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真宗の法言T          真宗の法言U
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 南無阿弥陀仏
 声は一つに味二つ
 親の喚び声
 子の慕う声






 私の信心雪だるま
 お天道さまが出ればすぐ融ける
 お天道さまがご信心
      木村無相





 親思う
 心は親の
 心なり






 このままが、うれしゅうて、あたまがさがる
 ようても、わるうても、このまんま
 うそでも、ほんどうでも、このまんま
 あっても、なくても、このまんま
 ふっても、てっても、このまんま
 ないても、わろうても、このまんま
 このままが、ふそくとわ、どうよくな
 このままわ、かわらぬ、かわらされぬ
 おやならこそ、そのままと、よんでくださる
 このままを、このままと、しらぬゆへ
 あちらこちらと、まよいまわる
 おやのおじひが、つよいゆえ、今はあみのなか
 おやもよろこぶ、わたしもうれしい
 おやと二人のひぐらしで
 おやのごくろうきくたび、あさましや、はずかしや
 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ
          ササキチヨノ(ハワイの妙好人  ※鈴木大拙師に乞われて詠んだ歌)





  やせ蛙(がへる)まけるても一茶 これにあり




 
 小さな幸せ見つけたら
 南無阿弥陀仏の花が咲く
 いくつもいくつも見つけたら
 南無阿弥陀仏の花畑





 みほとけに救はれありと思ひ得ば 
          嘆きは消えむ消えずともよし
                             伊藤左千夫





わがこころ くらくしあればみほとけの 光こほしみ やむときもなし     佐藤左千夫





 九十歳にならないとわからんこともあるんだぞ、 長生きをするものだぞ     鈴木大拙





 生きも死にも天のまにまにと 
 平らけく思いしは常の時なりき
                             長塚節





 限りなき
 み光のうちに在る我と
 思えば安き明け暮れにして
             大谷嬉子





 お前はお前で丁度よい
 顔も体も名前も姓も
 お前にそれは丁度よい
 貧も富も親も子も
 息子の嫁もその孫も
 それはお前に丁度よい
 幸も不幸もよろこびも
 悲しみまでも丁度よい
 歩いたお前の人生は
 悪くもなければ良くもない
 お前にとって丁度よい
 地獄へゆこうと極楽へゆこうと行ったところが丁度よい
 うぬぼれる要もなく卑下する要もない
 上もなければ下もない死ぬ月日さえも丁度よい
 仏様と二人連の人生
 丁度よくないはずがない
 丁度よいのだと聞こえた時
 憶念の信が生れます
 南無阿弥陀仏    
                     藤場美津路





 生くる今も 死にての後も われというものの残せる ひとすじの道





 救われてみたら、救われることも要らなかった。





 人を拝む人は人から拝まれる        平沢 興





 わが生よ
 一輪の花のごとく
 一心であれ
 わが死よ
 一輪の花のごとく
 一切であれ
                   坂村真民





 「念ずれば花ひらく」坂田真民】

 念ずれば 花ひらく
 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった
 そうしてそのたび
 わたしの花がふしぎと
 ひとつひとつ
 ひらいていった
                   坂村真民





 蓮如の文体は平凡です。月並みで、陳腐でもあります。しかし、目を閉じて耳から聴くとき、独特の音楽性を感じさせます。せっぱつまった状況下で聴けば、なおさらでしょう。それは決して書斎でひもといて目で読む文章ではありません。批評の対象として研究する手のものでもありません。私は弟が若くして亡くなったとき、その夜、親しくしていた人がその一節を読んでくれるのを聞いて、なんともいえない感じを受けた思い出があります。
 蓮如の「お文」「御文章」といわれるものは、ある状況下においてそれを聴くとき、思いがけない大きな力で人をゆさぶる文章なのです。そのときずばりと胸に食いこんでくる言葉です。
 どのような信じかたをすればよいのか、弥陀の悲願とはなんなのか、自分のようなものでも救われるのだろうか、周囲の迫害のなかでどう信仰をつらぬけばいいか、政治と信仰のどちらにつくか、などなどギリギリの線で悩み抜いているそのとき、蓮如の平凡な言葉が居ような輝きをもって立ちあがってこうるのです。いわば当事者に体ごと働きかけてくる文体と言っていいでしょう。
   『蓮如 −聖俗具有の人間像−』 五木寛之著





 仏教は本来イデオロギー的ではなくコスモロジー的な性質を強くもっている。   河合隼雄





 いま 光がとどいたのではない 光に遇わなかっただけだ   吉岡 妙子





 恋しくば 南無阿弥陀仏と称ふべし 母は六字のうちにこそ住め     道場六三郎の母

※ 恋しくば 南無阿弥陀仏と称ふべし われも六字の中にこそ住め     親鸞聖人(または蓮如上人とも)
※ 恋しくば 南無阿弥陀仏と称ふべし 六字のみ名の中にこそ住め     法然上人




「受け取り方に底が無いとでもいおうか。
 信徒たちは語る人にも左右されず、また、聞く自分にも左右されず、素直に法を受け取りに行く」
      (柳宗悦が称した浄土真宗の門徒の聴聞の様子)





 私は一九四八年頃に本願寺の坊さんに「極楽はあるんですか」とたずねたら、「あるとかないとかという上にあるんです」と答えた。つまり絶対という意味ですが、うーん、うまいこと言ったな、と私は思いました。
     司馬遼太郎





  夢の世にあだにはかなき身をしれと 教えて還る子は知識なり     和泉式部





 たなごころ 合はせてあれば十方に みちあふれたる みほとけのこゑ     中島哀浪





 仏法は実践である
(大阪府泉南市小山貞子さんの言葉 : 加藤幸子先生の御法話より)





 煩悩どんとこい
(大阪府泉南市小山貞子さんの言葉 : 加藤幸子先生の御法話より)





 この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 
 踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる
 迷わず行けよ 行けばわかるさ
                                 清沢哲夫(のちの暁烏哲夫)
                               (※アントニオ猪木が好んだ詩)





 老友の死を いたみつつ入浴す
   急なことにて 忘れずにゐる       中野
※長明寺御門徒の松熊八重子さんの死を悼まれた、中野要さんという方の歌。松熊さんの御月忌にお参りに行った時に偶然出遇った句であります。)





 落ちてくれるな 落としはせぬぞ
 落ちりゃあ 阿弥陀の身がたたぬ





 ありがたくなくとも、
 「在り難い」中にいる。





 南無阿弥陀仏のおこころを、聞かせていただくのです。





 如来さまの家に帰ろう。私が生まれるより先にこの家に来て、私を待っていてくださった家に帰ろう。





 弥陀の真実信、これを名号に形づくりて、それ至徳の尊号を衆生に施す。
 衆生この名号をきく処に仏の真実心を全領す。その相は疑蓋無雑の明信より外なし。
 この信心当体仏智なる故に、信心といふはまことの心とよむなりとのたまふ、
 かくのごとくに信心に二義ありといえども、信相の義をもって当体となす。
 願文に信楽と説き、成就文に信心歓喜とのべたまふものこれなり。
 その真実の義は至心を信行の中に摂在する義辺によって、信体に約して釈を設けたまひたるものなり。  
              浄満院円月




 生きてよし 死してまたよし 法の身は  今日の一日を よろこびに生く     曽我是精師  
 




 なにもかも まかせまつりて 南無阿弥陀仏  この身このまま すくわれてゆく       梅原真隆師  





 年々に わが悲しみは 深くして いよよ華やぐ いのちなりけり                     岡本かのこ





 小さな手で 
 焼香する姿
 愛らしく
 美しい
           あるお寺の掲示板より





 法の道 知るも知らぬも渡すべし





 南無阿弥陀仏
 力ならぬ法ぞなき
 たもつ心も我とおこさず





 仏は仏にあらず。ゆえに仏なり。(※法性法身は方便法身へ   智慧は慈悲へ)





 恩は忘れず、恨みは忘れる





 自分は空っぽで見事に何もない。
 南無阿弥陀仏のお働きだけがあって、空っぽの私に満ち満ちている。
 南無阿弥陀仏にお任せして、何という気安いことかと思う。
 称える念仏も阿弥陀様のもの。
 すっぽり包まれて、まさしく本願の『海』だな〜。  なむあみだぶつ 
                  あるお念仏者さまのHPより





 五劫思惟の苗代に 兆載永劫のしろをして
 一念帰命の種おろし 自力雑行の草をとり
 念念相続の水を流し 往生の秋になれば
 このみとるこそうれしけれ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
                        親鸞聖人作と言われる 田植え唄





 一切の人々にとって、自らのすべてを投げうって、無条件でつかむことのできる法があるとすれば、それはどのような法だというべきでしようか。
 この宇宙の全体を無限に包んで、いかなる時、いかなる場においても、この私を無条件で摂取する、そのような法だといえるでしょう。
 そのような法の出現において、私ははじめて、私の全人格的な場で、その法を信じる、「南無」という一声の念仏が、私に称えられることになります。
 けれどもよく考えてみますと、私が「南無」できたということは、私が南無するより以前に、すでに永遠の古より、この私を南無しつづけていた、その法のはたらきがあったから だといわねばなりません。
 法自体が大いなる願いをもって、私を摂取しつづけていた、法の側からの「南無」のはたらきがあったからこそ、この私にその法を南無する心が生じたのだといえるのです。 
 親鸞聖人が称えられた一声の念仏「南無阿弥陀仏」とは、まさしく聖人における、このような「法」との出遇いであったのです。
 さて、親鸞聖人の信心になぜ迷信的要素が全くないのでしょうか。
 それは聖人自身がこのような法に包まれている以上、どのような「ご利益」もまったく必要でなくなったからです。
 過去・現在・未来、いかなる時、いかなる場においても、何一つご利益を求める必要が無い。
 だから一切のご利益信仰が、まったく問題にされていないのです。
 このような意味から、親鸞聖人の教では、迷信・俗信的な宗教は、根本的に否定されているのですが、それに加えて求道的宗教も、祈願的宗教も、方便としては認めながらも本来的には否定されるのです。
 いまこの場における「如実の信」があれば、そのような宗教もまた不必要になるからです。                                   .
 『なぜいま念仏か』この世が無常であるかぎり、私たちの人生の一切は不条理であり、不確かだといわねばなりません。
 その世の中で人々は、確かな幸福な人生を得ようと一心に努力しています。
 多くの人々は、科学の力によってその幸福の実現を期待しているのですが、そこには限度があらわれます。
 そこでそれに加えて、人々は宗教の力によって幸福になろうと願うのです。
 けれどもいずれにしても最終的には、それらの幸福の求めは、無惨にも破れてしまいます。
 ここに現代人の悲劇が見られます。
 破れる幸福の求めではなくて、心そのものが、無限に輝く法に生かされる。
 その法に生かされているもののみが、やはりこの現実を、一歩一歩、確かに歩みうるのではないでしょうか。                
                    あるお寺さんのHPの御法話から。





 我を生みし 母に甘える 心地して
 阿弥陀如来に 我は 甘える





 「お寺に手伝いに来ておくれ…」 (お寺になかなかお参りに来られない方に言う言葉)





 もう一度 叱られてみたい 親の声   ある御同行さんが父親の50回忌に捧げた歌





 問いを持たない人生ほど
 空しいものはない





  そのまんま
  照らし出されて
  咲きほこり     柴田隆幸





  本当に神仏を
  拝んでいますか
  欲望を
  拝んでいませんか





 誰のための南無阿弥陀仏なのか…。
 何のための南無阿弥陀仏なのか…。
 ここをよく聴いていかなければならないのです。





 六尺(ろくしゃく)病床是(これ)道場





 今が一番、丁度よい





 「おかげさま…」
 そうつぶやくと元気がでる。
 なんでだろう?





 正しい仏教の相続とは、伝統や習慣、教団の大小、人の多少には関係がない。
 突き詰めれば、私自身が生きる死ぬるということに迷いはないのかというところを自ら問うていく。
 そして、これに出会ったゆえに、私は人間に生まれたことを手放しで有難く思える。これをいただいたために、禅宗のように悟りきったわけではなくて、人生には迷いや苦しみも多いが、それでいながら、それを超えて大安心をし、人生ありがとうと終われるような、そういう心境に恵まれたということが、私は大事ではないかと思うわけであります。
           西光義敞師





 四面が鏡の部屋に迷い込んだ犬は、そこに無数の犬を見た。
 彼は目の前の犬を威嚇した。
 すると、全ての犬がにらみ返した。
 やがて彼にことの全てが知らされた。
 彼は目の前の犬に微笑みかけた。
 すると
 全ての犬が微笑み返した。
                 福間義朝





 仏と私たちが別々に存在して、それが何かの拍子にであうのではないということです。 
 仏とであった我々が凡夫であり、凡夫だという目覚めを与えて下さったはたらきを仏と呼ぶのです。
 そこにだけ仏がいらっしゃる。
 同時に成立するのです。
 「仏にであった凡夫」というのが「わたし」の中身なのです。
 その出会いの瞬間が「南無阿弥陀仏」と表現されているのです。              竹橋 太師





 ここではっきりと言っておきたい。仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない。
 それを聞くことによって人間の質が向上するようなものでもない。人間のありのままの姿を知らせ、それを問うものである。
 仏教に出会うことによって見えてくるものに対して、どう生きていくかは、一人一人が決めることなのである。
 こうでなければならないということが一切ないのが仏教である。
 ただ一つ、あなたは仏になりたいのか、と問いかけてくるのである。仏教が私たちに要求するのは、ただそれだけなのである。           竹橋 太師





 「おかげさま」と 言える人生に孤独はない





 人間の眼は光を見つめることはできない。しかし、光に照らされてわが身を見つめることはできる。          広瀬杲師





 御仏の御厨子のうちぞ
   人知らぬわが悲しさの捨てどころなる
               甲斐和里子





 泣きながら 御戸を開けば 御仏は
   たヾうち笑みてわれを見そなわす
               甲斐和里子





 お仏壇は遺されたもののなみだで出来ていると思うときがある        ある僧侶の御言葉





 人の身を渡し渡して 己が身は 岸にあがらぬ 渡しもりかな





 施そう 真心こめて 惜しみなく






 極ノ仏恩報謝ノ情
 清晨幽夜タダミ名ヲ称フ
 慶ブニ堪ヘタリワレ称ヘワレ聞クト雖モ是レハ是レ
 大悲招喚ノミ声ナリ
               大厳師





 われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
 連れてゆくぞの親の喚び声
 行け・来いの中で 忘るる己かな
               原口針水師







今が絶好調         西嘉穂組 M光寺 N師





「思い通りになるようにするにはどうしたらいいのか?」と考えているうちは、しんどい。
 叶うことのない望みだから。
いろんな人に会ったけれど、「人生がまったく思い通りになった」という人は知らない。
 「思い通りにならない人生をどのように生きるのか?」という問いは、 むしろ仏教的であるといえるんではないかと。
 なぜならば、避けることのできない苦しみがある、というのが仏教的な問いの出発点(の一つである)といえるだろうから。
 中平了悟師



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