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安心論題(殿試勉強用のようなもの)

 ここでは、「安心論題(殿試勉強用のようなもの)」と題しまして各論題を1100字から1200字程度に自分なりに纏めたものを載せました(“お書き上げ”の時間(30分)内に書くことが可能な文章量)。良い「まとめ」ではありませんが、参考程度にしていただければ……。
 
共に少しずつ浄土真宗を学び味わっていきましょう!
(30分の時間内に書ける文章量を目指したため、省略した箇所も多いです。注意してください。また、文章に間違い等がありましたらすみません。)

※目次
【聞信義相】
【三心一心(信願交際)】
【歓喜初後】
【二種深信(信疑決判)】
【信心正因】
【信一念義】
【タノムタスケタマヘ】
【所帰人法】
【機法一体】

【十念誓意(必具名号)】
【六字釈義(帰命義趣)】
【念仏為本(正定業義)】
【行一念義】
【称名報恩】

【正定滅度(即得往生)】
【往還分斉】
【平生業成




【聞信義相】

謹んでご論題聞信義相を按ずるに
【題意】第十八願成就文に「聞其名号信心歓喜」とある中の聞・信の意味・関係を考察し聞即信であるということを明かにする。
【出拠】
聞其名号信心歓喜(本願成就文)
【釈名】聞とは如実の聞。信とは第十八願の信心、無疑の心。義相とは意義と相状。聞信義相とは名号の正しいいわれを聞くということと他力の信心ということについて、それぞれの意味するところとそのあり方ということ。
【義相】
 聖人は聞其名号について、「言聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞也。言信心者、則本願力廻向之信心也。(信文類)」と解釈され、「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききてうたがふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらわす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて、うたがふこころのなきなり(一念多念文意)」と示される。また、この成就文の聞とは名号の意味・いわれ(=名義)にかなった如実の聞であるが、第二十願文の「聞我名号」とある「聞」は不如実の聞である。
 (十八願の)聞について何を聞くかといえば、仏願の生起(凡夫の為に本願が立てられた)本末(法蔵因位のときの発願修行が正覚成就したこと)であり、これは、名号のいわれを聞くことである。
 そして、どのように聞くかといえば、「無有疑心」である。聖人は疑心を、自力心、信罪福心と示されるが、「無有疑心」とは他力の信心である。仏願の生起本末の聞き方(如実の聞)がそのまま他力の信心なのであるから聞即信となる。
 また「聞即信」には二つの方向の見方がある。一つは、信をもって聞をあらわすというものである。第十八願の聞とは聞くままが、真実の「信」となる如実の聞であって、「仏願の生起本末」を素純にうたがいなく(無有疑心=信)領納する聞であることをあらわす。「言聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞也。言信心者、則本願力廻向之信心也。(信巻)」とあり、「きくといふは、本願をききてうたがふこころなきを聞といふなり。(一念多念文意)」とあるのがそれである。二つは、「聞をもって信をあらわす」というものである。これは、「また、きくといふは信心をあらわす御のりなり(一念多念文意)」を根拠とするのだが、十八願の信心とは、念仏が役立つと聞きはげむ二十願の信ではなく、名号のいわれを如実に聞くことが、そのまま私の信心として成立しているということである(他力回施)。
【結び】第十八願成就文の聞とは、仏願の生起本末という名号のいわれを、そのまま受け入れるということであり(無有疑心)、それは聞即信である。したがって「聞(名号のいわれをそのまま受けいれる)」ほかに信はないのであり、また聞かれる名号がそのまま信心となっているのであるから(信じて~しようとする信ではない)、その信心はまた他力回向の信心であるという意味が顕れるのである。
と窺います。



【三心一心(信願交際)】

謹んでご論題三心一心を按ずるに
【題意】本願文に説かれる至心信楽欲生の三心と、浄土論にある一心との関係を考察し、三心は一心におさまるということを明かにする。
【出拠】
至心信楽欲生我国(大経) 世尊我一心(浄土論) 信巻三一問答 略典問答分
【釈名】至心とは、真実心。信楽とは、疑蓋無雑。欲生とは、決定要期。一心とは、浄土論では無二心であるが、聖人では三心に対する一心、すなわち信楽を示す。
【義相】
 信巻三一問答は字訓釈と法義釈の二つで成り立つ。前者で聖人は、三心はともに疑蓋無雑であり、「真知、疑蓋無間雑故、是名信楽」と明示して、疑蓋無雑とは信楽に他ならないことを述べ、三心即一心の意味を明かにされる。後者では、三心が誓われるのは、一心の広大な徳義をあらわすことだとされるが(機無円成回施上一として)、これは信楽一心に真実の智慧と慈悲の徳をそなえているから信心が正因だということである。
 本願文の三心はもともと衆生において語られるものであるが、如来廻向ということを示すために、さまざまな立場から解釈される(約仏の三心・生仏相望の三心・約生の三心)。
 約仏の三心とは、智慧と慈悲によって衆生を救いとることに何の疑いもないという仏の信楽が成立しているとするものである(二心成一)。
 生仏相望の三心とは、悲智円満の名号にすべてをゆだねるのが衆生の信楽とするものと(仏二生一)、至心は仏の真実心、信楽は衆生がその真実を領受する無疑心、欲生は信楽に具わっている決定要期の心とするもの(仏一生二)である。
 約生の三心とは、「至心と欲生を信楽に具わっている智慧と慈悲の徳であるとする見方」「(三重出体から)至心が真実心、相は疑蓋無雑、欲生は義別」「至心を“心を至して”と読み、信楽を形容する語と解釈して信楽の信じぶりを示すものとし、欲生を信楽の義別とする見方」があるが、どの場合も至心欲生が信楽におさまるとする(一心摂二)。至心と欲生の二心はもともと信楽一心におさまっているものである。
 また、聖道門と区別するため、信楽を願生心という言葉で表現する場合があるが、これは欲生ではない。また、高僧和讃には「信は願より生ずれば」とあるがこれは、仏の願心(信巻別序)である。
 三心即一は本願の固有であるが、成就文には一念の語はあっても一心の語がない。そこで聖人は成就文の意をうけてあらわされた浄土論の一心の語を用いて三心即一の意味を明かにされたのである。これを、合三為一は論主の釈功という。
【結び】第十八願には至心信楽欲生という三心が示されているが、至心と欲生の二心はもともと信楽一心におさまっているものであるから、他力信心はこの信楽一心のほかはないのである。
と窺います。



【歓喜初後】

謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。
【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念
【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。
【義相】
 真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。
 信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。
 初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。
 字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。
【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。



【二種深信(信疑決判)】

謹んでご論題二種深信を按ずるに
【題意】他力信心のあり方について。善導大師は観経三心中、深心を釈して「機の深信」「法の深信」という二種の深信として示されるが、これらは二種一具であることを考察し、迷いの世界を出て悟りに至るのは、ただ如来の願力にまかせることによるということを明かにする。
【出拠】
言深心者、即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没常流転、無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生、無疑無慮、乗彼願力定得往生。(散善義・深心釈)
二者深心、即是真実信心。信知自身是具足煩悩凡夫、善根薄少流転三界、不出火宅。今信知弥陀本弘誓願、及称名号下至十声一声等、定得往生、及至一念無有疑心、故名深心。(往生礼讃・前序)
【釈名】二種とは、機と法のこと。深信とは、大師が観経の深心を深信之心と解釈されたもので、他力信心のあり方のことである。散善義でいえば、「一者…」と「二者…」の二種の深信をいい、前者は「機の深信」といい、後者は「法の深信」という。
【義相】
 聖人は観経の三心に隠顕を見られるが、ここでは他力の三心という意味における深心、すなわち信楽を機と法の二種に開いて二種深信とされたものとする(愚禿鈔に深信を他力信心と示される)。
 信機とは、救いのはたらきを受ける私たちの本来のすがた(性得の機)を信知し、「無有出離之縁」「自力無功」を知ることであり、それは捨自捨機である。信法とは、私たちを救う如来の願力のすくい(摂受の法)を信知し、他力全託と知ることであり、それは帰他託法である。そして、二種深信は捨自即帰他、捨機即託法の関係にある。 
 この深信は二種一具であり、二種一具のまま初後一貫する。だから、前後起も二心並起もない。また、この二種深信は聞信義相の論題における仏願の生起本末と重なる(仏願の生起を聞く:機の深信、本末を聞く:法の深信)。
 法然上人は、深心を解釈されて、「生死之家以疑為所止、涅槃之城以信為能入」と、二種深信について示され信疑決判され、願力に乗託することこそが信であり、乗託しないのが疑であることを示して、迷いの世界に止まらねばならないかの違い目は、本願を信ずるか疑うかによることを明かにされた。
【結び】二種深信は本願の信楽一心を二種に開いて示されたもので、迷いの世界を出るために役立つものは何一つとして持っていない私が、ただ阿弥陀仏の願力によって救われていくことの信知である。したがって二種深信は二種一具であり、この信は初後一貫するものである。
と窺います。



【信心正因】

謹んでご論題信心正因を按ずるに
【題意】真宗は唯信正因であり、本願に信心と称名が誓われているが、称名は信相続の易行であって、往生成仏のまさしき因は信心であることを明かにす。
【出拠】
不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになほかたし(正像末和讃)
正定之因唯信心(正信偈)
この他、信巻を中心に多数。
涅槃真因唯以信心(信巻)
【釈名】信心とは、広く言えば、第十八願の三心であり、それはそのまま疑蓋無雑の信楽一心であり、成就文の信心歓喜とある信心。正因とは、正当の(まさしき)因という意味。正因と似た言葉に業因があるが、業因とは、因となるはたらきそのものをあらわす言葉であり、直接には名号をさす。名号はすでに完成してるが、業因としてこれを領受しなければ往生成仏は決定しない。信心以外にまさしき因はないということをあらわすのが、信心正因ということ。
【義相】
 阿弥陀仏の救いの力・はたらきそのものを法体といい、私たちの衆生のところではたらいている力という観点で検討する場合を機受という。第十八願には、機受の全相が示されている(信心・念仏・往生)。
 十八願には信心と称名念仏が誓われているが、信心が正因であり、称名念仏は信後の相続である。何故信心が正因になるかといえば、第十八願の信心は名号領受の信心だからである。名号には法蔵因位の大願大行、いいかえれば弥陀正覚の果徳全体が具せられている。この名号を衆生が領受した相が信心であるから、名号の全徳が衆生の上にめぐまれているのであり、名号を領受したところで往生即成仏の因が決定するといわねばならない。本願文には乃至十念とあるが、乃至は一多不定をあらわす語である。これはこの行為が仏果を得ることについて何の役にも立たないことを示している。また、成就文には信心のみが出されている。これは救いが私のところではたらくかなめ(機受の極要)を示している。
 信心正因の論題によって二つの意義が顕される。一つは称名念仏は正因ではないこと。二つは、十九・二十願の自力往生の法義に対して、他力往生の法義は唯信独達であることを明かにするものである。
 またこの信心正因というのは、往生だけでなく成仏の正因であることもあらわす。故に聖人は信心を、「報土の真因」とも「涅槃の真因」ともいわれ「菩提心」とも「信心仏性」ともいわれるのである。
【結び】本願の救いとは、称名念仏という私たち衆生の行いが役に立って成立するものではなく、南無阿弥陀仏を信じる信心一つを正因として、往生即成仏という救いが決定するものである。
と窺います。



【信一念義】

謹んでご論題信一念義を按ずるに
【題意】本願成就文の「一念」について聖人の説示の意味を考察し、往生成仏が決定するのは、名号を聞信する一念の時(信一念)であることを明かにして、信心ひとつが往生成仏の因であることを明確にする。
【出拠】
凡就往相回向之行信、行則有一念、亦信有一念(行巻)
夫按真実信楽、信楽有一念。一念者、斯顕信楽開発時剋之極促、彰広大難思慶心也(信巻)
聞其名号 信心歓喜 乃至一念(大経)
【釈名】信とは、信楽であり、「無疑心」ということ。「一」とは「極促」、「念」とは「時剋」の意味。極促の解釈について従来二説ある。一つは「延促対」。略典には「就獲得往生心行時節延促、言乃至一念也」とあるが、この場合の促とは「ちじまる」という意で、極促は「ちぢまりきった状態」となる。二つは「奢促対」。行巻には「奢促対」とあり銘文には「機に奢促あり、奢はおそきこころなるものあり、促はときこころなるものあり」とあるが、この場合の促とは「はやい」という意で、極促は「はやさの極限」となる。このように二つあるが、略典は乃至一念の釈であり、行巻は諸善との対比、銘文も信心そのものについての説示ではない。よってここでは延促対で言い、乃至一念の乃至が延で、一念が促の極まりになり、信一念(時剋の極促)とは、信心のはじまりの時、本願に対して疑いの晴れた最初の時をいう。
【義相】

乃至一念の乃至は一生涯にわたる信心の相続を意味し、一念とは信心が開けおこる最初の時をいう。成就文では、信一念の即時に往生すべき身に定まることを即得往生住不退転というのであり、これは受法得益同時をあらわす。受法と得益が一念同時であれば、その間に衆生の三業の造作は介入せず、唯信正因にきわまるというべきである。
 また、この信一念においては一念覚知の主張があるが、救いは信心を頂いているかいなかであり、決してその時を覚えているかいないかによるものではない。何故なら、覚知を条件にするのであれば、それは意業が往生成仏の決定に関与することになり、信心正因の法義にそむく見解となるからである。
 成就文の一念は本来「時剋の一念」であるが、聖人は信巻に心相についても解釈されている。この場合、「一念」とは、「無二心」という心の姿になり、これは無疑心ともいいかえられる。この無疑の心相は信心のはじまり(信一念)から存在するのであり、同時に「広大難思の慶心」といわれる心であって、真宗の信心とは無念無想というような心でないということも明かにされるのである。
【結び】本願成就文の「一念」とは「信の一念」をあらわすもので、信心のはじまりの時を意味する。そして信心のはじまりの時が往生成仏の決定する時であること、つまり受法と得益が同時であることは、往生成仏を決定するものは信心のほかにはないことを示すものである。
と窺います。




【タノムタスケタマヘ】

謹んでご論題タノムタスケタマヘを按ずるに
【題意】蓮如上人の「たのむ」「たすけたまへ」という表現は、衆生の方から如来に向かってお願いするのではなく、阿弥陀仏の勅命をそのまま受け入れて、素直にしたがう有様を示すものであり、それは聖人の教えと相違するものではないこと明かにする。
【出拠】
御文章に頻出するが、一例として、「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへともうさん衆生をば」(五帖目第一通・末代無智章)
【釈名】「タノムタスケタマヘ」とは、「たのむ」と「たすけたまへ」という二つの言葉それぞれの意味と、両者が組み合わさった時の意味を問題にする。現代語と異なり、古語の「たのむ」は、「たよる」「まかせる」という意味がある。また、「たすけたまへ」とは「必ず救う」という阿弥陀仏の本願を受け入れて「(お心のままに)おたすけになってください」と領納することを意味する。そして、「たすけたまへとたのむ」とは、「(お心のままに)おたすけになってくださいと、たよりきってしまう」という意味である。
【義相】

 聖人は、六字釈で「帰説」の語に「よりたのむなり」と左訓を付けられる。これは、信巻に、「憑大悲弘誓、帰利他信海」とあり、「憑」を「たのむ」と訓ませておられることからして、私たちが仏に対して「依り、憑む」という意味になる。また、唯信鈔文意には「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」とあるように、聖人の「たのむ」は他力の信であることが理解できる。
 蓮如上人は、たのむを「たよる」という意味で用いられ、また、他の箇所では「たすけたまへとたのむ」と表現されているものを「たすけたまへと信ず」(三帖目第二通)と述べられる。この他、「帰する」を「一心一向にたのみ」(二帖目第七通)と表現され、また、五帖目第六通には正像末和讃を引用して、「弥陀をたのむとは、選択本願を信ずることだ」と説示され、上人の「たのむ」は帰命・信順の意味だということが理解できる。
 「たすけたまへ」が命令や懇願になるのは、発言する側に、「してほしい」という欲求がある場合であって、相手の意志表示を受けての「~してください」という発言であれば、それは許諾になり、希願請求とは異なる。六字釈に「言発願廻向者、如来已発願回施衆生行之心也」とあるが、「たすけたまへとたのむ」とは、阿弥陀仏の勅命を受け入れて、これに信順する意味なのである。
【結び】蓮如上人の「たのむ」「たすけたまへ」という表現は、衆生の方から如来に向かってお願いする希願請求のではなく、阿弥陀仏の勅命をそのまま受け入れて、素直にしたがう許諾の相を示すものである。

と窺います。



【所帰人法】

謹んでご論題所帰人法を按ずるに
【題意】信心の対象が南無阿弥陀仏の名号なのか、あるいは阿弥陀仏という佛体なのか、という問題を考察して、阿弥陀仏はそのまま名号であり、名号がそのまま阿弥陀仏なのであって、名号と阿弥陀仏とは区別するべき二つのものではないことを窺い、名体不二の名号が信心の対象であることを明かにする。また、阿弥陀仏を信じると表現されていても、阿弥陀仏に救いを求めて、お願いするという信を意味しているのではないことを明かにする。
【出拠】
一、信心の対象を阿弥陀仏とする文
帰命無量寿如来南无不可思議光(正信偈)
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもて本とせられ候。そのゆへは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば(五帖目第十通・聖人一流章)
二、信心の対象を名号とする文
聞其名号信心歓喜(本願成就文)
聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり(一念多念文意)
【釈名】「所帰」とは、「帰せられるもの」ということで、帰命の対象、信の対象を意味する。「人」とは阿弥陀仏であり、「法」とは、阿弥陀仏の私たちを救う力・はたらき、すなわち名号南無阿弥陀仏である。「所帰人法」とは、帰命の対象、信の対象(所帰)が阿弥陀仏(人)か名号(法)かという問題である。
【義相】
 阿弥陀仏はその正覚の果徳全体を名号に施し、衆生に回向されるのであり、その名号は仏体の果徳を全うじて衆生に聞信されるのである。「況我弥陀、以名接物」とあるように、名号は覚体の徳を具して、覚体は名号を離れない。十七願文に「咨嗟称我名」と誓われているものが、成就文では「讃嘆無量寿仏威神功徳不可思議」と述べられ、それを承けた十八願成就文に、「諸有衆生聞其名号信心歓喜」と示されるように、阿弥陀仏と名号とは切り離すことができず(名体不二)、別々のものとして考えるのは誤りである。
 が、どちらかを主とするとすれば、名号を主とする。なぜなら、真宗の信心とは、十八願の信心であり、成就文には「その名号を聞きて」とあるように、十七願においてほめたたえられている「我名」(名号)を承けた信心だからである。また、行巻で顕される名号が、信巻で顕されている信心の対象として見ることができるからである。そこで、所帰は名体不二の名号であるといわれる(名号聞信)。また、帰命・信心の対象が阿弥陀仏であらわされたりする場合も、決して阿弥陀仏に救いを求めて願うという意味ではない。
【結び】真宗の信心の対象は、名体不二の名号である。したがって、阿弥陀仏を信じるといっても、名号を信じるというも、意味は同じであり、名号聞信(信順無疑)の他はない。
と窺います。



【機法一体】

謹んでご論題機法一体を按ずるに
【題意】機法一体という用語は種々の意味に用いられるが、この論題は、蓮如上人が示された機法一体という言葉の意味を探ることによって、衆生の信心(機)と阿弥陀仏のはたらき(法)とが別々のものではないことを明かにする。
【出拠】
しかれば、南無の二字は衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆへに機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり(三帖目第七通)
 その他、四帖目第八通、十一通、十四通にも機法一体とい言葉が出ている。
【釈名】この論題での機とは信心のことであり、それは、法体に対する機受の意味である。機受には念仏と信心があるが、ここでは信心をいう。法とは、私たちを救う阿弥陀仏はたらきのこと。一体とは、一つのものであるということ。よって、機法一体とは、信心と阿弥陀仏はたらきは、別々のものではなく、一つのものであるということを意味する。
【義相】
 機法一体という用語は安心決定鈔に見られ、そこには、「往生正覚一体の機法一体」、「色身功徳の機法一体」、「彼此三業不離一体の機法一体」など種々の機法一体が示される。
 これに対し、上人の機法一体は、南無阿弥陀仏について南無と阿弥陀仏の二字と四字とに分けて解釈される場合(拠勝為論)と、六字全体について解釈される場合(剋実通論)とがある。
 二字四字の分釈では、南無を衆生の信心、阿弥陀仏を仏の救はたらきとして示される。つまり、衆生の信心である「南無」と阿弥陀仏の救いのはたらきである「阿弥陀仏」とが一つの南無阿弥陀仏として成立していることを示されるのである。
 六字全体の解釈では、六字皆機と六字皆法の二つがある。六字皆機とは、衆生の信心は阿弥陀仏の救いの力・はたらきである名号を本質としているということを示されている(三重出体)。また、六字皆法とは、南無阿弥陀仏の六字全体が阿弥陀仏の衆生を救うはたらきであることを示されている(六字釈)。
 このように、事実からすれば六字全体が衆生の信心であり、また六字全体が阿弥陀仏のはたらきではあるが、南無阿弥陀仏という言葉の意味からいえば、南無の二字は衆生の信心をあらわす言葉であり、阿弥陀仏の四字は阿弥陀仏のはたらきをあらわす言葉であるということができる。
 また、機法一体の一体とは本来一体である。信心は衆生自らがおこすものではなく、阿弥陀仏の力、はたらきによって成立しているのであり、別の言い方をすれば、衆生を信ぜしめ救いとる法として成就されてあるものが機法一体の南無阿弥陀仏である。
【結び】信心と法は、本来一つのものであり、衆生の信心は仏のはたらきによっておこるものであって、自らがおこすものではない。
と窺います。



【十念誓意(必具名号)】

謹んでご論題十念誓意を按ずるに
【題意】第十八願には、「至心信楽欲生我国乃至十念」と誓われている。私たちの救いの成立は、信心一つなのに、なぜ本願に乃至十念が誓われているのか阿弥陀如来のおこころをうかがう。
【出拠】
第十八願の「乃至十念」
【釈名】善導大師は「乃至十念」を「称我名字、下至十声」(観念法門)、「及称名号、下至十声一声等」(往生礼讃)と言いかえ、法然上人は「念声之義如何。答曰。念声是一」(選択集)と示されるのである。聖人は両師を承けられた。
 十念の十とは遍数であり、念とは称名念仏である。誓意とは、阿弥陀仏がこの乃至十念を誓われた意図ということである。
 また、聖人には「乃至」に四つの解釈(乃下合釈・兼両略中・一多包容・総摂多少)があるが、結局は、「乃至」とは念仏の一多不定を示す言葉だということになる。
【義相】
 十八願文は機受の全相を示されたものであるが、信心(信楽)とは本願成就の名号を領受した相であり、称名(乃至十念)とはその名号がそのまま口業にあらわれたものである。聖人も、信巻には「真実信心必具名号」と示され(ここでの名号は称名念仏のこと)、他力の信心は必ず称名念仏をともなうとされる。そしてその念仏は法体大行である名号のひとりばたらきであるから、能称無功で、往生浄土の因とはならず、心持ちからいえば報恩の念仏である。
 では何故このような念仏が誓われているのであろうか。宗祖は、『尊号真像銘文』で、「徧数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして」と仰り、『一念多念文意』では、「本願の文に乃至十念とちかひたまへり、すでに十念とちかひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを、いはむや、乃至とちかひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを (中略) 易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり」と示さる。
 つまり、信心獲得の上からは、数の多少や時節を問わない、極めて行じ易い称名念仏を相続させようとお誓いくだされているのであり(信相続の易行)、そしてそれは阿弥陀仏の大慈大悲であるということである。
【結び】
称名念仏とは、本願成就の名号(南無阿弥陀仏)を領受し、それが口にあらわれた能称無功(名号のひとりばたらき)の念仏であり、称える心持ちからいえば、如来の救いの中におさめとられているという報恩の念仏である。そしてその念仏が本願に誓われているのは、信相続の易行としてたやすく、たもち続けられるためであり、それは阿弥陀仏の大慈大悲のあらわれである。
と窺います。



【六字釈義(帰命義趣)】

謹んでご論題六字釈義を按ずるに
【題意】南無阿弥陀仏の意義を窺い、名号には阿弥陀仏の願行・悲智が円具されているのであり、名号は衆生を往生成仏さしめる大行であり、名号一つで救われていくことを明かにする。
【出拠】
今此観経中十声称仏、即有十願十行具足。云何具足。言南無者即是帰命、亦是発願廻向之義。言阿弥陀仏者、即是其行。以斯義故必得往生(玄義分)
爾者、南無之言帰命。…中略…是以、帰命者本願招喚之勅命也。言発願廻向者、如来已発願回施衆生行之心也(※ここは、タノムタスケタマヘの最後“=許諾だということ”でも用います)。言即是其行者、即選択本願是也(行巻)
「言南無者」といふは、すなわち帰命とまふすみことば也、帰命はすなわち釈迦弥陀の二尊の勅命にしたがひてめしにかなふとまふすことばなり、このゆへに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願廻向之義」といふは、二尊のめしにしたがふて、安楽浄土にむまれむとねがふこころなりとのたまへる也。「言阿弥陀仏者」とまふすは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなわち法蔵菩薩の選択本願也としるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころ也(尊号真像銘文)
【釈名】「六字」とは南無阿弥陀仏。「釈」とは大師や聖人のご解釈、「義」とは意義。「六字釈義」とは、南無阿弥陀仏の六字についての、大師や聖人のご解釈の意義ということ。
【義相】
 観経下下品には、臨終時の十声の称名念仏が説かれるが、摂論学派ではこの称名念仏は唯願無行であると主張した。これに対して大師は願行具足を明かにされた。すなわち、南無は帰命であり発願廻向(浄土への要期)であり、阿弥陀仏がその行であるとされたのである。
 大師が六字を二字四字に分けて解釈されたのに対し、聖人は六字全体を、帰命・発願廻向・即是其行の三面から明かにされた(行巻)。つまり、南無阿弥陀仏とは、如来の呼びかけであり(=本願招喚之勅命)、大慈大悲心そのものものであり(=如来已発願廻向衆生行之心)、また、万行円備の智徳(=選択本願)であると明かにされたのである。大師の六字釈は対外的な六字釈、聖人の六字釈は悲智円具の南無阿弥陀仏を明かにする六字釈である。
 また、聖人は銘文では、衆生側からの解釈で六字釈を示され、帰命・発願廻向を衆生の心として示され(即是其行は選択本願)、衆生の信心となってはたらく南無阿弥陀仏であることを明らかにされる。
 銘文では帰命とは信心であると示されるが、大師が南無を帰命と示されたときの帰命も衆生の信心を意味している。帰命には帰命身命、帰還命根、帰順勅命という解釈があるが真宗は帰命勅命である。
【結び】大師は、願行も南無阿弥陀仏に完成されているとされ、聖人は、行文類においては、成仏に必要な智慧心も慈悲心も南無阿弥陀仏となって完成されているということを明らかにされ、銘文では、衆生の信心となってはたらく南無阿弥陀仏であることを明かにされる。名号南無阿弥陀仏のはたらき一つで救いが成立することを明かにするのが、この六字釈義である。
と窺います。



【念仏為本(正定業義)】

謹んでご論題念仏為本を按ずるに
【題意】念仏為本という言葉は、聖人がお示しになった信心正因と矛盾するものではなく、また称名正因とは異なることを明かにする。
【出拠】南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(選択集)
【釈名】「念仏」とは称念仏名。「為本」の「本」とは根本の意味。「念仏為本」とは、念仏こそが往生の業因であるという意味である。
【義相】
 選択集には、「念仏為先」となっている本もあるが、真宗では「念仏為本」とし(本典後序を根拠にして)、双方に意味差はない。また、「往生之業念仏為本」という語は、もともと往生要集の文であるが、法然上人はこの念仏を、『要集』念仏証拠門に基づいて、他力念仏と解された。
 他力念仏とは、本願成就の名号(南無阿弥陀仏)を領受し、それが口にあらわれた能称無功(名号のひとりばたらき)の念仏であるが、これは上人が、『選択集』標宗に「南無阿弥陀仏」といい、三選の文に「依仏本願故」といわれるところからもうかがえる。また、上人は「往生之業念仏為本」という言葉で選択集全体を称名念仏という行でまとめられたが、これは、聖道諸宗に行行相対されたからであり、聖人も「念仏諸善比挍対論」(行巻)と、その対応を示される。
 ところで、往生之業とあるが、業因とは“はたらきそのもの”ということである。他力の法義で阿弥陀仏の“はたらきそのもの”といえば法体大行の名号であるが、機相でいえば称名でも信心だともいえる。上人は称名で正定業を示されるのであるが、これは善導大師の「一心専念弥陀名号、行住座臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業順彼仏願故」(散善義)を承けられたものである。
 このように、善導法然両師はともに称名正定業を語られているのである。が、両師の主張は、称えるという行為に往生させる力・はたらきがあるという主張ではないく、あくまでも、阿弥陀如来の救いの力・はたらきを念仏で示されるものである。選択集では、阿弥陀仏が称名念仏を選び取られた理由として、難劣と勝易の二点が上げられている。そして、その勝については、「名号是万徳之所帰也」と言われる。易しいということは、行為において論じられているが、数の多少、能力によって価値が変化しないという点からいえば、称えるという行為に価値を認めていない。
 また、法然上人も信疑こそが迷悟の岐路であることを示しておられ、念仏為本は決して信心正因と相違するものではない。
【結び】法然上人の念仏為本は、阿弥陀如来の救いの力・はたらきを念仏で示されるもので、称えるという行為に価値を認めるものではなく、信心正因と相異するものでもない。
と窺います。



【行一念義】

謹んでご論題行一念義を按ずるに
【題意】称名の初一声に大利を得るという義について窺い、称名と諸行とを対比して、本願の法こそが最易・最勝の法であることを明かにする。
【出拠】
凡就往相回向行信、行則有一念、亦信有一念、言行之一念者、謂就称名徧数顕開選択易行至極(行巻)
乃至は称名の徧数のさだまりなきことをあらはす。一念は功徳のきわまり、一念に万徳ことごとくそなわる、よろづの善みなおさまるなり。(一念多念文意)
其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍、乃至一念。当知、此人為得大利。則是具足無上功徳。(大経)
【釈名】行とは造作進趣の意味である。真宗では行とは名号(大行)であるが、名号は衆生を運載し(造作)、仏果に進趣せしめるから行というのである。一とは最初の意味で、念は称念の意味である。行一念とは、仏回向の名号が衆生に領受されて、それが称名となって活動する最初の一声という意味である。
【義相】
 聖人は、行一念と信一念を示される。本願成就の名号は衆生に領受され信心となり、口業にあらわれて相続の称名になるのであるが、信一念とは、信心開発の最初の時に、往生成仏の往因円満する義を明らかにし、行一念とは信心獲得後の最初の一声に無上大利を具すという義を明らかにする。
 大経には、本願成就文・三輩段・弥勒付属の三処に「一念」の語がある。聖人は本願成就文の一念を信一念とされたが、弥勒付属の一念は、諸行難行に対し本願の法を行であらわされ遐代に流布されるものだとされ、行一念された(三輩段の一念については特に触れられていない)。
 弥勒付属の文の無上大利は、有上小利(聖道門)に対比され、本願法(名号法)の最易・最勝をあらわす。行一念釈では、最勝の義は明かにされてないが、すべて阿弥陀仏の救いの力によるという面から考えれば最勝であるといえる。行一念釈では、称名念仏において無上大利が語られているが、これは名号のはたらきを念仏のところで語ったものであり、称えるという功によって利益を得るというものではない。
 行一念とはもとは時間的概念を意味しないが、もし時間的に言うとすれば、信の一念、行の一念の順になる。また、聖人は、行相についても行一念を言われる。この場合、一念は無二行を意味する。阿弥陀仏の名を称念するほかに余行をまじえないという本願念仏の行相をあらわす。
【結び】行の一念釈は、本願の念仏が諸行の法に超え勝れていることをあらわすものである。これは、名号のはたらきを念仏のところで語ったものであり、称えるという行為によって利益を得るというものではない。
と窺います。



【称名報恩】

謹んでご論題称名報恩を按ずるに
【題意】本願には信心と称名とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であり、称名は、心持ちからいえば、報恩感謝の称名であることを明かにする。
【出拠】
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩(正信偈)
爰久入願海深知仏恩、為報謝至徳、摭真宗簡要恒常称念不可思議徳海(化巻・真門釈)
【釈名】称名とは、称念仏名。ここでは信後の念仏(乃至十念)のこと。報恩とは、名号を称える心持ちを示すもの。感謝の思い。
【義相】
 本願には信心と称名が誓われているが、称名は「乃至」と限定されず、成就文には信益同時が示される。つまり、信心が正因であり、念仏は正因ではない。称名念仏はその本質からいえば正定業であるが、心持ちからいえば報恩行である。
 七祖の上でみると、龍樹菩薩は『易行品』に「人能念是仏無量力功徳、即時入必定、是故我常念」といい、これは本願成就文の意を述べたものと言われるが、「念是仏無量力功徳」「即時入必定」という信心・得益の後に、「是故我常念」という称名を示される。これを、道綽禅師が安楽集に智度論を引用し念仏の意義として報恩のあることを示されていることと併せ考えれば、「是故我常念」は称名報恩を意味しているとみることができ、聖人は「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」の四句を作成された。
 その他、化巻には「無念報彼仏恩」とある。この文は善導大師の礼讃の文であるが、そこでは「若欲捨専修雑業者、百時希得一二、千時希得三五。」とあり、雑業を修する人が往生することの困難さが示された後、その理由の一つとして先の文が挙げられている。そして、このように自力諸行・自力念仏の人に報恩のおもいがないということは、他力念仏の人には報恩のおもいがあり、他力念仏は報恩の念仏であるということを意味する。
 称名が阿弥陀仏への報恩となる理由については、仏徳讃嘆と仏化助成の二つが挙げられる。が当然、称名するときに、仏徳讃嘆であるとか仏化助成であるといった心持ちで称えるという意味ではない。また、どれほど努力して念仏をはげんでも、それを功にしようとする心がなければ、それは決して自力として否定されるべきものではない。
【結び】称名念仏という行為は、決して救いの因(たね)として役立たせようというものではなく、ただ阿弥陀如来の恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものである
と窺います。



【正定滅度(即得往生)】

謹んでご論題正定滅度を按ずるに
【題意】浄土真宗の法義は、現生・此土において正定聚となる利益をえて、来生・彼土において滅度の利益をえるのである。この二つの利益ははっきりと区別されなくてはならず、現生・此土において、わずかでも滅度の利益をえるのではないことを明かにする。
【出拠】
設我得仏 国中人天 不住定聚必至滅度者、不取正覚(第十一願文)
【釈名】正定とは、正定聚の略、正定聚とは必ず成仏することが決定しているなかまという意味。他力念仏往生は往生即成仏の難思議往生であるから、聖人は正定聚を往生決定とも示される。滅度とは、煩悩を滅し、生死海を度るということで、仏の悟りを開くこと。
【義相】
 四十八願中、正定聚と滅度とが誓われているのは第十一願であるが、この文では彼土での正定聚ということになっている。浄土での正定聚という説示は、その他浄土三部経や七高僧の論釈にも多く見られる。
 ところが聖人は、「獲得金剛真心者 (中略)十者入正定聚益也」と示し、信一念に正定聚に入るという利益をえると明かされている。なぜなら、阿弥陀仏の救いの力用そのものである名号は、衆生を往生成仏させる悲智万徳を円具せる法であるからである。そして、この名号を領受したとき(信一念)、往因円満して、当来には往生と同時に無上仏果を得るのである。聖教上の根拠は、大経の「若有衆生、聞此経者、於無上道終不退転」等である。
 また、御消息(摂取不捨事)には正定聚の利益は浄土に往生するまでのことであると示され、証巻には「獲往相回向心行、即時入大乗正定聚之数。住正定聚故、必至滅度」と、信心獲得と同時に現生で往因満足して、正定聚の身分につき定まり、当来には、必ず浄土に往生して、滅度を得るといわれる。また、滅度については、「大願清浄報土、不云品位階次、一念須臾頃、速疾超証無上正真道(信巻)」「念仏衆生、窮横超金剛心故、臨終一念之夕、超証大般涅槃(信巻)」と命おわると同時の事態であることが示され、聖人においては、正定聚と、滅度とは厳密に区別されている。また、蓮如上人も厳密に区分される(一帖目第四通)。
 が、聖人は一方で一念多念文意に、論註の文を解釈されて「すでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。」と述べられる。これは外に高位の菩薩の姿をあらわしているという広門示現相を示すのである。
【結び】浄土真宗では、現生此土の正定聚、来生・彼土の滅度であって、現生・此土で滅度の果を証得することは解さない。また経典や論釈などで来生・彼土の正定聚が語られるが、これは滅度の果を得た上での広門示現の相である。
と窺います。



【往還分斉】

謹んでご論題往還分斉を按ずるに
【題意】往相と還相の二種回向について、両者の位置づけの区別を明確にして、両者の位置づけの混乱から生じる誤った見解におちいらないよう注意をうながす。
【出拠】
謹按浄土真宗、有二種回向。一者往相、二者還相。(教巻)
その他、『略典』『三経往生文類(広本)』等
【釈名】往とは、往相、往生浄土の相であり、還とは、還相、還来穢国の相。分斉とは、それぞれの意義の範囲であり、往還分斉とは、真宗における往相・還相という言葉の示す意義の範囲という意味である。
【義相】
 「就往相回向、有真実教行信証」と示されるように、往相とは、教に明かされる行信の因によって仏果を開くというものであり、この証は未来(命終)である。大経には「彼菩薩等、命終得生無量寿国、於七宝華中、自然化生」とあり、聖人は他力による往生即成仏の往生を難思議往生也と示された。
 また、聖人は本願成就文の即得往生住不退転の語を現生における入正定聚として解釈される。「即得往生といふは、即はすなわちといふ、ときをへず日おもへだてぬなり、また即はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり(一念多念文意)」「即得往生は信をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚のくらゐにさだまるなり(唯信鈔文意)」とあるように、聖人は、即得往生の即に同時即と位につくという意があるところから、即得往生を「住不退転」と同じ意味だと解釈され、正定聚に定まりつくことと釈され、信益同時を示された。
 即得往生について、四字とも現生で解する理解、「即得」の二字を現生で解する理解がある。前者は信一念同時に正定聚の位につき定まることを「即得往生」と示し、後者は難思議往生は信一念同時に決定するという意味である(経言即得、釈云必定。即言、由聞願力光闡報土真因決定時剋之極促也:六字釈)。
 還相というのは、「還相者生彼土已 (中略) 教化一切衆生、共向仏道(証巻)」とあるように成仏後の利他活動であり、獲信後に還相の利他活動を行うとの考えは誤りである。
 また、還相回向は第二十二願文に基づくものであるが、この願文の中、「一生補処の菩薩」とは広門示現の相であり、これを還相とすれば従果還因の相ということもできるが、往相に対比すれば還来穢国の相を本義とするというべきである。
【結び】往相とは命終時に往生即成仏する事態であり、還相とは往生即成仏の後の教化活動をいう。両者の位置づけを明確にして、真宗教義においては現生の往生や信後の還相が成り立ち得ないことを確認しなければならない。
と窺います。



【平生業成】

謹んでご論題平生業成を按ずるに
【題意】第十八願の法は、臨終にはじめて往生が決定するのではなく、平生聞信のときに決定することを明かにする
【出拠】
さればこの信をえたるくらゐを、『経』には「即得往生住不退転」ととき、『釈』(『論註』)には「一念発起入正定之聚」ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(御文章・一帖目第二通)
おほよそ当家には一念発起平生業成と談じて、(御文章・一帖目第四通)
親鸞聖人の一流にをいては平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。(『浄土真要鈔』)
【釈名】「平生」とは臨終に対する言葉。「業成」とは、業事成弁、または、業因成就の略。業事とは、往生に必要な事柄、業因とは往生という結果を引き起こすはたらきそのもの、成弁・成就とは完成の意。よって、平生業成とは、衆生の往生は平生に決定するのであって、臨終を待つ必要はないという意味になる。
【義相】
 聖人には平生という言葉はないが、尋常という言葉がある。また、御消息に、「摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」とあるように、平生業成の言葉はなくとも、その意があるのは明かである。
 聖人は往因願を他力往生と自力往生に分けられるが、自力往生は臨終に決まる。第十九願には、「臨寿終時、仮命不与大乗囲繞現在其人前者、不取正覚」とあり、第二十願の意が説かれた阿弥陀経には、「其人臨命終時、阿弥陀仏、与諸聖衆、現在其前。是人終時、心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土」とある。
 自力の往生は臨終来迎が期待されるが、他力による往生では臨終来迎を期待する必要がない。平生聞信の一念に浄土往生が決定する。平生業成とは、平生に本願に遇う人についてのことであり、他力による往生が決まるのは、臨終か平生かということではなく、あくまで他力の信心が獲られるかどうかということであり聖人も、「非尋常非臨終(信巻)」と示される。このように、他力による往生は臨終か平生かは問題にならないが、臨終に往生の可否が決定する自力往生に対して、他力による往生の特徴を明かにするために平生が強調されるのである。
【結び】
第十八願の往生は、聞信の一念に浄土往生が決定するのであって、臨終にはじめて往生の可否が決まるという第十九願・第二十願の往生とは本質的に相違する。
と窺います。




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