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 このページでは、蓮如上人の『御文章』をいくつか集めてみました。『御文章』とは八代御門主の蓮如上人が宗祖親鸞聖人の御教えを書きあらわされたお手紙であります。
 “蓮如上人”ウィキペディアフリー百科事典より


(五帖目第十通 :通称・聖人一流章)
聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。
その位を「一念発起入正定之聚」論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とここうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。

現代語訳(宇野行信先生の『聖典セミナー御文章』より)
 祖師親鸞聖人のみ教えのお勧めくださるご趣旨は、どこまでも他力の信心を根本とされておられます。そうなさるわけは、いろいろと多くの諸善万行という自力の行を心にかけないで、ただ阿弥陀如来の御計らいにおまかせいたしますと、如来さまの独りばたらきで、人間の分別、計らいの用もなくなり、必ず浄土に往き生まれる身にしてくださるからであります。このように決定した位を、曇鸞さまは、信心いただくと同時に正しく往生に定まった聚(なかま)の身になるとも、お示しくださいました。そして、その信の上から、自然に南無阿弥陀仏とお念仏を称えることは、如来さまが、浄土往生を決定してくださった御計らいへの御恩報謝のお念仏とたしなまさせていただきましょう。
 まことに畏れ多く、尊いことであります。





(五帖目第十六通 :通称・白骨章)
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
さればいまだ万歳の人身をうけたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや、われや先、人や先、今日とも知らず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすえの露よりもしげしといへり。
さればあしたには紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷族あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
→白骨の御文章について

現代語訳(参考:『蓮如「御文」読本』大谷暢順著)
 人の世の定めなき有様をよくよく考えてみれば、本当にはかないものは、生れ、育ち、死んでゆく幻のような生涯である。まだ人が一万年の寿命を受けたということを聞かない。一生はすぐに過ぎてしまう。
 今では、誰も百年間体を保つことはできない。死を迎えるのは、私が先だろうか、人が先だろうか?今日かも知れぬ、明日かも知れぬ。先に死ぬ人も、生き残る人も、生死の別れは絶え間がなく、草の根もとの雫と、葉の先の露のように、寿命の長短があっても、人はいずれもはかなく死んでゆく………と古書に見えます。
 だから私たちは、朝には若々しい顔つきをしていても、夕方には白骨となってしまう身なのです。現に無常の風が吹いてきて、二つの目がたちまち閉じ、最後の一息が永久に切れてしまえば、せっかくの血色のよい顔も色を失って、桃や李の花のような美しさをなくしてしまうでしょう。
 その時になって、親族の者が集まって嘆き悲しんだとしても、もはやなんの甲斐もないでしょう。
 そのままにしてもおけないので、野外に見送り、夜半に荼毘に付せば、煙となってしまって、ただ白骨のみが残るのです。悲しみはとても言い尽くせない。
 だからこそ、人の世は老少不定のはかない世界であるからこそ、いずれの人も、早く後生の一大事を心にかけて、深く阿弥陀仏をおたよりして、念仏申すべきであります。




(五帖目第五通 :通称・信心獲得章)
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
このゆえに、南無と帰命する一念のところに発願回向のこころあるべし。
これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。
これを『大経』(上)には「令諸衆生功徳成就」と説けり。
されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもって消滅するいはれあるがゆえに、正定聚不退の位に住すとなり。
これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃を得」といへるはこのこころなり。
この義は頭流一途の所談なるものなり。
他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるものなり。
あなかしこ、あなかしこ。




(五帖目第一通 :通称・末代無智章)
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。




(五帖目第十一通 :通称・御正忌章)
そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし。
また不信心のともがらもあるべし。
もってのほかの大事なり。
そのゆえは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。
人間は不定のさかひなり。
極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
さあ当流の信心のかたをもって先とせられたるそのゆえをよくしらずは、いたづらごとなり。
いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。
それはおほきにおぼつかなき次第なり。
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。
南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいふなり。
そもそも信心の体というは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。
阿弥陀仏といふはすなはちこれその行」(玄義分)といへり。
「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。
これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
あなかしこ、あなかしこ。




(一帖目第二通 :通称・出家発心章)
当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。
さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。
これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
『和讚』(高僧和讚・九六)にいはく、「弥陀の浄土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といへり。
「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。
つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懴悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。
さてこのうへには、たとひ行住座臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。
これを真実信心えたる決定往生の行者とは申すなり。
あなかしこ、あなかしこ。
あつき日にながれるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞをかしき  文明三年七月十八日




(五帖目第九通)
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。
たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆえに、「南無」の二字は帰命のこころなり。
「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。
このゆえに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。
されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。
このゆえに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもうべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。




(五帖目第十八通)
 当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたんみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。
これさらに疑ふべからざるものなり。
かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。
さてこのうへには、なほわが身の後生のたすからんことのうれしさをおもひいださんときは、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。





(三帖目第九通)
 そもそも今日は鸞上人のご明日として






 最後…
 「
仏法は、若きときにたしなめ」(蓮如上人)


 「火の車つくる大工はなけれども
 己(おの)がつくりて
 己が乗りゆく」      (蓮如上人)




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