To know 韓国 is love 韓国(注1)


  1. 彼女の名前は何だったのだろう?(1998年8月)
  2. 干し小魚の検品の話(1998年8月)
  3. アジュモニ達の思い出(1998年8月)
  4. 韓国と女遊びのこと(1998年8月)
  5. 韓国、唄の饗宴(1998年8月)
  6. 金 秀姫のこと(1998年8月)
  7. 韓国からの手紙(1999年1月)


彼女の名前は何だったのだろう?


中学○年の時、学級委員をやっていたM子の事を書こうと思う。彼女はやや角張った顔で、意志の強さを顕す、はっきりした目をしていた。眉も濃く、口元もきりりとしていた。余りにも(激しい、と言えるほど)意志的な顔立ちだったので、美人というタイプではなかったが、不器量という訳でも決してなかった。

私は彼女と話すことが好きだった。私は思春期だったし、片思いの娘がクラスにいたりもしたのだが、そうした青い恋の悩みの相談に至るまで、彼女と話したことを思い出す。彼女はクラスに数人いた、ごく親しかった友達の1人だったのだ。

その頃、私は海外の短波放送を聴くことが趣味だった。当時、アンデスの国から、イギリス、ロシア、北朝鮮、韓国、ベトナムに至るまでの様々な国が日本語放送をしていた。それらの国の短波放送を聴いて、聴いた内容を書き、エアーメイルでそれぞれの放送局に送ると、折り返し、試聴証明(ベリカードと言う)を送ってきてくれる。遠い国からの珍しい切手が貼られた郵便や、訪れることもないと思われる国からのカードを受け取るのは楽しい事だった。私は、韓国のKBS国際放送からもしばしばベリカードを受け取った。KBSの放送の中で、私が送った郵便の内容(感想)が読まれたこともあった。しかし、ベリカードと一緒に送られてきた、韓国語講座のテキストに書かれたハングル文字は私にはとても簡単に覚えられる物とは思われず、勉強を始めてみようと言う気持ちにはなれなかった。

多くの日本人と同じく、韓国は地理的な実際の距離よりも私にとってはずっと遠く、無縁の世界のように感じられていた。ただ、“ぼく・しょうりつ”という、難しい顔をした、独裁者の大統領がいて、貧しい人達を搾取している、貧富の差の激しい国、という漠然としたイメージしかなかった。だから、KBS国際放送のアナウンサーたちは、とてもジェントルだったのだが、これは宣伝放送なのだから、という疑いの気持ちも拭えなかった。(後年になって知るのだが、パク・チョンヒ大統領は経済発展の礎(いしずえ)を確実に作った人物として、一定の評価が韓国内ではあり、一部ではいまだに根強い人気があるのだった。)

幼いとき、街の中で、チマ・チョゴリの女性を見かけたことがあり、母に訊けば、あれは日本に住んでいる韓国の人達なのだ、そして、彼女たちにとって特別の日にはあのように民族衣装を着るのだ、と言ったのを思い出す。しかし、在日の人達が日本にも沢山住んでいるのだ、という具体的なイメージは持つには至らなかった。

中学三年のある日の夕方、私はM子の家をはじめて訪れた。彼女の家は私の家から橋を渡ってすぐ、自転車で10分も掛からなかったと思う。彼女の家は小さな鉄工所だった。その鉄工所の前、ちいさな公園で私達は一時間も話しただろうか。ふと、彼女が言った。私のお父さん、朝鮮人なの。お母さんは日本人なんだけど。

私は別段、ショックでも何でもなかった。在日で暮らしている、という事に何のイメージも格別持っていなかったし、差別の事そのもの、日常的には余り聞くことの無い地域だったから。だから彼女がそう言っても、私にはフーン、そうなのかぁ、という位の感興しかわかなかった。そう聞かされた後で彼女と一体何の話をしたのかさえ覚えていない。

どんな気持ちで彼女が私にそれを言ったのかも判らない。私達は友達だったから(と、私は思っていたのだが)単に彼女は私に自身の秘密を打ち明けておきたくなっただけだったのだろう。

何故か、今でも彼女のことはよく思い出す。こいごころ、のようなものが当時あった訳ではない。むしろ、あの頃、好きだった女の子達の事の方が、今になっては思い出すことも少なく、どちらかと言えば思い出しても照れくさく、恥ずかしいだけだ。でも、彼女のことは本当にどうしているだろう、と思い出すのだ。あれから、どういう人生を送っているのだろう、と思うのだ。あれだけのしっかりもので、意志力の人だったのだから、すこぶるつきに元気で、わが道を頑張っていると思うのだが、それなら、なおさら、そうしている彼女の便りをきいてみたい物だ、と思うのだ。

彼女の本当の名前は何だったんだろう?母親が日本人なら、籍は日本籍で、普段名乗っていた名前が本名だった、と言うことも考えられる。でも、父親の籍ならば、普段名乗っていた名前は通名であって、実際には、リーなにがしとかキムなにがしだったという事も考えられる。あの頃はそうした事には知識もなければ、気もつかなかった。

つまり、私は勝手に彼女の事を友達だと思っていたのだが、実際には、彼女を彼女の本名で呼んでいたかどうかも今では不確かなのだ。


干し小魚の検品の話


私がはじめて韓国を訪れたのは1985年のことだった。

最初の訪韓は僅か一泊二日の旅だった。目的は商品の検品。会社での私の担当商品は主に干し小魚(こおなご、上乾チリメン、シラス干し、等々)で、これらの中には佃煮の原料にされるものも多く、そうした佃煮原料の多くを当時は韓国からの輸入でまかなっていたのだ。干し小魚の検品作業というのは楽な作業ではない。

干し小魚の品質という物は、とれた日の天気・とれた場所・とれた時期(早いほど小さく、後になると成長して大きくなる)・加工した工場の加工能力・とれた時間(朝の物ほど鮮度がよく昼からの物ほど鮮度が落ちる)、といった多くのファクターによって左右されるため、極端な話、似たような品質の物は条件が揃えば再現して作ることもできるが、厳密に全く同じ品質の商品を再現して生産することは出来ない。しかし、買い手としては、佃煮の原料として使うのに、荷口が何十口、いや百数十口にもなったのではすこぶる使いにくい。だから、輸入業者としては、ほぼ似たような品質の商品を検品して揃え、荷口を減らしてユーザーの使いやすいようにしてやらねばならない。また、鮮度、色合い、等、品質に難のある物も、韓国内で処分させるとか、産地に戻させるとかして、日本向けに出荷されないように注意しなければならない。

韓国でも干し小魚は「ミョルチ」と呼ばれ、たいへんポピュラーな商品である。佃煮のようにして食べられたり、大きな煮干しはテンジャンチゲという濃い味の味噌汁の出汁とりに使われる。また、炒めてから青唐辛子と共に味をからめた、ミッパンチャン(小皿のおかず)にされる。

多分、こうした干し小魚の製造は日本人が日帝時代に始めたのだろうと思う。と言うのは、干し小魚のサイズを指す言葉が日本のそれとほぼ類似しているからだ。小さな物を日本では小羽と呼ぶ。これを韓国でもそのままコバという。また、中ぐらいの物を日本では中羽(ちゅうば)とよぶ。これは韓国ではチュバだ。また、チリメンとカエリ(成魚になったばかりの小さなカタクチイワシの煮干し)が混じりあった物をチリガエリと呼んでいる。これは日本では今では縮約されてチカと呼ばれている。

もともと、海産物の利用がそれほど一般的に行われていなかった韓国に、こうした干し小魚の生産と消費を持ち込んだのは日本人だと思われる。それで、日本の代表的な干し小魚の産地に出張した折りには、「誰かこの地方の人で戦前、韓国で干し小魚製造をしたという人はいなかったか、」と聞いてみるのだが、反応が無く、日本のどの地方から技術が伝播したのかは依然として不明だ。

最初の訪韓はたった一泊二日(単なる商品の確認だったので時間が掛からなかった為)だったが、それ以降は商談や産地への仕入れ同行も行うようになったので、一度の訪問に要する時間も長くなってきた。

釜山の業者との仕事の際には、釜山駅駅前のアリラン観光ホテルというホテルを定宿とし、長林洞の高麗冷蔵庫という所にしばしば検品に訪れた。アリランホテルは駅前にあるだけ交通の便利はすこぶる良く、地下鉄の入り口も国鉄の釜山駅もタクシー乗り場も全て玄関を出れば目の前にあって、とても便利だったのだが、夜のうるささもすこぶるつきだった。夜更けまで車がパァパァとクラクションを鳴らしまくるので五月蝿いこと、五月蝿いこと。クラクションだけでなく、どこからかナイトクラブのバンドの音も漏れ伝って来て相乗効果で責めてくれるので大変なのだった。夜が静まって行くのは概ね深夜1時以降になるのだった。

当時、アリランホテル以外にも都心部のタワーホテルに一度、釜山ホテルには二度、泊まったことがあるが、タワーホテルは古めかしく、釜山ホテルは朝食を食べに降りると、右を向いても左を向いても日本人中年男性と韓国人女性の混成グループばかりで、その日本人達の多くは大きな声で品のない話を朝からするのですっかり嫌になった。そういえば、釜山ホテルのロビーで同行の客が降りてくるのを待っていた所、「韓国の若い娘さんが日本語を教えてくれる人を待っています。あの娘さんですが、時間があれば、今夜アナッタの部屋で教えてやって貰えませんか?」という勧誘を受けたことがある。巧妙な勧誘の科白に恐れ入ったのであった。なにせ、釜山ホテルはご当地の人達には、日本人の浮気旅行専用連れ込みホテル(注2)、とさえ受け取られているのだった。

1985年当時、私の会社は韓国にエージェントもおいていたし、元在日僑胞で帰韓して塩干物を商いしていた資金力のある業者との取引も盛んで、韓国との取引の担当者と言っても、韓国語の勉強をする必要は殆どなかった。しかし、その後、元在日僑胞の方は死去、また、エージェントは日本側からだけでなく、韓国側輸出業者からも金を巻き上げていた事が判明して馘首されてしまった。それで、現在では、当時、不要を承知で勉強した私の韓国語も結構役に立つようになっている。

また、話題がずれるのだが、この馘首されたエージェントの金の作り方が巧妙で興味深い。出張に行けば勿論、ホテル代等、我々は自腹で払っているのだが、このエージェントは韓国側の日本語に堪能でない輸出業者に対して、この度、日本から来た本社社員がホテル代を持ってくれと言っている、ついては幾ら幾ら出してくれ、とか、キーセン観光をしたいと言っているので食事代と花代を出してくれ、とか、とにかくありもしない(けれども、韓国の方には、如何にも日本人が要求しそうなことと聞こえる)要求をでっち上げて、つまりは日本サイドを悪者にして金を巻き上げていたのだった。この人物は日本企業のエージェントをして生計の足しにしていることが耐えられなかったのかも知れない。本当は日本人を憎んでいたのだろうと思うのだ。と言うのは、私とホテルのバーで飲んでいたとき、酒に酔って、イー・ヂョクバリ、ウェノム云々とまくしたてた事が(これはバーの従業員に対する、俺は日本人はこんなに嫌いなのだが仕事だから仕方なく付き合ってるんだ、というエクスキューズではないかと思える)あった程だから。すかさず、「それはひどい。どういう意味か私が判らないと思っているのか、あなたは酔っているから今日はもう、ここ迄にしましょう、」と言って私が席を立とうとすると、いや、これは冗談だ、忘れてくれ、と口先だけは謝りまったのだが、どうも怪しい人物だと言う印象は拭えなかったのを思い出す。その後、「おたくの社員は物を買うからと言って、どうしてこんなに色々な要求をして、我々にたかるのか?」と、遂にプッツンして文句を言ってきた人が居て、悪事は全面的に露見し、馘首となったのである。

話題を元に戻そう。韓国人の常として、金持ちや、従業員の1人も雇う身分になると、両班風をふかせたがる面があり、身体を使うことを厭うようになるようだ。この一文の冒頭にも述べたように、干し小魚の検品という作業は、漁獲され、加工される魚は、一日ごと、いや、ひと網ごとに違うので、かなり大量の商品を一度に開品、検査しなければならないという、ちょっとした肉体労働となる。で、両班然とした、日本語に通じた人達(大卒のスタッフだとか“社長様”とか)は実際の検品作業は、良くて遠目で眺めている程度、大概は、殆ど現場には来ない、という状態なのだ。それで、検品や梱包の作業はもっぱらアジュマ・アジュシとやらねばならなくなる。で、そうしている内にアジュマ・アジュシと親しくなってくる、三時のおやつ、ならぬ三時のマッコリやお昼のハンジャンを付き合ってる内に、この人達ともっとコミュニケートできたらなぁ、という思いが募ってきたのも、私が韓国語の勉強を始めた一つの要因なのだった。

特に、釜山在住の元在日僑胞、K氏(闇市でひと財産を作り、帰韓して輸出商社を起こした。後、心臓発作で死去)の会社のS部長とは特に親しくなった。彼は当時、部長とは言っても、肩書き部長であって、実際の部下は工場長と何でも係の二人であった(そもそも“何とか部”というのが存在するほどの規模の会社ではなく、社長を含めても全員で6人+アルバイトという人数なのだった)。S氏とはあまり正確ではない漢字の筆談(光復以後=二次大戦後に教育を受けた世代は漢字文化圏ながら漢字そのものに詳しくない)の頃から、「トラベル韓国語手帳」、「ハングルの初歩の初歩」、と段々に韓国語を勉強し始めた頃、そして、現在に至るまで、私の下手な韓国語の最大の聞き手であり、私の訪韓時に於ける、最良の焼酎の飲み相手でもある。一時、K氏が私の勤務先との取引を意図的に減らした時期があり、その頃は余り遊べなかったのだが、幾らもしないうちにS部長がK氏の所から独立したので、すぐにまた私達は釜山の夜の街、ポジャンマチャ(屋台)で焼酎の杯を交わすようになったのだ。彼との交遊は私の韓国語の進歩のために大いに役立っている。

K氏と、勤務先との関係がぎくしゃくしていた間、私は二つの地域で小魚の集荷に励んだ。ひとつは、ソウル在住の、後に馘首されたエージェント、L氏と共にソウルで商品を集める仕事だった。もう一つは、現在でも私の勤務先の主なエージェントの1人である、ソウル在住ながら仕事の基盤を全羅南道麗水市に於いている、R氏との麗水市での仕事だった。実に、1987年など、9月30日から、12月13日の間、僅か3日間のみを日本で過ごし、残り全てを韓国、特に前記のようにソウルと麗水を行ったり来たりする事で過ごしている。この頃が最も私が長期間、且つ頻繁に韓国を訪れていた時期だ。

ところで当時、これだけの時間を韓国で過ごしながら、観光地と言う所に行ったことがない。この頃は労働運動、学生運動がそのピークを迎える直前だったこともあり、冷蔵庫など、一ヶ月に休日が僅か一日、などという所まであったのである。そして、出張中の私は日曜など、やはり無い生活だったので、毎日が検品と移動だったのだ。僅かに、何かの機会に釜山の近く、通度寺(トンドサー)に一度だけお参りしたことがあるぐらいだった。景福宮(キョンボックン)も慶州(キョンジュ)も後、1989年に新婚旅行で訪れるまで観たこともなかったのだ。それでも、夕方仕事をおえた後には自由時間はたっぷりある。だから、夜の観光はあれこれと体験した。ソウルの場合、仕事でぐったりしてしまった夜は、ホテルの近所、ノンヒョンドン界隈の日式店(日本風料理、と言っても充分すぎる韓国式である)で、鱈のメウンタン(辛み鍋)で食事を取り、ホテルの健全バーで従業員の女の子と韓国歌謡曲の話だの、日本の話などをしながら、数杯のジントニックを飲んで寝た。しかし、時には都心の大型ナイトクラブ(流行の歌手やバンドが出てヒット曲を聴かせ、それに合わせてダンスを踊ったりする、ごく健全な庶民の遊び場。別料金でホステスを呼べるので、1人で行っても退屈しない。ホステス、と言っても、話し相手、ダンスの相手であって、不健全な遊びには至らない)に遊びに行ったり、いっぱい飲み屋(テポチプ、と言う)でパジョン(韓国風海鮮お好み焼き)をあてに焼酎を飲んだり、ミョンドン見物をしたりしたものだ。

しかし、1988年以降、急激に訪韓の機会は減った。上司が韓国に行きたがるようになり(何故かは知らないよ)、実際の商品の売買や値決めは日本から私が韓国サイドと交渉して決め、商品の検品となると、実際の担当者である私ではなく、上司が訪韓して行う、という奇妙なシステムが定着してしまったからだ。実際には、韓国にいて検品しながら日本の得意先に対する売り込み活動を同時に行う、という作業は身体がひとつなだけに困難だったので、このシステムは、当初はともかく、やがて以前よりスムースに流れるようになり、売り上げも増大した。また、そのうち、韓国サイドにも、この頃には独立していた、前述のS氏のように、日本サイドの好む商品と好む仕訳を熟知し、利益に対しても、過剰などん欲さをあらわにしない、良い仕入先が出来てきたため、そもそも検品のために訪韓せずとも、水準以上の商品が自然に集められるようになった。そうして、訪韓の機会はさらに減ってしまい、現在に至っている。

今でも、大量の商品をひとつひとつ改品していた、あの頃のことが懐かしく思い出される。アジュモニ(おばさん)達は屈託が無く、昼休みや三時の休憩と言えば持ち寄ったキムチや、豚の茹でたもに味噌をつけたものを肴にマッコリ(どぶろく)を私に勧めてくれた。時には唄が出て、ひとりひとり順番に喉の披露をした事もあった。私はその頃は昔、中学生の頃に聞いた、KBS国際放送でおぼえたアリランを唄った。その頃はまだ、アリランぐらいしか覚えている韓国の唄がなかったのだ。


アジュモニ達の思い出


韓国のアジュモニ(おばさん)軍団のパワーは凄い。よく、日本では、大阪のオバサン達のそれも凄いと言われているが、韓国のアジュモニ達には鼻の差で負けてしまうのでは、と思うのである。

例えば、春、花見の季節になると、韓国でも盛んに花見が行われる。ポッコンノリと呼ばれるそれでは、ご近所の、普段、契(ケー:共同投資)仲間などのアジュモニ達が集って貸し切りバスを雇い、花見のおかず類は各家庭で作って持ち寄り、主にマッコリ(どぶろく)をあおって宴会となるのである。そしてそれは、文字どおり、飲めや唄えや踊れやの破天荒なもので、もうたいへんなストレス発散なのだ。そして、その楽しさはポッコンノリ本番から帰宅中のバスの車内まで持ち込まれる。で、高速運行中の高速バスは上へ下へと激しく上下に揺れるのだ。アジュモニ達が走行中のバスの通路で、腕や足を上げたり下げたりする、韓国式の踊りを、立錐の余地もない程の密度で踊るので、それがバスを大きく揺らすのだ。安全のために、車内での踊りは止めましょうとの、政府諸機関からのお達しもあるらしいのだが、一向に改善されていないそうだ。

以前、私の飯の種である、干し小魚の検品で、沢山のアジュモニ達と長期間作業をした事があるが、昼のマッコリ、三時のマッコリ、と言った強者達も少なからずいて、作業中の休息時間という、短時間の間でも、マッコリが入れば唄が出る、自分たちだけでなく、私にも唄えと仰る、で、マッコリも飲まされると言う、何だか不思議に面白い体験をしたのを思い出す。

アジュモニ達の多くはこうした作業中、モンペを穿いていた。これは多分、日帝時代、日本人が持ち込んだものだろうと思う。しかし、彼女たちには違和感無くとけ込んでいるように見えた。

客引きのアジュモニ達のパワーにもしばしば恐れ入る。釜山の有名な魚市場、チャガルチ市場の刺身屋台(決して安くない)のオバサン達とか。腕を両手で捕まえて離してくれないのである、で、「オニーサン、安くするよ、寄ってってよ!」と全身でアピールするのだ。釜山ミドリマチのヤリテババ達とか。この方達など、タクシーのドアから手を突っ込んで、客を引きずり降ろそうとするのだ。アイグ、ムソプタ、ムソウォ(怖い、怖い)!

そうした特殊な場所の方達だけでなく、町中の商店のオバサン達もなかなかの眼力とパワーを有しているようだ。彼女たちの日本人を見分ける眼力は凄い。背広の感じ(色・仕立て=韓国人は茶系統を好み、背中を広く見せる仕立て)とか、肩幅(怒り肩気味で広い)、歩き方(韓国人は上体をそらして堂々と歩く)などで判るらしい。しかし、釜山はいざ知らず、ソウルだと、台湾辺りからの観光客、ビジネス客もかなり来ているようで、中国系の方達と日本人の見分けはどうなのだろう?と思うのだが、実際は、多くの場合、市場(シヂャン)を歩いていても、テポチプをのぞき込んでいても、一瞬にして彼女たちは私達の国籍が判断できるようで、すぐに日本語で強力なる勧誘を開始するのでありました。

しかし、韓国で、なか三日間だけ帰国して、都合70日ぐらい連続して過ごしたことがあり、この時は散髪もホテルのサウナですませ、着るものも、着替えが無くなって、ズボンから、ダウンジャケットまで韓国で買ったものを来て過ごした事があるのだが、こうなってくると、さすがの眼力アジュモニ達も出身が判らなくなるらしく、地下鉄で切符の自動販売機の使い方を訊かれたこと2回、ミョンドンで忠武路への行き方を訊かれたこと一回を数えたのでした。で、三回ともちゃんと教えたのですが。まさか韓国語を話す日本人に訪ねたのだと思っていないものだから、怪訝な顔をして見られたのであります。


韓国と女遊びのこと


韓国というと、最近でこそ、ロッテワールドだとか、ソウル・ムンジョンドン(文井洞)のアウトレット商品だの、免税店が香港・シンガポールより安いだの、焼肉の本場だのと言って、若い女性達も多く気軽に訪れる国になり、韓国へ飛ぶ飛行機の機内にも華やいだ雰囲気を感じるようになった。しかし、ホンの十年強以前、1985年からオリンピック頃までの韓国線の機内では、怖ろしく奇妙で画一的な格好をしたオジサン連中ばかりが幅を利かせていたのである。そして当時、彼等の訪韓の主要目的は“女遊び”だったのである。

襟の広いカラー(しばしば柄あり)のシャツと白っぽい上着、白っぽいズボン(ゴルフズボンか?)、白っぽいエナメルの革靴(しばしば編み模様あり)。サングラス。しばしばパンチパーマ。別段、全員がやーさん系統でもないだろうに、なんで、こんな凡そ品のない格好を、と呆れてしまうのだった。で、そういうオッサン達はしばしば、釜山ホテル(日本人専用連れ込みホテルとの陰口あり)のグリル(朝食が出るところ)で朝っぱらからビールを飲みながら、耳に入ればやりきれなくなる程に情けない話(女性が幾らくれと言ったかとか、その金額が事前の交渉の金額と合っていたとか、上乗せして請求されたとか、タクシー代を持たせて帰らせたとか、そんな話だ)をするものだから、嫌になってしまうのだった。

しばらくして、ソウルの業者(私の会社の指定エージェントだったが、後、問題を起こしてエージェントを解約された)と仕事を行うようになり、ソウル、ノンヒョンドンのヒルタップホテルを利用するようになったのだが、このホテルは日本人の他に、西洋人の利用も多かった。で、知ったのだが、ソウルでの西洋人は、ディスコでナンパしたり(白人に軟派されるのを待っている女の子が当時はディスコにたむろしていた)、ホテルのボーイを使って呼んだ女の子とは、日本人のようにカラオケだの屋台だの朝食だのに女の子を連れ廻すような事はせず、もっぱらホテルの部屋でなにがしか親睦を深める以外の事はしないように見えた。彼等も相当に女性とのいかがわしい関係を持つ行為には熱心なようだったが、それが表立っていないので、日本人のように指弾されるほど、目立たなかったのだ。

しかし、後年、私はインドネシアの高級ホテルのプールで、オーストラリア人観光客と、インドネシア女性の胡散臭いカップルが、おおっぴらに睦み合うのを目撃した。とすれば、この、おおっぴらに当地の若い女性と金にあかして交遊関係をもつ、という行為に対する、自制心の分岐点はどの辺にあるのだろうか?

ちなみに当時、私が泊まっていたクラスの韓国のホテル(主に二流どころ)に於いては、ホテルのボーイの主要な収入源は宿泊客に女性を世話することだったようである。だから、ボーイ達の、それに対する熱心さは恐るべき物があった。荷物を部屋に運んで呉れたその後、簡単には引き下がってくれない。あーでもない、こーでもないと、大変な努力で、一夜を共にする女性の訪問を了承させようとするのであった。断れば、何故断るのか、という事になる。金がない、と言えば安くすると言うし、女は嫌いだ、と言えば、女が嫌いな男はいないと言うし、引き下がらせるのに5〜10分はかかるのだった。実際、そんな気は全くなくて宿泊した人でも、ボーイに根負けして呼んでしまった、という人も結構いたようである。説得の腕前の上手なボーイになると、これでひと財産作り、高級マンション(当地ではアパートと呼ぶ)を買ったとか、独立して商売をする元手を作ったとか、“女衒”と言うのは、なかなか悪い商売ではないようである。

そうしたボーイとゆっくり話をしたことが一度ある。彼は大学受験に二度失敗し、その為、大学を断念して軍隊に入隊した(韓国の若者は兵役義務がある)。軍隊を出てから、学院(専門学校のような所)で日本語を勉強し、ホテルに就職した。大学を出ていないので、普通の就職先では給料が安い、だからホテルに入り、勉強した日本語を生かして、まぁ、こんなこと(女性の世話)をして稼いでいる。将来、金が貯まったら、独立して商売を始めるつもりだ、だから、今夜、女性はどうですか?私は女性は遠慮して、彼に話のお礼として特別にチップをやり、その代わりに引き上げて貰ったのだった。

その頃(1985年)、私は釜山の通称“ミドリマチ”こと、“善導所”という地帯をタクシーの中から見たことがある。“置屋”と言うのか、妙にピンクがかった光の下、大きなガラス窓の向こうに韓服姿の若い女性達が沢山座っていた。そして、客引きのオバサン(ヤリテババ)達は凄い勢いでタクシーに突進してくるのである。タクシーの窓を叩くわ、少しばかり開けていた窓のすき間から手を突っ込んできて遊んで行けと叫ぶわ、大変な迫力であって、あれでは、その気でその地帯に乗り込んできた人達でさえ、懼れをなして逃げ出してしまうのでは、と思うほどなのであった。今でも、あの“ミドリマチ”の一帯はああいった所なのだろうか?所で、ソウルにもこうした地帯があったそうで(今でもあるのか?私は知らない)、それは清涼里(チョンニャンニ)というソウルの北部あたりにあるらしい。

韓国には元来、独特の“女遊び”の文化があるようで、一部の散髪屋もそうである、と言うことを知って驚いたことがある。数名の客を連れて、検品兼観光のツアーを催行した事があるのだが、その時、ホテル(釜山ホテル)に到着してから夕食まで二時間半程あったので、客の1人がホテルから程近い、散髪屋で散髪をしたのだそうだ。ところが、驚くべき過剰サービスがあり、散髪屋の女性従業員によって髪がスッキリしただけでなく、身体にも、これはいかがわしくないマッサージをして貰い(ここまではなかなか良いサービスと思える)、その上、下腹部へのすこぶるいかがわしいマッサージまで受けたのだという。後で知ったのだが、一部散髪屋ではこういうサービスが当時(今はどうなのか?)横行しており(特に日本人を狙った過剰サービスというのではなく、内国人向けとしてもありふれたサービスになっていたのだ)、散髪屋勤務というだけで、娘さん達はイーバル・アガシ(理髪屋娘)と呼ばれて、特殊な目で見られていた、という事である。で、真っ当な理髪店と、不健全な理髪店の見分けはどうするのか?我々には分かり難いのであったが、韓国の人達には店構えでおおむね見分けがつくということだった。(見分けが出来ない私は韓国で散髪に行くときはホテル付属のサウナに併設の理髪室に行ったものだ。そうした所ならば、男性の理容師しかいない上、明るく清潔で健全な散髪が期待できたのである。)

一部散髪屋が風俗営業もどきの行為を売り物にしている、という驚きの他に、喫茶店までも風俗営業すれすれの存在である、という事も驚きだった。喫茶店には当時、タバンと呼ばれる店と、コピショップ(コーヒーショップ)と呼ばれる店があり、タバンと呼ばれる店も基本的には単なる喫茶店なのであって、そこを訪れる客は、コーヒー一杯を飲むだけで勿論、充分なのだが、もしも、彼に下心があるのであれば、そのタバンの女の子に「ちょっかいをかける」事も、可能な場合がしばしばある、と言う事であった。そう言われてみると、タバンの娘さん(タバンアガシと言う)の中には妙に、水商売ビックリ系の派手なコスチュームの娘さんがいて、成る程、怪しいなぁ、と疑えば疑えるのだった。そうした、タバンアガシと純朴な漁師の若者との悲恋を描いた、大時代なメロドラマ映画をテレビで見た事もある。映画になるぐらいだから、タバンアガシの怪しい副業についても良く知られたところなのであろう。コピショップの方は、これはもう、大変な健全営業であって、日本の喫茶店と何等変わらない。ただ、何処でもと言うわけではなかろうが、当時、殆どのコピショップのコーヒーは不味かった。インスタントまるだしの上、粉っぽかったのであります。

飲み屋のおかみ(オバサン=アジュモニ)が女衒もどきの事をしていた、という例もある。初めてソウルを訪れたとき、夜、ニュー国際ホテルのすぐ近くを背広姿で歩いていて、テポチプ(一杯飲み屋)の前で七輪で焼き鳥を焼いていたアジュモニに、寄って飲んでってよ!と声をかけられた。当時はソウルに知っている場所もなく、行くあてもなかったし、別段胡散臭くもない、ただの飲み屋にしか見えなかったので、立ち寄る事にした。入ってみると、若い、21〜24才ぐらいにしか見えない日本人が数名すでに入っていて、結構酔っぱらっている様子。うるさいなぁ、ここまで来て日本人の酔客ってのもなぁ、と思いながらも、真露ソジュ(焼酎)と焼き鳥を頼んで、一杯引飲みだしたところ、くだんのおかみが近寄ってきて、“きれいで優しい女の子さんがいます。ちかくのホテルですか、女の子さんにあなたの部屋まで行かせますよ、やすーくしますよ”と笑顔ながら、強力な勧誘が始まった。しばらくあれこれ言って来たのだが、私が商売の相手にならない、と見ると、先客の若い日本人達の所に行ってしまった。やれやれ、と思っていると、その日本人達、おかみを相手に昨夜の女の子はどうだっただの、こうだっただのと言った話を大声ではじめたのである。そーゆーことは小声で話しなさい、いや、酔っているとは言え、町中で話すことじゃない、こっそり、恥ずかしく思いながら陰に隠れてやりなさい、それじゃ、君たち、白エナメル靴のオヂさん旅行客と全く同じじゃないか、あぁ、日本人の品性は将来まで暗い、と絶望的に思ったのだが、これは思っただけであって、別段、ここまで来て喧嘩をする気にもならんので、焼酎もあらかた残してその店を後にしたのであった。

ところで、こうした、ホテルのボーイだの、理髪店だの、タバンだの、そういった所まで風俗営業もどきの商売に手を染めかねない、という状況の原因は、勿論、すけべえな日本人観光客の需要、ってことからだけ生まれたのでは全然ない。基本的にこうした営業の直接の対象は元来、韓国人男性諸氏だったのである。韓国でも、出張等の旅先で、韓国人男性の行う、浮気行為というものがしばしば指弾されていると当時聞いた。男性というものは何処の国でもそんなものであるようだ。性産業のありようというのは国によって様々ではあるが、そういうものが無い国ってあるのだろうか?

私はバンコックでは、スクムヴィット・ロードの某中規模ホテルを長い間、定宿にしていた。このホテルには以前、小さなプールがあったのだが、現在はそのプール跡に韓国人観光客向けのカラオケバーが出来ている(ちなみに韓国人・中国人、ともにカラオケが大好きだ。それは日本人と変わらぬか、より深い愛着を持っているようにさえ見える)。その、バーから夜な夜な、ホステスを抱き抱えて出てくる、韓国人男性を目撃するのである。これは日本人観光客が韓国のしかるべき所で長い間行ってきたことと構造的には変わらんのではないか、と思うのだ。ちなみに、一時期、スクムヴィットの同地帯には、ここは韓国人街か、とみまごうばかりに韓国料理店や韓国バー、カラオケ店が集中していたのであるが、最近の経済危機以降は閑古鳥が鳴いている、という噂だ。

まぁ、こういう事というものは好きな方は、ホントに病気じゃなかろうか、と思うほど好きなもので、私の会社の取引先の方々にも大変な方達がいらっしゃる。ホーチミンで女遊びがしたい、と言い出して、ホーチミンにはその筋の女性はいない、と言われ、では何処にいるのかを蛇(じゃ)の道は蛇(ヘビ)で遂に探し出し、ホーチミン市から夜な夜な2時間も離れたところまで出かけていった、という人もいる。この人は他にも前歴があって、奥様同伴勉強会海外ツアーの時、奥様が免税品店に行こうと誘うのを腹が痛いと言ってホテルに残り、その実、女を呼んで良からぬ行為に及んだと言う、大変な策略家なのでもありました。あぁぁ。

また、別の人の話だが、バンコクに二号さんが出来てしまい、二号さんに貢ぐために、商品のエキスポーターをその二号さんの会社にして(つまりトンネル会社)二号さんにせっせと儲けさせている人もいる。実はその人の会社は二年続けてウン千万の赤字を出しており、そんなことをやっている場合では無いのだけれどね。やれやれ。

まぁ、同性の恥をこれ以上さらすのもあれなので、武士の情けでこの件はここまでとしよう。


韓国、唄の饗宴


どうも私はカラオケって奴が好きなのであるが、かといって最近のカラオケボックスというのはもう一つ楽しみきらない所があるし(観客がいないと燃えないではないか)、カラオケスナックに顔を出すにはパソコン・ビンボーなので、嫌いでない割には唄う機会に恵まれていない。

しかし、正直なところ、以前、韓国で過ごす時間の多かった頃、特に釜山の街ではしばしばカラオケをして夜を過ごしたものだ。

韓国人と中国人は日本人以上にカラオケを愛しているのではないか、と思うほど、アルコールをやりながら唄を唄うことが大好きなようだ。韓国ではカラオケ文化流入以前から生オケっていうのか、酒席に小編成バンドを呼んで、競って喉を披露したり、踊ったりする文化があったほどだ。台湾人も大好きなようで、私はあれは苦手だからとか、お聴かせするほどの喉ではない、とか言いながら、次から次へとリクエストを入れ、とっかえひっかえ唄うのであった(タイに行くと、そうして歌いまくっている台湾人観光客・ビジネス客の一行を多く見かける)。

昨年、久しぶりに訪れた釜山の街からはカラオケ酒場(カヨバンヂュ=歌謡伴奏と呼ぶ)の看板がすっかり減ってしまっていた。で、全盛を極めていたのは、日本と同じく“ノレバン(唄の部屋)”とか“ノレヨンスプヂャン(唄の練習場)”とか呼ばれている、カラオケボックスなのでありました。これは非常に寂しい。と言うのは、韓国のカラオケ酒場の情緒ってのは、日本のそれと全く異質で、陽気で楽しいものだったのですよ。安かったし。


(キボンのセットの一例、ビール三本とクァーイル(果実)アンジュ(つまみ))

以前のカラオケ酒場の様式っていうのは次の如しであった。料金、これはキボン(基本)料金を払えば延々と座って唄っていて良い。で、キボンは80年代後半、店によって異なっていたが1万5千ウォンから2万5千ウォン、当時のレートで2500円〜4000円ぐらい、これでビール三本と簡単なつまみ(干し小魚と唐辛子味噌=コチュヂャンのコンビ+豆類のセット、これをマルンアンヂュと言う)がつく。ビールやつまみの追加は勿論可能。釜山駅前の横町を中央洞方面に歩いてすぐの店、“シルラカラオケ”に三人で入って、ビールを飲み倒して、マルンアンヂュの他に果物皿を食べて、全部で6,000円ぐらいだったと記憶している。

“シルラカラオケ”は好きで、よく通ったものだ。当時、おんなっけは全くなく、DJよろしく客のリクエストを司会つきで見事に次々とさばく、二枚目の兄さんがいて、その兄さんが気に入って通ったのだ。客には日本人観光客もいたが、基本的には地元のサラリーマンを中心とする客筋だった。だから、酒と唄の力を借りて、韓日親善もしばしばしたものだ。日本語の曲も入っていたが、勿論、韓国の唄を主体としていたし、私には勉強した韓国歌謡の楽しい発表場なのだった。韓国人のカラオケの楽しみ方は面白い。チェーソンハムニダ(下手な喉を聴かせて誠に申し訳ない、というニュアンス)を連発しながら、全然、チェーソンなんて実は思っておらず、ものども、俺の唄を聴けぇ、ってぐらいに自信満々でどなたもお唄いになる。その実、勿論、音程のいい人・悪いひと、リズムの外れるひと・よく乗っている人、等々、実力は色々なのだが。ただ、おしなべて喉がよい(声にパンチがある)のは間違いないと思える。また、日本人ならば、仲間が唄っている間も、それほどその唄を聴いているわけではなく、適当に合いの手を入れながらも、実は次に自分が唄う唄を一所懸命に歌本から探していたりして、冷情な所が垣間みえるのだが、韓国人酒客の場合、仲間が唄っている間、自分の席のフロアーの近くで曲に合わせて踊っていたり、ただ、唄うだけなのでなく、唄を媒介にして宴会を楽しむという、健全な楽しみ方(とは言え、酒量が健全でなかったりするのだが)をしているのであった。

当時のカラオケ酒場ってのは、円形状のカウンターの中心部にDJの娘さんがいて(時に姉御だったりする)、カラオケの機械、もしくはコントロール部、カラオケカセット、ディスク類も、同じく中心部に設置されていた。で、客が数曲唄うと、DJさんの喉も一曲聴かされるのだった。目一杯、派手な照明と、テレビ画面が沢山並んだ唄うスペース(ナム・ジュン・パイク=朴南準のパフォーマンス・アートを思い出させるような)があって、唄のスペースの近辺では曲に合わせて踊っている連中も結構いたりする、といった構造になっているのだった。一部、日本人観光客を顧客の中心として考えられて作られた店では、日本のカラオケスナックのような雰囲気にしつらえられた所もあったが、そういう店でも、日本のそれと異なり、従業員としてのホステスは雇っておらず、客としてきた日本人が望めば、店外の専門業者に依頼して出張ホステスを呼んで客につける、というシステムになっていた。そういう、日本人を顧客の中心に据えている店では、出張して来たホステスがそのまま、呼んだ日本人男性の一夜の相手をする、という場合が多かったようである。釜山駅前から中央洞へ向かってしばらく歩いたところにある、プラザホテル(プラジャホテル)にあったプラザカラオケ(今でもあるのか?私は知らない)など、まさに典型的なそうしたカラオケ屋だった。鼻の下を長くして、だらしなくなってしまった中年男性と、化粧の濃い、独特なムードの女性のカップルが何組も並ぶ、この異様なカラオケ屋の雰囲気は嫌いだったのだが、仕事の付き合いで幾度か入ったことがある。

こうした、機械式(テープ、レーザーディスク等使用)のカラオケ屋の他に、生バンド&ホステス付きで唄って踊る、“サロン”と呼ばれる、酒場にも行ったことがある。生バンド、と言っても、編成の少ない場合はエレキの兄さんと兄さん持ち込みのリズムボックスだけが伴奏、と言う場合もある。エレキの兄さん&サックスとか、エレキの兄さん&サックス&キーボードといった編成の場合もあり。お気づきのように、編成の基本はエレキの兄さんである。韓国の歌謡曲は、そもそもポンチャクと長い間呼ばれていた。その呼称の語源はギターの奏でる、ポンチャ、ポンチャというリズムから来ているぐらい、韓国歌謡曲にギターのリズムは欠かせないのであった。でもって、このギターの兄さん達のテクにも恐れ入る。ギターでメロディの提示とポンチャ、ポンチャのリズムを同時に成立させることは簡単ではない。リズムに廻るとメロディを弾けない楽器だから。キーボードの場合、左手リズム、右手メロディという事が可能だが、ギターではなかなかの熟練を要する。で、このギターの兄さん達なのだが、ポンチャ、ポンチャというリズムカッティングと、メロディ提示を上手なタイミングとバランスで織りまぜて、結構気持ちよく唄わせてくれるのであった。ただし、注意して聴けば、(注意して聴かなくても判るかも)結構、いい加減なケンチャナギターなのだが。コードのミスとか、ミストーンとか、出まくっているのだが、俺は全然間違っていない、という顔をして、堂々と、一瞬のひるみもなくポンチャ、ポンチャと続けるので、敢えて気にしようとしなければ、なかなかどうして、酒席の唄伴には十分に楽しいのであった。

サロンは個室になっていたが、1人で行くところではなく、数名のグループで乗り込んで唄えや踊れやの宴会をするところだった。ホステスも付くとは言え、客筋は韓国人男性のグループが殆どであって、多少のいかがわしさは否めないものの、前述の日本人相手のカラオケ屋のように“いかがわしさ全開”と言った不健康なムードはなく、私など、結構、嫌いではなかった。で、このサロンの楽士さん達なのだが、この方達は宴席の始めから最後まで付き合ってくれる訳ではない。何室か掛け持ちなのである。楽器とアンプと譜面台、さらにはリズムボックスを両手に持ってあらわれ、数曲唄伴すると去って行くのである。で、またしばらくすると戻ってくるのだけどね。いない間はどうするか、ホステスさん相手にバカ話をしたり、伴奏なしで高吟したり、全然、バンドの不在にもひるまずに宴会は続くのでした。

ナイトクラブのバンドで唄った、という希有な経験もした事がある。ナイトクラブ、と言っても韓国のそれは至って庶民的で、特別に頼まなければホステスがつくという言うこともない。比較的、大きなホールに沢山のボックス席があり、ボックス席、ダンスフロア、舞台(舞台上に歌手とバンド)、という構造をおおむねしている。客はつとめ帰りのサラリーマン、家族連れ(あかんぼを頭の上に乗せてダンスフロアで踊っている、というお父さんも多い。成る程、こうして教育が行き届いてこの子達も踊り大好き民族に成長するのであろうなぁ)、OLのグループ等々と大変健全なのであった。ソウルのような大都会のそれはホールも大層大きく、歌手も流行歌手が30分ぐらいをワンステージとして次々と登場する。歌手達は一晩に何カ所ものクラブを掛け持ちで廻るので大層忙しいと言うことだ。ダンスフロアで踊るのも、別段、ディスコのヒット曲のような曲でなくとも、つまり、曲は何であっても構わずに踊ってしまうのであった。

勿論、私が唄ったことがあるのは都会のナイトクラブのような所ではない。麗水という全羅南道南端の地方都市のクラブでだった。まぁ、唄ってくれと頼まれて唄ったわけでは勿論無く(当たり前である)、2000ウォンのチップを払って、唄わせて貰った、それも日本人だから、色々問題があっては困るので、比較的早い時間に行って、客の少ないうちに唄った、という甚だ頼りない話なのであるが。この、客がバンドにチップを払って唄わせて貰う、というシステムはごく一般的なようで、このクラブでも、また、他のクラブでも、のど自慢達が声を披露するのを何度も聴いたことがあるのであった。さすがに、ナイトクラブで唄おうか、という度胸の御仁(おっと、私もそうか!)はそこそこの歌唱力の方達であって、おっさん、引っ込め!と言いたくなる御仁はあまりいないようであった。

という訳で、喉を唸らせる事がお嫌いでない向きにとって、韓国は楽しい国なのでありました。


金 秀姫のこと


釜山で小魚の全量改品検査をしていた頃、一日のローテーションの中で必ず、3回の休憩があった。最初は10時より10分間。この時にジュースを飲んだり、小さな菓子パンをひとつ頂いたりする。その次は12時より1時間の昼食時間。ペッパン(白飯)と呼ばれる、ご飯とミッパンチャンという小皿で色々出てくる簡単なおかず類で構成された、安い定食をしばしば取った。それから、三時の休憩。これは15分間の休憩で、この時間に私とS部長(当時)は冷蔵庫の向かいの喫茶店(タバン)で一杯のお茶を頂いたりした。当時、煙草を吸っていた私は、この休憩時間にゆっくりと一服もしたものだ。

ある時、その喫茶店で、とてもバックグラウンドのイージーリスニングとして聞き流すことが出来ない程に訴えかけてくる唄に出会った。それまで一度も聴いたことがない、張りがありながら、とても透き通った声。そして、その声は、まさに悲劇が声となってほとばしっているような、悲しい叫びだった。

私が喫茶店で聴いたのは金秀姫(キムスーヒ)のキャリアの中でも絶頂期に録音された、“金秀姫・第五集”だった。喫茶店を出るとき、当時、殆ど韓国語が使えなかった私はメモ帳を持ってカウンターに行き、カセットプレイヤーを指さし、身振手振で歌手の名前を書いて貰った。タバンのママはメモ帳に“Kim Su Hi”と書いてくれた。こうして、私とキムスーヒとの最初の、ほんの15分弱ほどの出会いは過ぎた。

この出張が終る前日、冷蔵工場でのその日の検品を済ませて、輸出業者の事務所に戻る道すがら、私はナムポドン(南浦洞)のレコードショップ(とはいっても当時の主な商品はカセットテープ)で早速、メモ帳をカウンターで拡げて店員に頼み、キムスーヒのカセットを数本仕入れた。


(金 秀姫のカセットの数々。中心のものが第5集)

日本に帰って、カセットを繰返し、繰返し聞きながら、私はすっかりキムスーヒの虜になってしまった。当時独身だった私は趣味でジャズギターを演奏しており、ジャズ仲間も少なからず居たのだが、そのなかの気の合う友達には半ば無理強い的に聴かせてまわった。当時は言葉も全く判らなかったのだが、判らないなりに、ヘッドフォンで注意深く聴いて、何曲もの歌詞をカタカナでノートしたものだ。

同時期に本屋で目にとまった本があった。それは、日本の若い(当時)世代の韓国理解に衝撃的な波紋を投げかけた名著、関川夏央の“ソウルの練習問題”だった。面白そうだ、と何気なく買ったその本はトンでもなく面白く、そして、実際に韓国で体験し、見聞きした多くの不思議に共鳴しているのだった。主人公である関川夏央本人が韓国を繰返し訪問し、韓国語を少しずつ学び、少しずつ韓国に近しくなって行く過程がとてもビビッドに描かれていて、この本を読んだ若い世代(当時)の多くに、それまで“金大中とキムジハとキムチと焼肉の国”といった、偏った印象しか持ち得ていなかった隣国に対して、はじめて目を見開かされるような衝撃を与えた。

S部長(当時)と酌み交す、言葉は不自由ながらも何故かしら楽しい酒と、キムスーヒが何を唄っているのかを知りたいという欲求、そして、“ソウルの練習問題”から受けた衝撃、といった三つの要因が私を韓国語の勉強をはじめることに向わせた。

この時期に韓国に近しく接した人は、キムスーヒの事を深く記憶しているようだ。前出の関川夏央もキムスーヒに関する短いエッセイを書いている。そのエッセイによれば、韓国では“女の恨みは夏に雹を降らせる”と言われている(そういう成句がある)のだそうで、キムスーヒの唄はまったくその言葉を思い出させるのだそうだ。実際、当時、彼女の新譜は次々と発売され、そして波に乗ったシンガーがそうであるように、それらの新譜は次々にヒットしていっていた。当時の代表的な彼女のヒット曲をあげてみよう。


強靱な喉から生れる声は鋼(はがね)を思わせるように硬質でありながら、なおかつ艶やか極まる。1キロメートル先までもヒットするのではなかろうかと思わせるほどに良く通る素晴しい発声。また、その表現の幅の深さ。凍てつく孤独感や“夏に雹を降らせる”ほどの深い恨(ハン)をこれほど聴くものに切実に訴えてくる歌い手はまさに希有、少なくともそれまで出会ったことが全くなかった種類の唄だった。

経歴を読めば、米軍キャンプ廻りでソウル(黒人音楽のソウルミュージック)なども唄っていた由。キムスーヒを“キムチの香りする艶歌”と評した紹介を日本で読んだことがあるが、これは“韓国と言えばなんでもキムチの香り”と言う手合の、どうしようもなく安易な評であって、楽曲の旋律からしても、歌唱法からしても、“演歌”や“艶歌”からは全く異なる種類の音楽だ。短調の曲を好み、悲劇的なシチュエーションを唄っている、というだけで“キムチの香りする艶歌”とは恐れ入った安易なレッテルづけもあったものだ。

その後も韓国を訪れる度にキムスーヒの新譜を必ず買求めた。しかし、韓国への出張の機会が様々な要因で減っていった上、キムスーヒも体調を崩し(たしか乳癌だったという不確かな記憶あり)、また、流行歌も“夏に雹を降らせる”ような影ある曲よりも、ラップ(レムミュージックとよばれている)やロックンロール調のような若向けの曲が主体となるにつれ、活躍のピークも過ぎてしまったようだ(注3)

しかし、彼女の最盛期に於ける素晴しい仕事(先に挙げたヒット曲の数々やそれらを収録したアルバム)は韓国大衆音楽の中から生れた、まさに不滅の金字塔だと確信している。


(注1)“To know 韓国 is love 韓国”この英文の妙なところは筆者も分かっているのである。これは確信犯なのでありまして、原点は、“To know Gamera is love Gamera”という、米国の方のホームページ・タイトルにあるのでした。文法はともあれ、言い回しがカッコ良くて、ついまねしてしまったミーハーな私です。それに、米国の方がこういう言い回しをするんだから、まぁ、よいのではなかろうかと。

(注2)当時とは韓国旅行者の構成も随分変わった。いまや韓国は若い女性や家族連れも好んで訪問する地となり、オヂさん旅行者が以前ほど目立たなくなった。それで、釜山ホテルの客層も今ではすっかり様変わりでぐっと健全化しているとの事。そのとばっちりで、ホテル近辺にある、ちょっとばかり怪しげなタバン(茶房)の売上も、タバン・アガシさん達の収入も近頃ではパッとしなくなったそうだ。ビジネス客(というか、オヂさんというか)よ帰れ、と彼女たちは思っていることであろう。

(注3)キムスヒは復活している。1999年の春に入手した“モラド”という盤は素晴らしい傑作であった。通勤に使っている自家用車のカセットで聴いていて、“プジョク”という曲のあまりの素晴らしさに筆者は滂沱の涙を止めることが出来なかった。対向車線を走る人が私をもしみたら、一体何事か、と思ったであろう。この他にも、Donde Voyという曲もよい。また、“タンヒョン”と言う曲もまた素晴らしい。