←長明寺HPのトップへ  諸師の言葉(な・は行) 

諸師の言葉(あ・か行)      諸師の言葉(さ・た行)
諸師の言葉(な・は行)     諸師の言葉(ま行以降)
真宗の法言T          真宗の法言U
『経典』から          祖師先哲方の御文
仏教・宗教関係の言葉T     仏教・宗教関係の言葉U
ことば(1)          ことば(2) 
ことば(3)          ことば(4)
ことば(5)          ことば(6)
ことば(7)          ことば(8)

 現代(および近代)の諸先生方(布教使から学者までさまざまな先生)の言葉です。
 このページは「な行・は行」の先生方です」

○内藤知康師
○幡谷明師
○花岡静人師
○平野正信師
○ひろさちや師
○福田祥雲師
○藤沢量正師
○藤原正遠師
○深川倫雄師
○藤秀翠師
○舟川宏顕師
○細川巌師
○星野元豊師
○本多静芳師







○内藤知康師

(われわれは)無明煩悩そのものの存在だというそのものの存在だということは、結局迷いという在り方、迷いそのものの在り方ということであります。
 迷いそのものの在り方がどういうことかと申しますと、これは先ほど申しまいしたようにですね、すべてのものを実体的に捉えるということです。
 本来、仏教は無我ということであるわけです。
 迷いという在り方は無常のものを常と思ってしまう。
 それから苦を楽と思ってしまう。それから無我を我と捉えてしまう。
 それから不浄なるものを浄と思ってしまう。
 こういうのが、まさしく迷いという在り方であるわけです。
 そういう意味から申しますと、仏の教えでは、まさしく全ての存在は無我なんですが、実際に我々が無我と捉えているのかというと、これは決して捉えていないわけですね。
 もし私が無我と捉えることができるんでしたら、非常に極端な言い方をいたしますと、阿弥陀仏のご本願はいらないということにもなりかねません。
 まさに本来、本質的には無我であるべきものを我として捉えている、そういうものの見方しかできない。
 そういう私たちを何とかしなくてはいけない、何とかしなくてはいけない、というところに阿弥陀仏の本願というものがあるはずであります。まさしく仏願の生起というふうに言われていることであります。
         



 知的な立場から浄土の存在を否定する人々も居るが、我々の行動はコンピューターのような計算の上に成り立っているのではない。
 矛盾に満ちた人間の感情、そこに清らかな宗教感情をわき出させてくれるのが、往生浄土の教えなのではないか。
 往生浄土の教えは、高邁な理念をもてあそぶ観念の遊戯に堕する、そういうことを教えるのではなく、日常生活において、泣き、笑い、怒る、普通の人々の素朴な感情に対応し、受容し、包みこむ教えであることを忘れてはならず、浄土という世界は、このような側面から考えていかなくてはなりません。
        



 心のはたらきの分類として「知・情・意」という言い方がされます。知的な側面、情的な側面、意思的な側面です。
 (中略)知的な側面ですと、例えば倶舎・唯識などは、相当勉強しないと理解できないですね。
 (中略)それから親鸞聖人が比叡山でなさったであろう、さまざまな修行、それは相当強い意思がないとできないですね、絶対やり遂げるんだという、そういう意思がないと。
 (中略)浄土教というのは、どちらかといいますと、情的な側面でアプローチしていく仏道ではないでしょうか。




 行巻の六字釈では帰命というのは、如来様のお呼び声、呼びかけだというふうにもお示しになられておりますように、帰命も南無も、本来衆生が帰命し、南無するというものを、阿弥陀仏の側に属させたということです。
 (中略)そうすると南無というのは、阿弥陀仏を説明する言葉だということになります。
 (中略)
 南無阿弥陀仏の六字全体をお名号とするということは、阿弥陀仏に南無するという意味ではない。
 南無阿弥陀仏全体を仏の御名前と見た時は、南無せしめる阿弥陀仏とよんでいくべきだと、私の恩師の村上速水先生が仰っておられました。南無せしめる阿弥陀仏。
 衆生に信じさせる、衆生に帰命させる。まさしく親鸞聖人の御法義であります。 

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○花岡静人師

 私に阿弥陀さまを合わせるのではなく、
 阿弥陀さまに私を合わせるのです。

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○平野正信師

 絶対に帰らないといけないのに「帰るな」と言われるとつらいのです。
 笑顔で「また会いましょう」と見送ってくれたら安心して帰れる。
 死も似ています。良かれと思った引き留めが残酷なエゴである事もある。
 再会を約束した別れはただ寂しいだけではありません。
 見送る側が不安だと帰る側も不安になります。




 深夜繁華街を意味なく一人で歩く若者にマツコさんが「共感する」って言ってた。
 僕もやってた。
 自分や周りの空っぽさがやるせない時ってある。
 仕事や趣味や異性でその穴を埋めたつもりになっても本当は埋まらんのよ。
 その空っぽは仏様が入る場所で、大事な穴だったって今は思うけど、当時は辛かった。




 生まれてしまった自分も、死んでいく自分も全部受け入れていけるのは宗教しかありません。
 哲学も科学もこの領域には入れない。
 絶対者にゆだねることでしか得られない安心がある。
 死ぬ命を生きる人生は宗教的です。
 信仰はとても本能的。
 信を獲るとは決して見捨てない完全な母を知り、甘えることです。




 同世代の友達連中は時間とお金が無い。始発で出て終電で帰り休みも無い。
 お金も今の生活は出来ても先が見えない。
 そんな状況が現実にあるなら、その状況で可能な心の拠所の持ち方、仏法の聞き方を提示する必要がある。
 仏教って良いかも知れないけど今の生活では無理、って思ってる人はきっと多い。




 「女心と秋の空」と言いますが調べてみると、
 昔は逆で「男心と秋の空」と言っていたんだそうです。なんじゃそりゃ。
 結局、男は女をうつろいやすいと言い、女は男をうつろいやすいと言う。
 じゃあ、「人間心と秋の空」ではどうか?
 と思ったけど、なんかダサいし、使い所も無いですよね。




 仏教は僕の根本部分を変えません。
 愚かで怒りむさぼる、僕の根っ子は変わらない。
 老病死も変わらない。
 仏教は、そんな見たく無い自分の姿、現実を、頷いて聞けるように見せてくれる。
 それで僕の「生き方」は大きく変わった。変わらないままに変われた。
 だから、生き辛い人にこそ仏教を聞いてほしい。




 正義の味方は悪者に躊躇なく殴りかかる。
 正義の鉄拳は無慈悲で残酷、そして自傷行為でもあるんやな。
 と、某・元アイドルのスキャンダルへの罵詈雑言を見て思う。
 正義の見方はいっつも悪者に怒ってるから、心が焼けただれてしんどいでしょうな。
 外側見るとしんどいばかり、内側見たら楽になるのに。




 「死んだら何もなくなる、無になる」って気軽に言うけど、最愛の人の死の場面で「私はどこにいくの?」って聞かれて、同じ事が言えるの?
 「無になる」なんて誰でも思いつく、人の浅知恵。
 それに依っても幸せはない。
 「念仏もうさば仏になる」幸せに死んできた人達が受け取ってきたのは、仏の智慧です。




 世界滅亡の日、盛り上がってますね。
 70億が死ぬ1つの事件か、1人が死ぬ70億の事件か。
 後者なら、毎日誰かの世界は滅びてる。
 自分が自分として生きる世界は自分とともに滅びる。
 どんなに世界が大変な状況であっても、後生の一大事はとても個人的なことだ。




  「守破離(しゅはり)。
 まず師匠に教えられた型を「守る」。
 次に、型を自分に合わし「破る」。
 最後に、型と自分を理解した上で、型から「離れ」自在になる」これは凡人でも高みにいける手順です。
 優れた先達に学んだからといって消えてしまうような個性は、最初から個性では無かったということです。
 
 結局、これが僕の個性です!って僕が思ってたのはただの弱点でした。




 人に迷惑かけない人になって欲しいって、そりゃ「はよ死ね」って言ってるのと同じや。
 迷惑かけんで生きてる人なんておるかいな。
 人間なんか迷惑のかたまりや。
 せめて「迷惑かけた」と省みれる人になって欲しい。
 出来たら、省みれる迷惑なんて氷山の一角やてご縁と仏様に手を合わす人になってほしい。




 幸せに生きる一番のコツは他者を責めないこと。
 でも不安な人や自尊心が低い人はこれが難しい。
 安心と自尊心を育てることが必要なんだ。
 それには親的存在が必要だけど、親的存在が無かったり喪失してしまった場合は信仰生活で得る
 「私を受け入れる超越者の存在感」がその心を育てる親的なものになる。




 先にお浄土へ往かれた方を偲ぶ時、悲しい、さみしいとは思うけれど、その方と出あわなければ、悲しいもさみしいも思わないだろうから、悲しさとさみしさの中には出あえて良かったがある。
 人の短い寿命がたまたまその時に重なって会えた。
 ご縁があったんです。
 そして、お浄土で会える縁はすでにある。




 法話って、話し方が上手いとか、漫談としては面白いとか、そんなものは二の次三の次のことで無くてもいいんです。
 一番は、本当のことが聞きたいんですよね。
 その人の味わいを聞いて、私の人生での味わいが深まって、阿弥陀様と一緒の人生を生きてるんだと聞いていくのが法話を聞くということだと思います。
 南無阿弥陀仏を聞いて生きた私は、南無阿弥陀仏をこう味わった、何故なら南無阿弥陀仏ってこういう仏様だからっていう話がききたいんです。




 嬉しくないのが私の心、これが知らされると嬉しくなる。
 コレほんと。




 故人を想う時「化けて出るな」と思えば故人は怪物だし「安らかに眠れ」だと寝たきりだし「良い所にいけ」だと迷子ということになる。
 「夢の世に あだにはかなき身を知れと 教えて帰る子は知識なり」と子を亡くした和泉式部は歌った。
 怪物・寝たきり・迷子と、真実を知らせる善知識とではえらい違い。




 雨に濡れながら雨は降っているだろうかと疑いようがないように
 南無阿弥陀仏が聞こえていながら、聞こえているかな?とは疑いようがありません。
 南無阿弥陀仏を称えながら、称えているかと疑いようがないのです。

 私を場として、今ここに仏の誓いが成就しています。過去でも未来でもなく、今ここ、この私のところで仏様の願いが南無阿弥陀仏となって成就しています。

 「正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし」
 
 お念仏が聞こえるとき
 お念仏もうすとき
 今この私に南無阿弥陀仏がとどき続け、満ちつづけてくださっている南無阿弥陀仏が、私の口からあふれてくださいます。

 仏様とご一緒のお念仏です。ですから、信心は私と別ではない事実です。

 いつか親様に抱いてもらえるだろうというのが信心じゃない。それじゃあ不安でしょうがないのです。
 今、親様に抱いてもらっているのが信心です。だから安心なのです。

 不疑は明日の天気
 人間の確信はどこまでいっても中身がないので、確信もまた疑いの範疇です。
 私と事実が一致していません。

 無疑は今の天気
 こちらは疑いようのない事実。
 私と事実が一致しています。

 今ここにいるこの私に南無阿弥陀仏がとどいてくださっていることには疑いの挟まるスキマがありません。

 「これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり」
 「他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなり」
 信心獲得するのは私の心の問題じゃない。南無阿弥陀仏の六字のこころです。信心は阿弥陀さまのおしごと。私のしごとは報謝です。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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○幡谷明師

 念佛者に相応しい別れの言葉は、『さよなら』より、『またね』でしょう。

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○ひろさちや師

 念仏は「領収書」です。「請求書」ではいけません。
 「請求書」の「いのり」は欲を膨らませいってやがては欲望の奴隷になってしまいます。
  
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○福田祥雲師

 弥陀たのむ 人は雨夜の月なれや
 雲晴れねども 西へこそ行く

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○藤沢量正師

 私たちが「本願他力に生きる」ということは、応答のある人生を持つということです。
                 
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○藤原正遠師

 受けてゆく 力なければ み六字に
 こころも身をも うちまかせつつ
                  



 おまかせが 出来ざる故に お念仏
 口割たまう ことがおまかせ
  



 生きるものは 生かしめ給う
 死ぬものは 死なしめ給う
 我に手のなし 南無阿弥陀仏
         



 いずれにも 行くべき道の 絶えたれば
 口割り給う 南無阿弥陀仏
 
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○深川倫雄師


 真宗というのは、我何をすべきかという説教はせんことになっておる。
 ところが、我々は、我何をすべきかが問題になってしょうがない。
 なら真宗の説教は何かというと、如来何をなしたまうか。これが真宗の説教であります。  




 自己を軽んじ、己を空しくする
          



 お経典に五劫思惟とあるが、これはどういうことか。
 それは、「あんたの考えることじゃない」ということです。
           



 善はこそっとさせて頂くのがよろしいです。
          



 凡夫は「かたち」を愚直に守っていくのがいいのです。
          



 「私は今、八六、七歳ですが、毎朝おつとめをしながら楽しいです。若い頃は朝のおつとめが面倒で(笑)。口では言われんですがそうでした。
 ( 中略 )
 どうかすると若い者が「死ね」と言わんばかりのことを言う。死なれるか!この老境こそ味わい深いものなのだ。
 うんとうんと人生の味、お念仏の味がわき出てくるものなのだ。
 これからお互いもっともっと身体に気をつけて、長生きをして、長生きするだけでなくて、その老境の中へ私の声となった「ナマンダブ」の味を楽しんでくれたら良いですね。
 宗教というものはそういうものです。理屈をいうものではありません。」
 (深川倫雄和上のお説教  (専徳寺HPより))




 会読は問いが大切です。
 大きな問題を問わず、その大きな問いを小さな問いで組み立てて、大きな問いの最後の答えまで積み上げてゆくがよいです。
 それが親切な問いで、よくわかる問いです。
 宗学はご開山聖人の御心を学ぶものです。
 世間一般の学問とは異なります。自分の知恵を誇るのでなく、聖人のこの文はどんなお心であろうかと伺います。
 仏教の大切なことは師資相伝です。
 御開山聖人は私共の師です。
 私共はご開山聖人の弟子です。歎異抄第二章は聖人が私の言に従えと怒っていらっしゃる所で、それがいやなら親鸞を去れというはげしい気魄です。
 仏教は師に服することです。
 教理史の次第で進むとするのは行者の態度ではありません。それは評論の学問です。
 宗学は宗祖の仏教をお慕いして自らが歩むものです。
 頭にあるのは祖師聖人のお言葉です。死ぬまで静かに黙々とその道を歩きましょう。
 それはご仏前に額づきながらの一生です。
 宗学はお慈悲の中の遊びです。
            深川倫雄和上(俵山安居出席者に宛てた手紙より抜粋 ※前半を略しています)




 忙しい準備を経て花見が始まります。
 たとえそれまでの準備がどれほど忙しかろうとも、いざ花見が始まってしまえば誰が‘急いで’お酒を呑もうとするでしょうか?
 道中は急ぎもしたけれど、目的地に着いたら悠然としているのが目的の中というものなのです。
 ご開山は、
   しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
   すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべし。
     (『教行信証』行巻 註釈版聖典p. 189)
 とおっしゃいます。
 これは目的地の風光です。
 この娑婆で信心称名の人となったらもう目的を達しているのです。
 慌てることはないのです。
 これから先は、私にやどってくださった名号功徳が私の上に逐次あらわれていくのだからそれを歓んでおけばよいのです。




 坊さんはつまらんです。法をわざわざ言葉に変えて人に語らんといけないから。





 私の話はせんがええ。聞くのは、全部阿弥陀様の話。これも心掛けるがいいです。
 せめては、五年心掛けますとね、自分を抜きにして親様を喜べる心が育って来ます。
 そういう内々の努力はご恩報謝です。 

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○藤秀翠師

 欲や怒りや愚痴が出る 出る度毎にみ仏の
     慈悲の心に立ち返り 力の限り生きて行く

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○舟川宏顕師

 家に帰る時。
 明りのついた家に帰るのと、暗い家に帰るのでは全く心持が違います。お経に無量光明土とあるのは、「あなたの帰るべきところがあるのですよ」ということを教えて下さるのです。

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○細川巌師

 善凡夫は善をする縁に遇うた凡夫であり、悪凡夫は悪をせざるを得ない縁にめぐり遇うた人である。
 (中略)
 全ての人、一切の人はもとは皆凡夫であって、何に遇うかという縁によって善凡夫、悪凡夫となる。
 善凡夫とは遇大の凡夫、遇小の凡夫、悪凡夫とは遇悪の凡夫である。 (中略) 人間には色々な人がいて、優れた人もあり、劣った人もあるように見えるが、もとは皆凡夫なのである。
 その凡夫が何に出遇うかという縁によって上品(菩薩道の人)、中品(二乗(にじょう))、下品(悪人)の人となるという。




 この凡夫という言葉は仏の言葉である。
 これは仏の言葉であることを知らなければならない。
 凡夫とは、生死に往来して遂に涅槃に至ること能わずと、人間を凡夫と言い当てた仏の言葉である。
 仏の智眼にうつる人間の姿を凡夫という。

 人間が自分を自嘲して俺は凡夫じゃと言い、また人を罵ってお前のような凡夫はというのが凡夫ではない。
 凡夫とは如来の眼にうつる人間の姿に対する痛み、悲しみの言葉を表わす。
 韋提に対して釈尊が痛まれたのが「汝は凡夫なり」という『観経』の言葉である。
 全て仏教の言葉にはそのような趣があって、悟りの世界から見られたわれらの姿を言われている。
 従って地獄、餓鬼、畜生とか、浄土とか極楽とかいう言葉も人間の発想ではない。
 仏の眼から見た人間の状態を言い当てた仏の言葉である。




 「煩悩具足の凡夫」とは仏の深い痛み悲しみの言葉である。
 もしも自分の上に「煩悩具足の凡夫」という言葉が自己肯定でなしに、「煩悩具足の凡夫、南無阿弥陀仏」と、懺悔の言葉、念仏となったならば、それは人間の発想ではない。
 人間は居直るか、落ちつかぬか、どちらかの態度しかない。

 それなのに煩悩具足、煩悩具縛と目が覚めてあやまり入る(懺悔)ことになるならば、それは人間の発想ではない。
 仏心の成立である。
 われらは煩悩が根本となって迷いの心、迷いの言葉、迷いの行いが出てくる。
 煩悩具足(惑)が行い(業)働きとなって出てきて、苦しみとなる。
 これを惑業苦という。
 そこに生死を往来して、涅槃に到ることが出来ないわれらの現実がある。
 この私の姿が「煩悩具足の凡夫、南無阿弥陀仏」「煩悩具足の凡夫、お粗末なことでございます」となるならば、それは仏の智慧の眼にうつる私の姿がそのまま私の眼にうつっている。
 その私の眼、私の心は、人間のものでなしに涅槃の心、如来の心を与えられたのである。
 それを信心といい信心の智慧という。
 信心とは、何かを信ずるというのではなく、如来の悟りの世界を我々に与えられることである。
 如来のお心が私の心となる。念仏が私に成立して私の煩悩具足の姿を痛み悲しみ、「申しわけありません南無阿弥陀仏」となる。
 これが信であり、そのまま仏心の成立である。

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○星野元豊師

 私にとって浄土とは実在的存在の前に作用的存在である。 
         



 (衆生が阿弥陀仏のいのちを生きているということは)
 心情的に認めたくないということはいたし方ないことである。
 しかし、それは認識的にはその人が無知であるか、誤謬であるかのいずれかである。
 しかもそれは単に認識上の問題にとどまらない。
 このことはその人が自己の人生を正しく生きるか、誤って生きるかということであり、更にまた、その人生を豊かに安慰に、喜びに満ちて生きるか、あるいは恐怖におののきながら、もがき苦しみ、生きるかといことに帰着する。  『浄土の哲学』

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○本多静芳師

 目的が達成された時だけが、つまり自分の意図した通りになった時だけが、自分にとって幸せなんだ、自分の思い通りになった時だけが価値があるんだと思うのは、どうかということなんです。
 自分の作ったそういう物差しにとらわれていく限り、自分の人生を、そのための手段や道具のようにしてしまうのではないでしょうか?
 人生というのは、生まれてきてよかったなあ、生きていてよかったなあ、生きてるなあってことを、本当に実感する、そのこと自身が、「人生の目的」だということ。
 人生は何かのためだけにあると思ってしまったら、かえって自分で自分を苦しめるのはないかと思ってそんな話をしたんです。

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