和19年 唐川国民学校に勤務
昭和22年 相田小学校に勤務
昭和34年 広島大学ペスタロッチ賞授賞
昭和34年 相田小学校で教頭に
昭和35年 小砂丘忠賞授賞
昭和36年 高橋中学校校長
昭和39年 八鹿小学校校長
昭和41年 『培其根』発行始まる
昭和43年 八鹿小の通信簿改造
昭和47年 退職 その後、姫路女子短期大学講師、兵庫教育大学講師など
平成3年4月 逝去 



   百千の灯あらんも
   われを待つ
   灯はひとつ






   生きてよし、死してよし、どことてもみ手のどまんなか。おかげさまのどまんなか。





   土は、土に対しての感謝の念をおこさねばならぬことさへ忘れしめる程、平然と偉大です。





   根のある草は、芽をふく、花ひらく。われわれにとって「根」とは何か。何が、「根」であるか。





   根たくましければ、おのづから育つ。






   根の深さとひろがりが樹の高さと広がりになる。





   下農は雑草を作り、中農は作物を作り、上農は土をつくる。





   見えないところがほんものにならないと、見えるところもほんものにならない。





   つまらなく見えるものの中からすばらしいものが生まれる。根気・根性・性根・それが人間を決定する。





  見えないところで 見えないものが 見えるところをささえ 生かし 養い あらしめている




 自転車のタイヤを支える道ははば三センチもあれば足りるだろう。しかし、実際には、三センチの道はばでは自転車は通れない。直接役に立つところだけが有用であるのではない。何の役割りも果たしていないように見えるところが、案外大切なはたらきをしてくれているのである。私は田舎道を自転車で走るとき、いつもそう思う。





   生きるということは、
   容易のことではない。
   ただ生かしてもらっているだけで、
   それは、大したことなのだ。





   雨の日には 雨の日の
   老の日には 老の日の
   かけがえのない
   大切な人生がある





   雨の日には
   雨の日にしか聞かせていただくことのできない
   ことばを超えた ご説法がある

   老いの日には
   老いの日にしか聞かせていただけない
   ご説法がある

   病む日には 
   病む日の
   ご説法がある





   「生」も「死」も全て「み手のまんなか」





   悲しみをとおさないと
   見せていただけない
   世界がある





   太陽は夜が明けるのを待って
   昇るのではない
   太陽が昇るから
   夜が明けるのだ






   ああ
   きょうも
   親子でおらせてもらった。





   明日がある
   あさってがある
   と考えている間は
   なんにもありはしない
   かんじんの
   「いま」がないんだから





   拝まない者も
   おがまれている
   拝まないときも
   拝まれている

   すみません
   南無阿弥陀仏。





   川にそって岸がある
   私にそって本願がある
   川のための岸
   私のための本願





   散るときが
   浮かぶときなり
   蓮の花
   が
   しみじみとありがたい
   南無阿弥陀仏





   あなたの帰る海は もうそこなのに
   そんなに
   ぼんやりとしていて いいのですか
   というように
   川の水 忙しく帰っていく
   一刻も早く
   帰るところを 確かめておかねば…
   というように
   あわただしく 音たてて
   川の 流れ

   その点だけは
   安心
   もうちゃんと 見えている
   私の海





   助けてくだされよというにあらず
   助かってくれよとある仰せに従うばかりなり





   この不思議ないのち 
   それを 今
   生きさせてもらっている






  「子どもは星」
   どの子も 
   子どもは 星
   みんなそれぞれがそれぞれの光を放って輝いている
   パチパチ まばたきしながら
   子どもは自分の光を見てもらいたがっている
   光を見てやろう
   まばたきにこたえてやろう
   光を見てもらえないと
   子どもはまばたきをやめる
   光を消す
   光を消しそうにしている星はないか
   まばたきをやめそうにしている星はないか
   光を見てやろう
   まばたきに こたえてやろう 
   そして
   天いっぱいに
   子どもの星を かがやかせよう






  「妻」
   「何もしてあげることができなくてすみません」
   ポツリと
   そんなことをいう 妻
   「なんにもしてあげることができなくてすまん」のは こっちだ
   着るものから たべるものから
   パンツの洗濯まで
   してもらってばかりで
   「なにもしてあげることができなくて」
   いるのは こっちだ
   しかも 妻に
   「すまん」といわれるまで
   「すまんのはこっちだ」ということにさえ
   気がつかないでいた こっちこそ
   ほんとに
   すまん。

   





  「もう あと 十日」
   もう あと 十日で
   父の年に追いつく
   その日が
   どんどん近づいてくるのに
   努めても
   努めても
   父の世界には到り得ない
   到り得ないどころか
   遠ざかるばかりだ
   はずかしい自分を
   見せつけられるばかりだ
   そして
   宿業のすべてを大いなるものにあずけ
   力まず
   気どらず
   わしほどのしあわせ者があろうかい と
   小さい みすぼらしい体だけを残して
   永遠のいのちに還っていった父を憶い
   いよいよ
   父の生きた世界の大きさに
   おどろくばかりだ





  「よくもまあ!」
   妻にも
   子にも
   孫にも
   代わってもらうことのできない
   わたしひとりのための
   私の一息
   これがとまってしまえば
   どんなにもがいても
   この世においてもらうことは
   できなくなってしまう
   命にかかわる
   この大切な ひと息
   それを
   よくも まあ
   六十三年も
   忘れどうしに忘れていたものだ
  
   その忘れどうしのわたしを
   よくも まあ
   一瞬も 忘れず
   出たり はいったり
   はたらきずめに
   はたらいてくれがものだ
   よくも まあ

   南無阿弥陀仏

   「助けてくだされよというにあらず、助かってくれよとある仰せに従うばかりなり」

   南無阿弥陀仏





  「やまつつじ」
   おや
   山つつじだ
   寒い
   長い 冬であったのに
   深い 深い
   雪であったのに

   しかし 山つつじは
   いま咲いたのではないのだ
   咲いているのは
   いまだけれど
   長い 冬の間
   重く冷たい雪の下で
   用意をしていたのだ
   花の用意をしていたのだ
   春の到来を信じて
   用意していたのだ

   咲いているのは今だが
   いま咲いたのではないのだ





  「おばあちゃん ありがとう」
   こっくり
   こっくり
   いねむりしていらっしゃる
   おばあちゃん

   わたしの話でも
   聞いてやろうと思って
   ここまで来てくださったのに
   おばあちゃんのほしいものを
   わたしがようさしあげないものだから
   こっくり
   こっくり
   いねむりしていらっしゃる

   すみません   

   それだのに おばあちゃん
   わたしは さっきまで
   聞いていてくれたらいいのにと
   おばあちゃんをうらみました

   すみません

   気がついてみたら おばあちゃん
   私も せっかく
   この世に出していただきながら
   聞くために
   耳もいただきながら
   聞こうともせずに 
   求めようともせずに
   目をあけたまま
   いねむりをしてきたのです

   おばあちゃんのいねむりは
   さっきからですか
   わたしは
   六十年も
   目をあけたまま
   いねむりを続けてきたのです 
   そのことを おばあちゃん
   あなたは私に
   気づかせてくださいました
   おばあちゃん
   ありがとう
   如来さま
   すみません。





  「忘れていた 忘れていた」
   忘れていた
   忘れていた
   一生けんめい生きてはきた
   忙しい忙しいと 生きてはきた
   しかし 牛のように
   よろこびの日も かなしみの日も
   大いなるものの誓いを信じ
   願いをかみしめ
   ひと足 ひと足
   ひと事 ひと事
   ひと時 ひと時
   踏みしめ 踏みしめ
   大切に生きさせていただくのでなかったら
   せっかくいただいたただ一度の人生を
   むなしく過ごしてしまうことになるのだ
   ということを
   忘れていた





  「待たれているしあわせ」
   夜どおし
   私を護ってくれた寝床に
   「ありがとう」と合掌して
   まず
   トイレ

   私の腹の中の汚れものを
   待ってくれているトイレ
   禅宗の人が 合掌して入られる心がわかる気がして
   お念仏しながら 入らせてもらう

   汚いものをかかえた私を 待っていてもらうしあわせを
   感謝しながら
   「すみません」とお念仏しながら
   用事を終わると
   手洗いの蛇口が待っていてくれる

   蛇口をひねると
   待っていましたというように
   きれいな水
   その手を洗う私を
   手ふきが
   待っていてくれる

   何から何まで「すみません」とお念仏
   洗顔
   蛇口もひねるのを 蛇口が待っていてくれている
   歯ぶらしも
   ハミガキも
   コップも
   みんな みんな 私を待ってくれている
   私のような者を 待ってくれている

   すみません
   ありがとう
   口を洗い 目を洗い
   顔を洗わせてもらう
   一日のはじまり





   「身も心もあずける」
   (略)
   風呂にはいっても
   まだ手術がひとごとみたい
   風呂から出ても ひとごとみたい
   植木医院長先生が「睡眠薬でも」といわれるが
   不思議に
   気にかかることは何もない
   手術そのものは麻酔中のことだとすると
   気にかけたってしょうがない
   手術中にいのちが終わっても
   大きないのちのふところに
   還らせてもらうばかり
   こちらで気にすることは何もない
   体中の表面をきれいにするだけではない
   (略)
   手術のときが近づいてくる
   しかし
   案外平静
   船に乗るようなものであろうか
   泳げない私であってみれば
   力の入れようもない
   船にすべてをあずけるしかない
   船の底の海が
   どんなに深くあろうとも
   力みようがない
   船に
   他人事のように
   身も心も預けるより仕方がない
   お昼
   十二時三十分
   六〇二号室を出て
   手術室に向かう
   この期になっても
   心は
   不思議に
   平静
   他人事の思い
   どこまでつづくのか





   わたしも やがて
   この
   光いっぱいの世界に帰らせていただく
   光を見失わないように
   生きさせていただこう
   光を仰ぎながら
   生きさせていただこう
   光を仰ぎながら
   生きさせていただこう
   病院の中で 気付かせていただいた
   光を 大切に
   生きさせていただこう





  「老い」
   「老い」は
   いろいろな力が失われていく 
   過程のことではあるけれども
   得させてもらう過程でもある
   視力は失われていくが
   花がだんだん美しく
   不思議に見させてもらえるようになる
   聴力はだんだん失われていくが
   もの言わぬ 蟻の声が聞こえるようになる
   もの言わぬ みみずの声が聞こえるようになる
   花のことばが聞こえるようになる
   体力はどんどん失われていくが
   あたりまであることの ただごとでなさが
   体中に わからせてもらえるようになる





  「人生という学校」
   人生という学校に
   七十七年もおせわになって
   結局
   何になったか
   醜い
   汚れた
   みすぼらしい
   じじいになった
   申しわけない はずかしい
   じじいになった
   でも
   やっとおかげさまで
   お念仏申す以外
   何もない私に
   していただいた






  「紅蜀葵(もみじあおい)」
   紅蜀葵の赤さは
   夕焼けの 赤さ
   西方浄土の
   空の色

   「老」の色は
   鮮烈に燃えあがらせることのできるものを
   失った私が
   お念仏に染めていただく
   紅蜀葵の 赤
   夕焼けの 赤
   やすらぎの 色
   大いなるふるさとの 空の色






  「拝むたびに…」
   阿弥陀さまの
   お顔が
   拝むたびに
   変わっていらっしゃる
   おなじ
   阿弥陀さまのお顔であるのに
   変りずめに変り
   動きずめに動いている私の心によりそって
   泣いたり
   ほおえんだり
   はたらきずめにはたらいていてくださるのであろうか

   南無阿弥陀仏 





  「新年に」
   よいことばかりやってくるように
   つらいこと 苦しいことはやってこないように
   そんなことを願っても
   それは 無理というもの
   どんなことが やってきても
   おかげさまでと
   それによって
   人生を耕させてもらう道
   人生を深め
   豊饒にさせていただく道

   それが
   お念仏の道






 
 「匂いのように…」
   精いっぱい
   美しく咲く花もいいが
   身は葉かげに
   小さく かくれて

   得もいわれぬ香りを漂わせている
   もくせいも
   尊い
   世間の表面に立って
   はなばなしく活動することはできなくても
   「匂い」のように「願い」をおくる
   「葉かげの老」も
   赦してもらえるのではないだろうか
   ふと
   そんなことを考えさせてくれる
   もくせいの匂い。






  「百千の灯あらんも…」
   自転車を押して
   疲れ切って帰ってくるとき
   わたしを待ってくれている灯が
   ともっているのをみると
   ホッとする
   心が安らぐ
   疲れが消える
   あちらの家
   こちらの家にともっている灯と
   おなじ灯なのに
   うちの灯より
   もっと明るいのもあるのに
   ふしぎな力をもった
   「われを待つ灯」
   「百千の灯あらんも
   われを待つ
   灯はひとつ」
   この世の旅を終ったとき
   帰らせていただく
   いのちのふるさとの
   「われを待つ灯」を
   憶念せずにおれない
   ふしぎな力をもった
   「われを待つ灯」







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