←長明寺HPのトップへ  真宗の法言U 

諸師の言葉(あ・か行)      諸師の言葉(さ・た行)
諸師の言葉(な・は行)     諸師の言葉(ま行以降)
真宗の法言T          真宗の法言U
『経典』から          祖師先哲方の御文
仏教・宗教関係の言葉T     仏教・宗教関係の言葉U
ことば(1)          ことば(2) 
ことば(3)          ことば(4)
ことば(5)          ことば(6)
ことば(7)          ことば(8)



 本願海 その水 流れて 浄土真宗





 男は度胸、女は愛嬌 、坊主はお経 






 具体的な法話がよい
 見える法話。
 はたらいてる姿が見える法話。






 仏さまから手紙(南無阿弥陀仏)が届いたので受け取って(信心)、
 封を切ると「私が(他力本願)あなたを(悪人正機)救う(往生浄土)ことが決まりました(正定聚)。と書いてありました。





 尊いものをいただき、その尊いものを拝むという行為によって、その人自身の心の内が尊くなっていく。





 奥山に枝折る莱は誰がためぞ親を捨てんといそぐ子のため






 味方の中に敵を見るのが凡夫の煩悩
 敵の中に味方を見るのが菩薩の慈悲






 行き先が分かれば 行き方が分かる
 往き先が分かれば 生き方が分かる






 「人事を尽くして天命を待つ」は人間の倫理
 「天命を聴いて人事を尽くす」こそ仏縁の賜物





  人の目の中ではなく
  如来の眼の中で生きる





  浄土に生まれると
  確信できた時
  その人はそこで
  生まれ直すのです      五木寛之





  人に育てられ   人になり
  仏に願われて  仏になる




 通夜は人生の卒業式 葬式は浄土の入学式





   下がるほど
   人の見上ぐる
   藤の花





   念仏に
   季はなけれども
   藤の花
       正岡子規





 死してなお 親は子を育てる 
 親なればこそ 亡き子に育てられる





 一室の行者





 深い水ほど波立たない
(近所のお寺さんに飾ってあった言葉。)





 短くても やさしい言葉を
(近所のお寺さんに飾ってあった言葉。)





 生きたくても 死なねばならない
 死にたくても 生きねばならない





 また一つ
 年を賜り
 み仏の
 のりを聞けよの
 命なりけり





 ありがとうと言える よろこび





 『世は無常』亡き人が残した 最後の教え





 日常生活の中で大切にする三箇条
「か(感謝)」
「え(笑顔)」
「で(出遇い)」

 お寺で大切にする三箇条
「も(聞法)」
「み(名号)」
「じ(称名)」





 順縁に育てられ
 逆縁にも育てられ





 砂糖の甘さは砂糖が教えてくれ、塩の辛さは塩が教えてくれます。
 如来を教えるのは如来自身です。





 覚めてより 後よりありと 思うなよ 夜よりまもる 母の手枕





 かたつむり 行く先々に わが家あり





 我が目にて 月を眺むと 思うなよ 
 月の光で 月を眺むる





 病気が治るのがご利益ではない
 どんな病気になってもいただいたいのちを生き抜くことができる
 これがご利益だ  
                     …あるお寺の掲示板にあったという言葉





 小さきは、小さきままに、花咲きぬ、野辺の小草の、安けさを見よ





 月かげの いたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ        高田保馬





 渋柿の 渋そのままの 甘さかな  





 「おかげ」ということは、逆から考えた方がよくわかる。





 「仏さまにお参りするとお釣りがくる」
※御門徒さんの故井手次雄さんのことば。お宅に伺った時、次雄さんの義娘さんが、「生前の父の口癖でした…」と紹介して下さいました。次雄さんはいつもこう言いながら、家のお仏壇に手を合わせられておられたそうであります。南無阿弥陀仏。





 「念仏はいい匂いがする」 
※山口県のA師がおっしゃってた、(亡くなった)父の口癖





 「はい、背負ってもらっています。」
※ある御門徒さん宅でのこと。私が「どうですか、最近?」とたずねたところ返ってきた言葉。「背負ってもらってます…」ああ、ありがたい言葉だなと思いました。





 「おかげさまです。」
※上に引き続いて。何気ない言葉ですが、この言葉もとても素晴らしい日本語ですよね。





 「ありがとう。」
※どんな言葉よりもあたたかい言葉なのかもしれません。





 「もったいないことです。」
※この言葉も。





 眠れない夜を
 嘆く者は多いが
 目覚めた朝に
 感謝する者は少ない





 教えをいただくと
 迷いのこころが
 「洗」われる
 のではなく
 「現」れてくる





 この墓に夫が居るとは思わねど 何処にも居ないので ここに来る





 逝きし人 皆この我に還りきて ナモアミダ仏と 称えさせます





 自分に説教。「よく聞けよ、わが心!」





 悲しいとは、私が悲しいということであり、悲しくていいということ。
 つらいとは、私がつらいということであり、つらくていいということ。
 苦しいとは、私が苦しいということであり、苦しくていいということ。
 嬉しいとは、私が嬉しいということであり、嬉しくていいということ。
 有難いとは、私が有難いということであり、有難くていいということ。
 生きるとは、私が生きるということであり、生きていくということ。
 死ぬとは、私が死ぬことであり、死んでいくということ。
 南無阿弥陀仏によりそえばこそ。
 南無阿弥陀仏がよりそってくれればこそ。
 南無阿弥陀仏。
 南無阿弥陀仏。





 異なるのを嘆くのではなく、正しいことを讃嘆するのである





 「死ぬ」と「死んで往く」は違います。間違いのないいのちの「往く先」「生まれていく先」を持てるかどうかです。 





 己已巳(おのれはすでにしてへび)





 如来已発願廻施衆生行之心也 (如来已に発願して衆生の行を廻施したまふの心なり)





 驚け。驚け。驚け。





 大悲往還





 「若院さん、今日も朝から「大切な御参り」がたくさんありますね。」     
※お盆のある朝、法務に行く前にお会いしたある御門徒さんからかけていただいた言葉。「大切な御参り」…何気ない言葉ですが、本当にしっかりと受けとめなければならない「ことば」であろうと思います。御参りが多い盆の時期は特に…。いや、いつでもか。





 みほとけの誓いの響きたかければ
 およばぬ隈はよになかりけり





 安らかに母に抱かれてほほえむは
 弥陀たのむ身の姿なりけり





 食 わねば死ぬ緊急の課題だ  食っても死ぬ永遠の問題       直柱会カレンダーより





 浄土真宗とはひとつの共同体であり、
 ひとつの生き方であり、
 ひとつの信念体系であり、
 ひとつの典礼的行事であり、
 ひとつの伝統であり、
 それらすべてであって、かつそれ以上のものである。





 「経」は称えものですが、同時に聞きものです。
  南無阿弥陀仏も称えものですが、同時に聞きものです。




 
 愚痴念仏 機嫌念仏 炉端(ろべ)の花





 死ぬでなし 生まれかはれる浄土ありと
 聞けばたのしき 老いの日々なり





 宗教とは不思議なるものの前に頭を垂れること





 松影の 暗きは月の 光かな





 私がこの私としての人生を完成させる為には、この病気は不可欠なのです。





 全徳施名





 遺産なき
 母が唯一のものとして
 残しゆく死を
 子らようけとれ
               ある母の句





 今、
 いのちが
 あなたを
 生きている





 おろかになるほど、のびやかになる





 人は去っても その人の笑みは消えない。
 人は去っても その人の声は残る。
 人は去っても その人のぬくもりは残る。
 人は去っても その人は拝む掌の中に帰ってる。
            あるご住職の三回忌を機に御門徒さんに配られた言葉。





 朝な朝なに 仏教(みおしえ)仰ぎ 浄き勤めに いそしむわれら
(『朝の歌』)





 あなたを抱きとって捨てない、という阿弥陀仏の仰せをそのまま聞く。それが信です。信とは「無疑心」であり、浄土真宗はこの信心一つであります。
 私たちは、そのまま救ってくださる阿弥陀仏に、そのまま救われていく以外にはないのです。そして、この信を頂いた後の人生は、報恩の念仏と共に歩んでいく人生です。





 「念」は「今の心」、今まさに仏と溶け合っている心。





 凡夫には徹頭徹尾無我になることはできないかもしれない。
 だから、「飯を食うのではなく、ご飯を頂く」
 こんなところから、始めてみては。





 「さんずい」に「戻(る)」と書いて「涙」、「さんずい」に「立(つ)」と書いて「泣(く)」。





 「さんずい」に「去(る)」と書いて「法」。悲しみを悲しみとして受け止めていけるのが仏法。でも、それが本当の意味で「さんずい:なみだ」が「去る」ことになるのではないでしょうか。





 人は「出会い」によって広がり、「別れ」によって深まるものです。





 大切な方を偲ぶということは、温ねるということ。





 死よりも力あるものは何か。それは死に臨んでほほえむ人である





 子供しかるな 来た道じゃ
 年寄り笑うな 行く道じゃ
 来た道行く道 一人旅
 これから行く道 今日の道
 通り直しのきかぬ道 





 親が拝めば 子も拝む





 語ることより まずは 聞くこと





 南無阿弥陀仏というのは、「我は阿弥陀のいのちに帰って 阿弥陀のいのちを生きるものなり」、という一つの宣言





 朝は希望に起き
 昼は努力に生き
 夜は感謝に眠る





 火の車、作る大工は無けれども己が作りて、己が乗り行く





 生きてよし 死してよし





 去りて来らざるは壮んなる齢、来りて去ること無きは衰えるすがた
          ※平安時代に小野小町をモデルにしたといわれている本にあるという言葉らしい





 聖人は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と歎じられたが、これは「我が事」として阿弥陀仏の救いを味わっていかれたということ。
 では、「我が事」として味わうということはどういうことか。それは、阿弥陀仏の発願の中に、自己の姿と、救いの姿を聞いていくということ。
 私が凡夫であり、その私を仏が救う。
 そのことを聞いていくのが、「我が事」として聞いていくということ。





 「ありがたい」と思えなくても、「在り難い」中にいる。





 暗いことを呪うよりも、たった一本の蝋燭でも灯す方がよい





 自ずから然らしむ日々我が生死 今日一日をひたすらに生く   (大渕功師)





 安心してのたうちまわることが出来ます





仏法を聞き おのれの身勝手が思い知らされ
 下がらぬ頭が 自然にさがる





 「損」だ「得」だ・・正義だの不正義だの・・善だの悪だのと区別し差別し続けるのが凡夫の凡夫たる所以だと聞かされ、「邪見驕慢悪衆生」とは私のことですと聞かされ、納得したはずの心が、すぐにひっくり返って、「私は凡夫だけど、もっとひどい凡夫がいる」と。
 「私はましな凡夫、あそこにもっとどうにもならない凡夫がいる」と。実は自分のことは何も悪くないと思い込んでいたのでした。
 ( 中略 )
 凡夫とは平気で人様を凡夫扱いしているこのわたしひとりのことでありました、たった一人このわたしのことでありましたとナムアミダブツに照らされて初めて、金子先生の仰せとそれに感動した永尾先生のお心をいただくことが出来ました。
 あっちの凡夫も、こっちの凡夫もいません。ただわたしひとりが凡夫なのだと教えて下さるのがナムアミダブツです。
 さて、あれから20数年、goshinはいっこうに「ましな人間」にはなれず、泣いたり怒ったり。真夏の厚化粧がよれよれです。
 ただ、「信心を得て浄土へ行こう」と意気込んでいたあの頃と違うのは、凡夫がどう転んでも得られる信心ではなく行ける浄土ではないとナムアミダブツに教えていただける。凡夫とはわたしひとりのことだとナムアミダブツが教え続けて下さる。だから安心して迷い悩み苦しみ悲しむことが出来ます。弱いままで愚かなままで出来の悪いままで安心して生きていけるそんな道をお教えいただきました。
 それなのに、罰当たりなことに、相変わらず、自分は正しく、人は間違っていると、心の中で主張しつづけているgoshinです(^^ゞ
              ある坊守さん(ネットではgoshinさんと名乗られてます)の「ことば」





 念仏申す人の道は全てが真であり、全てが自由である。





 他人の言を聞かぬは我慢、自分の言を聞かそうとするは驕(きょう)慢。





 われ生くるにあらず、他力によって生かされているなり。
 われ死ぬるにあらず、他力によって引き取られるなり。





 助かるとは、如来が私の主となってくださること。





 真宗では家を出てする修行はないが、家の仕事がみな修行。





 「またお浄土でお会いしましょう」。
 今生最後のお別れの言葉。
 さよならではなく、またねの世界。
 言葉がなくなる場面で、言葉がある幸せ。





 大変、お世話になりました。
 真実の私は何時までも存在しますので、
 今後ともかわらずのお付き合いをよろしくお願いします。





仲 間
 死という
 絶対平等の身にたてば
 誰でも
 許せるような気がします
 いとおしく
 行き交う人にも
 何か温かいおもいが
 あふれでます
     (鈴木 章子「癌告知のあとで」)





 ありがとうは、「有ること難し」です。自分の感情うんぬんを超えた世界。
 「自分」にとって有益なことだけを受け取るならば「ありがとう」ではありません。
 順縁逆縁ともに菩提
 愚痴念仏 機嫌念仏 炉辺の花





 たのませて たのまれたもう弥陀なれば たのむ心もわれとおこらじ





 井戸のぞく子を呼ぶ親は命がけ





 今・ここで・私が





 またあえるじゃないか、なんまんだぶ。
 もうおうてるじゃないか、なんまんだぶ。
     (前の年に交通事故で父親を亡くした娘さんからの便りであった  O師の法話より)




 こちらからお願いする宗教じゃないんです。
 むしろ仏様が「どうか救われてくれよ」「念仏してくれよ」と働きかけてくださる。
 この働きを受け取った時それが念仏となって口に出てくるのです。
 「何故この口から念仏が出るのか」を聴聞していくのが大事なんです。





 道草も 寄り道もして 里帰り     釈昇空





 煩悩を柔らかに迎えよう。
 怒りを欲を柔らかに迎えよう。





 「安心してのたうちまわることが出来ます」
          ※ある御同行の言葉





 一輪の花を飾りて 今日もまた
 浄土へ帰る 旅を続けん





 一泊の旅は楽しい
 永遠に帰れない旅もある
 油断すべからず





 仏教の基本を学びに人間に生まれてきたのではありません。生死を離れて、浄土に往生するためです。





 「存在するもの」などない。
 すべては「存在せしめられる」もの。





 子育てとは、ご先祖さまへの恩返しです。       西元宗助(念仏者 教育学者)





 子供は親の小言を聞いて育つのではなく、親の後ろ姿を見て育つのです。

一、「はい。ありがとう」という言葉
一、背骨を立てる姿勢
一、他を拝むこころ

 この三つを親がきちんと実践する…それが最も大切な子育てです。
  
      西元宗助(念仏者 教育学者)





 西元先生は大学教授であり、足利先生も西本願寺の名門出身であり有名な先生でありますが、そういう世間的な肩書きよりも、お二人にもっとも相応しい肩書きは『念仏者』であります。
 今回来て頂く塚本さんと、名刺の肩書きについて話していた時に御自身の肩書きについて「『念仏者』、いや『念仏者であろうとする者』」と語られておられました。
 その深みのある言葉から、私の軽薄さが照らし出されました。
          あるHPより





 今聞いてすぐに忘れる身なれども、忘れぬ親のあるぞうれしき





 自分を偉い奴だとたか上りしていると、如来さまを小さく見下してしまう。
 自分をつまらない奴だと見下すと、如来さまを遠く私から離れたお方だと見誤ってしまう。
 我を見るなかれ、自己を語るなかれ。
 仏法は如来讃嘆ただひとつ。
 “いつでも私を抱きとってある如来さま”
 “南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏”





 「庄馬さん、あなた御信心いただいて何か変わりましたか?」
 「はい、全てが本物になりました。
  煩悩具足の悪人じゃと言われてもうなずけるし、阿弥陀様に抱かれお浄土参りが決まった尊い身だと言われてもうなずける。
  全てが本物になりました。」





 『人は去っても その人の言葉は去らない
  人は去っても その人のぬくもりは去らない
  人は去っても拝む手の中に帰ってくる』
            中西智海師





 人間とは、どこかに本物を探して生きているのです。
 (中略)
 このまことの世界とは、人間、それがなければいきられないもの、光と寿(いのち)です。
 この光とは、私の歩く道を照らすもの、人生の行き先を映し出し、見通しを明らかにする智慧の世界であります。
 寿とは絶対に裏切らない愛、つまり慈悲の世界であります。
 この光と寿きわみなき仏、阿弥陀仏こそまことの世界なのであります。
                  中西智海





 浄土真宗とは、「南無阿弥陀仏のお念仏を、如来のお呼び声」と頂く宗教です。
 如来様から呼ばれる世界に、迷いも・不安も・孤独もありません。





 みほとけに 召さるる良き日 近づきて
       誰にも言わず ひとり微笑む
              ある御同行が命の末期の入院中に詠まれていた歌





 皆人の心の底の奥の院、探してみれば本尊は鬼





 「痛み」があるのは不便
 でも、不幸ではない。





 夜、布団に入ってその日一日を思い返す。
 他人の欠点を挙げだすと、
 眠れなくなる。
 自分の欠点を思い出し、
 「お恥ずかしいことでありました…南無阿弥陀仏」と嘆ずると、
 ぐっすり眠れる。
 不思議なものだ。





 信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪業の機中に味わう





 仏道は求めるだけでなく、日々歩む道でなければならない。
 縁起は机上で語るだけでなく、自ら生きるものでなければならない。
 僧伽は内輪でなく、万人に向かって開き続けるものでなければならない。
             まなざし仏教塾さんのHPより





 目を閉じて感じてみよう こうして存在することの不思議を
 庭に咲く小さな花も 緑の木々も 吹きわたる風も
 青い海も 太陽も 一切が不思議

 人間を支えているものは 人間でないものも支えている
 生命を支えているものは 生命でないものも支えている
 生を支えているものは  死も支えている
 これは私たちの置かれている世界の根源的な事実

 無条件に許され 一切は賜ったものであると思えたとき
 ちっぽけな心に 尽きることのない喜びの泉が湧き出る
 嬉しい時 悲しい時 つらい時 さびしい時
 不思議の真っ只中で いのちの根源へナムして生きる
              志慶眞 文雄(医師  まなざし仏教塾代表)





 不思議なり 本願他力の おはたらき 弥陀同体とは さても尊や      駒沢勝先生の母上の歌
 
 ながながと 迷いの夢に うなされて さめて嬉しや 親の懐         駒沢勝先生の母上の歌





  君あらば語らん事の多かまし、南無阿弥陀仏、我も老いたり
          勝海舟が亡き西郷隆盛(の銅像の完成式)「に晩年送った歌





 愚かなる身こそなかなか嬉しけれ 
 弥陀のみ国に生まるとおもえば  
              良寛和尚





 あさなあさな、仏とともにおき、 ゆうなゆうな、仏をいだきてふす    『安心決定鈔』





 悪人とは誰かの善悪を言うのではなく、あくまでも自覚の問題であるといえます。





 金はためておいてゆく。
 罪は作って持ってゆく。
 法は聞かずに落ちてゆく。
 自分の為に聞法しましょう。
        真田増丸





 他人の悪には裁判官
 自分の悪には弁護士
 それが凡夫





 米まけば、米が生えるぞ、何ごとも
    人は知らねど、種は正直。





 杣人の
 いつしかつけし斧のあと
 松はそれより雪折れぞする





 六字を主(あるじ)とする





 念仏はメリヤスのシャツみたいなものだ。メリヤスとは莫大小、大小莫(な)しと書く。
 初め手をとおした時は、大きかったり、小さかったり、なんだかしっくり身につかない気がするが、着ているままに、伸びたり縮んだり、誰にも彼にも丁度よく合ってくる。
 結局、落ち着くところへ落ち着かせる。
 本願の念仏は、莫大小(メリヤス)で出来ている。
                    池山栄吉





 焼野のきざす夜の鶴、子ゆえに迷う親心、
 親を思わぬ子はあれど、子を思わぬ親はなし。
 ましてわれらの親様は、一々誓願為衆生故、
 一願積んでは衆生のため、一行はげんでも衆生のため、
 衆生故ならこの弥陀は、こおる氷もこおらばこおれ、さかまく浪もたてばたて、
 八寒紅蓮の氷の中も、灼熱無間の焔の中も、衆生一人、弥陀一人、
 実の子じゃもの親じゃもの、八万由旬燃え上がる、焔の中にとびこんで、
 血煙あげて泣くものを、抱いて抱えて摂取して、
 蓮華の御座につれあがり、にっこり微笑う顔見るまでは、
 退くに退かれぬ親じゃぞよ





 阿弥陀様のお慈悲は、私に何も要求されることなくひたすら一方的に注がれる。
 その愛情を全身にあびて、ただ満足でありがたく、いつもほのかな安心感に包まれている。
 どっぷり包まれているから、思い出しても良い、思い出さなくても良い。気楽な南無阿弥陀仏。  
                    あるブログより





 葉を落とし 凛と冬待つ 桜かな 





 いずれにも 行くべき道の 絶えたれば
 口割り給もう 南無阿弥陀仏





 この娑婆世界での救いというものが一体何なのか?
 よく、浄土教は現実逃避で娑婆での救いを説かないと批判を受けます。
 極楽往生を最終的な唯一無二の目的としていては、そのように言われてもしかたありません。
 でも、本当にそうでしょうか。
 娑婆世界では、いろんな苦脳があり、迷いもあります。
 苦悩しながら、迷いながらも念仏という一つの道を歩む…。
 その道を歩むこと自体が、この娑婆世界での救いではないのでしょうか?−





 よき人の仰せにききてみ名を呼べば喚(よ)ばはせたまふみ声きこえぬ         池山栄吉





 病気をして嬉(うれ)しいとは思わないが、有り難いと思うようになった。
 ・・・・・・私の場合は、そのよろこびの心境を味わうのに、六、七年の年月が必要であった。
 ご法義のよろこびもまた、長い間かかって純熟(じゅんじゅく)するものであり、その代わりに、いつまでも決して消えぬ喜びであるように思われる。
              村上速水師





 葬儀で大切なことは、その「死」を他人事とし、或いは日頃「死」の現実を縁起でもない、暗い気持ちになると遠ざける考えしかしていない私自身に対して、
 「もし今夜人生の最後を迎えても悔いの無い人生になっているか」
 と自ら問いかけることです。





 人間は煩悩のかたまり。タドンのようなもので、磨いても美しくならず、細くなり、芯まで真っ黒。磨くのをやめて、火を点じてもらえば、真っ赤な熱を発散し、人に喜ばれる。   真っ黒な石墨に圧力と熱を加えるとダイヤモンドになる。圧力と熱を加えてくれるのは仏である。  
                  岸本鎌一





 迷いとは、米を食って走り回る人間そのものである。死んだ人間は迷わない。  池田勇諦





  先祖のおかげで いのちがある.
  社会のおかげで くらしがある.
  念仏のおかげで よろこびがある
      (ある掲示板より)





「浄土ってよく分からない。親鸞は、死んだ後のことはあまり考えていなかったんじゃないかな」。
極楽浄土は死後の世界ではないと想像している。
「南無阿弥陀仏という状態、南無阿弥陀仏化した『私』という存在があるんだと思う。
信心深いお年寄りは真宗を頼っているのではなく、真宗を生きている。
南無阿弥陀仏的な存在とはそういうことじゃないかな。信心の深い門徒さんを妙好人(みょうこうにん)と呼ぶが、妙好人の生き様が浄土真宗の教えと一致している気がしている」。
        田口ランディ





 私の人生で歩んできた道。
 決して平坦ではありませんでした。
 踏み外しもしました。
 しかし、踏み外したそこも仏の道でした。





 具体的に聞法せよ       伊藤善康師






 「対食の偈」(日渓法霖師)
 粒々皆是檀信 滴々悉是檀波
 (一粒一粒のお米を食べる事は、ご門徒のご信心のおすすめであり、
  滴々の一滴一滴の味噌汁は、ご門徒のご報謝のたまものである)





「この世に生まれてきたかぎり 出遇わねばならない 
 たった一人のひとがいる それは自分自身である
」    広瀬杲師





『禅勝房伝説の詞』
 現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくは、なになりともよろずをいといすてて、こえおをとどむべし。
 いわく、ひじりで申されずば、めをもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、聖にて申すべし。
 住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。
 自力衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずば、自力衣食にて申すべし。
 一人にて申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居してもうすべし。
 衣食住の三は念仏の助業なり。これすなわち、自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。





 極論を言えば、食事を調理するときの心構えができていれば、肉や魚を使用していても精進料理になると思う
          曹洞宗典座T師(『みのり園施設法話の定期便』より)





 生かされて生きる命の尊しや
 名も無き草にも光溢るる





 だれか私に命をくださいと、小さな声で言ってもだれもくれる人はいない。
 どんなに愛していても、どんなに仲良くしていても、如来さまだけがくださる無量寿の命をやさしくほほ笑みながらありがとうございますとお念仏する。
          戸崎達也師(下関市徳応寺)






「私が息をしている」という言葉があります。
「私の力で息をしている」なら水にもぐたまま息をすることができるでしょうか。
「空気が私に息をさせている」というのが正しい言葉です。
 
「私が生きている」という言葉があります。
 正しく言うならば「一切が私を生かしている」と言うべきです。

 太陽や水や空気や大地や親や兄弟や
 友人や近所の人や役場や警察や病院や
 魚や米や野菜や…
 一切が私を生かし続けていると言うべきです。

 自分以外のものが主語となるべきです。
 自分以外のものが主役だからです。

 私がウグイスの声を聞いたのではありません。
 ウグイスの声が私に聞こえたのです。

 私が阿弥陀さまに救われたのではありません。
 阿弥陀さまが私を救って下さるのです…。
 阿弥陀さまが私をご覧になって
 阿弥陀さまが願いを起こし
 阿弥陀さまが浄土を建立し
 阿弥陀さまが迎えて下さるのです

 自分の力はどこにもありません。全て私以外のもののはたらきがあるだけです。 

                          中尾徹昭師





 行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである





 「住職」や「坊守」というのは役職名でも、肩書きでもない。お寺におけるそれぞれの「責任を持ったはたらき」をそのように呼ぶのである。
 決してのさばってはならない。
 お寺を支え奉仕して下さる方々を支え奉仕し、仏法を謙虚に学びつづける姿勢を貫かなければならない。





 満足を字そのままに読むと、「足に満ちる」と読める。自分がしっかりと大地を踏んでいるという意識が、そのまま我が人生の喜びになるということです。





 どこまで落ちても、支えて下さる慈悲の大地がある。
 どこまで上っても、「おかげさまでした」と頭を下げさせて下さる世界がある。





 過去のことはよく覚えていません、未来のことはまだわかりません、南無阿弥陀仏。





 「浄土」をいただくということは…亡くなった大切な方を現在形で語れること。





 論より焼香





 「さわらぬ神にたたりなし」という言葉があるが、「さわらぬ仏も願いあり」と聞かせていただくのが浄土真宗。   




 人生の豊かさというのは、与え合うものではなく、ましてや奪いあうものでもなく、共に育てるもの。
 「あなたと遇えたことは尊いことでした」そういって相手の存在に手を合わせながら。





 現場の教学を構築しなければならない…という声がありますが、100人いたら100通りの現場があるのです。
 医療と医学はどちらも大事。
 医療が実際の御教化の場ならば、医学は教学研鑽であります。
 どちらも大切な現場です。 
                      深川宣暢師






 「愛欲の広海に沈没し、 名利の大山に迷惑」(『教行証文類』)と示されてもしょせん他人事。
 「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず」(『高僧和讃』)と聞いても、うわのそら。
 「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異鈔』)と何度目にしても、そんなこと思えない・・・。
 
 聞き流し、見過ごし続ける。
 言うことだけは一人前で、格好だけは優等生。
 でも、心のなかは無明、迷惑。

 そんな者が、ふとしたことから、わが身の底なし、高上がりを思い知らされる。
 だれでも救われる。
 すでに救われている。
 はい、そうでしたか・・・とはうなづききれずに、悩み苦しんできた。
 アホか、そんなうまい話に誰が乗る?
 そんな心こそが底なしの心、高上がりの思い。どうしようもない。

 それが目当てと聞かされたとき、初めて心が動く。
 動いた心もすぐに元へ。
 それでも、そこが目当てだとはたらき続ける、変わらぬまことがおわします。

  西光 義秀師





 浄土真宗の信心は、お浄土行きの確信を全く必要としない。
 むしろそれが欲しいという思いが根底から取り去られたものです。
            瓜生崇





 面倒に思えるような決まりごとや作法を面倒と思わずに楽しいと思えるようになる事。
 それが「粋」いうもんやないかとうちは思いやす
          吉峯 教範





 老境や 花を見るにも なむあみだぶつ





 念仏往生というのは「念仏したら極楽に行けますよ」っていう行じゃないんですよ。
 念仏申すという所に往生ということが成り立ちますよということです。 近田昭夫師





 今はただ 何思うすべもなし 恩愛の
    きずなを絶ちて 念仏申さん





 なやむこと
   悲しむことも
      慈悲の中





 行き先が分かれば 
   行き方が分かる

 往き先が分かれば 
   生き方が分かる





 真宗教義の上からも、蓮如上人の功績は大です。
 蓮如上人がお出ましでなければ、どれほどの人が親鸞聖人の教えの要が信心であると理解できたでしょうか。
 お念仏を通して、阿弥陀さまがご一緒という安心を頂けたでしょうか。
        藤沢信照師





 御坊さんは合法こそ、自分の言葉でしゃべらにゃならんのです。      福間義朝師





 本日は多くのみなさまにお参り戴きまして有難うございます。
 お一人様 お一人様に深くお礼申しあげます。



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