信濃の国 地名エピソード

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「信州善光寺」

信州善光寺には「牛に引かれて善光寺参り」の諺があるが、函館の善光寺(天台真盛宗、明治二

七年創立)にも牛の因縁がある。 明治三二年のこと、能登川肉店に買取られた屠殺牛が、ひく若者

の手綱を振り切って、数粁も隔たる善光寺へ逃げ込んでどうしても動かない。住職は肉店主を説いて

奉納させ、畜生ながら仏力にすがった霊牛として宣伝した。わざわざ信州善光寺までつれて行き牛

王麿の称号をもらい、これを拝まんと善男善女雲集したものだ。大正六年に死んだ。

                        函館市栄町三ノ一 善光寺「仏力にすがった牛」長野121

 

「大豆島(まめじま)」  もと更級郡

伝説によると、もと大河原といったが、開発して大豆を植えたらよく出来たので、大豆島というように

なったという。「大豆島真土(まつち)まめどころ、二升蒔いてやれば二石二斗二升」という口碑があ

るという。

                                   「屋島・大豆島史跡めぐり」長野122号

 

「佐久郡」

佐久郡で信濃の産物に加えられるものといえば、"佐久鯉"に代表される。その特色は、背肉が盛り

上がり体高が高く、丸く太った形で肉質が締り、煮ると肉が切り口からむくれてはみ出し、腹子(内臓)

に半透明の脂がたくさん詰っているものである。 佐久に育った私は"佐久鯉"を食べつけているので、

他に出て食べて見るとそれが、"佐久鯉"が他産地のものであるかはすぐわかったものである。

                                   市川武治「"佐久鯉"について」長野129

 

「飯 綱」

世に「飯綱大明神」「飯綱権現」と呼ばれる神がある。また、これに伴って、「飯綱の法」「飯綱使い」

などという言葉もある。この飯綱信仰と言われるものは、信州の飯綱山から起こったと考えられてい

る。 「飯綱」という語は現在「イイズナ」と読まれているが、本来は「イズナ」であった。したがって「飯

綱山」も、近年まで「イズナ山」と呼ばれていた。また「飯綱」は、旧来「飯縄」と表記されることが多

かったが、現在は「飯綱」が一般化している。本稿も「飯綱」の表記を用いることにする。 飯綱山は、

長野市・戸隠村・牟礼村の境界にある死火山で、標高は一九一七メートルである。その美しい雄大

な山容は、善光寺平一円から望むことができる。山頂に飯綱神杜(皇足穂命(すめたりほのみこと)

神杜)があり、その里宮はふもとの長野市荒安にある。 食べられる砂と飯綱の語源 飯綱山の山名

は、山頂付近に食べられる砂(飯砂)を産することに由来するという。この食べられる砂は飯綱山特有

のものではなく、「天狗の麦飯」「天狗の粟(あわ)飯」などと呼ばれて、黒姫山・浅間山・小諸市味噌

塚など県内各地に見られる。ことに小諸市のものは、国指定天然記念物に指定されている。

                            小林一郎「飯綱信仰とは何か」長野第109号83の3

 

「岩村田」  (佐久市)

大井光長と一遍上人 弘安二年(一二七九)の冬、一遍上人が遥々と信濃善光寺を参拝した後に、

佐久伴野庄(佐久市野沢)へ来て地頭伴野氏の野沢館で踊り念仏を行った際(「一遍上人絵詞伝」)

佐久大井庄(佐久市岩村田)の地頭大井太郎光長は上人に会って発心し、ひたすらに往生極楽を

願った。光長に姉が一人あり、これは仏法に帰依する心など更になく、一度も念仏を称えたことはな

かった。それがある夜、不思議な夢を見て、館の廻りを小坊主達が行道(おねり)している中に、丈

の高いのは一遍上人と見て目覚めたので、驚いて陰陽師(おんようじ)を呼んで吉か凶か聞くと、

陰陽師は夢占いして目出たい大吉と答えた。そこで姉も発心して一遍上人を大井光長の館にお迎

えし、三日三晩、供養して念仏を申した。満願の夜に大変なことが起こった。母屋の広い板の間で

上人を始め大勢の信者が熱心に踊り念仏をやっている最中、力任せに床板を踏み落としてしまった。

壊れたところを修理しようとすると、光長が「これはお上人様の形見にしよう。繕うなよ。」と云ってそ

のままにして置いた。翌朝、一遍上人の一行は帰られた。その後、光長の姉は熟心な念仏行者に

なって、目出たく極楽往生を遂げた(「一遍上人絵巻」)

                楜澤龍吉「大井光長の岩村田館と踊り念仏(一)」長野第110号83の4

 

 

「大座法師池」 飯綱山

 その昔、だいだらぼうというとてつもない大男がいた。彼は、飯綱山を毎へほうり投げようと思って、

飯綱山に手をかけ「うんしょ、こらしょ」と顔を真っ赤に足をふんばった。とたんに、だいだらぼうの足が

ずっぶずっぶと大地にめりこんで、でっかい足跡ができたという。この足跡に水がたまってできたのが

「大座法師池」であるといわれる。また、法師が飯綱山頂から飛びおりた時の足跡であるとの伝説も

ある。 どちらも大座法師池の形からきた伝説であろう。

                              丸田修治「飯綱大座法師池等の開発」長野145号

 

「牟礼村地蔵久保」 長野市の北に位置する

牟礼村地蔵久保には「その昔この地は地蔵首といわれ、地蔵の首を神社の御神体にしていた。伝説

によると上松の方から来た武士が美女の妖怪に会い、その首を切り落しこの集落まで持って来たとこ

ろ、それは地蔵の首だと言うことで、ここに捨てて置いたのだと言われている。」

(『上水内教育』第四八号)との伝承がある。

上松と地蔵久保の伝承が偶然にも一致する。首は以前野尻湖へ雨乞いに持って行って湖中に落して

しまい今はない。(話者地蔵久保矢島秀保氏)何れにしてもこの話は上松と地蔵久保が坂中街道の人

の往来で結びついていたことを物語るものである。

                                    矢野恒雄「坂中街道の研究」長野145号

 

「志 賀」 佐久郡

信州佐久郡に志賀という所あり、其の地主に志賀平六左衛門という者あり。信玄に背く故信玄そこへ御

出馬なり。保科筑前守を召し其の方は案内者故彼を討つべしという。筑前畏って御請けし、則ち志賀の

町に至り町角の家の陰で待つ。平六左衛門鹿毛の馬に乗り、人数を下知するため町中を乗り廻わした

所、筑前守家来北原彦右衛門が走り出で、平六左衛門の馬の腹を長刀で突いたので馬が跳ね、平六

左衛門が下馬した所へ筑前守が走り寄り斬り、兜の錣(しころ)を切り落とし首を討つ。髯の多い首ゆえ、

残らず切り落とし、信玄の御前へ平六左衛門の首を持参した。信玄は山の上よりこの働きを委しく御覧

になり、筑前守を褒め其の方の大刀に髯切りと命名の御意があったが、この太刀は物切りであり献上

を申し出すと、保科家の重代にせよといわれ、作を尋ねられたので恭重と答えた所、其の場で感状を

下され盛重の長刀を与えた。家来彦右衛門も事見な働きであると同じく感状を与えている。

以来保科筑前守は信玄の直参として召抱えられている。

                                    市川武治「武田氏と佐久郡」長野147号

 

「八坂村」 北安曇郡

現在の北安曇郡八坂村にある大姥山(別名、金時山)である。同所の山麓には「上籠(あげろう)」と言う

地名があり、金時産湯の池などの伝承もあると言う。次に、中央アルプスの南木曽岳は別名を揚籠(あ

げろう)山と言い、山頂にはあちこちに巨大な岩があって、伝説では坂田金時が投げた岩であると言う。

ちなみに岩と金時の話をすれば、箱根の金時山にも金時がもて遊んだと言う岩が山頂附近にころがっ

ている。どうやら「あげろう」と「岩山」と金太郎伝説とは切っても切れない縁があるらしい。

                                   西沢久徳「虫倉山と大姥明神」長野147号

 

「曝(ささやき)」 小諸市

小諸善光寺の本尊 小諸市の療養所へ行く途中に曝(ささやき)という地名がある。地元古老に地名の

謂われを聞いたら、昔この地帯は背丈もある熊笹の群生地で風が吹くとササササと音がし、人がササ

ヤクように聞こえるので囁の字名が付けられたという。今の囁地籍は住宅の密集地であるが、昔古寺

のあった場所である。

                             羽毛田明良「落合新善光寺とその周辺」長野148号

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